総論, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 成長・成熟 Jun Nakajima

ブログを2ヶ月毎日書いて気づいた、3つのこと - 「坂の踊り場」で考えたこと。

ぼくは、ブログを始めて、この2ヶ月間、毎日書いてきた。「坂の踊り場」のような現在の位置で、気づいたことを3つ書いておきたい。...Read More.

ぼくは、ブログを始めて、この2ヶ月間、
毎日書いてきた。

「坂の踊り場」のような現在の位置で、
気づいたことを3つ書いておきたい。

 

(1)生きていくことのリズム

「毎日書く」ということは、生活の
リズムをつくっていく。
毎日運動すること(例えば、走ること)
に似ている。

リズムは、そこに、とても小さい
けれど「足跡」を残していく。
書かれたものが、目に見える形で足跡
を確かに残す。

このリズムと足跡は、日々、自分という
軸をつくり、保持し、修正し、という
果てしない作業において、有益である。


(2)「アンテナ」が世界に放たれる

書くテーマの「アンテナ」が、できる。
世界をみる眼がするどくなる。
些細なものごとにも、物語をみるよう
になる。
学ぼうとする姿勢が強化される。

これは、思っていた以上に大きな効果
であった。
これまでも、いろいろとアンテナを
張り巡らしてきたけれど、さらに
強化されたように感じている。

 

(3)短期・中期・長期のテーマ

ブログは、短期の仕事の「小分け」
のようなものだ。

社会学者の大澤真幸は、著書『考える
ということ』の中で、考えることの
テーマを、短期・中期・長期に分けて
いる。

 

 長期のテーマは…一生考え続ける
もので、したがって、十年以上の思考
の蓄積を必要とする。
 中期というのは、極端に大部では
ない、普通の厚さの一冊の本をイメー
ジするといいだろう。…
 短期というのは、一年未満の仕事で
ある。数ヶ月とか、あるいは来月まで
の締切とか、ときには一週間くらいの
場合もある。

大澤真幸『考えるということ』
(河出書房新社)

 

ブログは短期の仕事の中の、さらに
小分けのように、ぼくには感じる。
ときには、ブログの一節が、もっと
大きな仕事につながる予感を感じさせる
こともある。

ぼくは、ブログを書くことと並行する
ように、中期のテーマを書いている。
ブログはその源泉ともなっている。

大澤真幸がのべているように、
短期のテーマは長期のテーマにつなが
っている。
長期のテーマは「一生のテーマ」である。
ブログは一生のテーマを追いかける、
その一歩でもある。


そして、これからは「個人ブランド」の
時代である。
その一つの土台と基地が、ホームページ
である。

それは「住まい」のようなものでもある。
「住まい」は生き方そのものでもある。
自分の住まいをつくり、他者をそこに
招き入れる。
そして、そこから「何か」が生まれていく。

そんなことを、2ヶ月間、毎日書いてきて、
ぼくは考えている。

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香港, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

「天気がいい/悪い」と、言わないように。 - 自分の中に「地球」を描く。

「天気がいい/天気が悪い」と言わないこと。ぼくはこう決めるけれど、個人史の中で、身についた価値観と感覚を入れ替えることは容易ではない。...Read More.

「天気がいい/天気が悪い」と、言わない
こと。
ぼくはこう決めるけれど、個人史の中で、
身についた価値観と感覚を入れ替えること
は容易ではない。
ここ香港で、ついつい、晴天を待ち望んで
しまう。
気象庁に相当する「香港天文台」も、来週
頭から「天気は回復する(improving)」
と天気予報をつげている。週末は天気が
悪くなる。

天気がいい/悪いという分岐線は、
・晴天がよいこと
・雨天は悪いこと
という価値観を前提にしている。

世界の色々な国・地域を旅し、住み、移動
していくと、雲や雨の大切さが身にしみて
くる。

途上国で仕事をしているときは、
雨がもたらす「水」の有り難さにふれる。
日々の生活につかう水から、農作物が
育つための水。
シエラレオネの井戸水は、雨水が地層に
しみこんで濾過された水である。
東ティモールのコーヒーの木たちが、
コーヒーの実をむすぶために雨の役割は
大きい。
雨がふらないと、水不足で、コーヒーの
精製はもとより、生活水にもこまる。
マレーシアのクアラルンプールでは、
雨がふらないため、断水の時期がある。
ぼくは都会での生活にもどると、水の
大切さ、雨の有り難みがうすれてしまう。

人類は「自然から自立すること」で
文明と近代・現代を築いてきた。
そして「都市生活」が全域化してきたのが
近代であり現代である。
人類は、自然から自立し、しかし
同時に自然が疎遠になり、自然から疎外
される。

「水道」というツール・道具は、
自然からの自立を可能にしてくれた。
しかし、水道水を「当たり前」として
享受する人たちは、水は道具でしかなく
水という自然から疎外される。

現代とこれからの「いまだ名づけられない
時代」は、この自然からの疎外という
関係性を変えていく時代である。

宇宙を舞台にする数々の映画がつくられて
いる。
クリストファー・ノーラン監督の映画
『Interstellar』、マット・デーモン主演
の映画『The Martian』などなど。
それらの映像がぼくたちに感じさせてくれ
るのは、宇宙や他の惑星という視点から
折り返される「地球の美しさ」である。

地球の美しさには、晴天も雨天も、すべて
が内包されている。

宇宙という視点から折り返される「地球」。
世界の様々な国・地域に、様々な仕方で
住む人たちが織りなす「地球」。
ぼくは、そのような風景と感覚を、
自分の経験を媒介にして、自分の中に
とりこんでいく。
イマジネーションを働かせ、自分の内奥に
美しい地球を描いていく。

そのようにして
「天気がいい/悪い」という言い方、
そしてその言い方を支える前提と価値観を
少しずつだけれど解体し、新たな「何か」
を自分の中で生成させていく。

人間の「外部の自然」との関係は、
人間の「内部の自然」(人間の心やマイ
ンド)と、確かにつながっているのだから。

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香港で、「コーヒーの定点観測」をしてきて - 香港の「コーヒー事情」雑記。

香港に移ってきた2007年。当時、美味しいコーヒーが見つからなかった。...Read More.

