総論, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 成長・成熟 Jun Nakajima

「人生のreactivist」から「人生のactivist」へ。- 人生が積極性に「転回」するところ。

Tim FerrisのPodcastを聞いていたら「reactivist」から「activist」へという言葉が彼の口から出てきた。面白い言い方だなと思う。...Read On.

Tim FerrissのPodcastを聞いていたら
「reactivist」から「activist」へと
いう言葉が彼の口から出てきた。
面白い言い方だなと思う。

人はとかく、「reactive」になりやすい。
何かが起きてから、それに「リアクショ
ン」を起こす。
常に「反応的」になってしまう。

でも、この「現代という時代の過渡期」で
は、「activisit」のごとく、積極的な、
世界への働きかけが重要だ。
(「活動家」ということだけれど、ここ
では、ぼくは、政治的な意味合いは
「脱色」している。)

そして何より、自分の人生に対して
「reactivist」ではなく、
「activist」であることだ。

Podcastを聞きながら走っていて、
そんなことを考えていたら、
ぼくが修士論文を書いていたときの
こと
を思い出した。

経済学者アマルティア・センの一連の
仕事を追っていくなかで、ぼくはひとつ
のことに気づいた。

それは、センの人生の前半の仕事は、
どちらかというと「アンチテーゼ的な
仕事」であったということ。
つまり、これまでの厚生経済学への
批判を展開していたのだ。

センは、その後、特に「潜在能力アプ
ローチ」という自身の理論を軸にして、
積極的な仕事を展開していく。
言い方を変えると、積極的な転回が、
「潜在能力アプローチ」に結実していく。
いわば「アンチテーゼ」から「テーゼ」
への移行であった。
(ちなみに「潜在能力アプローチ」は
国連開発計画の「人間開発指数」の
理論的バックボーンだ。
経済成長だけではない成長の「評価
指標」を提示した。)

「アンチテーゼ」から「テーゼ」へ。

このことを、違った仕方で、ぼくは
村上春樹の仕事から学んでいた。

村上春樹は、アメリカに滞在中、河合隼雄
との対談の中で、
「デタッチメントからコミットメント」
ということを話している。

村上春樹の仕事が、社会からデタッチして
いくものから、社会にコミットメントして
いくものへと変遷していく。
(加藤典洋の著作『村上春樹は、むずかし
い』も、このあたりのことを書いている。
すばらしい村上春樹論であり、内容はそれ
にとどまらない。)

村上春樹の初期作品から読んでいくと、
そのことはよくわかる。

「reactivist」から「activist」へ。
「アンチテーゼ」から「テーゼ」へ。
「デタッチメントからコミットメント」へ。

世界や社会や他者、そして(深い意味で)
自分に向けられた「否定」「批判」など
が、ある時点で、積極的に、転回される。
「否定」や「批判」が、新しい理論や
考え方、生き方を軸に、積極性に転回され
ていく。

ぼくも少なからず、そんなプロセスを
生きてきた。

これから、もっと積極的に、転回して
いきたい。

「人生のactivisit」として、積極的に。

それは、きっと、社会へのコミットメント
をはらむ転回だ。

 

追伸:
黄昏時の「オレンジ色の街灯」は、
ぼくの記憶から、いろいろな風景を
思い出させる。

例えば、東ティモール。
エルメラ県の山(コーヒー農園は
山間地にある)から首都ディリに
向かう中で、ぼくが乗っている車両は、
オレンジ色の街灯の中を降りていった。

ここ香港で走りながら、「オレンジ色
の街灯」が、ぼくの頭上で静かに灯り、
その風景の中で、ぼくは上記のような
ことを考えた。

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ブログを2ヶ月毎日書いて気づいた、3つのこと - 「坂の踊り場」で考えたこと。

ぼくは、ブログを始めて、この2ヶ月間、毎日書いてきた。「坂の踊り場」のような現在の位置で、気づいたことを3つ書いておきたい。...Read More.

