「『じぶん』という秩序がこわれる」旅。- 雑誌「旅行人」編集長・蔵前仁一の「旅」。
バックパッカー向けの雑誌「旅行人」(2011年12月に休刊し、2017年に1号だけ復刊)の編集長を務めてきた蔵前仁一。
バックパッカー向けの雑誌「旅行人」(2011年12月に休刊し、2017年に1号だけ復刊)の編集長を務めてきた蔵前仁一。
海外旅行にまったく興味のなかった蔵前仁一は、フリーのイラストレーターとグラフィック・デザイナーとして社会に出ることになる(蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎)。
その後、東京での生活に疲れ、仕事に疲れ、海外旅行にでも行こうとなったとき、同僚の「インドはおもしろい」という言葉に導かれるようにして、1982年にインドへの旅に出る。
2週間のインドの旅が、蔵前仁一の人生をまったく違うものに変えることになる。
散々な目にあってインドから日本に戻ってきた蔵前の頭のなかは、気がつけばインドのことが立ち上がる。
「インド病」と蔵前仁一の友人が指摘するように、彼は、インドに魂をもっていかれてしまった。
インド病を治すためには「インドに戻ること」という助言に動かされるように、蔵前仁一はインドに戻ることを決め、今度はいつ戻るか決めない長い旅にでる。
仕事を整理し、グラフィック・デザイナーとイラストレーターの仕事を休業し、賃貸マンションを引き払い、旅に出る。
蔵前仁一は最初の目的地を「中国」とし、ビザをとるために、最初に(今ぼくがこの文章を書いている)香港に飛んだ。
1983年9月11日のことであった。
成田空港から飛び立ったエア・インディア103便は、四時間半のフライトで、当時の啓徳空港に着陸し、そこから最終的に1年を超える旅がはじまる。
1985年3月に蔵前仁一は、初めての長い旅を終えて日本に帰国。
次の旅を考える一方で、これまでのような仕事の仕方を変えたく思い、手元にあった「タイの島で描いたインドの絵日記」をもとに出版の道をさぐる。
これが、蔵前仁一の最初の著作『ゴーゴー・インド』(凱風社)となった。
そこから、他の著作を出したり、ミニコミ誌を出したり、最終的に「旅行人」の出版社設立にまでいたる。
しかし、イメージしていたことをだいたい実現し、体力も続かなくなった蔵前仁一は、バックパッカーが減っているといわれるインターネット時代のなかで、そろそろ潮時と見た雑誌「旅行人」の休刊を決め、2011年12月に、雑誌「旅行人」は休刊となった。
そのような蔵前仁一は、「旅の不思議な作用」ということを、自身の旅の経験をふりかえりながら、つぎのように語っている。
あれは自分の中の秩序の崩壊だったと僕は思っている。
インドに行くまで、僕は自分なりの秩序をたもって生きてきた。自分の常識の中で判断し、行動していた。…
それがインドで壊れて、激しい混乱を来したのだ。…
そこで僕は、世界には絶対に正しいことなどないことを知る。…
…
自分もまた変わる。旅に出る前の自分と、旅のあとの自分は同じではない。そして、世界も常に変わり続けている。…だから、旅人は二度と同じ場所へ帰ることはできない。それはまるで長い宇宙飛行から帰ってきた宇宙飛行士と同じであり、浦島太郎のようなものだ。それが、旅の不思議な作用だと思う。
蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎
旅での体験が、じぶんの「世界」に闖入してくる。
蔵前仁一にとっては、それらが、「自分の中の秩序」を壊すことになる。
彼は、その深い経験を、また「旅の不思議な作用」を、じぶんを変えてゆく肯定的な力とすることができた。
「旅で人は変わるか?」と問うことができる。
ぼくは、旅で、人は変わることもできるし、変わらないこともできると、思う。
蔵前仁一にとっては、そしてぼくにとっては、旅で、じぶんが変わってゆく経験をしたということだけだ。
そして、それは、「自分の中の秩序がこわれる経験」である。
その解体と生成のプロセスで、じぶんが<創られるながら創る>という経験である。
雑誌「旅行人」(編集長・蔵前仁一)の宇宙。- 旅の「ディープな世界」への案内。
