中原中也の書く「宮沢賢治の詩」。- <感性の新鮮>に泣く精神。
詩人の中原中也(1907-1937)は、宮沢賢治の「心象スケッチ」である『春と修羅』の「十年来の愛読者」であった。
🤳 by Jun Nakajima
詩人の中原中也(1907-1937)は、宮沢賢治の「心象スケッチ」である『春と修羅』の「十年来の愛読者」であった。
宮沢賢治が亡くなってから「宮沢賢治全集」が刊行されたとき、宮沢賢治が「認められること余りに遅かつた」と不思議に思い、また気が休まらなかった中原中也は、愚痴っぽい文章と自身が語る文章で、この「十年来の愛読者」のことにふれている(中原中也「宮沢賢治全集」青空文庫)。
中原中也をよく読み、よく知る人たちにとっては、誰もが知るところなのかもしれないけれど、ぼくの勝手な印象の世界では、中原中也と宮沢賢治はだいぶ距離があった。「詩人」ということでは同じであるのだけれども、詩の読後感から、とても距離があるように感じる。
だから、中原中也が『春と修羅』の十年来の愛読者であったということに驚き、また興味をおぼえたのだ。
さらに、中原中也が「宮沢賢治の一生」をきりとることばに、ぼくは共感しつつ、とてもひかれるのである。
人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があって、宮沢賢治の一生は、その世界への間断なき恋慕であったと云うことが出来る。
中原中也「宮沢賢治の世界」青空文庫
これだけでも充分ではあるのだけれど、宮沢賢治の「一生」から、宮沢賢治の「詩」へと焦点をしぼりながら書いた中原中也の文章も、ここではとりあげておきたい。
彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の生滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分をだつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶまゝを、ーつまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。
中原中也「宮沢賢治の詩」青空文庫
「一生」であっても「詩」であっても、中原中也はそこに「宮沢賢治」を鮮烈にとらえており、「要するに」と、つぎのようにことばを足している。
要するに彼の精神は、感性の新鮮に泣いたのですし、いよいよ泣かうとしたのです。…
中原中也「宮沢賢治の詩」青空文庫
<感性の新鮮に泣く>という表現に、目が留まる。
宮沢賢治の<感性の新鮮>という核心をつきとめながら、中原中也らしく(ぼくにはそう見える)、「泣く」という表現をしている。
「詩の作風」においてはだいぶ異なるように(ぼくには)見える中原中也と宮沢賢治なのだけれど、中原中也は宮沢賢治と彼の詩の本質にいっきに迫っていることに、ぼくはやはり興味をおぼえる。
「だから?」と問われるかもしれない。そんなことを学んでも「役に立つのか?」という問い。
「詩」に向けられてきた問いであるかもしれない。「何の役に立つのか?」と。
ひとつ述べておくのであれば、これからの時代において、<感性の新鮮>ということがいっそう、ひとが生きるという経験のひろがりとふかさを支えてゆくものであることだ。ぼくはそう思っている。
世界に生きてゆくうえで、たとえば、宮沢賢治『春と修羅』の「序」のことばと共にあること。
ふとした時間のあいまに、電子書籍をひらく。
ふとした時間のあいまに、電子書籍をひらく。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
…宮沢賢治『春と修羅』、『宮沢賢治全集』(micpub.com)
宮沢賢治の「心象スケッチ」である『春と修羅』。その「序」の、さいしょのところである。
ふとした時間のあいまだったのだけれども、このことばにいっきにひきこまれ、すごいなあと思うと同時に、じぶんのなかの「深いところ」への道がそっとひらかれるような気がする。
吉本隆明が「宮沢賢治」にかんする文章を書いていたとき、どんなに疲れている日でも宮沢賢治の世界にふたたび戻ってゆくことができたという(たしか、吉本隆明『宮沢賢治』の「あとがき」に書かれている。吉本隆明のこの心境について、ぼくは見田宗介先生の講義ではじめて知った)。
『春と修羅』の「序」を読みながら、その心境が、とてもわかるような気がする。
宮沢賢治の作品にはまったく「わからない」ものもあるのだけれど、「意味」をおいすぎるのではなく、ことばをただおいながら心象をかさねてゆくだけで、なにか、ほっとするようなところがある。
もちろん、この「序」については、語られることの「意味」から見ても、おどろくべき文章である。
『宮沢賢治:存在の祭りの中へ』(岩波書店)という、ほんとうにすてきな本を世に放たれた、社会学者の見田宗介は、つぎのように書いている。
宮澤賢治が生前に刊行したただひとつの詩集である『春と修羅』の序は、<わたくしといふ現象は>ということばではじまっている。自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼを、賢治は一九二〇年代に明確に意識し、そして感覚していた。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1984年
「自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼ」を、あの時代に感覚していたこともすごいけれど、なによりも、これほどまであざやかに、この「現代哲学のテーゼ」を書ききったところもすごい。
ぼくにとっては、まさに奇跡のようなことば・文章である。
はじめて、『春と修羅』を読んだのはいつだったろうか。10代のころ、国語の授業などでふれられたときであったろうか。
そのときは、この奇跡のようなことば・文章を、ぼくはまったく「わかっていない」のであった。映画にもなった『銀河鉄道の夜』にはどこまでもひきこまれたけれども、「雨ニモマケズ」にはどこか「道徳のにおい」を勝手に感じてしまっていた。
そうして遠ざかっていた宮沢賢治の作品に、見田宗介『宮沢賢治』(岩波書店、1984年)の本に出会い、ぼくはようやく「入り口」にたつことができた。<わたくしといふ現象は>ではじまる『春と修羅』の「序」にも、ようやく正面から出会うことができた。
出会ったことばたちは、その後、西アフリカのシエラレオネで、東ティモールで、それから香港で、ぼくの生を支えてきてくれた。ほんとうに、いろいろな状況と場面で。
世界に生きていくうえで、そんなことばたちと共にあることがとても大切であったのだということを、今のぼくは思う。
「ただいるだけで」(相田みつを)。- 「being」のちから。
詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)のことばを、これまで、いくつかとりあげてきた。「夢中で仕事をしているときは…」であったり、「しんじつだけが…」であったり。
詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)のことばを、これまで、いくつかとりあげてきた。「夢中で仕事をしているときは…」であったり、「しんじつだけが…」であったり。
それらをとりあげながら、もうひとつ、ぼく個人として気になっていたことばがあった。まったくの、ぼく個人の好みであるのだけれど。
それは、「ただいるだけで」、と題されている(「相田みつを美術館」ポストカードより)。
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなるあなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんな
あなたにわたしも
なりたいみつを
人を語るとき、「doing」と「being」という視点で語ることがある。
現代社会はことさら「doing」が強調され、評価され、うながされる。「行動」が人やものごとを動かし、何かを生みだし、結果を出してゆく。これまでの「行動」をのりこえてゆく「多動力」(たとえば堀江貴文の著書にもある)ということも、行動の延長戦上にある力だ。
「行動」で現状をきりひらいてゆく。「行動してゆくこと」の大切さは自明のことであるだろう。
けれども、「being」をあなどってはいけない。
大切であり、現状をきりひらくはずの「行動」が、「being」、つまり、人の「ありかた・あり様」次第では、からまわりするだけだ。
最近読んでいる、ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著作『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)では、「人生の前半/(中年)/後半」という流れの中で、「人生の後半」には、(前半でフォーカスしてきた)「doing」だけでなく、「being」も大切にしてゆくことが勧められている。
また、これからの「doing」が、AI(人工知能)などのテクノロジーに補完されてゆくのだとしたら、人においては「being」ということがいっそう重要になってくるのだと言うこともできるかもしれない。
でも、上でとりあげた、相田みつをの詩を読んでいると、「being」の大切さや効用などをことさらに指摘してゆく必要もないようにも思う。
「ただいるだけで」を読んでいるだけで、ただ、ぼくもそうなりたいと思うのだ。
なにをするのでもなく、ただいるだけで、場の空気があかるくなり、みんなのこころがやすらぐ。ただいるだけで、場やひとがうごいてゆく。
