治療への拘泥とは病に執着すること。- 森田療法の「ことば」にふれて。 / by Jun Nakajima

 批評家の加藤典洋(1948-2019)の「乱暴な要約」に触発されて、1919年に創始された森田療法(神経症に対する精神療法)を学んでみたくなり、創始者である森田正馬(まさたけ)(1874-1938)の「ことば」にふれる。

 海外から入手できる電子書籍をさぐってみると、『神経質に対する余の対症療法』(1921年)と題される、20頁ほどの文章が入手可能である。さっそくダウンロードして、読んでみる。

 なお、森田療法センターのウェブサイトに掲載されている説明によると、森田療法がもともと対象としていた「神経症」とは、強迫症(強迫性障害)、社交不安症(社交不安障害)、パニック症(パニック障害)、広場恐怖症(広場恐怖)、全般不安症(全般性不安障害)、病気不安症(心気症)、身体症状症(身体表現性障害)などの病態を指すものである。

 これらの症状の背後に、森田正馬は「神経質性格」と呼ぶことになる共通性を見出す。それは、内向的、自己反省的、小心、過敏、心配性、完全主義、理想主義、負けず嫌いなどの性格特質であり、それを基盤として、「とらわれの機制」という心理メカニズムによって症状が発展してゆく。その「とらわれの機制」から、「あるがまま」の心へと、森田療法は援助してゆく。森田療法センターのウェブサイトはこのように解説している。

 不安や恐怖の感情を排除するのではなく、それらを「あるがまま」に受け入れてゆく。そしていわば心身の根柢に生成するちからを花ひらかせる。加藤典洋は、このような森田療法とは「患者が自分の無力の底まで「落ちて落ちて落ちて」行かせる」セラピーだと、要約している。なるほど、と、ぼくは加藤典洋の要約を思い起こすのである。

 『神経質に対する余の対症療法』で、森田正馬はつぎのように書いている。

 神経質は精神の病的過敏であるから、患者が自ら治さんとあせる事は皆却て有害で、例へば物を忘れようと努力する事は、意識が其の方に執着して、却て忘れる事の出來ぬ關係である。…余は先づ患者の意識する衛生法や治療法を一度び破壊し、治療的ならぬ治療法を行ひ、以て患者をして治療といふ事を忘れしめ、從つて病の観念から離れしめるのである。治療に拘泥するといふ事は、同時に病に執着するといふ事である。

森田正馬『神経質に対する余の対症療法』1921年、青空文庫

 ここでいわれる「衛生法の破壊」とは、例えば、原則一日一度の入浴を習慣とする患者があれば、その習慣(衛生観念)を一度は壊すのだという。「一日一度は入浴しないと気持ち悪い」という地点から、「入浴しなくても別に心にとまらない」という地点へと促してゆく。

 「とらわれの機制」から「あるがまま」へという視点をとりいれれば、森田正馬が意図していることがよくわかる。「~すべき」という<とらわれ>のこころに、窓をうがつことで、<とらわれ>が決壊する。

 別の言い方をすれば、<手放す letting go>である。いままでの観念と行動を手放してゆく。森田正馬が書くように、「執着するといふ事」を手放してゆくのだ。ぼくはここに、深く共感させられる。

 ところで、森田正馬の文章を読んでいると、整体によって身体を知り尽くしていた野口晴哉(1911-1976)のことが思い浮かぶ。「人間」をその<あるがまま>に視る、その徹底したあり方に、森田正馬と野口晴哉に共通のものを感じ、ぼくはいっそう惹かれてゆく。