テクノロジー Jun Nakajima テクノロジー Jun Nakajima

石黒浩の「論理」。- ロボットと心、ロボットと人間とのインターフェース。

ロボット工学者の石黒浩は、著書『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』の冒頭に、一見すると大胆に聞こえることを言ってのけている。

ロボット工学者の石黒浩は、著書『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』の冒頭に、一見すると大胆に聞こえることを言ってのけている。


 「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」

 多少極端な言い方ではあるが、それほど的を外しているとは思わない。実際に自分にいくら問いかけても、自分の心とは何かはなかなか理解できるものではない。一方で他人を見ていて、その人の心の方が自分の心よりも理解できると思うこともある。

 …内部から自分を見ているときよりも、外から他人の様子を見ているときの方が、「心の存在」を感じることができるのである。…

石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)


一見して、ある種の「反発」のような感情を抱く人もいるかもしれない。解剖学者(いわゆる「解剖学者」の枠をとびこえているけれど)の養老孟司があるところで述べているように、「心」を特別視してしまうようなところが人にはあるから、「心がない」という言い方は反発をひきおこしてしまう。昔のぼくであれば、反感を持っただろう。

けれども、養老孟司による「唯脳論」にふれてきたこともあって、脳と心の関係性を「構造と機能」と捉える視点で中和化されているぼくは、冷静に石黒浩の論点に耳をすます。ふつうに見れば大胆な言明、「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」という地点から、石黒はどこにぼくを連れていってくれるのだろうか。

石黒浩はつぎのように書いている。


 そのようにして互いに心があると信じているのが人間であると思う。ゆえに、

 「ロボットも心を持つことができる」

と私自身は考えている。

石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)


「人間と関わるロボット」をモチーフにしてきた石黒浩と彼が創作してきたロボットたちを(YouTube動画などで)見ると、このような考え方は理解できる。そのうえでひとつ指摘しておきたいのは、「ゆえに…」と続く、論理の流れのおもしろさである。

「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」という地点から、「ロボットも心を持つことができる」という地点への移行は、いわば論理の飛躍である。「ゆえに…」で、簡単につながるものではなく、むしろ、論理を反転させていくような重力をぼくは感じるのである。

なにはともあれ、このような圧倒的な重力が、石黒浩による果敢な挑戦を支えているのだ。


ところで、石黒浩は、「心とは何か」という問いにはこれ以上科学的に説明ができないかもしれないことを、この本の終わりのほうで述べている。現在のところ自然科学的に心を解き明かすことができないこと、したがってこの領域は学問的にはある種タブー化している状況を、かつて養老孟司は指摘していたが、そんな限界線を確認しつつ、石黒は<互いに心があると信じているのが人間>というところを土台にして「人間と関わるロボット」を追求しつづけている。

このような石黒浩の研究は、ぼくにとっての「定点観測」のひとつとして存在している。

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テクノロジー, 成長・成熟 Jun Nakajima テクノロジー, 成長・成熟 Jun Nakajima

人間を「鏡」に映す。- 「人間ではない存在」に照らされる<人間>。

「ただ生きる」ということ。それは、なんとなく生きていくというのではなく、むしろ、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。

「ただ生きる」ということ。それは、なんとなく生きていくというのではなく、むしろ、<生きる>ということの経験のひとつひとつを味わい、経験しつくしてゆく生きかたである。呼吸をすること、食べること、家族や友人と話をすること、身体を動かすこと、このようななんでもないことを味わいながら生きること。

このような「なんでもないこと」が、人が人として生きるうえでの<歓び>であることを、「人間ではない存在」を通して気づいてゆく。そんな気づきを誘発する装置として、例えば映画やドラマなどがある。

映画やドラマで「人間ではない存在」(たとえばエンジェル)が<人間になる/人として生きる>というようなストーリーが描かれることがある。映画『City of Angels』(1998年)でニコラス・ケージが演じるエンジェルがそんな存在であり、最近では、アメリカのテレビシリーズ『Lucifer』の登場人物たちが挙げられる。

「人間ではない存在」を軸として、<人間である>、<人として生きる>ということはどういう経験であるかを逆照射させてくれる装置だ。「人間ではない存在」が人として「ただ生きる」ことのひとつひとつのなかに、人でなければ経験できないものごとを鮮烈に体験してゆく。なんでもないような、ひとつひとつの出来事が、まるで奇跡のように体験されるのである。

