携帯カメラでの撮影から、どこまでも、すりぬけてゆく「月」。- 中秋節の足音も聴こえる香港で。
満月の日の翌日も、ここ香港では「月」がその月あかりを、いっぱいに、地上に向けて放っている。
満月の日の翌日も、ここ香港では「月」がその月あかりを、いっぱいに、地上に向けて放っている。
ぼくのとても深いところに届く光だ。
火星も月の横で、その存在感を示している。
道では、幾人もの人たちが歩みを止めて、「月」を写真におさめようと、携帯電話をとりだし、月の方向に携帯電話をかざす。
ぼくも、歩みをゆっくりしながら、月あかりに身体をさらし、また、歩みを止め、写真を撮っている人たちを見やる。
月の写真を、携帯電話のカメラでおさめようとすると、カメラのレンズで捉えた「月」と、ぼくたちの目のレンズで捉えた<月>の異なりに、もどかしさのような感覚をおぼえる。
携帯電話のカメラが捉える「月」は、とても小さく、色合いもまったく変わってしまい、神秘さの雰囲気が霧散してしまう。
それでも、なんとかおさめようとして、いつまでもうまく定まらない焦点をあわせ、ボタンを押し、写真を撮る。
カメラでおさめようとすればするほどに、どこまでも、すりぬけていってしまう月なのだ。
もちろん、適切なカメラとレンズで月の被写体をおさめれば別のことであるけれど、ぼくを含め、通りすがりの人たちは、そういうわけにもいかず、携帯電話を天に向けてかざすのであった。
そんな、携帯電話のカメラでは、どこまでも、すりぬけていってしまう月であっても、月あかりに魅せられて、写真のためであろうがなかろうが、人びとが歩みを止める風景に、どこか、ぼくは気持ちがやすらぐのである。
カメラでうまくとれなくったって、それはどうでもよいことで(それぞれに写真の使い道という目的はあるのだろうけれど)、何はともあれ、月を楽しむということだけで、最初の目的(たとえば「写真におさめて、…する」など)さえも書き換えてしまうような、シンプルな経験をぼくたちはもつことができる。
<月を楽しむ>ということにおいては、香港では「中秋節」がある。
その「中秋節」は、今年は2018年9月24日にあたる。
香港では、すでに2ヶ月以上も前から、はすでに「月餅」が店頭に現れ、中秋節の足音が聴こえ始めている。
少し早すぎじゃないかと(毎年のように)思いつつ、やはり、気になって、店頭をのぞいてしまう。
今年はどんな月餅が見られるだろうか。
「月」に呼応する音色。- 「Sleeping At Last」(Ryan O'Neal)の繊細な音楽。
例えば「月」に呼応しながら、繊細に音色をつむぐ、音楽家「Sleeping At Last」。
例えば「月」に呼応しながら、繊細に音色をつむぐ、音楽家「Sleeping At Last」。
「Sleeping At Last」を音楽と言ってよいのか。「Sleeping At Last」とは実質には、公式サイトが書くように、「シカゴを拠点とする、シンガーソングライターであり、プロデューサーであり、編曲者であるライアン・オニール(Ryan O’Neal)の呼称」である。
2000年初頭頃から、「Sleeping At Last」は、さまざまな「プロジェクト」や「シリーズ」のうちに、美しい音楽を奏でている。
テレビドラマや映画でもながれることがあるのだけれど、その音色と歌声を聴けば、その内的な繊細さや、宇宙や自然との交響などを、そこに感じとることができる。
最近は、「月」をモチーフとした音楽も提供し、今回の「July 27, 2018」の皆既月食そのものをタイトルとした楽曲「July 27, 2018: Total Eclipse」をつくっている。
そして、これまでの「月」の企画と同じように、この楽曲のバージョンのひとつは、皆既月食の時間に相当する「103分版」となっている。
楽曲の美しさはもとより、興味深いのは、「月」一般の楽曲ではなく、それぞれの「日」(例えば「July 27, 2018」)の皆既月食などにインスピレーションを得ながら、作曲されていることである。
ぼくがそもそも「Sleeping At Last」を知ったのは、2011年頃のことであった。
TEDの企画動画のなかで流れる音楽にどうしようもなく惹きつけられ、それが「Sleeping At Last」の曲であることを、その動画で知ったのであった。
その曲は「Households」という曲で、「Sleeping At Last」の「Yearbook - Collection」という企画アルバムに収められている。
それからというもの、ぼくの生活のなかには、「Sleeping At Last」の音楽がありつづけてきた。
ここ香港の夜空にゆっくりと上がってゆく満月を見ながら、ぼくは、楽曲「July 27, 2018: Total Eclipse」を聴く。
その満月の横には、ちょうど数日前に湖底に「水」がある証拠を得たという「火星」が輝いている(なお、「Sleeping At Last」のEP「Atlas: Space 1」には「Mars」という曲が収録されている)。
宮沢賢治が「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それがひとつの真実であったように、ライアン・オニールであれば、「これらのわたくしのおと(音)は、みんな宇宙や月あかりからもらってきたのです」とでも語っているかのような、そしてそこにひとつの真実があるような、「Sleeping At Last」の音楽たちである。
