山の「歩きかた」に凝縮された<教え>。- ニュージーランドの山との/山での出会い。
ニュージーランドの山をひとりでめぐっているときに、ぼくは、ぼくの「生きかた」を深いところで照らす<教え>を得た。山小屋で出会ったスウェーデン出身の女性に受けたその<教え>は、それまでじぶんが疑問視してきたことに直接に光をあてた。
ニュージーランドの山をひとりでめぐっているときに、ぼくは、ぼくの「生きかた」を深いところで照らす<教え>を得た。山小屋で出会ったスウェーデン出身の女性に受けたその<教え>は、それまでじぶんが疑問視してきたことに直接に光をあてた。
正確には、彼女が「生きかた」を説いたのではない。彼女は、ぼくに問いを投げかけたのであった。
「ジュン、あなたは道中何を見てきたの?」
流暢な英語で、彼女の真摯な声がぼくにまっすぐにとどいた。ほんとうにまっすぐな響きであった。
1996年のこと。大学2年を終え休学し、ワーキングホリデー制度を活用してニュージーランドに住むことになったぼくは、最終的に9ヶ月ほどの滞在となったうちの後半に、ニュージーランドを旅した。最初はニュージーランド徒歩縦断に挑戦し、その挑戦が中途で「挫折」したのちは、南島の山々を歩いていた。
ニュージーランドの山々はとてもよく管理されていて、トレッキングのコースに沿って山小屋がうまい具合に配置されている。これらの山小屋を移動してゆくことで、コースを完了することができるようになっている。
そんなコースのひとつを選んで歩いていたぼくは、あるとき山小屋を早朝に出発し、歩みを進め、昼過ぎには次の山小屋に到着したのであった。
つぎの「山小屋」という目的地に着くことができたぼくは、山小屋でゆっくりしていたのだけれど、夕方あたりになって、一人のトレッカーが到着したのであった。休暇でスウェーデンから来ているという彼女は、ぼくと言葉を交わすなかで、冒頭の問いをなげかけたのであった。
「ジュン、あなたは道中何を見てきたの?」
そんな問いを投げかけながら、彼女は、道中で楽しんできた、道の脇に咲く花や草木、また彼女をむかえる鳥たちがどれだけ素晴らしかったかを話してくれた。彼女が投げかけた問い、彼女の「歩きかた」とその楽しみかたに、ぼくの心の深いところに照明があてられたようであった。その光は、ぼくの「生きかた」までをも照らすほどの、まっすぐな光であった。
問いを投げかけられたぼくは、つぎ’の山小屋という「目標」に目を向けて道中をかけぬけてきてしまっていたから、返す言葉を失ってしまった。道中まったく見てこなかったわけではないけれど、道の両脇に咲く花や草木たちとすごす時間は、なるべく効率的に短縮されてしまったかのようであった。
彼女の問いとことば(とその響き)は、今でも、ぼくのなかで光源として輝きを放ちながら、ぼくの「生きかた」に光をあてている。
…「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ。未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ。現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。…
見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)
見田宗介(社会学者)は、「近代」という時代の特質をこんなふうに書いている。
この特質は、ぼくの心身にきざみこまれていた特質である。ぼくは、「つぎの山小屋」という「未来におかれた目的」のために、現在の楽しみ(花や草木たち!)を禁圧していた。「つぎの山小屋」が達成されることに、ぼくは「充実」を得ようとしていたわけである。それはそれなりに「充実」であっただろう。
けれども、ニュージーランドの自然それ自体、それから道中に出会ったスウェーデン出身の女性の「歩きかた=楽しみかた」は、ぼくの「生きかた」へのアンチテーゼであり、「現在の生をそれ自体として楽しむこと」というまっすぐなテーゼであった。
「ヒッチハイク」へとおしだされた旅。- ニュージーランドを、北から南に向かって歩きながら。
旅を始めたとき、まさか、ぼくが「ヒッチハイク」をすることになるとは、思ってもみなかった。
旅を始めたとき、まさか、ぼくが「ヒッチハイク」をすることになるとは、思ってもみなかった。
ぼくのなかでヒッチハイクをすることはイメージになかったし、もちろん意図としてもなかった。でも、旅を続けてゆくなかで、「ヒッチハイク」という旅をすることにおしだされていったのである。
1996年、ぼくは、ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドのオークランドに住み、滞在の後半になってから、ぼくは「ニュージーランド徒歩縦断」の旅に出た。
ニュージーランドに渡るまえから決めていたことではなく、オークランドに住みながら、「こんなことをしたんだ」と、じぶんや他者に言えるような「何か」をしておきたいと思い、アウトドアの雑誌で見た記事に触発されて、ぼくは「ニュージーランド徒歩縦断」を試みたのであった。
結果としては「途中で断念した」のだけれども、ニュージーランドの北端から南に向かって歩きはじめオークランドに到達し、オークランドで体制を立て直して南に向かってふたたび歩いた経験は、ぼくにとって、とても大切なものとなった。
驚いたことのひとつに、歩いている道中、ほんとうにたくさんの車がぼくのまえで停車してくれて、「乗っていきますか?」と声をかけてくれたり、乗車提供のジェスチャーを示してくれたりしたことがある。
そのたびに、ぼくは「No, thank you.」を伝え、ときに「北から南に歩いているんです」と説明することになった。そんなやりとりに、ぼくは励まされたものである。
足をけがして、ようやく到着したオークランドで治療し、オークランドで体制をととのえてふたたび南に向かって歩きだしたとき、ぼくの身体も精神も、なんだか歯車がくずれはじめたように思う。
ニュージーランドの北端から(おそらく)700キロメートルほどのところで、ぼくはじぶんでじぶんに「リタイヤ」を告げた。ぼくの身体を大粒の雨粒がうっていた。
じぶんで「リタイヤ」を決めてからそれほどたたないうちに、大雨がふりしきるなか、ある車が停まってくれた。大雨のなか、田舎のハイウェイを歩いているぼくを見兼ねて、停車してくれたようであった。
こうして、ぼくは、「ヒッチハイク」をすることになった。なお、その日は、彼の家での宿泊をすすめてくれ、ぼくはありがたく泊めてもらうことにした。出会ったばかりの方に泊めてもらうのは、ぼくにとって「はじめて」の経験でもあった。
身心の状態がよければありがたく断っていたかもしれない。それほどに、ぼくの身心は疲弊していたのかもしれないと思う。
今ふりかえってみると、「ヒッチハイク」という旅の形と内実は、「生きることの幅」をひろげてくれる契機のひとつであった。
ぼくの「ニュージーランドでの旅」は、一方に、きちんと料金を支払って決められた時間に決められた交通機関で移動する旅があり、他方に、じぶんの足をたよりにニュージーランドを縦断しようと試みる旅があった。
どちらの旅の形態も、「他人に迷惑をかけまい」とする旅の形態であるように、今ではぼくの眼に見える。「他人に迷惑をかけてはいけない」、このことを小さい頃から教えられてきたことを、ぼくはふと憶い出す。
でも、身心が疲弊し、ふりしきる雨がぼくの身体に浸潤してくる状態で、ぼくは、他者がさしのべてくれる好意を受け入れることにした。
「他者がさしのべてくれる好意を受け入れること」を、ぼくは「他人に迷惑をかけること」であると勝手に思っていたところがあるのかもしれない。切羽詰まった状態になってはじめて、ぼくは、そのような偏った見方の壁を、いくぶんか崩すことができた。
最後の最後まで、よくしてくれることに「申し訳なさ」が残ったのだけれど、でも、ぼくも「他者に手をさしのべる」ことができるような人になりたいと思ったものだ。
イメージもせず、意図もしていなかった「ヒッチハイク」の旅におしだされて、「じぶんの足をたよりに歩く」ことに挑戦していたときとは異なる経験と楽しさと学びを、ぼくは得ることができた。
そのことを、ここに書いておきたい。感謝の気持ちをこめて。
<関係のゆたかさ>の内実。- ニュージーランドのニュースを見ながら思うこと。
20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
20年以上まえにニュージーランドに住んでいたとき、ぼくはオークランドを「拠点」としていた。最初の半年ほどをオークランドに住み、それからニュージーランドを北から縦断する旅に出たぼくは、やがて、オークランドのある北島からフェリーに乗って南島にわたった。
まだ冬がようやく明けたころであった。北島とはまったく異なる風景に、ぼくは魅了された。
南島で行ってみたいところはいくつかあり、そのうちのひとつが、クライストチャーチであった。でも、ニュージーランドの自然にすっかりはまってしまっていたぼくは、クライストチャーチにはそれほど滞在はしなかったのだけれど、数日滞在したバックパッカー向けの宿の空気感が、ぼくの記憶の片隅に、いまもただよっている。
そんなクライストチャーチでの悲しいニュースを見ながら、そんなニュージーランドの記憶がわきあがってくる。
大学を休学して住んだニュージーランド、それから夏休みを利用して旅したアジアなどの経験を重ねながら、その「道ゆき」で、ぼくは、社会学者の真木悠介(見田宗介)の本に出会った。ニュージーランドやアジアでの経験の素地がぼくのなかになかったら、ぼくは真木悠介の本に出会うことはなかったかもしれない。出会っていても、ぼくは読み流してしまったかもしれない。
それほどに、ニュージーランドやアジアでの経験は、ぼくにとって決定的であった。
クライストチャーチのニュースを見ながら、ニュージーランドの記憶とともに、ぼくの脳裡にうかんできたのは、真木悠介の「言葉」であった。
「旅」ということが、真木悠介にとっても転機となる経験であったが、真木悠介は『旅のノートから』という著書で、つぎのように、言葉をつむいでいる。
…関係のゆたかさが生のゆたかさの内実をなすというのは、他者が彼とか彼女として経験されたり、<汝>として出会われたりすることとともに、さらにいっそう根本的には、他者が私の視覚であり、私の感受と必要と欲望の奥行きを形成するからである。他者は三人称であり、二人称であり、そして一人称である。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