20年以上も前のこと、ぼくが大学生の頃、大学の夏休みにぼくは旅をした。
20年以上も前のこと、ぼくが大学生の頃、大学の夏休みにぼくは旅をした。
バックパックを背負っての海外一人旅、いわゆる「バックパッカー」の旅であった。
ぼくの心持ちとして、あるいはささやかなスタンスのようなものとして、「バックパッカー」と言い切れないようなところがあるけれど、第三者から見たら、それは「バックパッカー」以外の何者でもなかったと思う。
初めての海外への旅は横浜からフェリー「鑑真号」に乗って向かった中国の上海で、その旅ではその後、西安から北京、北京から天津、天津から神戸と旅をした。
翌年には、この文章を書いているここ香港から入り、広州そしてベトナムという旅であった。
その次の年はワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに住み、帰ってきた年の夏には、タイ、ミャンマー、ラオスと旅をした。
タイのカオサン通りの小さなレストランでは、テレビのニュースが、アジア通貨危機の到来、それからダイアナ妃がこの世を去ったことを伝えていた。
旅をすることの楽しみのひとつは、旅を練り、計画し、想像することにあった。
当時、旅のガイドとしては「地球の歩き方」は一般的な観光旅行のためという認識のもと、バックパッカーにとっては、英語の「Lonely Planet(ロンリー・プラネット)」が世界的に読まれており、また日本語のものとしては雑誌「旅行人」が独特のポジションを獲得していた。
東京の新宿の紀伊国屋書店でも、「旅行人」のコーナーが独特の雰囲気を醸し出していたものだ。
「旅行人」の存在は、旅好きな友人が教えてくれたように記憶している。
雑誌は、インドやアフリカなど、世界のディープな旅を扱い、安宿や出入国の状況(陸路による国境越えなど)の情報、また旅のおもしろい/ありえないような話が紙面に所狭しといっぱいにつまっていた。
雑誌「旅行人」の編集長は蔵前仁一(文書書き、編集者、グラフィック・デザイナー、イラストレーターおよび出版社社長)、著書『ゴーゴー・インド』などで知られていた。
雑誌「旅行人」で情報を得ながら、その不思議な「宇宙」にひたっていると、無性に旅に出たくなるのだった。
「旅行人」のことを、ふと思い出し、グーグルで検索をかける。
すると、なんと「旅行人」のホームページがあるではないか。。
「まだ続いているのか」という驚きと嬉しさで、サイトを探索する。
読んでわかったことは、雑誌「旅行人」は、2011年12月に、165号をもって休刊となったということ。
しかし、2017年9月、休刊から5年9ヶ月後、雑誌「旅行人」は1号だけ(つまり166号だけ)が復刊されている。
その名も、「インド、さらにその奥へ《1号だけ復刊号》」。
なにはともあれ、雑誌「旅行人」のホームページがあり、蔵前仁一編集長はご健在で、今も、いわば「異世界への旅」に出る(あるいはその周辺で集う)人たちがいることに、ぼくの心はおどる。
前身の「遊星通信」から数えて20年以上もやってきた「旅行人」の休刊の経緯については、蔵前仁一は著書『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)のなかで、蔵前仁一の半生とともに語られている。
…アジア・アフリカを長く旅したときにイメージしたことはだいたい実現した。インターネットも登場し、長い旅をするバックパッカーも減ってきているというし、体力も続かなくなった。そろそろ潮時かな。
僕はそろそろ「旅行人」を休刊しようと思うようになった。
…二年ほど、ぐずぐずと迷い、…そして、ようやく休刊すると決めた。
それはフリーの仕事をいったんやめて、旅に出たときの心境とも似ていた。あのときも、旅から帰国後どうするかなにもわからなかった。だが、それをやめたことで新しい道が開かれたのだ。…また新しいなにかが始まるだろう。
蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎
1956年生まれの蔵前仁一も60歳を超えている。
蔵前仁一の人生を変えた、1982年の「インドへの旅」からも30年以上が過ぎている。