テクノロジーによる「環境容量」の拡大の方向性について。- 見田宗介による「環境容量の拡大と人間の幸せ・不幸せ」の考察。
これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできるときにお伺いできたらと、準備していた「テーマ」がある。
これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできたら、ぜひお伺いしたいと、準備していた「テーマ」がある。
それは、現代社会が直面する「巨大な闇」である環境問題・資源問題をのりこえてゆく方途としての「宇宙開拓」についてである。
想像以上に宇宙ビジネスが進展してきているなかで、それでもすぐにとは言わずとも、「宇宙開拓」による資源採掘などが、グローバル化の果ての地球(無限でありながらの有限な球体)を救う手立てとなるかどうかである。
そのような「テーマ」を準備していたから、新著である見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)に、このテーマに正面から応答する文章があるのを見つけたときは、嬉しさと共に、そこで展開される論理の明晰さに感嘆の声を心の中であげてしまった。
見田宗介は、「テクノロジーによる環境容量の変更。弾力帯。「リスク社会」化。不可能生と不必要性」(第5章第3節)と題しながら、「テクノロジーの環境容量の変更(拡大)」という方向性を、実際に進んでいる分野として、「二つの方向性」に見ている。
- 外延的(extensive)に環境容量を変更(拡大)する方向:地球外天体への移住植民や資源探索・採取など
- 内包的(intensive)に環境容量を微視の方向に変更(拡大)する方向:遺伝子の組み替えや素粒子の操作など
この内の2番目についても、ぼくは「テーマ」を持ってかんがえているけれど、さしあたって、冒頭で問題としたテーマはこの1番目に該当するところである。
グローバリゼーションにおいて、この「地球」という球体の環境・資源を使い尽くす方向に走ってきた人間は、その地点において、論理的に、この外延的(extensive)/内包的(intensive)な方向性に、テクノロジーの舵をきってゆくことは当然であるようにも思われる。
ぼく自身も「外延的(extensive)」な方向への、つまり地球外天体への方向への、研究や試みやビジネスなどの動きに「関心のアンテナ」を張ってきた。
そんな「関心のアンテナ」もあったから、つぎのように書かれているのを読んだとき、ぼくはハッとしたのであった。
環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念は、経済成長を無限につづけなければならないというシステムの強迫観念から来るものである。あるいは、人間の物質的な欲望は限りなく増長するものであるという固定観念によるものである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性は(ひとまずは)続いてゆくだろうし、ぼくは「関心のアンテナ」も引き続き立てておくところだけれども、「考え方の前提」を明るみに出すことを通して、ぼくたちの「思考の癖」を一気に指摘する箇所である。
「経済成長を無限につづける」という強迫観念、「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念は、現代社会を生きてきたものたちの多くの心身に刻まれているであろう。
どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。
そうして、見田宗介は、つぎのように、つづけて書いている。
…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年
上述の強迫観念と固定観念にうながされるのであれば、、どこまで拡大をつづけても、どこまでも探りつづけても、人間は「満足するということがない」だろうと、見田宗介は書いている。
なお、外延的な環境容量の拡大そのものについては、「コスト・パフォーマンスやカバーしうる資源アイテムの限定性等々からほとんど現実的ではないと思われる」と見田宗介は書いていて、ぼくは「現実的か否か」の議論には、いったんの「留保」をつけておきたい。
それにもかかわらず、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう」という言葉は、外延的な環境容量の拡大が「現実的か否か」の議論をまるでとびこえてしまうように、ぼくの心を、正面から射る。
ほんとうに、ぐさっと、ぼくの心を射る。
宇宙にとんだ視線は、こうして、この「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星」に、また「人間自身の欲望の構造」に、さらには、じぶん自身の「幸福に生きる仕方」に、反転される。
香港で、「虹」の風景に出逢って。- 最近、<虹>をご覧になりましたか?
