名曲「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」の響きのほうへ。- ルイ・アームストロングの歌声と音色に照らされて。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
ときに、ルイ・アームストロング(1901-1971)の「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」を無性に聴きたくなる。すばらしい文学作品がそうであるように、この曲の短い出だしだけで、ぼくは一気に、その音楽が紡ぐ「物語」の世界にひきこまれる。
作詞・作曲はG・ダグラスとジョージ・デヴィット・ワイス。ベトナム戦争や人種問題の深刻化という時代背景のなかでつくられた曲である(※Wikipediaなど参照。「背景」にはいろいろな見方や事情や経緯があるようだ)。
時代背景は、いっぽうで、John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲「Happy Xmas (War is Over)」や「Imagine」を、ぼくに思い起こさせる。
これらの名曲をぼくはほんとうに好きなのだけれど、それは、このような「時代背景」のなかで、曲に託された「世界」(戦争や紛争のない世界)と無縁ではないようにも思う。紛争後の世界(2000年代初頭の、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール)に身をおきながら、ぼくのなかでは、名曲「Happy Xmas (War is Over)」が鳴り響いていた(※ブログ「東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)」)。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」は、映画『グッドモーニング、ベトナム(Good Morning, Vietnam)』の挿入歌としても採用されているから、ぼくの記憶の深いところで、これらの名曲は通底していたのかもしれない。
「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」に限らず、ぼくは、ルイ・アームストロングの音楽、彼の歌声、それからトランペットの響きに心から惹かれる。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)では、JAZZアーティストたちと、アーティストそれぞれの「この一枚」(LP)が取り上げられているけれど、そこでも、ルイ・アームストロングが描かれ、書かれている。そして、和田誠が描くルイ・アームストロングの肖像、それから村上春樹の書く文章にふれながら、ぼくは、ルイ・アームストロングに、心から惹かれる理由がわかったような気がする。
ルイ・アームストロングは11歳のころ、つまらないいたずらが原因で警察に捕まり「ホーム」に入れられる。そこで楽器と出会い、チャイム代わりの「ラッパ」の役をこなし、さらにそれだけでなく、ルイのラッパを聞くようになったみんなは、とても楽しい気持ちで目覚め、とても安らかな気持ちで眠りにつくことができるようになったのだという。
音楽の、このような「効果」は、他のアーティスト(たとえば、ピアニストのLang Lang)の場合でも語られるのをぼくは読んだりするが、ルイ・アームストロングのこのエピソードは彼の音楽の「ほとんどすべてを物語っている」から大好きなのだと、村上春樹は書いている。つづけて、村上春樹は、つぎのように、ルイ・アームストロングの音楽について書く。
ルイ・アームストロングの音楽が、僕らにいつも変わらず感じさせるのは、「この男はほんとうに心から喜んで音楽を演奏しているんだ」ということである。そしてその喜びは見事なばかりに強い伝染性を持っている。マイルズ・デイヴィスはルイ・アームストロングの音楽を尊敬しながらも、舞台で白人聴衆に向かって歯を見せてにこにこと笑う彼の芸人性を厳しく批判した。でも僕はルイはほんとうに楽しくてたまらなかったのだろうと想像する。自分がこうして生きて、音楽を作り出して、人々がそれに耳を傾けてくれるというだけでたまらなく幸福で、何を考えるよりも先に、自然に、にこにこと歯を見せて笑ってしまったのだろうと思う。
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
この文章を読みながら、ぼくはたしかに、ルイ・アームストロングの音楽の核心にあるものがわかったような気がしたのだ。
でも、音楽の、あるいは世界の「楽しみかた」は、この核心そのものをその中心に向かって掘り尽くすことではなく、あくまでも、その核心に「照らされた世界」(つまり、ルイ・アームストロングの音楽)を楽しむことだ。村上春樹の文章は、核心を一気につくものでありながら、よりいっそう、この「照らされた世界」に照準されている。
そのようにしてルイ・アームストロングの音楽にもどると、「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」とともに、ぼくの心を深いところで揺さぶるのは、「Moon River」である。
彼の歌う、そして彼のトランペットが奏でる「Moon River」を聴くたびに、ぼくの心は、ほんとうに「揺れる」のだ。とくに、彼のトランペットが奏でる「Moon River」の響きに。
年を重ねることで得るもの。- ビリー・ホリデイの歌声に、村上春樹が<聴きとる>もの。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)を道案内としながら、Apple Musicで、村上春樹と和田誠がとりあげるJAZZアーティストたちひとりずつを訪れ、また村上春樹が選ぶ「この一枚」(元はLP)を探す。「この一枚」があるときは迷いなくその作品を、またなくてもアーティストの作品たちを、ぼくはじぶんの「ライブラリー」に収める。
ここ香港の空に夕闇がおとずれるころ、ライブラリーから、意識的に、あるいは無意識的にアーティストや作品や曲を選びとって、再生する。音楽の響きに、耳を、それから心身を傾け、また村上春樹のことばをゆっくりと追う。ときおり、和田誠の描くアーティストの肖像をながめる。それだけで、しあわせなひとときだ。
でも、しあわせな感覚は、高揚するような感覚(そのようなときもあるけれど)というよりは、ぼくの心の地層に静かにそそぐ雨がゆっくりとしみこんでゆくような、そのような感覚だったりする。
多少なりとも年を重ねてきたことで感じるものがある。
「ビリー・ホリデイ(Billie Holiday)」(1915-1959)を、若い頃の村上春樹はよく聴いたのだという。でも、ビリー・ホリデイの素晴らしさを「ほんとうに知った」のは、もっと年をとってからであったと、村上春樹は書いている。
でも、ビリー・ホリデイの晩年の録音は、若い頃は熱心に聴かず、むしろ避けていたという。とりわけ1950年代に入ってからのビリー・ホリデイの録音は、「痛々しく、重苦しく、パセティックに」聴こえたからだ。それが、30代に入り、40代に進むにつれて、逆に、晩年のビリー・ホリデイを好んで聴くようになる。
「ビリー・ホリデイの晩年の、ある意味では崩れた歌唱の中」に聴きとることができるようになったもの、あるいはそれほどまでに村上春樹を惹きつけたものは何かと、自らずいぶん考えたのだと、村上春樹は記している。
ひょっとしてはそれは「赦し」のようなものではあるまいかー最近になってそう感じるようになった。ビリー・ホリデイの晩年の歌を聴いていると、僕が生きることをとおして、あるいは書くことをとおして、これまでにおかしてきた数多くの過ちや、これまでに傷つけてきた数多くの人々の心を、彼女がそっくりと静かに引き受けて、それをぜんぶひっくるめて赦してくれているような気が、僕にはするのだ。もういいから忘れなさいと。それは「癒し」ではない。僕は決して癒されたりはしない。なにものによっても、それは癒されるものではない。ただ赦されるだけだ。…
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
村上春樹のことばをゆっくりとおいながら、ぼくは、それこそ、ずいぶんと考えさせられてしまった。「癒し(いやし)」ではなく、「赦し(ゆるし)」ということを。
ところで、ビリーホリデイの優れたレコードとして、村上春樹が選ぶのは、コロンビア盤。さらに、その中の一曲として、村上春樹は迷うことなく、「君微笑めば」(When You’re Smiling (The Whole World Smiles With You))を選んでいる。
…彼女は歌う、
「あなたが微笑めば、世界そのものが微笑む」
When you are smiling, the whole world smiles with you.
