「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」(村上春樹)ということば。- 修辞ではなく、ほんとうに夢を見るために。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。小説家村上春樹のインタビュー(1997年から2009年)を集めた本のタイトルである。「あとがき」で、直接に本のタイトルにふれられているわけではなく、またインタビュー集の企画は編集者の方による強い提案によって実現したものだから、もしかしたら、編集者の方などが提案したタイトルかもしれない。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。小説家村上春樹のインタビュー(1997年から2009年)を集めた本のタイトルである。「あとがき」で、直接に本のタイトルにふれられているわけではなく、またインタビュー集の企画は編集者の方による強い提案によって実現したものだから、もしかしたら、編集者の方などが提案したタイトルかもしれない。
ただ、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」ということばは、2003年にフランスで行われた雑誌のインタビュー(聞き手:ミン・トラン・ユイ)のなかで、語られたものである。
…作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない。法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。
村上春樹「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』所収(文藝春秋、2010年)
とても素敵な本のタイトルであるとぼくは思うし、とても印象に残ることばである。
ところで、「ぼくは夢というのもぜんぜん見ないのですが…」と、村上春樹は心理学者の河合隼雄(1928ー2007)に語っている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)。
河合隼雄は、夢を見ないのは「小説を書いているから」だと、村上春樹に応答している。とりわけ物語の世界に深く入って物語を書いているようなときは「現実生活と物語を書くことが完全にパラレルにある」のだから、夢を見る必要がないのだという。ちなみに、詩人の谷川俊太郎も夢を見ないのだと、河合隼雄は語っている。
このような見方に照らして見ると、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言明はたんなる修辞というわけではなく、村上春樹にとっては「書くこと=夢を見ること」である。
さらに見る角度をかえてゆくと、「夢を見るために毎朝僕は目覚める」ことは「書くこと」にかぎられることではない。人が生きる、ということは、ひとりひとりが思い描く<夢>を生きていることにほかならない。<夢>とは、人が自身に語る「物語」である。
そのようにして、人は誰しもが、<夢>を見るために、毎朝目覚めているのである。どんな人も、<夢>の外に出ることはできない。できることは、どんな<夢>を見るのか、という選択である。
このような見方に照らすと、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という言明はたんなる修辞ではなく、「人が生きること=夢を見ること」という側面を正面から語ることばである。「夢から醒めるために目覚める」のではなく、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」と、村上春樹は、正しい仕方でことばを転回させているのだということができる。
「アイデンティティ」について。- いきものがかりの曲「アイデンティティ」から。
音楽グループ「いきものがかり」に、「アイデンティティ」という曲がある。CM用に作られた曲であるが、その曲名、「アイデンティティ」に目がひかれる。
音楽グループ「いきものがかり」に、「アイデンティティ」という曲がある。CM用に作られた曲であるが、その曲名、「アイデンティティ」に目がひかれる。
「わたしは今 わたしは今 夢中で生きていくんだ こころよ自由になれ」と歌われるなかに、しかし、「アイデンティティ」という言葉は出てこない。曲名だけに「アイデンティティ」という言葉があてられている。
それにしても、「Identity(アイデンティティ)」という言葉は、わかったようでいて、なかなか説明しづらい言葉でもある。日本語に訳すとなると、ぼくのあたまのなかには、辞書的に「自己同一性」が思い浮かぶ。しかし、この日本語訳は、原語のニュアンスからずれているようにも感じる。
「自己同一性」以外にも、「主体性」や「存在証明」といった日本語訳がこころみられたようなのだが、やはりニュアンスを伝えきれずに「アイデンティティ」というカタカナ語が定着したようだ(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)。
見田宗介(社会学者)は、「アイデンティティ」とは結局、「『私とは何か』という問いに答える『自分らしさ』のようなもの」であると、書いている(前掲書)。
この説明はより本質をついたものである。
ところが、「アイデンティティ」という言葉が一般的に使われる文脈では、「私はどこに属するか」というほうに問いが向けられてしまうようなところがある。1970年代に日本の若い世代を深く捉えたこの主題は、1980年代になって全国民的にひろがり、「日本のアイデンティティ」や「日本人のアイデンティティ」などと使われるようになったようだ。「アイデンティティ」ということで、1970年代の青年たちは「個」としての生きかたに焦点をあてたのに対し、「国家」や「民族」というところ(つまり、「私はどこに属するか」)に向けられた力学がはたらいていく。
「Identity(アイデンティティ)」という言葉の困難さは、その日本語訳のむずかしさだけにかぎらず、「アイデンティティ」をめぐる状況の複雑さがからんでいるようだ。
ところで、「アイデンティティ」を「『私とは何か』という問いに答える『自分らしさ』のようなもの」という見方をもう少しひろげて見る人たちもいる。
わたしたちは誰しもが、わたしはこういう人間だという、じぶんで納得できるストーリーでみずからを組み立てています。精神科医のR・D・レインが言ったように、アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのことです。
人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティをじぶんに向けてたえず語りつづけ、語りなおしていくプロセスだと言える。鷲田清一『語りきれないことー危機と痛みの哲学』(角川書店、2012年)
本質的には「『私とは何か』という問いに答える『自分らしさ』のようなもの」とおなじだけれど、それを「ストーリー(物語)」という角度から照射している。
冒頭にあげた、いきものがかりの曲「アイデンティティ」には、「わたしは今 わたしは今 夢中で生きていくんだ」と歌われたあとに、つぎのようにつづくところがある。「闘って闘って かわりのない ものがたりを この手でつくりつづける こころよ自由になれ」。
この歌の「わたし」は、「ものがたり」をつくりづける主体として生きている。「個」としての生きかたを探求しつづける「わたし」である。