香港に移ってきた2007年。
当時、美味しいコーヒーが見つから
なかった。

2007年香港に居住を移す前、
ぼくは東ティモールでコーヒー事業
に従事していた。
コーヒーの苗木つくり、コーヒーの
精製、コーヒーの輸出、それから
コーヒー生産者組合の組織化にわたる
まで、字義通り、日々奮闘した。

東ティモールでそれまでつくってきた
「スペシャリティ・コーヒー」の世界
から、「インスタントコーヒー」が
デフォルトの香港に、ぼくは移ってきた。
その落差は、個人的には大きかった。

それ以来、香港で美味しいコーヒーを
追い求めて「コーヒーの定点観測」を
してきた。

香港のコーヒー事情について、
雑記として、ここに書いておきたい。

 

(1)香港におけるコーヒー事情

ここ5年程で、香港のコーヒー事情が
一気に変わってきた。

次の3つの点からコーヒー事情を考えて
みたい。

  1. コーヒーの品質
  2. カフェ文化
  3. 物語としてのコーヒー

10年前、コーヒーといえばインスタント
コーヒーであった。
そして、ミルクコーヒーである。
もちろん、そうでないコーヒーもあった
が、品質(豆・焙煎など)が相当に
低かった。

ここ5年ほどで、そのコーヒー事情が
一気に変わってきている。

ぼくの経験としては「Holly Brown
Coffee」が香港のセントラルに店を
出したあたりから、事情が変わってきた。
Holly Brownは、店舗内に焙煎機をかまえ
良質なコーヒーをとりいれていた。
開店当時はヨーロッパから専門家を
招いていた。

この時期と同時期に、香港でカフェ文化
が根づいていく。
どこにいっても、新しいカフェができて
いく時期にはいる。

カフェがふえていくと同時に、
コーヒーの品質も全体的にレベルがあが
ってきた。
コーヒーの品質がカフェ文化と併走して
きたのだ。

カフェ文化は「かっこよさ」を装い、
ファッショナブルに浸透していく。
カフェで働くバリスタも、かっこいい
仕事として物語を形成していく。

テレビドラマではカフェとそこで働く
人が描かれる。
書店では、コーヒーやバリスタの
書籍がフロントにおかれる。

コーヒーやカフェ文化は、人々の
人生の「物語」にとりこまれていく。

 

(2)香港とコーヒー

香港とコーヒーの関わりについて、
次の3つの点を記しておきたい。

  1. 異文化許容度の高い香港
  2. コーヒービジネス
  3. 空間活用としてのカフェ

コーヒー文化およびカフェ文化の浸透
は、香港の「異文化の許容度」が寄与
している。

許容度をささえる軸のひとつは、
ビジネスである。
「儲かるビジネス」は、香港では
一気に浸透していく。
香港でのコーヒーの「値段」は、
世界でもかなり高い。
香港での「Start-Upビジネス」も
この流れに加わることで、文化が
形成されてきた。

そして、香港でのコーヒーショップは
何よりも「場所の提供」である。
空間の余裕がない香港では、コーヒー
ショップは活動の場である。
一人で勉強する場であり、家庭教師が
勉強を教える場であり、保険の契約を
する場である。

 

(3)香港経済社会的発展とコーヒー

香港のコーヒー文化(そしてカフェ文化)
の浸透は、香港の経済社会の発展に相応
している。

リーマンショックの影響を、人々の生活
レベルでは
あまり受けなかった香港。
2010年代は中国大陸の発展と相伴って
経済社会が発展してきた。

面白いことに、コーヒーの浸透は、ワイン
の浸透とも併走してきたように見える。
香港は5年ほど前から、中華料理の食卓に
赤ワインが日常化してきた。

また、カフェ文化の浸透は、
ケーキ類の品質向上にも影響してきた。

以上、香港の「コーヒー事情」を、
雑記として、書いてきた。

個人的には、コーヒーの品質はもっと
高くなってほしい。
ブラックコーヒーを好む人は少ないため
そこのブレークスルーはむずかしい。
ハンドドリップコーヒーを提供する
ショップもでてきているが、需要は
少ない。

ハンドドリップ技術も高くない。

それにしても、世界どこにいても、
文化の「定点観測」は、ぼくたちの生を
豊饒にしてくれる。

追伸:
香港で、東ティモールのコーヒーを
提供しているカフェを見つけた。
日本人経営で、コーヒーは日本からで
あった。
香港人の店員さんに、その東ティモール
コーヒーが日本のどこからきているか
聞いてみたが、わからないとのことで
あった。
ぼくはハンドドリップでオーダー。
そこには、東ティモールの香りと味が
確かに感じられた。

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香港で、麺にさそわれて - 「車仔麺」にみる文化。

香港の陽光にさそわれると、今度は、香港の麺がぼくをさそった。知る人ぞ知る「車仔麺」の有名店に足を運ぶ。...Read More.

香港の陽光にさそわれると、
今度は、香港の麺がぼくをさそった。

知る人ぞ知る「車仔麺」の有名店に足を運ぶ。
「車仔麺」の歴史は1950年代に遡ると言われ
昔の屋台麺である。
今でこそ、屋台ではないが、香港のいたる
ところで食すことができる。

広東語が話せない場合、「少し困難」なのは、
オーダーのプロセスである。
麺、スープ、具を、細かくオーダーするため
である。
「セット」のメニューもあるが、やはり細かく
選びたい。

ぼくは「単語発音+ジェスチャー」勝負の
広東語で、麺と具材をオーダーしていく。

具材は、肉のあらゆる部分、野菜、卵、
ソーセージなど多種多様である。

ぼくは、野菜を中心にまとめ、
卵焼きを添え、香港式のホットミルクティー
を頼んだ。

自分で頼みながら、香港の食文化の多様性に
改めて感心してしまう。

「車仔麺」は具材はありとあらゆるものが
取り入れられる。
ミルクティーと麺の取り合わせも、日本に
いたらしないだろうなと、客観的に考える。

張競氏の「中華料理の文化史」の一節が
その背景を語ってくれているようであった。


…まずいものが淘汰され、おいしいものだけ
が残る。食材も、調味料も、料理法も、
出自はどうであれ、料理をおいしくすること
ができれば、たえず取り入れられてきている。
この意味では中華料理は多くの異民族の料理
文化を取り入れた、いわば雑種の食文化である。

張競『中華料理の文化史』(ちくま新書)
 

ソーセージが入っても、麺がおいしくなれば
喜んで取り入れられていくわけである。
そして、この仮説にもうなってしまう。

 

現在、地球上のどこの国にも必ず中華料理が
あると言われている。世界のほとんどの国で
受け入れられ、誰が食べてもそれほど違和感
を感じさせないのは、やはりその雑種性の
ゆえであろう。

張競『中華料理の文化史』(ちくま新書)
 

日本はもちろんのこと、
東ティモールでも中華料理に助けられた。
ニュージーランドでも、そして西アフリカ
のシエラレオネ(最近歴史に
残る大きさの
ダイヤモンドが発掘されたコノ地区)でも、
中華料理はぼくとともにあった。

そして香港の多種多様なものを許容する文化
は、さらに雑種性をとりこんできているよう
にみえる。

グローバル化を考える文脈の中で、
食文化の接触と受容と変容は、話題に尽き
ないトピックである。

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香港で、陽光にさそわれて - 海はつながっている。

香港で、陽光にさそわれて、ぼくはふと、海を近くに感じる、あの場所にむけて外へ飛び出した。...Read more.