そして世界は微笑む。信じてもらえないかもしれないけれど、ほんとうににっこりと微笑むのだ。村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)
アップテンポで、心が楽しくなるようでいて、深い哀愁がただよう響きのなかで、「When you are smiling, the whole world smiles with you.…」と、ビリー・ホリデイの深い歌声が見事なまでに歌い上げている。レスター・ヤングのソロの響きも、心の深いところを揺さぶる。とてもすてきで、心をうつ曲だ。
昔どこかで聴いた曲であるけれど、そのときぼくは聴き流していたようなところがあったと思う。あれから、ひとこと、ふたことでは話せないほどの時間がすぎてゆき、今こうして聴くと、年を重ねてきたことで聴きとるものがたしかにあるように、ぼくは感じる。
このことは、たとえば、文学の古典的作品を「読めるようになった」ことに関する、思想家・内田樹のことばを、ぼくに思い起こさせる。
…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。
内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)
はたして、「音楽」という経験も同じなのだろうかと、ぼくは考えてしまう。
内田樹の書く文章を、「夏目漱石」を「ビリー・ホリデイ」に、「テクスト」を「曲」に、そして「少年期」を「青年期」に書き換えて、読んでみる。
「ビリー・ホリデイを青年期に聴いたときと、中年になってから聴いたときとでは、曲の表情は一変する。私たちは同じ曲にまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいでビリー・ホリデイの曲を聴くことができるようになったのだとしたら、その成熟には、青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与しているのである。」
うん、これはこれで成り立つように、ぼくは思う。
でも、成熟に「青年期にビリー・ホリデイを聴いた経験がすでに関与している」のだとしたら、どのような風に「関与」しているのだろうか。曲の響き、メッセージあるいはステートメント、世界観などが、<聴く>という行為のなかで、じぶんに「関与」してくるのだろうか。……
なにはともあれ、ビリー・ホリデイの曲と歌声を、少しは正面から<聴く>ことができるようになったことは、たしかなようだ。
「音楽ストリーミング」の楽しみかた。- 村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』を道案内としながら。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にしながら、「音楽ストリーミング」の時代の到来をいっそう現実的に、ぼくは実感する(※ブログ「「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。」)。
実際にはぼくも、Apple Musicが開始されて以来これまでずっと、Apple Musicの「音楽ストリーミング」サービスを利用している。Apple Musicによって、ぼくの手元に、5000万の曲たちにつながる「入り口」と「通路」を手にしたことになる。
音楽の好きな人たちにとっては、この夢のような世界が、現実として、手元に存在しているのだ。
そのような夢の世界の楽しみかたは、人それぞれに、いろいろと多様に、ひろがっているだろう。
たとえば、ある「名曲」の、いろいろなバージョン、さまざまなアーティストによるカバー曲も含めたいろいろなバージョンを、ぼくたちは楽しむことができる。名曲の曲名を検索にかけると、そのバージョンが贅沢にも、一覧で表示される。そのなかから、気になるものを選択するだけで、名曲の響きが空間にひろがってゆく。
エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」を検索して、ぼくはいろいろなバージョンを楽しむ。でも、やはり、エルヴィスの歌声に戻ってくるといった具合に。(※ブログ「エルヴィス・プレスリーの名曲「Can't Help Falling in Love」。- 「名曲」のなかの<名曲>というもの。」)
今取り組んでいるのは、村上春樹を「道案内人」としながら、ジャズの名作品にふれてゆくこと。村上春樹・和田誠による著書『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)が、この冒険のガイドブックだ。
『ポートレイト・イン・ジャズ』は、和田誠が描くJAZZミュージシャンの肖像と、村上春樹が書くエッセイが共演する作品。1990年代に刊行された2冊(『ポートレイト・イン・ジャズ』と『ポートレイト・イン・ジャズ2』)に、ボーナス・トラックが加えられて一冊となった文庫である。
まるでJAZZの名演のように、和田誠の描く肖像と村上春樹の文章が、うまいぐあいに鳴り響いている。55人がとりあげられ、村上春樹の個人的選択による、それぞれの「この一枚」(LP)が写真とともに掲載されている。
だいぶ前に読み始めた一冊であったのだけれど、今読み返してみると、途中で「止まった」ままであったようだ。途中、ピアニストのビル・エヴァンスがとりあげられているのだけれど、エヴァンスの一枚として選ばれている「Waltz for Debby」をぼくは(香港のHMVで)手に入れて聴いているうちに、すっかりその世界にとりこまれて、そこでずいぶん長いあいだ、立ち止まって楽しんでいたようだ。
当時は、「音楽ストリーミング」の世界がきりひらかれていなかったときで、ここで村上春樹おすすめの名盤(LP)を知って、香港のHMVでCDを探す必要があったのだ(アマゾンなどで検索して注文する方法などもなかったわけではないけれど)。
今となっては、(ぼくにとっては)Apple Musicによって、5000万曲への通路がひらかれている。
『ポートレイト・イン・ジャズ』をはじめから再読しつつ、そこで取り上げられている名盤を、Apple Musicで探す。あるものもあれば、ないものもある。「この一枚」がなくても、たとえば、Chet Bakerの他の作品やライブ録音を眺めては、「これだ」と思うものをひろって、じぶんの「ライブラリー」に収めてゆく。その過程での思ってもみなかった「出会い」に、心がおどることもある。
村上春樹の「この一枚」でApple Musicにあるものであれば、迷わず、「ライブラリー」に入れる。そうして、村上春樹が曲名にふれているのであれば、その曲を再生して、その曲の響きに耳を傾ける。そうして、村上春樹の「ことば」と、曲の「響き」を重ねてゆく。音楽の聴き方はとても個人的なものでありながら、その響きはどこかで個人を超えて、深いところで通底することもある。楽しいひとときだ。
別に村上春樹である必要はない。ぼくにとっては、たとえば、道案内人のひとりが、その感覚を信頼できる道案内人のひとりが「村上春樹」であっただけだ。
また、あたりまえのことだけれど、JAZZである必要もない。ぼくは今、このタイミングで、JAZZが聴きたくなっただけだ。これまで、ぼくにとってのJAZZは、とても限られた範囲だけであった。でも、ぼくの今の心身が、JAZZの響きとそこに在るものに、とても惹かれるのだ。
村上さんは、言うかもしれない。やはり聴くなら、LPをターンテーブルにのせて聴くんだよ、と。ぼくもLPにはまっていたときがあるから、そのよさは多少なりともわかる。デジタル音楽・「音楽ストリーミング」は、JAZZのほんとうの響きに、ある種の「距離感」をつくってしまうかもしれない。
でも、「いろいろな楽しみかた」があってよいのだと、ぼくは思う。楽しみかたは、無限にひろがっている。
ぼくは『ポートレイト・イン・ジャズ』の道案内に忠実にしたがいながら、音楽ストリーミングのライブラリーに分け入っては、JAZZの世界を楽しんでいる。
「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。
ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。
先日(2018年12月18日)に、ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。
香港のHMVは25年ほど前に香港に登場し、音楽シーンの中心的役割の一端を担ってきた。ぼくが香港に来た2007年、HMVには多くの人たちが出入りしていた。
当時は、映画などはDVDだけでなく、VCDもあって、HMV内にもVCDコーナーが設置されていた。音楽CDの品揃えは香港内ではやはり群を抜いていたから、ぼくは時間を見つけては、銅鑼灣(Causeway Bay)、中環(Central)、九龍湾(Kowloon Bay)のHMVに立ち寄ったものだ。
驚いたのは、日本で購入するよりもリーズナブルな価格でCDもDVDも購入できたこと。そんなこともあって、結構いろいろなCDとDVDを香港のHMVで手に入れた。当時よく聴くようになっていたクラシック音楽をはじめ、香港の生活のなかで縁の深かったビーチボーイズ(特に、名盤「ペット・サウンズ」)など、ぼくの香港生活においてなくてはならない「音楽」は、その多くをぼくは香港HMVで手に入れたのであった。
香港で、CDとコンサートがひとつの「セット」のような仕方で、ぼくは音楽を楽しんできたと、10年以上の香港生活をふりかえってみて思う。
ノルウェイのピアニストであるLeif Ove Andsnesが弾く「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850を、その息づかいが身体にしみこむまでCDで聴いていたところ、彼がマーラー室内管弦楽団とともに香港にやってきた。ピアノを弾きながら指揮をするという興味深い形式のなか、とても親密で繊細な音楽を、この身体で聴くことができた。
ビーチボーイズも50周年記念のコンサートツアーで香港にやってきた。ブライアン・ウィルソンの存在感とともに、休憩を挟んで3時間におよぶパワフルなステージを堪能できた。
Coldplayも、ぼくは香港に住みながら初めてその音楽に触れ、そして、香港のコンサート会場で、一体感につつまれるあの音楽を楽しむことができた。
でも、このような時間的経過のなかで、音楽が提供される「形式」は、深い変遷のなかにあったのだ。iPodのなかに収められる音楽の曲たちは、いつからかiPhoneなどのスマートフォンのなかに移住してゆく。CDからiTunesを通してiPodに収められた音楽の曲たちは、いまでは、Apple Musicのような「音楽ストリーミング」サービスによって、いつでも、どこでも、ぼくたちの手元と耳に届くようになった。
さらにぼくが生きてきた40年余りの時系列のなかに音楽媒体を見渡すと、レコードとカセット、CD(またMD)、それからデジタルへと、音楽媒体は目まぐるしい変遷をとげてきたことを思う。これらの変遷が、たった40年近くのあいだに、一気に進んだのだ。そんな特別な時代に、ぼくは生きている。
カセットテープは10代の頃、重宝した。その当時のだれもがしていたように、じぶんなりの曲構成で、オリジナルのカセットテープを作成したりしていた。1996年にニュージーランドにいるときは、なぜかカセットテープがよく売られていて、CDに比べ安価だったから、ぼくはカセットテープと共に生活していた。
レコードはレコードがコレクターアイテムとして扱われるようになってからも、ぼくはときどき聴いていた。東京の街で、ビートルズのレコード盤を手に入れ、そこに、1960年代の音を聴いた。
それからCDも、東京の街をいろいろと歩きまわりながら手に入れた。香港に移ってからも、香港HMVで、それは続いたのであった。
