「生き方の開拓者 Social Pioneer」と <道に迷うこと>。- リンダ・グラットン、キャンベル、ソルニットからソロー。
「人生100年時代」という認識をひろめてゆくきっかけをつくった経済学者リンダ・グラットンが、その契機となった本を出版したのち、次にとりかかった仕事のなかで使っている用語、「Social Pioneer」(社会的パイオニア、生き方の開拓者)。
🤳 by Jun Nakajima
「人生100年時代」という認識をひろめてゆくきっかけをつくった経済学者リンダ・グラットンが、その契機となった本(『The 100-Year Life: Living and Working in an Age of Longevity』)を出版したのち、次にとりかかった仕事(『The New Long Life: A Framework for Flourishing in a Changing World』)のなかで使っている用語、「Social Pioneer」(社会的パイオニア、生き方の開拓者)。
これからは、だれもが、その生き方において「開拓者」でなければならない。これまでのように、過去のだれかが舗装した道をただただ進んでゆくのではなく、荒野のなかで「開拓」してゆかなければならない。定年を見越した、人生の三段階「教育→仕事→定年・定年後」という単線的な道のりは、標準なのではなく、さまざまな生き方のうちのひとつにしかすぎないという方向に、のりこえられてゆかなければならない。ぼくはそうおもいます。
生き方を開拓してゆくということ。つまり、<じぶんの道>を生きてゆくということをおもうとき、神話学者ジョセフ・キャンベルの「ことば」が憶いおこされます。
Follow your bliss.
The heroic life is living the individual adventure.
There is no security
in following the call to adventure.
Nothing is exciting
if you know what the outcome is going to be.
To refuse the call
means stagnation.
What you don’t experience positively
you will experience negatively.
You enter the forest
at the darkest point,
where there is no path.
Where there is a way or path,
it is someone else’s path.
You are not on your own path.
If you follow someone else’s way,
you are not going to realize
your potential.
Campbell, Joseph. A Joseph Campbell Companion: Reflections on the Art of Living (The Collected Works of Joseph Campbell) . Joseph Campbell Foundation. Kindle Edition.
森深くにわけいってゆくとき、そこには「道 path」がない。道があるのだとすれば、それはだれか他者の道なのだ。キャンベルはこうして、<道のない道>を歩いてゆくこと、そうすることで、じぶんの可能性をひらいてゆくことの大切さを語っています。
レベッカ・ソルニットの、美しいエッセイ「Open Door」(『The Field Guide to Getting Lost』所収)では、<道に迷うこと>にむかって、直接的なまなざしが投げかけられています。じっさいの登山中に「道に迷うこと」から、さらには「生きてゆく道のりに迷うこと」まで、ソルニットの詩的な手触りのする文章が、「迷うこと」の森へと分け入っていきます。
とりあげられている単語に分け入ってみると、そこでは違う景色が見えてきます。ソルニットはここで「lost」という単語の語源にさかのぼります。
The word “lost” comes from the Old Norse los, meaning the disbanding of an army, and this origin suggests soldiers falling out of formation to go home, a truce with the wide world. I worry now that many people never disband their armies, never go beyond what they know.
Solnit, Rebecca. A Field Guide to Getting Lost (pp. 6-7). Penguin Publishing Group. Kindle Edition.
「lost」という言葉はもともと、「軍隊を解散すること」を意味していたこと、そして、この語源が指し示してくれるのは、「兵士たちが編隊から散り散りになって家に帰り、広い世界と休戦すること」なのだと、ソルニットは書いています。ソルニットはこの言葉を、この「社会」のなかで「戦う」現代人に向かって投影し、現代人たちがただただ戦いつづけているだけで、じぶんたちの知っていることの先へとじぶん自身を投じていかないことを杞憂しています。
「It is a surprising and memorable, as well as valuable, experience to be lost in the woods any time,…」
『Walden』でソローが書いているこの文章を引用しながら、ソルニットは、「どのように迷うのか」という問いへと向き合っています。
