「喪われた全体性」への渇きと希求。- <近代・現代>社会を乗り越える地平からの、真木悠介の眼差し。 / by Jun Nakajima

日本の神道の神社に行くと、そこは「清浄感」で満たされ、箒(ほうき)で玉砂利を掃き清められた、塵(ちり)一つ落ちていない空間に入っていくことができる。

しかし、本来の神社は、そうではなかったということが民俗学の研究によりわかってきたことを、民俗学者であった谷川健一の論考(「祭場と葬所」)にも触れながら、社会学者の真木悠介は語っている。

1977年に行われた花崎皐平との対談(「<心のある道>は勝ちうるか」)においてである。

 

…元々はお宮の中にお墓があったわけですね。祭り事をする部分と死者を葬る部分というのが抱き合わさって、その全体性がいわば聖なる場所だった。それは本来の土着信仰としての神道ですね。その土着の神道が次第にきたないもの、否定的なものー死んだ人間とかそういうものの処理を疎外して、仏教にゆだねるわけでしょう。そこで神道と仏教の二重信仰という、世界でも珍しい日本人の信仰が生れてくるわけですね。だから今でも葬式は仏教、お宮参りとか結婚式は神道、というのが普通ですね。

花崎皐平・真木悠介「【対談】<心のある道>は勝ちうるか」『展望』第225号、1977年9月

 

日本人の信仰において「神道と仏教の二重信仰」につながってゆく力線を、<きたないもの、否定的なものの疎外>という視点において、真木悠介は明晰にとらえている。

<きたないもの、否定的なものの疎外>の帰結としてある「二重信仰」を、(宗教を信仰していても、していなくても)生活の一部として生きている。

また、<きたないもの、否定的なものの疎外>という力学は、他人事ではない。

真木悠介は、じしんの中心的な問題関心でもある<近代の乗り越え>という地平から、このような「排除の構造」を現代社会のうちにみてとっているが、ここでも「神道と仏教の二重信仰」という事象のなかに、同じ構造を読み取っている。

 

 そういうふうに、土着の神道というものが次第にきたないもの、否定的なものを疎外していく過程と、神道が国家神道として民衆から疎外されて、あるいはみずからを疎外して民衆の上にそびえ立つという過程とが同じであるわけです。このことはじつは<近代>世界の、土着性からの自己疎外の過程、つまり、上昇の裏面としての自己抽象化ということと同じ構造をもつように思う。だから、喪われた全体性への渇きのようなものが、外見上は下降欲求として現れる。花崎さんが表層的には「ヒッピーになった」とうわさされたというようなことも、ぼくたちの時代の<自己解放>のとらざるをえないかたちとつながっているように思えます。…

花崎皐平・真木悠介「【対談】<心のある道>は勝ちうるか」『展望』第225号、1977年9月

 

<近代>世界は、このように、<きたないもの、否定的なものの排除>の上に、それらを別の仕方で抑え込みながら、成り立っている。

 

「排除の構造」について、真木悠介は見田宗介名で、日本の「都市」に、そのような排除の構造があることを指摘している。

1983年に日本に開園した東京ディズニーランドに関する、社会学者・吉見俊哉の分析を引きながら、ディズニーランドにおける「人口の空間の、徹底して外部を排除する自己完結性」が、現代の都市の凝縮されたモデルであることに触れている(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、および『社会学入門』岩波新書)。

例えば「渋谷」は、1970年以降の資本の展開において、「巨大な遊園地空間」として創られ、そこでは、かわいくないもの・きたいないもの・ダサいものが「排除される構造」をもってきたと分析されている。

おしゃれで、キレイな空間において排除されるような、土や汗や「きたない」仕事などは、消費という一連の流れにおける始点と末端でどうしても発生するものであるけれど、それらは、移民労働者やいわゆる発展途上国などの「見えにくい世界」に託されることになる。

 

見田宗介は、このような社会の構造について、後年(1996年)、『現代社会の理論 情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書)という名著に結実させてゆくことになる。

そこで目指されていたことのひとつは、この著書の刊行よりも20年前に行われた(上述の)対談にてふれられていた「喪われた全体性」への渇きをもつ世界というものを、「情報化・消費化社会」の闇の巨大と光の巨大をともに見晴るかしながら、いわば<全体性>のなかにおさめてゆくことであった。

そして「喪われた全体性」への渇きと希求は、社会のことであるばかりでなく、社会という関係の網の目をつくる個々人ひとりひとりの「内面における喪われた全体性」に照応する仕方で、真木悠介=見田宗介は語り続けている。

そこに、<近代・現代>という時代を乗り越えてゆくための、「ピボット(旋回軸)」の支点ともいうべきものが、打たれてある。