<横にいる他者>という他者論である。「他者」というと、たとえば<向かい合う他者>というように捉えられる傾向にたいして、真木悠介は<横にいる他者>という視点、そして、「三人称であり、二人称であり、そして一人称」である<他者>について書いている。
世界がもっとひらかれ、世界の多様性を享受してゆくには、この<横にいる他者>という視点、そしてそのような生きかたによってくるのではないか。ぼくは、そんなふうに考えている。
ニュージーランドでの暮らしと旅は、このことを切実に感じるための経験の土台を、ぼくに与えてくれたのである。クライストチャーチのニュースを見ながら、ぼくはそんなことを思う。
ニュージーランドで、「日曜日」に、ぼくは生活様式を問われる。- 「当たり前」の風景から離れてみて。
もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。
もう20年以上も前のことになるけれど、ニュージーランドに住みはじめたとき、はじめのころなかなか慣れずにいたのが、「日曜日」であった。
慣れずにいたのは、日曜日には、街の大半のお店が閉店しまうことであった。
ニュージーランドに来る前までは東京に住んでいて、日曜日だって、祝日だって、夜だって、開店していることにすっかり慣れていたから、大半のお店が閉店してしまう「日曜日」を、はじめのころは、心身のリズムが合わないままに過ごしていた。
一方で「プラクティカルでないこと/便利でないこと」が好きになれず、他方で「(皆で一緒に)きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだと思う。
この二つが同居していて、けれども、これまでのじぶんの「生活様式」における習慣からか、また異なる文化に対してぼくが充分にひらかれておらず、柔軟性に欠けていたからか、「プラクティカルでないこと」の気持ちがより優って、はじめのころは、どうしても日曜日が好きになれずにいたのであった。
ニュージーランドに着いたばかりのころ、オークランドの中心街にある宿に泊まっていたときは、日曜日はメインストリートであるQueen Streetは閑散とし、歩いているのは観光客(日本人観光客をよく見た)であったりした。
Queen Streetにある中規模のスーパーマーケットは(確か)限定された時間で営業していたから、ぼくは、食料の買い出しにスーパーマーケットに足を運んだのであった。
この図式に変更が加えられることになったのは、宿住まいから、共有ハウスの一部屋を借りて過ごしはじめてからであったと思う。
ぼくを含めて7名で住む共有ハウスに移り、旅的な生活から、より生活感のある生活をするようになって、日曜日に「きっちりと休みをとること」の慣習もよいものだということが、ぼくの生活のなかに入り込んできたのだ。
ある日曜日には、オークランドの街を一望できるMt. Eden(マウント・イーデン)に足を運んだりした。
このような生活の変化とともに、もちろん、ニュージーランドに暮らす「時間」も、ぼくの味方であった。
幾度もの日曜日を過ごしながら、幾度もの「週」を生きながら、ぼくの心身は、次第に、時間のリズムと生活様式を取り入れていくことになる。
こうして、ぼくは、静かな「日曜日」の生活に慣れていき、じぶんの生活の仕方に、ある種のひろがりを獲得していったのであった。
そんななか、ニュージーランド滞在の後半、徒歩縦断旅行やトレッキングやキャンピングなどをしているときは、日曜日に限らず祝祭日も大半が閉店であるから、旅程や買い出しなどにおいてより注意が必要となった。
そのような時期もあったけれども、それでも、生活の仕方における「ひろがり」の獲得は、ぼくにとって大きな体験であったと思う。
便利さを生きることもできるし、ひとつの社会の中での特定の生活様式も生きることができる。
なによりも「日曜日は休み」という生活様式を実際に生きてみることで、異なる時間と生活のリズムを心身で感覚し、そこで「見えてくる」ことをかんがえる。
どちらが良いだとか悪いだとか、結論するということではなく、異なる社会の「あり方」から、これまで「当たり前」だと生きてきた「あり方」を客観視する。
こうして、「当たり前」のように生きてきた日本の生活様式から実際に離れてみることは、ぼくにとって、とても大切な経験であった。
日曜日には近くの建設工事が「休み」になる、ここ香港で、そんなことを思う。
香港で、「Hong Kongに行きたい」と書きつけたときのことを振り返る。- ニュージーランドに住みながら書きつけたこと。
ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。
ニュージーランドに住んでいたときの「日記」をパラパラと読み返す。
1996年4月、ぼくはニュージーランドの商業都市オークランドに降り立っていた。
身体の深いところからくる衝動に導かれながら、大学2年を終えたところで大学に休学届けを提出し、東京のニュージーランド大使館でワーキングホリデーのビザを取得して、ぼくは大韓航空で韓国を経由して、ニュージーランドのオークランドに降り立った。
とくに具体的な計画をつくっていたわけではなく、とにかく、ひとまずニュージーランドに降り立つことを、ぼくは大事にした。
20歳を迎える、少し前のことであった。
オークランドに到着し、はじめのころは、中心街のQueen Streetにある「Aotea Square」に隣接していたバックパッカー向けの宿に宿泊していた。
街の中心にあり、ビジターセンターもあったから、なにをするにも便利な場所であったし、ぼくはその宿が気に入っていた。
ただし、オークランドに来てから「次の一歩」がうちだせず、気持ちが焦りだしたころ、宿の共有キッチンの掲示板に、たまたま「farm helper in NZ」の文字を見つけたのを契機に、ぼくはファーム・ステイをしてみようと思い立ったのであった。
オークランドを離れ、まずは温泉で有名なロトルアというところに行き、そこからファームへ移動した。
その数日間のファーム・ステイをしながら、やはりオークランドに戻って、仕事と滞在先を見つけようと、ぼくの意志は方向づけられていく。
そうして戻ったオークランドは、いつもとは違う街に見え、ぼくはそこで、仕事探しと家探しをはじめたのであった。
そのような、「はじまり」の不安と期待のなかに置かれながら、ぼくはなぜか、つぎのように、唐突に、日記に書きつけている。
「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」と。
香港へは、そこから9ヶ月ほど前に、訪れていた。
大学の夏休みを利用して、香港から広州、広州からベトナムへ行き、そこからまた広州・香港へと戻ってくるルートで、一人旅をしていた。
香港に滞在したのは、数日であった。
それほどいろいろと散策したわけではなかったのだけれど、なぜか、9ヶ月後のニュージーランドで、ぼくは「Hong Kongに行きたい」と、思ったのであった。
そんなことを書いたのは、今の今まで記憶しておらず、ほぼ20年後の今、書きつけられた文字を、ぼくは見つける。
大学でぼくは「中国語・中国文化」を専門としていたのだけれど、ニュージーランド滞在時から、ぼくは「国際関係論」という分野にひかれ、またその関心がやがて「途上国研究」の方向へと水路を見出してゆくことになる。
さまざまな変遷を経験しながら、ぼくは2002年、NGO職員として西アフリカのシエラレオネに赴任し、「中国・香港」からはますます距離が離れていくことになった。
そのシエラレオネの滞在中に、今でも覚えているのは、同僚が持参してくれたAERA誌に見つけた「香港SARS」の記事であった。
シエラレオネの、当時水も電気も通っていないコノという街で、ぼくはこの記事を読みながら、その出来事の深刻さを感じるとともに、出来事がはるか彼方のところで起こっているように感じたものだ。
そのシエラレオネを去り、次は東ティモール。
アジアに来たとはいえ、さらに「中国・香港」からは距離が離れていった感があった。
その感覚は、とくに良いものでも悪いものでもなく、ただそのように感じただけであり、ニュージーランドで「Hong Kongに行きたい」と思ったことなど、ひとかけらの記憶も、ぼくの意識には上がってこなかった。
ただし、人生の道ゆきは、ときに、思ってもみないところに、つながり、またひらかれてゆく。
人との出会いに導かれながら、東ティモールの後に向かったのが、「香港」であった。
その「香港」に来たのが2007年のことであり、それから10年以上が過ぎたことになる。
そんな地点において、ニュージーランドの日記に書きつけた「Hong Kongに行きたい。何がそんなに引きつけるのか」の言葉を見つけ、とても不思議に、そしてとても面白く思う。
「願いは叶う」ということだけに還元できない何かがあるようにも思う。
むしろ、「何がそんなに引きつけるのか」というところに「何か」があるのかもしれない。
「何がそんなに引きつけるのか」わからない場所や人や事柄に、ぼくたちは、生きていくなかで、引きつけられていく。
なんとなく言葉にすることもできるのだけれど、それだけでは何かが欠けているように感じる。
そんなふうにして言葉にして「何が」を突き詰めてゆくよりも、そこに、入ってみる、飛び込んでみる。
あるいは、「何が」は、<未完了な事柄>として、いずれ、じぶんのところにやってくるのだとも、言える。
そんなところから、<じぶんの生>が展開し、ひらかれてゆく。
ぼくの経験の地層は、ぼくにそのように語っている。
そして、ぼくはじぶんに問うてみる。
「何がそんなに引きつけるのか」と感じさせる「何」とは、今のぼくにとって何だろうか、と。
ニュージーランドで、ぼくのなかで響きわたっていた名曲「Let It Be」(ビートルズ)。- 「なるがままに、なる」。
ニュージーランドに住んでいるとき(1996年のことだ)、ぼくの心のなかではよく、ビートルズの名曲「Let It Be」が響きわたっていた。
ニュージーランドに住んでいるとき(1996年のことだ)、ぼくの心のなかではよく、ビートルズの名曲「Let It Be」が響きわたっていた。
1970年に出された、ビートルズ最後のアルバム作品の、そのタイトルにも使われた「Let It Be」。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be
…