香港で、陽光にさそわれて、
ぼくはふと、海を近くに感じる、
あの場所にむけて外へ飛び出した。

「どこにいくんだ?」

バス乗り場で、バスを探していると
整理係のおじちゃんが、ぼくに向かって
叫ぶような声で聞いてくる。

「西貢!」

ぼくも負けじと言い返す。
おじちゃんが「こっちだ」というバスに
とびのる。

やがて、バスは、海のある風景にたどりつく。

やや霞みがかった空気のなかを、
陽光が差し込んでいる。

歩きながら、携帯電話を取り出し、
ぼくはきづく。

陽光のもとでは、携帯電話の画面は
役に立たない。
陽光のもとでは、携帯電話の画面は
みえなくなるのだ。
陽光は、ぼくに、顔をあげるように、
つげる。
陽光は、ぼくに、顔をあげて、
風景の美をつかむように、つげる。

そして、海の風景は、ぼくが訪れた
美しい風景を思い起こさせる。

ニュージーランドの90マイルビーチ。
西アフリカのシエラレオネ、
首都フリータウンにたたずむビーチ。
東ティモールの首都ディリから続く海岸線。

世界は海でつながっている。
陽光のなかで、ぼくは、<世界>を旅する。

「翼」をもって世界を移動しながら、
「根」は地球にむかってのびている。

「根をもつことと翼をもつこと」
地球いっぱいにひろがる「海」は、
その矛盾を端的に超えさせてくれる。

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「情報」を判定するための方法 - 経済学者アマルティア・センから学んだこと。

「情報」を判定するための方法のひとつを、ぼくは、経済学者アマルティア・センから学んだ。ある情報が何を言おうとしているのか、何を主張しようとしているのか。...Read More.

「情報」を判定するための方法のひとつを、
ぼくは、経済学者アマルティア・センから学んだ。
ある情報が何を言おうとしているのか、何を主張
しようとしているのか。

経済学者アマルティア・センは、1998年に
ノーベル経済学賞を受賞した。
GDPなどの経済指標だけではない、人間開発の
代替的な指標(「潜在能力アプローチ」)を
提示するなど、理論においても実践においても
大きな影響を世界に与えてきた。

センは、アメリカの心理学者・哲学者であった
ウィリアム・ジェームズの著作『心理学原理』
(1890年)から、こんな言葉を拾い、論文の
中で引用している。


「賢明である技術(art)は、何を見落とす
べきかを知るという技術である。」

アマルティア・セン論文「権利と潜在能力」
(1984年)

 

センがこの言葉を引用する理由は、
「何が見落とされているかを評価することは
何が主張されているかを判定するのにまったく
よい方法であるから」である。

ある情報を手にしたとき、そこには何が
「見落とされているか」を見ること。
見えない言葉を拾うこと。

世界は、毎日、情報を発信し続けている。
メディアのニュースもそうだし、ブログも
そうである。
仕事の中での情報もそうだし、起きる問題も
そうである。

その中で、ぼくたちは様々な「情報」に
出会うことになる。

そんなときに、言われていること、主張され
ていることから目をはずし、「言われていな
いこと」をみる。
普段とは違う「見方」で情報を見る。
目の視点をズラすことで立体像が浮き上がる
3D画像のように。

センが言うように、見落とされているものは
何が主張されているかを判定するのに、
よい方法なのだ。

センは、この方法で、厚生経済学のある「不
可能性」を切りひらくことになった。

日々、世界は、主張でいっぱいだ。
そんなとき、そこで語られていない言葉に
耳をすますこと。
見えないものに目をこらすこと。

ぼくは、こんなことを、経済学者アマルティア・
センから学んだ。

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『包括的な「開発と自由」論」(仮名) - 15年前の「未完」の作業をひきついで。

15年ほど前の2002年1月、ぼくは大学院で修士論文を提出した。タイトルは、『開発と自由~アマルティア・センを導きの糸に~』である。

15年ほど前の2002年1月、
ぼくは大学院で修士論文を提出した。

タイトルは、
『開発と自由~アマルティア・センを導き
の糸に~』である。
経済学者アマルティア・センの研究を題材に、
途上国の開発や発展を「自由」をつくりだす
という視点でとらえなおす試みである。

執筆作業の最後の2週間は、
昼も夜もわからなくなるくらいに
自室で黙々と書いていた。

でも、一つ確かに言えることは、
ぼくは、この修士論文を、書きたくて書いた。
書く必要性があって書いたことである。

大学院の修士課程を修了する必要はあった
けれど、ぼくはそれ以上に、この論文を
書く必要があった。

15年ほどして、その修士論文を読み直す。

気づいたのは、次の通りである。


(1)生き方の基盤づくり

ぼくの生き方の「基盤づくり」となった
ことが、まず挙げられる。

論文完成後の15年にわたる、ぼくの生の
方向性をしめしていてくれたことを、感じる。

納得のいくまで書き上げた文章は、
必ず、ぼくたちの人生を豊饒にしてくれる。

基盤づくりは、大別すると二つの点に
おいてである。

① 内容
② 論文執筆の準備とプロセス

「自由」に関する内容はもとより、
執筆の準備とプロセスである。
その準備とプロセスで得てきたものが、
ぼくの内面の奥に、しずかに積み上げら
れてきたのである。

 