この10年をふりかえって、CDやDVD離れの傾向のなか、香港HMVもずいぶんと、いろいろな手立てを立てて、存続を企図してきていた。ヘッドフォンなどの機器類、レコードのレア品、本や雑誌、グッズ、レストラン併設など、幅を広げてきていた。でも、確実に、出入りする人は減っていた。
その減少と入れ替わるようにして出現してきた「音楽ストリーミング」、またNetflixのような「映像ストリーミング」。これらの時代の到来は明らかであったし、だれもが実感していることではある。でも、実際に、店舗が閉じられるということになってみて、この時代の変遷がいっそう、実感をともなって感じられる。
必然の流れでありながら、やはり寂しくも感じる。でもよい面だって、ある。ストリーミングという形式は、CDやDVDのような「マテリアル・物質」に依存することなく、現代社会の抱える環境・資源問題から、より自由な仕方で(環境への負担を軽減し、資源収奪的な要素が減った形で)、音楽や映像を共有することができるということでもある。
そして、あたりまえのことだけれど、「音楽」を聴くことができないわけではないし、「音楽」が聴かれなくなったというわけではない。「音楽」はなくならない。東京の街や香港の街を歩きながら、聴きたかった音楽、あるいは予期もしない音楽に出会うという楽しみはなくなったけれど、音楽との「出会い」そのものがなくなるわけではない。
「音楽ストリーミング」という何千万曲もの音楽を収めた音楽ライブラリーの宇宙が、手元に存在している。その宇宙の入り口が、手元にあるのだ。音楽を聴く者としては、それは夢のような世界だ。
もちろん、音楽産業(音楽を作ったり販売したり配信したりする側)としては、異なる見方がいろいろあるだろう。
この文章を書きながら、だいぶ前(数年前)に手に入れた著作『How Music Got Free: The End of An Industry, The Turn of The Century, And The Patient Zero of Piracy』by Stephen Witt(Viking, 2015)のこと、その本をまだほとんど読んでいないことを思い出した。(ぼくにとって)この本を読むタイミングが熟したのかもしれない。
香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。
香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。
香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。
この企画では、香港のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景を、ミニチュアで再現し創り上げている。1980年代のクリスマスの時期に、アミューズメント・パークで楽しむ人たち、映画を楽しむ人たち、食事を楽しむ人たちなど、6つの風景がミニチュアで創られているのだ。そのなかのひとつは、アーティストが33名の生徒さんたちと一緒に創った労作でもあるという。
とても精巧に創られていて、1980年代の香港を知らないのにもかかわらず、その当時の風景がイメージとして浮かび上がってくるかのようだ。その精巧さは、展示場の年配の警備員の方が、当時はこのようだったんだ、というようなことを、展示を見に来ている人に熱心に説明したくなるほどである(実際に警備員の方は熱心に説明されていたようである)。
Times Squareの入り口に設置された特別展示会場での展示であり、小さな場所の、小さな展示(展示物自体が「ミニチュア」)なのですが、<クリスマス+香港の風景>の組み合わせによって、「香港のもの」(作者も、対象も)を見ることができて、ぼくはうれしく思ったのであった(なお、「香港の風景」と言えば、Times Squareの中にある「LEGO」の店舗にはレゴのブロックで創られた香港の風景があって、とても精巧精密にできていて圧巻である)。
<クリスマス+香港の風景>をミニチュア作品のなかに見ていたのだけれど、気にかかったのは「1980年代」の風景であったということ。
ミニチュアを直接に見ているときは、その精巧な世界にひきこまれていて不思議には思わなかったのだけれど、あとになって、ふと思うのであった。なぜ「1980年代」なのだろう、と。30年以上もまえの「香港の風景」が、どうして呼びだされたのだろうか、湧き上がってきたのだろうか、ということを、ぼくは考えてしまったわけである。
この企画の広告にも記載されているように、あるいはアーティストのTony Lai氏とMaggie Chan氏にかんする記事にあるように、それは香港のよき時代の記憶/失われた記憶へとつれもどしてくれるメディア、あるいは「乗り物」としてのミニチュア作品であるのかもしれないけれど、はたして、そのような記憶に登録されている「香港」というものはどのような「香港」であったのだろうか。めざましい経済発展を成し遂げてきた1980年代以後の香港が手に入れたものは何で、失ったものは何であったのか。
ぼくにはそのことはわからない。想像はできるけれど、ぼくの直接の経験がベースになっているわけではない。
ぼくが生きてきた「日本」の経験に即しながら、しいて言えば、「平成」の時代から振りかえる「昭和」の風景かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。イメージとしては、いわゆる、「レトロ」なイメージである。
昭和の時代のレトロな風景に向かう心情(レトロな風景と、そのような風景に息づく人間模様や風情や心境など)が、1980年代の香港の風景に向かう心情と、どこか重なっているかもしれないと思ったりするのだ。実際に、ミニチュア作品のなかに見られる、街頭の「屋台」などが、そのような見方を少しは裏づけているかもしれない。
でも、記憶というものは、過去の記憶を「純化」してゆく作用ももっている。記憶は、当時の風景からいろいろなものを捨象していって、美しい風景へといくぶんか「純化」してゆくのだ。それは「間違った記憶」ということもできるかもしれないけれど(そして記憶は多分にして「再構成された/再解釈された記憶」であるのだけれど)、ぼくは、そのなかには「真実」も含まれるのだと思う。
そのようにして記憶として純化されながらも、確かにそこにあった「真実」とは何であったのだろうか。その「真実」は、いまとなっては失われてしまった(あるいは失われてしまったかのようにみえる)のだろうか。また、それと同時に、何かを手にしてきたのであれば、それは何であったのだろうか。
さらに、それらは、深いところで、「ぼく」の経験や感覚とつながっているだろうか。つながっているとしたら、どのようにつながっているのだろうか。
ミニチュアではなく、窓の外に見える香港の高層ビルの明かりを見ながら、ぼくはそのような問いを明かりに向けて投げかける。
観客の女の子の「声」がつくったミュージカル。- 香港で鑑賞したミュージカル『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)。
香港の湾仔に位置する「The Hong Kong Academy for Performing Arts」(香港演芸学院)のシアターでは、毎年ミュージカル公演がある。2019年1月には『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)が開幕する。
香港の湾仔に位置する「The Hong Kong Academy for Performing Arts」(香港演芸学院)のシアターでは、毎年ミュージカル公演がある。2019年1月には『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)が開幕する。
『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)は、ABBAのヒット曲によって構成されるミュージカル。2008年には映画化(メリル・ストリープなどが出演)もされ、今年2018年には映画第二作目『Mamma Mia! Here We Go Again』が上映されている。
だいぶ前(5年以上前だと思う)、香港の『Mamma Mia!』ミュージカル公演を観に行ったことがあって、そのときの「観客の女の子が発した声」が、いまでも、ぼくのなかに鮮やかにのこっている。
シアターに鳴り響いた「女の子の声」にたどりつくために、『Mamma Mia!』の「あらすじ」に、かんたんに触れておかなければならない。なぜならば、「女の子の声」が響きわたったのは、上演の最後のほうであったからである。
『Mamma Mia!』は、ギリシャの島の小さなホテルを舞台に、そのホテルの経営者である母親ドナと娘ソフィ、さらにソフィの父親かもしれない男性3名が加わって展開してゆく物語。
婚約者スカイと結婚する準備をすすめているソフィは、結婚式では父親にバージンロードを一緒に歩いほしいと願うが、父親が誰だかわからない。ソフィは母親ドナの日記の記述から父親の候補者3名を見つけだし、ドナに内緒で結婚式に招く。内一人が父親かもしれない3名の男性、サム、ビル、ハリーが島にやってくることになって、美しいギリシャの島で、ドラマが繰り広げられてゆくのだ。
そんなこんなで話は進展し、いろいろなドラマを通過しながら、最後のところで、男性の一人がドナにプロポーズをすることになる。こうして、男性がプロポーズの言葉をドナに投げかけるのだ。
「Would you marry me?」
たぶん、だいたいこのようなシンプルなプロポーズの言葉であったと記憶している。
このころには、ぼくを含め、観客の人たちは「物語の世界」にかんぜんに没入していて、息をひそめているように静かであったと思う。
と書いたところで、もうおわかりかもしれない。
このときの息をのむような静けさの空気を割ったのは、ドナではなく、観客の小さい女の子の「声」であった。
「I do!!!」
小さい女の子の声で「かわいい」声なのだけれど、凛としていて、とても澄んだ、確信に満ちた声が、会場をつらぬいたのであった。「つらぬいた」と書いたが、女の子が座っているであろう会場のちょうど真ん中あたりの席から、空気をつらぬいて、言葉が舞台で演じている出演者に<届けられる>のがわかるような声であった。タイミングも、かんぺきなタイミングであった。
舞台の上ですすむドラマにかんぜんに入りこんでいた会場は、どっと、笑いと歓声とで湧いた。
この雰囲気のなかを、ふたたび舞台の上にドラマをもどす出演者の方々のプロフェッショナリティもさすがであったけれど、女の子の「声」がいっそう<ドラマ>をつくったのであった。
それにしても、あのような透きとおるような「声」を聴いたのは、これまでにそれほど多くはないと、ぼくは思う。
「子ども」とは、じぶんと他者、またじぶんの「からだ」と「こころ」が未分化であったり、曖昧であったりする存在でもある。
そのように曖昧な輪郭の<境界線>が物語のなかでくずれて、意識することなく、あの女の子の身体が、あのような透きとおる声を発したのだと、ぼくは考える。
いつもミュージカルを観にいくわけではないし、たくさん観てきたわけでもないけれど、ここ香港で観たミュージカル『Mamma Mia!』は、ぼくにとって、もっとも印象に残っているミュージカルである。
舞台の上での演技やダンスや歌もとてもよかったのだけれど、それを観ていた観客の人たちのつくりだす雰囲気、そしてそんななかから奇跡のように放たれた、小さな女の子の「声」。
いまでも、あのときのことを思い出すと、ぼくの心は暖かくなる。
映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』。- 物語と言葉で「つながる」世界。
映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』(2018)は、同名の小説をもとにした作品。