ぼくは、ブログを始めて、この2ヶ月間、
毎日書いてきた。

「坂の踊り場」のような現在の位置で、
気づいたことを3つ書いておきたい。

 

(1)生きていくことのリズム

「毎日書く」ということは、生活の
リズムをつくっていく。
毎日運動すること(例えば、走ること)
に似ている。

リズムは、そこに、とても小さい
けれど「足跡」を残していく。
書かれたものが、目に見える形で足跡
を確かに残す。

このリズムと足跡は、日々、自分という
軸をつくり、保持し、修正し、という
果てしない作業において、有益である。


(2)「アンテナ」が世界に放たれる

書くテーマの「アンテナ」が、できる。
世界をみる眼がするどくなる。
些細なものごとにも、物語をみるよう
になる。
学ぼうとする姿勢が強化される。

これは、思っていた以上に大きな効果
であった。
これまでも、いろいろとアンテナを
張り巡らしてきたけれど、さらに
強化されたように感じている。

 

(3)短期・中期・長期のテーマ

ブログは、短期の仕事の「小分け」
のようなものだ。

社会学者の大澤真幸は、著書『考える
ということ』の中で、考えることの
テーマを、短期・中期・長期に分けて
いる。

 

 長期のテーマは…一生考え続ける
もので、したがって、十年以上の思考
の蓄積を必要とする。
 中期というのは、極端に大部では
ない、普通の厚さの一冊の本をイメー
ジするといいだろう。…
 短期というのは、一年未満の仕事で
ある。数ヶ月とか、あるいは来月まで
の締切とか、ときには一週間くらいの
場合もある。

大澤真幸『考えるということ』
(河出書房新社)

 

ブログは短期の仕事の中の、さらに
小分けのように、ぼくには感じる。
ときには、ブログの一節が、もっと
大きな仕事につながる予感を感じさせる
こともある。

ぼくは、ブログを書くことと並行する
ように、中期のテーマを書いている。
ブログはその源泉ともなっている。

大澤真幸がのべているように、
短期のテーマは長期のテーマにつなが
っている。
長期のテーマは「一生のテーマ」である。
ブログは一生のテーマを追いかける、
その一歩でもある。


そして、これからは「個人ブランド」の
時代である。
その一つの土台と基地が、ホームページ
である。

それは「住まい」のようなものでもある。
「住まい」は生き方そのものでもある。
自分の住まいをつくり、他者をそこに
招き入れる。
そして、そこから「何か」が生まれていく。

そんなことを、2ヶ月間、毎日書いてきて、
ぼくは考えている。

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『包括的な「開発と自由」論」(仮名) - 15年前の「未完」の作業をひきついで。

15年ほど前の2002年1月、ぼくは大学院で修士論文を提出した。タイトルは、『開発と自由~アマルティア・センを導きの糸に~』である。

15年ほど前の2002年1月、
ぼくは大学院で修士論文を提出した。

タイトルは、
『開発と自由~アマルティア・センを導き
の糸に~』である。
経済学者アマルティア・センの研究を題材に、
途上国の開発や発展を「自由」をつくりだす
という視点でとらえなおす試みである。

執筆作業の最後の2週間は、
昼も夜もわからなくなるくらいに
自室で黙々と書いていた。

でも、一つ確かに言えることは、
ぼくは、この修士論文を、書きたくて書いた。
書く必要性があって書いたことである。

大学院の修士課程を修了する必要はあった
けれど、ぼくはそれ以上に、この論文を
書く必要があった。

15年ほどして、その修士論文を読み直す。

気づいたのは、次の通りである。


(1)生き方の基盤づくり

ぼくの生き方の「基盤づくり」となった
ことが、まず挙げられる。

論文完成後の15年にわたる、ぼくの生の
方向性をしめしていてくれたことを、感じる。

納得のいくまで書き上げた文章は、
必ず、ぼくたちの人生を豊饒にしてくれる。

基盤づくりは、大別すると二つの点に
おいてである。

① 内容
② 論文執筆の準備とプロセス

「自由」に関する内容はもとより、
執筆の準備とプロセスである。
その準備とプロセスで得てきたものが、
ぼくの内面の奥に、しずかに積み上げら
れてきたのである。

 