このような「架空の存在」を方法とすることもひとつだけれども、それらとはまったく逆に、現実の「ロボット」という人間ではない存在から、「人間の生きる」ということに光をあてていくこともひとつである。


ロボット工学者の石黒浩は、工場などで使われるロボットではなく、「人間と関わるロボット」をモチーフとしてきた。人間が日常生活を営むなかで、人間のように作動するロボットである。

そのプロセスでは、「人間とは何か?」が問われる。

人間の日常は複雑そうに見えながらも、たとえば朝起きて、電車に乗って仕事場に行き、そこで人と話をしながら書類を作成するなどして、ふたたび電車に乗って家に帰ってくる、といったパターンをとりだしてみると、三つに分けられるのだと石黒は語る(石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』講談社現代新書、2012年)。


● 移動すること
● 人と関わり人と話をすること
● 決められた作業をすること

これらのなかで「移動すること」と「決められた作業をすること」は工場のロボットもするけれど、大きく異なるのは「人と関わり人と話をすること」となる。ここに石黒の関心も、ロボットの可能性も、それから難しさがある。難しいのは、工場のロボットは「目的」をもってタスクを遂行していくのに対し、人と関わるロボットは、予測不能な人間と関わってゆくことになるからだ。

「面白さ(関心)」と「可能性」、それから「難しさ」が、人間の予測不能性に関わることは、当たり前に聞こえるかもしれないけれど、<人間とは何か>という質問に対する応答の核心をつくところでもある。

石黒浩は、この研究についてつぎのように書いている。


…日常生活とは、人間が活動する場であり、そこで働くものはロボットでも人間でも、人間を意識する必要がある。すわなち、「人間と関わる機能」を作ることが、研究の中心的な課題になる。この研究を、人間とロボットの相互作用(ヒューマン–ロボットインターラクション)と呼ぶ。
 この「人と関わるロボット」の研究開発のもっとも大きな特徴は、ロボットの開発と人間についての理解を同時に進めなければならないという点である。

石黒浩『ロボットとは何かー人の心を映す鏡』(講談社現代新書、2012年)


「人間ではない存在」、ここでは「人と関わるロボット」を通して、<人間とは何か>が追求されてゆく。本の副題が直接に示しているように、人を映す「鏡」として、ロボットが存在している。

「人と関わるロボット」や「人工知能」などはさしあたりテクノロジーの発展のなかに位置づけられるけれども、他方で、近代・現代を生きてきた人間がその豊かな生を追い求めながら、そのプロセスや先端で出会うことになる問いたち、<人間とは何か>、<人が生きるとは>などを入り口としてひらかれてきた分野かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。

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香港, テクノロジー Jun Nakajima 香港, テクノロジー Jun Nakajima

香港のスーパーマーケットで「セルフチェックアウト」を活用しながら。- 「気楽さ」のなかに垣間見える世界。

ここ香港のスーパーマーケットなどにおける「Self-service Checkout」(セルフチェックアウト)の支払い、またはファーストフードなどにおけるセルフオーダーなどが浸透しはじめ、それなりに日常化している。

ここ香港のスーパーマーケットなどにおける「Self-service Checkout」(セルフチェックアウト)の支払い、またはファーストフードなどにおけるセルフオーダーなどが浸透しはじめ、それなりに日常化している。

「それなりに」と書いたのは、とは言いつつも、店員さんがいるキャッシャーを選ぶ人たちが結構多いように見受けられるからだ。

香港のキャッシャーは圧倒的にスピードが速いからからもしれないし、これまでの仕方に慣れていて慣れているのを好むのかもしれないし、あるいは、セルフチェックアウトやセルフオーダーの「使い方を覚える」ための一歩を踏み出さないということかもしれない。

ぼくはやはり試してみたくなるので、早々に使ってみて、使い方を覚え、それなりに利用している。慣れてしまうと便利だし、キャッシャーの列に並ばなくてもよくなる。


誰も並んでいない店員さんのとこと、(誰も並んでいない)セルフチェックアウトとがあるとして、ぼくはどっちへ行くだろうかと考えると、購入する品物が少なくて、バーコードが付いている商品だけであれば、セルフチェックアウトを選ぶように思う。

どこかで「気楽さ」があるのだろう。香港のサービスは「速さ」を最優先にするところがあって、それは圧倒的にすばらしいのだけれど、他の側面において自分が求めているようなサービスを受けられないことがある(香港に限ったことではないのだけれど)。だから、自分でやるほうが「気楽さ」を感じる、ということだろうか。

