<欲求を解放する>ということ。- 節制や抑制ではなく、「解放する欲求」を生きること。 / by Jun Nakajima

現在あるかたちの「消費化社会」が、地球の環境問題をふくめて、大きな「負の影響」をおよぼしている。

という状況において、この「消費化社会」をどうしていったらよいか、という解決の方向性として、その物質主義的なありかたを抑制してゆくことを考えてみることができる。今の「消費」のありかたが異常で過剰だから、節制と抑制でもって「消費」をおさえてゆこう、という解決の仕方である。「消費」への欲求はとめどないから、抑えこまなければいけない、というわけだ。

これは解決の方向性のひとつであるし、実際に「有効」でもあったりする。「もっとも」な意見であるように聞こえる。

見田宗介(社会学者)が、名著『現代社会の理論ー情報・消費化社会の現在と未来』(岩波新書、1996年)で提示した方向性は、しかし「消費への欲求」そのものを、「消費」というコンセプトをつきつめることで、解き放ってゆくというものであった。「禁欲」という道ではなく、不羈の仕方で「歓びを追求する」道である。

この方向性と方法にぼくは惹かれる。

節制や抑制や禁欲という道よりも、欲求そのものを解放するという道は魅力的である。


<欲求を解放する>という方法については、上述の本が書かれるよりも20年ほど前に、真木悠介のペンネームで発刊された名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)に、「混沌と投げ込まれているモチーフたち」(真木悠介)のひとつとして書かれているのを見つけることができる。


 「欲求の解放」とはなによりも、欲求そのものの解放である。欲求を解放するとは、解放する欲求を生きること、対象を解放し、他者を解放し、自己自身をたえず解放してゆこうとする欲求を生きることである。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年→ちくま学芸文庫、2003年)


なお、<欲求を解放する>ということに対して、「野放図なエゴの相克」をまねくという反論がなされるだろうことを、真木悠介はあらかじめ視野にいれている。そのような反論をする人たちは、「人間が人間にたいして狼であるというホッブス的な幻想を、アプリオリに前提している」というように。(それにしても、ホッブスの著書『リヴァイアサン』に描かれるような、ホッブス的な世界観(「万人の万人に対する闘争」)は相当に根強く、人びとの内面にひそんでいるのだということを、ぼくは感じる。)

「節制や抑制や禁欲」が必要なことも生きているなかではあるけれど、それらには限界があるし、なによりも抑圧された欲求はどこかで別の抑圧に転化したり、爆発を起こすことにもなる。「サステイナブル(持続可能的)」ではない、とぼくは思う。

ぼくは、<欲求の解放>の道をえらぶ。

これは、個人としての生きかたでもある。「解放する欲求を生きること、対象を解放し、他者を解放し、自己自身をたえず解放してゆこうとする欲求を生きること」である。不羈の仕方で、<欲求の解放>を生きることである。