The Beatles “Let It Be” 『Let It Be』※「Apple Music」より
「Let it be」の日本語訳には、「そのままにしておく」「なるようになるさ」「あるがままに」など、いろいろな訳語があてられているけれど、ぼく個人がしっくりくるのは「なるがままに、なる」である。
ちなみに、「Let it be」という知恵を伝えてくれる「Mother Mary」は、「母のメアリー」という捉え方もあれば、なかには新約聖書の「マリア」という捉え方をする人もいる。
島田裕巳は著作『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのかーロックとキリスト教』(イースト新書)で、「Let it be」ということばが、新約聖書の「ルカによる福音書」第一章第三十八節に出てくることを指摘している。
そこには、マリアがイエスを身ごもった「受胎告知」の場面であり、「お言葉のとおりに成りますように」(let it be to me according to your word…)と書かれているという。
この曲をつくったポール・マッカートニーは、聖書を下敷きにしていることは否定していることを、島田裕巳は書いている。
…ポールは、…この歌詞ができたのは、夢のなかに十四歳のときに亡くなった母親が出てきたからで、それが励みになり、「僕が一番みじめなときにメアリー母さんが僕のところへ来てくれた」という歌詞を思いついたとしている。
これで、”Mother Mary”が登場する理由はわかるが、なぜその母親が、”Let it be.“と言ったのかはわからない。”Mother Mary”と”Let it be”とは、「ルカによる福音書」において密接に結びついているわけで、ポールはそれを無意識のうちに記憶していて、それがここで甦ってきたと考えることはできる。
島田裕巳『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのかーロックとキリスト教』イースト新書
いずれにしろ、ぼくにとっては、(聖母マリアではなく)メアリー母さん(のような人物)がやってきてくれ、「なるがままに、なるわよ」と、語りかけるものとして、「Let it be」は心のなかにしまわれている。
オークランドの中心をつきぬけるQueen Streetの路上で歌ったときも、名曲「Let It Be」は選曲のひとつであったし、またオークランドで仕事がみつからないときも、メアリー母さんがやって来ては「Let it be」の知恵をぼくのなかに鳴り響かせた。
なるがままに、なる、と。
それからいろいろあったニュージーランドでの生活と旅も、「なるがままに、なる」の通り、展開し、行き詰まり、ひらかれ、進んでいった。
ところで、アルバム『Let It Be』が出されてから、やがてビートルズは正式に解散にいたる。
ビートルズがその後、曲を創り続けていたらという思いが、ぼくのなかにわく。
しかし、「なるがままに、なる」ということばのように、その後の4人の行く末は、「なるがままに」展開されていったのだ。
4人それぞれに、名曲を世に放ち、それぞれに生きた/生きている。
なにががよくてわるくてという視点は、それぞれの実際の生のなかに溶解してしまったかのようだ。
ある意味で、「なるがままに」、それぞれの生きる物語はひらかれていったのだと、言うこともできる。
ニュージーランドで、ぼくと生をともにした「ギター」。- マーチン社のギター「Backpacker」(バックパッカー)。
だいぶ前のことになるけれど、1996年、ぼくはニュージーランドに住んでいた。
だいぶ前のことになるけれど、1996年、ぼくはニュージーランドに住んでいた。
大学2年を終えたところで1年間休学し、ワーキングホリデー制度を利用して、ニュージーランドに渡ったのだ。
当時のワーキングホリデー制度は、カナダとオーストラリアとニュージーラン(のみ)が開放されていたのだけれど、カナダとオーストラリアは人数制限で上限に達していたため、ぼくは結局、最終候補としていたニュージーランドに行くことになった。
それまで音楽を呼吸のようにして生きてきたぼくにとって、「音楽」をどのように荷物につめこむのかが、ひとつの課題であった。
最終的に、ぼくは東京で、マーチン社の「Backpacker」(バックパッカー)という、旅用の小さなギターを購入することにした。
こうしてぼくは、ボディ部分が最小限にまでそぎ落とされたこのギターと共に、ニュージーランドで生活することになった。
ニュージーランドの生活を通して、ギターは、文字通り、ぼくと生をともにした。
ギターそのものを弾き、歌を口ずさむだけで、旅の宿でも、後に住むようになったフラットでも、ぼくは楽しむことができた。
持ち運び便利なこのギターをもちだして、ぼくは、オークランドの路上(Queen Street)で、ビートルズなどの曲を歌ったこともあった。
こんなときは、ギターは、人と人とをつなぐ<メディア>ともなる。
ギターはそのように、ぼくと他者をつなぐ<メディア>としても活躍した。
ニュージーランド滞在の後半、ニュージーランドを旅しながら、ぼくは他者のためにも、ギターを奏でた。
あるときは、ある町の人がぼくがギターを弾くのを知って、夜の語りのイベントに招待してくれた際に、参加者の人たちが歌う歌の伴奏をしたこともあった。
またあるときには、南島のトレッキングコースにある山小屋でのとても静かな夜に、同じ山小屋に泊まっている人のために(そしてぼくのために)、静かな調べを奏でたりもした。
ひとつ困ったのは、徒歩旅行をしていたときのこと、この縦長のギターをビニール袋でカバーをしてバックパックにくくりつけていると、遠くから見ると「猟銃」のように見えたことである。
徒歩旅行中のぼくに声をかけてくれた人たちの幾人かが、「それは何?」と尋ねてきて、「ギターですよ」と応えるぼくに、銃のように見えたからと、伝えてくれることがあったのだ。
また、少しでもバックパックを軽くしたいなかで、このギターの軽さも「重さ」となって、ぼくの心身にくいこむことがあった。
それ以外はとくに困ることなく、この小さなギターは、ぼくの徒歩旅行のときも、また山登りのときも、ぼくのバックパックに装填されていた。
それは、ぼくにとって大切な「旅の同行者」であったし、その音色は、ぼくの(そしておそらく他者の)心をいやしてくれた。
<音楽>は、世界の共通言語として、世界の人たちをつなぐものだとしばしば言われるけれど、ニュージーランドでの生活と旅を通じて、ぼくはそのことをじぶんの体験と実感として、じぶんのなかに積みあげてきた。
それは、やはり幸福なことであったと、ぼくは思う。
ニュージーランドで、オークランドの「路上」に歌声を放ったこと。- ギターと歌と、Queen Streetの風景。
ニュージーランドの北島に位置するオークランドの中心を、Queen Streetというメインストリートが通っている。
ニュージーランドの北島に位置するオークランドの中心を、Queen Streetというメインストリートが通っている。
ストリートのひとつの端は、海につながる湾にいきあたる。
その端とは逆方向に見やると、ストリートはまっすぐに伸びていて、お店やレストランや銀行などが並んでいる。
オークランド、あるいはニュージーランドで、もっとも賑やかな繁華街だ。
1996年、ぼくはそのストリートに腰をおろし、ギターを奏でながら、歌を歌っていたことがある。
広い意味で「バスキング」とも言われるけれど、いわゆる路上ライブである。
ずっとやっていたわけではなく、ほんのわずかであったけれども、当時のぼくは、「一度はやってみたいこと」のひとつをやってみたのだ。
やってみたいことだとはいえ(あるいはやってみたいことだからこそ)、ぼくにとっては「勇気」のいることであった。
なお、当時のQueen Streetにはときおり、同じように、ギターを手に、歌声を届けている人たちがいた。
ぼくも、ある日、小さなギターをかかえて、よさそうな場所を見つけ、腰をおろし、また投げ銭を入れることのできる容れ物を前におき、そして、歌を歌うことにしたのだ。
ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡る前に、ぼくは東京で、マーチン社の「Backpacker」(バックパッカー)という旅用の小さなギターを購入していた。
ギターのボディの部分がそぎ落とされたモデルだ。
ボディが小さいため、ギターの音色はそれほど大きくはならないが、名前の通り、持ち運びに便利なギターである。
だから、家からQueen Streetに持ち運ぶのには便利であったけれど、人が忙しく行き交うストリートでは、音のボリュームが小さくて、音が空間に散っていってしまう。
ぼくは空間に響く音を耳で確認しながら、それでも歌を歌い続けた。
曲は、例えば、ビートルズの「Across the Universe」や「Let it Be」であったりした。
ぼくの前を通りすぎてゆく人たちは、ある人たちはまったくこちらを振り返ることもせず、音も届かない様子で通り過ぎていった。
またある人たちには、可笑しさで、笑われることもあった。
でも、あるときには、微笑みをなげかけてくれたり、なかには、投げ銭をしてくれる人たちもいた。
いつも通っていたQueen Streetの風景が、いつもとは違っていた。
悪い気分が身体をかけぬけたことも、暖かい気持ちを抱いたことも含めて、「勇気」を出して、オークランドのQueen Streetの路上で歌って、ぼくはよかったと思う。
今は、こうして文章を書いていて、路上ライブのように、ある人たちはまったく振り返ることもない。
またある人たちは、ぼくの書いたものを気に入らないだろうし、批判をすることだってある。
でも、あるときには、ぼくは、励ましや感謝をいただくこともある。
そんな諸々のことを含めて、ぼくはインターネット世界の<路上>で、言葉や感覚を届けていて、ぼくはそれで、よいのだと思う。
ニュージーランドで、一歩一歩、オークランドに向けて進む。- 北端レインガ岬からの、400キロを超える「歩く旅」。
1996年、ぼくは、ニュージーランドの北島の北端レインガ岬を出発地点に、歩いて南下し、北島の中心に位置するオークランドに向けて歩いていた。
1996年、ぼくは、ニュージーランドの北島の北端レインガ岬を出発地点に、歩いて南下し、北島の中心に位置するオークランドに向けて歩いていた。
ニュージーランド徒歩縦断の計画の第1フェーズであった。