河合隼雄(1928ー2007)がかつて語っていたように、標準的な物語をおいかけるのではなく、「個人の物語」を構築していかなければいけない時代に、ぼくたちはいる。歌の「わたし」は、どの方向にだとか、どのようにものがたりをつくるかは語らない。でも、「こころよ自由になれ」と、自由になりきれていないこころをひらこうとしている。
1970年代の青年たちを捉えた主題(「アイデンティティ」)が、今も、青年たちを捉えている。そこにはかわりない切望があるのだろうか、あるいはどこか違ったかたちで青年たちをとらえているのだろうか。
共有される<物語>のコンセプト。- 村上春樹「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」。
ある人とある人が対話する。その<あいだ>で、何かが共有され、何かが生まれる(何かが「解体」されることもある)。そんな<対話の時空間>は、ときおり幸福な仕方で、共有された「何か」、生まれた「何か」を、時空間をこえて、他者にとどく。
ある人とある人が対話する。その<あいだ>で、何かが共有され、何かが生まれる(何かが「解体」されることもある)。そんな<対話の時空間>は、ときおり幸福な仕方で、共有された「何か」、生まれた「何か」を、時空間をこえて、他者にとどける。
小説家・村上春樹と心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)のあいだにひろがる<対話の時空間>は、その時空間をこえて、幸福な仕方でぼくたちにとどけられる。「村上春樹と河合隼雄」という組み合わせは、(少なくとも、ぼくにとって)そのような幸福な組み合わせである。
『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)という著作の最後の章(回)で、村上春樹は「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」を書いている(初出は新潮社「考える人」夏号、2013年)。
村上春樹が河合隼雄に初めて会ったのは、プリンストン大学であった。1990年代前半のことだ。それぞれがアメリカに長く滞在していたときである(日本に住んでいたら会っていなかったかもしれない。海外にいるからこそ「会う」人たちがいるものである。ぼくの経験から。)。
「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」では、そのときのことが語られている。
けれども、そのときに「何を話したかほとんど覚えていない」という。そうでありながら、そのことはどうでもいいことじゃないかとも、村上春樹は書いている。
…そこにあったいちばん大切なものは、話の内容よりはむしろ、我々がそこで何かを共有していたという「物理的な実感」だったという気がするからです。我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。僕は小説を書くことによって、日常的にその場所に降りていくことになります。河合先生は臨床家としてクライアントと向き合うことによって、日常的にそこに降りていくことになります。あるいは降りていかなくてはなりません。…
村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、2015年)
<物語というコンセプト>。共有されていたものは、おそらくこのことであったと書かれている。ここでの物語は、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」である。
おそらく、ここで語られ、共有されていたことが、日本での「対話」に継続され、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮社)として書籍化された。この本をとおして、ぼくたちは、共有されていたものの一端をつかむことができる。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』は、「内容」もとてもスリリングだけれども、それよりも、語られていることの全体性のようなものによって、どこか、ぼくの深いところが癒されるような、そんな本である。少なくとも、(確か)2000年前後に初めてこの本を読んだとき、ぼくはそのような「実感」を抱いたものである。
今にして言葉にしようとするのであれば、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」にふれられることで、じぶんの深いところが癒されるような、そんな「実感」が湧いたのだろうと思う。
それとともに、「魂のいちばん深いところにあって、人と人とを根元でつなぎ合わせられるもの」の次元へと降りていって、そこから、人や社会とのかかわりをさぐる先達たちに、生きづらさを感じていたぼくは強く励まされたのだとも、ぼくは思う。
それにしても、誰かとあって話をして、何を話したかはほとんど覚えていないけれど、その場でいちばん大切であったものは、話の内容よりもむしろ、そこで何かを共有していたという「物理的な実感」であった、という経験を、人はするものである。じぶんの経験を憶い起こしながら、そう思う。
周りのどんな人たちも「自分に協力してくれている」。と、考えてみる。- 名作『アルケミスト』で語られる言葉の教えに耳を傾けて。
日々のなかで、ぼくたちはさまざまな場所で、さまざまな人たちに出会い、いろいろな状況に出くわす。親切や好意を受けることもあれば、文句を言われたり、ぞんざいに扱われることもあるかもしれない。
日々のなかで、ぼくたちはさまざまな場所で、さまざまな人たちに出会い、いろいろな状況に出くわす。親切や好意を受けることもあれば、文句を言われたり、ぞんざいに扱われることもあるかもしれない。
文句を言われたり、ぞんざいに自分が扱われるとき、その人に対して怒りがわいたり、いらだったりする。誰しもがよく扱われたいものである。
でも、そんなふうに嫌な場面に遭遇するとき、その人(たち)が「自分に協力してくれている」と、考えてみること。これは、自分や自分が望むものをきりひらいてゆくための方法のひとつである。
ブラジル人作家パウロ・コエーリョの作品に、『アルケミスト』(角川文庫ソフィア、1997年、山川紘矢・山川亜希子訳)というベストセラーがある。ぼくも、昔からとても好きな本である。原作は1988年にブラジルで発刊され、そののち、この作品は時空をはるかに超えて、世界中で今でも読み継がれている。
主人公は、羊飼いの少年サンチャゴ。サンチャゴは、宝物が隠されているという夢を信じ、アンダルシアの平原から、エジプトのピラミッドに向けて旅にでる。この旅では、本のタイトルにあるように、「アルケミスト=錬金術師」が、サンチャゴの壮大な旅の物語において大切な役を担い、少年の旅を導いていく。
そんな『アルケミスト』のなかに、つぎのような箇所がある。
「人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」と錬金術師は言った。…少年は理解した。自分の運命に向かうために、もう一人の人物が助けに現れたのだった。
「それで、あなたは僕に何か教えてくださるのですね」
「いや、おまえはすでに必要なことはすべて知っている。わしはおまえをおまえの宝物の方向に向けさせようとするだけだ」パウロ・コエーリョ『アルケミスト』(角川文庫ソフィア、1997年、山川紘矢・山川亜希子訳)
「人が本当に何かを望む時、全宇宙が協力して、夢を実現するのを助けるのだ」。錬金術師が少年サンチャゴに語るこの言葉は、よく引用される言葉である(ぼくも好きな言葉である)。
