「資本主義の精神」について。- マックス・ヴェーバーが注目する<ベルーフ>としての職業。 / by Jun Nakajima

じぶんの生きかたをまなざし、考えるとき、ただ「じぶん」だけをまなざすのではなく、「じぶん」を歴史(時間)と地理(空間)のなかに位置づけることが必要である。どんな時代に、どんな場所に生きているのか。

歴史と地理を視野にいれてゆくとき、いろいろなキーワードがあるけれど、なかでも「資本主義」はとても大きなキーワードだ。

今日(5月1日)は「Labour Day」でここ香港も祝日であるが、そんな日に、資本主義とのかかわりのなかで「仕事」ということについて少しふれておきたい。ここのところ、大澤真幸(社会学者)の著書『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(角川出版、2018年)を読んでいて、「仕事に宗教的な意味合いが入ってくる」という興味深い文章に触発されたことも、ここで書く理由のひとつである。

「資本主義」と聞くと、経済合理性の極みのような響きを聞き取ることになるが、実際の事情はけっしてそれほど単純ではない。

大澤真幸は、古典中の古典といわれる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』における、マックス・ヴェーバーの説にふれながら、「仕事に宗教的な意味合いが入ってくる」ことについて語っている。ヴェーバーの説は、書名にあるように、プロテスタントの倫理のなかに資本主義の精神のベースがあるというものである。この説の「正しさ」は別としても、かんがえさせられる内容だ。


大澤真幸がヴェーバーの説のなかで焦点をあてたのが、ドイツ語の「ベルーフ」という言葉である。

この言葉は聖書に出てくる概念だという。世界史を学んだ人は知っているとおり、昔のヨーロッパでは、ラテン語の聖書しか使われていなかったところに、ルター(たち)がドイツ語に訳して、聖書をひろく一般に読めるようなものにする。そこで出てくるのが、「ベルーフ」という概念である。


 このベルーフのもととなるのは、ギリシャ語の、クレーシスという概念でした。このクレーシスは「神から呼びかけられる」という意味です。難しい言葉ですが、日本語では「召命」と訳されます。
 この「神からの呼びかけ」とは、具体的には各人の仕事、職業のことを指します。日本語の感覚ですと、「これは俺の天職だ」と言う時の「天職」に近い。何か自分に運命的に定められている、このために生まれてきたのだという仕事です。
 …
 この召命、ベルーフという言葉を、ドイツ語の聖書では職業という意味で使った。このことは非常に重要な意味合いを持った、というのがマックス・ヴェーバーの説です。

大澤真幸『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(角川出版、2018年)


「靴職人」の例を、大澤真幸は挙げている。

靴職人である場合、靴をつくることには、さまざまな意味がある。靴がない人につくってあげるといった利他的な行為、あるいは、自分が生きていく糧として靴をつくる、など。けれども、そこに「ベルーフ」の概念がはいってくると、それらの意味をこえて、神が「おまえは靴職人として定められている」と呼びかける感覚を得ることになる。つまり、こうして、「仕事に宗教的な意味合いが入ってくる」ことになる。

資本主義には、この感覚が非常に重要だったというのがマックス・ヴェーバーの説だというわけだ。

これらにふれて、資本主義の世界で「成功」するには仕事に<ベルーフ感>がないと難しい、と大澤真幸は語っているが、確かに「お金を儲けよう」だけでは到達できないところに、<ベルーフ感>のある仕事をしている人たちをつれてゆくだろう。

なお、現在でも、自己啓発系の本などでは「宗教の信仰」にふれられることなく(「神」としてふれられることもあるけれど)、この「召命」が語られているのを目にすることがある。たとえば、それは神からでなくとも、じぶんの内側から聴こえる「calling」というような仕方で語られるのである(資本主義の「アメリカ」について、思っている以上に「宗教」の理解が肝要であることを思う)。

ぼく自身は特定の宗教を信仰はしないけれども、「仕事に宗教的な意味合いが入ってくる」というときの、この「宗教的な意味合い」をより一般化されたかたちで理解することで、ヴェーバーの説を読み取ることができる。

なお、大澤真幸はこれにつづく次の節で、「資本主義になると、すべての日が聖日になる」と、ヴァルター・ベンヤミンの説(「宗教としての資本主義」)をひきあいにだしながら展開している。

ふつう、信仰がある人にとっては「日曜日」が大切で、日曜日には日常の仕事をしてはいけないところ、資本主義になると日常の仕事こそが宗教的行為のひとつになるというのが、ベンヤミンの語るところだというのだ。

つまり、すべての日が聖なる日であり、神から与えられたものとして労働するというように、資本主義のなかではなってゆくのだという。「職業」(ベルーフ)が、神から呼びかけられたものとしての行為であるというヴェーバーの説に重ねられることになる。

このような視点をふまえたうえで、「資本主義」を見つめなおしたり、人にとっての「職業」や働きかたを考えてゆくと、視点を得るまえとでは異なった仕方で対象が現れてくる。