(2)原的には今も変わらない理論

理論は、今読んでも、今の考え方と変わ
っていないことに気づく。

15年の歳月をかけて、ぼくは「経験・体験」
を自身に通して、生きてきた。
それでも、基本の考え方は変わっていない。

ただし、それが「実践」にどこまでうつせ
てきたかは、綿密な分析作業が必要である。
これは、今後のぼくの課題としたい。

しかし他方で、世界は、この15年において
次の時代に向けて大きく変わってきている。

グローバル化は圧倒的なスピードで拡大して
きている

情報技術の進展も、多くの人が予測できて
いなかった。
人工知能は、すでに世界を変えはじめている。
アジアの発展はめざましく、しかし今度は
国単位ではない貧富の差が拡大してきている。

視点を歴史にうつすと、Yuval Harari氏が
いうように、飢餓・伝染病・戦争は、管理
可能な課題に移行をしてきたのが人類である。


そして「現代」は、社会学者の見田宗介が
いうように、「近代」の最終局面にある
<過渡期>としてとらえられる。

次なる局面に、どう移行していけるだろうか。
 

(3)「終章」の存在

修士論文の終章は、ぼくに次の「課題」を
あたえていたことに気づく。

終章は「包括的な『開発と自由』論(仮名)
に向けて」と題されている。

そのようなことを、ぼくはすっかり忘れて
いた。

時を経るうちに、記憶は終章の存在を、
ぼくの無意識に、そっとおさめていたのだ。

村上春樹の著作が、第二部でいったんおわり
続編である第三部がでるかでないのかわから
ないのとは異なり、ぼくは、明確に、次の
課題を記載していたわけだ。

ふと修士論文を見たくなったのは、
もしかしたら、この終章がぼくを呼んでいた
のかもしれない。

ぼくの無意識がなんらかの理由で、
この記憶を意識下におくりだしたのかも
しれない。


人生には、ぼくたちは多くの「未完」を
無意識にしまってあるのかもしれない。

無意識の地層で、ときにゆっくりと眠り、
ときにゆっくりと熟成されていく。

そして、ときに、なんらかの磁場のなかで
それらは意識に浮上してくる。

だから、ぼくは、意識下におくりだされた
この記憶を頼りに、この「終章」を、
なんらかの仕方でひきついでいく方途を
さがしはじめている。

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Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。

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「人間の歴史」を巨視的に視ること - 見田宗介の明晰な理論

「人間の歴史」を巨視的に視ること。
日々の生活や明日生きていくことには
関係なくみえる。

でも、そのことは、ぼくたちの
「生き方」をきりひらいていくため
にも、とても大切なことである。
今日のパンをつくってはくれない
けれど、ベネフィットは大きい。

「不確実性の時代」のなかで、
日々のメディア情報の渦のなかで、
巨視的な視野を獲得しておくことは
精神をおちつかせてくれる。

Yuval氏の著作、
『Sapiens』と『Homo Deus』は
そんな効果もあたえてくれる。

巨視的な視野を獲得していく上で、
見田宗介先生の理論は極めて明晰で
ある。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
に収められている論考、
「人間と社会の未来 - 名づけられない
革命 -」は、とてもパワフルである。

そのなかで展開される論の内の二つは
次の通りである。

●人間の歴史の五つの局面。現代の意味
●現代人間の五層構造

「人間の歴史」は、五つの局面から
なっている。

  1. 原始社会(定常期)
  2. 文明社会(過渡期)
  3. 近代社会(爆発期)
  4. 現代社会(過渡期)
  5. 未来社会(定常期)

見田先生は「現代」をこのように
明晰にとらえている。

 

…「現代」と呼ばれる社会は、この
「近代」の爆発の最終の位相である
という力線と、新しい安定平衡系に
向かう力線との拮抗する局面として、
未知の未来の社会の形態へと向かう、
巨大な過渡の時代としてとらえておく
ことができる。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)