ぼくも、そうなりたい。
なろうと思って、なれるものでもないのだけれど。
「We shall not cease from exploration…」(T.S. ELIOT)。- 「終わり」にたどりつくところ。
ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著書『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)のはじまりのところに、T・S・エリオット(1888-1965)の詩集『Four Quartets(四つの四重奏)』からの抜粋の一部をおいている。
ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の著書『Living Your Unlived Life: Coping with Unrealized Dreams and Fulfilling Your Purpose in the Second Half of Life』(Jeremy P. Tarcher/Penguin, 2007)のはじまりのところに、T・S・エリオット(1888-1965)の詩集『Four Quartets(四つの四重奏)』からの抜粋の一部をおいている。
We shall not cease from exploration
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.T.S. ELIOT
「はじまりと呼ぶものはしばしば終わりであり、終わらせることははじめることである」というようにはじまる『Four Quartets(四つの四重奏)』「Quartet No. 4: Little Gidding」の最終節(第5節)の、そのほぼ最後のところに記されている言葉である。
「われわれはエクスプロレーション(探検・探査)をやめることはない。すべてのエクスプロレーションの終わりはわれわれがはじめた場所に到着することであり、またその場所を初めて知ることである。」
「はじまりと終わり」の、その「構造」だけをざっくりととりだせば、メーテルリンク『青い鳥』、パウロ・コエーリョ『アルケミスト』などにも見られる構造である。また、社会学者である見田宗介=真木悠介の著作(『気流の鳴る音』『宮沢賢治』)でも見られる、ものごとを読み解く「四象限と円環」も、おなじ構造をもっている。
ロバート A. ジョンソンは、「人生の前半/(中年)/後半」を語ってゆくなかで、このことばを導きの糸としている。
大切なことは、このような構造をただ単に「知る」ことよりも、「生きる」ことであるように、ぼくは思う。つまり、実際に、体験・経験することである。ヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』で、シッダルタが、この体験・経験の中にひたすら身を投じていったように。
じぶんの心身を通じて<知ること>は、ぼくたちの<知恵>となり、生きることに深みをつくりだしてゆく。
エクスプロレーションの終わりにたどりつく場所は、はじめた場所であるかもしれないけれども、その風景は重層してゆく風景であり、やはり異なる仕方でぼくたちの目に見える。
ぼくも、いろいろなエクスプロレーションの果てに、結局「はじまりの場所」に戻ってきたようにも思うのだけれど、そのエクスプロレーションのはじまりには見えていなかった仕方で、その場所を眺めているように思う。エリオットが書くように、まるで「And know the place for the first time」のように。
「しんじつだけが…」(相田みつを)。- 虚構の時代における<しんじつ>の響き。
詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)。相田みつをの書く詩はシンプルであるとともに、書かれた文字は心の深いところにはいってゆく。
詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)。相田みつをの書く詩はシンプルであるとともに、書かれた文字は心の深いところにはいってゆく。
シンプルであることは必ずしも「簡単」ということではないけれども、じつは<簡単>でもある。「生きる」ことの核心は<簡単>でありつつ、しかし、実際には、複雑になってしまっていたりする。
そんなふうに書かれた、相田みつをの「書」に、ぼくはひかれる。
じぶんの心をひらいて、すーっと、うけとってみる。
「意味」を掘り下げ、じぶんの<生きるという経験>をうつしだす鏡としてみる。
あるいは、「意味」を横におき、書かれた文字ひとつひとつの強弱や大きさ、流れや空間を、ひとつひとつの文字を「なぞる」ことで追い、そこに心の機微を感じとってみる。
そんなとき、じぶんの心が、どのように「動く」か、あるいは「動かない」か、を、観てとる。
しんじつ
だけが魂を
うつみつを
ポストカード「相田みつを美術館」
相田みつをの他の書「夢中で仕事をしているときは…」とくらべると、「しんじつだけが…」の文字たちには、だれもがみてとるように、そこに激しさのようなものが現れている。
ひとつひとつの文字を心のなかで「なぞる」と、いっそう、情感が感じられる。
「しんじつ」が、<魂>としか呼ぶことのできないような領域を「うつ」経験に揺さぶられる情景が見えるとともに、いっぽうで、このことばの「見えないところ」(背後に、余白)に、「しんじつではないもの・こと」の経験がいっぱいに重ねられてきたように、ぼくには見える。
「しんじつではないもの・こと」の経験、それらがじぶんの言動であれ、他者たちの言動であれ、社会の状況であれ、そのような苦い経験がまるで<土壌>となって、書の文字を力強く「芽」立たせている。
高度経済成長後の日本を特徴づけてきた「虚構の空間・虚構の時代」(見田宗介)。日本だけにかぎらず、高度産業社会を特徴づけてきた「虚構性」である。
そんななかにあって、「しんじつ」は、どのように語られるか。
相田みつをのことばは、ぼくにとっては、この虚構性をいっきにつきやぶるようにして、きこえてくる。
「夢中で仕事をしているときは…」(相田みつを)。- 仕事、本当の自分、しあわせ、のこと。
詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)。
詩人であり書家の相田みつを(1924-1991)。
夢中で
仕事をしている
ときは自分を
忘れる
自分を忘れて
いるときの自分が
本当の自分で
一番充実して
しあわせなときだみつを
「相田みつを美術館」ポストカードより
相田みつをの詩は、そのことばは、すーっと、じぶんのからだにはいってくる。そんなふうに感じることができる。
東京の「相田みつを美術館」で購入したポストカードのことばは、厳選されたことばたちである。
ただのポストカードといえばポストカードなのだけれども、それを手にとり、触れながら読んでいると、じぶんの内側から力が湧いてくるような感覚を得る。
手元に8枚ほどあるポストカードはどれも、それを手にするときそれぞれの心境によって、心に響くその響きかたが変わってくる。
昨日手にとって「響いた」ことばのうちのひとつが、冒頭のことばである。
相田みつをが書くことば(文字)にときおり見られる「力強さ」や「揺れ」などは特段みられず、どの文字も比較的整い、どこか淡々と書かれている(ように見える)。
でもそのことがかえって、ここで語られることをいっそう浮かびあがらせているようだ。自分を忘れる夢中であるさまが、書かれる文字に現れている。
そのような書かれることばのなかに、「仕事」のこと、「本当の自分」のこと、それから「しあわせ」のことの核心が、深くもりこまれている。
これだけのことばのなかに、これらの<核心>が、絶妙な仕方で凝縮されている。
そして、これら、仕事、本当の自分、しあわせをつらぬく芯は、<夢中である>こと、つまり<自分を忘れる>ことである。
あるひとは首をかしげるかもしれない。「自分を忘れているときの自分が本当の自分」とは、状況が逆さではないか、と。「本当の自分」とは、自分を忘れる仕方とは逆に、自分という主体を明確に形づくったとき、あるいは自分を明確に見つけたときなどの「自分」ではないかと思いながら。
ぼくは、相田みつをのことばに深く共感する。「自分を忘れているときの自分が本当の自分」であり、「一番充実してしあわせなとき」であることに。
「心」を外国語に訳す(技)。- 村上春樹作品の翻訳、村上春樹の考える「翻訳」。
村上春樹の小説のロシア語翻訳者のひとり、ドミトリー・コヴァレーニンは、村上作品に登場する、日本語の「心」をどのように訳したらよいのか、悩んだという。
村上春樹の小説のロシア語翻訳者のひとり、ドミトリー・コヴァレーニンは、村上作品に登場する、日本語の「心」をどのように訳したらよいのか、悩んだという。
それは村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を訳していたときで、そのなかでいちばん悩んだのが、この「心」の訳し方であったというのだ。
村上春樹の英語翻訳者のうちのひとり、アルフレッド・バーンバウムの英語訳では「心」は「mind」と訳されている。
ドミトリー・コヴァレーニンは、村上春樹に直接にインタビューしたときに、その訳(mind)をぶつけてみたのだという。
…2002年にはじめて村上さんにインタビューをしたとき、「村上さん、’mind’で大丈夫ですか」と訊きました。彼は、「ウーン、どうですかね。’soul’でもない、’mind’でもない、’heart’でもない。三つの言葉の意味が少しずつ入っているけれども、さらに必ずあたたかみを付けるように。頑張って考えてください」と言われました。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