そんな「気楽さ」のことを考えたり、感じたりするとき、真木悠介(社会学者)のつぎのことばが、ぼくのなかで灯りをともす。


 自動販売機の買い物がいちばん気楽でいい、という世代が日本にもあらわれはじめたという。時間がコストにすぎない世界はプロセスの意味(センス)を脱色し、出会いの能力を退縮させてゆくだろう。
 時間の意識が他者感覚に干渉するのだ。…

真木悠介「狂気としての近代」『旅のノートから』(岩波書店、1994年)


メキシコでの生活を体験した真木悠介が、メキシコと日本の「時間」に照明をあてて書いた「時間の比較社会学」である。ぼくがこの本を読んだのは2000年前後のことだけれども、この文章が発表されたのは1978年のことだ。

ぼくが生まれたころに、「自動販売機の買い物がいちばん気楽でいい」という世代がすでに日本にあらわれていたのだという。

それはそのあとの世代を生きてきたぼくのなかにも埋め込まれているという地点から、自分が感じる「気楽さ」のなかにその一端を垣間見せる現代世界のありかたを、ぼくは見ようとしてきたのである。


西アフリカのシエラレオネ、東ティモールに住んでいたときは「自動販売機」はなかったから(少なくともぼくの生活圏にはなかった)、何かを購入する際にはいつだって「誰か」とコミュニケーションを取っていた。そこに人がいるからといって、自動的にコミュニケーション力や「出会いの能力」が上がるわけでは必ずしもないのだけれど、ぼくが出会う人たちの存在感に助けられて、そこには、「人と人」のコミュニケーション/出会いがあったように思う。

香港では「自動販売機」の利用は一般的ではないけれど、時代が経過するなかで、セルフチェックアウトなどのシステムが導入され、それが「気楽でいい」と思うところもある。便利になればいいなぁとも思ったりする。

けれども、すべてのやりとりが「セルフ」になってしまったら、それは「つまらない」だろうと思う。人とのあいだに起こる不快さもなくなるだろうけれど、そのプロセスで起こるかもしれない楽しさや歓びなどもなくしてしまうだろう。

今日も笑顔と絶妙のセールストークで話しかけてくれ、それから帰り際にも笑顔とサンキューを伝えてくれる店員さんに出会うことができた。日々のなんでもないことだけれど、楽しいひとときであった。出会いは、そんなひとときをつくってくれることがある。


ところで、香港のスーパーマーケットのセルフチェックアウトは、実際はとても賑やかだったりする。使い慣れていない人たちはスタンバイしている店員さんとやりとりするし、近くのセキュリティガードの方が使い方を教えてくれたり、声をかけてくれたりするのだ。

ことばのリズムと会話のやりとりからエネルギーが生成される香港ならではかもしれない。

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香港, 身体性, テクノロジー Jun Nakajima 香港, 身体性, テクノロジー Jun Nakajima

香港の天気予報・警報「通知」が届けられるなかで。- 便利さと喪われた感覚のはざま。

ここ香港の4月は「こんなに暑かっただろうか」と、これまでの10年以上にわたる香港経験の記憶アーカイブを検索してしまうほどに暑い日が続いている。今日は一休みといった感じで曇り空がひろがり、午後から雷が鳴ったり、雨が香港の大地にふりそそいだ。

ここ香港の4月は「こんなに暑かっただろうか」と、これまでの10年以上にわたる香港経験の記憶アーカイブを検索してしまうほどに暑い日が続いている。今日は一休みといった感じで曇り空がひろがり、午後から雷が鳴ったり、雨が香港の大地にふりそそいだ。

午後にさしかかったあたりから大気が不安定になってきて、香港の天気予報・警報の「通知(Notification)」が、スマートフォンを通じてひっきりなしにやってくる。降雨の知らせ、雷警報や豪雨警報の通知など、気象庁にあたる香港天文台(Hong Kong Observatory)のアプリから、通知が届くのだ。もちろん、自分で「設定」しているから、届くわけなのだが。

ずいぶんと便利になったものだ。そんなふうにも思う。

香港に来たころ、10年ほど前には、スマートフォンは普及しておらず、豪雨警報・台風警報を届けてくれる有料サービスが一般の会社が提供していたりしたものだ。それが、今ではスマートフォンのアプリで、香港天文台から直接に、無料で通知が来る。通知の種類も豊富である。