見田宗介先生はこれに照応する
ように、「現代人間の5層構造」を
図示している。

④現代性
③近代性
②文明性
①人間性
⓪生命性

その上で、大切なものに焦点をあて
るように、ていねいに説明を加えて
いる。

 

人間をその切り離された先端部分
のみにおいて見ることをやめること、
現代の人間の中にこの五つの層が、
さまざまに異なる比重や、顕勢/
潜勢の組み合わせをもって、
<共時的>に生きつづけている
ということを把握しておくことが、
具体的な現代人間のさまざまな事実
を分析し、理解するということの
上でも、また、望ましい未来の方向
を構想するということの上でも、
決定的である。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)


見田先生は、このことばを、
言い方をかえながら、繰り返すよう
な仕方で、ていねいに添えている。

ぼくたちは、日々、「人間をその
切り離された先端部分のみ」で
みてしまう。

この警鐘を、この書が出版される
数年前に、ぼくは見田先生の講座
で耳にしていた。
そのときは「素描」のような仕方
で論を展開されていた。

ぼくは、その後、西アフリカの
シエラレオネ、東ティモール、
そして香港と移住していくことに
なる。

世界のさまざまな人たちに出会い、
一緒に喜び、一緒に苦闘し、
一緒に悲しみ、ときには互いの
フラストレーションをぶつけあう。
そのなかで、自分の感情から、
一歩距離をおくとき、ぼくは
この「現代人間の五層」を
思い出してきたのだ。

 

見田先生は、この文章につづき、
「名づけられない革命」の
素描的な記述をしている。

Yuval氏の新著『Homo Deus』
の副題「A Brief History of
Tomorrow」にある「明日の
歴史」を、この「名づけられない
革命」に接続することを、
ぼくなりに思い巡らしている。

「名づけられない革命」が
「明日の歴史」を形づくる、
ひらかれた未来を想像しながら。

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Yuval氏の新著『Homo Deus』を読みながら、ふと気づく。

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』を読む。
副題は「A Brief History of
Tomorrow」。

Yuval氏の前著『Sapiens』
(邦訳は『サピエンス全史』)に
続く、名著である。

著作『Homo Deus』は、
サピエンス(人間)が3つのことを
克服してきたことから始まる。

●飢饉・飢え(famine)
●ペスト(plague)
●戦争(war)

もちろん、飢えや伝染病や戦争が
完全になくなったわけではない。
世界では今も、それらに苦しむ
人がいる。
ぼくも、そのような境遇に置かれた
人たちを、国際協力の形で支援した
ことがある。

ただし、Yuval氏は、これらが
「manageable challenge」に
なったことに焦点をあわせる。

現代は、一部を除き、これら3つが
日々の生活に隣り合わせにあるわけ
ではない。

確かに、人間は、これら3つを
ある意味において克服したのである。

この第1章を読みながら、ぼくは
ふと気づいたのである。

「戦争」は、この「manageable
challenge」に変わっていて、これは
歴史においては大きな意味を持つこと。
ぼくの視野が狭くなっていたこと。

ぼくは「戦争」が幼少期の頃から
嫌いである。
シエラレオネや東ティモールで、
戦争の傷跡も間近に感じてきた。
現場でできることをしてきた。
でも、「人間の歴史」という歴史の
長いスパンの中で見ることができて
いなかった。

「人間の歴史」の中では、
今の時代は「特異な位置」にいる。
このことを、長い時間軸の中で、
考えさせてくれる書籍である。

何かの可能性だけでなく、
何かの「予感」に充ちた書籍である。

ぼくは、自分のなかで、手につかめ
そうな「予感」を感じている。
自分の「何か」につながる予感を。

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「見田宗介=真木悠介」の方法 -「ほんとうに大切な問題」

