「相手の母語で話すこと」について。- ネルソン・マンデラの言葉を起点に。 / by Jun Nakajima

 外国語を学ぶときの「学び方」について書かれた書籍のひとつに、Gabriel Wyner『Fluent Forever』Harmony Books, 2014(邦訳は、ガブリエル・ワイナー『脳が認める外国語勉強法』ダイヤモンド社、2018年)がある。原著の副題は「How to Learn Any Language Fast and Never Forget It」(速く言語を学び、決して忘れない方法)。

 だいぶ前に書籍を購入し、また「CreativeLive」というクリエイティブ系のオンライン教育プラットフォームでの彼のプログラムも同じ頃に手に入れていた。そのときはエッセンスに触れただけであったのだけれど、今回は「学び方のアップデート」ということをテーマのひとつとして取り組んでいるなかで、「外国語の学び方」にもきりこんでいこうとおもい、この本とオンラインのプログラムを再びひらいている。

 そうしてひらかれたこの本の第1章、「Stab, Stab, Stab」(邦訳は「『外国語をマスターする』とはどういうことか」と意訳されてある)と題された第1章のエピグラフのひとつに、次の言葉がおかれている。

 If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart. 
 - Nelson Mandela

 「相手が理解できる言語で話せば、相手の頭に届く。相手の母語で話せば、相手の心に届く」ネルソン・マンデラ(前掲の邦訳より)

 このネルソン・マンデラの言葉が、いつ、どこで、どのような文脈で、どのように語られた言葉なのか、ぼくは知らない。この言葉はどこかで聞いたようにもおもうのだけれど、よく覚えていない。ましてや、ネルソン・マンデラが発した言葉であることなんて、まったく記憶にもない。でも、このシンプルな言葉のなかに、他者の言語で話すことの本質が語られているようにおもい、ぼくはこの言葉に心を揺さぶられる。

 この言葉は、とりわけ、文化と文化の<あいだ>で生きてきた人たちの賛同を呼びおこす。南アフリカ出身のコメディアンでTVホストでもあるTrevor Noah(トレバー・ノア)が、ベストセラーとなった彼の著書『Born a Crime』(邦訳『トレバー・ノア 生まれたがことが犯罪?』英知出版、2018年)のなかで、この言葉に触れ、まったくそのとおりなのだと賛同している。「他の人の言語で話そうと努力するとき、たとえそれが基礎的なフレーズであろうとも、あなたはこう言っているのだ。「私を超えたところに存在する文化とアイデンティティをあなたがもっているのだということを私は理解しています。私はあなたを人間として見ているのです」と。」(『Born a Crime』。日本語訳はブログ著者)

 もちろん、ぼくも賛同するところである。だからといって、さまざまな相手の言語をぼくが話すことができてきたわけではない。ある程度まとまった会話ができることもあれば、挨拶や単語しか届けることができないこともある。相手の言語でしゃべりたいという衝動を抱きながらも、他の共通言語(例えば英語)で会話できてしまう便利さについつい頼ってしまうこともある。それでも、たとえわずかな単語だけであっても、相手の「心」に届くことがある。それら単語や言葉の表層ではなく、下層のところで伝わるものがあるからである。その下層で届けられるメッセージを、例えばトレバー・ノアは「私を超えたところに存在する文化とアイデンティティをあなたがもっているのだということを私は理解しています。私はあなたを人間として見ているのです」というように捉えている。

 当たり前のことだけれども、コミュニケーションは双方向性のものである。ネルソン・マンデラの言葉は「話す側から相手の側へ」という方向性のなかで語られているように、なによりも、話す側という主体に向けられた言葉である。話す側の主体の変容をうながしている。けれども、双方向性としてのコミュニケーションという視点をとりいれてみると、ここでの「変容」には、ただ単に相手の母語で話すというだけでなく、また相手の心に届くということだけでなく、相手の母語を話そうとするときには話す側の主体が自身の心をひらいてゆくということ、また相手の心に届けられた言葉はそこで折り返して、相手の言葉や表情や感情を通して自身の心に届けられること(またそれらが繰り返されること)のなかに、じぶんが「変容」してゆくところまでを射程している。相手の母語で話すということの楽しさや歓びはそんな変容のなかにふりそそぐのである。