(2)原的には今も変わらない理論

理論は、今読んでも、今の考え方と変わ
っていないことに気づく。

15年の歳月をかけて、ぼくは「経験・体験」
を自身に通して、生きてきた。
それでも、基本の考え方は変わっていない。

ただし、それが「実践」にどこまでうつせ
てきたかは、綿密な分析作業が必要である。
これは、今後のぼくの課題としたい。

しかし他方で、世界は、この15年において
次の時代に向けて大きく変わってきている。

グローバル化は圧倒的なスピードで拡大して
きている

情報技術の進展も、多くの人が予測できて
いなかった。
人工知能は、すでに世界を変えはじめている。
アジアの発展はめざましく、しかし今度は
国単位ではない貧富の差が拡大してきている。

視点を歴史にうつすと、Yuval Harari氏が
いうように、飢餓・伝染病・戦争は、管理
可能な課題に移行をしてきたのが人類である。


そして「現代」は、社会学者の見田宗介が
いうように、「近代」の最終局面にある
<過渡期>としてとらえられる。

次なる局面に、どう移行していけるだろうか。
 

(3)「終章」の存在

修士論文の終章は、ぼくに次の「課題」を
あたえていたことに気づく。

終章は「包括的な『開発と自由』論(仮名)
に向けて」と題されている。

そのようなことを、ぼくはすっかり忘れて
いた。

時を経るうちに、記憶は終章の存在を、
ぼくの無意識に、そっとおさめていたのだ。

村上春樹の著作が、第二部でいったんおわり
続編である第三部がでるかでないのかわから
ないのとは異なり、ぼくは、明確に、次の
課題を記載していたわけだ。

ふと修士論文を見たくなったのは、
もしかしたら、この終章がぼくを呼んでいた
のかもしれない。

ぼくの無意識がなんらかの理由で、
この記憶を意識下におくりだしたのかも
しれない。


人生には、ぼくたちは多くの「未完」を
無意識にしまってあるのかもしれない。

無意識の地層で、ときにゆっくりと眠り、
ときにゆっくりと熟成されていく。

そして、ときに、なんらかの磁場のなかで
それらは意識に浮上してくる。

だから、ぼくは、意識下におくりだされた
この記憶を頼りに、この「終章」を、
なんらかの仕方でひきついでいく方途を
さがしはじめている。

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ひとに「伝える」ことができるとしたら -「伝える技術」の一つ下の地層で。

「伝える技術」的な書籍がポピュラーである。

ぼくも、日々の生活のなかで、いろいろと
参考にしている。
佐々木圭一『伝え方が9割』など、実際の
実践につなげていくべきところが多い。

そもそも本を読む人は意外に少なかったり
する。
また、本を読んだとしても、ぼくを含めて
多くの人が、読んで終わりになりがちで
ある。
内容を実践にうつして、試行錯誤のなかで、
じぶんなりの仕方を身につけていくことが
何よりも大切である。

このような書籍がポピュラーである背景
には、コミュニケーションのむずかしさ
がある。
コミュニケーション能力が、さまざまな
場と局面で求められている。

ひとに伝わらない苦々しい経験と
もどかしさが、伝える方法・仕方の学び
を求める人たちをひきつけていく。

「伝える」ということを考えるとき、
ぼくの脳裏には、社会学者・真木悠介
の文章が浮かぶ。

「エローラの像」という文書で、
真木悠介著『旅のノートから』(岩波
書店)に収められている。

真木悠介は、インドにあるエローラ石窟
群にある「teaching Buddha」という
像から、「伝える」が成り立つことの
「秘密」をとりだしてきている。

この「teaching Buddha」は、3つの
像があり、それらは「教える」という
ことに至る3つの姿勢を形づくっている
という。

 

 最初にあるのが ”giving Buddha” -
「与えるブッダ」、あるいは自分を
「明け渡す」という姿勢。自分を

オープンにするという姿勢である。
次にあるのが ”touching Buddha” -
「触れる」ということ。相手に触れる。
ということである。「心に触れる」
「魂に触れる」という日本語がある
ように、そしてtouchという英語も
また、感動させる、心に触れるという
意味があるように、元々は相手の身体
に触れる、じっさいに触れるという
具体性からくるのだろうが、とにかく
相手の存在の核の部分に「触れる」と
いうこと。このことが次にある。
teaching pose - 「教える」という
ことが可能になるのは、この2つの後
ではじめて成り立つことである。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

教える、つまり「伝える」ということは、
与えること、それから触れることがあって
はじめて成り立っていく。

伝えることができない苦々しい経験の
只中で、ぼくは、この「秘密」を思い出す。

「技術」「術」などのハウツーの手前、
一段下の地層において、ぼくは、自問する。
相手に与えることができているか。
オープンになれているか。
相手の心に触れることができているか。

「方法」は「姿勢」がともわないと、
ぼくたちを、伝わらないことの、あの苦々
しい経験のなかに、おきざりにしていく。

だから、今日も、ひとつ下の地層を、
ぼくは掘っていく。

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「香港」にたどりつくまで - 願いと予感が導くところ。

2007年に、ぼくは「香港」にうつった。
10年前のことである。

どのようにして「香港」にたどりついたのだろう
と考える。
成田空港から飛行機にのってやってきたし、
香港を住む場所として「選択」をしたことも
確かだ。
しかし、表層ではなく、すこし深い「心の地層」
において、ぼくはどのようにして「香港」に
たどりつくことになったのだろうか。

 

(1)香港への「予感」

香港にはじめてきたのは、さらに時間をさか
のぼる1994年。
大学の夏休みに、飛行機にはじめてのって、
ぼくは香港におりたった。
香港から広州、広州からベトナム、そしてその
ルートから香港へもどってくる一人旅であった。

香港のTsim Sha Tsuiのヴィクトリア湾に面す
プロムナードから香港島のビル群を見渡した。
そのときに、ぼくは、香港に仕事でくるような
そんな「予感」を感じたのだ。

香港はまだ中国への返還前であった。

それから、ぼくは香港とはまったく関係のない
「途上国」での仕事にかかわっていく。
香港からは程遠い世界だ。
2006年、ぼくは、東ティモールで、銃撃戦の
なかにいた。

翌年2007年、仕事がおちついたところで、
ぼくは香港に拠点をうつすことになった。

 

