よりよく生きていくことにおいて、人間の「五感」の問題はとても大きな問題としてあるように、ぼくは思う。
真木悠介は、「近代」のあとの世界と生き方を構想するなかで、この問題にふれている。
「われわれの文明はまずなによりも目の文明」であると真木悠介は述べながら、人間における<目の独裁>から感覚を解き放つことで、「世界」は違った仕方でぼくたちに現れることについて、書いている。
…<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
人間における<目の独裁>の確立は根拠のないことではない。目は独得の卓越性をもった器官だ。
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
<目の独裁>の根拠にかかわる例として、真木悠介は「仏教における五根」の序列性を挙げている。
仏教では五根を「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」というようにならべるように、この配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が、確かに、自然であるように思われる。
このことを西洋美術史を専門で学んでいる友人に伝えたら、この「五感の序列性」(「視覚」の至高性)が、西洋の思想にもあることを教えてくれた。
事例として教えてくれたのは、17世紀の絵画における、ブリューゲルの「五感」という5枚連作。
これら5枚のすべての絵画作品において、背景に庭があり、建物のなかに女性とキューピッドがいる。
おもしろいのは、それぞれの作品に五感のアレゴリーが散りばめられていること(例えば、絵のなかに描かれる「絵画」=視覚)、また、例えば、「触覚」では廃墟がみえるなど、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の序列性が見てとれることである。
また、五感と「対象との距離」という視点からもこれら5枚連作が読みとれるということに、ぼくは心地のよい驚きを覚えた。
真木悠介は、五感と「対象との距離」について、配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろうと書いている。
「身」による認識においては、「知ること」と「生きること」がほとんど未分化なのに対し、「視覚」においては、<生きること>と<知ること>の乖離が最大化することを、真木悠介は指摘している。
そのことは、視覚優位の現代社会では、<知ること>とから<生きること>への道のりを、ぼくたちは心してあるいていくことを示してもいる。
ぼくが「五感」ということを客観視して見るようになった契機は、アジアへ旅するようになってからであった。
船や飛行機を降りたときに、日本とはあきらかに異なるにおいが嗅覚を刺激し、街や通りなどの異なる音たちに身体がさらされる。
そのような体験であった。
近年の「情報テクノロジー」の発展は、ぼくたちの五感をさらに「視覚」へとおしこめてしまうような磁場をもっている。
松岡正剛は、ブログ「千夜千冊」でデリック・ドゥ・ケルコフ『ポスト・メディア論』にふれながら、「知覚とメディアの関係」という問題に直球のボールを投げ込んでいる。
直球のボールは、さまざまな人たちによって、さまざまな企ての形でも投げ込まれている。
ドイツを発祥の地とする「Dialogue in the Dark」は、ここ香港でもあるけれど、<目の独裁>をふつうには得られない次元の「暗闇」によってくずすことで、ぼくたちに気づきの体験を与えてくれる。
真木悠介が40年前に「<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと」と提示した生き方の作法は、今もなお(あるいは今だからこそ)、ぼくたちの「生き方の道具箱」のひとつにおさめておくことができる。