ぼくたちが「本当に何かを望む」とき、周りの人やものごとが、夢の実現を助けてくれる。ぼくもそう思う。けれども、ぼくは「本当に何かを望むとき」という箇所をいったん外してしまっても、全宇宙が協力してくれている、と、言うことができると思う。
「本当に何かを望む」という言い方は、望みを明確に意識している状態を想像させるのだけれど、人は明確に意識しなくても、それぞれに「物語」を生きている。「物語」はじぶんで選びとった物語ということもあれば、そうではないこともある。あるいは、他者たちが生きてきた「物語」であることもあれば、「自分の物語」をつくりだしていることもある。
いずれにしろ、人はそれぞれに「物語」を生きていて、その物語に沿う形で「全宇宙が協力」しているのだと、考えてみる。たとえば、文句をぶつけてくる人も、その自分が生きる「物語」のなかで、なんらかの「役割」を担っているのだと、考えてみることができる。
自分の「物語」が展開してゆくなかで、それは「大切なシーン」であるかもしれない。そこで、自分は「何か」に気づく場面であるかもしれないし、その場面をきっかけに自分が「変わる」ことになるかもしれない。
「そんなこと言われても、文句を言われたら腹がたつ」と思われるかもしれない。
それはひとまず仕方のないことである。でも、「腹がたつ」のあとの自分の言動については、自分で選ぶことができる。そこで、立ち止まって考えてみることができる。誰もが、自分に協力してくれている、あるいは、自分の「物語」で役を演じてくれている。
そんなふうに考えてみるとき、「本当に何かを望む」ものごとがなくても、自分のなかで何か気づくことがあるかもしれない。「自分に協力してくれている」とするならば、どんなことで、どんなふうに協力してくれているのか。そんな「気づき」があるかもしれない。
少なくとも、こんなふうに考えてみることで、自分が生きる「世界」は、異なって見えると思う。
たくさんの「生きる物語」があること、の理解。- 自分の生きている「物語」を自覚してゆくこと。
先日から、「個としての私」が生きる「物語」について、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の語りにも耳を傾け、その声に共感・共振しながら、いくつかのブログを書いている。
先日から、「個としての私」が生きる「物語」について、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の語りにも耳を傾け、その声に共感・共振しながら、いくつかのブログを書いている。
現代という時代を「個」を大切にして生きてゆくかぎり、自分が生きていくための「物語」を自分自身でつくっていくことになる。
たとえば、「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めたり官僚になったりという「(日本の)スタンダードの物語」は、ひと昔前のように「幸せ」を保証する物語ではない。今ではそれは「スタンダード」ではなく、たくさんの物語のうちのひとつの「物語」である。
自分の幸せを追い求めていくのであれば、「自分の物語」をつくってゆく必要がある。それは「大変」であるかもしれないけれど、自分自身の物語をつくりながら生きていけることはすばらしいことであると、ぼくは思う。
「物語」はスタンダードに集約されるのではなく、多様性に充ちた物語たちがいっぱいに花を咲かせてゆくのである。
この「多様性」ということを理解しておくことは、やはり大切なことである。
「自分の物語」をつくっていく時代が来ているとはいえ、「スダンダードの物語」もいくぶんか内実を変えながらも、物語を「標準する力」を維持しようとしているかのように見える。
「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めたり官僚になったりという「物語」自体がわるいのではない。ただし、その物語が、たくさんの物語のうちのひとつであることを明確に認知され、共有されているべきだと思う。それは「標準」ではない。
この点について、河合隼雄は、つぎのように書いている。
たくさんある物語の中のどれを自分は生きようとしているのかを自覚していない人は、しばしば、自分の生きている物語だけが「正しい」と確信しているようである。そうなると、その人の幸福度が高まるにつれ、まわりの者は苦労させられると思う。
河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)
「幸福度が高まるにつれ」と書かれているように、自分の生きている物語だけが「正しい」と確信している人は、うまくいけばいくほどに(「幸福度が高まる」ということは、いわゆる「成功」することによらず、「安定的な人生を歩むこと」によることもある)、その成功物語を「よかれ」と思いながら他者におしつけてしまうこともあるだろう。
日本の「スタンダードの物語」が崩れはじめていたがまだそれなりに通用していた1990年代半ばから2000年頃、なるべく「スタンダードの物語」を気にしないようにしながらも、それはやはりぼくの内面で、まるでコマーシャルがながれるかのように、ときおりながれていた。
「よい」大学に入って、さて「次」は、という岐路で、ぼくは「自分の物語」をつくってゆくことに苦心していたのだと思う。
大学2年を終えたところで休学してニュージーランドに行ったことは「物語」をつくることの一環であったし、大学を卒業して、途上国における国際協力の道に向けて大学院に進んだこともその一環であった。
大学院を修了したあとに勤務しはじめたNGOで、ぼくはシエラレオネと東ティモールに赴任したのだが、そこでの経験は、この世界には「たくさんの物語」があるのだということを、いっそう、ぼくの身体で実感させるものであった。
ほんとうにいろいろな「物語」を生きている人たちに触発されながら、日本の「スタンダードの物語」がたくさんの物語のうちの「ひとつ」にすぎないことを、より深いところで理解することができたように、ぼくは思う。
そこでも「正しさ」の物語はないとまでは言えないかもしれないけれど、だいぶ薄まって語られていたように思う。
それから香港に移って12年。ぼくは「自分の物語」をつくりつづけている。これからもずっと、つくりつづけてゆくと思う。
河合隼雄『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』の「主題」。- 「個人の物語」をつくることが要請される時代に向けて。
ここのところ、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)という著書にふれながら、人が生きるための「物語」について書いている。
ここのところ、心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)という著書にふれながら、人が生きるための「物語」について書いている。
『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』という本のタイトルだけを見ると、この本がメッセージを送る宛先は、「源氏物語」に関心がある方であったり、「日本人」論的なことに関心がある方であるように見える。
けれども、この本は、これからの時代の「生きかた」を正面から論じるものであり、ぼくのライフワーク(のひとつ)である「個人の物語の構築」というテーマに照準をあわせている。ぼくたちがこれからの時代を生きてゆくうえでの大きな課題のひとつ、「個人の物語」をつくる、を主題にして書かれている。