(2)海外への「願い」

「香港への予感」をさかのぼり、大学時代の
一人旅からもさらにさかのぼっていく。

ぼくは、中学生か高校生のときだったか、
卒業文集に「将来の自分」をイメージして
書いていた。

手元には、そのときの文集はないけれど、
ぼくは、「世界をとびまわっている」と
書いていたことを覚えている。

将来にたくした「願い」だ。

文集に書いたことを思い出したのは、
NGO職員として、アフリカやアジアを
行き来していたときだったかと思う。

ぼくの願いに「詳細」はなかったけれど、
願いは現実になっていくものだ。

「願い」と「予感」。

ぼくのなかで、これらが化学反応をおこし
ぼくを香港へとおくりだしていった。

あるいは、ぼくが、自分の人生という
「物語」のなかで、勝手にストーリーを
つくっている。

だから、ぼくは、願いと予感を丁寧に、
これからの未来をえがく。
キーボードをタイプし、字を書くこの
手を大切にしている。

香港の街を一人歩きながら、
ぼくは、ふと、そんなことを考える。

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「目新しいものはなにもない」と言わない・考えないための、3つの自問。

ぼくもかつてはそうであった。

話を聞いたり、本を読んだりしてから、
それらの内容に新しいものがないと
「目新しいものはなにもない」と口にしていた。
「(誰それと)同じことを言っている」などと
そこで考えることをやめてしまうこともあった。

でも、いつしか、この言い方や考え方は
じぶんにとってよくないな、と考えるように
なった。
意味がないだけでなく、弊害を生む考え方で
ある。

この言い方や考え方は、
じぶんは「知っている」という立場にいる。
でも、問われるのは、
「ほんとうに知っているのか」ということで
ある。
また、知っているとして、それに沿ったように
何か「行動しているか」ということである。

「目新しいものはなにもない」という人の
多くは、そこで思考も行動もストップして
しまっていることが多い。

ぼくは、このように考えがちなときに
ぼくのマインドにうちかえす問いを即座に
はなつようにしている。

 

(1)ほんとうに「同じこと」か?

「同じこと」であっても、もう少しうがって
みてみる。
ほんとうに同じことであるのか。
同じことのどこに焦点をあてているのか。
同じことに辿りついた経験や体験は。
などなど、一見同じことにみえても、差異が
あったりする。

 

(2)「同じこと」の展開の仕方はどうか?

同じことであっても、本を出版していたりする。
同じことを、ブログで述べていたりする。
それでも、注目を集めたりしていることもある。
同じことであっても、展開の仕方を学ぶことが
できる。

 

(3)じぶんが行動しているか?

目新しいことではないと切り捨ててみたところで
じぶんは行動にうつせているのか問うてみる。

「こんな内容であれば、じぶんでも本を書ける」
と豪語したところで、じぶんは書いているだろうか。
同じことを言っていても、書いていても、その
発信者は少なくとも「行動」をおこしている。
人の差は、行動をおこす・おこさないの差であった
りする。

そして、行動をおこせていないときには、ほんとう
に内容を理解していなかったりする。
内容が「頭での理解」にとどまっている可能性がある。
理解は、頭だけでなく、心、そしてお腹にまで
おとしていくことが大切である。

 

世界は、情報技術の発展とともに、ますます
多くの人たちがじぶんの意見や方法を、
世の中に発信してきている。
目新しいこともあれば、これまで聞いていた
ことと同じ(ような)こともある。

そんなときに、じぶん自身に問い返したい。

そして、じぶんは理解できていても、
また、じぶんは行動していても、それらを
一歩先に踏み込んで、他者にひろげていく
ことも大切である。

だから、「目新しいものはなにもない」と
いう思考停止・行動停止の「呪文」は、
言わないことである。

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書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

「コミュニケーション能力」を紐解く - 平田オリザ著『わかりあえないことから』の繊細さ。

劇作家・平田オリザの「コミュニケーション」
に対するまなざしは、繊細でしなやかである。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)は、副題を「コミュニケー
ション能力とは何か」としている。

世の中で、あまりにも「コミュニケーション
能力」が叫ばれてきたことに対する、問題提起
である。

 

(1)「コミュニケーション能力」とは何か

平田オリザは、コミュニケーションに対して
繊細・しなやかで、しかし真剣な切り口で
疑問を投げかける。

例えば、企業の人事採用では「コミュニケー
ション能力」が求められてきている現状がある。
これに対して、即座に問い返す。


「では、御社の求めているコミュニケーション
能力とは何ですか?」

 

また、企業の管理職者が、若者たちのコミュニ
ケーション能力に嘆くことに対して、きりかえす。


「はたして本当にそうなのだろうか?」


劇作家である平田オリザからの問いかけは、
シンプルだけれど、重い。

ぼくが経験してきた国際協力の現場でも、
海外の企業においても、コミュニケーション
能力の大切さはとてもつもなく大きい。

しかし、コミュニケーション能力を叫ぶ
当の本人たちの「間」において、そこでいう
コミュニケーションの内実のズレがあったり
する。

だから、一段おとして、企業なり企業、
個人なり個人のレベルで、コミュニケーション
能力の内実を明晰に理解しておくことが求めら
れる。


(2)「ダブルバインド」にしばられる

平田オリザは、企業が求めるコミュニケー
ション能力に「ダブルバインド」(二重
拘束)が見られることを指摘する。

「ダブルバインド」とは、二つの矛盾する
コマンドが強制されていることであるという。

例えば、自主性のコマンドが発出されて
いるなかで、ある人が上司に相談する。
相談を拒否されるが、問題が起きると、
報告しなかったことに対して叱られる。

このようなダブルバインドのなかで、
社員たちは身動きがとれなくなっていく。
平田オリザは、日本社会に転じて語る。

 

いま、日本社会は、社会全体が、
「異文化理解能力」と、日本型の「同調
圧力」のダブルバインドにあっている。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

(3)「わかりあえない」地点から。

平田オリザのまなざしは真剣だが、繊細な
地点からの視点だ。

題名にあるように「わかりあえないこと
から」という地点から、コミュニケーション
を語る。

わかりあえないなかで「わかりあう」こと。

しかし、平田オリザは、上記のダブルバインド
を必ずしも悪いこととはみていない。

 

 私たちは、この中途半端さ、この宙づり
にされた気持ち、ダブルバインドから来る
「自分が自分でない感覚」と向きあわなけ
ればならない。
 わかりあえないというところから歩き
だそう。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

そう、
わかりあえないというところから
ぼくは、歩きだし、歩きつづける。

そうすることで、言葉は、「わかりあう」
メディアとなり、そして、まれに、
それは言葉をこえる言葉となるのだ。

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海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