通知を受け取りながら、こんなに便利になったんだと思いつつ、昔はこんな通知がなくてもなにごともなく暮らしていたなぁと思う。

ぼくの記憶は、香港生活を超えて、ぼくが小さい子供だったころにたどりつく。とくに困った記憶もない。困った記憶は忘れられたりするものだから、今のぼくには憶い出せないだけかもしれないけれど、それにしても、大変だった記憶がまったくわいてこないのだ。

ぼくの感覚的な記憶からわいてきたのは、むしろ、そのときの<自然への感度>のようなものだ。空の様子を見て、雲をみやり、空気感を感じる。そんなふうにしてぼくが自分自身で得る「予報」が、あたっていた/あたっていなかったということが大切なのではなく、ぼくなりに<自然に対する感度>を駆使していたことが憶い出されるのである。


原生的な人類は、信じられないほどの視覚や聴覚などの感覚器官を駆使して暮らしていただろう。そのような感覚器は、文明の発展のなかで、テクノロジーにとって代わられてゆく。視覚や聴覚などの感覚器官の、いわば「拡大された感覚器」である。

それら感覚器官の「機能」ということに焦点をしぼれば、テクノロジーがはるかなちからをもって、機能を「拡大」してくれる。テレビやスマートフォンなどを通じて、現代人は、自分たちの感覚器官を退化させても、原生的な人類が想像もしなかったほどの視覚や聴覚を手にしている。

テクノロジーの「光」の大きさを確認しながらも、それらの「闇」へも視界はひらかれなければならない。


真木悠介(社会学者)は、次のような見方を、ぼくたちに提示してくれている。


 …けれどもこのような視野や聴覚の退化ということを、われわれをとりまく自然や宇宙にたいして、あるいは人間相互にたいして、われわれが喪ってきた多くの感覚の、氷山の一角かもしれないと考えてみることもできる。
 たとえばランダムに散乱する星の群れから、天空いっぱいにくっきりと構造化された星座と、その彩なす物語とを展開する古代の人びとの感性と理性は、どのような明晰さの諸次元をもっていたのか。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)


真木悠介のことばが、空の様子を見て、雲をみやり、空気感を感じながら自然と生きていたぼくと共振しながら、今を生きるぼくに語りかける。

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テクノロジーによる「環境容量」の拡大の方向性について。- 見田宗介による「環境容量の拡大と人間の幸せ・不幸せ」の考察。

これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできるときにお伺いできたらと、準備していた「テーマ」がある。

これからの人と社会をかんがえているなかで、社会学者の見田宗介先生と「議論を交わしたい」と思っていたことがあって、将来いつかお会いできたら、ぜひお伺いしたいと、準備していた「テーマ」がある。

それは、現代社会が直面する「巨大な闇」である環境問題・資源問題をのりこえてゆく方途としての「宇宙開拓」についてである。

想像以上に宇宙ビジネスが進展してきているなかで、それでもすぐにとは言わずとも、「宇宙開拓」による資源採掘などが、グローバル化の果ての地球(無限でありながらの有限な球体)を救う手立てとなるかどうかである。

 

そのような「テーマ」を準備していたから、新著である見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)に、このテーマに正面から応答する文章があるのを見つけたときは、嬉しさと共に、そこで展開される論理の明晰さに感嘆の声を心の中であげてしまった。

見田宗介は、「テクノロジーによる環境容量の変更。弾力帯。「リスク社会」化。不可能生と不必要性」(第5章第3節)と題しながら、「テクノロジーの環境容量の変更(拡大)」という方向性を、実際に進んでいる分野として、「二つの方向性」に見ている。

 

  1. 外延的(extensive)に環境容量を変更(拡大)する方向:地球外天体への移住植民や資源探索・採取など
  2. 内包的(intensive)に環境容量を微視の方向に変更(拡大)する方向:遺伝子の組み替えや素粒子の操作など

 

この内の2番目についても、ぼくは「テーマ」を持ってかんがえているけれど、さしあたって、冒頭で問題としたテーマはこの1番目に該当するところである。

グローバリゼーションにおいて、この「地球」という球体の環境・資源を使い尽くす方向に走ってきた人間は、その地点において、論理的に、この外延的(extensive)/内包的(intensive)な方向性に、テクノロジーの舵をきってゆくことは当然であるようにも思われる。

ぼく自身も「外延的(extensive)」な方向への、つまり地球外天体への方向への、研究や試みやビジネスなどの動きに「関心のアンテナ」を張ってきた。

そんな「関心のアンテナ」もあったから、つぎのように書かれているのを読んだとき、ぼくはハッとしたのであった。

 