たしかに、日本語の「心」を訳すことがむつかしいことがある。
逆に、バーンバウムが訳したような「mind」が英語にあったとしたら、これを日本語にどう訳したらよいのか、ということに悩んでしまうだろう。
ぼくは便宜的に、頭脳的なものを「mind」とし、(ハートで感じるような)心的なものを「heart」というように、じぶんの訳語のひきだしに収めているけれど、実際の文脈に入っていかないと、どう訳していいのかはわからない。英語から日本語訳では「カタカナ」を使えるので、「mind」の日本語訳は「マインド」とするようなこともある。
しかし、「心」の英語訳は、村上春樹が「…’soul’でもない、’mind’でもない、’heart’でもない」と言わざるを得ないような、そんな「心」である。
でも、さすが村上さんと思ってしまうのは、「…さらに必ずあたたかみを付けるように」と付けくわえてコメントを提示したことであり、その感覚にぼくは共感してしまう。
その意味において「的確なアドバイス」とも思われるが、「翻訳」の最終的な判断は、翻訳者に任せられている。
このような村上春樹のスタンスはいろいろなところで知ることができるが、自身も翻訳者である村上春樹の、「オリジナル・テキスト(原文)」の翻訳にたいするスタンスからも、照射することができる。
村上春樹は、かつて「原文」と「翻訳されたもの」の関係性について訊かれたとき、それぞれは「別のもの」でしょう、と応えている。そこで『グレード・ギャッツビー』の翻訳に触れながら、村上春樹はつぎのように語っている。
…いくつかの訳を比べて読んでみると、ひとつの全体像が漠然と浮かび上がってくるということはあるかもしれませんが、個々の訳はオリジナル・テキストとは別物だと僕は思います。しかし別物であっても十分に感動できるし、その感動がオリジナル・テキストを読んだアメリカ人の読者より劣るかというと、そんなことは決してないと思います。というか、優れた小説には、そういう多少の誤差を乗り越えて機能する、より大きな力があるんです。僕はそういうふうに考えています。ただもちろん誤差は少ないほうが絶対にいいです。
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書、2000年)
村上春樹は「正解な翻訳」というものは原理的にはないと考え、また、誤差は少ないほうがよいが、優れた小説の「多少の誤差を乗り越えて機能する、より大きな力」を信じているのである。
他のところでも語られるように、むしろ翻訳とは「誤解の総和」とも言えるもので、しかしそれでも、「総体としてきちっとした一つの方向性」を指し示していれば、それは優れた翻訳だと考えているのだ。
そんなふうな「翻訳」へのスタンスもあって、村上作品の「翻訳」の最終的な判断は、翻訳者に任せられている。
「頑張って考えてください」と村上春樹に励ましを受けたドミトリー・コヴァレーニンは、最終的に、この「心」をどのように訳したのだろうか。
…私は一生懸命頑張った結果、訳さないようにしたんです(笑)。「もののあはれ」のような考え方をいちばんよく訳すには、それを翻訳しないことだと思うのです。結局、「心」はできるだけ曖昧にしました。まあ、これは私のひとつの技、手法なのですけれども。
『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)
(一生懸命頑張った結果)「訳さない」ということを選んだドミトリー・コヴァレーニンの決断は、彼が語るように、「ひとつの技」である。
研ぎ澄まされた「技」であると、ぼくは思う。
「もう遅い」けれど、「遅すぎ」ではない。「なにかをはじめる」思想。- 糸井重里氏のことばと視点。
糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。
糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。
なにかをはじめるのに、「もう遅い」と思っちゃだめだなぁとつくづく思います。…
糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号
先日も、糸井重里の「今日のダーリン」でとりあげられていたことを素材にして書きましたが、今日のことばも、ぼくのなかに鮮烈に投げこまれたことから、こうして、また糸井重里の視点を素材に書いています。
でも、鮮烈さは、上記のことばとは少し違ったところにありました。
なにかをはじめるのに「もう遅い」と思ってはだめだ、ということは、糸井重里の実感がこめられたことばであるのですが、さらにその先におかれたことばに、ぼくはとても惹かれるのです。
そのことばにふれるまえに、コンテクストを書き足しておきますが、糸井重里はこの文章を書くまえ、つまり「今日のダーリン」が届けられる日の昨夜に「笑福亭鶴瓶の落語会」を見にいってきたところです。
「ぼくが言うのもおこがましいのですが…」と前置きをしながら、糸井重里は、笑福亭鶴瓶の落語が、「ずいぶん上手になっている」ことをそこで感じたと言います。
そのことにあれこれと付け加えながら、糸井重里は、つぎのように語ります。
で、ね。「俺が落語家になったんは五十歳のときですよ」ですよ。そこからはじめるって、遅いでしょう?それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった。いや、「遅すぎ」にしなかったんですよね、本人が。「ほれ、こんなふうに、まだまだ上手くなるよ」と、見本を見せてくれてるような気がします。なにかをはじめると、よく「もう遅い」と言われます。そう言えば、ぼくも「ほぼ日」をはじめたのが五十歳。わりと具体的に「もう遅い」とも言われましたっけ。うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。
糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号
「もう遅い」ということを、ぼくたちは思ってしまったり、あるいは人に言われたりしてしまいます。
「もう遅い」と思っちゃだめなのだけれど、どうしても、思ってしまうことがある。
世間や周りの人たちの「見方」が、じぶんに内面化してしまっているから、思ってしまうということもあります。
でも、そこからのひとことが、心に沁みてきます。
「それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった」
「もう遅い」から「遅すぎ」までの距離、それは確かに、はるかな距離(空間・時間)かもしれないと、ぼくは思うわけです。
世間的に(したがって、じぶん的にも)「もう遅い」という声が聞こえてくるようなのだけれど(そして、そう思ってはいけないこともわかっているんだけれど)、そこで<遅い>ということばの罠にかかって、あきらめてしまうのではなく、「遅すぎ」ではないんだと、じぶんをひらいてゆく。
それは、とてもひびいてくることばであり、知恵だと思うのです。
糸井重里は、しかし、笑福亭鶴瓶の落語においては、「いや「遅すぎ」にしなかったんだ」というように捉えています。
この捉え方は、遅い/遅くない、ということを超えてゆく「正しい」方法でもあるのだけれど、この認識は、糸井重里の感じていることの半分しか語っていないように、ぼくには見えます。
残りの半分については、じぶんも「もう遅い」と言われた経験があったことにふれながら、最後にこう書いたことに現れています。
「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。」
つまり、ここでは、将来的に「成功」することで、過去の「遅い/遅くない」ということを書き換えるという方法が語られているのではなく(つまり、なにかの「達成」をもって「正しさ」を証明することが書かれているのではなく)、<歩み>自体の楽しさが書かれているわけです。
ぼくたちが「生きる」という道ゆきにおいて、なにかをはじめるときに、何をもって、「遅い」だとか、「遅くない」とかを判断し、評価するのだろう。
もちろん、そのような声をふりきって、未来においてなにかの「達成」を見せて、さしだして、「あのときは遅くなかったのだ」と証明し、言い聞かせることも(上で述べたように)方法のひとつではあるわけです。
けれども、そこで見せつける「達成」とはなんだろうか、と問い返すこともできます。
いずれにしても、人は、いつか「死」というものを迎えてゆくのであり、個人(個体)においては、達成は跡形もなくなってしまうのです。
ぼくたちにできるのは、人間として生きる、この世の一日一日を、遅かろうが速かろうが、その一歩一歩を歩むことでしかないと、ぼくは思うのです。
こういう視点で、「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん」という糸井重里のことばを見ると、「歩みは世間的には遅いと言われるだろうけれど、一歩一歩が楽しかったんだ。そのほかになにがあるというんだ」というように、ぼくには聴こえてきます。
それは、「遅すぎ」ではない、ということの、(より)徹底した生き方であるように、ぼくは感じるのです。
それにしても、なにかをはじめる人に向かって、「「もう遅い」ということはないよ」と伝えるよりも、「「遅すぎる」ことはないよ」と伝えるほうが、相手に伝わるということがあると思いませんか?