「歳だから...」の言い訳を乗り越えるための、3つの方法

「歳だから…」という言い訳を、
ぼくたちは、例えば30代の若い時期から
口にするようになる。

この「歳だから…」は、他者に向けられた
言い訳であると同時に、それは自分自信に
向けられた言い訳である。

この言い訳を乗り越える方法は、いく通り
もある。

 

(1)日本以外の社会で「実感」する

年齢にぬりこめられた意味や物語は、相対
的なものである。
つまり、社会によって異なる。

日本では、30代後半になると、転職は
難しいといわれる。
香港では、40代でも転職する。できる。
人材流動性が高いからである。

年齢と結婚時期の関係も、社会によって
差がある。

だから、日本以外の国や社会で、年齢に
ぬりこめられた意味や物語を一旦はがして
相対化することである。

 

(2)マラソン大会に出てみる

マラソン大会に参加してみることである。

ぼくがフルマラソンを完走したのは、
「香港マラソン」であった。
タイムはぎりぎりだったけれど、2度目の
挑戦で完走できた。

マラソン大会に参加するなかで、実感として
びっくりしたのは、ぼくよりもはるかに
高齢の方々が走っていることである。

そして、その方々が、ぼくよりもはるかに
速いスピードでかけぬけていくことである。

ハーフやフルマラソンの折り返し地点よりも
手前のところで、ぼくがまだ折り返し地点
を通過する前に、反対方向から、すでに
折り返したランナーたちが、コースをかけ
ぬけていく。

そのなかには、かなりの高齢の方もいる。
ぼくよりも体格的に小さい方々もいる。
盲目の方たちも、伴奏者を伴い、しかし
ぼくよりも速いスピードで走っていく。

「歳だから…」という気持ちが一気に
消え失せていく瞬間だ。

 

(3)成功事例や体験記を読む

有名なのは、ケンタッキーフライドチキン
の「カーネル・サンダース」である。
カーネル65歳からの挑戦であった。

その他、世界でも日本でも、年齢に関係の
ない挑戦・成功劇にあふれている。


時代は「100年時代」を迎えている。
「歳だから…」の言い訳は、100年時代
の生き方にそぐわない。

ぼくたちのマインドは、80年時代の
物語に閉じ込められている。

また「歳だから…」が、自分に対する
言い訳であるのは、「自分」というマインド
がつくりだした「檻」が即座にくりだす
言葉だからである。

自分のつくりだす「檻」からぬけでること。
そのために、他の社会やランナーやカーネル
といった「他者の存在」は大きい。

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

世界に流されずに生きるには。 - モノが増え情報過多、スピードが加速するこの世界で。

世界では、モノが増え続け、情報量は過多を
越える量となり、スピードが加速している。

ぼくたちはどのように、このような世界に、
このような時代に、このような社会に
向かうことができるのか。

次の3つを挙げておきたい。


1.「本質」を見極める力

モノ・コトの「本質」を見極める力が
必要である。
世界はモノであふれている。
世界は情報であふれている。
「ほんとうのもの・こと」を探す力である。

本質を見極める力をつけるためには
本質的ではないもの、嘘のもの、虚構のもの
を見ること・経験することも必要である。

見極める眼は「考える力」のことである。
論理的に考える以上に、無意識の次元での
「考える」ことも含め、考える力である。

「考える力」をつけるためには、
考えるための「視点・パースペクティブ」が
必要である。

それは、視点・パースペクティブをつける
ような読書や経験から醸成されていく。

そのような本や人に出会うことである。

「本質を見極める力」は
本質的な生き方をつくっていく。

それは、シンプルだけれど、ほんとうに
大切な生き方をえらびとっていく力となる。


2.「Disconnect 非-接続」する力

「新しい接続」をつくっていくために、
「非-接続」する力である。

「本質」を見極めていくためにも、この力は
大切である。

ぼくたちは、日々の仕事や家事や流れてくる
情報などなどに「接続」されている。

それらの出来事に「反応」する心身をもって
いる。

ぼくたちのマインドは、常に「接続」の状態
にある。

だから、「非~接続」する力が必要だ。

自分の外の事象から「非-接続」すること。
そして、自分の内側(マインド)において
感情などから「非~接続」すること。

方法は様々な仕方にひらかれている。

世界のハイパフォーマーが活用する
メディテーションから、走ること、など。
ストレスに対処する方法(感情を客観視、
紙に書く等)も様々だ。

「非~接続」は、大きくは2層ある。

一つ目の層は「日々の非-接続」。
二つ目の層は「生き方全体の非-接続」。

社会や「常識」や教育などから押し付けら
れた「生き方の全体」において、非-接続
できたとき、生はあらたな世界をきりひらく。

 

3.「自分」をつくっていく力

上の2つもこの内に包含されてしまうが
「自分」をつくっていく力である。

「自分軸」のある人になること。
ただし、常に「自分」を変えていく意志と
姿勢につらぬかれていること。
人からとことん学んでいくこと。
「創られながら創る」という、自分という
人間の解体と生成を生きていくことのできる
人になることである。

それは「自分」をつくっていくなかで、
「他者」にひらかれてあることでもある。 

モノが増え、情報が過多となり、スピードが
加速している世界の中で、ぼくはぼくである
ために、
●「本質」を見極める力
●「Disconnect」する力
●「自分」をつくっていく力
を研ぎ澄ましている。

日々、走り、走りながらメディテーションし、
言葉をかきつづる。
メンターたちの生き方にならい、アドバイスを
もらう。
すばらしい本との出会いを大切にする。
人生のパートナーと共に、成長する。

この世界で流されないように。

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とことん人から学ぶこと - James Altucherの流儀に心身が動かされる。

ベストセラー作家・投資家・起業家の
James Altucherは、とにかく人から学ぶ。
とことん学んでいく。

Jamesは、新著『Reinvent Yourself』
中で、「プラス、イコール、マイナス」の
流儀を紹介している。
(2017年1月の出版。邦訳はなし)