 環境容量をむりやりにでも拡大しつづけるという強迫観念は、経済成長を無限につづけなければならないというシステムの強迫観念から来るものである。あるいは、人間の物質的な欲望は限りなく増長するものであるという固定観念によるものである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

 

「テクノロジーによる環境容量の変更(拡大)」の方向性は(ひとまずは)続いてゆくだろうし、ぼくは「関心のアンテナ」も引き続き立てておくところだけれども、「考え方の前提」を明るみに出すことを通して、ぼくたちの「思考の癖」を一気に指摘する箇所である。

「経済成長を無限につづける」という強迫観念、「物質的な欲望は限りなく増長する」という固定観念は、現代社会を生きてきたものたちの多くの心身に刻まれているであろう。

どこか疑問や無理を感じながら、しかしどこか離れられないような、そんな観念たちである。

そうして、見田宗介は、つぎのように、つづけて書いている。

 

…もしそのようなものであるならば、たとえ宇宙の果てまでも探索と征服の版図を拡大しつづけたとしても、たとえ生命と物質の最小の単位までをも解体し再編し加工する手を探り続けたとしても、人間は、満足するということがないだろう。奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう。それは人間自身の欲望の構造について、明晰に知ることがないからである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

 

上述の強迫観念と固定観念にうながされるのであれば、、どこまで拡大をつづけても、どこまでも探りつづけても、人間は「満足するということがない」だろうと、見田宗介は書いている。

なお、外延的な環境容量の拡大そのものについては、「コスト・パフォーマンスやカバーしうる資源アイテムの限定性等々からほとんど現実的ではないと思われる」と見田宗介は書いていて、ぼくは「現実的か否か」の議論には、いったんの「留保」をつけておきたい。

それにもかかわらず、「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星の環境容量の中で幸福に生きる仕方を見出さないなら、人間は永久に不幸であるほかはないだろう」という言葉は、外延的な環境容量の拡大が「現実的か否か」の議論をまるでとびこえてしまうように、ぼくの心を、正面から射る。

ほんとうに、ぐさっと、ぼくの心を射る。

宇宙にとんだ視線は、こうして、この「奇跡のように恵まれた小さい、そして大きい惑星」に、また「人間自身の欲望の構造」に、さらには、じぶん自身の「幸福に生きる仕方」に、反転される。

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「人工知能の脳」は、男性脳か、女性脳か。- やはり、黒川伊保子先生に、耳を傾ける。

人工知能(AI)が日常の会話のなかにも、現実にも浸透してきているなかで、人工知能のモデルは「男性脳」なのか、「女性脳」なのかという問いに、視点を得ることになった。

人工知能(AI)が日常の会話のなかにも、現実にも浸透してきているなかで、人工知能のモデルは「男性脳」なのか、「女性脳」なのかという問いに、視点を得ることになった。

1980年代、人工知能の創生期において人工知能エンジニアであり、現在は人工知能研究者であり脳科学コメンテーターである黒川伊保子の著作、『女の機嫌の直し方』(集英社インターナショナルe新書、2017年)を読んでいて、「確かに、その問題はあるなぁ」と、気づかされたのだ。

 

 男女脳は、違う。
 初めて、そのことを知った日の衝撃を忘れられない。
 人工知能エンジニアである私に、それは重くのしかかってきた。ーー私たちが目指す「人工の脳」は、いったい、どちらの脳を目指しているの?

黒川伊保子『女の機嫌の直し方』集英社インターナショナルe新書、2017年

 

当時は、人工知能研究の最前線には男性しかおらず、研究者たちは男性脳=ヒトの脳と信じていたと、黒川伊保子は振り返っている。

人工知能の創生期以後、「人工知能」の研究も言葉も読者にはひびかないから、「脳科学エッセイ」として、黒川伊保子は本を出してきた。

そして、ようやく「人工知能」が脚光を浴びる現在、このキーワードと共に、男女脳を語ることができるようになる。

 

ぼくは、それら黒川伊保子の「脳科学エッセイ」という形の本などで、じぶんの考えの及ばない「女性脳」にふれて、学ぼうとしてきた。

脳が違うから、学んでも学んでも、幾度も幾度も、失敗をかさねてきている。

そんなとき、ぼくは、やはり、黒川伊保子先生の本をひらいて、男性脳らしく「問題解決」をこころみるのだ。

 

