生過程の原形と変容。- 三木成夫が採用する「ゲーテの形態学」の方法論。 / by Jun Nakajima

 ここのところ「植物」に惹かれている。ぼく自身の生活において、「フレキシタリアン(flexitarian)」、つまり準菜食主義者となったことも、どこかで関連しているのかもしれないし、生きることの全体性において「動く」ということだけでなく「静」というあり方をとりこもうとしてきたことも、どこかでつながっているかもしれない。さらには、昨年(2019年)に、東京の上野の森美術館で開催されていたゴッホ展で、さいごに展示されていた「糸杉」の絵画にこころを揺さぶられたことも、つながっていると、ぼくはおもっている。

 「植物」ということをかんがえるときに、ぼくは解剖学者の三木成夫(1925-1987)の著作をひらく。植物と動物、人間を比較しながら、三木成夫は、いわば「逆立ちした見方」をぼくに与えてくれるのだ。この点については、もう少しあとでふれたい。

 ところで、解剖学者の三木成夫(1925-1987)は、「人間の生」ということをかんがえるにおいて、「ゲーテの形態学」の考え方をひきついでいる。ゲーテ(1749-1832)は『ファウスト』や『若きウェルテルの悩み』などの著作で知られているから、あまり知られていないかもしれないけれど、自然科学者としての著作もある。

 人間の生の<すがたかたち>をかんがえるにおいて、ゲーテによる「形態学」の根柢をなす方法論として三木成夫がとりだすのは、植物・動物・人間の三者に共通する生過程の「原形」をもとめて、人間における原形の変容(Metamorphose)を抽出するという仕方である。

 生過程とは「成長」と「生殖」の位相交代のはてしなく続く、ひとつの波形として描き出すことができる。…この「食と性」の営みが植物と動物のあいだで著しく異なった形をとって行われることはあらためて言うまでもない。すなわち、合成能力の備わった植物が植わったままで生を営むの対し、この能力の“欠”けた動物は、“動”き廻って草木の実りを求めることになる。この文字通り“欲”動的な生きものの動物に「運動と感覚」という双極の機能が、光合成能の代償として備わったことは、自然のなりゆきと言わねばならないであろう。

三木成夫『三木成夫 いのちの波』平凡社

 三木成夫はこの地点からさらに人間の生命を描きだしてゆくのだけれど、その手前のところで、ぼくは上に引用した「逆立ちした見方」で立ち止まる。「逆立ち」というのは、ふつうの見方と逆さだからである。ふつうであれば、人間を頂点として動物、それから植物とくだってゆく階層がイメージされるのだけれど、ここでは、合成能力を持する植物をまず思考の出発点におき、そこから、この能力を「欠く」存在として動物が描かれる。その「欠如」を代償する仕方で、「動く」という機能があるわけだ。

 ぼくは、この「見方」に教えられる。あるいは、ぼくの「世界の見方」に更新がせまられる。言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも、ぼくにとっては、そのように感じられる。

 唐突かもしれないけれど、ひととして生きていくうえで、動物的な「動」に加えて、植物的な「静」をともに、この生の過程にひらいてゆくこと。「じぶんの変容」という、ぼくにとってのライフワークのトピックにおいても、それから<これからの生きかた>をかんがるときにも、このことはとても大切なことだと、ぼくはおもう。

 思想家の吉本隆明(1924-2012)は、三木成夫の思想にもっと早くに出逢っていれば、と、三木成夫について書いているが、それほどに、三木成夫の思想はこの時代にあって、状況を「きりひらく」ちからをもっているのである。