今現在においてグーグルマップで調べてみると、レインが岬からオークランドまでの距離は最短で423キロ。
東京ー大阪間に少し満たないほどの距離である。
当時はグーグルマップなどなく、またスマートフォンもなかったから、ぼくは地図とコンパスを手に、あとは「標識」を手がかりに、歩いていた。
ぼくの体調やメンタルの状態は日々異なるし、また外部的な環境も日々異なる。
そんななか、ペースがあがらなくても、体調がすぐれなくても、雨のなかを歩くときでも、とにかく一歩一歩、足を前に進めていれば、オークランドへと近くなっていく。
歩く道ゆきは国道のハイウェイであることが多く、だからそれほど複雑な道のりではないのだけれど、ときにそれは入り組んでいて、目指している方向からそれてしまうこともあった。
そのことに気がつくときは、「やってしまった」という思いがのしかかる。
車や自転車などの旅と異なり、気づいたら引き返してとか、気にせずに遠回りしてというように簡単にはいかない。
重いバックパックを背にしているし、その影響もあって、ぼくの足、とくに足の裏への負担がとても大きい。
また、街から街へ向かう距離と日数を算定して、(重くなるのでできるだけ少量の)食料や水を用意しているから、街から街の「間」における予定がずれることは、できるだけ避けたい。
そんな状況で、ときに道をまちがえてしまったり、地図と実際の道の状況の違いから立てた予定がずれてしまう。
それでも、ぼくは、道すがら、じぶんに言い聞かせる。
「進んでいれば…」と。
そうして、一歩一歩、歩を前に前に進めていく。
とてもあたりまえのことだけれど、歩を進めていれば、オークランドに近くなっていく。
そのことは、道の「標識」に「Auckland」の文字をよく見るようになることで、わかる。
最初の頃は、次の街などが表示されていたところに、「Auckland」の文字を見るようになっていく。
そして、やがて、オークランドを一望できるところにさしかかる。
レインガ岬からの「一歩一歩」が、ここまで、ぼくをつれてきてくれたのだ。
レインガ岬を出発してから、3週間が経過していた。
一歩一歩、少しずつでもいいから、前に向かって歩んでいれば、ぼくたちは、それまでに思いもしなかったところまで行くことができる。
一歩一歩に物語がつまっていて、そして、目的地に到達するころには、「歩いた」という事実以上に、ぼくたちの「何か」が変わることもある。
旅の前まで半年ほど住んでいた「オークランド」は、一歩一歩の旅のあと、それまでの「オークランド」とは違って、ぼくの眼にうつっていた。
ニュージーランドで、雨の中を、歩く。- 「徒歩旅行者」にとっての<雨>。
ここ香港は、近くに到来した台風の影響もあり、雨が降り注いでいる。
ここ香港は、近くに到来した台風の影響もあり、雨が降り注いでいる。
ときおり、激しさを増しながら、香港の大地と海に雨粒を落としている。
先月(2018年5月)後半には、香港の一部の貯水池が干上がってしまっていたことをかんがえると、恵みの雨である。
香港で雨が降り注ぐなかで、「ニュージーランドでの徒歩旅行」を思い返していると、雨の中を歩いた記憶が、ぼくのなかにやってくる。
1996年、ニュージーランドで、ぼくはその北端から歩きはじめ、南下していた。
その大半の行路は、いわゆる「国道」で、車が真横を通り過ぎる「ハイウェイ」でもあった。
ときおり、前方にとまった車から、乗車の誘いと励ましという<やさしさ>をうけながら、ぼくは歩いていた。
ところが、ときに雨が降りおちてくると、そのなかを何時間も歩く身としては、とてもたいへんだ。
だから、朝起きて、テントを出て空を眺めることが日課になる。
雨がおちてくるときは、バックパックにカバーをかぶせ、レインジャケットを着る。
途中ゆっくり休むこともできず、雨の中を歩いてゆく。
やがて、雨がレインジャケットを通過して、ぼくの皮膚にまで浸潤してくる。
ぼくは、じぶんに負けそうになりながら、でも雨の中を歩いてゆく。
徒歩旅行者にとって、「雨」は、ひとつの恐怖でもある。
宮沢賢治『春と修羅』における「小岩井農場」を分析するなかで、天沢退二郎は「雨のオブセッション(強迫観念)」を見て取っていることに、社会学者の見田宗介は注目している。
「よるべない土地をひとり行く徒歩旅行者」にとって、「いちめん降りおちてくる雨は…じつに全体的なるものそのものの圧倒的な浸潤であり、…やがて全身をそれら「全体」の無言の言葉のむれに浸しつくされざるをえない」と、天沢は徒歩旅行者にとっての「雨の恐怖」をとりあげている(見田宗介『宮沢賢治』岩波書店)。
見田宗介は、さらに「雨」がもつ両義性として、雨が恐怖であると同時にまた、ぼくたちを解き放つものであることを、「小岩井農場」における宮沢賢治の歩行に見ている。
『小岩井農場』の歩行において、賢治のじぶんにいいきかせるような否定断言にもかかわらず、…パート七ではもうすきとおる雨が降っていて、パート九では詩人はすでに全面的にこの雨に浸潤された風景を歩む。そしてこの雨に、詩人が何よりも恐れていたこの雨に浸潤されつくした空間の中ではじめて、詩人はこの歩行の旅で真に求めていたものを手に入れることができる。すなわちユリア、ペムペルと、<わたくしの遠いともだち>と出会うのだ…。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1983年
<雨>のもつ両義性は、<自我>の両義性の裏にほかならないことを、見田宗介は明晰にみてとり、つぎのように書いている。
…雨は詩人の自我をその彼方へ連れ去る全的で圧倒的な力の表徴に他ならなかった。そしてこのような<雨>の恐怖と驚異とは、宮沢賢治の、風景に浸潤されやすい自我、解体されやすい自我の不安と恍惚の、さかだちした影に他ならなかった。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1983年
思い起こすと、ぼくの歩行も(そして自我も)、この「両義性」のなかに投げこまれていたように、感じてくる。
雨の降りはじめは雨に抵抗する仕方で雨に対峙して歩いていたところ、やがて、いちめん降りおちてくる雨のなかに、じぶんがすっぽりと入りこんでしまっているところにきて、そんな抵抗感がほどけていく。
その風景と雨にとけこんでゆくような、そんな幻視をおぼえる。
いつもそうだった、ということではない。
一度は、雨のハイウェイを歩行しつづけて、やっとのことで街にぬけたとき、ぼくの体調がくずれかけたこともあった。
そんなとき、宮沢賢治の詩にあるように、「雨ニモマケヌ」身体を望んだりしたのだった。
なにはともあれ、<雨>の両義性のこと、また<自我>の両義性のこと、さらにはそんなことを教えてくれた見田宗介の著作群に出会ったのは、ぼくがニュージーランドから帰国してからのことであった。
ニュージーランドの国道を南下しているときは、「あの」幻視を身体で感じただけであり、この「あの」を幾分か言葉化するまでにはそこから数年がかかった。
でも言葉化以上に、「あの」体験がこの身体に刻みこまれたことが、ぼくにとっての徒歩旅行で得たことのひとつであったと、ぼくは思う。
ニュージーランドで、ぼくの歩行の先に、とまってくれる人たちに励まされて。- 気にかけ、<声>をかけてくれること。
ニュージーランドの国道を歩いて南下していると、横を通り過ぎていく車が、ぼくの前方数十メートルのところにとまる。
ニュージーランドの国道を歩いて南下していると、横を通り過ぎていく車が、ぼくの前方数十メートルのところにとまる。
ぼくは歩きながら、やがて、車がとまっているところに、たどりつく。
車の窓越しに、運転をしている人か、助手席にいる人が、ぼくに(英語で)声をかけてくれる。
「どこまで行くの?よかったら乗っていく?」
ぼくは、「ノー、サンクス」を伝え、「今、ニュージーランドを徒歩縦断しているんです」と、簡単に説明を加える。
驚きの表情を見せながら、彼(女)らは、ぼくに励ましの言葉を投げかけてくれる。
やがて、車はふたたび、ゆっくりと走り出し、走り去るときに、クラクションかライトで、もう一度、ぼくに励ましの合図をくれる。
そんなとき、自然と、ぼくのなかに、感謝の気持ちがあふれてくるのだ。
1996年、ぼくはニュージーランドにいた。
ワーキングホリデー制度で、ニュージーランドで暮らしていたのだ。
暮らしながら、ぼくにひらかれた計画は、ニュージーランド徒歩縦断。
アウトドアの雑誌を読んでいるときに、チャリティを兼ねながら、それを成し遂げている人がいるのを知って、ぼくの心が揺り動かされたことが、きっかけのひとつである。
せっかくだから「何かしたい」という気持ちに点火されるように、ぼくのなかで静かな炎がもえだしたのである。
そうして、ぼくの旅は現実化していく。
ニュージーランドの北端から、ぼくは一歩を踏み出した。
北端から南下していくなかで、ぼくが予測していなかったのが、「国道」を歩かなければいけなかったこと。
国道はいわゆるふつうの道路なのだけれど、それは「ハイウェイ」でもあって、歩くぼくの横を、車が猛スピードでかけぬけていくことになる。
ニュージーランドの自然のなかを静かに歩くことをイメージしていたぼくは、ぼくの真横を通りすぎていく車に、安全面をふくめ、それなりに気をつかわなければいけないのだ。
けれども、そんな状況のなかに、さらに、ぼくが予測していなかったことが起きていく。
それが、冒頭のように、ぼくの横を通りすぎていく車が、毎日、何台も何台も、とまってくれるのである。
そして、ぼくに、「乗らないか」と声をかけてくれる。
ただ「歩いている」ぼくを、だれもが、助けようとしてくれる。
ぼくは「歩いている」から、お断りすることになるのだけれど、だれもが、「励まし」をぼくに与えてくれる。
ただ歩く日々のなかで、そんな「励まし」に生かされているように、ぼくは思わずにはいられなくなるのだ。
ぼくの徒歩縦断は、4分の1ほどで挫折することになったのだけれど、挫折をした日、ぼくを助けてくれたのも、そんな一台の車(乗っている人たち)であった。
ぼくの「生きる」ことの感覚のなかに、この体験が埋め込まれている。
助けられながら、生きている。
見ず知らずの、旅人であるぼくを、助けてくれる人たちがいる。
世界は、ぼくたちが思っている以上に、<やさしさ>に充ちている。
20年以上が経過して開かれる本。- ニュージーランドの作家Patricia Grace『Potiki』。
ニュージーランドの作家Patricia Graceの文学作品『Potiki』(Penguin Books, 1986)。...Read On.