女性に接するときに、最も気に留めておいてほしいこととして、「とにかく共感」ということを、黒川伊保子は幾度も伝えてくれている。

「いきなり問題解決」ではなく、「とにかく共感」。

例えば、女性たちが「カワイイ~」と口にするとき、男性脳の男性は「何がカワイイのかわからない」と言ってしまったりして、対象物を「評価」しようとしてしまう。

しかし、女性たちの「カワイイ~」は、「心が動きました~、あなたも動いた?」というほどの意味であるという。

 

そのようにいろいろにアドバイスをしてくれる黒川伊保子は、「脳の性差」がやがて失われるかもしれないとも書いている。

言語スタイルはインターネットによってゆるやかに統一されてきていること、都市化の進展と「生殖ホルモン分泌の緩慢さ」などにより、脳の性差が失くなっていくかもしれないというのだ。

脳の性差がなくなった場合、生物学的に「原型」である女性脳に統一が進んでいくだろうということも付け加えている。

そうすると、例えば、おしゃべり上手な優しい男たちが増え、無骨で一途な男たちが、この世から消えてしまうことになることを想像しながら、黒川伊保子は、女にとって、それは幸せなことだろうかと自問している。

 

…私は寂しいなぁ。私は、私の傍にいる男たちが、必要なときに必要な言葉を言えず、ほんの少し私をいらだたせる感じが好き。そうして、私がちょっと冷たくしたら、ちょっとビビって機嫌をとってくれる、あの感じがたまらない。男たちが無骨じゃなかったら、人生は、うんとつまらない。
 この本を必要としてくれる男がいる以上、男らしい男性脳は、まだこの世に存在するということでもある。この本の読者に、心からの愛とエールを贈りたい。

黒川伊保子『女の機嫌の直し方』集英社インターナショナルe新書、2017年

 

黒川伊保子先生の本を、いつでも開くことができるようにしているぼくは、こうして、黒川伊保子先生の「心からの愛とエール」を受け取りながら、脳の違いに向き合い、そのミゾに対峙している。

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インターネットと本。- ぼくの「本」をアマゾンKindleの「本棚」に置くこと(置き続けること)について。

ぼくの著作、Amazon Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』。

ぼくの著作、Amazon Kindle電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』

ぜひお手にとられて読んだいただきたく思う一方、「気長」にかんがえているようなところもある。

その理由のひとつは、「アマゾン+電子書籍」という組み合わせであるところであり、その土台としては「インターネットの世界」がある。

 

西野亮廣の著作『革命のファンファーレー現代のお金と広告』(新潮社、2017年)は、さまざまな視点と実践記録を提示してくれているが、そのなかに「インターネットが破壊したもの」という文章がある。

アマゾンと町の本屋さんとを比較しながら、インターネットによる「破壊と生成」の、つらなる断層を解説している。

結論的には、「インターネットが破壊したもの」は「物理的制約」であるという当たり前のことであるけれど、その視点を「本」というものに一歩すすめて、きりとっている(そして「創造的な実践」に西野はつなげていく)。

 

…町の本屋さんと違ってアマゾンは…“あまり売れない本”を本棚に並べておくことができる。取り扱っているものが物質ではなくデータだからだ。アマゾンの本棚は無限に続いている。…
 たとえ、月に一冊しか売れないような本でも、それが数百万種あれば、月に数百万冊売れるわけで、チリも積もれば何とやらだ。…
 アマゾンを支えているのは、まさかまさかの“あまり売れない本”だったわけだ。

西野亮廣『革命のファンファーレー現代のお金と広告』幻冬舎、2017年

 

そしてこの「数百万冊」は今もこうして、日々増えている。

数十年前に出版された英語書籍を読みたいと思った時に、ぼくはそれがKindle電子書籍で出ているかを確認する。

そのようにして見つけた古典的な良書を、ぼくは「ワン・クリック」で購入して、読むことができる。

この書籍にとって、「ワン・クリック」を得ることができるのは月に1回かもしれない。

でも、そのような本が数百万冊あって、世界のどこかで、だれかが「ワン・クリック」で購入している。

 

西野亮廣は、町の本屋さんが「20:80の法則」で動いていることを解説している。

仮に100冊の本を店に並べるとしたら、人気の上位20冊の売り上げが店の売り上げの80%を占めているという。

そうすると、本屋を支えているのは、“あまり売れない本”ではなく、上位20%の「売れ筋商品」となる。

残り80%の本は、限られた売り場面積を無駄にしてしまうので、版元に返本され、売れそうな本と取り替えられることになってしまう。

インターネットによる「破壊と生成」は、こうして、いろいろなことのルールや常識を変えていくことになる。

 

