コロナの世界でクラシック音楽を聴く。- 「世界の色」がなくなる出来事のなかでぼくは音楽を聴く。
最近ぼくはクラシック音楽をよく聴いている。音楽全般が好きではあるのだけれど、とりわけクラシック音楽を聴く。新型コロナの世界に生きるなかで、クラシック音楽がぼくの心奥に響くようだ。
最近ぼくはクラシック音楽をよく聴いている。音楽全般が好きではあるのだけれど、とりわけクラシック音楽を聴く。新型コロナの世界に生きるなかで、クラシック音楽がぼくの心奥に響くようだ。
クラシック音楽をじぶんで聴くようになったのは、アフリカを経験したころのことだった。内戦が終結したばかりのシエラレオネ。ぼくはその地で一年弱をすごした。2002年から2003年にかけてのことだ。ぼくは国際NGOの職員として難民・帰還民支援に携わっていた。
いまから振り返れば、シエラレオネでの経験は、ぼくの心身、あるいは精神といったものの組成が変わってしまうような経験であった。当時「世界」は混沌としていた。「ひとのためになる」という意志と情熱、国際支援のプロとしての責任、組織を支えているひとたちの思いなどに駆られるようにして、ぼくは無我夢中で仕事をしていた。国連の平和維持軍が展開していて情況は「落ち着いている」けれど、安全上また感染症の危険性と隣り合わせであったこともあって、心身がきわめて緊張してもいた。そして、そこの「現実」に、ぼくの精神は深いところで圧倒されていたのだと思う。もちろん日々ずっとそうであるわけではなく、いろいろなひとたちとの暖かい会話があり、互いに笑うこともあったわけだけれど(そしてそんな笑顔にぼくは生かされてもいたのだけれど)、表面上の「大丈夫さ」の底に、生死の境を生き、心身にさまざまな傷を負ってきたひとたちの苦難、あるいはそれらを客観的に示すような破壊の痕跡などの磁場がどうしても入ってきてしまっていたのだろう。仕事に無我夢中でうちこむあいだにも、ぼくは精神の海底に、なんともいえない暗闇のようなものを抱えてしまったようだ。
だからといって、ぼくの心身になにか「異常」が現れたわけではない。マラリアに(はじめて)感染したこと以外は、ぼくは心身ともにいたって健康であった。精力的に仕事をしていたし、毎日繰り広げられる「ドラマ」のなかで悪戦苦闘しながらも、同僚たちと共にプロジェクトをすすめていた。ただ、当時気にかかったのは、シエラレオネでの直接的な体験を、ぼくはなかなか「ことば」にすることができずにいたことだ。「…できずにいた」と過去形で書いてみるものの、それ以後も、それからいまでさえも、うまく「ことば」にすることができているわけではない。そもそも「ことば」にすることが必要なのかどうかもわからない。でも、ときおりぼくは、海底に沈んでいる漠としたものを「ことば」にしてみたくなるのだ。
音楽はそんな「ことば」を飛び越して直接に情感に届くものでもあるから、時間を待つことなく、ぼくの心身や精神はクラシック音楽の旋律に揺さぶられたのかもしれない。「どの」クラシック音楽がぼくを揺さぶったのか、ぼくは覚えていない。けれど、飛行機での移動時、怒涛の日々からの「束の間の退避」の時空間で、機内音楽のプログラムから、ぼくはクラシック音楽を選んでいたことをかすかに覚えている。聴いていると、心の深いところが落ちついてくる。音楽の旋律は人間社会に起こるあらゆることを包摂するかのように感じる。そんなところがきっかけになって、ぼくは徐々に、じぶん自らの選択でクラシック音楽を聴くようになっていった。
いわゆる「西洋クラシック音楽」は18世紀から20世紀の初頭にかけての200年ほどの間に展開された音楽だ。世界史をひもとけば、その200年は「戦争と革命」によって特色づけられる時代が重なっていることがわかる。クラシック音楽にはそんな時代背景が溶けこんでいる。あるいは、その逆かもしれないという思いがわきあがる。戦争のような「世界から色がなくなるような出来事」(加藤典洋)のなかで、世界の彩りをとりもどしてゆく通路として、クラシック音楽はあったのかもしれない。いずれにしても、そこには、戦前があり、戦中があり、戦後がある。そのような時代の心情に訴えかける旋律が流れている。