近代は「合理化」の原理を徹底させてゆくところに経済発展を達成してきたが、合理化のもとで「封印」されてきた近代の理念「平等と自由」が、ようやく深化する時代に、ぼくたちは今、立っている。ここにきていよいよ、個人が「個人」として、徹底される。
このような時代にあって、個人それぞれが、どのような物語をつくってゆくのかが決定的に重要になってくる。所属する文化や共同体や集団などの「物語」が、それぞれの個人のしあわせを保証するものではないからである。
もちろん、この課題は「個人主義をとるのなら…」である。河合隼雄はこの「条件」をくりかえし述べている。
河合隼雄自身は、個人の物語をつくることができることの、ありがたさと興味深さについて書いている。ただし、個人主義の「個人」に焦点をいっそう当てながら、この「個人」をどう考えるか、には一歩引いて、冷静な視線をなげかけている。
個人の「能力や欲望」を伸ばすことは大切であることを確認したあとで、少なくとも、下記の「二つの点」を考慮する必要があると注意を喚起する。
● 他人との関係をどう考えるか
● 自分の死をどのように受けとめるか
これらに対し、たとえば、キリスト教は、「隣人愛」と「復活の信仰」という仕方で解決する。では、キリスト教などの宗教なしで、「個人主義」をどのように考えるていくか。河合隼雄は、つぎのように書く。
キリスト教などは信じられない、近代科学こそ信じられるという人があったとしても、…「他人との関係」と「自分の死」ということに関しては、近代科学は答えをもっていないのだ。これらに答えるためには「物語」が必要である。
『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年
「近代科学」は答えをもっていないということには、その答えの「射程」においてぼくはいったん留保をおくけれども(ここでの「答えをもっていない」をもう少し詳細に聴かなければならない)、「物語」が必要とされるものとして、「他人との関係」と「自分の死」が挙げられていることに、ぼくは関心がある。関心をもつのは、これら二つは、「自分」というものを追求していったときにその臨界にあらわれるものごとであるからである。
こうして、「個人主義をとるのなら」、個人は「自分の物語」をみずからつくりだしてゆくことが要請される。
なお、「つくること」は、まったくゼロからつくるということではないだろう。これまでの「物語」のなかから着想を得たり、それをまねたり応用したり、組み合わせたりと、どこかからヒントを得ることが方法となる。
ヒントは「過去の物語」から、ということもある。これからの時代を豊饒に生きていくうえでは、「近代」をどのようにのりこえていくか、ということがきわめて大きな課題であるけれど、河合隼雄が書くように「近代を超える知恵を古代がもっていたりする」こともある。
そんな知恵が「源氏物語」に宿っている。河合隼雄はそう論じるのだ。
「源氏物語」を「光源氏の物語」ではなく「紫式部の物語」として読み解くことで、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』は、「個人の物語をつくる」というこの大きな課題を、人それぞれが解決してゆくことのヒントを提示しようとしているのである。
「個としての私」がつくる「物語」。- 現代に生きる人間の、今もつづく課題。
人生とは「物語」である。別のブログ(「人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。」)で、そのように書いた。
人生とは「物語」である。別のブログ(「人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。」)で、そのように書いた。
そして大切なのは、どのような「物語」を語るか、「物語」をどのように語るか、ということである。人生は、そのようにしてつくられてゆくのであり、どのような「物語」をどのように生きてゆくのか、ということが問われる。
そう書きながら、「けれども」という前置詞をおかなければならない。なぜなら、そのような「物語」を見出したり、つくりだしてゆくことが、大きな課題だからである。
「個人の物語」としたときに、課題は、さしあたって、第一に「個」であり、第二に(個人にとっての)「物語」である。
心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)は、2000年代のはじめに、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)の「文庫版まえがき」で、これらの課題について明示している。
第一の「個」について、日本人にとって、「個の確立」ということが大きな課題として、河合隼雄はとりあげている。
「個の確立」ということは、ヨーロッパの近代において生じてきたことで、、それがキリスト教を背景とする父性原理の強調によって成立してきたものである…。
そこで、日本人はヨーロッパとは異なる背景の中で「個の確立」を考える必要がある。われわれは、いったいどのようなものを支えとして、自分の「個」を確立しようとするのか。天に存在する唯一の神を支えとしない、「個の確立」はあり得るのか。『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)
「個」や「個人」ということが中立的な仕方で語られる(傾向にある)が、「異なる背景」は視野にいれておかなければならない。
それから、第二の(個人にとっての)「物語」における大きい課題について、河合隼雄はつぎのように書いている。
現代に生きる者の大きい課題はもうひとつある。それは「個」を大切にする限り、自分が生きていくためのスタンダードの物語などは、あり得ないということである。
どの時代にも、どの文化にも、ある程度のスタンダードの物語がある。…最近の日本では、「よい」大学に入学し、卒業後は一流の企業に勤めるとか、官僚になる、などというスタンダード物語があった。しかし、現在では、それほど単純に、そのようなスタンダード物語を生きるのが幸福とは言えないようになってきた。
したがって、現代に生きる人間としては、「個としての私」は、どのような物語を生きようとしているのか、それを見いだしたり、つくりだしたりしなければならない。『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』(講談社+α文庫、2003年→電子書籍2013年)
ここで語られる「最近」は、2003年頃の位置に立った「最近」である。もちろん、それから15年ほどがたつ現在の「最近」は、状況は異なる。ただし、ここで語られる課題が解決されてゆく方向にではなく、いっそう、「スタンダード物語」が消えてゆくなかに、ぼくたちは立っている。
「個としての私」がどのような物語を生きようとしているのかが、いっそう切実な課題として個々人にあらわれ、個人はそれぞれにじぶんの物語を見いだしたり、つくりだしたりしなければならない。
それは、「スタンダード物語」が消え去りつつ、他方で「個人の物語」が要請される、という<過渡期(トランジション)>にいて、この過渡期をどのようにのりこえてゆくのか、という課題でもある。
過渡期のむずかしさは、一方で、消え去りつつあるがまだ形が(うっすらと)のこる「スタンダード物語」をどのように手放し、他方で「個人の物語」をつくりだすという、<解体と生成>にある。
ところで、『源氏物語と日本人ー紫マンダラ』という本のタイトルだけを見ると、なぜこの本がここで参照され引用されているか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれない。