その間に時代も変わり、蔵前仁一の言うように、長い旅をするバックパッカーも減ってきているのかもしれない。
インターネットの世界は世界の距離感を極端に短くし、「旅のあり方」のようなものを、その内実において変えてきているように思われる。
けれども、雑誌「旅行人」が体現していたように、「旅」は、旅の仕方によっては、ディープな世界に入っていくことができる。
それはさしあたり「世界のどこ」ということでもあるけれど、より深いところにおいては、じぶんと世界のつながり方や(旅の)経験の仕方にあるように、ぼくは思う。
「なんでもある」香港で、じぶんの体験の「なんでも」を整理する。- 「オンラインガイドブック」(香港政府観光局)。
「なんでもある香港」を堪能すること。
「なんでもある香港」を堪能すること。
著作『香港でよりよく生きていくための52のこと』における、52のことのうちのひとつとして、ぼくは、そのように書いた。
香港にはなんでもある。
観光はもとより、香港で生活をしていくうえでは、この「なんでもある香港」を楽しむことができる。
香港に2007年の春に来てから、まもなく11年となる。
この11年のなかで「なんでもある香港」での体験をかさねてきたのだけれど、この香港の「なんでも」を整理してみようと、「香港政府観光局」のホームページサイトをひらく。
香港政府観光局のアプリはときどき使っていて、ホームページサイトはたまに参考にするくらいだけれど、以前、そこに電子の「ガイドブック」があったのを覚えていたからだ。
「オンラインガイドブック」(日本語版)として、以下のガイドブックがアップされており、手にいれることができる。
● 香港公式ガイドブック
● オールド・タウン・セントラル街歩きガイド
● 香港ハイキング&サイクリングガイド
● 香港ハイキング&サイクリングガイド(2017年版)
もちろん、英語版も英語のサイトに切り替えれば、手にいれることができる。
香港の多様性をうかびあがらせるような表紙デザインいずれものガイドブックも、「ガイドブック」という名前が示すように、いわゆる「旅のパンフレット」の域を超える内容でつくられている。
これほどの内容が、(このサイトの情報を知っていれば)こうしてサイトから簡単にダウンロードできること、それも日本語のものが揃っていることに、ぼくは個人的な驚きを得る。
なお、「香港公式ガイドブック」は日本語のみで、英語版は「BEST IN HONG KONG: A TRAVELLER’S GUIDE」というものがあり、日本語版をはるかに超える180頁越えの内容となっている。
英語サイトでは、「Hong Kong x Cruise」のガイドブック(兼広告)もある。
これらのページをめくりながら、ぼくは、まだ体験していない/行っていないところなどを確認していく。
それにしても、「オールド・タウン・セントラル街歩きガイド」と「香港ハイキング&サイクリングガイド」は、ぼくが来た11年前にはなかったものである(と思う)。
前者が対象とする、香港島の中環(セントラル)の一帯は、ビジネス街である一方で、指摘されるように「歴史やアート、グルメや文化」がひろがる場所である。
近年は特に、中環(セントラル)の隣りの「上環」にまで至る一帯に、「アート」の空間をつくりだしてきている。
また、後者は、「ハイキング&サイクリング」とある通り、「自然」、また「身体を動かすこと」である。
これら、「アート」「自然」「身体を動かすこと」は、2010年以降くらいからの、香港における「活動」の潮流をそのままあらわしている。
経済発展を主旋律としながら、香港という社会と人びとの磁場のなかにつくられてきた、あるいは押しだされるように立ち上がってきた活動たちの諸相である。
そのような側面を、香港政府観光局のサイトの「ガイドブック」を見ながら、また「なんでもある香港」の「なんでも」を整理しながら、ぼくはかんがえる。
崩れゆくものに「ざわめく未来」を見る眼。- 宇佐美圭司の「廃墟巡礼」の旅。
画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。...Read On.