整体の創始者ともいわれる野口晴哉(のぐちはるちか、1911–1976)のエッセイのなかに、カザルスの話が出てくる。チェロ奏者として有名なカザルスである。野口晴哉は体操に音楽を使うことが珍しかった時代に、クラシック音楽を彼の整体指導に活用していた。クラシック音楽は野口晴哉の整体と切り離せないものであり、彼はカザルスの音楽の完成度の高さに比しながら、自身の技術水準の完成度を確かめたりもしていたほどだ。野口晴哉のエッセイ「カザルスの音楽に“この道”をみがいて」(野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年)のなかに、そのことが書かれている。第二次世界大戦の東京空襲によって家が火事のときも、野口晴哉は悟竹の屏風とカザルスのバッハ組曲のレコードだけは持ち出したことを、このエッセイのなかで記している。整体はもとより、野口晴哉の生にとって、クラシック音楽、とりわけカザルスの音楽の存在がどれほど大きかったのかを、このエピソードは物語っている。
少し視野をひろげると「アート」ということの存在を考えさせられる。音楽や絵画や彫刻や文学や書といった「アート」のことである。いまでこそ「アート思考」というような言い方で、ビジネスサイドからの「アート」の見直しがなされてきているけれど、それは有用性(役に立つこと)の次元からアートに光を当てた見方である。ぼくもその見方や感性、その方向性への展開(転回)に賛成であることを示しつつ、アートは現在語られるような「有用性の次元」を超えて、生きることそのものを支え、生きることの歓びであり、生きることそのものであるようなものである。
そんなふうに考えてくると、戦争による空襲という「世界から色がなくなるような出来事」のなかで、野口晴哉が救い出したのは、カザルスの音楽のなかに生きている、「世界に彩りをあたえてくれるアート」であったのだと、ぼくは思う。それはそのままで、じぶん自身の精神を救い出すことでもあった。
西アフリカのシエラレオネのあと、ぼくはアジアにもどり、東ティモールという21世紀最初の独立国に暮らし始めた。インドネシアのバリから飛行機で二時間ほどのところにある東ティモールはとても美しいところだ。牧歌的で平和な東ティモールにぼくが赴任したのは、独立後1年が経過した2003年。独立前まで紛争が25年以上にもわたってつづいていたわけで、ぼくが着いたときも「紛争後(戦後)」だ。国連の平和維持活動が継続され、日本の自衛隊も活動を展開していたころだ。
独立後は平和な情況がつづいていた東ティモールであったのだけれども、2006年にディリ騒乱が起きる。首都ディリ市内で銃撃戦も勃発し、東ティモール政府はオーストラリアを含む他国に治安の支援を要請するほどであった。ぼくを含めて在留邦人のほとんどが、騒乱の翌日にチャーター機でインドネシアのジャカルタに退避し、そこから日本に戻ることになった。日本に戻ってからも、ぼくは遠隔で現地事務所とやりとりをしながら、東ティモールで展開しているプロジェクトを継続した。東ティモールはとても不安定な情況のなかにおかれていた。
日本に戻るまで緊張のためか、ぼくはテンション高く行動していた。日本に戻ってようやく「日常」に適合しはじめたころ、ぼくは以前日本に住んでいたとき以上に、書店に立ち寄るようになった。駅構内の小さな書店にも、時間が少しでも空けば立ち寄った。ぼくはいつしか気づくことになる。「世界から色がなくなるような出来事」を体験してきたのだと。書店はぼくにとって「世界に彩りをあたえてくれるアート空間」であった。そこにはさまざまな「物語」が並べられている。文学だけでなく、実用的な本にも「物語」があるのが、ぼくには見えてくる。どんな本でもそこには物語がながれている。ぼくのなかで色が消えかけていた「世界」に、さまざまな物語が彩りをあたえてくれる。それはぼくの心を深いところで包んでくれるように感じられた。こうして、ぼくは東ティモールにふたたび帰ってゆくまで、いくどもいくども書店に立ち寄ったのであった。