というわけで、「絶版」はぼく自身が決めないかぎりないし、大躍進中のアマゾン(そしてジェフ・ベゾス)を見ていると「アマゾンがつぶれること」もKindleの方針を大きく変えることも、今のところはない。

ちなみに、ぼくは「町の本屋さん」も、とても好きである。

売れ筋商品から世界の動きや人びとの関心をかんがえ、またあまり売れない「残り80%の本」のなかに、おもしろそうな本をみつける。

そのような出会いもある。

西野亮廣がいうように「インターネットが破壊したもの」は「(物理的)制約」である。

破壊された制約とその周辺から、新しく、いろいろなものが「生成」されてゆく。

 

「アマゾン+電子書籍」というプラットフォームは、このように、ぼくにとっての力強い味方だ。

こうして、ぼくの本は、(見渡すことのできる未来の時空間において)「アマゾンの本棚」にずっと陳列されることになる。

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「宇宙を引き寄せる言葉/語る文法」(池内了)。- 池内了『宇宙入門:138億年を読む』を読む。

小学生の頃だったと記憶しているけれど、ぼくは「宇宙」の世界に魅了されていた。...Read On.

小学生の頃だったと記憶しているけれど、ぼくは「宇宙」の世界に魅了されていた。

関心は、やがて「望遠鏡による観察」となり、望遠鏡のレンズを通して、ぼくは月や火星、木星などを見ていた。

天体ということに限らず、そこには何か大きなものがひろがっているような感触に、ぼくの想像はかきたてられた。

 

しかし、その後、学校教育のなかに入っていくなかで「試験・受験勉強」の語彙と文法にからめとられ、ぼくは自然科学の興味を失ってしまった。

宇宙物理学者の池内了は、著書『宇宙入門:138億年を読む』(角川ソフィア文庫)の「まえがき」で、受験における、無味乾燥な暗記や計算、意味不明な記号、考える暇を与えない答えの訓練等が、物理学から人をとおざけてきたことを、語っている。

ぼくの埋もれた好奇心をひらいてくれたのは、やはり「夜空」であったように、ぼくは思う。

ニュージーランドでキャンプをしているとき、またトランピングの折に見た、夜空にひろがる星たち。

西アフリカのシエラレオネの空にひろがる広大な空間。

東ティモールの山に、ふりそそぐ流星たち。

香港でも、中秋節を迎える頃には、月が圧倒的な光をふりそそぐ。

そして、時代は、宇宙探索の「空白の時代」を超えて、今また、火星やそれを超えるところに視界をとらえている。

 

「宇宙」は、人の好奇心をかきたてるものでありながら、現代において実にいろいろな「意味」をもっている。

そのような導火線にみちびかれながら、ぼくは「宇宙」について再び、学び始めている。

内田樹の語るところの、私たちが知らないことから出発する「よい入門書」(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書)を探していたところ、池内了の「宇宙入門」に出くわした。

専門家向けではなく、ぼくのような一般の人向けに書かれ、「解かれていない」宇宙の問題を語っている。

「宇宙を引き寄せることば」と「宇宙を語る文法」という構成で、ぼくたちに語りかけてくれる。

 

池内了『宇宙入門:138億年を読む』(角川ソフィア文庫)

【目次】

Ⅰ 宇宙を引き寄せることば
第1章 ビッグバン
第2章 インフレーション宇宙
第3章 膨張宇宙
第4章 バブル宇宙
第5章 渦巻銀河
第6章 フィードバック
第7章 潮汐力
第8章 望遠鏡

II 宇宙を語る文法
第9章 エントロピーの法則
第10章 エネルギー保存則
第11章 運動量保存則
第12章 ベルヌーイの定理
第13章 遠心力
第14章 コリオリ力
第15章 フラクタル
第16章 チューリングモデル

 

「宇宙を引き寄せる言葉/宇宙を語る文法」を、ひとつひとつ丁寧に、池内了が読者に提示してくれる。

「ビックバン」という、今では「正統的な理論」も、市民権を得たのは実はここ50年ほどのことだという。

「初めに光ありき」と語られる「ビッグバン」は、非常な高温で、高エネルギーの「光」に満ちていたと考えられている。

その光は、宇宙が膨張していく過程でエネルギーを失い、その光は現在「電波」となって宇宙にただよっているということが、ビッグパンの証拠であるという考え方だ。

池内了は、しかし、「ビッグバン宇宙論」を疑う態度は忘れてはならないのではないかと、語る。

 