学びはこの「プラス、イコール、マイナス」
から生みだしていく。

「プラス」は、自分よりも「上」の人。
つまり、メンターからの学び。

「イコール」は、自分の「ライバル」で
ある人。ライバルであることからくる学び。

「マイナス」は、自分から「下」の人。
教えることからの学び。

彼の、徹底した学びと、そしてそこから
気づき、さらには実践に、ぼくは心を
動かされ、ぼくの行動へとつながっていく。


(1)徹底した学びの「姿勢」

彼の学びの「姿勢」は、圧倒的にオープン
である。文章から、話し方から、姿勢が
あふれだしている。

彼のPodcast「The James Altucher Show」
では、いつも、そのことを感じさせられる。

毎回、超一流のゲストを迎えての「学び」
のインタビューである。

2017年3月のTony Robbinsのインタビュー
は、JamesもTonyRobbinsも、語りが圧巻
であった。


歴史家Yuval Harari氏(『Homo Deus』
の著者)へのインタビュー
も、傑作である。
ぼくは、Jamesがインタビューの終わりで
投げかけた、とてもシンプルな質問に、
心が震えた。

 

(2)徹底した学びの「振り返り」

それから、彼は徹底して学びを振り返る。

「The James Altucher Show」の
インタビュー終了後に、彼は学びを
文章でまとめる。

その学びは、ブログで公開されていく。
そして、それが、書籍になっていく。

徹底した振り返りには、頭が上がらない。
 

(3)徹底した学びの実践

そして、学びと振り返りは、もちろん
「実践」につなげられていく。

これまで数々の「失敗」を繰り返して
きたJamesが、自分をアップグレード
していく。

 

(1)から(3)のサイクルが高速で
回されていく。

彼の英語は、シンプルな単語で構成され
話し言葉的な文章はリズミカルだ。
文体は真面目すぎず、しかし真剣である。

これらが、総合的に結晶していく形で、
彼の新著のタイトルにある言葉
「reinvention」が生まれたように、
ぼくは思う。

ぼくは、彼の学びへの「謙虚さ」と
「オープンさ」に心身が動かされる。

Jamesのインタビューに耳を傾けながら
自分をアップグレードしていく気持ちの
<炎>を、ぼくは大切にともしている。

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香港, 書籍, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 書籍, 海外・異文化 Jun Nakajima

「香港」を視て考える - トラベルガイドでもなく、学術書でもない1冊(英語)

「香港」を視て考える。
語りにくい香港を、日々の体験から、
その「世相」から、すくいあげていく。

香港の人や街路や食などから
手がかりをすくっていく。

そして手がかりを文章におとしていく。
ぼくは、文章を書きためているところだ。

文章が書きたまったところで、
他者がどのように香港を「書いて」いるか
気になりグーグル検索する。

検索していて気づいたのは、「香港」に
関連する書籍は、

  1. トラベルガイド
  2. 学術書

の二つが主流である。

この主流に加わる形で、
香港を舞台にした小説などがある。

1と2の「中間」が見つからない。
英語でもグーグル検索するが、やはり
この二つのカテゴリーに収まってしまう。

その間隙から見つけたのが、この書籍で
ある。

『Reading Hong Kong, Reading Ourselves』
Edited by Janel Curry, Paul Hanstedt
(CityU Press, 2014)

香港の大学に来ていたアメリカの研究者
たちが、それぞれの専門分野の視点で、
でもカジュアルな文体と構成で書いた
文章群から成っている。

トラベルガイドでもないし、
がちがちの学術書・研究書でもない。
しかし、学術的な「客観性の姿勢」がある。

トピックは多岐にわたっている。
食、社会、街路、言語、歴史、教育など。
これらを日々の「体験」からすくいあげる。

視点は、西洋人が視る「香港」。
日本人が視る「香港」だけではみえない
視点もはいってくる。

文化と文化の「間」からみえてくる視点が
面白い。

そこの「間」から、
ぼくたちは、どのように、よりよい生き方
を構想できるだろうか。

そんなぼくの思考にお構いなく、
香港の街は、今日も、忙しなく、活気を
装っている。

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「Be present」(今ここに在ること)の方法 - 「感謝」を「今」に結びつける

マインドフルネス(mindfulness)などが
ポピュラーになってきている。
関係するところでは、「今ここに在ること」
(Be present)ということが言われる。

この「今ここに在ること」はやってみると
とても難しい。

「今」という時間と「ここ」という空間に
フォーカスしていく。
「在る」とは、文字どおり「する」では
ないということもある。
「今ここに在ること」をしようと思うと
うまくいかない。

ぼくの「思考」は、今ここに在ろうとする
ときに、忙しなく動きまわるのだ。

思考は、効率を考えて、「次にやること」
に向けて投げかけられる。
段取り思考である。
思考が未来に向けて投げかけられる。
常に、次のこと、次のこと、次のこと。

また、ときには、思考は過去のことに
向けられる。

あのときの「失敗」について、こうすれば
よかったとか、ああすればよかったとか。
「マインド」は落ちつきを失い、心配や
不安をよびおこしてしまう。

でも、あるとき、ぼくは気づく。

「感謝」を、「今ここ」に結びつける。
使った食器を洗いながら、いつもは、
思考は過去や未来に向けられている。
そこで、「食器に感謝する」という方法を
とる。
洗いながら、食器に感謝することで、
食器に思考も気持ちも向けられる。

ひとつひとつの動作において、
感謝の心をそそぎこむ。
そうすると、「今ここ」に在ることができる。

そのようにして、動作に丁寧さがでてくる。
気が散って「間違ったことをすること」が
減ってきた。

でも、まだ、少しでも気をぬくと、
思考はつい過去や未来、また「ここでは
ないところ」へ飛び立ってしまう。

「今ここに在ること」を「する」のでは
なく、自然と「なる」までには、まだまだ
道のりは遠い。

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こんな書籍もある。グローバルに生きていくために。- John Marcarian著『Expatland』

グローバルに動くようになり
なかなかのチャレンジングな課題は
「税金」である。

少なくとも、ぼくは、税務や会計の専門家
ではない。

日本を拠点にして、ある期間の間、海外で
仕事をしていくのは、まだ比較的わかりやすい。
あくまでも「軸足」は日本であるからである。

ただし、グローバルな時代においては、
日本生まれであったとしても、様々な仕方で
海外にうつっていくことになる。

大別すると、下記のようなカテゴリーがある。

  1. 「日本を拠点」に海外で生活をする
  2. 「海外を拠点」に海外で生活をする

海外を拠点とする場合は、生活形態は、
さらにバラエティに富む。

「海外Aを拠点」に、「海外A」で生活を
することもあれば、
「海外Aを拠点」に、「海外B」で生活を
していくこともある。

さらに、IT技術の発展による「もう一つの
世界」、つまりインターネットの世界に
おけるビジネスは、状況をさらに複雑にして
いく。

「グローバルなリアルの世界」と
「インターネットのバーチャルな世界」が
重層的に重なりあい、制度が状況においつ
いていない。

そんな「チャレンジ」を前に、
グーグル検索を重ねていたら、標題の書籍を
見つけたのだ。

John Marcarian氏による『Expatland』。
(英語の書籍で、邦訳はない)