本も、クラシック音楽も、絵画も、限定的な「有用性の次元」だけで出逢うのはもったいない。それらは思っている以上に、ひとの生を深い次元で支えているものである。それ自体が歓びであるようなものたちである。じぶんのほんとうに深いところからそれらを求めるとき、そんな感覚がせまってくる。
新型コロナの発生とそれに続く事象、それから「ぼくの世界」で起きてきた事どものなかで、どこか世界の色がなくなっていくような感覚が起きていたのかもしれないと、ぼくは思う。意識的にはまったくそんなことは思いもしていなかったのだけれど、いつもよりもクラシック音楽をよく聴くようになり、いつもよりも本をたくさん読むようになり、いつもよりも(本などを通じて)絵画にふれるようになるなかで、過去の記憶の断片を憶い起こしながら、そんなことをぼくは考える。
美術館での「体験」を通じて。- 美術鑑賞における「身ぶるい」の感覚。
昨年(2019年)日本に一時帰国する際に楽しみにしていたことのひとつに、美術館に行くことがあった。日本の美術館や美術展は数が多く、また見応えのある作品に出逢うことができる。
昨年(2019年)日本に一時帰国する際に楽しみにしていたことのひとつに、美術館に行くことがあった。日本の美術館や美術展は数が多く、また見応えのある作品に出逢うことができる。
だいぶ前に香港でモネの作品を見ることのできる展示企画があったのだけれど、限られた会場はひとでいっぱいで、また展示点数もわずかであった。ゆっくり鑑賞することもできないままに、ぼくは会場を後にした記憶がある。
日本の美術館・美術展は混んでいることもあるけれど、昨年、上野公園にある国立西洋美術館に訪れたときは、ゆっくりと、静かに、作品と対面することができた。ルノワール、モネ、ゴッホ、ピカソなどの作品に、一対一で、静かに向き合うことができる。これほど贅沢なことはない。
ところで、見田宗介先生(社会学者)は、「アートの人間学ー野口晴哉「美術随想」ノートー」という文章(『定本 見田宗介著作集X 春風万里』所収)のなかで、ムンクという人は「気の流れ」をよく描いている作家である、と書いている。「気の流れ」という表現は核心をついていると、ぼくは思う。有名な作品「叫び」などを鑑賞すると、そのことがよくわかる。
ムンクはパリ滞在中に印象派の画家たちから影響を受けている。ぼくが好きな作家、ゴッホやルノワールの作品はまさに「気の流れ」があふれでているような作品たちだ。ゴッホやルノワールの作品とじっさいに向き合うとき、ぼくはそこで「気の流れ」を全身で感じる。あたまではなく、身体のおくのほうに、ぼくは「ふるえ」を感じるのである。「身ぶるい」ということばが日本語にはあるけれど、このことばは、まさしくこのようなときのことを語っているのだ。
この感覚はなにも昔から感じていたことではない。ぼくが44歳を迎えた昨年にはじめて感じた感覚だ。本やインターネットで見てきた作品ではなく、じっさいに身体で「観る」という体験をとおして、ぼくは作品の「気の流れ」、そして身体のおくのほうからやってくる「身ぶるい」をはじめて知ったのであった。「体験」ということ、じっさいにこの身体で経験してみることの大切さを、ぼくは身にしみて感じたときでもあった。
こうして、「身ぶるい」の体験を身体にのこしながら、ぼくはこの方法を美術鑑賞に適用している。
絵画から受けとる「第一印象」を感じてみる。それから絵画の前に立つ。できれば、静かな空間で、一対一で向き合いたい。絵画の前で、角度と距離を変えながら鑑賞する。それから、距離をちぢめて、絵画の気の流れを感じる。じっさいに、こころの絵筆で、その気の流れと筆づかいをなぞってみる。ときおり、絵画がじぶんにせまってくる。そして、あのひとときが訪れる。身体のおくのほうから「身ぶるい」が生成するのがわかる。時空をこえて、作者(例えば、ゴッホ)を身近に感じる。
こんなふうにして、ただ作品と向き合うだけで、深い歓びを感じることができる。
スティーブン・フォスターという人物。- 『はじめてのアメリカ音楽史』を、音楽を聞きながら読む。
スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。