映画『The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society』(2018)は、同名の小説をもとにした作品。
日本語訳の小説タイトルは『ガーンジー島の読書会』とつけられている。
オリジナルの名前はとてもしゃれていて、ある意味でこの作品の核心をつきぬけているのだけれど、わかりやすくするために「読書会」に焦点をしぼったのだろう。
なお、「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」とは、この読書会の団体名である。
映画は、第二次世界大戦が終わったばかりの1946年、ロンドンに拠点をおく作家Juliet Ashtonのもとに、イギリス海峡に位置し、戦時下ドイツに占領されていた歴史をもつガーンジー島(the island of Guernsey)に住むDawsey Adamsから手紙が届き、その手紙のやりとりから、物語が展開してゆく。
物語の展開は、1946年の「現在」という物語と、ドイツ占領下の1941年に思いもかけない仕方で「The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society」が結成され、活動を続けていた「過去の記憶」の物語とが交差されながら、すすんでゆくのである。
この映画を「どのように見るか」は、もちろん人それぞれであるし、ひとつの映画のなかに、人それぞれにいくつもの共感や関心やテーマを見出してゆくものである。
ぼくがこの映画に惹き込まれたのは、物語と言葉が、人と人とを「つなげる」世界のあり様であった。
貧窮極まる、ドイツ占領下のガーンジー島に暮らす幾人かが、思いもかけない仕方で「本」を読むようになり、文字通り、「本」に生かされることになる。
物語と言葉が、「現在」の人たちをつなげ、また、著者と読者を幸福な仕方でつなげる。
このことのリアリティを、ぼくは感じざるを得ないのである。
なによりも、ぼく自身、「何か」がくずれさってゆくような感覚のなかで、「物語」に支えられたことがある。
2006年東ティモールのディリ騒乱で、銃撃戦の最中にまきこまれ、翌日に国外に退避したことの経験である(今の東ティモールはとても平和であることを付け加えておく)。
規模と被害などにおいて第二次世界大戦などと比べものにならないながらも、紛争がぼくの精神に与える影響の一端を垣間見たのであった。
ぼくの精神の風景には、数日後日本に戻ってからも、寒々とした風景がひろがり、何かがくずれてゆくようであった。
ぼくを支えてくれたのは、「本」であり、そこにひろがる「物語」であった。
日々、ぼくは本屋さんに立ち寄ることで、なんとか、精神を維持していたようなところがある。
だから、ぼくのなかに刻印されたそのリアリティの地点から、ぼくは映画のなか、戦争・占領下において精神がくずれさってゆくような状況で、「物語と言葉」が人と人とをつなげ、また人それぞれの精神を支え、この世界とのつながりを維持してゆくあり様を見て、そこに惹かれたのだと思う。
これは、あくまでも、ぼくの見方である。
人は食べ物がなければ生きてゆけないこととは異なる次元で、しかし、人は物語と言葉がなければ生きてゆけない。
この映画は、そこのリアリティに降りてゆく作品でもある。
伝統芸能「能」で、眠くなってしまう「メカニズム」。- 安田登の深い「解釈」。
「日本」という<場>から物理的に離れていることによって、内面的にも、日本や日本的なるものから(ある程度は)「距離」をとることができるように思うことがある。
「日本」という<場>から物理的に離れていることによって、内面的にも、日本や日本的なるものから(ある程度は)「距離」をとることができるように思うことがある。
もちろん、物理的にどこまで行ったとしても(アフリカまで行ったとしても)、じぶんから「抜けない」思考や行動の様式があるのだけれど、それでも、物理的な距離や異文化環境が、日本や日本的なるものから、ある程度の距離をつくる手助けをしてくれることがある。
その「距離感」は、これまで近すぎて重苦しさを感じたり、避けてきたりしたものにたいして、そのような否定的な感情をいくぶんか取り除くか凍結させて、より理性的に、あるいは好奇心をもって向き合うことを可能にしてくれたりする。
ぼくにっとっては、日本の「伝統」というようなものも、そのように、距離をとることで好奇心がわくもののひとつだったりする。
「能」という日本の伝統芸能も、そんなふうにして少し距離をとって学ぶと、興味のつきないものである。
これまで、ぼくが’日本で「能」を観賞したのは、ほんとうにわずかである。
そんなぼくが、ここで「能」それ自体を詳細に書こうとは思わないけれど、「能」にまつわる、ぼくの「体験」について、その体験の「理由・機制(メカニズム)」について、面白い「解釈」を見つけたので、ここで触れておきたいと思う。
ぼくの体験と体験の理由だからといって、なにも「ぼく」だけの体験ではないだろうし、おそらく、きっと、結構な数の人たちが体験することだと、ぼくは勝手に推測する。
その体験とは、能などの伝統芸能を観ながら「眠りに落ちてしまう」という体験である。
この体験にたいする面白い「解釈」は、インタビューに応答する、能楽師安田登のことばの中に見られる(「650年の歴史を持つ「能」から、過去、現在、未来の「心」を探る」、Webサイト『mugendai』)。
日本史の授業でも習うように、能は、室町時代、観阿弥・世阿弥父子によって大成された芸能である。
「とてもわかりやすい」説明を安田登がしてくれているように、能は、「現在能」(この世に生きている人のみが登場)と「夢幻能」の二つに分けられている。
そのうち「夢幻能」は、「ワキ方」(旅の僧など)と主人公である「シテ方」(幽霊、神、精霊など)から構成されており、ワキ方は「脇」役ということではなく、あの世とこの世を「分く=境界」存在であるという。
安田登自身はワキ方として舞台に立ってきたのだが、面白いのは、能を始めたころの安田は、観客席の中に眠っているお客様を見つけては、それほど退屈な能を観に、なぜわざわざ足を運ぶのだろうと、疑問に思っていたのだということ。
「あくまでも推論ですが」と断りを入れながら、安田登は、能を観ながら「眠りに落ちてしまう」現象を、つぎのように「解釈」している。
…能舞台は、死者がこの世で果たせなかった思いを晴らしにくる場所として機能します。同席するお客様も、ワキ方としてその思いを受け止めているうちに、過去に葬った自分の姿も作中の死者と同様によみがえるのではないかと。そして、それがピークに達したときについ眠りに落ちてしまう(笑)。
人は成長する過程で、さまざまな痛みに出会い、なんとかそれを乗り越えて現在の自分を形づくるものです。誰もがたくさんの痛みを経験してきたわけですが、まだ消化できていない痛みには、ある意味フタをしながら生きている。自分の中に残っていたそういう思いが、能の舞台を観るのと並行して、無意識のうちに解放され昇華されるのではないかと想像しました。
この部分を読みながら、ぼくは感覚として「わかる」ような気がした。
もちろん、ぼくが「能」を観たのはほんとにわずかだから、「能」以外の経験も含めたうえでの、解釈の「読み取り」だと思う。
この解釈が正しい/正しくないという以前に、能を観ながら「眠りに落ちてしまう」ということを、能楽師の視点として、真正面から応えようとすることに、心を動かされる。
「能は退屈なんだな」という地点で思考を停止するのではなく、そこに心身の動きを感知するのだ。
ところで、ぼくが途中で眠くなった伝統芸能は「能」だけでなく、中国の京劇もそうであった。
ここ香港で観に行った京劇で、ぼくは途中で、すっかり眠りに落ちてしまった。
まさに「すっかり」という言葉のとおり、眠ってしまったのだ。
そのときはただ疲れていたのだとも思うけれど、京劇を観ながら「眠りに落ちてしまう」ことの推論・解釈を、どなたかされているだろうかと、ぼくは情報のアンテナをはる。
香港で、テレサ・テンの曲「香港〜Hong Kong〜」「香港の夜」を聴く。- その「場」で聴く曲の響き。
歌手テレサ・テン(1953-1995)の歌のなかには、「香港」の語を曲タイトルに含む曲が二曲あることを、Apple Musicでテレサ・テンのページなどを眺めていて気づく。
🤳 by Jun Nakajima
歌手テレサ・テン(1953-1995)の歌のなかには、「香港」の語を曲タイトルに含む曲が二曲あることを、Apple Musicでテレサ・テンのページなどを眺めていて気づく。
「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」。
せっかく、ぼくは今香港にいるのだしと、ここ香港で、テレサ・テンの歌う香港の響きに耳を傾けてみる。
ぼくにとってテレサ・テンはひと世代前の歌手であったし、またぼくはテレサ・テンの熱心なファンでもない。
それでも、彼女の歌声の響きはとても印象的であったから機会があれば聴いたし、また、アジアではいまだにテレサ・テンは聴かれていたりするようで(たとえば香港のCD・DVD店の店頭では、テレサ・テンのアルバムが置かれていて、テレサ・テンの慎ましい笑顔が街灯に投げかけられている)、ときおり聴いたりするのである。
そんなぼくが、彼女の曲のなかに、「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」を見つけたときは、あのテレサ・テンが「香港」をどのように歌い、どのような思いを込めていたのだろうかと想像するとともに、1980年代後半の曲(「香港~Hong Kong~」)が今の香港でどのように響くのだろうかという好奇心がわきあがってくるのであった。
石川さゆりの歌う「津軽海峡冬景色」という曲はやはり津軽海峡で聴いてみたいと思うのと同じように、「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」も香港で聴いてみたくなる。
ちなみに、「津軽海峡冬景色」という曲と「香港~Hong Kong~」という曲の共通点は、「場所」をタイトルに付しているということにとどまらず、いずれの曲も作曲家が三木たかしであるということに、ぼくは不思議な驚きを感じるのであるけれど、そのことを書くうえでは「二つのこと」もあわせて書いておかねければと思う。
一つのこととは、「日本」のことである。
台湾出身のテレサ・テンは1970年代初頭にすでに香港でもレコードを出し、アジア圏で注目されながら、1974年、21歳のときに日本デビューを果たしたという(参照:Wikipedia)。
ぼくにとっての「テレサ・テン」も日本での活躍のイメージがほとんどだったのだけれど、「香港の夜」の曲をApple Musicで見つけたときは、「香港之夜」というように中国語版であったから、ぼくの先入観として中国語の歌であり、日本で作詞・作曲されたということに思い至らなかったということがある。
「アジアの歌姫」と呼ばれるように、テレサ・テンはアジア圏での圧倒的な人気を博しながら、しかし歌手生活においても、ヒット曲の形成においても、日本の影響は大きい。
「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」という曲たちが日本人の手で作られていたこと。
不思議な思いにとらわれるけれども、テレサ・テンが「テレサ・テン」になっていく軌跡をかんがえれば、別にありえないことではない。
二つのことのもう一つは、「演歌歌謡曲」ということである。
1974年、アイドル路線のデビュー曲は失敗に終わる。
そこで「アイドル歌謡曲」から「演歌歌謡曲」への路線変更をなしとげることで、テレサ・テンは日本での強固な足場を獲得していったということである。
その後パスポート問題を乗り越えて、1980年代に再来日デビューし、「作詞・荒木とよひさ/作曲・三木たかし」のコンビで、1980年代半ばにテレサ・テンに提供された曲、「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」が大ヒットにつながってゆく。
