「新入生に贈る一冊」を選ぶとしたら。- 見田宗介『社会学入門 人間と社会の未来』。 / by Jun Nakajima

日本では4月から「新年度」が始まったばかりである。

海外に住んでいると、そこにはまた異なる社会の流れがあるから、ぼくは、ここ香港で、感覚としては文化の狭間に置かれる。

日本のニュースなどを通じて、この「新年度」の雰囲気を垣間見ることができるのと同時に、ぼくは日本に住んでいたころの記憶に「新年度」を感じる。

 

新しく高校や大学に入る「新入生」たちにとっては、ありふれた言い方だけれど、期待と不安の入り混じったスタートであるかもしれない。

そんな新入生たちに出会ったとしたら、ぼくは、どうするだろうか。

ぼくは、やはり、本を手渡すように、思う。

本は、見田宗介『社会学入門 人間と社会の未来』(岩波新書、2006年)である。

もちろん、新入生の方々は多様であり、ひとりひとりにおいて、問題意識も関心も異なっている。

それでも、ぼくは、この本をやはり選ぶだろう。

 

理由をあえて挙げるとすれば、次のような理由を挙げる。

  1. 「社会学」という枠を超えて「学問する」ことの<初めの炎>に触れられている
  2. 「学問」を超えて、「生きること」の本質と方法論が書かれている
  3. 「生きること」において、「現在」と「未来」が深く、そして太い線で描かれている

文系・理系にかかわらず、この「現代社会」に生きる人たちすべてにとって切実な<人間と社会>の問題と課題に本書は照準しているのである。

本書のカバーの見開きには、次のように、本書が紹介されている。

 

「人間のつくる社会は、千年という単位の、巨きな曲り角にさしかかっている」ー転換の時代にあって、世界の果て、歴史の果てから「現代社会」の絶望の深さと希望の巨大さとを共に見晴るかす視界は、透徹した理論によって一気にひらかれる。初めて関心をもつ若い人にむけて、、社会学の<魂>と理論の骨格を語る、基本テキスト。

見田宗介『社会学入門 人間と社会の未来』岩波新書、2006年

 

本書の「目次」は下記の通りである。

 

【目次】

序 越境する知ー社会学の門
一 鏡の中の現代社会ー旅のノートから
  [コラム]「社会」のコンセプトと基本のタイプ
二 <魔のない世界>ー「近代社会」の比較社会学
  [コラム]コモリン岬
三 夢の時代と虚構の時代
四 愛の変容/自我の変容ー現代日本の感覚変容
  [コラム]愛の散開/自我の散開
五 二千年の黙示録ー現代世界の困難と課題
六 人間と社会の未来ー名づけられない革命
補 交響圏とルール圏ー<自由な社会>の骨格構成

 

本書のタイトル『社会学入門 人間と社会の未来』から、ぼくなりの「解題」をするとすれば、次のようになる。

 

(1)「社会学」

「社会学」ということについては、いわゆる専門領域としての「社会学」はもとより、見田宗介の「社会学」は<社会の学>というべきほどに、その問題意識と論理は「社会」の全域を貫いている。

 

(2)「入門」

「入門」とあるように、本書の一部は、見田宗介の「社会学概論」のような講義を圧縮して収録されている。

しかし、「入門」はある意味において、入門であるからこそ、問題や課題のコアに一気に直進してゆくところがある。

その意味において、ぼくは、(この本に出会って10年近く経った)今でも、なんどもなんども、この本に立ち戻っている。

 

(3)「人間と社会」

「社会」とは、人と人との<関係>のことである。

その意味において、「社会学」とは、<関係としての人間の学>(見田宗介)である。

そのような視点のうちに、見田宗介の問題意識は、つねに、社会の制度的な「ハードの問題」と、人間の内面という「ソフトの問題」を相互に連関させている。

仮に、そこに明確に語られていなくても、社会のシステムを語るときには「自我」の問題が、また自我を語るときには「社会のシステム」の問題が息づいている。

 

(4)「未来」

この本の射程は「未来」に向かって、はるかにのびている。

本書の「五 二千年の黙示録ー現代世界の困難と課題」「六 人間と社会の未来ー名づけられない革命」「補 交響圏とルール圏ー<自由な社会>の骨格構成」は、いずれも、人間と社会の「未来」に向けて、その方向性を、太く深いところで明晰にとらえている。

情報テクノロジー、仮想通貨などの未来を語る情報が日々ながれてくるなかで、さらにその深い地層において「未来」への道筋(可能な道筋)をとらえておくことができる。

メディアにながれるそのような未来の言説にじぶんがながされないように、見田宗介の素描する「未来」は、ぼくたちの足場を確かなものにしてゆく力となると、ぼくは思う。

 

見田宗介(あるいは真木悠介というペンネーム)の数々の著作が「分類の仕様のない本」であるように、本書も、「分類の仕様のない本」であると、ぼくは思う。

それは、ぼくたちの「生きる」ということへの、真摯で暖かいまなざしにつらぬかれているからでもある。

 

本書の第一章では、「社会学は比較社会学である」というエミール・デュルケームの言葉を引きながら、自然科学と異なり、社会の科学においては「実験」ができないこと、しかし「比較」ということを方法とすることができることを、見田宗介は語っている。

 

…人間が歴史の中で形成してきた無数のさまざまな「社会」のあり方は、これを外部から客観的に見ると、人々がそれぞれの条件の中で必死に試行してきた、大小無数の「実験」であったと見ることもできます。一つの「企業」、一つの「家族」のような小さい社会でも、「幕藩体制」とか「資本主義」とか「社会主義」というような大きい社会でも、それがどういう社会であるかは、他の企業、他の学級、他の家族、他のシステムと比較することをとおして、はじめて明確に認識し、理解することができます。

見田宗介『社会学入門 人間と社会の未来』岩波新書、2006年

 

「比較」は、日常の生活の語彙としては、現在において「競争」の文脈のなかに投げ入れられたりする。

どちらが優位、どちらが劣位というように、「競争社会」という、社会の諸相の一面に偏って、とらえられ、語られ、意識される。

しかし、ここでの「比較」は、それとは垂直に異なる方向性において、方法論のひとつとして、取り出されている。

 

…社会学の方法としての「比較」は、<他者を知ること>、このことを通しての<自明性の罠>からの解放、想像力の翼の獲得という、ぼくたちの生き方の方法論と一つのものであり、これをどこまでも大胆にそして明晰に、展開してゆくものです。

見田宗介『社会学入門 人間と社会の未来』岩波新書、2006年

 

ぼくのブログで幸いにも多くの読者を得ている、「<自明性の罠からの解放>(見田宗介)。- 生き方の方法論の一つとして」と題したブログで触れた、ほんとうに大切な視点と生き方が、本書のここで語られている。

このように、比較社会学の方法は、生き方の方法論と「一つのもの」として、見田宗介のなかでは構想され、展開され、ぼくたちの「学ぶ」ことだけでなく、ぼくたちの「生きる」ことを<解き放つ>ところに、ひらかれている。