「コロナ後の後」の見晴らし。- ずーっと先を大きく見晴るかす見田宗介の著作との「対話」から。 / by Jun Nakajima

 今年2020年1月から新型コロナの情況をくぐりぬけてゆくなかで、新型コロナ自体への対応・対策をさまざまに施しながら、やはり「コロナ後」のことを考えてしまう。もちろん「この」新型コロナがおさまったあとの「コロナ後」もそうだけれど、もっとずっと先、数十年後、あるいは100年後といった時間軸のなかで、「コロナ後」の「後」の世界のことを考えてしまう。

 思いきって、ずーっと先を見晴るかす。そんな視界のひろさを深い次元で教えてくれたのは、やはり、見田宗介先生(社会学)であったと思う。ぼくは「生き方」の方向性の大きな部分を、見田先生から学んできた。社会「学」という枠組みにはおさまりきらない「思想」が、そこには宿っている。生き方としての思想だ。

 コロナ禍をかけぬけてゆくなかで、ぼくの感覚と思考の一部には「見田宗介の感覚と思考」が重なっていることを思う。「見田宗介先生だったら(こう語るだろう)…」というプログラムがぼくの思考にはたらきかけて、ぼくはしばしば沈思することになる。

 それでも見田先生の発言に触れたくなって、ついついグーグル検索で見田宗介先生の発言がないかどうかを検索してしまったりするのだけれど、見田先生はこういう情況においてすぐには発言をされないことをぼくはわかっているから(たとえば、アメリカの「911」のときもすぐには発言されなかった)、やはり検索結果に表示されなくても残念には思わない。ぼくは見田宗介先生の著作をひらいて、そこで見田宗介先生と「対話」する。想像の対談。あるいは「創造」の対談である。

 ちなみに、ぼくは大学生として見田宗介先生のもとで学んだわけではない。いわゆる私淑だ。見田宗介(ペンネームは真木悠介)の著作群を通じて、かれこれ25年程にわたって学んでいる。それでも、20年ほど前、横浜の朝日カルチャーセンターの見田宗介先生の講義を聴講した「体験」は、いまでもぼくのなかに深く残っている。もちろん、ぼくはその講義のなかで見田先生に直接に質問をしてみた。そのときの<束の間の対話>は、それ以後、ぼくの内面で見田先生と「対話」するときの、身体的感覚のベースとなっているのだろうと、ぼくは思う。

 コロナ禍ではいろいろなことが「オンライン」上でなされる。それはとてもいいことだと考える一方、ひととひととの、あるいはひとと自然との、身体的な直接の出逢いや共振といったものの大切さを憶いおこさせる。

 「コロナ後の後」のことに戻ろう。時空間の軸をすーっとひろげてみて、つぎのような「考え方」のことを考えてみる。

 人口が大爆発期を迎えた「近代」の基本的な価値観は「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という考え方である。見田宗介先生は作家の津島裕子との対談のなかで、この価値観にふれている(『超高層のバベル 見田宗介対話集』講談社)。自然をなるべくコントロールし、利用しつくす。競争社会のなかで「サバイバル(生き残ること)」モードへとかりたてられる。

 高度成長期には有効であったこの価値観とその世界はすでに限界をむかえていて、方向転換をしなければ、人間は破綻してしまうところまで来ている。「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という価値観を「無限空間」のなかで羽ばたかせてきたところ、その空間の「有限性」が露出してしまったのである。環境と資源の有限性。「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という価値観は「豊かな社会」をもたらすと同時に、グローバル化の達成という局面において、その限界を提示する。こんな時代にあっても、人間は自然を利用しつくそうとし、「経済成長」の号令は高らかにうたわれるのだけれど。

 この解決の方向性はどこに見出すことができるのか。「新しい価値観が必要になってきている」と語る津島裕子氏に、見田宗介先生は言葉を紡ぐ。「どう転換するのか。何らかの形で『共存するシステム』を考えるということだ」と。「高度成長ができなくなったから仕方なく、ということではなく、本当は自然とも他の人間や社会とも共存するほうが楽しい世界なんだと。人間や動植物も含めて、さまざまな種と共存することは楽しい世界なのだと。そういう方向にしか、未来を信じる道はないと思います。」(『超高層のバベル 見田宗介対話集』講談社)