ニュージーランドの作家Patricia Graceの文学作品『Potiki』(Penguin Books, 1986)。
1996年に、9ヶ月ほど住んでいたニュージーランドを旅立つ際に、ニュージーランド人の友人からいただいた本である。
20歳になってようやく「本」というものの面白さと深さを体験しはじめていたぼくを知ってか、友人はぼくに、まるで「ニュージーランド」を本のなかに吹き込むようにして、ぼくに贈ってくれた。
日本に帰国してから、数ページ読み始めては、そこから先に進まず、ぼくの蔵書のなかに収められていた。
180頁ほどの小さな本だけれど、いつか読もうと、ぼくは心のひきだしにしまっていた。
そして、最近なぜか、この『Potiki』に呼びかけられているような気がして、ぼくはこの本をひらいた。
まず、驚いたのは、本のタイトルページをめくると、次の文字が目にとびこんできたときであった。
「Printed in Hong Kong」
1986年の出版の際に、この本は、ぼくが今いる、ここ香港で印刷されている。
やがて、本はニュージーランドに旅し、そこで友人の手にわたり、出版から10年の歳月を経て、1996年にぼくの手にわたる。
そのようにして、その本はぼくと共に、日本にわたっていくことになる。
2007年に、香港に移り住む際に、(おそらくそのタイミングで)ぼくはこの『Potiki』を香港にもってくることになる。
それから、またおよそ10年が経過する。
そこで、ふと呼びかけられるようにして、開いた本は、「Printed in Hong Kong」を刻印している。
30年の時を経て、香港にもどってきたことになる。
そうして開かれた本の物語と情景は、今度は、ぼくの心のなかに、すーっと、はいっていくのだ。
Patricia Graceは、1937年に、ニュージーランドのウェリントンに生まれる。
父親はマオリ人、母親がヨーロッパ系である。
最初の頃は英語教師でありながら、短編をつむぐ。
彼女が1975年に発表した短編集は、マオリ人女性によって書かれた初めての短編集であったという。
作品は、マオリの生を描いている。
『Potiki』は1986年に発表され、ニュージーランドでの賞を得ることになった作品だ。
「明るさ」に充ちた物語ではないけれど、それでもその筆致はとても美しい作品だ。
ニュージーランドの風景を、ぼくのなかに、ありありと思い出させてくれる。
そのような風景のなかで、人が生きていく「物語」の物語だ。
「物語」を生きていく人たちを描く物語。
ぼくも生きていくなかで、この「物語」としての生を、今みつめている。
この本は、ぼくに開かれるのを、じっくりと待っていてくれたように、ぼくは「物語」を紡いでいる。
決して、ぼくにいらだつのでもなく、ただじっと、そこで待っていてくれたわけだ。
まるで、ニュージーランドの海や山や森たちのように。
ニュージーランドの美しい歌がしみこむ夜。- 「Pokarekare Ana」の曲に魅せられて。
ニュージーランドに、マオリ語で歌われる「Pokarekare Ana」という曲がある。ぼくの好きな曲だ。...Read On.
ニュージーランドに、マオリ語で歌われる「Pokarekare Ana」という曲がある。
ぼくの好きな曲だ。
伝統的なスタイルで歌われる「Pokarekare Ana」も、あるいはクライストチャーチ(ニュージーランドの南島にある街)生まれのHayley Westenraが歌う「Pokarekare Ana」も、それぞれに味がある。
ネット検索でざっと見ていると、この曲の「オリジナル」は明確ではないようで、第一次大戦頃に生まれ、いろいろな人たちのアレンジが加わって、今のような形になってきたようだ。
ぼくがこの曲に出逢ったのは、今から20年ほど前になる1996年。
ニュージーランドの北島にあるロトルアという街においてであった。
大学2年を終えたところで休学し、ワーキングホリデー制度を利用して、ぼくはニュージーランドに降り立っていた。
オークランドに降り立ち、その後の滞在計画を練りながら、「これ」というものが見つからずに、ぼくはロトルアに行ってみることにした。
ロトルアは北島の中間あたりに位置し、温泉で有名な街である。
街全体が硫黄のにおいで充満しているほどである。
ニュージーランドが秋に入ってゆく時期の、とてもよく晴れた日に、ぼくはロトルアに到着した。
そこで、マオリ族の人たちが伝統的な歌と踊りを披露していることを知り、星々がひろがる夜空のもとに悠然とたたずむ木造りの小屋に、ぼくは足を踏み入れた。
マオリ族の伝統的な建物である。
10名ほどのマオリ族の人たちが伝統的な衣装を着飾り、伝統的な物語を素材に、歌と踊りで物語にいのちをふきこんでいく。
フォークギターがその背景に音楽を奏でる。
ラグビーのオールブラックスが試合前に行うことで有名になった「Haka」もそのひとつとして披露された。
後半も終わりに近くであっただろうか、とても美しい調べの歌が小屋にひびきわたる。
凛とした空気のなか、凛とした歌声がきれいに風をきっていくような響きだ。
その曲の調べと美しい歌声のひびきは、いつまでも、ぼくのなかでこだましていた。
小屋の外に出ると、しずかな夜風がぼくにふれた。
その曲が「Pokarekare Ana」という曲だということを、後にぼくは知る。
帰り際に、会場の入り口で、つい購入してしまったカセットテープによって。
そして、ぼくは、ときにこの曲がとても聴きたくなる。
新しい曲たちもいいけれど、「伝統」の曲たちもいいものだ。
新しさと古さの分断線を、この曲は風をきっていく美しさで、気にする風情なくのりこえていくように、ぼくにはきこえる。
ワーキングホリデーで、なんとか海外生活できたこと。- 50万円を手に、ニュージーランドに旅立つ。
海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。...Read On.
海外で生活をしていく際に「お金」はやはり必要なのだけれど、ぼくが20年程前にニュージーランドに旅立ったときは、およそ50万円ほどの所持金であった。
大学生の頃にはもちろん大きなお金ではあるけれど、一年を過ごす予定でニュージーランドに旅立つ際に、その金額で何とかなってしまったことは、ぼくのなかに、お金も含めて「なんとかなる」感覚を醸成したのだと、今になっては思う。
なぜ「50万円」であったかというと、当時、ニュージーランドのワーキングホリデー制度のビザ申請において「必要な資金」を持っていることの証明が必要であったことだ。
当時は、(確か)50万円であったと記憶しているけれど、じぶんの銀行口座にその金額以上あることを、通帳のコピーを提出することで証明する必要があった。
ぼくは日夜、東京でアルバイトをしながら資金を貯めることで、なんとかその金額にのせることができた。
(確か)ビザが取れてから航空チケットを購入したので、実際に行くときには、その金額を少し切るようなところであったと思う。
航空チケットは、1年オープンの往復チケットを購入しなければならず、しかし逆に、資金が尽きれば、復路のチケットで帰国するという「緊急策」はある。
それでも、初めて暮らすことになる海外で、50万円を切るくらいの金額で旅立ったのは、なにはともあれ、ひとつに恐れを知らない「若さ」とそれから情熱であったのだろう。
今であれば、たったの50万円で、まったく知らない異国で暮らすために、収入のあてもなく旅立つという無謀なことには、一歩も二歩も足がひけてしまう。
あのときは、「今行かなければ」という焦燥感のなかで、とにかくビザを取るための最低限の資金をもって、ぼくはニュージーランドに旅立った。
こうして、1996年4月にオークランドに降り立ち、ぼくはニュージーランドで暮らすことになった。
南半球のニュージーランドは、ちょうど秋で、これから冬に向かってゆくところである。
オークランドにあるANZ銀行(後に東ティモールでもお世話になる)で、ぼくは海外ではじめて、銀行口座をひらく。
当時お金に心配がなかったわけではない。
少し書いていた日記を読み返すと、お金がみるみる減っていくことに、ぼくは焦りを感じていた。
宿は、最初はバックパッカー向けの安宿で、ドミトリーに宿泊しながら、「空白の未来」に、どのように進んでいくのかを考えていた。
安宿とはいえ宿代もかかり、焦りがつのる。
「早く仕事を見つけなければ…」と。
オークランドを一度はなれ、ファーム(農場)での仕事などにも一時トライしたけれど、結局ぼくはオークランドに戻ることに決める。
オークランドに戻り、住むところを探し、仕事を探す。
今ふりかえると、それはひとつの物語のように、「道」がひらかれていったように、ぼくには見える。
新聞で見つけたシェアハウスの一室を借りることができ、オークランド大学の大学生たちなどと住むことになる。
オークランドで仕事を得ることは容易ではないと言われるなか、たまたま、日本食レストランのウェイターの仕事を得る。
また、日夜働きながらぼくは資金を貯め、「空白の未来」に、「ニュージーランド徒歩縦断の旅」という目標を書く。
そうして、冬があけてくる9月の終わりに、ぼくはオークランドを発ち、「前哨戦」として映画『ピアノレッスン』で有名な砂浜のあるところまでの40キロほどを、歩いていったのだ。
1年をすごす予定が、ぼくのなかで何かの区切りがつき、結局9ヶ月ほどして、ぼくは日本に帰国することになった。
現地ですごすためのお金は、なんとかなってしまった。
「なんとかなる」という感覚が、こうして、ぼくのなかに醸成されていったのだと、ぼくは思う。
それはお金だけでなく、海外で生活をしてゆくということもそうだし、何かをきりひらいていくこともそうだし、そして何よりも、人との出会いにおいてもである。
その後の人生で、「海外に行きたいけれど、迷っている人たち」の相談を受けたりする。
どこで迷っているかにもよるけれど、それがうまく行かないんではないかという「漠然とした怖れ」のようなものであれば、ぼくは迷わずに肩をおす。
人は、道をあゆんでいるときには懸命で気づかなかったりするけれど、後の人生の歩みのなかで、ふと振り返りながら思い起こす。
なんとかなるもんだな、と。
一歩をふみだして、やはりよかったのだ、と。
秋から冬にかけての「真夏の果実」。- ニュージーランドで聴くサザンオールスターズの記憶。
レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。静かなイントロだ。だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。...Read On.