河合隼雄は『源氏物語』を、紫式部という女性が「自分の物語を見事につくりだしたもの」として読み解こうとするのが、この本である。ここでは、『源氏物語』は「光源氏の物語」ではなく、「紫式部の物語」としてとらえられる。
千年も以前、「個」をこれほどまでに追求した一人の女性がいたという事実に、しばらく眠ることができないほどに興奮した河合隼雄。
そんな興奮に共振し触発されながら、きっちりと読めていない『源氏物語』にわけいっていこうと、ぼくは思う。
人生とは「物語」である。- <つなげる力>としての「物語」。
人生とは「物語」である。そもそもからして、「人生」という言葉自体に、「物語」がうめこまれている。
人生とは「物語」である。そもそもからして、「人生」という言葉自体に、「物語」がうめこまれている。
「人生」をどのように語り、それがどのように語られるかということはあるけれど、「人生」という言葉のなかに、すでに「物語」が前提されている。「人生 Life」という言葉によって、ひとはそれぞれに、イメージを伴った物語を想起する。人が生まれ、育てられ、学び、成長し、働き…などというように。
ところで、哲学者ハンナ・アーレントはかつて、著書『人間の条件』のある章の冒頭に、つぎのような主旨のエピグラフをおいた。
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる。」
このエピグラフをはじめて読んだとき、ぼくはこのエピグラフにひきつけられ、なんだか、とてもわかるような気がした。それからぼくなりに人生を歩んできて、その道ゆきに刻まれてきた足あとをたしかめながら、エピグラフの語る真実さをいっそう感じるようになった。
ある「物語」が、個人の物語であろうと、集団・グループの物語であろうと、さらにはより大きな社会の物語であろうと、「物語」というものの力を、ぼくは感じ、信じるようになった。
「物語」とは、ものごとを<つなげる力>であり、つなげることで「意味」をつくりだしてゆく。あるいは、「意味」をつくりだすことで、ものごとをつなげて、「物語」はつくられてゆく。これからの時代は「つながり」がキーワードであると言われ、基本的なところではその通りだと思うけれど、そのさらに基底的な次元においては、「物語」という、<つなげる力>が、いろいろな局面をきりひらいてゆく時代である。
生きることがむなしくなったり、やる気がなくなってしまったり、生きる「意味」がわからなくなってしまったりするとき、それは「物語」を語ることができなくなったときである。
けれど、人生とは「物語」であるということは、「物語」を語るのが人だということでもある。人は「物語」を語らずにはいられない。じぶんが「物語」なんて語ったことがないと思っている人であっても、「物語」を語る。だれもが「物語」をもち、「物語」を語る。
大切なのは、どのような「物語」を語るか、ということ。「物語」をどのように語るか、ということである。ひるがえって、人生は、そのようにしてつくられてゆくのであり、どのような「物語」をどのように生きてゆくのか、ということが問われる。
「クリスマス休戦」(1914年)のこと。- ぼくの「経験」と重ねあわせながら考えること。
クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。
クリスマス休戦(Christmas Truce)。第一次世界大戦(1914-1918)中の1914年12月24日から12月25日、西部戦線でみられた一時的停戦。なんらかの休戦協定などによる停戦ではなく、各地の最前線で、自然発生的に生まれた停戦である。停戦中、敵対していたドイツとイギリスの兵士たちが、共に歌を歌ったり、食べ物などをシェアしたりして、クリスマスを祝ったといわれている。
もちろん、実際には場所によっていろいろな状況ーよい状況も、悪い状況もーが生まれていたし、また1914年以降は上層部の命令によって「クリスマス休戦」は禁止されたようだが、それにしても、このようなことが戦争という極限の状況において起こったという事実に、ぼくたちは心を動かされ、また考えさせられることになる。
どのようにして、どのような条件で、このような「休戦」が可能であったのか?
「クリスマス休戦」に直接的に焦点をあてながら研究もなされてきたようだが、ここではその詳細に入ってゆくほどの知識をぼくは持たないし、思考を深めてもいない。けれども、100年以上前のこの「クリスマス休戦」と、もしかしたらどこか通底しているような状況に、ぼくはかつて東ティモールで遭遇した経験を重ねながら考えている。
2002年にようやく独立をはたした東ティモール。国連をはじめ、国際的な支援のもと、独立後平和な状況にあった東ティモールは、2006年半ば、ディリ騒乱を発端に、国内情勢が不安定化し、国内避難民を生じる事態へと至った。
銃撃戦を逃れ、騒乱発生翌日にインドネシアを経由して日本に戻ったぼくは、治安が若干安定した段階で、ふたたび東ティモールに戻った。2006年9月頃のことであった。東ティモールに戻り、関わっていたコーヒー事業をふたたび軌道にのせ、2006年末、ようやく一息つけるところとなった。
東ティモールに戻って事業をすすめているあいだ、情勢はひきつづき不安定で、ディリ市内では住民の一部が国内避難民として家に帰ることができず、あちらこちらで争いが起きていた。事業は一息ついたところであったけれど、その意味では、緊張を解くことができないままに、ぼくは日々を過ごしていた。
年末はいつもであれば所用で日本に戻っている時期だが、その年はクリスマスから年末年始にかけて、ぼくはディリに滞在することになっていた。
そのようにして迎えたクリスマス。ディリ市内の争いが一時的に沈静化し、「しずかな夜」が訪れる。
東ティモールはカトリック教徒が大半であり、そんな人たちにとっては、クリスマスは大切なときだ。たぶん、そのような事情もあったのだろう。ディリ市内に「しずかな夜」が訪れたのであった。
今でもぼくの記憶のなかには、そのときに感じた安堵感(「争いは止まる(止めることができる)」)とともに、「しずかな夜」の空気感がのこっている。
このような記憶のなかで、「クリスマス休戦」という歴史的出来事は、ぼくのこの経験に重ねられるのである。
「クリスマス休戦」には、「humanity(ヒューマニティ)」という言葉が添えられることもある。想像でしかないけれど、たしかにそのように語られるような状況もあったのだろう(あるいは、少なくとも、そこに「希望」を見出したいのだということもある)。
でも、「人間性」ということでぼくを捉えるのは、「クリスマス」という、いわば「物語・ストーリー」を持ちつづけている「人間」という存在についてである。
人間は、「物語・ストーリー」(あるいは、幻想)という仕方で、いろいろなことを「信じて」いる。そのような、人間の固有性が、戦争や争いのなかでも、生きている。もちろん、そのような「物語・ストーリー」が極端な仕方で信じられて、いろいろと非人間的な行為がなされたりすることがあるのだけれど、肝要なことは、それでも、共通する「物語・ストーリー」を持っていることである。さらには、「物語・ストーリー」は変えてゆくことができることである。
「物語・ストーリー」については、「ホモ・サピエンス」を論じてきた歴史学者のYuval Noah Harariも、キー概念として語っている。あるいは、これまでにも「共同幻想」などとして、いろいろと語られてきた事象である。
人間は、「物語・ストーリー」の外部に出ることはできない。「物語・ストーリー」なしでは生きていけない。でも、共通する「物語・ストーリー」をもって共生し、協力することができる。
それは「希望(hope)」であると、ぼくは思う。