最近、「虹」を見ましたか?この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
最近、「虹」を見ましたか?
この問いを、たとえば1ヶ月前に問われたとしたら、こう応えていただろう。
「最近は見てないですね。それに、“最近”だけでなく、最後に虹を見たのがいつか、思い出せないですねぇ」と。
そう、最後に見たのが、いつ、どこであったのか、ぼくには記憶がない。
東ティモールであったか、西アフリカのシエラレオネであったか、あるいはそもそも東ティモールとシエラレオネで、ぼくは虹を見たのか。
見たような気もするが、いずれの場所にいたのも10年以上前のことで、はっきりと覚えていない。
それから、今ぼくが住んでいるここ香港で、虹を見たかどうか、この記憶も定かではない。
なにはともあれ、先日、ここ香港で、ぼくは「虹」の風景に遭遇した。
最後に虹を見たのが、いつ、どこであったか覚えていなかったからか、ぼくは、すっかりと、その風景に心を揺さぶられたのだ。
じぶんの内面の奥深くを揺さぶる<虹>であった。
それにしても、最近、都会で虹を見ることは減ってきているのではないかと、そんな仮説をたててみる。
もし虹があまり「現れなくなっている」とすれば、それは、「人間」の側の問題だろうか、あるいは「(自然)環境」の側の問題だろうか、さらには「人間と(自然)環境の<あいだ>」の問題だろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
「人間」が、現代社会において、さらに自然から切り離された生活をおくるようになったのだろうか。
「自然環境」が、環境破壊や公害などの影響をより受けているのだろうか。
あるいは、上記とも関連して、人間と自然環境との「むすびつき」が弱くなっているのだろうか。
もちろん、ただ、ぼくが見ていなかっただけ、ということもありうる。
ともあれ、ぼくは、ここ香港で、虹を見た。
虹の「色」は、時空間によって、つまり時代と文化によって、その見られる仕方が異なってきたものであり、何色に見られるかは「実際の色」ではなく、人間の「見方」に規定されてきたものである。
Wikipedia(ウィキペディア)は、「虹」の項目において、その発生の科学的説明を含めて、それ相当の解説をのせている。
虹という現象が人を惹きつけてやまないからであろう。
解説の多くの部分が割かれている、虹にかんする「科学的説明」はとても興味深いものである。
でも、それと共に、ぼくは、神話や伝説や物語などに描かれてきた<虹>にも惹かれる。
人びとの心をとらえる<虹>は、人びとに彩り豊かな想像を抱かせる。
大切なことは、虹の発生の仕組み(科学)を知ることと共に、それだけに思考を還元してゆくのではなく、<虹>に感動する感受性とそこから想像力を解き放つことでもあるように思う。
宮沢賢治が、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それは賢治にとって、ほんとうのことであったと思う。
香港で「虹」の風景に出逢った余韻のなかで、ぼくは、つぎのように書く。
最近、<虹>をご覧になりましたか?
宇宙論の「最前線」にふれる。- 野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』。
香港の夜空にのぼってゆく満月をときおり見ながら、宇宙論の最前線、「マルチバース理論」にふれる。
香港の夜空にのぼってゆく満月をときおり見ながら、宇宙論の最前線、「マルチバース理論」にふれる。
本は、野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』(星海社新書、2017年)。
野村泰紀氏は理論物理学者で、現在は、カリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー理論物理学センター所長である。
ぼくたちが住む宇宙のほかに、物理法則や次元が異なる無数の「宇宙たち」が存在するとする「マルチバース宇宙論」。
そもそもぼくが、野村泰紀と「マルチバース理論」を知って、そこに魅かれたのは、雑誌『現代思想』2018年1月号(青土社)における、野村泰紀へのインタビュー記事であった。
インタビュー記事は「量子的マルチバースと時空間概念の変容」と題され、それによってぼくの好奇心は点火された。
もう少し基礎的な理論や実証や議論などに触れたく思い、やがて、野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』にたどりついたのだ。
『マルチバース宇宙論入門』はつぎのように構成されている。
【目次】
まえがき
第1章 「宇宙」って何?