著者は、税金のアドバイザーである。
グローバルな国外居住者(expat)の税金
に関する専門家で、自身で会社を設立している。

本書は「設定」が面白い。
「Expatland」という架空の世界を設定し
国外居住者にまつわることを説明している。
各国の国外居住者を「ひとつ」にまとめて
いる。

扱っているトピックは次の通りである。
税務まわりを中心に、幅を少し広げている。

・「Expatland」の家族生活
・「Expatland」の教育
・「Expatland」の銀行
・「Expatland」のファイナンス
・「Expatland」のファイナンシャル・プランニング
・「Expatland」のエステート・プランニング
・「Expatland」の保険
・「Expatland」の法務
・「Expatland」のセキュリティ
・「Expatland」の構造
・「Expatland」の税務
・「Expatland」の定年

書籍紹介の動画もよくできている。

これらの「導きの系」を頼りに、
ぼくは「Expatland」の税務にわけいって
いく。

英語でのグーグル検索が、ぼくに
幾千もある導きの系のひとつを手渡して
くれた。

「インターネットのバーチャルな世界」は、
ひとつではない。
そこでは、言語により、異なる世界が
広がっている。
ひとつの世界の裏に・横に、別の世界が
ひろがっている。

「英語」は、字義通り、もうひとつの
「世界」にわけいる入り口である。

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生き方の「モデル」をみつけることで変わる - シュリーマンの語学力

外国語を勉強してきて、
外国語を駆使し、ぼくは
日本以外のところで生活してきた。

「きっと将来役にたつ」との確信の
もとに、英語にフォーカスし、勉強してきた。

外国語学習ということで、
誰か「モデル」となる人がいたかと
いうと、なかなか思い出せない。
鮮烈な「モデル」は、人の人生を
大きく変えていく力をもつことがある。

覚えているのは、
『古代への情熱』(岩波文庫)の
シュリーマンである。
シュリーマンは、19世紀に生きた
人物である。

トロヤ戦争の物語から、トロヤの
古都が必ず存在したことを信じる。
そして、数々の困難を乗り越えて
トロヤ遺跡を発見した人物である。

ぼくは、学校の「課題図書」で
この『古代への情熱』を読むことに
なった。
副題にあるように「シュリーマン自伝」
である。

トロヤ遺跡に辿りつくまでの「情熱」に
も、ぼくは心を動かされた。
しかし、彼の語学に対する「情熱」も
また、ぼくの脳裏に鮮明に焼きついたのだ。

彼の言語習得の「一方法」は次の通りである。

● 非常に多く音読すること
● 翻訳しないこと
● 毎日1時間をあてること
● 興味ある対象について作文すること
● この作文を教師の指導によって訂正すること
● 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること

(『古代への情熱』岩波文庫より)

「あとがき」にあるように、
シュリーマンはその後15ヶ国語を
話したり書いたりするようになったという。

ぼくのイメージには、
この圧倒的な語学力をもつシュリーマンが
存在している。

その後のぼくの人生で、15ヶ国語が
できるようになったわけではない。

でも、シュリーマンの「生き方」は、
ぼくに、夢や勉学の情熱と人間の可能性を
教えてくれたように、思う。

学校の「課題図書」は、その当時は
できれば避けたいものであったけれど、
シュリーマンやヘルマン・ヘッセなど、
その後のぼくの人生に影響を与えてきた
ことを、25年ほど経ってから、ぼくは思う。

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書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

世界で人々の生活を観る「メガネ」: 柳田國男『明治大正史-世相編』のちから。

世界のいろいろなところで
いろいろな人たちの生活をみることは
楽しみのひとつである。

着るもの・着方、食べるもの・食べ方、
住むところ・住み方など、興味と関心
はつきない。

香港に10年住んできたなかで、
それら変遷を観ることは、ぼくの
楽しみであった。

例えば、日本の「おにぎり」。
香港の食に最初は浸透せず、
でもそれが徐々に受け入れられていく
移り変わりは興味深いものであった。
香港では主食に「冷たい食べ物」は
好まれないと思われていたから、
なおさら興味深いものであった。

柳田國男の著作『明治大正史 - 世相編』
は、このような「世相」を観る視点や
洞察の宝庫である。

見田宗介の仕事(「<魔のない世界>
ー「近代社会」の比較社会学ー」
『社会学入門』所収)に導かれて、
ぼくは、柳田國男のこの著作に
たどりついた。

第1章「眼に映ずる世相」の冒頭は
こうはじまる。

 

以前も世の中の変わり目という
ことに、だれでも気が付くような
時代は何度かあった。歴史は遠く
過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて
記憶するというだけでなく、
それと眼の前の新しい現象との、
繋がる線路を見きわめる任務が
あることを、考えていた人は
多かったようである。ところが
その仕事は、実際は容易なもので
なかった。この世相の渦巻きの
全き姿を知るということは、
同じ流れに浮かぶ者にとって、
そう簡単なる努力ではなかった
のである。

柳田國男『明治大正史-世相編』
(講談社学術文庫)

 

今の時代も「世の中の変わり目」
である。誰もが気づいている。
しかし、「同じ流れに浮かぶ者」
として、世相を知ることは容易
ではない。

柳田國男がこれを書いたのは、
1930年であったという。
この時間の隔たりに関係なく、
本書はほんとうに多くのことを
まなばせてくれる。

ぼくたちの日本での「衣食住」を
ふりかえるだけでなく、
柳田の視点や洞察は、時間と
空間を超えるものがある。

ぼくは多少なりとも、
そんな視点と洞察の「メガネ」
をかけて、ここ香港の「世相」
を眺めてみたいと思う。

日本以外の国・地域(海外)に
いることのいいところは、
「同じ流れに浮かぶ」ことから、
多少なりとも、流れの外にでる
ことができることである。

それを寂しいという人もある
かもしれないけれど、興味の
つきない<立ち位置>であると、
ぼくは思ってやまない。

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総論, 社会構想, 書籍 Jun Nakajima 総論, 社会構想, 書籍 Jun Nakajima

Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。

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