CNNの記事にみる、最下位ランナーの「物語」。- ランナーには、いつだって、個々の<物語>がある。
CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。
CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。
マラソン大会といえば、人やメディアは「優勝者」や入賞者に光をあてる傾向があることとは逆に、この記事は「最後の完走者」、つまりビリの走者に光をあてている。
そこには、人をインスパイアするような「物語」があるのだと、ライターのJacqueline Howardは書いている。
記事のなかに、ニューヨークシティマラソンのダイレクターであるPeter Ciacciaの言葉がおかれているように、「for every runner, there’s a story.」(「すべてのランナーに、物語があるんだ」)と言うほうが、視点がより包括的で、より徹底しているけれども、記事には「フォーカス」が必要であるし、「最下位ランナーの物語」は人の関心をひくものであるだろうから、このようなタイトルと内容の展開は「理解できるもの」である。
そのことを確認したうえで、「最下位のマラソンランナーたちの物語」にひかれることを、ぼくはここに書いておきたい。
「最下位のマラソンランナーたち(last-place marathon runners)」と複数形で書かれているように、ここでは4名のランナーが取り上げられている(もちろん、ふつうは意識しないけれど、どんなマラソン大会にも「最下位」のランナーがいるものである)。
「まひした身体」でロンドンマラソン(2018)を「最下位」で完走したサイモンさんは、じぶんの子供たちにとって「スーパーヒーロー」となり、また、まひした身体にかかわらず自身の足でこのレースを完走した最初の男性(the first paralyzed man)という記録付きであった。
ニューヨークシティマラソン(2017)を「最下位」で完走したデーヴィッドさんは、このレースの完走は10回目であったけれど、つま先を使って車椅子をおしながら完走であった。
アトランタでのハーフマラソン「The Race」を「最下位」で完走したアミナさんは、ぜんそく持ちでありながらできるとは思っていなかった完走を果たした。
世界中のマラソンやウルトラマラソンを110も走ったリサさんは、それぞれの完走を祝うため、新しく獲得したメダルをかけたまま寝ることを慣習があるのだというけれども、参加したレースのうち25回が「最下位」であったという(彼女は、レースを走りはじめたとき、「ビリ」になることを恐れていたという)。
この記事を書いたライターのJacqueline Howardは、これら4人が「共通してもつもの」を取り出している。
彼ら・彼女たちが「あきらめなかったこと」だ。
あきらめずにゴールを目指し、ビリであっても、走り(あるいは歩き)、ゴールをつきぬける。
より本質的には、じぶんの抱いていた「困難」をあきらめずに(あるいは徹底的にあきらめることによって)、のりこえてゆく精神の運動がみられることであるように、ぼくは思う。
そして、「共通してもつもの」として、より根底的には、それぞれの人たちにとっての<物語>がたちあがり、その物語に生きたことだと、ぼくは思う。
これら4人の「最下位のマラソンランナーたち」の「物語」、それは記事ではとても短い物語だけれど、物語の一端が見えてくるようにさえ感じられる物語である。
でも、それらの物語は、「メディア記事としての物語」ではなく、彼ら・彼女たち自身の<物語>として、鮮烈に生きられてきた物語である。
ぼくはそう思う。
そして、くりかえしになるけれど、「最下位のランナーたち」にかぎらず、だれにとっても、物語はあるのだということ。
途中であきらめてしまい、完走できなかったものたちにも、物語はある。
マラソンのレースは、そのような、個々の物語が、一緒に走るという舞台において交差し交響し共振する場でもある。
個々の物語が、とくに語られるということがなくても。
「序破急」と「英雄になる基本構造」(Joseph Cambell)の違い。- 引き続き、能楽師安田登に耳を傾けて、メモをとる。
能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
能楽師である安田登は、「能」を夢中に語る著書『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)のなかで、能を大成した世阿弥が書いた「能の創作方法」にふれている。
つまり、能の創作において、世阿弥は「能の構造」を「序破急(じょはきゅう)」にするように説いていることである。
「序破急」はそもそも雅楽の用語であったのだが、世阿弥は「観客を引き込む作劇法」として応用したという。
安田登の説明(前掲書)をもとにすると、能における「序破急」は以下のようになる。
●「序」:観客を場に引き込む。いろんな要素を投げることで、無意識下に「何か」を埋め込む。
●「破」:大切なことをじっくり展開する。途中で(半分くらい目を開けて)眠くなる状態がよく、観客の心の深いところに降りてゆく。
●「急」:目が覚めることをする。
能においては、さらに、それぞれのなかに「序破急」があるという(たとえば、「序」のなかに「序破急」があるというように)。
このような「序破急」は、演劇や音楽の分野にかぎらず、華道・茶道、書道、武術、文学などに応用されていったようで、安田自身も、この方法論を、短い文章を書くこと、プレゼンテーションをすること、講演することに適用していることを述べている。
安田登の好奇心と知見のひろがりと深さに圧倒されながら、ぼくが興味深く読んだのは、「序破急の構造」と「英雄になる基本構造」の比較(違い)についての見方のところであった。
「英雄になる基本構造」は、アメリカの神話学者Joseph Campbell(ジョーゼフ・キャンベル)が神話のなかに見出した「構造」のパターンである。
それは、世界の様々な神話に共通する英雄の型であり、キャンベルは「Departure 出発 - Initiation 通過儀礼 - Return 帰還」として見出している。
これに関連してよく知られているのは、キャンベルの「英雄になる基本構造」に感化されたジョージ・ルーカスが、映画『スター・ウォーズ』の制作においてこの「構造」をベースにしたことであり、安田登も、本のなかで、このことにふれている。
そのうえで、安田登は、『スター・ウォーズ』の構造が、「序破急の構造」になっていることを指摘しながら、しかし、能とキャンベルの見た神話との「違い」について、つぎのように書いている。
能とキャンベルの見た神話との違いは、後者は必ず「帰還」の場面があることでしょう。召命を受けた主人公が、一度共同体から出て敵と戦い、そして帰還することによって、共同体を救う。現実的に変わることを大事にする、これは英雄の類型です。
でも能の場合は、事態に変化はありません。自分の過去を語り、ときには恨み言を言った幽霊は本姓を明かして去るだけで、現実的に何かを変えるわけではない。でも、旅人(ワキ)に話を聞いてもらった幽霊(シテ)は救われ、ワキ方が演じた、幽霊と出会い、その声を聞いた現世の人の内面も確実に変わっています。そして、それが結果的に共同体を救うことになるのです。安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)
「現実的に変わることを大事にする英雄の類型」と「現実的に何かを変えるわけではない類型」。