 ガブリエル・ワイナーのオンラインプログラムの導入部分で、参加者がどの外国語を学びたいのか、またなぜその外国語を学びたいのかを問われ、それらの質問に応答する場面がある。フランス語であったり、日本語や中国語であったりと、参加者は質問に応えてゆく。興味深いのは、参加者の人たちが挙げる「外国語を学ぶ動機」であった。外国語を学ぶ動機としてもっともよく取り挙げられたのは、「現地の人たちとコミュニケーションをとりたい」ということであった。仕事のためだとか、これからの経済の発展が見込まれるだとか(ぼくが外国語大学の専攻を選ぶときに中国語を選んだ理由のひとつ)ではなく、ただ、現地の人たちと会話したいということなのである。旅をしながら出会う人たちと会話したい、カフェで話せたらいい。そうすることで、何かの役に立つわけではないけれど、そうすることに楽しみや歓びを感じるのだ。このオンラインプログラムが撮影されたのは2015年前後のことだとおもうから、翻訳機器や翻訳アプリの性能の飛躍的な向上の直前であったかもしれない。けれども、翻訳機器や翻訳アプリの性能の向上を見せている現在(2020年)の段階であっても、このプログラムの参加者たちは、外国語を学ぶ動機として、同じ動機を挙げただろうと、ぼくは勝手に推測している。現地の人たちと直接に会話を交わしたい、という動機を。

 それにしても、翻訳機器や翻訳アプリといえば、Googleの翻訳機能はすごい精度になりつつあるし(ぼくのブログの英語訳がけっこう読めることに先日びっくりしてしまった)、アップル社は先月(2020年9月)iPhoneのiOSアップデートで「Translateアプリ」を搭載させてきた。いまでは翻訳アプリを使えば、翻訳アプリを介して世界のいろいろな人たちと会話ができてしまう。東京のホテルのロビーで、海外からの旅行者の方がスマホの翻訳アプリを駆使して受付の人と「会話」していた風景をぼくは憶い起こす。そこでの「会話」には手間と時間はかかっていたけれど、意思伝達は順調にうまくいっているようであった。そんな風景を実際に見ていると、翻訳機器や翻訳アプリの性能が向上してゆくことはすごいことだし、とても役に立つものであることをおもう。

 ぼくもその恩恵を受けながら(Google翻訳を使ったりしながら)、他方で、別の方向に気持ちのベクトルがあらわれてくるのを感じる。最近、ぼくが「外国語の学び方」にきりこんでいこうとおもったことの背景のひとつには、翻訳アプリの機能性・便利性の飛躍的な向上があるのだと、ぼくはおもってみたりする。翻訳アプリの機能性・便利性の向上とともに、逆に直接に相手の言語で話すことの楽しさや歓びや大切さがぼくのなかで見直され、再評価されるているようなのだ。このことは、オンラインでの関係性が増えれば増えるほど、直接のフィジカルな体験がみなおされてゆくのと似ているようにもおもう。そのようなわけで、翻訳アプリの性能が上がれば上がるほどに、ぼくの「外国語を学ぶ意欲」はますます上がってゆくようなのだ。でも、「翻訳アプリを使うか、それとも実際に話したり書いたりしてゆくか」という二者択一ではなく、どちらも役に立てながら、そして「役立ち」という次元を越えて、言葉を相手の心に届けること(と同時に、じぶんの心をひらくこと)の<歓びと楽しさ>の方向に、外国語の学びを解き放ちたい。そこには、<じぶんの変容>ということがかけられているのだと、ぼくはおもう。