ぼくは、そう思います。
繰り返しになりますが、本人は、心のどこかで、「もう遅い」ということを感じてしまっていることがあるのだから。
と、思って、さっそく、「遅すぎることはないよ」と、伝えてみました。
「プラスチック・ワード」(ペルクゼン)に関心をもって。- 松岡正剛の書く「一夜」を参考にしながら。
膨大な情報と知見と好奇心が織りこめられている、Webサイト「松岡正剛の千夜千冊」。
膨大な情報と知見と好奇心が織りこめられている、Webサイト「松岡正剛の千夜千冊」。
すでに、1000冊は優にこえ、これを書いている時点で、中島春紫『日本の伝統 発酵の科学』の一夜が最新となっており、1687夜(1687回)である。
最新で書かれてゆく「一夜」には、その都度、立ち寄って、松岡正剛の眼をとおした「一冊」に耳をかたむけるのだけれど、まだまだ100夜(100冊)にもおよんでいないだろう。
これとはべつに、ぼくは、思想家・武道家の内田樹のブログ「内田樹の研究室」を最初に書かれたところに遡って読んでいて、それは1999年からのもので、いまだに2000年時点に書かれたブログの文章世界のなかを歩いている。
「読み終わること」が目的ではなく、知見に学ぶこと自体を楽しみ、そして「生きる」ことを賦活していくことを念頭にしているから、歩みを急ごうとは思わない。
カルロス・カスタネダの作品に登場するドン・ファンの教えに共感して、「心のある道」を歩んでゆくだけである。
「松岡正剛の千夜千冊」のことに触れたのは、「1685夜」で、『プラスチック・ワード 歴史を喪失したことばの蔓延』(藤原書店、1998年)という、ウヴェ・ペルクゼンの著書をとりあげていて、興味深い内容であったから、ブログで書いておきたいと思ったためである。
この「1685夜」をぼくは読み飛ばしてしまっていたようで、昨日のブログを準備しながら、解剖学者である三木成夫のことをしらべているときに、「松岡正剛の千夜千冊」にて『胎児の世界』という、三木が生前に発表していた著書2冊のうちの一冊がとりあげられているのを見つけたときに、ぼくの視界に「プラスチック・ワード」も入ってきたのであった。
ここですべてをとりあげることはしないので、興味のある方は松岡正剛のまとめと見解に直截に触れられるのがよいかと思う(原著はドイツ語で、『プラスチック・ワード』の英語訳を探したのだけれど、まだ電子書籍にはなっていないようで、「なるべく電子書籍」のぼくとしては本それ自体はまだ読んでいません)。
ぼくが焦点をあてたのは、シンプルに、「プラスチック・ワード」という言葉とその条件、あるいはその実例的な言葉の一群であった。
本ぜんたいには、副題「歴史を喪失したことばの蔓延」に逆説的に語るように、「歴史を内包することば」の衰退(世界の「言語」が減少してきていることを含めた衰退)が、重奏低音のごとくひびいている。
そのような文脈のなかで「プラスチック・ワード」が語られるのだが、松岡正剛の「要約」は、つぎのようにまとめている。
世界を牛耳る言語には、いくつものプラスチック・ワード(plastic word)がある。プラスチック・ワードとは、意味が曖昧なのにいかにも新しい内容を伝えているかのような乱用用語のことだ。
合成樹脂のようにできた言葉だから、一応の成型はいくらでもできるが、体温も生活も感情もない。たとえば、「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「インフォメーション」「マテリアル」「グローバル化」「トレンド」「セキュシャリティ」「パートナー」「コンタクト」「イニシアチブ」「ソリューション」などなどだ。
これらはその用語を発しさえすれば、それにまつわるいっさいの状況の進展や当事者の方向をどこか一方に押し出していく。押し出しながら中味を充実させることなく、圧倒的な猛威を奮っていく。
読みながら、ぼくは「あらら…」と、じぶんの内面で声を発してしまう。
プラスチック・ワードとして挙げられる言葉の一群は、ぼくがつかってきた/つかっている言葉の一群である。
そして、プラスチック・ワードとしての条件、つまりそこに「共通する特徴」を、ペルクゼンは、つぎのように抽出したのだという。
●きわめて広い応用範囲をもつ。
●多様な使用法がある。
●話し手には、その言葉を定義する力がない。
●多くは科学用語や技術用語に起源をもつ。
●同意語を排除する。
●歴史から切り離されている。
●内容よりも機能を担っていく。
●コンテキストから独立していく。
●たいてい国際性を発揮する。
●その言葉をつかうと威信が増す。
「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「グローバル化」などのプラスチック・ワードとされる実例を見てから、これらの特徴をそれらに当てはめてみると、さらに考えさせられることになるのである。
さらに、つぎのような説明が加わって、プラスチック・ワードが、より具体的な「イメージ」とともに、ぼくたちに迫ってくるかのようだ。
多くのプラスチック・ワードが役所の文書、企業の計画書、流行雑誌のヘッドラインに乱れ飛んでいた。そうしたものでは、まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる。
一見、体裁はととのっているようだが、なんの説明も深まってはいない。内容がなく機能に偏り、話し手には中枢概念(プラスチック・ワード)を説明する力がない。しかも、すべてが歴史から切り離されているのだ。
「まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる」という形式が、どこか、ぼくたちの記憶のなかにも収まっているように感じられてくる。
ちなみに、この箇所につづけて触れられているように、「アメリカの民主政治・デモクラシー」を論じた、フランス人の政治思想家トクヴィルが、かつて、すでに1835年の時点で、「抽象化」「擬人化」「曖昧化」という傾向を<アメリカ英語>がもっていることを指摘していたということは、注目に値するところだ。
松岡正剛は、『プラスチック・ワールド』には煮え切らないところや説得力が足りないところ、取り逃がしているところがあるとして若干の見解を加えている。
この本自体や著者ペルクゼンの著作ぜんたいを精査的に読みこんだわけではないので、ぼくはそのことについての見解は書けないし書くべきではないと思うけれど、プラスチック・ワードの定義と実例、共通の特徴などを概観しただけでも、考えさせられることがあるし、学びを得るところがある。
ぼく自身としては、ペルクゼンが挙げるような「プラスチック・ワード」的な特徴をぼくなりの感覚のなかで感覚し、考えることによって、アイデンティティやコミュニケーションやグローバル化やマネージメントなどの内実を考察し、歴史軸をも作動させ、実際に生きることのなかに位置づけようとしてきたことを、作法のひとつとしてきたことを、ここに書いておきたい。
でも、そのような仕方は、プラスチック・ワードへの「抵抗・対抗」としてよりも、むしろ、生きることのなかで、それらの言葉の内実を深く考えざるをえないような地点におしだされることによってであったように、ぼくは思う。
また他方、プラスチック・ワードとして挙げられるような言葉が必ずしも「負の側面」だけを身におびているというのではなく、なにごともよい面とわるい面があるように、よい面としての効用・効果も発揮してきた/発揮しているようにも思ったりする(プラスチック・ワードの定義として「乱用用語」とあるように、「乱用」を避ける知性が、これらの言葉に問いを付す)。
それはたとえば、「意味が曖昧で新しい言葉」としていったん歴史的な言葉から離れ、それが鏡になることでじっさいの内実を問うという方向にゆくこともできるのではないだろうか。
「表現」について。真木悠介の表現論。- <あらわす>ことを、そぎ落とすこと。
作家のダニエル・ピンクは誰もが「セールス」をしているのだとして『To Sell is Human』という本を書いたけれど、その意味の次元と同じところで語れば、人は誰もが「表現」していると言える。
作家のダニエル・ピンクは誰もが「セールス」をしているのだとして『To Sell is Human』という本を書いたけれど、その意味の次元と同じところで語れば、人は誰もが「表現」していると言える。
毎日、至るところで、人は言葉を語り、書き、また言葉とは違う形式で表現する。
表現を手段とし、あるいは表現を作品や形あるものにおとしてゆくこともある。
じぶんが語り、書く言葉はどこか「ほんとう」ではないものと感じられることもある。
なにかを表現しようと思えば思うほどに、表現する言葉に違和感を感じてしまうこともある。
表現と<生きること>とのあいだには、緊張がある。
(語ることは、いくぶんか、裏切りである。)
真木悠介「伝言」『旅のノートから』岩波書店、1994年
詩人である山尾三省の著書の序文に、真木悠介はこのように書いている。
ことあるごとに、ぼくが立ち戻ってくる文章である。
詩人であり百姓であった山尾三省の「生」とその詩に向かいながら、「語ることが裏切りでないような言葉。生を裏切らない表現というものがあるか?」と、真木悠介は問いながら、つぎのように書いている。
表現とは、あらわす、ということである。このように理解されている。そして表現が、あらわす、ということであるかぎり、それはいつでも、いくぶんか、生を裏切る。しかし表現は、あらわれる、ということであることもできる。表現が<あらわす>ということでなく、<あらわれる>ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる。…
創ることでなく、創られること。
<あらわす>ことを、そぎ落とすこと。<あらわれる>ことに向かって、純化すること。洗われるように現れることばに向かって、降りてゆくこと。降りそそぐことばの海に立ちつくすこと。
真木悠介「伝言」『旅のノートから』岩波書店、1994年
「創られながら、創ること」は、真木悠介の思想(生き方)における、大切な軸のひとつである。
それは、近代的自我や近代芸術における「表現」や「創造」における「あらわすこと」や「つくること」という主体のあり方に対して、根源的な視点の転換である。