レストランのスピーカーから、サザンオールスターズの曲のイントロが、ぼくの耳にはいってくる。
静かなイントロだ。
だれしもが知っている曲だけれど、ぼくは「曲名」を知らない。
日本食のレストランでウェイターの仕事をしながら、スピーカーから流れる「日本の歌」に、ときおり懐かしさのようなものを感じる。
1996年、ぼくは大学を休学して、ニュージーランドに渡った。
ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに渡り、ぼくは、商業都市であるオークランドの日本食レストランで、運良くウェイターの仕事を得ることになった。
オークランドの中心街、海の近くにある日本食レストラン。
オーナーは韓国人、シェフは台湾人と中国人、ウェイター・ウェイトレスが日本人という、不思議な構成だ。
ぼくはニュージーランドに渡る前は、東京のカフェレストランで働いていたから、ウェイターという仕事そのものにおいては問題なかった。
やりとりは英語だから、ときおり日本食の説明にとまどったけれど、ぼくはとにかくよく働いた。
ワーキングホリデーの「ホリデー」はどこへやら、「ワーキング」が生活の主要な活動になっていった。
その日本食レストランで、バックミュージックに使われていたのが、日本のポップミュージックであった。
当時は、今では見かけない、カセットテープにふきこまれていた。
1980年代の「少し古い」音楽が流れる。
普段なら聞き流してしまうような曲たちも、異国の土地では、とてもいとおしい音色をひびかせる。
そんななかで、サザンオールスターズの曲の響きはとりわけ、ぼくの心を捉えていた。
静かなイントロに続き、「♫ 涙があふれる 悲しい季節は…」と、桑田佳祐の歌声が店内にひびいてゆく。
後に、ぼくは曲名が「真夏の果実」であることを知る。
南半球に位置するニュージーランドは、日本と逆で、ちょうど秋から冬にかけて季節が移り変わるときであった。
「真夏の果実」は、なぜか、ぼくのなかで「海外の風景」との親和性がたかい曲である。
東ティモールに住んでいたときも、それからここ香港でも、ぼくは「真夏の果実」のメロディーと歌声が、風景にしぜんと重なりあうのを感じてきた。
気がつけば、ここ香港も、ようやく秋が深まりつつあるところで、「真夏の果実」は夏が終わったところで(も)、ぼくの心にふれてくる。
これらそれぞれの空間に、無理やりに「共通点」を見つければ、<海>がいつも、ぼくの目の前にひろがっていた。
オークランドの海と港、東ティモールのディリと共にある海と港、それから香港をかたちづくり彩る海と港。
そこにはいつも<海>の風景があり、すこやかな風が吹いていた。
「丘」に現れる喪失と再起の<境界>。- 村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』
「丘」をうたう歌謡曲を通じて、人と社会を考察した村瀬学の著作『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、2002年)は、心踊る作品だ。...Read On.
「丘」をうたう歌謡曲を通じて、人と社会を考察した村瀬学の著作『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、2002年)は、心踊る作品だ。
歌謡曲の中で登場する「丘」にひかれ、「丘」をたよりに、村瀬は歌謡曲通史を試みた仕事である。
その中心的コンセプトとして、村瀬学は「丘」に、喪失と再起の象徴を見ている。
なぜ万葉集の一番最初の歌に「おか」がうたわれているのか。
「丘は丘陵・丘墓にも用いる字。[説文]に「土の高きものなり。人の為る所に非ざるなり」とし、象形とする。墳丘の意にも用いる。」(白川静『字訓』)
と説明されているように、古代から「丘」と「墓」は同じように意識されてきた側面がある。古墳も「丘」である。そういう意味では、「丘」とは、死者を葬る場所であり、同時にそこで死者を思い出す場所にもなっていた。つまり「丘」とは、失いと思い出しの場所、つまり失いと蘇りを象徴する場所、もう少しいえば、「喪失」と「再起」を象徴するものとしてあった…。
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
しかし、それは物理的な「丘」だけに限らない<丘>である。
村瀬学は、次のように書いている。
…私は、ここで喪失と再起を象徴するもの全体を「丘」と呼ぶことにした。そう考えることで、なぜ歌謡曲で「丘」がたくさん歌われてきたのか。また「丘」が歌われなくなってから、その「丘」はどういうイメージに変形され、歌い継がれていったのか、そこのところをたどってみることができるのではないかと考えた。…
丘とは、あくまで「境目」であり「境界」であり、そこには二つの領域の出会いがある。そこはAが終わる場所(喪失)であり、Bが始まる場所(再起)である。その接点を人は歌の中で「丘」と呼んできたのである。ここにはだから「複数の声」がする。Aであろうとする声と、Bであろうとする声だ。その「複数の声」を聞くということが、歌を聴くということの楽しみでもある。
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
ここで述べられているように、喪失と再起を象徴するもの全体を、村瀬学は「丘」と呼んでいる。
村瀬学は、この<丘>という喪失と再起の象徴を導きの糸に、日本の戦後歌謡と社会をよみといていくスリリングな旅に出るのだ。
目次にならい、各年代のイメージとしては、次のようなものとして村瀬はよみとく。
●1950年代:「丘」から「峠」へ
●1960年代:「丘」から「夕陽」へ
●1970年代:「独りよがり」の時代へ
●1980年代:「ワル」のふりをして
●1990年代:「激励」と「感謝」と
それぞれに取り上げられる歌は、美空ひばりや石原慎太郎、坂本九、サザンオールスターズ、モーニング娘。などなど、多岐にわたる。
直接に「丘」という言葉が歌に使われてきたのは六十年代までと村瀬は分析を加えているが、その1961年にヒットした坂本九の名曲『上を向いて歩こう』は、ひとつの時代を画するものとして、捉えられている。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう にじんだ星を数えて 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜
幸せは雲の上に 幸せは空の上に
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜
(『上を向いて歩こう』永六輔詞・中村八大曲、昭和36、1961)
この曲が外国でも『スキヤキソング』としてヒットしたことはよく知られているところだけれど、そのひとつの要因として、この歌が日本的な情感や情念より、脱日本語的な「リズム」に共感をうけたことを、村瀬は指摘している。
そして『上を向いて歩こう』という曲も、<境界>に位置した曲であることを、村瀬は次のように書いていて興味深い。
おそらくさまざまな意味において(というのは、リズムや歌い方や歌詞から見ても、ということなのだが)、この歌が「境界」の上でうたわれていることが見えてくる。特に歌詞から見れば、この歌が「失われた過去」と「幸せな未来」の境界に立っていることは一目瞭然である。「境界」だから、「前」も「後」も、まだ保留にされる。だから、ここに立てば、人は「上」を見ることができるのだ。そこにこの歌の持つ「丘」としての位置がある。人はこの「う・え・を・む・う・い・て、あーるこうおうおうおう」と口ずさむ時、「失われた過去」や「まだやってこない未来」をとりあえずカッコに入れて、涙がこぼれないように上を向くことで、元気付けられたのである。…
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
そこからひとたび視点を日本の社会に転じると、「上」は「高度成長」としての「上」とも重なり、高度な消費社会は人々のつながりを解体し、「一人ぼっち」にしはじめていたことにも触れられている。
この「一人ぼっち」(個人主義)につらなるものとして、「上を見る=星を見る=希望(夢)を見る=アメリカン・ドリームを見る」(村瀬学)といった生活の形式と内実があるのだ。
時代が歌に反映し、歌が時代をつくりだしてゆくような、そのようなものとして、歌謡曲と社会が捉えられている。
ぼくのことで言えば、「ニュージーランド徒歩縦断」の旅に旅立つときに、ニュージーランドの北島の果てでたまたま出会った日本人の方が、『上を向いて歩こう』をオカリナで吹いてくれたことを思い出す。
互いに「一人ぼっち」の旅であった。
ニュージーランドの北端のポイント、レインガ岬の近くでのことであった。
なだらかな「丘」が先までつづく道のりを歩くぼくの背中に向けて、『上を向いて歩こう』の曲がオカリナの音色にのって響いてくる。
その音色に確かに励まされながら、あの「丘」で、ぼくはどのような喪失と再起の<境界>を越えようとしていたのかを、20年以上が経過した今でも、ぼくはときどき考えてしまう。
若い頃には、何でもないような歌に心ときめく歌謡体験をし、さらに何でもないようなささやかな一行の歌詞になぐさめられ、勇気づけられることがしょっちゅうあるものだ。それが、日々の「丘の体験」である。そういう体験が直接に「丘」という言葉を使って歌にされたのが六十年代までであって、その後は、言葉としては直接使われなくなる。それでも歌謡曲が存在する限り、すぐれた歌の体験は、大なり小なり「丘の体験」としてあるのだ…。
村瀬学『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』春秋社
歌は、ぼくたちの日々の「丘の体験」の時空を、ぼくたちの中につくりだしてくれる。
それにしても、今の時代の「歌たち」は、どのような「丘の体験」なのだろうか、あるいは「丘の体験」などなくしてしまったのだろうか。
ニュージーランドで「キウィフルーツ」と「キウィ」に出会う物語。- 記憶と風景と思い出の重なりに醸成される物語。
キウィフルーツを朝食に食べる。香港のスーパーマーケットや市場に行くと、きまって、キウィフルーツが並んでいる。...Read On.
