自身の「西洋的」な素養の起源。- 解剖学者・養老孟司の推測。 / by Jun Nakajima

 解剖学者の養老孟司に学ぶのは、20年以上まえに「唯脳論」というパースペクティブに視界がひらかれたとき以来、ぼくにとって心躍る経験である。その養老孟司が「本」の読み方について語るのを読むことも、また楽しいものだ。

 著書『世につまらない本はない』では、養老孟司の生の道ゆきで影響を与えた本として、哲学者デカルトの『方法序説』、それから精神医学者R.D.レインの『ひき裂かれた自己』が挙げられていたのは興味深かった。とりわけ、レインの著作を読んで、自身の心の問題が治ってしまった経験、また当時心理学に興味をもっていた養老孟司が、レインの著作を通じて、そこに心理学ではなく「論理学」を見出した経験は、ぼくの関心をひく。

 ところで、養老孟司が言うように、レインのよってたつ精神分析は「ある種、西洋的」である。つまり、「個人」が自己という世界を精神として打ち立てている。西洋=個人主義という見方は表層的だけれど、それでも、やはり「個人」という世界がつくられるのは「西洋的」な側面がある。西洋的自我である。

 レインの著作にこのようにふれながら、養老孟司はじぶん自身について、「個人的な考え方では非常に西洋的」だと語っている。そして、そこにはカトリックの学校に通っていたことが影響しているかもしれないと推測している。とはいえ、カトリックの影響が「信仰」として取り込まれたのではなく、「神学」という形ではいってきたのだと、養老孟司は語る。

 さらに、「世間」を探究し、「世間」というものを<外から見ること>のできた阿部謹也の境遇にも、思考をひろげている。

 …日本の世間の中にずっぽり浸かっている人はどうしても客観的になれない。逆に言えば、客観的になる必要がない。しかし、塀の上から見ると、中がある程度わかるのです。
 『「世間」とは何か』を書いた阿部謹也さんもそうだっと思う。
 彼も修道院か何かで育っている。やっぱりある年代にああいう西洋的なもの、特にカトリック的な、ああいう世界に触れると、社会に対する妙な客観性ができるのでしょうか。

 養老孟司・池田清彦・吉岡忍『世につまらない本はない』朝日文庫

 だいぶ以前に読んだ阿部謹也の著作を思いながら、なるほどとぼくは思う。また、「日本社会」への客観的かつ透徹した視野を同じように獲得したであろう人物として、やはり、山本七平(主著『空気の研究』など)を思わずにはいられない。

 養老孟司の語りに耳を傾けながら、ぼくは「じぶん」を対話におく。思えば、ぼくも、幼稚園でキリスト教にふれていた。べつにぼくの家族がクリスチャンであったわけではないし(じっさいには仏教であったけれど、そもそも信仰というほどには程遠いところだったと記憶している)、クリスチャンになろうとしたわけでもない。たまたま家からもっとも近い、徒歩5分ほどの幼稚園(創立は大正時代)が、キリスト教主義を掲げて幼児教育にとりくんでいただけである(インターネットで調べると、その歴史の深さを感じさせられます)。

 養老孟司と同じように、ぼくにも「信仰」が取り込まれたわけではなく(ぼくはいわゆる「信仰」をもたない)、やがて20年からそれ以上の歳月をかけて「社会学(宗教社会学)」のような仕方で、ぼくの学びの対象となっている。ただ、当時の断片的なイメージは記憶に残っているし、幼稚園に通っていたときにいただいた誕生日カードには聖書からのことばが記されているのを見ることができる。

 もしかしたら、ぼくも当時、まだ「自己」というかたちがその輪郭をあやふやにしていたときに、この「異文化」に何かの影響を受けたのかもしれないと考えてみることができる。「個人」として、日本社会にある距離をおいて客観的に見ようとする。そんな素養は、40年前のあのときに、種がまかれたのかもしれない。