人間に眼を投じたときにぼくを捉えたのは、私たちの体も「光のエネルギー」を発していることに、池内了がふれたところである。

 

 温度が高いと放射されるエネルギーも高くなります。私たちの体は、体温に応じた光である赤外線を放射していることは、暗闇でも赤外線写真が撮れることからもわかります。私たちも「輝いている」のです。…

池内了『宇宙入門:138億年を読む』角川ソフィア文庫

 

ぼくたちは、この暗闇の宇宙のなかで「輝いている」。

SpaceXのロケット「Falcon Heavy」に搭載されたテスラ車「Roadster」の前方には、大きな「暗闇」がどこまでもひろがっている。

そのようなはるかな暗闇のなかで、「輝いている」人たち。

ぼくは、池内了がふと書いた「輝いている」という言葉とイメージに、どこかひかれている。

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社会構想, テクノロジー Jun Nakajima 社会構想, テクノロジー Jun Nakajima

アマゾンが描く未来を考えはじめる。- ジェフ・ベゾスの語る声に耳を傾けながら。

米国のシアトルで、「Amazon Go」が開店し、社員向けの試験段階から、いよいよ一般向けに開放された。...Read On.


米国のシアトルで、「Amazon Go」が開店し、社員向けの試験段階から、いよいよ一般向けに開放された。

スマートフォンの専用アプリをゲートにかざして入店し、自由に商品を選び、レジを通らずに店舗を出て、自動的に清算される。

これまで描かれてきた「未来」が現実化していくのを見るのは、頭の中でわかっていたことだけれども、実際に映像で見ていると、わくわくすると共に、とても不思議な気持ちがする。

これからも、このような「現実」が、至るところでさまざまな仕方で現れていく。

 

田中道昭は、著書『アマゾンが描く2022年の世界:すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」』(PHP新書、2017年)の序章「2022年11月の近未来」で、「佐藤一郎さん(仮名)」の生活を通して近未来のイメージを描いている。

近未来の設定は、「アマゾン365」という無人コンビニエンスストア店舗のオープンカフェ。

「アマゾン365」は、アマゾンが2017年に買収した米国の高級スーパーマーケットであるホールフーズの一業態に、上述の無人店舗「Amazon Go」を融合させたものとして、描いている。

そこはシェアオフィスの機能も有し、フリーランスの佐藤一郎さんがそこで仕事をしているというイメージだ。

今回の「Amazon Go」は、「はじまり」にすぎない。

 

ビジネススクール教授である田中道昭は、前掲書で、アマゾンが描く「世界」を、さまざまなフレームワークを駆使しながら、わかりやすく解説してくれる。

田中が本の執筆で「こだわった点」に、ぼくはひかれる。

 

 本書を執筆するにあたって、私が最もこだわった点のひとつは、アマゾンの経営者であるジェフ・ベゾスの生の声を聞くことでした。その会社を理解するためには、その会社の経営者のセルフリーダーシップとセルフマネジメントのあり方を理解することが極めて重要だからです。

田中道昭『アマゾンが描く2022年の世界:すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」』PHP新書、2017年

 

田中道昭は、ベゾスの人物像を理解するために、公開されている動画はすべて視聴し、引用されている発言、関連する学術論文や資料など、可能な限りに目を通す。

その節の見出しにあるように、「ジェフ・ベゾスの生の声」から未来を見ることである。

 

思えば、ぼくもジェフ・ベゾスの話す内容を、動画を通してじっくり視聴したことがなかったから、YouTubeでいくつかをひろって視聴する。

ジェフ・ベゾスの話す内容と話し方が、思った以上に、ぼくの思考の中にすんなりと入って来る。

特に、アマゾンが掲げる「顧客第一主義」「超長期思考」「イノベーションへの情熱」に関するベゾスの説明は、これらのつながりなどを含めて、ぼくの思考と理解を賦活してくれる。

そこに、ぼくが「顧客」として経験する「Customer Experience(カスタマー・エクスペリエンス)」をあわせながら、ぼくはアマゾンが描く「未来」を見ようとする。

今は毎日、アマゾンをいろいろな仕方で利用しているぼくは、どこに向かっているのだろうか。

田中道昭の分析する「アマゾンの大戦略」の図を見ながら、じっくりと考えてみようと、ぼくは思う。
 

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