見田宗介『社会学入門 - 人間と社会の
未来』(岩波書店)の「序」は
感動的な文章である。

「社会学とは」について書かれている。
専門科学(経済学、法学、政治学等)
の「領域」をまたいで、「領域横断的」
な学問として、社会問題に向き合う。



 社会学は<越境する知>…とよばれて
きたように、その学の初心において、
社会現象の…さまざまな側面を、
横断的に踏破し統合する学問として
成立しました。…
 けれども重要なことは、「領域横断
的」であるということではないのです。
「越境する知」ということは結果で
あって、目的とすることではありません。
何の結果であるかというと、自分にとって
ほんとうに大切な問題に、どこまでも
誠実である、という態度の結果なのです。
 
 

それから「自分自身のこと」として
見田宗介先生の社会学との関係が
つづられている。

 

わたしにとっての「ほんとうに切実な
問題」は、子どものころから、
「人間はどう生きたらいいか」、
ほんとうに楽しく充実した生涯を
すごすにはどうしたらいいか、という
単純な問題でした。

見田宗介『社会学入門』(岩波書店)

 

「ぼくのこと」で言えば、
(今振り返ると、ということだけれど)
小さいころから、次のような問題系が
ぼくという人間を駆動してきた。

  1. 生きる目的や人間の本質といった「人間」の問題系
  2. 戦争などの争いのない「社会」の問題系

高度成長期後の日本において、ぼくは
生きにくさを感じ、疑問をもっていく。

(後年、この危機状況は「社会問題」で
あったことも書籍から知る。ぼくだけ
ではなかったということ。「ぼく」の
問題であると共に「社会」の問題でも
ある。)

人生は、ぼくに「道」を開いてくれる。

それは、
「世界を旅する道」であった。

大学に入り、世界を旅するようになる。
中国、(返還前の)香港、ベトナム、
タイ、ラオス、ミャンマー、ニュージー
ランドと、ぼくは世界を旅する。

その内に、ぼくの「ほんとうに大切な
問題」は、このように「具体性」を
帯びていった。

  1. 日本を出て世界を旅する日本人
  2. 「途上国問題・南北問題」

「生きづらさ」の感覚は、「旅で人は
変われるか?」という探索につながった。
「人が変わる」ということを、旅という
場を素材に、追求していくことになった。

そして「途上国問題・南北問題」は、
ぼくの人生をかたちづくっていく。

大学卒業後の進路はうまく決まらず、
また「学びの欲求」が益々強くなり、
ぼくは二つ目の「途上国問題・南北問題」と
いった問題系を大学院で学ぶことに決めた。

大学院で、ぼくは途上国「開発・発展」を
学ぶ。
途上国のことを学べば学ぶほど、それは
結果として、既存の専門科学を「越境」
せざるをえないことになった。

「人が変わること」と「社会が発展すること」
の問題系は、次第にひとつのキーワードを
結実させていくことになる。

それは、
「自由」(freedom)ということである。

この言葉を頼りに、この言葉をタイトルに
ぼくは修士論文(「開発と自由」)を書く。

見田宗介と経済学者アマルティア・センを
導きの糸として、ぼくは「自由」をとことん
考えたのだ。

修士論文「開発と自由」は、ぼくにとっては
とても大切な作業であった。
それは、ぼくのなかで、納得いくまで、
いろいろなこと・ものが繋がったからである。

でも、ある教授に言われた。

「よく書けているけれど、ある意味誰でも
書ける内容ですね。『経験』が見えない。」

理論に終始した結果、ぼくの経験に根ざした
文章にはなっていなかったのだ。

大学院の修士課程を終え、ぼくは、
「実践」にうつっていく。
国際協力NGOに就職し、途上国の現場に
出ていくことになったのだ。
こうして、ぼくは、西アフリカのシエラレオネ
の地に、踏み出すことになった。