第2章 よくできすぎた宇宙
第3章 「マルチバース」ー無数の異なる宇宙たち
第4章 これは科学?ー観測との関係
第5章 さらなる発展ー時空の概念を超えて
あとがき
参考文献
著作を通じて、ぼくを惹きつけるのは、さまざまな理論のその前提、出発点を問い返す視点と姿勢である。
例えば、これまでの宇宙論の「行き詰まり」の地点において、つぎのように書いている。
…我々の宇宙の全て(標準模型の構造や真空のエネルギーの値を含む)を物理学の基本理論から直接導出しようとする試みはほぼ完全に行き詰まったように見える。そしてそれは、この試み自体に何か決定的な誤りがあることを示唆しているように思える。それは前にも述べたように宇宙が唯一無二であると仮定したことと関係しているのだろうか?だとすれば標準模型やそれを単純に拡張した理論を超える「真の基本理論」から導かれる本当の自然界の姿とはどのようなものなのであろうか?
野村泰紀『マルチバース宇宙論入門』星海社新書、2017年
「試み自体」への疑問が、この文章の後に展開されるマルチバース理論への導線となってゆく。
無数の「宇宙たち」があるとするマルチバース理論については、論点をひとつずつ丁寧に追いながら、ひもといてゆく野村泰紀の説明を読むのがよいだろう。
ただ単に「無数の宇宙がある」ということに限らない、(ユニバースではない)マルチバースの描像、その理論へ寄せられる疑問や批判への応答など、ひと通りのことが、この本では展開されている。
「あとがき」で野村泰紀が書くように、『入門』の割には内容が難しく「式のない教科書」(野村泰紀)になっているようなところが、この本にはある。
理論物理学、量子力学、素粒子、標準模型、一般相対性理論(アインシュタイン)、超弦理論、インフレーション宇宙など、はじめて触れる人たちにとっては、なかなかとっつきにくい用語と論が次から次へと出てくる。
しかし、「本当に興味のある人はゆっくり読んでもらえれば…内容が分かるように書いた」(前掲書)と野村が言うように、その野村自身の研究を駆動してきた<知的好奇心の火>を灯すかぎりにおいては、宇宙論のこれまでのポイントと「最前線」を、この小さな本を通じて、知ることができる。
野村泰紀は、宇宙論もやがて、音楽のコンサートやアートの個展のような仕方で、講演や展示が文化活動のひとつとして定着していくとよいと、理想を描いている。
そのような理想に、ぼくも魅かれる。
「学問」などに閉じ込めておくのではなく、音楽やアートのように、宇宙論が自由に、そして楽しく会話が交わされる風景である。
そのような風景が遠くない未来に現実化することを、ぼくは明瞭にイメージしている。
ぼくたちは、いつだって、<移動>している。- <コペルニクス的転回>の思考と生き方。
夜空にひろがる惑星や星たちを見ながら、以前、ふと、でも深いところで、思ったことがある。
夜空にひろがる惑星や星たちを見ながら、以前、ふと、でも深いところで、思ったことがある。
地球のなかにおいては、ぼくは一日「同じ場所」にいるにしても、「宇宙」のなかにおいては、ぼくは、いつも、<移動>しているのだ、と。
だから、例えば終日家にずっといるとしても、実際には「じっとしていない」。
「宇宙」という座標軸においては、<ぼくたち>は、いつだって、動いているのである。
バックミンスター・フラーが提唱した言葉を使えば、ぼくたちは「宇宙船地球号」(Spaceship Earth)に乗って、この宇宙をつねに、動いていることになる。
「宇宙船地球号」は、太陽の周りを、自転しながら公転するというように、いつだって、二重に動いているのだ。
こうして、朝食を食べていた食卓は、夕食を食べる頃には「そこ」にはなく、宇宙の座標軸のなかを、はるかに旅していることになる。
部屋にひきこもっているとしても、気がつけば、そこは宇宙の違う場所に移動していることになる。
天動説ではなく、コペルニクスが唱えた「地動説」のことなど、誰もが知っている。
けれども、「地動説」は誰でも知るところではあるけれど、そのことは、「地動説」を誰もが<実感として生きている>ということではない。
朝食を食べていた食卓は、夕食時にはやはり「そこ」にあるし、ぼくたちは「同じ場所」で食事をとっていると、感覚する。
部屋にひきこもっていれば、他人は、その人を「同じ場所」にいると、思っている。
もちろん、「地球」を閉じた空間として見れば、「同じ場所」であろう。
しかし、ある意味において、そのように見ているのは、<天動説的な見方>である。