ニュージーランドの森で、ずいぶんと「迷った」体験を、ぼくはおもいだします。ぼくが二十歳のころのことで、ひとり、ニュージーランドの自然のなかに身を投じていたときのことです。森や山には一応「コース」が設定されていて、地図があり、また道ゆきの樹々には「目印」が打たれていて、それらを頼りに、歩みをすすめていきます。けれども、「コース」といっても、「道」がはっきりしているところもありますが、その「道」が消えて獣道になるところもあります。そのなかでは樹々に打たれている小さな「目印」を探しながら前にすすんでゆくのですが、場所によっては、それら目印が見つかりません。前に前にすすんでも一向に目印が見えないとき、この方向ではないなと気づきます。でもそこからどこまで引き返したらよいのか、あるいはどの方向に引き返したらよいのか、わからなくなるときがあります。
ひとは「迷い方を知らない」と、ソルニットは書いています。ぼくも、はじめのうちは、迷ったことに気づいて、パニックを起こすことがありました。森深くに分け入り、まわりに誰の姿も見えず、目印も見つからない。コンパスは持っていたけれど、どの方向へ抜けてゆけばよいのかわからない。重いバックパックを背負いながら、ぼくは必死で目印を探しに、もと来たであろう方角へとすすんでいきました。こんなことが幾度かつづくなかで、ぼくは次第にパニックを起こすことなく、森の声たちに耳をすまし、光を投げかける太陽にアドバイスをもとめ、川の流れの気配をかんじながら、すすむ方向をさがすようになりました。森のなかで「迷うこと」の体験が、のちのぼくの生のなかで「貴重な」経験であったのだと、ソローを引用するソルニットの文章を読みながら、ぼくはおもうようになりました。
人生という道を歩みながら、ひとはじぶんのなかに「軍隊」を編成し、ここかしこで戦闘をつづけていきます。ときに敗れ、ときに戦果をあげながら、ときに傷つき、そしてときに一息つきながら、それでも戦闘はやみません。でも、ときに、どうしようもないほどに、「軍隊」がひどく打撃をうけて、意図しないうちに、戦闘員たちは散れぢれになることがあります。これまでの戦略や戦術を遂行しつづけようとおもっても、うまくいかない。人生の「道」で、立ち止まらざるを得なくなり、「道」は道でなくなり、目印も見えなくなります。道を失いながら、じぶんを失ってしまう。じぶんの内面が空っぽになったようにかんじることもあります。けれども、「lost」の語源に本質が隠されているように、この道を失う体験のなかに、もっともっと広い世界との休戦が存在しています。
「道」があるところは、他者たちの道です。だれかが通ってきた道であり、あるいは、だれかがじぶんに「教えてくれた道」です。キャンベルのことばのように、そこでは、じぶんの可能性は閉じられたままです(少なくとも完全にはひらかれていないままです)。森深く、道のない道にふみだしてゆくとき、ひとは、だれのものでもない、<じぶんの道>を歩みはじめることになります。
「生き方の開拓者」であるということは、迷うことでもあります。開拓ということの手前で、あるいは開拓と同時に、「迷う」ということがあります。これまでは、家族や世間や社会が「教えてくれた道」を歩んできていたところ、その道が消えて、迷うことになります。でも、そこから、道ではない道を歩んでゆくことになります。そして、これからは、だれもが、「生き方の開拓者」となってゆく時代、あるいはそのような道のない道に投げ出されてしまう時代となっていきます。ひとは喪失感を抱えるかもしれませんが、「道のない道」を、心をもって歩んでゆくことで、気がつけば<じぶんの道>が現れ、キャンベルのいう「じぶんの可能性の世界」がひらかれてゆくのだということです。
しあわせのかたちを他者におしつけない。- 他者に強いられるしあわせのかたちを否定する。
しあわせのかたちをおしつけない。
しあわせのかたちをおしつけない。
このことは「わかっている」ようでいて、実はそれほどすんなりとできているわけではなかったりする。
他者(たとえば子ども)がしたいことを好きなようにやらせる。このことは「したいこと」(しあわせ)をおしつけていない、とも言えるけれど、「したいこと」が日々のなんでもないことならまだしも、それが社会的に見て大それたことなどであると、「ちょっと待った」の言葉や視線やプレッシャーを放ってしまうことがある。
つまり、生きかたの「大枠」のかたち(こう生きてゆけば「しあわせ」になる)をおしつけてしまっているわけだ。その大枠のなかであれば、言動は「自由」でいられるのだけれども、この大枠それ自体にふれるような、べつのしあわせのかたちがあらわれると、つい、「(それはよくないと)言いたくなる」のである。
この「言いたくなる」は、他者にたいするアドバイスのときにも、気をつけなければならない。ひとに「人生相談」をもちかけられたときなど、ついつい「言いたくなる」ことがあるものである。
他者の生きかたの「大枠」のかたちを理解しないままにアドバイスをするとき、じぶんがよしとする「しあわせのかたち」を(知らないままに)前提としてしまうのだ。
また、逆に、じぶんにとってのしあわせのかたちを生きることも、すんなりとできるものではなかったりする。そうしたいと思いつつ、一歩足を引いてしまうこともあるものである。
ニーチェの生涯を「ある困難な稜線を踏み渡ろうとする孤独な試み」であったとしながら、見田宗介(社会学者)は名著『社会学入門』(岩波新書、2006年)のなかで、ニーチェのこの困難な「二正面闘争」についてのバタイユの思考(バタイユ『至高性』)にふれている。
「二正面闘争」とは、第一に<失われた至高性を回復すること>、それから第二に<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>である。バタイユはそのように、ニーチェを捉える。
この二つ目の闘争、<他者に強いられる至高性の一切の形式を否定すること>が、しあわせ(至高のものごと)のかたちをおしつけられたときの戦線である。
じぶんのしあわせ(ほんとうのしあわせ)のかたちを生きながら、また、他者にたいしてそれを強いないこと、おしつけないこと。
「標準」の時代から、「多様性」の時代への移りかわりということは、このような生きかたやありかたと整合しやすいということである。
整合しやすいところでありながら、しかし、まだ「標準」の時代、生きかたやありかたの標準、さらには「人生という物語」の標準が強い引力をもっていた時代の思考や感覚や価値観がひきつづき「尾」をひいている。