その延長線上、つまり「作詞・荒木とよひさ/作曲・三木たかし」のコンビによる、テレサ・テンに提供された曲として、「香港~Hong Kong~」という曲はあった(なお、「香港の夜」は別の日本人による作詞・作曲)、ということになる。
という、二つのこと(日本の影響、演歌歌謡曲路線)を前提にすれば、「津軽海峡冬景色」と「香港~Hong Kong~」がともに三木たかしの作曲であることは、たとえばまったく知らない二人の人たちが実は双子であったというほどの意外性をもっているわけではないだろう。
むしろ、ぼくが<地名>ということからたまたま「津軽海峡冬景色」を連想して、たまたま調べたら、それが「三木たかし」を介して「香港~Hong Kong~」に繋がったということの偶然性に、つまりぼくの「たまたま」の発見にぼくがぼく自身で驚いただけである(ぼくはまったく驚いてしまったのだけれど)。
とにもかくにも、そのような「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」という曲を、ぼくは、ここ香港で、(津軽海峡を冬に訪れたら「津軽海峡冬景色」を聴いてみたくなるのと同じような仕方で)聴くのである。
でも、聴きながら思うのは、「今の」香港に風景とすれ違ってゆく音の風景である。
それは、「今の」ということの前に、もともとが「香港」でつくられた曲ではないからかもしれない。
あるいは、それはただ、「演歌歌謡曲」だからなのかもしれない。
1990年代の東京で、ぼくは演歌歌謡曲が東京の街の風景にあうとは思わなかったし、歌詞も曲調も、時代のすれ違いのようなものを示していた。
「今の」香港とのすれ違いがあるとするならば、1980年代後半などの風景にはしみこんでいったのだろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
ぼくが香港をはじめて訪れたのは1995年。
体験ベースとしては、そのときの「香港」の体験を掘り起こすことになるのだけれど、もしかしたら、当時の風景の方が「合っていた」のだと、ぼくは感覚する。
でも、ひるがえって、それはぼくの主観にすぎないのではないかとも思ってしまう。
「今の」香港の風景に、テレサ・テンの曲と歌声を重ね合わせる人たちは、たくさんいるはずだ。
それは「過去の思い出のフィルター」を通してなしとげられることだろうけれど、それでも、「今の」香港の風景に重ね、そこに「何か」とても大切なものを見るのだろう。
香港に来られたら、あるいは香港に住まれたら、テレサ・テンの「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」を、風景に照らしながら、聴いてみてはいかがだろうか。
「古典」としてのビーチ・ボーイズ『Pet Sounds』。- 「古典解釈」としてのジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』(村上春樹訳)。
ビーチ・ボーイズの名盤『ペット・サウンズ』をきちんと聴こうと思ったのは、10年ほど前のこと(つまり、2007年・2008年頃のこと)になる。
ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)の名盤『ペット・サウンズ』(Pet Sounds)をきちんと聴こうと思ったのは、10年ほど前のこと(つまり、2007年・2008年頃のこと)になる。
それまでにも、ビーチ・ボーイズの音楽は聴いていたし、また名盤『ペット・サウンズ』の存在も知っていた。
それだけでなく、高校時代には、バンドで、ビーチ・ボーイズの曲を演奏していたこともあった。
けれども、1990年代に大学に通っていたころ、ぼくはビーチ・ボーイズではなく、ビートルズに「はまって」いて、ビーチ・ボーイズは他に「はまって」いたオールディーズという括りのなかでの、ひとつのバンドであった。
2007年にぼくは香港に移り、そこで、村上春樹と和田誠による『村上ソングズ』(中央公論新社)という本をひらき、そこに収められた最初の曲として、「ビーチボーイズの伝説のアルバム『ペット・サウンズ』に収められたとびっきり美しい曲」(村上春樹)に出会う。
ポール・マッカートニーが「実に実に偉大な曲だ」と語った、「God Only Knows」(「神さましか知らない」)である。
この曲が収められている『ペット・サウンズ』をきちんと聴いてみようと思ったのは、その頃のことであった。
時期をほぼ同じくして、村上春樹が、ジム・フジーリ(Jim Fusilli)の著作『Pet Sounds』を翻訳し、その翻訳書を新潮社から出版していて、ぼくは、関心の流れから、名盤『ペット・サウンズ』と共に、この本も手にしたのであった。
それから、今に至るまで、この本をきちんと読まずにきてしまっていたのだけれど、今になって読んでみて、いっそう楽しむことができたように思う。
『ペット・サウンズ』そのものに光をあてていること自体関心をよぶ本であり、内容も、そのアルバムの素晴らしさと意義、曲の詳細解説、またブライアン・ウィルソンの人生などを、ジム・フジーリの生ともときおり交差させながら語り、興味深いものとなっている。
この本のなかでも、「God Only Knows」(「神さましか知らない」)は、本の後半、終盤に向かうところの「特別な位置」に置かれている(実際は、アルバムの順序に合わせた形ではあるのだが、「特別な位置」のように見える)。
そのあたりから、ジム・フジーリの『ペット・サウンズ』が、村上春樹の『ペット・サウンズ』のようにも聞こえてくるから不思議だ。
翻訳において村上春樹本人は逐語訳的な翻訳を心がけているようで、自身もあまりよく分からないというけれど、この本でも「村上春樹」のリズムと文体がところどころに刻印されている。
それが、ぼくの感覚では、終盤になって、より前面に(落ち着いた情熱とともに)押しだされてくるように見える。
翻訳書の本の「帯」には、「村上春樹 x ブライアン・ウィルソン」と大きく書かれているけれど、それが本を売るための文句でありながら、ある意味で「ほんとうのこと」でもあるところに、この本はあるようだ。
そのことは、翻訳という作業には抜け出せないものとしてあることだから特に気にするものではないけれど、むしろ『ペット・サウンズ』という世界が、それを聴く者たちを、しずかな情熱と心の揺れのなかになげこむことの作用でもあるように、ぼくは感じたりする。
その『ペット・サウンズ』について、ジム・フジーリは、たとえば、つぎのように書いている。
ニック・コーンというライターは『ペット・サウンズ』のことを「幸福についての哀しい歌の集まり」と呼んだ。この名作アルバムをこれほど短く的確に表した言葉はほかに見当たらないはずだ。ただし「素敵じゃないか」とか「ヒア・トゥデイ」を聴いたあとでは、あなたはそれを「哀しみについての幸福な歌の集まり」と呼ぶことになる。…
ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』村上春樹訳(新潮社、2008年)
「幸福についての哀しい歌の集まり」という呼び方、あるいは「哀しみについての幸福な歌の集まり」という呼び方の、その的確な言葉に、ぼくは感心してしまう。
けれども、『ペット・サウンズ』には、「短く的確に表した言葉」をどうしても超え出てしまうようなところがあるのであり、だからこそ、ジム・フジーリは、この名盤を語るのに、一冊書いてしまったのだとも言える。
この本の「訳者あとがき」で、村上春樹が書くように、『ペット・サウンズ』は、その再評価の流れのなかで、若いミュージシャンたちが「アクチュアルな古典」(村上春樹)として聴くようになった作品である。
そのことばを読んで、ぼくは納得してしまう。
『ペット・サウンズ』は、「古典」であるのだということを。
「古典」の作品たちは、音楽であろうが文学であろうが科学であろうが、「短く的確に表した言葉」でいろいろに呼ばれるのだけれども、どうしても、その狭い呼び名を超え出てしまう仕方で、それらを「きちんと」聴く者・読む者たちに現れるものだ。
きちんと聴こうと『ペット・サウンズ』のCDを購入し、またジム・フジーリの著作『ペット・サウンズ』を手にしてから、その世界にまるで呼応するかのように、「ビーチ・ボーイズ」が、ぼくの世界に現れてくる。
2012年、結成50周年記念として再集結したビーチ・ボーイズは、(1960年代半ばからツアーに参加しなくなった)ブライアン・ウィルソンと共にここ香港にもやってきて、「God Only Knows」(「神さましか知らない」)を歌い、演奏した。
それから数年後、今度は、ブライアン・ウィルソンは参加せず、他のメンバーたちが「ビーチ・ボーイズ」としてやってきて、やはり「ビーチ・ボーイズ」を歌い、演奏した。
また、ブライアン・ウィルソンの半生を描いた映画も公開され、ブライアン・ウィルソンの「苦悩」を、映画を通して知ることができた。
そうして、ぼくはようやく、このジム・フジーリの著作『ペット・サウンズ』に正面から向かうことになり、ジム・フジーリによる『ペット・サウンズ』という名盤の「古典解釈」に耳を傾けている。
その解釈はまた、古典としての名盤『ペット・サウンズ』を楽しむための、聴き方となっていく。
「カタツムリの世界」へと降り立ち、折り返すまなざし。- ヴャチェスラフ・ミシチェンコの写真世界。
『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)という、写真とことばに彩られた小さな美しい本がある。
『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)という、写真とことばに彩られた小さな美しい本がある。
ウクライナの写真家ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(Vyacheslav Mishchenko)が撮影した「カタツムリ」の写真をならべ、そこに、ひすいこたろうが物語を紡ぐ仕方で、本はつくられている。
ヴャチェスラフ・ミシチェンコのきりとる写真世界の美しさに、そしてその世界の豊饒さに、まさに<ヴャチェスラフ・ミシチェンコの眼>をとおして、ぼくたちは誘われる。
ヴャチェスラフ・ミシチェンコの<眼>を豊饒にしたのは、小さい頃に、写真撮影における「マクロ撮影の技法」に出会ったことであるという。
そこから、この技法を使い、自然が見せる異なる次元へと降り立ってゆく。
前掲の本の「あとがき」で、ミシチェンコは、つぎのように書いている。
…夢と現のはざまにある夜明けの前の時間帯、マクロレンズのファインダーは息をのむほど美しい世界にわたしを立ち会わせてくれます。その世界では、人間の世界のもめごとなんて、本当にちっぽけなものなんです。
ひすいこたろう(物語)、ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(写真)『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)
ミシチェンコは、たとえば「カタツムリの世界」に入ってゆくことで、その世界から折り返す仕方で、「人間の世界」をまなざす視点を獲得している。
それは、ちょうど、「宇宙の世界」に入ってゆくことで、その世界から折り返す仕方で、「人間の世界」をまなざす視点とおなじ形であり、視点の「基点」は逆さまだ。
宇宙の視点から「人間の世界のもめごとなんて、本当にちっぽけ」と思うことはあっても、カタツムリの世界からそのように思うことはあまりないのではないかと、ぼくは思う。
このように、地球から外部(宇宙)へと出て獲得する視点とは逆に、地球のその自然の内部に一気に降りてゆくことで、ミシチェンコは「人間の世界」をまなざす鮮烈な視点を獲得している。
ミシチェンコは、カタツムリの「生きかた」には<独特の哲学>があるのだとしながら、つづけて、つぎのように書いている。
カタツムリは、のろいのではありません。ただ「生」を、じゅうぶんに感謝しつつ味わっているんです。