このような「対称性」ということにおいては、異なる角度から、思想家の加藤典洋が、「ディズニーのアニメ」と「宮崎駿のアニメ」を対置しながら、登場人物たちの「成長」ということを素材に書いている(加藤典洋『敗者の想像力』集英社新書、2017年)。
加藤典洋は、「ディズニーのアニメ」を「大人から見られた成長」としている。
ディズニーのアニメは、物語として悪に対峙する「正義」の物語が展開され、またその過程において「子どもが大人になるという成長」の物語である。
そこでは「成長」が急かされ、子どもから見れば「抑圧」ともなってしまう成長観、言い換えれば「近代的な成長の物語の型」があると、加藤典洋はいう。
宮崎駿は、このような型とは異なる現実を描く。
映画『千と千尋の神隠し』では、映画の冒頭でトンネルをくぐって異世界にいくときも、また両親をすくいだしてからトンネルを抜けてこの世界にもどってくるときも、千尋は相変わらず心細そうに母親の手にすがりついている。
そこでは「成長」は目に見える形では見られない。
けれども、千尋やその周辺に変化が見られないとしても、だからといって、成長や変化や影響がないということではないだろう。
ただし、それらが「見えにくい」ということはある。
このような対称性において、どちらが良いだとか悪いだとかいうことではなく、ひとまずはそのような対称性(違い)があるのだということだけを、ここでは書いておきたいと思う。
このことを問題意識のひとつとして、ぼくの「考えること」の抽斗に、いったん入れておくのである。
能楽師安田登に引き続き耳を傾けながら、ぼくはこうして、メモをとる。
「物語のあり方をもう一回考え直す」(村上春樹・河合隼雄)。- 物語、素朴さ、ただ生きること。
「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
「オウム真理教」の刑執行のニュースは、ここ香港を含む海外メディアでも、取り上げられた。
ニュースを読みながら、ぼくは「あの日」を思い出していた。
「あの日」、ぼくは、大学の授業があって、午前の少し遅めの時間に家を出た。
東京の(当時の)東横線沿線に住んでいて、東横線で渋谷に出て、渋谷から大学のある巣鴨に向かうのが、ぼくの通学路であった。
遅めに家を出て、いつもと変わらず東横線に乗って、渋谷に出たのだけれど、東横線の渋谷構内がいつもとは異なる雰囲気につつまれている。
東横線は日比谷線につながってゆく線もあり、東横線構内の掲示板のオレンジ色の文字が、日比谷線のダイヤの乱れを伝えていたのだ。
その雰囲気が、ときおり起こるダイヤの乱れとは異なっていて、緊迫感が伝わってくる。
ぼくは掲示板を見ながら、緊迫した雰囲気の中、山手線に乗り換えて、巣鴨に向かった。
やがて「事件」を知り、それが、東横線からつながる「日比谷線」で起きたことに、人ごとではない、なんとも言い難い気持ちを、ぼくは抱いていた。
「あの日」から20年以上が経過し、時代と状況の変遷を感じながら、しかし、人と社会における「問題の本質」はあまり語られず、いまだに大きな問題として残っているように感じる。
心理学者の河合隼雄と小説家の村上春樹の「対談」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)は、「あの日」と同じ年、1995年の末に行われ、「問題の本質」に、直接に、またその他の一見すると関係のないような角度から触れたものであった。
何度読んでも、学ぶことがあり、また考えさせられる。
村上春樹は、「オウム」のつくりだした「物語」のなかに、「稚拙なものの力」を見て取りながら、「稚拙」だから無意味だと切り捨てることはできないと、この問題に正面から対峙している。
村上 …ある意味では「物語」というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)が僕らのまわりで、ーつまりこの高度資本主義社会の中でーあまりにも専門化し、複雑化しすてしまったのかもしれない。人々は根本ではもっと稚拙な物語を求めていたのかもしれない。僕らはそのような物語のあり方をもう一回考え直してみなくてはならないのではないかとも思います。…
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
対談の内容に付された、このフットノートに対して、河合隼雄は、「稚拙な物語」というよりは「素朴な物語」と言う方がよいだろうとしながらも、基本路線において大賛成している。
河合 …「素朴」というのも、素朴であるほどいい、と言うわけでもありません。素朴な話を評価する規準は何なのかが問題なのだと思います。…私は「オウムの物語」の問題点は、素朴な物語に、現代のテクノロジーという、まったく異質なものを組み込んで物語を作ろうとしたことだと思っています。
「物語のあり方をもう一回考え直す」ために、私としてはこれまで「昔話」や「児童文学」を取り上げてきました。大人どもから見れば、まさに「稚拙」に見える物語が、どれほど深い意味を持っているかを示そうとしたつもりです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫
あの頃を思い出して、ぼくは、ぼくの内面を問う。
「あの日」、あの頃、ぼくの内面では、いろいろと闘っていたのだと、あとで振り返ってみて、思う。
河合隼雄は、村上春樹と「コミットメント」について触れながら、「…コミットしなくちゃならない、ということに気がついた青年たちを、オウムが引き込んだのですね、『ここにコミットしなさい』『答えはありますよ』と」、語っている。
ぼくは、「コミットしなくちゃならない」という気持ちをひとまず<海外>に向け、翌年にはニュージーランドで過ごし、そこから国際関係を学ぶことを契機として「途上国の開発・発展研究」へと、コミットメントの対象を定めていった。
そこに「答え」があるとは思わなかったけれど、そこから多くの「問い」、そして学びと行動が生まれた。
それは、ぼくにとっての「物語」であった。
そうしてまた、「物語のあり方をもう一回考え直す」というところに戻ってくる。
「『物語』というもの(小説的物語にせよ、個人的物語にせよ、社会的物語にせよ)」の、「素朴」な原層とは、を考える。
そこでぼくの中で立ち上がるのは、「ただ生きることの歓び」という幸せの原層である。
それは、だれしもがもつ<幸福感受性>(見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波新書)に支えられる、幸せの原層である。
<ただ生きることの物語>とは、どのようなものだろうか。
会社・ビジネスの「物語性」。- 平川克美『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』の視点。
「会社」ということも、<物語>として見ていくこと、また実際に<物語>として関わっていくことが、より深みをつくっていくものであると、ぼくはかんがえる。
「会社」ということも、<物語>として見ていくこと、また実際に<物語>として関わっていくことが、より深みをつくっていくものであると、ぼくはかんがえる。
平川克美は著書『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』(角川新書)のなかで、アメリカの戦略的な思考にもとづく企業論・経営論などにはなくて、かつての日本の企業文化のなかにあったものとして、この会社の「物語性」を挙げている。
平川克美は「物語性」の定義として、第1に、物語それ自体で自己完結しているひとつの世界であること、また第2に、現実とは異なる物語固有の時間が流れていることにふれている。