キウィフルーツを朝食に食べる。
香港のスーパーマーケットや市場に行くと、きまって、キウィフルーツが並んでいる。
キウィフルーツだけでなく、ニュージーランドで生産・収穫されたフルーツ(りんごなど)が、いろいろに並んでいる。
20年程前に暮らしていたニュージーランドの記憶と風景と思い出がぼくの中で重なり、ついつい、ニュージーランドの果物に手がのびてしまう。
でも、ニュージーランドに住んでいたとき、キウィフルーツをいつも食べていたかというと、そのようなことはなかった。
むしろ、ここ香港で食べている量の方が多い。
それでも、ぼくのニュージーランドの記憶の中には、きっちりと「キウィフルーツ」が存在の根をおろしている。
大学の2年を終えて休学し、ぼくはワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに向かった。
ニュージーランドのオークランドに降り立ち、バックパッカー用の宿に泊まりながら、ぼくは住む家を探した。
探し方なんて、まったく知らない中で、新聞か何かの案内を探したりした。
そうして、ようやく見つけたのが、一軒家の中の「フラット」である。
一軒家を7人で借りていたニュージーランドの人たちの内のひとりが何らかの理由で出ていくことになり、一部屋空いたことから、住む人を探していたのだ。
たまたま、ぼくはそのタイミングで広告を見て、入居することになった。
オークランドの中心地から、歩いていける距離であった。
同居の何名かは地方からやってきた、オークランド大学に通う学生たちで、ぼくと同世代ということもあり、住み心地もよかった。
その内のひとりが、あるとき、ダンボール箱いっぱいのキウィフルーツを台所に置く。
田舎から送られてきたのだという。
ちょうどキウィフルーツの収穫シーズンで、とても新鮮なキウィフルーツが詰まっていた。
日本にいるときは、キウィフルーツは若干贅沢品のようなところもあったから、ダンボール箱に詰められたキウィフルーツにびっくりしたものだ。
そして、すすめられて食べたキウィフルーツは、それまでの20年程の人生で食べたことのない美味しさの記憶を、ぼくの中に埋め込むことになった。
美味しいキウィフルーツは輸出されずに、ニュージーランド内で食べ尽くされているのではないかと思うほどであった。
今でも、ぼくは、その時のキウィフルーツの味を追い求めているようなところがあるのかもしれない。
そこにキウィフルーツの「理想」が打ち立てられたようだ。
オークランドを去ったぼくは、北島の最北端から南に向かって「徒歩縦断の旅」に挑戦し、4分の1ほどの700キロメートルほどを歩いたところで、その挑戦を断念する。
身体と精神の「限界」のような地点、あるいはそれでも「何かを得た地点」で、ぼくはヒッチハイクで北島の最南端にたどり着き、南島にわたる。
車が真横をとおっていく「徒歩縦断の旅」とは異なって、トランピング(トレッキング)として、山や森や川を歩くことになった。
車両がかけぬけていくこともなく、静かな自然の中を、時に誰一人にも会うことなく、ぼくは一人で歩いてゆく。
冬から春にかけてのときで、まだ山に雪が積もっていることもあった。
時には川の中を歩かなければならなかったり、岩山をよじのぼることもあった。
人は時に、自然にただ一人で向き合うことを必要とするのだということを感じる道ゆきであった。
その日は、少し雲がかかり、ぼくは平坦な森の中を歩き、ときに森が開けるようなところをぬけていた。
少し外が暗くなり始めていた頃、ぼくは、思いもかけない「出会い」に言葉を失い、動きをとめる。
ぼくが出会ったのは、野生の鳥「キウィ」であった。
キウィフルーツの名前の元でもある、飛べない鳥の「キウィ」。
確かに、ぼくの前に「キウィ」がいる。
しかし、その時は長くは続かず、キウィは、すぐさま、森の木々の中に身をかくしてしまった。
野生のキウィに会うことは、とても稀であると聞いていたから、それはぼくにとって、ひとつの祝福であった。
野生のキウィとの出会いの記憶は、キウィフルーツに対して(あるいは通じて)、独特の感情をよびおこすことになる。
ダンボール箱につめられて、ぼくの前に差し出されたキウィフルーツの「理想」に加えて、野生のキウィとの出会いが、ぼくにとってのキウィフルーツを特別なものに変えたのだ。
野生のキウィによってかけられた「魔法」のようなものだ。
そのようなキウィフルーツ、野生の鳥キウィの記憶と風景と思い出の重なりの中で、ぼくは「キウィフルーツとキウィの物語」をぼくなりにもつことになる。
この「物語」は他者にとってはなんでもないものだけれど、ぼくにとっては、誰がなんと言おうと、「大切な物語」である。
ニュージーランドで、「フルーツの皮を庭に投じること」にみるシンプルな自然サイクル。- フルーツをカットしながら考えること。
ここ香港で、フルーツを食べようと、ナイフでりんごやオレンジの皮をむきながら、ふと、ニュージーランドに住んでいたときのことを思い出した。...Read On.
ここ香港で、フルーツを食べようと、ナイフでりんごやオレンジの皮をむきながら、ふと、ニュージーランドに住んでいたときのことを思い出した。
ちなみに、りんごは、ニュージーランド産のものだ。
それはそれとして、1996年にニュージーランドのオークランドで暮らしていたとき、ぼくは一軒家の一室を借り、同年代のニュージーランド人6名(主に大学生)と共に、ひとつ屋根の下で生活していた。
オークランドの中心部から歩いて20分から30分くらいのところであったと記憶している。
一軒家は2階建てで、バルコニーがあり、バルコニーの前には庭があった。
同居人たちは、フルーツなどを食べるとき、その皮などを、庭に浅く掘った穴のなかに投じていた。
「自然」の土にかえすわけである。
このことは、東京の生活からニュージーランドの生活に突如変わり、ここでの生活で驚きと感動を得たことのひとつであった。
世界どこでも「自然」があるところでは普通のことであろうけれど、それまでの人生を都会ですごしてきたぼくにとって、そのような「実践」が自然に、そして普通のこととしてなされていることに、ぼくは驚きと感動を覚えたのだ。
だから、ぼくもその「ルール」にしたがって、土にかえせるものについては庭の穴に投じるようにした。
ニュージーランドでの暮らしを終えて、東京にある大学に復学し、環境学や社会学や経済学や国際関係論などをまなんでいった中で、近代社会・現代社会における「生産と消費」にかんする「明瞭な図式」に出会うことになる。
社会学者の見田宗介による名著『現代社会の理論』(岩波新書)にでてくる図式だ。
ぼくがニュージーランドにいた1996年に出版された書籍であり、今もなお、その内容はまったく古くなっていない。
現在の社会のシステムを特徴づける、大量生産も大量消費も、宇宙的真空の中で行われるわけではないから、わらわれはこのシステムを、次のように把握し直さなければならないだろう。
〔大量生産→大量消費〕…①
⇩
〔大量採取(→大量生産→大量消費)→大量廃棄〕…②
「大量生産/大量消費」のシステムとしてふつう語られているものは、一つの無限幻想の形式である。事実は、「大量採取/大量生産/大量消費/大量廃棄」という限界づけられたシステムである。
つまり生産の最初の始点と、消費の最後の末端で、この惑星とその気圏との、「自然」の資源と環境の与件に依存し、その許容する範囲に限定されてしか存立しえない。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)
「大量採取」は資源やエネルギーを採取することであり、「大量廃棄」は消費後に環境に向けて廃棄することである。
聞いてみれば「当たり前のこと」であるかもしれないけれど、多くの人は明確に理解していないだろうし、またこのように「見える化」することで明瞭になる。
そして、これら始点と末端が、いわゆる途上国などに負担が転嫁されていく。
ところが、グローバリゼーションの進展は、そこに「地球」という限界を見出すのだ。
さらに「宇宙」にということもあるけれど、当面の現実としては、「限界」にぶつかってしまう。
「リサイクル」ということは、この流れのなかで、廃棄から生産への「サイクル」をつくることを目指す。
しかし、リサイクルとして語られることの一部は、暫定的な対応にとどまり、つまり完全な「サイクル」はつくることができない。
見田宗介が描いた明瞭な図式を見ながら、「フルーツの皮を庭に投じること」ということは「自然からの採取→(生産→)消費→自然への廃棄」というサイクルをつくることの、シンプルな実践であることに気づく。
「厳密さ」を追求していくとほかにも調べたり、考えたりしなければいけないことはたくさんあるけれど、ぼくはニュージーランドで経験した「シンプルな実践」のなかに、可能性のひとつをみることができたことが、驚きと感動につながったのだと思う。
その後、例えば東ティモールの山に住んでいたときも、いわゆる「生ゴミ」は、自然の土にかえした。
しかし、都会の生活のなかでは、やはり「廃棄」で途切れてしまう。
近年は、日本では「生ゴミ処理機」などがつくられ、コンビニエンスストアで出る生ゴミ処理、家庭での生ゴミ処理に使われているという。
その実践は(詳細のことはわからないけれど)、ぼくたちに希望を与えてくれる。
フルーツの皮をナイフでむきながら、この皮を直接な仕方で「自然」にかえせないことを考えながら、ぼくはニュージーランドでの「シンプルな実践」に想いを馳せる。
都会という空間での生活の仕方が問われている。
倫理主義的ではない、よろこびと楽しさを基底とする方向に舵を切ってゆく方法を軸としながらの転回を、である。
立秋に、「月明かり」に照らされながら。- <根の存在>としての月と共に生きてきた世界。
月明かりが、香港の海面を照らしている。明日8月8日が満月で、月の光が一層増して、地球とそこに住む人と自然を照らす。...Read On.