わたしが伝えたいのは、われわれはカタツムリとほとんど何も違わない、ということ。カタツムリという存在は、「急がないこと」「抗わないこと」の究極の象徴です。それでカタツムリは一生幸せに生きられるのです。
ひすいこたろう(物語)、ヴャチェスラフ・ミシチェンコ(写真)『誰よりも、ゆっくり進もう カタツムリの物語』(飛鳥新社、2014年)
「人間の世界」において、とりわけ現代社会においては、「早い/遅い」ということは切実な意味をもって立ち現れる。
資本制システムの本質は、「時間との闘い」である。
ぼくたちは、小さい頃から、「早く、早く」ということばのシャワーのなかで生きてきた。
ただし、動物などの寿命が「長い/短い」のかということがあくまでも人間的な視点であるのと同じく、カタツムリが「のろい」のかどうかも人間的な視点にすぎない。
大切なことは「早い/のろい」ということではなく、ミシチェンコが書くように、「生」をじゅうぶんに感謝しつつ味わっている、かどうかということである(なお、原文がどうかはわからないけれど、「感謝しつつ」ということはより正確だ。「感謝してから」味わうのはではなく、味わいのなかに、感謝がわきでてくる)。
この地球という新鮮な奇跡を、ミシチェンコが撮影したカタツムリたちのように、じゅうぶんに味わうこと自体が、「幸せ」ということでもある。
「敗者たち」のすがすがしさを観る。- TV番組『America's Got Talent(アメリカズ・ゴット・タレント)』「Season 13」の閉幕において。
TV番組『America's Got Talent(アメリカズ・ゴット・タレント)』(略称:AGT)は、公開オーディションの形で才能を競い合うTV番組。
TV番組『America's Got Talent(アメリカズ・ゴット・タレント)』(略称:AGT)は、公開オーディションの形で才能を競い合うTV番組。
今年は「Season 13」を迎え、今回もさまざまな人たち、歌手(歌を歌う人)、ダンサー、マジシャン、曲芸者、コメディアンなどなど、才能や創造性を披露してくれた。
その「Season 13」も、ついに「Winner 勝者」が決まり、その幕を閉じた。
番組ぜんたいを通してぼくを惹きつけたことのひとつは、参加者たちの<多様性 diversity>であった。
参加者たちの、人種、性、年齢、出身などの多様性、また彼ら彼女たちの歩んできた/歩んでいる生の多様性を感じることができた。
そのような多様性に充ちた「Talent タレント」たちが、自らの夢を追いもとめてゆく生において、AGTの舞台で交差し、そこでパフォーマンスを披露する。
AGTの「舞台」では、「Talent タレント」たちは、観客たちに見守られながら、また観客たちの歓声に彩られながら、<エネルギーの交感>のなかで、ときに、じぶんを超えるようなパフォーマンスを遂げてゆくようであった。
その交感は、たとえば、アレサ・フランクリン(Aretha Franklin)が「Amazing Grace」を歌うとき、聴衆たちの高ぶる声に振動するように自身の歌声のボルテージを上げていく様を、ぼくに思い起こさせる。
ぜんたいとして心に印象に残ったことをもうひとつ挙げるとすれば、「敗者たちの、すがすがしさ」である。
終盤戦に向かうにつれて、「勝者(通過者)」がいる一方で、もちろん「敗者」がいる。
準々決勝以降、「敗者たち」の「Elimination Interview 脱落インタビュー」が動画でアップロードされ、それらを興味深く、ぼくは視聴した。
「残念な気持ち」はやはりあるだろうけれども、それ以上に、「すがすがしさ」のようなものが、表情や声から伝わってくるように、ぼくには思える。
それは第一に、「やりきった・出しきった」というすがすがしさであり、また第二に、結果ではなく、それまでの「過程」に内在する充実感のあらわれとしてのすがすがしさであると、ぼくは見てとる。
さらに<結果>としては、その過程で、参加者たちそれぞれに「何か大きなもの」を獲得したことでもあるだろう。
これらの意味においては、けっして「敗者」なのではなく、だれもが<勝者>なのである。
なにはともあれ、見どころの多い「Season 13」であったし、個々のパフォーマンスを純粋に楽しむことができた。
来年の「Season 14」(もしあれば)も楽しみだ。
民謡「Row, Row, Row Your Boat」の人生観・世界観。- シンプルかつ凝縮された歌詞。
英語で歌われる古い民謡(フォークソング)に、「Row, Row, Row Your Boat」という民謡がある。
🤳 by Jun Nakajima
英語で歌われる古い民謡(フォークソング)に、「Row, Row, Row Your Boat」という民謡がある。
子供たちも口ずさむこの民謡・童歌の「起源」は、19世紀におけるアメリカの吟遊詩人の芸にある(※Wikipedia)とも言われているが、実際のところは定かではない。
子供たちにもよく知られているということで、YouTubeでも、さまざまな動画がアップされている。
この民謡の歌詞は、つぎのようなものだ。
Row, row, row your boat
Gently down the stream
Merrily, merrily, merrily, merrily
Life is but a dream
「Row, Row, Row Your Boat」*Wikipedia “Row, Row, Row Your Boat”より。
この歌詞が、繰り返し繰り返し、まるでボートをゆっくり漕ぐように、つづいてゆく。
ぼくが惹かれてやまないのは、この「歌詞」であり、そのシンプルさのなかに描かれる人生観・世界観のようなもののひろがりと深さである。
それは、「漕ごう、漕ごう、ボートを漕ごう。下流にむかって、ゆっくりと。楽しく、愉快に、楽しく、愉快に」と、歌われる。
人それぞれに「解釈」はあるだろうけれど、「life」という言葉が最後に出てくるように、これは<生きること>を、「ボートを漕ぐ」ことの表象に託しながら歌われていると、ぼくは解釈する。
うがってゆけばいろいろと解釈することはできるけれど、ここでは「3つのこと」に絞って、書いてみたい。
それは第一に、「生きる」ということが「漕ぐ」という「行為の繰り返し」に表象されているけれども、上流にすすむのではなく、「下流にむかって、ゆっくりと」すすんでゆく。
「川の流れ」に逆行するのではなく、<川の流れにのること>である。
生きることは、流れにのること、ゆっくりと漕ぐこと、漕ぎつづけること、そのような人生観が凝縮されている。
なお、下流に向かうということはいずれ「大海」に出るということであり、そのことだけでもいろいろな解釈ができる。
第二に、ボートを漕ぐことは「楽しく、愉快に、楽しく、愉快に」である。
英語ではただひとつの言葉、「merrily」である。
このことはさらなる解釈は必要ないであろう。
そして、第三に、「Life is but a dream」の世界観である。
少なくない人たちに影響を与えてきて言葉である。
社会学者の見田宗介も(おそらく)この民謡から、「Life is but a dream. dream is, but, a life.」という、自身の生きるという「旅」に響くリフレインを獲得したのだと思われる。
また、音楽家のジェイソン・ムラーズ(Jason Mraz)も、「Making It Up」という曲のなかに、この歌詞を繰り込んでいる。
「Life is but a dream」の「but」は、「only」の意味であり、「人生は夢でしかない」と、歌っている。
この言葉が最後に来るだけで、この歌詞ぜんたいが、その人生観・世界観をいっきにひろげ、深めているのだ。
この歌詞を口ずさむ子供たちが、はたして、どのようにこの最後の言葉を受け取っているのか、あるいは受け取っていないのかはわからない。
おそらく、ある程度「自然に」、意識化されずに、その言葉の<真実>が感じられ、生きられているのかもしれないと、ぼくは思ったりもする。
こうして、この歌詞を読むたびに、ぼくは、その人生観・世界観に心を動かされるのだ。
人生は夢でしかない。
けれども、見田宗介が語るように、その夢こそが人生である。
だから、ゆっくりと、川の流れにのって、下流へとボートを漕いでゆく。
楽しく、愉快に。。。
ジェイソン・ムラーズ(Jason Mraz)の曲「Making It Up」に見る<生き方>。- 「life is but a dream.」の生き方。
音楽家のジェイソン・ムラーズ(Jason Mraz)の新作のアルバム『Know.』は、すてきなジャケットデザインと共に、すてきな曲たちに彩られている。
音楽家のジェイソン・ムラーズ(Jason Mraz)の新作のアルバム『Know.』は、すてきなジャケットデザインと共に、すてきな曲たちに彩られている。
そのなかに「Making It Up」という作品がある。
軽快なリズムの曲だけれども(あるいは軽快なリズムに意図的にのせる仕方で)、その歌詞は、ときに、とても深い次元をすすんでゆく。
曲はつぎのような歌詞にはじまる。
Yeah, well, I may go
Through this life
Never known” who I am
And why I’m here
And why I’m doin’ what I’m doin’
Jason Mraz “Making It Up” 『Know.』 *Apple Musicより。
「じぶんが誰なのかわからないままに、ぼくは人生をくぐりぬけてゆくんだ」と歌詞は、軽快なリズムと軽快な歌声とともに、はじまる。
「ぼくはなぜここにいるのだろう。ぼくはじぶんがしていることをなぜしているのだろう」という具合だ。
それでも、歌詞の軸は、「ぼくと君」がここにいるから人生は大丈夫なんだと、軽快さを保つのである。
ぼくを捉えるのは、終盤に近づくにつれて、つぎのような歌詞が現れるところである。
Well, there’s more to this life
More than what you see
It’s true what they say
That life is but a dream
So row your boat gently
Gently down the stream
And keep dreaming’ your dream
Jason Mraz “Making It Up” 『Know.』 *Apple Musicより。
「この人生には見えるもの以上のものがあるんだ」という言葉につづき、「life is but a dream」、つまり「人生は夢にすぎない」ことがほんとうなんだと、ジェイソン・ムラーズは歌う。
「だから、舟をゆっくりと漕ごう」ということなのだが、これは、英語の古い漕ぎ歌、「Row, Row, Row Your Boat」という民謡から来ていると考えられる。
この漕ぎ歌は、つぎのようにはじまる。
Row, row, row your boat
Gently down the stream
Merrily, merrily, merrily, merrily
Life is but a dream
「Row, Row, Row Your Boat」*Wikipedia “Row, Row, Row Your Boat”より。
「人生は夢にすぎない」という確信のもとに、それだから<なんの意味もないんだ>という方向にはではなく、舟をゆっくり漕ごう、そして、<夢を見つづけるんだ>という方向へと、この歌の「ぼくと君」は、軽やかに、あゆんでゆく。
社会学者の真木悠介は、上述の(と思われる)イギリスの古い漕ぎ歌に、インドの舟人ゴータマ・シッダルタの歌う歌を重ねあわせながら、つぎのような詞を人生に鳴り響かせながら、また著作『旅のノートから』(岩波書店、1994年)の扉においている。
life is but a dream.
dream is, but, a life.
