「カキフライ理論」(村上春樹)にうなってしまう。-「りんごの果肉(理論)」(見田宗介より)に繋げて。 / by Jun Nakajima

🤳 by Jun Nakajima

 

村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。

知らない方向けに、まずは「カキフライ理論」について、である。

村上春樹のところにきた質問のなかに、こんな質問があった。

「入社試験で原稿用紙三枚なら三枚ぐらいで自分について書きなさい」という試験問題があって、「そんなもの、原稿用紙三枚ぐらいで書けるわけない。村上さんだったら、どうしますか」という質問である。

村上春樹の「カキフライ理論」はここで登場する。

 

…そういうとき、僕はいつも言うんだけど、「カキフライについて書きなさい」と。自分について書きなさいと言われたとき、自分について書くと煮つまっちゃうんですよ。煮つまって、そのままフリーズしかねない。だから、そういうときはカキフライについて書くんですよ。好きなものなら何でもいいんだけどね、コロッケでもメンチカツでも何でもいいんだけど…

村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)

 

この「アドバイス」の素晴らしさに、ぼくはうなってしまう。

村上春樹は、丁寧にポイントを伝えている。

 

…僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。一番必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くことには大事なことだと思うんですよね。

村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)

 

村上春樹が書くように、自分とカキフライの間の「距離」が自分を語る。

その「距離」から生み出される「物語」が、自分を語るということ。

 

それにしても、「カキフライ理論」という命名と方法の妙に、ぼくは幾度もうなってしまう。

理由の一つ目は、誰でもがわかる名前であること。

理由の二つ目としては、忘れられない命名であること。

それから、三つ目として、やはり「カキフライ」であること。

「べつにカキフライじゃなくてもいいんだけど」と言う村上だが、ぼくは、やはりこれはコロッケでもメンチカツでもなくて、「カキフライ」ではなくてはならなかったのではないかと思う。

この理論を特別なものとするのは、あるいは村上春樹の理論とするには、やはり「カキフライ」でなくてはならなかったのではないかと思うのだ。

 

「カキフライ理論」を知ってから、「カキフライ」について原稿用紙三枚ぐらいで書こうとは思って、でもまだ書けていない。

その代わりに、旅を書き、シエラレオネや東ティモールを書き、コーヒーを書いては麺を書いたりしている。

 

ここで終わってしまっては「別の視点」はなくなってしまうので、「りんごの果肉理論」につなげておこう。

「りんごの果肉理論」は、そのような言葉はないけれど、発想そのものは社会学者の見田宗介からである。

見田宗介は「自分について」ではないけれど、「宮沢賢治について」を、本一冊(『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店)かけて書いている。

(カキフライ理論の発祥のもとになった「自分」ということにつながるのだけれど)<自我>という問題を追い求める、この著書の「あとがき」で、見田宗介はこんなことを書いている。

 

 この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。

見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店

 

これが、ぼくが勝手になづける「りんごの果肉理論」だ。

世界の「中心的なものの構造」は、語ることが難しく、そして語ることで世界の面白さを脱色してしまう(金の卵を産む卵をどこまでも解体しても、そこには肉の塊があるだけだ)。

「中心」は語るのではなく、それに「陽射された世界を語ること」と、見田宗介(真木悠介)は別のところで書いている。

中心(芯や種)に照らされるのが、<果肉>だ。

りんごの芯や種はかじってもおいしくないけれど、ぼくたちは<果肉>を楽しむことができる。

「カキフライ」は、<果肉>である。

 

上記の文章につづけて、見田宗介はこのように語る。


 そしてこのような様式と方法自体が、<自我>をとおして<自我>のかなたへ向かうということ、存在の地の部分への感度を獲得することという、この仕事の固有の主題と呼応するものであることはいうまでもない。
…この書物を踏み石として、読者がそれぞれ、直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の、果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それでいいと思う。

見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店

 

村上春樹が言うように、「自分」を書くことはどこかで煮つまってしまう。

見田宗介が言うように、「りんごの芯や種」をどこまでも解体し分解しても、果肉のおいしさはみつからない。

カキフライが、りんごの果肉が、この世界の<おいしさ>なのだ。

ぼくたちはただ、それらの<おいしさ>を楽しみ、豊饒に生きてゆくことへと生を解き放つこと。

 

このように、カキフライ理論は、じつは、深みと可能性をもった理論である。

それにしても、「カキフライ」について書こうとすると、つい「生カキ」が頭に浮かんで、ぼくのなかでは「カキ理論」になってしまう。

「フライ」の部分が取り去られてしまう。

だからっていうわけではないけれど、上述のように、「カキフライ」についてはまだ書いていない。

でも、「カキフライ」を題名にして、カキフライではなく「カキ」について書くことが、「ぼく」自身について書くことなんだろうなと、今書いていて、ぼくは気づく。

カキフライも、カキも、深い。

世界は<おいしさ>に充ちている。