「退屈さ」というぼくたちの内面の最大の敵(のひとつ)に向かって。- 「人に伝わらない」という経験が退屈さに立ち向かう。 / by Jun Nakajima


走りながら、ぼくは思考を紡いでゆく。

ひとつに、ぼくたちが避けるべきは、あるいはいずれ(何らかの形で)避けることになるのは「退屈さ」ではないかと。

一人という生においても、組織というものであっても、社会というものであっても、人あるいはその集団は、意識していようがいまいが、「退屈さ」を嫌うのではないかと。

「退屈さ」をこわすためであれば、人や集団は、苦痛や不幸さえつくりだしていってしまうように、ぼくは思う。

「苦痛や不幸さえつくりだす」ということは、語弊があるかもしれないけれど、意識せずともあるいは意図せずとも、そのような状況に自分を追い込んでいってしまうということ。

生きていくということは、時間により「右肩上がりの直線」が引かれるのではない。

それは、Joseph Campbellが言うような「Hero’s Journey」のように、あるいはその原型を適用する映画のように、アップ&ダウンの連続なのだ。

直線的な退屈さをこわすために、人は「ダウン」さえ、生きる物語につくっていくということである。

 

逆に「面白さ」ということをかんがえるときには、面白さをつくりだす条件として「自由」ということがあると、ぼくは思う。

ここで言う「自由」は、日々の生活における自由ではなく、根源的な「自由」である。

例えば、コミュニケーションということにおいて、次のような図式でかんがえてみる。

 

「伝わらない」<ーーーーーーーーーー>「伝わる」

 

一方に「伝わらない」ということがあり、他方に「伝わる」ということがある。

人と人とのコミュニケーションにおいて、「いつも、完全に伝わる」(つまり線分の一番右)ということであったらどうだろうか、とかんがえる。

コミュニケーションがうまくいかないという、誰もが悩み苦痛とフラストレーションを感じる中に、ぼくたちは「いつも、完全に伝わったら…」という願望を抱く。

しかし、はたして、「いつも、完全に伝わったら」ぼくたちの世界はどうなるのか。

ぼくは思うのだけれど、そこには「退屈さ」の影が侵入してくるのではないだろうか、と。

伝わらないことと伝わることの「間」は、ぼくたちが自由であることの条件なのだと、ぼくはかんがえる。

自由は、コミュニケーションがよくできることも、あるいはできないことも、何も保証してはくれないけれど、ぼくたちが「アップ&ダウン」を楽しむことのできる可能性をつくってくれる。

ぼくたちが楽しむテレビドラマや映画、恋愛映画であったり家族の物語であったりは、この「伝わらないー伝わる」ということがつくりだす自由空間でくりひろげられるドラマである。

その意味において、自由は「面白さ」の可能性をつくりだしていく。

それは「退屈さ」という敵にくりだす武器なのだ。

 

見田宗介が語る「自由の前提」が、ぼくの頭から離れない。

 

…自由には二つの前提がある。第一に、「どこにでも行ける」ということ。第二に、どこかに行けば、幸福の可能性がある。「希望」があるということである。第一は自由の、抽象的、形式的な条件である。第二は自由の、現実的、実質的な条件である。…

見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』2016年9月号

 

コミュニケーションにおいて、「伝わらないー伝わる」という可能空間で、ぼくたちは「どこにでも行ける」。

伝わらないことも伝わることも、あるいはその中間のどこかであることもできる。

そこには「どこにでも行ける」だけでなく、ぼくたちにはコミュニケーションの「希望」がある。

村上春樹が「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(新潮文庫の同タイトルの著作より)と願うように、ほんとうに伝わるということが極めてむずかしいのがコミュニケーションである。

それでも「きっと伝わる/伝える」という「希望」が、ぼくたちをつきうごかしていく。

その「希望」につきうごかされながら、アップ&ダウンの「面白い」ドラマの中で、ぼくたちは日々を生きる。

「伝わらないー伝わる」という両極の事例に限らず、生きることのさまざまな同じ形式のことは、「自由」ということの条件である。

それは、ぼくたちの内面の最大の敵のひとつである「退屈さ」をこわしていく空間を、ぼくたちに与えてくれている。