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
「人生は夢にすぎないけれども、この夢こそが人生がなんだ」という<生き方>。
ジェイソン・ムラーズの「ぼくと君」も、この<生き方>に共振するように、この今の時代を、軽快に、そしてゆっくりと、あゆんでゆく。
ぼくたちひとりひとりの「自己幻想」、また「ぼくと君」とがいだく「共同幻想」、それらをそのものとしながら、その幻想(夢)を見つづける方向に、ぼくたちはじぶんたちの生を豊かにしてゆくことができる。
この認識は、人生の行き止まりではなく、ひとつの解き放たれた「世界」である。
それにしても、イギリスの古い漕ぎ歌「Row, Row, Row Your Boat」の世界はすごいものだ。
あの短いなかに、ある意味で、<生きることの思想>が端的に、そして真実をつくように語られている。
ボブ・ディランの「捉えどころのなさ」を、引きつづき、かんがえる。- たとえば、1970年のボブ・ディランとロドリゲス。
経験や体験というものは、ぼくたちの好奇心や問題意識に火をつける。
経験や体験というものは、ぼくたちの好奇心や問題意識に火をつける。
それらがじぶんの意識や知識、つまり言葉で語ることができないものである場合は、なおさらである。
ボブ・ディランの、どこか「捉えどころのない」歌声と演奏に、ここ香港でふれてから、その「捉えどころのなさ」に、ぼくはひっぱられる(ブログ「香港でふれる、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「世界」。- 「捉えどころのない」なかで浮かび上がる歌声。」)。
もちろん、そこにはボブ・ディランの歌声があり、ボブ・ディランの世界があるのだけれど、なかなか「捉えどころがない」のである。
あくまでも、「ぼく」にとって、捉えどころがないということであるけれども。
1970年にアメリカでリリースされた二つのアルバムに、マニュエル・ヤンは着目している(「ボブ・ディランが歌うアメリカ」第十回『現代思想』青土社、2016年9月号)。
一つは、すでに世界的スターであったボブ・ディランの『自画像(セルフ・ポートレイト)』であり、もう一つは、デトロイトの無名のメキシコ系肉体労働者ロドリゲスによる『冷厳な事実(コールド・ファクト)』である。
音楽的水準の天秤にかけた場合、ロドリゲスの『冷厳な事実(コールド・ファクト)』のレベルの高さが厳然たる事実であると、マニュエル・ヤンは述べているが、確かに、ロドリゲスの音楽には心を揺さぶるものがある。
これら二つのアルバムを対比させながら、マニュエル・ヤンはつぎのように評している。
…デトロイトを拠点に活動した無名歌手ロドリゲスはまるで異次元を泳ぐ『自画像』の対位法のような『冷厳な事実』を同時期に録音している。『自画像』がドメスティックな生活に自己陶酔し社会とは縁を切った我田引水するアーティストのバスティーシュ作品だとしたら、『冷厳な事実』は都会の反乱と混乱にまみれた具体的な社会性に根を張りながら自己表出を自然体でやり遂げた名作である。
マニュエル・ヤン「見張りの塔で自画像を描くアーティストと反乱する都市から逃げられない労働者」「ボブ・ディランが歌うアメリカ」第十回『現代思想』青土社、2016年9月号
この「無名」のロドリゲスを、アメリカや地元デトロイトで「有名」にしたのは、アカデミー賞受賞のドキュメンタリー映画『シュガーマン』(2012年)によってであり、『冷厳な事実(コールド・ファクト)』から40年以上が経過してからであった(※知られるとおり、南アフリカなど熱狂的に迎えられた場所もある)。
ロドリゲスとボブ・ディランの対比という仕方は興味深く、そこからアメリカやその時代をきりとる視点を提示してもくれる。
けれども、『自画像』を超えてボブ・ディランを聴き、その総体を見たとき、やはり「捉えどころのない」ボブ・ディランの世界があるように、ぼくには感じられる。
その「捉えどころのなさ」は、ある一人の人生の、ときに捉えどころのない多面性に根ざしているのかもしれないし、あるいは「じぶん」という経験の、多様な社会や人びとをその境界に映し出す本質に根ざしているのかもしれないと、思ったりもする。
マニュエル・ヤンは、ロドリゲスの作品に、デトロイトから逃げられないという「逃走」のテーマをひろいあげながら、つぎのように書く。
「逃走」はロックンロールの永続的テーマであり、アメリカ社会史の原点でもある。…ディランとその後のカウンターカルチャーに強い影響を残したジャック・ケロアックの『路上』と彼の仲間のビート作家たちにしろ、同じ1950年代に文化的対抗軸としてあらわれたロックンロールも、ミドルクラスの労働規律に従い工場や企業で働く「朗らかなロボット」(C・ライト・ミルズ)になることを拒む「逃亡者」の文化だ。
マニュエル・ヤン「見張りの塔で自画像を描くアーティストと反乱する都市から逃げられない労働者」『現代思想』青土社、2016年9月号
このような「逃走」のテーマの系譜において、マニュエル・ヤンは、「新しいディラン」と言われたブルース・スプリングスティーンを論考で追ってゆく。
この時代の「逃走」とは、何だったのだろうかと問いを立ててみることができる。
20世紀の後半の社会を特徴づけたのは、社会学者の見田宗介が明晰に解き明かしているように、消費化社会/情報化社会であり、さらに<近代>という広い視点においては、貨幣と都市の原理の全面化である。
そして、これらを駆動してきたのは、世界を抽象化/数量化/合理化する精神であり、また現在の意味を未来の目的のうちに求める精神である。
社会のすみずみまでどこまでも「合理化」し、人びとの<今>を解体してゆく精神において社会の発展が駆動され、このような磁場から「逃走」する精神たちを生んできたように見える。
「逃走」のロックンロールを生みだした時代は、ある意味、人間の歴史における特異な時代であったと見ることもできる。
そして時代が「人間の歴史の第二の曲がり角」(見田宗介)にかかっているなかで、これまでにない「時代」に突入している。
そんな時代に、どのような「音楽」が生まれているのだろうか/生まれてくるだろうか。
香港でふれる、ボブ・ディラン(Bob Dylan)の「世界」。- 「捉えどころのない」なかで浮かび上がる歌声。
香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「サイズを活用する」ことのひとつとして(電子書籍『香港でよりよく生きていくための52のこと』の「17 「香港のサイズ」を活用する。」)、「コンサート」を楽しむことがある。
香港の「コンサート会場」は小さいから、大物ミュージシャンであっても、ぼくたちは間近に音楽を楽しむことができる。
Coldplayも、Jason Mrazも、Bryan Adamsも、Elton Johnも、The Beach Boysも、そして、Bob Dylanだって。
2018年8月4日、香港のビクトリア湾に面する「Hong Kong Convention and Exhibition Centre」。
ボブ・ディラン(Bob Dylan)と彼のバンドが、舞台に立った。
久しぶりに来るこのコンサート会場はやはり小さな会場で、一番後ろのゾーンにいるぼくの位置からも、肉眼で舞台を普通に見ることができる。
そんな会場に入って舞台を見渡してみて、「スクリーン」がないことに気づく。
普通のコンサートではこの会場でも「スクリーン」がつくのだけれども、そのスクリーンがなく、さすがに顔の表情までは見ることができない。
スクリーンがないことを含め、舞台はきわめて素朴で、エンターテインメント性を極力にそぎおとしているようにも見えるのだ。
やがて、開演時間がやってきて、少し遅れて、演奏がはじまった。
香港のコンサートでは時間通りに演奏がはじまることはとても少ないためか、多くの人たちがまだ席についていないなか、ボブ・ディランのあの独特の声音が会場にひびきはじめる。
これまでいろいろなコンサートを観てきたけれど、ボブ・ディランのコンサートは、なかなか独特で、なかなか捉えどころのないものであった。
ギターのチューニングのズレ、音をうちこむリズムのズレ、楽器の音量バランスのズレなど、演奏や楽器の音がときに「ズレ」ているように感じる。
また、ボブ・ディランもバンドメンバーも、2時間近くのコンサートで、曲の間に一言もしゃべることはなかった。
そのような「捉えどころのない」演奏やコンサートの全体に最初はとまどったのであったけれど、とても不思議なのは、その空間には、やはり(あるいは、だからこそ)「ボブ・ディラン」が浮かびあがってくるのである。
ボブ・ディランの「歌」自体が、<ことばを伝えること>であって、それ以外に「何」が必要だろうかとも思う。
歌自体に、ことばが尽くされているのだと見ることもできる(とは言っても、ぼくは、英語の歌詞はほとんど聞き取ることができなかったけれど)。
また、ボブ・ディランの声音を主旋律として、楽器の音たちはそのどこか不器用な声音に不器用に合わさることで、主旋律である声の響きがいっそう照らし出されるのでだ。
こうして「ボブ・ディランの世界」が顕現してくる。
歌われることのなかった名曲「Blowin’ in the Wind」と「Like a Rolling Stone」はやはり聴きたかったけれど、演奏される曲たちはコンサートの全体感のなかで選ばれているから、ぼくはその全体感を尊重したい。
このように、なかなか「捉えどころのない」コンサートであったのだけれども、ほかに「捉えどころのない」風景として、聴きに来ている人たちがあった。
会場全体に、若い人たちが目立ったのだ。
サンタナが香港に来たときは圧倒的にサンタナと同年代の人たちが多かったのだけれども、ボブ・ディラン(77歳)はちがった。
ぼくの席の周りも、まだ20代くらいの人たちで埋まっていたのである。
彼ら・彼女たちにとって「ボブ・ディラン」の歌や存在はどのようなものなのだろうかと、ぼくは興味深く思う。
このような「捉えどころのない」コンサートの余韻が、ぼくのなかに、不思議と、強く残っている。
「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。- 現実生活と創作のパラレルな存在。
「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている。
「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、小説家の村上春樹は、心理学者・心理療法家の河合隼雄に向けて語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。
河合隼雄は、つぎのように、村上春樹にことばを返している。
河合 それは小説を書いておられるからですよ。谷川俊太郎さんも言っておられました、ほとんど見ないって。そりゃあたりまえだ、あなた詩を書いているもんって、ぼくは言ったんです。…とくに『ねじまき鳥クロニクル』のような物語を書かれているときは、もう現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにあるのでしょうからね。だから、見る必要がないのだと思います。書いておられるうえにもう無理に夢なんか見たりしていたら大変ですよ。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
「夢を見ない」村上春樹と谷川俊太郎。
ぼくは、なぜか、この箇所に、とてもひかれる。
詩や(『ねじまき鳥クロニクル』のような)小説などの創作と作品の本質ということ。
村上春樹や谷川俊太郎の作品が<意識と無意識の境目を往還すること>でつくられること(なお、村上春樹のインタビュー集のひとつは『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』と題されている)。
そのようなことが、「夢」という文脈において、ぼくの強い関心をひらかせるようだ。
