「これからの生きかた」とはどんな生きかたか?- シンプルに応えてみると。 / by Jun Nakajima

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 「これからの生きかた」とはどんな生きかたなのか?そう尋ねられるとすれば、ぼくはこう応える(「答える」ではない)。<自由な生きかた>である、と。生き型にしろ、生き方にしろ、<自由な生きかた>であると、ぼくはおもう。この応答ではそもそもの問いに「答えて」いないように聞こえてしまうかもしれない。「これからの生きかた」を問う人たちは、もっと限定的な「回答」を期待するかもしれない。けれども、シンプルに言ってしまえば、やはり<自由な生きかた>である。抽象的な言い方ではあるのだけれど、具体的にすればするほど、生きかたの「自由度」が下がってしまうから、<自由な生きかた>という抽象度を保っておきたい。

 ちなみに、書名に「生き方」がもりこまれている本はさまざまにある。検索をかけてみたときの個人的な印象では、おもっている以上にあった。遠慮しない生き方、迷わない生き方、ブレない生き方、がんばらない生き方、我慢しない生き方、簡素な生き方、ゆるい生き方、等々。これらの書名をざっくりとカテゴリー化すると、以下のように、3つのカテゴリーに分けられる。

(1)アンチテーゼの生き方
(2)テーゼの生き方
(3)その他

 (1)のアンチテーゼは「~しない生き方」である。つまり「これまでの」生き方の否定・反対の姿勢である。これまで遠慮ばかりしてきた人生に対して「遠慮しない生き方」で生き直す。これまで迷ってばかりいた生き方に嫌気がさして「迷わない生き方」を掲げる。このアンチテーゼ型に対して(2)はテーゼ型の生き方である。簡素な生き方も、ゆるい生き方も、テーゼとして提示されている。もちろん、(1)と(2)は表裏一体であることもある。迷わない生き方は、決断する生き方というようにテーゼ式に提示することもできる。ただ、書名という観点から言えば、アンチテーゼ型は人の関心を呼び起こしやすい。日々の生活のなかで「生き方」を見直すときというのは「これまでの」生き方に対する疑いや否定などを感じているときだから、その気持ちに直截に届きやすいのは「アンチテーゼ」である。さらに、(3)その他としては、60歳からの生き方、人生100年時代の生き方のような、アンチテーゼでもテーゼでもない「テーマ型」の生き方の本が見受けられる。これら3つのカテゴリーは、重点にこそ違いはあるのだけれど、「これまで→これから」というようなベクトルを共通点として持っている。つまり、<生き方の変容>である。そしてそこには、<社会の変容>が連動している。

 そのようななかで「これからの生きかた」は、<自由な生きかた>である。上述のカテゴリーで言えば、(2)のテーゼ型に含まれるところだけれど、実質的には、すべてのカテゴリーを包括するものでもある。アンチテーゼであろうが、テーゼであろうが、あるいはその他の特定のテーマであろうが、それらすべてへの<可能性>がひらかれている生きかたである。

 見田宗介(社会学者)は名著『社会学入門』(岩波新書、2006年)のなかで、哲学者ニーチェの生涯を「ある困難な稜線を踏み渡ろうとする孤独な試み」であったとしながら、ニーチェのこの困難な「二正面闘争」についての、思想家バタイユの思考(バタイユ『至高性』)にふれている。

「二正面闘争」とは、次の通りである。

(1)<失われた至高性を回復すること>
(2)<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>

 これら「二正面闘争」が、ほんとうに<自由な社会>の条件を構想する課題の遂行において引き受けなければならないものだと、見田宗介は「<自由な社会>の骨格形成」という論考をすすめているのだけれど、これらはそのまま<自由な生きかた>を考え、生き、ひろげてゆくうえでも引き受けていかなければならない「二正面闘争」であるように、ぼくはかんがえている。

 見田宗介は上述の二正面闘争について、理解のために言い方を変えて提示してくれている。

(1’)<魂の自由>を擁護すること
(2’)<魂の自由>を擁護すること

 見田宗介はここから<自由な社会>のモデル構成へと社会理論を発展させている。ぼくはここではその(同じシステム内の)別の一面である<生きかた>という側面に光をあて、「これからの生きかた」へと拡張させてみたい。

 つまり、「これからの生きかた」は、つぎのように簡潔に述べておくことができる。

(1”)<生きかたの自由>
(2”)<生きかたの自由

 再度ニーチェの二正面闘争にバタイユが見たことに則して言えば、第一に、それぞれの人たちにとってほんとうに歓びに充ちた<生きかた>を取り戻すこと、の課題であり、また第二に、他者に強いられる<生きかた>の一切の形式を否定すること、の課題である。ニーチェ、バタイユ、見田宗介という系譜のなかで鮮烈に提示され追究されてきた課題の延長線上に<生きかた>の課題をあてはめてみたい。ぼくはそんなふうにかんがえる。

 ひとつ目の、<生きかた>を取り戻すこと。「生きかたを取り戻す」ということを言い換えれば、ほんとうに<生きる>ということ、<生きる>ということの全体を引き受けてゆくことあるいは享受してゆくこと、さらに、じぶんが<生きる>ということに自ら責任をもつこと、などである。

 二つ目の、他者に強いられる<生きかた>の一切の形式を否定すること、というのは比較的わかりやすい。じぶんの<生きかた>を生きること。もちろん、じぶんの<生きかた>のほうが良い・正しいなどというように、じぶんの<生きかた>を他者に強要しないことである。互いの生きかたを尊重すること。つまり、互いに自由に生きるということ。

 「これからの生きかたはどんな生きかたか?」という問いへの応答、<自由な生きかた>というシンプルな応答には、これら二つの要素がもりこまれている。なお、ひとつ目のことは<じぶん>という存在のあり方を捉え直してゆくことであり、二つ目のことは、じぶんと他者との自由な関係性をきりひらいてゆくことである。<じぶん>という存在を捉え直したうえで、<じぶんの変容>を生きてゆくということである。

 外の環境に眼を転じれば、コロナ禍があったり、情報通信技術に牽引される産業革命があったり、また環境破壊があったりする。そのような環境変化や社会変化の諸々が、ホモ・サピエンスがこれまでに経験したことのないことであり、「時代の変化」や「景気がよい・わるい」という言葉で集約・縮尺されがちな現在の変化をはるかに超える<変化・変容>のなかに、ぼくたちはいる。

 このような<変化・変容>のなかで、<じぶん>という存在のこと、<じぶんの変容>ということ、そこに土台を置いた組織や集団やコミュニティのあり方、さらに<自由な社会>ということをかんがえ、構想し、共有し、企図し、動き、試してゆくことに、ぼくの心は所在し、ぼくの身体と頭脳のエネルギーは注がれている。