第2のことについては、例えば、利潤追求という共通の目的に向かう会社という考え方には、均質的で無機的な時間をつくっていくという機能主義的な側面があるだけで、そこには「固有の時間」がないとされている。
利潤追求においては「結果」が重要であるのに対し、「固有の時間」はプロセスのなかにしかない、という見方である。
自身も経営者であり続けてきた平川克美は、「会社をつくること」とは、生活のための手段の獲得ではなく、「わたしたち自身の世界を作ってゆくこと」であり、また会社がひとつの「幻想共同体」をつくっていくことであるということを学んできたのだと語る。
この「固有の時間」ということは、とても大切なことであるように思われる。
それは、時計の時間のように無機質な時間に還元されるのではなく、そこに生きる人たちがともに共有する、時計的な時間に還元できない時間だ。
ぼくたちが「生きる」ということの本質も、ただ単に、時計の時間が動いていくなかでの出来事の生起ではなく、固有の<他者たち>との間の<固有の時間>の共有であるように思われる。
このように、会社を「複数の人間が何らかの幻想を共有して経済活動をしてゆくひとつの「生成」」として捉えるとして、では、どのようにその生成の物語が語られるのかということへ、平川克美は問いをうつしていく。
そして、会社の物語も、人それぞれの物語と同様の困難さを抱えているとし、そしてデータの積み重ねでは物語にはならないとしながら、「物語」という形式で語ることを人に選ばせる理由を、次のように書いている。
…その人間がひとつの行為をどのような理由によって選択し(あるいはその選択によって何を断念し)、そのときにどのような意図、決意、逡巡があり、その行為がどのようなプロセスを経てひとつの結果になったのか、という「時間」の秘密を共有する他はないはずです。つまり、ともに苦労し、ともに喜びを分かつという「経験」に出逢う必要がある。
…
会社についても事情は同じです。ひとつの会社が登記され、仲間が集い、商品を作り、顧客と関係を結び、取引が行われ、仲間が増え、組織が生まれ、成長してゆくというプロセスも、「物語」という形式でしか語りえないものがあるというわけです。
平川克美『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』角川新書
このように、会社の物語は、その生成のプロセスに意味をあたえてゆくものである。
そのようにして、物語は語られる。
さらに、平川克美は、会社生成の「物語」がどのように紡ぎ出されて、何を汲み取ることができるのかという問いを立てる。
平川克美は、会社生成の「物語」とは、会社の履歴をつらねる調査レポートのようなもの(「メンバーたちが何を成し遂げて、現在どのような商品と顧客を持ち、売り上げがいくらで、資産がどのくらいあり…」)ではなく、また回顧譚でもないとしながら、次のように書いている。
自分たちがどのようにして会社にかかわったのか、それが自分たちをどのように変えていったのか、あるいは自分にとって会社とは何であり、今それが何を意味しているのか、といった自己言及の物語こそ、わたしが物語と呼んでいるものなのです。その自己言及の束こそが、会社の物語であるわけです。
…
…経営者には自らの「想い」と、今ここにある結果としての「会社の姿」との間の「ズレ」についての物語を語りたいという欲求があり、それこそが会社の哲学として、会社の従業員を会社へと向かわせるモチベーションを駆動するものであると言えるでしょう。
平川克美『一回半ひねりの働き方 反戦略的ビジネスのすすめ』角川新書
この「ズレ」への視点を、ぼくはこの本を通して、平川克美から教えられた。
このような会社の「物語」が必要である理由を、「わたしたち」個人と「わたしたちの会社」の相互の「ズレ」がこれから先どのように運動してゆくのか知りたくなる、ということにあると、平川克美は書いている。
この視点は、「会社」だけの視点ではなく、個人の物語と会社の物語の相互作用をひきうけながら、そこに「働く」ということの本質をみてとる視点に支えられている(本書にて「なぜ働く」のかという、答えのない問いに差し迫っている)。
「個人の物語」と「会社の物語」の相互作用については、ひきつづき、ぼくも視点をとりこみながら、見ていきたいところである。
「じぶんの物語」の構成要素。- コピーライター糸井重里の思うところ。
コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)。
コピーライターの糸井重里が主宰する「ほぼ日刊イトイ新聞」(通称:「ほぼ日」)。
1998年6月6日創刊のウェブサイトである。
40代の「暗いトンネル」を抜けてきた糸井重里が、50歳になって、トンネルを抜けた先につくりだした「世界」である。
今ではアプリも出ていて、「ほぼ日」のコンテンツへのアクセスが格段にしやすくなった。
「ほぼ日」のなかに「今日のダーリン」という、「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」というコーナーがある。
ぼくのiPhoneは、毎日午前、「ほぼ日」アプリからのNotificationで「今日のダーリン」の更新を伝えてくる。
2018年4月6日の「今日のダーリン」で、糸井重里は「じぶんの物語」に触れて、おもしろいことを書いている。
・信仰と科学のちょうどいいバランスのなかに、じぶんの物語が落ち着けたらいいのになぁと思う。犬と暮らしているそれなりに多くの人が、「犬がしゃべった」と言う。うちにいたブイヨンは「かなちゃん」と言った。じょうずにではないが、家人の名を親しく呼んだ。ぼくらの物語のなかでは、なんの問題もないことである。それは信じるという次元にあるからだ。…しかし、同じ人間が、つまりぼくが、「犬はしゃべらない」ということを知っている。…これは科学であり、先人たちの労苦の末に得た知見だ。…
糸井重里、04月06日の「今日のダーリン」『ほぼ日刊イトイ新聞』
糸井重里の思い描く「じぶんの物語」の構成要素だ。
この文章に続いて、糸井は、「犬が笑った」ということ、おみくじ、飛行機の旅をとりあげて、生きるうえでの、「信じることと科学」のバランスについて書いている。
ぼくたちはおみくじで大吉を引いて悪い気はしないけれど、おみくじがおおよそどのように作られているかを知っている、など。
この語ることのむずかしいテーマを、糸井重里の「じぶんの物語」に依拠しながら、絶妙な表現で語っていると、ぼくは思う。
…ぼくの、ぼくなりの物語というのは、まるまるぜんぶが科学でできているわけじゃないし、こころの信じることだけでできているわけでもない。
…つまりその、犬はしゃべるし、犬はしゃべらない。ぼくらは、そのあやしげな釣り合いのなかに生きている。そして、そのバランスは他人とちょっとずつちがうのだ。
糸井重里、04月06日の「今日のダーリン」『ほぼ日刊イトイ新聞』
生きることの「物語」ということをかんがえるとき、あるいは生きることの「物語」を実際に生きていくうえで、糸井重里の視点は、大切なことを伝えてくれている。
それにしても、「今日のダーリン」という「糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの」は、「ほぼ日刊イトイ新聞」のなかにあって、やはり特別な位置に存在しているように、ぼくには見える。
「ほぼ日刊イトイ新聞」の他の多くの企画を、ある「物語」において、つなぐような力を宿している。
ともすれば、雑多に見えてしまうような企画やビジネスや商品を、それこそ「信じることと科学のちょうどいいバランス」でもって、「ほぼ日」的な「物語」のなかにおさめているのだ。