 共存するシステム。それは誰にでもわかる、凡庸なアイデアに聞こえるかもしれない。しかし、この一語のなかには、この一語にいたるまでには、膨大な思索・思考、科学と論理、それから見田宗介の「生き方」が詰まっている。『時間の比較社会学』『自我の起原』『現代社会の論理』などといった著作で追究された思考がそこには充溢している。官制的に発せられるスローガンなどではなく、考え抜かれた、生き抜かれた言葉なのだ。

 なお「競争」が否定されているわけではないことを付け加えておきたい。「楽しい」競争というものはある。自然との共存のもとに、そして人間の共存社会をベースとしながら(個人の最低限の必要が満たされた上で)、「楽しい」競争というものがある。(ところで、コロナ禍での「買い溜め」は人間社会の競争的価値観の発露である。)

 さらにここで触れられている大切なことに照明をあてておきたい。高度成長ができなくなったから仕方なく「ということではなく」である。自然や他者との共存のほうが「楽しい」のだという方向性である。このことはとても大切なことだと、ぼくは思う。反対するひとはそう多くはないかもしれないけれども、このような方向転換は実際にはむずかしいものだ。ひとは「仕方なく」という転換点まで、なかなか変わることができない。「これまでの生き方」が心身にしみこんでしまっているからだ。「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という価値観、それから経済成長の強迫的・無限的な進行はとどまるところを知らない。

 新型コロナは「仕方なく」という転換点のひとつである。ぼく個人のことで言えば、新型コロナそのものの出現自体についてはあまりおどろくものではなかった。リスクマネジメント的にはすでにおりこみずみのリスクであったからだ。けれども、実際にそれが顕在化して、人間と社会と経済へのインパクトを体験し、見聞きするにつれて、いろいろな「想定外」に、思考も行動も緊張を強いられることになった。移動が制約されることは想定内としても、実質国境が閉じられるなどの想定外にはいろいろと振り回されることになった。なにはともあれ、情況はさまざまな「仕方なく」をつきつけてきたし、今もそれは続いている。

 「現代」という時代を、近代がつぎなるなんらかの時代への最終的な過渡期と見る視点に立つと、そこでは二つの力学がはたらいている。ひとつは「自然を征服し、人間も互いに競い合う」という近代の価値観の延長線上に、強迫的に「経済成長」を続けようとするもの。もうひとつは、その強迫性から離れて「つぎなる時代」へと軟着陸しようとするもの。これらの二つの力学が拮抗しているのが「現代」という見方である。コロナ禍はこの拮抗の最中に訪れたことになる。

 この大きな見方のなかで前述の「仕方なく」を組み入れてみると、「仕方なく」という転換点としてのコロナ禍は、「強迫的な経済成長」を生きるひとたちにとってはやはり「仕方なく」であるのに対して、つぎなる時代(「共存するシステム」)への軟着陸を試みてきたひとたちにとっては意味合いが異なってくるのだと思う。コロナ禍が訪れようと訪れまいと、未来は(そして現在は)この「共存するシステム」にあるのであって、コロナ禍は「仕方なく」の転換点ではない。

 ぼくが「じぶんの変容」ということを、ホームページやブログで書くとき、このような「共存するシステム」への軟着陸を想定している。「本当は自然とも他の人間や社会とも共存するほうが楽しい世界」という共存する世界への変容を、なによりもまず「じぶん」のなかにひらいていく。共存する楽しさ、自然や他の人間や社会との出遭いの楽しさ。「コロナ後の後」の世界は、そんな価値観に下敷きされた世界がひらいてゆく。時間的には「コロナ後の後の後…」といったところかもしれないけれど。

 ちなみに、大澤真幸先生(社会学)は、コロナの危機こそは「世界共和国の最初の一歩」だと言っている(大澤真幸『コロナ時代の哲学』左右社)。「あえて」そう言い切っている。国際的な連帯や協調というのではなく「世界共和国」。たとえば、21世紀の終わりから2020年を眺め返したとき、コロナ危機は「世界共和国」の第一歩であったのだと振り返られるのだというように。