スティーブン・フォスター(Setphen Foster)。この名前を聞いて、この人物のことが思い浮かぶひとは、学校の授業でありとあらゆることを吸収していたか、名前を覚えるのが得意か、あるいは音楽史へと足をふみいれてきたか、いずれにしろ、自身でつくりあげる世界の体系のなかに「アメリカ音楽(史)」が組み込まれているひとたちだ。ぼくは、まったく聞いた覚えがなかった。
けれども、名前を知らなくても、この人物は(おそらく)きわめて多くのひとたちにとって、それなりに「関わり」のある人物である。ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)は、その関わりを簡明に解きあかしてくれる。
スティーブン・フォスター(1826-1864)は「ポピュラー音楽の元祖」。フォスターは「歌をポピュラーにすることに成功した最初のアメリカ人」であり、「歌をつくるのを職業にした最初のアメリカ人」であるという(前掲書)。
彼がつくった歌は、あまりにも有名だ。「故郷の人々(Old Folks at Home)」(別名「スワニー河」)、「おお、スザンナ(Oh! Susanna)」、「草競馬(Camptown Races)」、それに「ケンタッキーのわが家(My Kentucky Home, Good Night!)」。
曲名を見ただけではわからないかもしれない。音楽ストリーミングやYouTubeで検索して、再生してみればすぐにわかる。「あぁ、あの歌か」といった歌たちが、すべてフォスターの手になるものだとはびっくりである。フォスターは家庭歌謡の「パーラー・ソング(parlor songs)」を135曲つくったようだ。
バーダマンはつぎのように解説をしてくれる。
パーラー・ソングというのは、アイルランドやスコットランドの民謡の流れをくむ郷愁歌や上品な音色のラブ・ソングのこと。家庭の居間(パーラー)で演奏されたのでそう呼ばれました。フォスターは自分自身が作詞作曲したものを一般大衆に向けた(ポピュラーな)商品として出版した。フォスターの時代にはまだレコードは存在していませんから、彼は印刷した楽譜を売ることで生計を立てていた。
ジェームス・バーダマン/里中哲彦『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)
もちろん、フォスターがそのように生きていけたのは、アメリカの経済社会状況が変遷してきたことにもよる。アメリカは独立戦争と米英戦争を経てイギリスから自立し、その流れのなかで「都市」や「市場」がひらけてゆく。こうして商業娯楽の道がひらかれてゆく。
それにしても、おもしろい。『はじめてのアメリカ音楽史』は読んでいてこころの躍る本だ。でも、この本の第1章を読んでいるあいだ、フォスターの音楽をApple Musicで聴いたりして、だいぶ脱線しながらの読書になってしまう。以前、村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)を読んでいたときも、たしかそんな感じだった。村上春樹と小澤征爾の話に耳を傾けながら、そこで語られる音楽を聴く。そんなふうにして、音楽についての本を楽しむ。
ところで、著者(対談者)のバーダマンは、アメリカの国家「星条旗」にはその前身があることを教えてくれる。「天国のアナクレオンへ(To Anacreon in Heaven)」という曲である。なんと、この歌は酒飲みたちの歌であったという。その歌を「国家」へ昇格させてしまうアメリカも、すごい。
民謡「Row, Row, Row Your Boat」のこと。- 19世記のアメリカの時空間へ。
ぼくのブログのなかでよく読まれているブログに「民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。」があります。2018年の9月に書いた文章ですが、2020年になったいまも、よく読まれているようです。
ぼくのブログのなかでよく読まれているブログに「民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。」があります。2018年の9月に書いた文章ですが、2020年になったいまも、よく読まれているようです。ありがたいことです。