ぼくの「ほんとうに大切な問題」を手放すこと
なく、追求していく仕方で。

シエラレオネと東ティモールで、ぼくは、
それぞれ、難民支援とコーヒー生産者支援で
「実践」していく。

そのなかで、ぼくの「原問題」は、次のように
表層を変える。

  1. 「人が変わること、人の成長」の問題系
  2. 「いい『組織』をつくること、組織のマネジメント」の問題系

実践の中で、ぼくは、数々のプロジェクトを
動かしていく。その中で、「組織」という
問題にぶつかったのだ。

その後、人生は、ぼくに次の「道」を開く。
そうして、ぼくは「香港」に移ったのだ。

香港で、ぼくは、人事労務コンサルタントの
仕事につく。
「人と組織の成長・発展」を、
人事の視点からサポートする仕事である。

それから10年。
ぼくは、次のステージに立っている。

そして、やはり「ぼくの原問題」に立ち戻る。
それは、見田宗介先生の「ほんとうに大切な
問題」と交錯する。

「どのようにしたら、この世界で、よりよく
生きていくことができるのか」

時代は、大きく変わろうとしている。
すでに、変わってきているし、変わって
しまってもいる。
だからこそ、原問題から、ぼくは新たに
スタートする。

見田宗介先生は、『社会学入門』の「序」の
最後に、このような文章を書いている。


インドには古代バラモンの奥義書以来、
エソテリカ(秘密の教え)という伝統がある。
そのエソテリカの内の一つに、
<初めの炎を保ちなさい>という項目がある。
直接には愛についての教えだけれども、
インドの思想では万象の存在自体への愛
(マハームードラ Cosmic Orgasm)こそが
究極のものであり、知への愛である学問に
ついてもそれはいえる。

見田宗介『社会学入門』(岩波書店)
 

旅も、世界で生きていくことも、そして
人生も、同じであるとぼくは思う。

<初めの炎>をぼくは、心の内に、灯し
続ける。

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世界を変える?(理論編)

「世界を変える」ではなく、世界が変わっていく。

「~すべき」「~あるべき」という肩肘張った説法ではなく、また様々な形で発現する「暴力」という仕方でもなく、世界が変わっていく。

「生き方の魅力性」(見田宗介)という魅力的な仕方で、世界が拓かれていく。
魅力的な生き方に、人が変わっていく。

ある人が変わることで、人と人との「関係性」も変わっていく。
人と人との「関係性」は、「社会」である。
「社会」の連鎖が、「世界」である。

「生き方の魅力性」と「生き方の魅力性」が、相乗的に、拡がっていく。
そんな生き方ができる時代にぼくたちはいる。

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「ブログ」を始めるにあたって

「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きていく」ために。
そして、世界の各地で、「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きている」人たちと、相乗的に、生き方の魅力性を形づくっていくために。

そのような思考や行動、その形としてのプロジェクトといったことの「源泉」となるようなことをここに書いていきたい。2017年は、毎日書いていく。

自分に課す(「課す」といっても、ゆるい方向性だけれど)指針は、次のようである。

  1. 「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きていく」ための文章であること。書くことそれ自体が「歓び」であること。
  2. 「創られながら創ること」(*後日書きます)をスタンスとすること。
  3. ブログだけに終わらせるのではなく、行動やプロジェクト等に変容させていくこと。

また、特定の民族・政治・信条・宗教などにかかわりなく、「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きていく」人たちを念頭に書いていく。

領域は、随時形を変えていくけれど、イメージとしては下記のようになる。

・土台と構想:
社会構想。ライフスタイルの変革。「見田宗介=真木悠介」。人・社会と自然。宇宙の視点。等々。

・方法論:
自己啓発。成長。リレーションシップ。起業。書籍。「言葉」や「定義」を変えること。等々。

・行動と実践:
「シエラレオネから東ティモール、そして香港へ」。ニュージーランド。海外(日本の外)での生活。NGO/NPO。人事労務コンサルタント。起業。書籍から学ぶ。等々。

なお、当面は日本語で開始し、後に準備が整い次第、一部は英語でもはじめていく予定である。

香港に居をうつして、ほぼ10年。
香港に来る前は、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール。
そこで、ぼくがやってきたことは、「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きる」ことであったように、ぼくは思う。
うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともある。
そのようなことすべて含めての「歓び」である。
これまで出会ってきた人たちを思い起こしながら、そして、これから出会うであろう人たちを想像しながら、ぼくは、この「ブログ」にて、言葉を紡いでいきたい。

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