じぶん(「自分」という確固としたモノ)の中にあるものを外側に向けて「あらわす」、というふうに捉えられる仕方を転回させているのだ。
「表現が<あらわす>ということでなく、<あらわれる>ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる」と、真木悠介が書くとき、それはけっして言葉遊びなどではない。
ここでの対象人物である山尾三省はもとより、宮沢賢治などが降り立ってゆく<降り注ぐことばの海>に、真木悠介は実際に深く触れてきている(※また、真木悠介の言葉自体も<あらわれる>ところに向かって純化されてきている)。
真木悠介は別のところで「詩人とは、ある現代の詩人のいうように、<自分と世界との境目がはっきりしない人間>として定義される…」(『自我の起原』岩波書店)と書いている。
<自我と世界との境目がはっきりしない>場所は、そこから言葉を<あらわす>ような場所ではなく、そこから言葉が<あらわれる>ような場所である。
このような言葉たちに触れながら、ぼくは「表現」ということをかんがえる。
レストランで、「何を食べますか?」と聞かれるときの応答。- 文化と文化の<はざま>で。
海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。
海外に住んでいて、例えばレストランに招待され、「何を食べますか?」と聞かれる。
あるいは、家にお邪魔していて、「何をしたいですか?」と聞かれる。
もし、あなたが、このような状況であれば、どのように応答されるだろうか。
この質問文は、厳密には、「あなたは…?」というように、「あなた」が主語として話される。
「あなた」の意向が問われている。
当たり前と言えば当たり前だけれども、日本で生まれ育ってきた人たちにとって、慣れない内は、応答するのに難しかったりする。
応答すること自体が難しいというよりは、適切に応答することが難しい。
日本であれば、応答は、例えば、レストランの設定では、「何でもいいですよ」とか、「何でも結構です」とか、「お任せします」とか、「同じもので」とかであったりする。
それは、日本であれば(あるいは海外でも日本的な場であれば)、ふつうの応答である。
けれども、海外(場所と状況によっても違うのだけれど)においては、上述の通り、「あなた」の意向が問われている。
だからといって、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、なかなか出てこなくて、より意識的に言葉を表出することになってしまう。
心理学者の河合隼雄は、自らの体験をベースに、これらのことを語っている。
…たとえば、私の子どもがスイスの幼稚園へ行っておりましたので体験したことですけれども、幼稚園に子どもが入ってくるでしょう。そしたら、先生が待っていて、入ってくる子に、「きょう、何したい?」と聞くんですね。その子が「ぼく、ブランコする」と言ったら、「はい、ブランコのほうに行きなさい」。その子が「絵をかきたい」と言ったら、「はい、絵のほうに行きなさい」と、こういうふうに言うわけです。
ところが、その先生が言われるのは、私の子どもというのは「何をしたい?」と聞いてもなかなか答えないんですね(笑)。「何したい?」と言っても、顔を見てニコッとしているだけです。…
河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年
これに続けて河合隼雄が語るように、日本では、「何したい」と言わないほうがよくて、「お任せします」というのは非常にうまくできた言葉として機能する。
だから、レストランにおいても、海外の人に「何にしますか?」と聞かれて、「自分はこれにします」と、すぐに言えるように、日本人は訓練されていない。
…われわれというのは、大人になっても、いつも「お任せします。どうぞ、どうぞ」とみんなが言うて(笑)、何や知らん間にきまっているという……。非常にうまいと思うのですが、「何をしたい」と言うてないんだけれども、全体の中で、結局、自分のしたいことができるようにわれわれは訓練されている。
河合隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社+α文庫、1999年
一個の個人と一個の個人との関係というより、河合隼雄が挙げるように例えば「おまえとおれの仲じゃないか」に見られる二人が一緒になってしまうような人間関係ができあがっているのが、日本的であったりする(河合隼雄は、「母性的人間関係」ということで論理を展開する)。
だから、「私は…食べたい」「私は…したい」という応答は、実際の状況において、なかなか出てこなかったりするのである。
海外に住みながら、慣れを味方につけたぼくは「私は…食べたい」「私は…したい」という応答をするのだけれど、ときに日本的な応答をしてしまったりすることもある。
レストランで海外の知り合いが、ぼくに「何食べたい?」と聞いてきたときに「何でもいいよ」とぼくが答えたりすると、場の流れが滞ってしまったりする。
文化と文化の<はざま>では、いろいろなことがあって、それらは鏡のように、「ぼく」を映し出している。
香港で、「よく使われる英語表現」にみる<香港>。- 言葉に表出する、社会と生活の諸相。
香港で、よく使われる英語表現がある。
香港で、よく使われる英語表現がある。
しばしば、ビジネスやサービスにおける「書き言葉」として使われる英語表現で、フォーマルな場における通知(アナウンスメント)に使われたりする。
香港に住んでいらっしゃる方、香港に住んでいらっしゃった方は、ぜひ、少しばかり、かんがえてみてほしい/思い出してみてほしい。
どの英語表現だろうか、と。
なお、よく使われる英語表現の「統計数値」があるわけでもなく(少なくとも、ぼくは知らない)、ぼくが10年以上にわたって、ここ香港に住み、仕事をしてきたなかで、よく接してきた英語表現である(今回のこのブログのポイントは、その「正確性」ではありませんので、そこはあらかじめご了承ください)。
香港で、よく使われる英語表現(しばしば「書き言葉」としての英語表現)として、つぎのものが挙げられる。
「Sorry for any inconvenience caused.」
日本語に訳すとすると、「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。」である。
なにか、不便や面倒や迷惑をかけるような事態(小さなことから大きなことにいたる事態)を引き起こしたとき、文面の最後に(あるいは通知などの最後に)、この言葉がおかれる。
eメールのやりとりでも、この言葉が使われることがある。
じぶんの「海外生活」をふりかえってみて、香港以外で、ぼくはこの言葉を使ったり、目にした覚えがない。
ニュージーランドでも、西アフリカのシエラレオネでも、東ティモールでも、英語のやりとりにおいて、ぼくはこの表現を使ったことはない(少なくとも使った覚えがない)。
ぼくの体験・経験上のこととして、この英語表現は、「香港」で、よく使われる表現なのである。
この英語表現におけるキーワードのひとつは、「香港」という社会と生活を軸にかんがえると、「convenience」ということであるかと思う。
この英語表現に表出されているのは、「convenience」(便利さ)ということにかけられている、社会や生活のエネルギーである。
香港という社会とそこでの生活は、とにかく、「便利さ」において突出している。
社会システムのさまざまな側面が、この「便利さ」に向けて、構築されてきたようなところがある。
街の構造も、交通機関の作られ方も、政府関連の手続きも、便利なのだ。
そして、この「便利さ」と重なり合いながら、「スピード(迅速さ)」があることで、変わり続け、止まることのない、香港のダイナミズムをつくりだしている。
だから、この「便利さ」を阻害するようなものやことがあったとき、そこに注がれてきたエネルギーが突如にせき止められて、フラストレーションを起こす。
そのフラストレーションをおさえるかのように、「Sorry for any inconvenience caused.」の表現が投げかけられるのだ。
この表現の多用は、「convenience」(便利さ)に注ぎ込まれる社会や人の力の強さを逆に表出しているように、ぼくには見える。
こうして、「Sorry for any inconvenience caused.」の表現は、今日も、そこかしこで、使われているのである。
竹内敏晴のレッスンにおける「たった一つの出発点」。- ルソーの言葉に混乱しながらの、気づき。
竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)。
竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)。
その竹内敏晴が、ルソーの晩年の作品『孤独な散歩者の夢想』のある箇所を読んでいて「ぎょっ」とした体験を、著書『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書、1990年)のなかで、書いている。
この言葉に、かなり長い間、竹内敏晴はこだわりつづける。
まずは、その、ルソーの言葉である。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
「したいことをすること」ということが自由であることだと思っていた竹内敏晴は、これ以後、「欲しないことをなさないこと」という言葉にこだわりつづけてゆく。
「竹内レッスン」と呼ばれる、「からだ」と「ことば」のレッスン(「話しかけ」のレッスン、「並ぶ」「触れる」「押す」レッスン、緊張に気づくレッスン、声とことばのレッスン、「出会い」のレッスン」など)という、「人が変わること」の具体的な方法を展開しながら、竹内敏晴はルソーの投げかけたことばの「意味」を問うことをしていったのだ。
竹内敏晴はそうして、じぶんなりの「気づき」を得てゆくことになる。