この民謡「Row, Row, Row Your Boat」をとりあげた最初のきっかけは、この民謡の歌詞の最後に「life is but a dream」という歌詞が出てくるのですが、そのことばについていろいろとかんがえていたことにあります。
この歌詞に触発された真木悠介(社会学者)がじぶんの生を表現するものとしてこころのなかでつぶやいてきた「人生という旅のことば」(life is but a dream. dream is, but, a life)。ぼくの好きなことばのひとつですが、このことばの源泉をさがしていて、この「Row, Row, Row Your Boat」に辿りつきました。子どもたちが学校などで歌う歌だというのはあとで知ったのですが、ぼくは小さい頃に学校で歌った覚えはありません。でもたしかに、英語圏などではよく歌われているようでした。
子どもたちに歌われているとのことですが、はたして「life is but a dream」ということばの「意味」はどのように捉えられているのだろうか。ちなみに、ここでの「but」は、英語の試験でもよく出てくるように「only」の意味合いです。つまり、「人生は夢でしかない」ということ。このことばが歌詞の最後に突如あらわれるのです。子どもたちがいきなり「人生は夢でしかない」と言われても、いったいなんのことかわからないだろう、とおもうわけです。
でも、小さい子どもは「意味」によってこの「世界」を捉えないのでないか。そのように、ぼくの内なる声が語りかけてきました。子どもたちは「世界」をもっともっと「感覚的」に捉えている。ぼくはそう思います。ぼくが子どものころを憶い出しても、歌を歌いながらはたしてそれらの「意味」を正確に捉えようとしていたかというと、けっしてそんなことはなかった、とおもいます。
だから「life is but a dream」ということばも、子どもたちにとっては「感覚的」に、とうぜんのことのように捉えられている。そんなふうにおもうわけです。
ところで、この民謡の成り立ちは明確にはわかっていないようです。Wikipedia(英語版)によると、アメリカのミンストレル・ショー(大衆芸能)から生まれ、現在確認できるところでは、1852年に初期の印刷物(※楽譜)が確認されているといいます。作曲と作詞が誰によってなされたのかもわかっていません。
「ミンストレル・ショー(Minstrel Shows)」とはアメリカで19世紀半ばに誕生した大衆娯楽の形態であるとのことです。Wikipediaの英語版・日本語版ともに、結構詳細に記載されています。詳細を読んではいなかったのですが、ジェームス・バーダマンと里中哲彦の対談からなる『はじめてのアメリカ音楽史』(ちくま新書)を読んでいたら、「ミンストレル・ショーとは何か」にふれられていました。
白人の役者が顔を黒く塗って芸(歌や踊り、劇など)を披露するという、黒人の軽蔑があからさまな芸能ではあったものの、アメリカの「ミュージカル」へとつながる力線をもっているなど、歴史的には切り捨てることができないものであったようです。
話を民謡「Row, Row, Row Your Boat」へ戻すと、この民謡は上述のミンストレル・ショーと呼ばれた大衆芸能において生まれてきた歌曲であったというわけです。
さらに、『はじめてのアメリカ音楽史』においてバーダマンは、当時は歌がお金になるなんて誰もおもっておらず、著作権といった概念もなかったから、「作者不明」という曲がたくさんあるんだということを、語っています。おそらく、「Row, Row, Row Your Boat」もそのような曲群のなかに生まれた曲だったのでしょう。
それにしても、19世紀のアメリカで、「Row, Row, Row Your Boat」がいったい、どのようにつくられ、どのように歌われ、どのように捉えられていたのか。どんな心情のなかで「life is but a dream」が歌われたのか。ぼくの想像は19世紀のアメリカのひとびとへと投げかけられます。