画家の宇佐美圭司は、21世紀を迎える直前に、「廃墟巡礼」の旅をしている。
アトリエでの制作から一年間解放された画家が、1998年から1999年にかけて、アジア各地や北アフリカに至るところに、文化遺産や遺跡の崩壊の場を訪れ、言葉を紡いだ。
旅の全体を貫くテーマは「崩壊と生成」。
言葉は、まさしく「生成」していくようにして、『廃墟巡礼』(平凡社新書、2000年)としてまとめられた。
廃墟の遺跡などを求め、旅を続ける。
廃墟をどのように「現在」に持ち帰れるかと問いながら、廃墟のなかに「未来」を予感する。
廃墟には崩壊と生成の振動があり、変容のなかでざわめく未来が予感される。蕾の崩壊が花の生成であり、散る花びらは種子の結実を祝福する。崩れゆくもののなかにこそ、生成するものの新たな息吹があふれ出すのだ。…
イランでは私はいくつもの「タッペ」の丘に立った。…
丘はつるりとした固い盛り土だ。しかし、それはざらざらした内部を持っている。ざらざらした内部へと想像力を向けること。
旅は、そんな「つるつるからざらざらへ」の一歩ずつの歩みだしだろう。
宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年
旅は、「ざらざら」を求めて、「ざらざら」の感触を頼りに、想像力をひろげていく。
宇佐美の身体は、タイ、ヴェトナム、インド、イラン、中国、北アフリカへと移動を続けながら、廃墟にめぐりあってゆく。
『廃墟巡礼』という本の文章や写真は、そのような経過を追っている。
文明という時間と空間を大きな視野でとらえる宇佐美の思考は、しかし、宇佐美の「創作」の過程のようにも、ぼくには聞こえてくる。
まるで、宇佐美がアトリエに立って、筆を持っているところに、ぼくがそばに立っているような感覚だ。
そのようであることで、「創造」ということの深い地層に、宇佐美圭司に導かれてゆく「旅」でもある。
この本を読んで、旅の終わりに、「崩壊と生成」から立ち上がる「未来」はこういう未来だというように、なんらかの「答え」を得るわけではない。
そうではなくて、ぼくたちは、崩壊と生成のなかに未来が立ち上がる「手がかりの見方」を得る。
「手がかりの見方」ですぐさま未来が見えるわけでもないけれど、「ざらざら」への想像力の入り口をつかむようなものだと、ぼくは思う。
別の言い方をすれば、それは崩壊から生成への「動き」をつかむようなものだ。
宇佐美圭司は、眼下の波しぶきに「静止・沈黙」を見ながら、その「運動(動き)」を、次のように記している。
…それは廃墟に液体を感受するのと同じことかもしれない。私は画家として、動かない画面に、どう動きや時間を表現しようかと試行錯誤を繰り返してきた。そんな精神の習慣が、「静」に「動」を読みとる眼や意識を付与するのかもしれない。
宇佐美圭司『廃墟巡礼』平凡社新書、2000年
宇佐美圭司の旅からすでに15年以上経過したけれど、世界は引き続き「大きな移行」のなかに置かれている。
このトランジションは、「崩壊と生成」の<運動>でもある。
一言で言い換えれば、<創造>の過程である。
ぼくたちは、崩壊と生成の間隙に、どのような「ざわめく未来」を見ることがきるのか。
どのような「ざわめく未来」をひろいあげ、つくっていくことができるのか。
それは、(人類が存続する限りにおいて)終わりのない旅である。