つまり、宇宙は、「実感」として、地球が中心にあるように感覚し、生きていることになる。
ぼくが、ある日、夜空を見ながら、ふと、でも深いところで思ったのは、この不思議さであった。
朝、家を出て、夕方に家に帰ってくるころには、ぼくは、宇宙の違うところに移動(旅)しているという、不思議さ。
朝見ていた天空の方向性は、夕方には、宇宙のまったく異なる方向に向かっているということの、その不思議さ。
ぼくは、その不思議さに圧倒されながら、「宇宙船地球号」に乗っているじぶんを、外部から見ているように感覚したのだ。
漫画版のベストセラーで一躍有名になった、吉野源三郎の名著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)において、「叔父さん」が主人公のコペル君に宛てて書いた最初の手紙は、「ものの見方について」と題され、このコペルニクスの地動説を素材にしている。
そのなかに、つぎのように言葉が書き綴られている。
コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫
叔父さんは、「自分中心」的なものの見方を超えてゆくところに、コペル君の未来を見ている。
それにしても、コペルニクスの地動説による<転回>は、今となっては、誰もが知るところだけれど、当時はほとんどの人が信じることのできなかったことだ。
ぼくたちが生きるということにおいても、ぼくたちの考え方や生き方のなかに、<コペルニクス的転回>を見つけ、気づき、行動を反転し、きりひらいてゆくことができる。
「地動説」を初めはほとんどの人が信じることをせず、危険視までしていたことと同じに、<コペルニクス的転回>の思考や生き方は、周りの人たち、そしてぼくたち自身も、信じることができないものかもしれない。
でも、<コペルニクス的転回>の思考や生き方は、ぼくたちが「同じ場所」にいるにもかかわらず、<地球のなかで動いていない>という見方を、<宇宙のなかでいつも動いている>という見方に転換するほどの、原的な転換を生んでいくのである。
「Google Earth」時代の旅と海外滞在のあり方。- さいごに、残ってゆくもの。
香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。
香港のとても暑い日に、グーグルのアプリ「Google Earth」を久しぶりにひらき、その「バーチャル地球儀」の「世界」を楽しむ。
その「世界」は、衛星写真などで世界を構成し、世界のどこへでも、一気に、降りたつことができる。
場所によっては、通りの風景(「Street View」)までが映しだされる。
「3D」での表示もあったり、その他の機能も搭載され、この世界という<空間>を楽しむことのできるアプリだ。
<空間>だけでなく、ぼくたちの思い出と記憶を重ね合わせることで、そこに<時間>を視ることだってできる。
今まで旅したところや訪れたところ、あるいはそれなりの期間にわたって滞在していたところに、時空をこえて、ぼくたちは降りたつことができる。
風景を「思い出と記憶」のなかに大事にしまっておくこともひとつだけれど、「Google Earth」を通して、その不思議な世界に立ってみることも面白いものである。
そのようにして、ぼくたちは、その風景の表層だけであれば、この世界の空間をこえて、いつでも行ける時代に生きている。
ぼくがかつて住んでいたところが、今どうなっているだろうかという好奇心におされながら、ぼくはそこへの道ゆきをたどっていく。
やがて、「懐かしい」風景が、ぼくの前に現れる。
庭の風景が少し変わったけれど、家の様相は変わっていない。
「Google Earth」を楽しみながら、そのような「Google Earthの時代」における、旅や海外滞在の「あり方」が、ふと気にかかってくる。
旅や海外滞在ということが、色あせてしまうようなことはないだろうか。
昔の風景をGoogle Earthのなかに見ながら、「思い出」に色彩を与えていた想像の風景から、何かがぬけおちてしまうだろうか。
そのように気にかかりながら、それでも、Google Earthが映しだす通りの風景だけでは代替できないものが、はっきりと浮かびあがってくる。
<五感で捉えられた風景>と<風景のなかの物語>である。
Google Earthで、世界のどこにも瞬時にして行くことができるけれど、ぼくたちは、その風景を基本的には<視る>のであり、その場を<五感>で捉えることはできない。
