英語の「takeaway」という言葉を最近よく聞いたり見たりして考える。- 「教科書」と「教科書ではない本」という比較から。 / by Jun Nakajima

🤳 by Jun Nakajima


最近、英語のポッドキャスト(podcast)を聞いているとき、英語の講義・セミナーなどの動画を観ているとき、さらに英語のブログなどを読んでいると、「takeaway」という言葉をよく聞いたり、目にしたりする。

言葉が語られる文脈を考慮せずに「takeaway」と聞くと、店舗やレストランでオーダーする「持ち帰り用の料理」などのイメージが湧いてくる。

「持ち帰り用の料理」という意味での「takeaway」は英国の英語である。

米国の英語では「take-out」であり、日本では「テイクアウト」がカタカナで使われたりするから、こちらの方がなじみがあるだろう。

でも、ぼくが最近聞いたり、観たり、読んだりする「takeaway」は、料理とは関係がない。

グーグル翻訳(英英辞書)では、下記のように定義される意味だ。

 

【takeaway】

● a key fact, point, or idea to be remembered, typically one emerging from a discussion or meeting.

例文:“the main takeaway for me is that we need to communicate all the things we’re doing for our customers”

 

ポッドキャストにおけるインタビュー、自己発展・自己啓発系の講義やセミナーの要点まとめ、ブログにおいて何かからの学びのポイントなどを語る際に、「takeaway」という言葉が使用されるのだ。

語源を詳細には調べきれていないけれど、この定義自体は新しいものではないようである。

 

現在において「言葉の使用法」と「使用される場」ということで考えると、なかなか面白いものである。

「言葉の使用法」ということで言えば、あくまでもぼく個人の語感においては、言葉の「重さ」がとれ、「気軽さ」の語感がわいてくる。

どうしても「持ち帰り料理」的なイメージがわくからということもある。

その点から、「使用される場」ということを考えても、どちらかというと口語的な気軽さが伴う場で使われているように見られる。

必ずしも話される言葉ではないけれど、学術書や論文などでは、まだ見た覚えはない。

学者が書く一般読者向けの本などでは使われることもあるだろうけれど、フォーマルな文書ではやはり避けられるのだろう。

この「気軽さ」が、生きることや自己啓発などの若干重いテーマにおいて、聞く側や読む側に気持ちの余裕のようなものをつくるように思われる。

少し余裕をつくる言い回しの中で、話し手や書き手は、「takeaway」として要点やまとめをとても上手く引き出して、語ったり書いたりしている。

 

ただし、そのように語られたり書かれたりするものは、往往にして、点としての「知識」や「情報」などである。

要点やまとめが、教科書的にまとまりすぎてしまうことがあるのだ。

 

社会学者の若林幹夫は「教科書と、教科書でないテクスト」という文章の中で、示唆に富むことを書いている。

 

…教科書は、ある学問においてこれまで研究され、書かれ、議論されてきたことがらのうち、すでにある程度標準的な見解として一定の評価を得ていることを集め、整理し、解説し、あるいは読者の思考をそうした理解へと導こうとする。そうした書物は、ある学問領域においてすでに考えられて、すでに知られていることを、それらをいまだ知らない人びとのための「情報」として紹介し、提示する。それに対して「教科書ではない本」は、すでに考えられ、知られていることではなく、書き手が新たに何かを考え、明らかにしようとする過程が書かれた書物のことだ。

若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂

 

「教科書ではない本」は、社会学の古典であるマックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを指している。

「教科書」は、この書籍の中から、学界内などで常識化された「知識」や「情報」がとりだされて書かれている。

しかし、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などの本は、教科書的な要約におさまりきらないものを「過剰に」もっている。

 

…教科書はすでにわかったとされることを簡潔に伝えるのに対し、これらの書物は書き手にとっていまだ明らかではないことを明らかにしようとする過程や、それまで考えられなかったことを何とか考えようとした過程が描かれているのだ、と。それゆえそうした書物にとって重要なことは、「わかったこと」それ自体ではなく、「わからないこと」と、それを何とかして「考え、わかろうとする過程」なのだ。
 思考は過程(プロセス)であり、知識や情報はその結果(アウトプット)である。…ある学問を学ぶとは、その学問が明らかにしてきたことを知識や情報として知るだけではなく、その学問を用いて世界を理解することができるようになるということだ。…

若林幹夫『社会(学)を読む』弘文堂

 

「takeaway」と呼ばれるまとめは、知識や情報として重要であるけれど、それだけを知って理解することだけでなく、インタビューやセミナーや文章における「過程(プロセス)」も一層大切だと、ぼくは思う。

普通の学校教育に慣れ親しみすぎていると、どうしても知識や情報一辺倒になってしまい、考えるプロセスが抜けがちになってしまう。

知識や情報は「点」的なものになりがちで、点や線をつないでゆく考えるということの「全体的な視野や構造」が見えないのだ。

だから、双方を大切にしていくことである。

 

ぼくが耳にし目にする「takeaway」は、そうすることで、聞いただけ、見ただけで終わらせない方法論のひとつだ。

振り返りの中で「takeaway」を明示することで、日常の行動につなげてゆくための、リレー地点をつくる方法だ。

<リレー地点としての点>をつくりながら、しかし、点と線をつなぐ思考を点火しながら、一歩一歩進んで(ときに後退して)ゆくことが、とても大切であると、ぼくは思う。