月明かりが、香港の海面を照らしている。
明日8月8日が満月を迎えることもあって、月の光が一層増し、地球とそこに住む人と自然を照らす。
香港の夜の郊外を照らし出す街灯や建物の光をつきぬけるように、凛とした光が部屋の中にも差し込んでくる。
差し込む光は淡いようでいて、しかし光の中には芯がある。
ここ香港にいても、月明かりは、ぼくのなかの「何か」を照らしてくれるような気がする。
小学校の頃、ぼくは望遠鏡をもちだして、月や火星、木星を見ることが好きだった。
望遠鏡のレンズの限度もあり、よく見えるのは月だった。
レンズを通して、月の表面のクレーターが見える。
手が届きそうなくらいに、ぼくの眼の前にクレーターがいっぱいにひろがっている。
そこに「うさぎ」はいなくても、それ以上に想像がかきたてられ、ずっと見ていても飽きなかったものだ。
しかし、それから大人になる準備をしてゆくなかで、ぼくはいつしか望遠鏡で夜空や天体を見ることをやめてしまった。
そんなぼくの深いところに、再び「月明かり」が照らされたのは、大学2年を終え休学して行ったニュージーランドでのことであった。
徒歩縦断の旅、山登り、キャンプ場などでの生活のなかで、月と月明かりは、ぼくの夜の過ごし方や動きに影響を与えた。
月明かりがないと夜は夜となり、月明かりが照らすときは、夜はしずかな祭りとなる。
手持ちの懐中電灯を使わずとも身動きをとることができ、「便利」でもあった。
ニュージーランドは南半球に位置し、北半球とは異なる月の姿を見ることも、楽しみのひとつであった。
その内、そのようなリズムと自然の力がぼくのなかに光を点火した。
それから、その後暮らすことになった、西アフリカのシエラレオネ、(ニュージランドと同じ南半球に位置する)東ティモールでも、月明かりは存在感を発揮していた。
シエラレオネでは電気のない町で暮らしていたから、月明かりは、言葉の通り、町を照らしていた。
東ティモールでも、電気が使える時間が限られていたり、電気がない村で過ごしながら、月明かりは山間地のコーヒー農園と村々を照らし出していた。
日本から遠くはなれた土地においても、月明かりはやはりそこにあって、地球とそこに住む人と自然を照らしていた。
空にどこまでもひろがってゆく宇宙空間であったけれど、ぼくにとっては「根」のように感じるものである。
「根をもつことと翼をもつこと」という人の根源的な欲求において、月と月明かりは、翼をひろげてゆくイメージがありながら、しかし、どこにいてもぼくたちを照らし出してくれる<存在>として、ぼくにとっては「根をもつこと」でもある。
ここ香港は、100万ドルの夜景と言われてきた土地柄、「明るさ」に満ちているところである。
しかし、もちろん、香港でも、月はその<存在>の力を放っている。
香港の「明るさ」をつきぬける仕方で、月明かりは香港を照らす。
気がつけば、今日8月7日は「立秋」である。
「中秋節」の足音が聞こえ始める。
ただ、「中秋節」は今年は少しカレンダーの後ろにゆき、10月のはじめである。
香港で、月餅と共にお祝いをする大切な日である。
そこに向けて、月は一層、美しさと存在感を増してゆく。
雲がゆっくり動きながら、隠れていた月が、またあらわれる。
こんなときは、部屋の電気を消して、月明かりに照らされる世界に浸る。
ただ電気を消すだけで、世界が一変するのだ。
こんなにも簡単に、世界は変わる。
「アースデイ」(の消灯キャンペーン)に頼ることなく、そのような呼びかけに肩をおされなくてもいい。
月が出たときに、少しだけでも、電気を消すだけだ。
環境主義・倫理主義でもなんでもなく、ただ月明かりを楽しむために。
明日の満月の日には、そのことをもう少し書こうと思う。
洋書による「英語の学び」の地平線。- シドニー・シェルダンの作品。
ぼくが、日常で洋書を手にするになったきっかけのひとつは、シドニー・シェルダン(Sidney Sheldon)の作品である。...Read On.
ぼくが、日常で洋書を手にするになったきっかけのひとつは、シドニー・シェルダン(Sidney Sheldon)の作品である。
シドニー・シェルダンは、アメリカの脚本家・小説家。
今の10代・20代の若い世代には馴染みがない名前だろう。
1980年代から1990年代にかけて多くの作品を世におくりだし、2007年に他界した。
サスペンス的なプロットに読者をひきこみ、日本でも翻訳がベストセラーとなり、当時は書店のすぐ目につくところに並べられていた。
だから、「シドニー・シェルダン」の名前は知っていた。
新聞紙面でも、シドニー・シェルダンが「英語教材」として扱われている広告を、よく目にしていた。
大学に入り、英語をもっと勉強しないとという焦燥感を抱きながら、シドニー・シェルダンの名前は、ぼくの頭の片隅に置かれていた。
でも、当時は特に本を読むことを常としていなかったし、サスペンス的な小説には関心をもっていなかった。
そんな状況に変化があったのは、大学2年終了後に休学届けを大学に出して、ニュージーランドにいったときのことであった。
ワーキングホリデー制度を利用しての滞在であった。
オークランドの日本食レストランでウェイターとして働きながら、休日はオークランド図書館や古本屋に足を運ぶようになった。
ぼくは、古本屋で、ビートルズの伝記などと共に、シドニー・シェルダンの作品のペーパーバック版を手にした。
「ペーパーバック」の本には、少なからず、あこがれを抱いていたこともある。
バックパッカーとして海外を旅するようになってから、バックパックとペーパーバックがある風景に、かっこよさを感じたのだ。
旅先で会う、世界からのバックパッカーたちは、背中に大きなバックパックを背負い、その中には必ずと言っていいほど、ペーパーバックの本が数冊詰められていた。
まだ、電子書籍がない時代だ。
旅先の宿で、旅先のカフェで、ペーパーバックが風景のなかで欠かすことのできない一部を成していた。
母国語を英語としない人たちも、英語のペーパーバックを読み、読み終わっては宿に寄贈していく。
ぼくは、そんな旅の風景が好きだった。
ニュージーランドに住むという経験のなかで、英語を修得するという目標のためにも、英語の原書にチャレンジする。
しかし、そこには、「あこがれ」のイメージを重ねて、「かっこよさ」の風景をつくりあげていく。
そのようにして、ぼくは、英語の本たちと仲良くなりはじめた。
でも、「英語を学ぶ」ということで読み始めたシドニー・シェルダンは、最初の導入部分さえ超えてしまうと、ページを繰る手がとまらなくなってしまった。
英語は比較的容易な語彙が使われ、物語のリズムとプロットが幸福な調和をつくることで、読者を物語の世界にひきこんでしまう。
こうして、「英語の学び」ということは、いつしか地平線の彼方にきえてしまい、そこには「楽しさ」が現れることになった。
楽しさは、本の最後まで、ぼくたちを届けてくれる。
途中、わからない単語はあまり気にしない。
本の楽しさとリズムという「波」が、地平線をこえて、ぼくたちを「沖」までつれていってくれる。
英語の本を一冊読みきる、という経験がつみあがる。
そして、また、古本屋で、シドニー・シェルダンの一冊を手にとる。
シドニー・シェルダンは、だいたい、どこででも、手にいれられるのだ。
そんな経験の積み重ねのなかで、ぼくは、日常のことのように、洋書を読むようになった。
洋書を日常として読めるということは、ベネフィットも大きい。
- 著者独特の語りのリズムや語彙を楽しむことができる。
- 英語を学ぶことができる。
- 翻訳を待つ必要がない。
- 翻訳されない良書に触れることができる。
- 翻訳では意味がとれない場合(翻訳がまちがっている場合)を避けることができる。
- 世界で出会う人たちと内容等について語ることができる。
まだ、ベネフィットはあるだろう。
しかし、そんなベネフィットをひっくるめて、ぼくは何よりも楽しんでいる。
シドニー・シェルダンがまだ生きていたら、とぼくは思わずにはいられない。
もっとたくさんの作品を、ぼくたちは楽しむことができたはずだ。
とても残念だ。
しかし、シドニー・シェルダンは、ぼくにもっと大きなものを残してくれたようにも思う。
それは、本を読むという楽しさであり、洋書(原書)を読むという楽しさである。
シドニー・シェルダンの作品は有限だけれど、楽しむ仕方は無限だ。
この「楽しむ」という無限を、彼は、肩肘はることなく、ぼくに魅せてくれた。