ちなみに、ここでふれられている、詩人の谷川俊太郎との「対話」が、どこのものかは定かではないけれど、「ユング心理学」をめぐる河合隼雄と谷川俊太郎の間の「対話」のなかで、「ぼくなんかも夢は見るんだけれども、ほとんど覚えてないんです。…」と、谷川俊太郎は河合隼雄に語っている(『魂にメスはいらない ユング心理学講義』講談社+α文庫)。
「夢をぜんぜん見ない」ということは「夢をほとんど覚えていない」ということと同質のこととして、ここでは捉えてもよいのだろう(※ 河合隼雄は「みんな夢は見ているんですよ。」と、上記の「対話」で谷川俊太郎に解説している)。
ところで、「夢をぜんぜん見ない」村上春樹も、(『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたいた頃)ただひとつだけ見る夢があると、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の「対話」で語っている。
その夢は、<空中浮遊の夢>である。
高いところに飛翔する空中浮遊ではなく、地面からちょっとだけ浮く<空中浮遊の夢>である。
この<空中浮遊>ということは「物語づくり」であると、河合隼雄は解釈をしている。
その対話を読みながら、ぼくもある時期、空中浮遊の夢、それも村上春樹と同じように、「地面からちょっとだけ浮く空中浮遊」の夢を見る時期があったことを、思い起こす。
ぼくもあまり「夢を見ない(覚えていない)」ほうなのだけれど。
「月」に呼応する音色。- 「Sleeping At Last」(Ryan O'Neal)の繊細な音楽。
例えば「月」に呼応しながら、繊細に音色をつむぐ、音楽家「Sleeping At Last」。
例えば「月」に呼応しながら、繊細に音色をつむぐ、音楽家「Sleeping At Last」。
「Sleeping At Last」を音楽と言ってよいのか。「Sleeping At Last」とは実質には、公式サイトが書くように、「シカゴを拠点とする、シンガーソングライターであり、プロデューサーであり、編曲者であるライアン・オニール(Ryan O’Neal)の呼称」である。
2000年初頭頃から、「Sleeping At Last」は、さまざまな「プロジェクト」や「シリーズ」のうちに、美しい音楽を奏でている。
テレビドラマや映画でもながれることがあるのだけれど、その音色と歌声を聴けば、その内的な繊細さや、宇宙や自然との交響などを、そこに感じとることができる。
最近は、「月」をモチーフとした音楽も提供し、今回の「July 27, 2018」の皆既月食そのものをタイトルとした楽曲「July 27, 2018: Total Eclipse」をつくっている。
そして、これまでの「月」の企画と同じように、この楽曲のバージョンのひとつは、皆既月食の時間に相当する「103分版」となっている。
楽曲の美しさはもとより、興味深いのは、「月」一般の楽曲ではなく、それぞれの「日」(例えば「July 27, 2018」)の皆既月食などにインスピレーションを得ながら、作曲されていることである。
ぼくがそもそも「Sleeping At Last」を知ったのは、2011年頃のことであった。
TEDの企画動画のなかで流れる音楽にどうしようもなく惹きつけられ、それが「Sleeping At Last」の曲であることを、その動画で知ったのであった。
その曲は「Households」という曲で、「Sleeping At Last」の「Yearbook - Collection」という企画アルバムに収められている。
それからというもの、ぼくの生活のなかには、「Sleeping At Last」の音楽がありつづけてきた。
ここ香港の夜空にゆっくりと上がってゆく満月を見ながら、ぼくは、楽曲「July 27, 2018: Total Eclipse」を聴く。
その満月の横には、ちょうど数日前に湖底に「水」がある証拠を得たという「火星」が輝いている(なお、「Sleeping At Last」のEP「Atlas: Space 1」には「Mars」という曲が収録されている)。
宮沢賢治が「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」(宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫)と書くとき、それがひとつの真実であったように、ライアン・オニールであれば、「これらのわたくしのおと(音)は、みんな宇宙や月あかりからもらってきたのです」とでも語っているかのような、そしてそこにひとつの真実があるような、「Sleeping At Last」の音楽たちである。
ニュージーランドで、ぼくのなかで響きわたっていた名曲「Let It Be」(ビートルズ)。- 「なるがままに、なる」。
ニュージーランドに住んでいるとき(1996年のことだ)、ぼくの心のなかではよく、ビートルズの名曲「Let It Be」が響きわたっていた。
ニュージーランドに住んでいるとき(1996年のことだ)、ぼくの心のなかではよく、ビートルズの名曲「Let It Be」が響きわたっていた。
1970年に出された、ビートルズ最後のアルバム作品の、そのタイトルにも使われた「Let It Be」。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be
…
The Beatles “Let It Be” 『Let It Be』※「Apple Music」より
「Let it be」の日本語訳には、「そのままにしておく」「なるようになるさ」「あるがままに」など、いろいろな訳語があてられているけれど、ぼく個人がしっくりくるのは「なるがままに、なる」である。
ちなみに、「Let it be」という知恵を伝えてくれる「Mother Mary」は、「母のメアリー」という捉え方もあれば、なかには新約聖書の「マリア」という捉え方をする人もいる。
島田裕巳は著作『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのかーロックとキリスト教』(イースト新書)で、「Let it be」ということばが、新約聖書の「ルカによる福音書」第一章第三十八節に出てくることを指摘している。
そこには、マリアがイエスを身ごもった「受胎告知」の場面であり、「お言葉のとおりに成りますように」(let it be to me according to your word…)と書かれているという。
この曲をつくったポール・マッカートニーは、聖書を下敷きにしていることは否定していることを、島田裕巳は書いている。
…ポールは、…この歌詞ができたのは、夢のなかに十四歳のときに亡くなった母親が出てきたからで、それが励みになり、「僕が一番みじめなときにメアリー母さんが僕のところへ来てくれた」という歌詞を思いついたとしている。
これで、”Mother Mary”が登場する理由はわかるが、なぜその母親が、”Let it be.“と言ったのかはわからない。”Mother Mary”と”Let it be”とは、「ルカによる福音書」において密接に結びついているわけで、ポールはそれを無意識のうちに記憶していて、それがここで甦ってきたと考えることはできる。
島田裕巳『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのかーロックとキリスト教』イースト新書
いずれにしろ、ぼくにとっては、(聖母マリアではなく)メアリー母さん(のような人物)がやってきてくれ、「なるがままに、なるわよ」と、語りかけるものとして、「Let it be」は心のなかにしまわれている。
オークランドの中心をつきぬけるQueen Streetの路上で歌ったときも、名曲「Let It Be」は選曲のひとつであったし、またオークランドで仕事がみつからないときも、メアリー母さんがやって来ては「Let it be」の知恵をぼくのなかに鳴り響かせた。
なるがままに、なる、と。
それからいろいろあったニュージーランドでの生活と旅も、「なるがままに、なる」の通り、展開し、行き詰まり、ひらかれ、進んでいった。
ところで、アルバム『Let It Be』が出されてから、やがてビートルズは正式に解散にいたる。
ビートルズがその後、曲を創り続けていたらという思いが、ぼくのなかにわく。
しかし、「なるがままに、なる」ということばのように、その後の4人の行く末は、「なるがままに」展開されていったのだ。
4人それぞれに、名曲を世に放ち、それぞれに生きた/生きている。
なにががよくてわるくてという視点は、それぞれの実際の生のなかに溶解してしまったかのようだ。
ある意味で、「なるがままに」、それぞれの生きる物語はひらかれていったのだと、言うこともできる。
ニュージーランドで、ぼくと生をともにした「ギター」。- マーチン社のギター「Backpacker」(バックパッカー)。
だいぶ前のことになるけれど、1996年、ぼくはニュージーランドに住んでいた。
だいぶ前のことになるけれど、1996年、ぼくはニュージーランドに住んでいた。
大学2年を終えたところで1年間休学し、ワーキングホリデー制度を利用して、ニュージーランドに渡ったのだ。
当時のワーキングホリデー制度は、カナダとオーストラリアとニュージーラン(のみ)が開放されていたのだけれど、カナダとオーストラリアは人数制限で上限に達していたため、ぼくは結局、最終候補としていたニュージーランドに行くことになった。
それまで音楽を呼吸のようにして生きてきたぼくにとって、「音楽」をどのように荷物につめこむのかが、ひとつの課題であった。
最終的に、ぼくは東京で、マーチン社の「Backpacker」(バックパッカー)という、旅用の小さなギターを購入することにした。
こうしてぼくは、ボディ部分が最小限にまでそぎ落とされたこのギターと共に、ニュージーランドで生活することになった。
ニュージーランドの生活を通して、ギターは、文字通り、ぼくと生をともにした。
ギターそのものを弾き、歌を口ずさむだけで、旅の宿でも、後に住むようになったフラットでも、ぼくは楽しむことができた。
持ち運び便利なこのギターをもちだして、ぼくは、オークランドの路上(Queen Street)で、ビートルズなどの曲を歌ったこともあった。
こんなときは、ギターは、人と人とをつなぐ<メディア>ともなる。
ギターはそのように、ぼくと他者をつなぐ<メディア>としても活躍した。
ニュージーランド滞在の後半、ニュージーランドを旅しながら、ぼくは他者のためにも、ギターを奏でた。
あるときは、ある町の人がぼくがギターを弾くのを知って、夜の語りのイベントに招待してくれた際に、参加者の人たちが歌う歌の伴奏をしたこともあった。
またあるときには、南島のトレッキングコースにある山小屋でのとても静かな夜に、同じ山小屋に泊まっている人のために(そしてぼくのために)、静かな調べを奏でたりもした。
ひとつ困ったのは、徒歩旅行をしていたときのこと、この縦長のギターをビニール袋でカバーをしてバックパックにくくりつけていると、遠くから見ると「猟銃」のように見えたことである。
徒歩旅行中のぼくに声をかけてくれた人たちの幾人かが、「それは何?」と尋ねてきて、「ギターですよ」と応えるぼくに、銃のように見えたからと、伝えてくれることがあったのだ。
また、少しでもバックパックを軽くしたいなかで、このギターの軽さも「重さ」となって、ぼくの心身にくいこむことがあった。
それ以外はとくに困ることなく、この小さなギターは、ぼくの徒歩旅行のときも、また山登りのときも、ぼくのバックパックに装填されていた。
それは、ぼくにとって大切な「旅の同行者」であったし、その音色は、ぼくの(そしておそらく他者の)心をいやしてくれた。
<音楽>は、世界の共通言語として、世界の人たちをつなぐものだとしばしば言われるけれど、ニュージーランドでの生活と旅を通じて、ぼくはそのことをじぶんの体験と実感として、じぶんのなかに積みあげてきた。
それは、やはり幸福なことであったと、ぼくは思う。