そこの風景には、香りがあり、音があり、手触りがあり、またそこで食べていたものがある。
将来は、テクノロジーの進化により、香りや音や手触りを感じることのできるようなものが出てくるかもしれない。
それでもやはり、その場の風景そのものに代替することはできない(だろう)。
また、五感で感じることの、その<全体感>のようなものがあると、ぼくは思う。
仮に、<五感で捉えられた風景>がテクノロジーで再現されるようなことがあったとしても、それでも、<風景のなかの物語>は、その場を旅し、あるいは住むことで、つくられてゆく。
テクノロジーによって再現されるものではなく、ぼくたちの内面につくってゆくものである。
あるいは、他者たちとの<あいだ>につくってゆくものである。
ぼくたちのなかに、やはり残るものとしての<物語>。
「Google Earth」時代にあっても、ぼくたちは、ぼくたちそれぞれの物語、また他者と共有する物語を、豊饒に生きてゆくことができる。
香港のどこまでもひろがる夜空に光を放つ、月、そして火星と木星と金星。- 満月の夜に、宇宙に語りかけられること。
ここ香港は、5月後半、快晴の夏日がつづいている。
ここ香港は、5月後半、快晴の夏日がつづいている。
すきとおる空には、夕方から、月と木星と金星たちが、光をはなっている。
月は満月となり、明るい光が香港にふりそそいでいる。
古代の人たちが見たら心底驚くであろうiPhoneアプリ「skyguide」を空にかざして、木星と金星であることを確認し、やがて火星も姿を見せるだろうことを知る。
香港の明るいネオンなどにも照らされる香港の夜空にあって、月、火星と木星と金星は、太古からふりそそがれていたであろう光を、今日も届けている。
これほどくっきりと、月と太陽系の惑星たちが響宴する光景に、ぐーっと、ぼくはひきこまれる。
月と火星を見ながら、人類が近い将来それらに到達し植民することを想像すると、とても不思議な気持ちになる。
イーロン・マスクのSpaceXが火星を目指し、そしてジェフ・ベゾスのBlue Originは月の植民を目指す。
ジェフ・ベゾスは、月植民計画で、製造業の拠点を月におく構想を説明している。
そんな未来も、やがて現実化していくことを思うと、とても不思議な気持ちになる。
近い将来、月や火星を見ながら、そこに住む家族のことを思う人たちが出てくるのだ。
それにしても、これから生きてゆくうえでは、「宇宙」は視野にいれておきたい。
「グローバル化」は、その進展の果てに、どこまで行っても「球」である地球を(あらためて)発見したのだけれど、そうであるからこそ、そこに環境と資源の問題にぶつかることになる。
これらの限界問題を超える仕方として、「宇宙」という空間が現れてくる。
イーロン・マスクも、ジェフ・ベゾスも、Googleも、すでにそこを見据えて動いている。
月と火星は、宇宙ビジネスの拠点の最前線である。
もちろん、そのような「功利」的な視野に限らず、やはり、「宇宙」はそれだけで魅力的なものである。
地球と同じように、太陽の周りをまわる惑星たちを感じながら、太陽系の住んでいることを感じさせられる。
香港の夜空にその姿をみせる火星をみながら、ぼくは、人類が火星に到達する日を夢見る。
少し赤みがかった火星が、人類の到達を待っているかのように、地球に視線を向けている。
火星を眺めていたら、ふと、映画『The Martian』(邦題『オデッセイ』)を見たくなり、映像を再生して、その日がまるで来ているかのように、ぼくは疑似体験してみたりする。
そうして、宇宙に視線をなげたとき、その視線が反響してかえってくるこの地球の美しさ、その奇跡に、深く、しずかに心を動かされる。
映画『The Martian』で、マーク(マット・デーモン)が地球にもどってきた「Day 1」に、生命を宿す植物の芽をじぶんの足元にみつけるとき、彼はそこに地球の奇跡をみいだす。
地球という惑星に、奇跡のようにひろがる自然が、火星や宇宙空間を鏡としながら、鮮烈に立ち上がってくる。
はるか未来、人類は、太陽系を超えたところに、地球と同じような惑星を見つけ、到達するかもしれない。
そうだとしても、この地球の存在の奇跡は、そがれることはない。
また、今のところ、観測できる範囲では、宇宙に、この地球に変わる場所はない。
満月の夜には、宇宙、そしてこの「宇宙船地球号」が、ぼくに語りかけてやまない。