…したいことは容易に見つからないが、したくない、って感じは、人はすぐ感じとることができる。たとい単なるわがままだと言われるような次元のことでも、たしかに、そこに、その人がいるのだ。それを大切にすることから出発すれば、自分が現れてくる。見えてくるのではあるまいか。むしろ、現代では、まじめな人ほどやっていることを自分が好きか嫌いかなどと感じてみようともせず、ただやらねばならぬことだから一所懸命にやる、という訓練のうちにからだを凝り固まらせてしまっているのではないか。
竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』講談社現代新書、1990年
そうして、竹内レッスンの場にいる間は「イヤなのか好きなのか」を、からだに問うということをして、「イヤなことは捨てる」ということをしようとする。
そのことが、<たった一つの出発点>なのかもしれないと、竹内敏晴は書いている。
「ただやらねばならぬことだから一所懸命にやる」という<身体たち>をいっぱいにつくりだしてきた「社会」は、竹内敏晴がこの文章を書いた1990年頃以降も手をゆるめることなく、一見自由に見える個々人の身体たちを凝り固まらせているように、ぼくには見える。
それらに気づき、ときほぐし、「イヤなことは捨てる」という消去法を出発点としてきた竹内敏晴の方法に、ぼくは惹かれる。
じぶんに何かを「加えること」ばかりを推進する社会の力学から解き放たれ、消去法のうちに、じぶんの「からだ」と「ことば」に向き合う。
「消去」は、「加えること」よりも、時間も労力も要するものかもしれない。
でも、「じぶんを生きていく」ということにとって、それは大切なことであり、竹内敏晴が言うように、ある意味で、<たった一つの出発点>でもあるかもしれないと、ぼくは思う。
ルソーの考えていた「人間の自由」。- 『孤独な散歩者の夢想』におけるルソーの、思いがけない言葉。
東ティモールで心を揺さぶられた「挨拶」について書いたブログで触れた本、竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』。
東ティモールで心を揺さぶられた「挨拶」について書いたブログで触れた本、竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書、1990年)。
この本を読んでいて、竹内敏晴(1925-2009)自身が「ぎょっ」となったように、ぼくも「ぎょっ」とした。
それは、ルソーの晩年の作品『孤独な散歩者の夢想』における、つぎの箇所を読んだときのことである。
竹内敏晴はその箇所を読んでいて「ぎょっ」としたと書いていて、ぼくも「ぎょっ」として、すぐさま『孤独な散歩者の夢想』の本をひらいて、その箇所を読み返してしまった。
…人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
「したいことをすること」に人間の自由があるんじゃないかと思っていた竹内敏晴と同じように、ぼくも漠然と、「自由」という近代を導く理念が、この理念の生成に多少なりとも影響を与えたであろうであろう人物によって、「したいことをすること」の方向に(も)語られていたのだと思っていた。
「自由論」ということを研究していたときがぼくにはあって、その記憶では、西洋的な歴史の文脈においては、たしかに「~からの自由」、いわゆる「消極的な自由」が表舞台に出てきていた側面がある。
「~への自由」という「積極的な自由」は、ときに危険なものとしてかんがえられたりしてきた。
ルソーは、自由という言葉が観念論におちいる手前のところで、そのことを、実際の「関係」のなかで、たとえばじぶんが社会から放逐されたという状況のなかで語っている。
孤独な散歩者の夢想として。
…この自由のために、僕は同時代人から最もはなはだしく誹謗を受けもしたのである。つまり、活動的で、撹乱的で、野心的な彼らとしては、他人のうちに自由を憎み、自分自身に対しても自由を欲することなく…一生涯、窮屈を忍んでも自分のいやなことをなし、命令するためには、どんな卑屈なことも辞さなかったのである。だから、彼らの過誤は、僕を無益な一員として社会から遠ざけたことでなくて、有害な一員として社会から放逐したことだったのだ。
ルソー『孤独な散歩者の夢想』青柳瑞穂訳(新潮文庫)
このような文脈のなかに、ルソーは、人間の自由は、「自分の欲しないことをなさないことにある」と語っている。
消極的自由(~からの自由)は、たとえば政府や制度や他人から干渉されない自由であり、ルソーの語る「人間の自由」は、他者たちからの自由に加えて、<じぶん自身からの自由>とでも呼ぶべき自由を含んでいる。
そのことは上にとりあげたルソーの文章において、ルソーと対置されている「彼ら」の特徴と比較することで見えてくる。
「彼ら」は、「他人のうちに自由を憎み、自分自身に対しても自由を欲することなく…一生涯、窮屈を忍んでも自分のいやなことをなし、命令するためには、どんな卑屈なことも辞さなかった」ような人たちである。
ここで「彼ら」は、じぶん自身を押さえ込み、抑制・抑圧していくものたちである。
ルソーの視点からは「人間の自由」がないもの、つまり「欲しないことをする」ものたちである。
そういう「彼ら」が、「他人のうちに自由を憎み、…命令をするためには、どんな卑屈なことも辞さなかった」という描写は、現代にも通じることを語っているように見える。
養老孟司が、インタビューの中で語っていた言葉が、ぼくのなかで重なってくる。
…日本は律儀な社会です。それが裏返って気持ち悪いことになるのです。自分が我慢してやっている人は他人にも我慢させる。それが怖いんです。…この強制が日本の場合、一番キツいですね。
養老孟司インタビュー「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号
「近代」の創世記にルソーによって語られていた「人間の自由」のことが、「近代」の原理が成熟してきた現代という時代においても、あるいは現代という時代だからこそ、その「意味」が表出されるようなところにきている。
ところで、冒頭の竹内敏晴がルソーの言葉に「ぎょっ」として出会って、「からだ」と「ことば」という次元において「自分の欲しないことをなさないこと」のことばをかんがえつづけたなかで、どこに「方向性」を見出したのか、このことは別のブログで書こうと思う。
「挨拶」のことばの届き方。- 東ティモールでの挨拶の「声」と「ことば」に心身を揺り動かされて。
東ティモールに住んでいたときに、ぼくの心身が揺さぶられたこととして、「挨拶」ということがあった。
東ティモールに住んでいたときに、ぼくの心身が揺さぶられたこととして、「挨拶」ということがあった。
挨拶のことばの響き方であり、より正確には、挨拶のことばの「届き方」であった。
「届き方」ということは、ある人がある人に挨拶のことばを届けるとき、その「ことば」がどのように伝わってゆくのかということである。
東ティモールの人たちの「挨拶」は、そのことばと響きが、直球で、かつそこに生きることの原初的な歓びをもって、ぼくの心身に伝わってくるような、そのような挨拶のことばであった。
東ティモールで話される言語は「テトゥン語」と呼ばれる言語である。
しかし、日常に交わされる言葉の中には、東ティモールの歴史の足跡を残すように、ポルトガル語、またインドネシア語が、いろいろな仕方で混じってくる。
「挨拶」のことばも例外ではなく、ポルトガル語の「おはよう」(Bondia)などがふつうに使われる。
例えば、「おはようございます。お元気ですか?」は、「Bondia. Diak ka lae?」のように会話される。
このような言語の使われ方もまた興味をひくところであるけれども、ぼくをとらえてやまなかったのは、そのことばの「届き方・届けられ方」であった。
挨拶のことばが発音されるときの「声の大きさ」が、まずは大きいこと。
お腹の底から響いてくるような声の大きさと響きは、例えば「ボソボソとした挨拶」に慣れてしまっている身体には、ひとつの驚きのようなものとしてやってくる。
ただ、声が大きいだけであれば、そのような人たちは世界のどこにもいるから、「驚き」で終わってしまっただろう。
「驚き」を超えて、それがぼくの心身を深く揺さぶったのは、挨拶のことばが、じぶんに伝わってくるときの「伝わり方」である。
竹内演劇研究所を主宰していた竹内敏晴(1925-2009)は、幼い頃の難聴とことばの困難のなかで、じぶんの声とことばが「ひらかれる」ことの経験とメルロ・ポンティの現象学を基礎にして、<からだとことばのレッスン>を展開していった。
竹内敏晴は、人間のからだのぜんたいが他者にいきいきとはたらきかけることにおいて、その現象の音声的なパートが「声」や「話しことば」であるという認識に立っている。
そんな竹内敏晴の<からだとことばのレッスン>のなかに、「話しかけのレッスン」というレッスンがある(竹内敏晴『<からだ>と<ことば>のレッスン』講談社現代新書、1990年)。
その形式のひとつは、四、五人の人に好きな方向を向きながら床に座ってもらい、二~三メートル離れたところにいる人がそのうちの一人に短いことばで話しかけ、座っている人たちのなかで「話しかけられた」と感じた人は手をあげるというものだ。
とても「簡単な」レッスンの形式なのだけれど、内実はそれほど容易ではないようだ。
聞き手は「話しかけられた!」とはすぐにはならず、発話されているにもかかわらず声がじぶんに届いてこない。
聞き手の感想は、たとえば、「声がじぶんの手前で落ちた」とか、「みんなに言っているようだ」とか、「通り過ぎて行った」とかである。
竹内敏晴は、このことについて、つぎのように書いている。
声が私まで届いて来ない、とか、もっと手前で落ちてしまった、とか言うけれども、考えてみると、声そのものはちゃんと聞こえているわけだ。文としてのことばの内容も理解できている。にもかかわらず、自分に話しかけてくれてるかどうかと耳を澄ましてみると、さまざまに違った形が見えて(聞こえて)くる、ということは、話しかける、とは、ただ声が音として伝わるということとは別の次元のことだということだろう。
…即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。声はモノのように重さを持ち、動く軌跡を描いて近づき触れてくる。いやむしろ生きもののように、と言うべきであろうか。
竹内敏晴『<からだ>と<ことば>のレッスン』講談社現代新書、1990年
竹内敏晴の実践と生きられる理論は鮮烈である。
東ティモールでの、ぼくの経験も、竹内敏晴の<眼>で見てみると、その一端をつかむことができるように思う。
東ティモールでぼくに届けられる「挨拶」のことばは、もしそれが「話しかけのレッスン」の場であったとしたら、「聞き手」のぼくは、話し手の声が発生されるやいなや、すぐさまに「話しかけられた!」と手を挙げることができるような声であり、ことばであった。
そのような「挨拶」のことばに、いつしか、ぼくの身体もつられるようにして、同じような挨拶のことばと声を、他者たちに届けていた。
東ティモールの同僚たちに向かって、あるいはコーヒー生産者たちの村々に入っていってときに彼(女)らに向かって、竹内敏晴が言うように、まるで声が「モノのよう」であるように、ぼくは挨拶のことばを届けた。
そして、そのような<ひらかれた身体>が、心のひらかれ方にも通じているように、ぼくは感じたものだ。
東ティモールでの挨拶の「声」と「ことば」は、このようにして、ぼくの心身を、根底から揺さぶったのであった。
文章の「短さ/長さ」と呼吸。- 「呼吸の浅さ/深さ」という切り口。
ずっと昔のこと、まだ学生の頃だったと思うけれど、文章を書く際に、文章を「句読点」で短く切ってゆくことを指導/勧められたことがあって、そのことが「理解できる部分」と「納得できない部分」が混在しているような感覚を、ぼくはその後もつことになった。
ずっと昔のこと、まだ学生の頃だったと思うけれど、文章を書く際に、文章を「句読点」で短く切ってゆくことを指導/勧められたことがあって、そのことが「理解できる部分」と「納得できない部分」が混在しているような感覚を、ぼくはその後もつことになった。
そのような、どこか納得しない気持ちが晴れたのは、真木悠介のことばにおいてであった。
真木悠介は、鳥山敏子との対談(1993年頃の対談)において、「メディアのことば」に触れて、つぎのように話をしている。
句読点という話でいうなら、いまのメディアのことばというのは、句読点をとにかく要求されるんだ。新聞の文体というのは短くないとだめなんだ。…切れるところで切らなきゃだめだと。そういう圧力があるんだ。現代の、社会のなかにね。
…ぶつぶつ無差別に切ってしまう。わかりやすくなるように見えて、だいじなことは伝わらないんだ。ひっかからないから。……ひっかかることがだいじなんだ。…ほんとにいい悪文というのがありますよね。マスコミは一律に悪文を拒否してしまう。マスコミの文章は、呼吸の浅い読者に合わせてあるんだ。急いでいる人に。
真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること』太郎次郎社、1993年
この対談の会話を読みながら、ぼくのなかで、すーっと、あの、どこか納得できない気持ちが晴れたことの感覚を、今でも覚えている。
「短い文章」が悪いということではなく、さまざまな文章たちを一様/一律に(無差別に)区切ってしまう仕方に問題があり、またその背後にながれる「社会の圧力」は問われるべきところである。
そして、ぼくが気にかかったのは、「呼吸の浅さ」ということであった。
文章の「短い/長い」が、「呼吸の浅い/深い」ということと連関している面が少なからずあるだろうということに、ぼくの感覚は「納得」をしたのであった。
(経済成長を最優先とする)「社会」のあらゆる局面において求められるのは、分単位で動く世界のリズムに合う「短い文章」であり、それぞれの個人の「だいじなこと」ではない。
そのような「圧力」のなかで、(教育の場を含めた)社会のすみずみまでに、短い文章が求められてきたことが、ぼくはわかるような気がしたのだ。
だからといって、「長い文章」が必ずしもよいということではなく、「短い文章/長い文章」を時と場合によって<自由自在>に行き来できることが大切である。
あるいは、もう少し先をいけば、「短い/長い」という長さによらずに、個人がそれぞれに、<じぶんの文体>を生きていけるようなところがくるとよいと、ぼくは思う。
論理の飛躍だと思われるかもしれないけれど、社会における<多様性・ダイバーシティ>は、そのようなところとも関わってくるだろう。
また、それは、「呼吸の深い」生き方や働き方「も」、とくべつなこととしてではなく、ひとつのあり方とされることでもあると思う。
この対談が行われた1990年代前半と比較してみると、現代の人たちと社会は、日々の「呼吸の浅さ」にたいして、いろいろな仕方で対処しようとしてきている。
近年(ふたたび)注目されてきた「メディテーション」や「ヨガ」などは、その本質において、「呼吸をととのえる」「呼吸をゆっくりと意識しながらする」ということでもある。
このブログを「文章の短さ」ということから書き始めたけれども、それは呼吸の浅さ/深さということであり、それは生き方や働き方とも密接につながってくるものである。
そのような「ぜんたい」が、太い線としては、あらゆる変遷を遂げてきているのが「現在」であり、ぼくたちは、そこにさまざまな気づきを見つけ、さまざまな方法とあり方をインストールしてゆくことができる。
「ことば」/「かんがえること」と「疲れ」。- 書くこと/読むことの<方向学>。
コラム「おとなの小論文教室。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」で書いている山田ズーニーが、「Lesson 880」のコラムで、下記のタイトルのもとに書いている。
コラム「おとなの小論文教室。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」で書いている山田ズーニーが、「Lesson 880」のコラムで、下記のタイトルのもとに書いている。
おもしろい視点であり、その詳細については山田ズーニーの「ことばの世界」へと足をふみいれていただくのがよいかと、思う。
「書いて疲れる時は、どこか嘘をついている」(そのコラムの内容ではなく)を目にして、ぼくの頭の中に浮かんできたのは、思想家であった吉本隆明の「疲れ」である。
山田ズーニーと吉本隆明がつながっているわけでもなく、このコラムの内容と吉本隆明の書くものがつながっているわけでもなく、ただ、タイトルを見たときに、ぼくの頭の中の「回路」で、つながっただけである。
つながっているのは、「ことば」や「かんがえること」(またそれらを書くこと/読むこと)と「疲れ」のことである。
吉本隆明は、著作『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫)の「あとがき」のなかで、おおよそ、つぎのようなことを書いている(と記憶している)。
この著作の執筆においては、どんなに仕事で疲れていても、夜、もどってきては、すーっと、その世界にはいっていける。
宮沢賢治の世界やことばは、そのようなものであると。
そこは、吉本隆明にとって、「疲れ」が解き放たれてゆくところ/解き放たれてあるところであったのだ。
ぼくは、このことを、真木悠介(社会学者の見田宗介)が、朝日カルチャーセンターの「宮沢賢治」にかんする講義で語るのを聞いて、知った。
じぶんが書きたいこと/読みたいものの方向づけをしてゆく際に、つまり<書くこと/読むことの方向学>としてかんがえる際に、吉本隆明が語るところは、ひとつの、ある方向性を指し示している。
どんなに疲れていても、いつだって、ぼくたちが入っていきたくなる「ことば」や「かんがえること」の世界。
そしてその「世界の入り口」をとおる足取りはかるく、また歩いてゆくと、じぶんが解き放たれてゆくようなところ。
言い方を換えれば、ことばがことばでなくなり、<じぶん>がひらかれてゆくところ。
見田宗介(真木悠介)は、名著『宮沢賢治』(岩波現代文庫)に「現代文庫版あとがき」で、つぎのように書いている。
宮沢賢治、という作家は、この作家のことを好きな人たちが四人か五人集まると、一晩中でも、楽しい会話をしてつきることがない、と、屋久島に住んでいる詩人、山尾三省さんが言った。わたしもそのとおりだと思う。
<近代>という時代が成熟し、解体し、その彼方までも、この作家は「古くなる」ということがないのはどうしてか、という問いひとつをとっても、話はつきることがない。…
見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫
「会話(話)はつきることがない」とは、「疲れない」ということでもある。
そのような<方向性>に、ぼくたちは、<じぶん>をひらいてゆくことができる。
「現実を見なさい」という言葉の力学。- 日常のことばに潜む、ひどく狭い世界観。
日常の会話のなかで、「現実を見なさい」とか、「現実的には」とか、「現実的じゃないよね」とか、「現実主義だからね」という言葉を聞くことがある。
日常の会話のなかで、「現実を見なさい」とか、「現実的には」とか、「現実的じゃないよね」とか、「現実主義だからね」という言葉を聞くことがある。
このような会話に託されている「現実」という言葉の使われ方は、その言葉をひどく狭いものにしている。
この言葉の前提には、「現実」という世界が確固なものとしてあるような世界観が敷かれている。
そしてそれは、みんなが共有する、ただひとつの「現実」世界のように感覚されている。
しかし、ぼくたちが視る「現実」は、ひとりひとりで異なるものだ。
同じ場面、同じ風景、同じ画面を観ていても、そこに居合わせた人たちは「異なる」事象を観ている。
つまり、ポイントを並べてみるならば、
- 「現実」はただひとつではないし、
- 「現実」は人それぞれに違う。また、
- 「現実」はそれぞれの人がつくりだす「世界」である。
じぶんが(深いところで)信じている「世界」が、じっさいに、じぶんの前に現前してゆく(言葉を変えれば、そのように、じぶんは「世界」を視る)。
日常会話で交わされる「現実」という言葉は、往々にして、ひどく狭い意味と世界観に押しこまれていることになる。
それは、「食べていける」「お金がかせげる」「生活をまかなえる」などの視点で切り取られた世界観を下敷きに、「現実的/現実的でない」の境界線が日々引かれ、強化され、あたかも、「現実」という世界があるかのように、ふるまっている。
このような世界観のもとに、人的な資力を尽くして社会的に推進されたのが、「高度成長期」であったということもできる。
しかし他方で、そのように、ひどく狭い意味と世界観に押しこまれた「現実」という言葉は、じっさいに、多くの若者たちの夢を打ち砕いたり、心の奥底に抑圧するための、呪文のようなものとしてありつづけてきた。
もちろん、局所的にみれば、「サバイバルとしての現実」という状況が、個々の人たちの生きる過程で現れたりする。
しかし、だからといって、それがすべての「現実」ではないし、時代は変遷してゆくものでもある。
「現実」の三つの反対語ー「理想」「夢」「虚構」ーをもとに、日本の時代の変遷を論じた見田宗介の論考(『社会学入門』岩波新書)が示唆しているように、言葉は、それぞれの時代の状況と感覚に支えられているものでもある。
そのようにして視野をひろげてみると、狭い意味に押しこまれた「現実」という言葉が、ぼくたちの日常の会話で、あたかも真実であるかのように語られることの力学(とその強さ)に、おどろかされる。
そして、時代が変遷してゆくなかにおいても、そのような言葉が、その言葉の語る「現実」を生きてきた者たちによって、ときに、語られつづけている。
そのような「共同幻想」の強固さが、「安定」であるかのように見える世界を形づくっていたりするのである。
ひどく狭い意味におしこまれた「世界」の殻を、内から破っていくことが、これからの未来をつくってゆく原動力となる。
理想や夢などを「現実化」してゆく力である。
<ふるさと>としての言語。- 海外に住みながら「日本語」に感覚していたもの。
2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。
2000年代初頭から半ばにかけて、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたとき、「日本語」にふれることは、ぼくが<ほんらいあるところ>に戻ってくるような感覚を、ぼくは抱いた。
それは、まるで、<ふるさと>に戻ってくるような感覚である。
当時、同僚や友人などと日本語で話すことはあったけれど、週の多くの時間を日本人1人で過ごし、生活と仕事の大半は英語(また東ティモールではテトウン語)であった。
通信環境のこともあり、インターネットで自由に日本語にふれることはできなかった。
西アフリカのシエラレオネのときは、公共の水も電気もないところにいて、もちろん通信も限られており、仕事の隅々まで英語であったから、「日本語」にふれることは、<ふるさと>に戻ってきたような安心感を感じたものである。
じぶんにとっての、いわゆる<ふるさと>とは、「日本語」ではないかと、本気でかんがえていたときもあった。
小説家の村上春樹は、40歳になる前にヨーロッパで3年間ほど、「やむにやまれぬ」滞在をすることになる。
その滞在において、村上春樹は、小説などのほかに、常駐的旅行者としての文章スケッチを継続してつけてゆくことになる。
…僕にとってはその継続そのものの中に、これらの文章を途切れ途切れではあるにせよ書きつづけるという行為そのものの中に、意味があった。流離うヨーロッパの僕は、これらの日本語の文章を媒介として、流離わない日本の僕と心を通じあわせていたのだ。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
このように、日本語の文章を「媒介」として、「日本の僕」と心でつながっていたと、村上春樹は書いている。
「シエラレオネの僕」は日本語に雑誌や書籍でふれることはあっても、しかし逆に、(仕事以外の)日本語の文章が書けなくなってしまった。
仕事へのコミットメントと忙しさは大きな理由であったけれど、シエラレオネで日々出会う出来事に、ぼくは全存在において、圧倒されていたのだと思う。
それでも、日本語の文章を読むとき、ぼくは<ふるさと>に戻ってきたような感覚を感じたことを覚えている。
それにしても、<ふるさと>のような感覚はどのような感覚に支えられていたのだろうか?
まず第1に、ぼくの<身体としてのことば>を取り戻す感覚であるのかもしれない。
「ことば」は、「はじめにことばありき」ではなく(それは「文明世界のはじまり」であったけれど)、原初においては「音」であったはずである。
ことばと身体がひとつのものとしてあるような「音」。
日本語を使うことで、ぼくのなかで幾分か、ことばと身体のつながりが取り戻されたということである。
第2に、日本語で語られる「世界」に戻ってきた感覚であるのかもしれない。
人は外部世界を視るときは、じぶんの感覚とともに、「ことば」を通して視ている。
「ことば」がなければ、「世界」を形づくられる仕方は、ずいぶんと違ったものである。
「日本語の世界」に入ることで、ぼくの周りにひろがる「世界」は、それまで親しんでいた「世界」の様相を帯びる。
第3に、それは「懐かしさ」の感覚であるかもしれない。
懐かしさは、その本質において、<ふるさと>に戻ってくる感覚である。
<ふるさと>とは、そこを離れる者たちによって感覚されるものである。
地元を離れて東京に行った者が、地元を<ふるさと>と感覚する。
同じように、日本語を離れる者が、日本語を<ふるさと>として感覚することになる。
そんなことをかんがえるここ香港では、しかし、そのような鮮烈な感覚はない。
香港のいろいろなところに「日本」が存在しているからかもしれない。
以前にも増して、インターネット上で、「日本語の世界」を自由に旅することができるからかもしれない。
日本語の電子書籍で、すぐに日本語の書籍を読むことができるからかもしれない。
あるいは、海外で長く住んでいるうちに、英語がぼくの身体と、いくぶんか融合しているのかもしれない。
さらには、「日本の僕」を超えてゆくようなところに、じぶんが解き放たれているからかもしれない。
そのような<地点>から、日本語が<ふるさと>ではないかと感覚した、シエラレオネと東ティモールの日々が、懐かしく思い出される。
「仁義」ということを「大道」(老荘思想)の水面にうつしてみる。- 見田宗介が読みとる人間の歴史と仁義。
見田宗介著作集を読み返していたら、以前はさっと読み進めていたのだろうけれど、今読むと、ぼくに「せまってくる」エッセイがある。
見田宗介著作集を読み返していたら、以前はさっと読み進めていたのだろうけれど、今読むと、ぼくに「せまってくる」エッセイがある。
「仁義について」というエッセイで、初出は1972年となっている(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』)。
当時の若者たちのあいだで、「義理人情」があらたに人気になっている状況で書かれ、しかし、ミクロとマクロ(超マクロ)を自由自在に行き来する見田宗介の視野は、「人間の歴史」にひろがりをみせながら、この「義理人情」ということに独特の光をあてている。
「義」という観念について、古代中国、とくに儒教における「仁・義・礼・智・信」という、日本でもよく知られている徳目から、見田宗介はまずふれている。
この教えに対して、儒教を批判する老荘思想においては、「大道すたれて仁義あり」ということが対置される。
「大道」とは、「人間と自然、人間と人間との原初的な融合・調和の世界」(※前掲書)であるという。
つまり、融合・調和の世界がうしなわれたとき、「仁・義」というものがもちだされてくる。
仁・義がもちだされてくる状況は、すでにして、原初としての「大道」がすたれている状況であるというのである。
日本における「義」の観念の展開について、見田宗介はつぎのようにまとめている。
義という観念は日本にきて「義理」として具体化される。それは日本の古代世界が解体し、実力と実力とが相争う武士の時代になって、しかもその武士がたがいに固く結束しなければ生きぬいてゆけないところで、そういう主従や同輩の結合をひきしめるきずなとして発展してきた。「義理」のおきてのきびしさは、暗黙の共同性のいまや解体するときに、実力競争の原理というあたらしい遠心力に対抗するための、集団の求心力のきびしさであった。「義理」が強調されるとき、じつはそこには、謀反へのひそかなおそれがすでに伏在しているのである。
見田宗介「仁義について」『定本 見田宗介著作集X』
日本における「義理」ということの展開と本質が、ここに見事にまとめられているように、ぼくは思う。
見田宗介は、さらに、「仁義すたれて…」と言葉を紡ぎ、近代社会のシステムを具体的につくりあげてきた「合理と契約」の世界を「…」にもってきている。
このことは、近代・現代社会を生きる人たちにとっても、日常の体験としているところであったりする。
ビジネスや組織を生き、そして語るときに、「仁義の世界」と「合理と契約の世界」を軸にすることがある。
そこからさらに、「合理すたれて…」と、「暴力」が代入される。
こうして、見田宗介は、つぎのように太い線で、人間の歴史をみている。
大道すたれて仁義あり、仁義すたれて合理あり、合理すたれて暴力あり、というふうに人間の歴史はたどった。
見田宗介「仁義について」『定本 見田宗介著作集X』
「仁義」ということを手がかりに、この太い線で把握する「人間の歴史」を見晴るかす視野は、鮮烈である。
なお、この流れは「太い幹」なようなものであり、仁義や合理や暴力だけがそれぞれの時代を完全に彩っているものではない。
他者たちの言葉にふれながら見田宗介が語るように、いつの時代にも「大道」は生きつづけている。
しかしながら、見田宗介は、「暴力すたれて大道あり」と、流れが円環するかどうかは「よくわからない」と、書いている。
よくわからないけれど、「思う」ところは、若者たちが幻想しているのは、この「大道」であるとしている。
この文章が書かれたときから40年以上経過し、この「思う」ところは、ますます目にみえるようになってきているように見える。
「大道」、つまり人間と自然、また人間と人間の融合・調和の世界をもとめる人たちが、ますます増えてきているのだ。
「義理人情」が描かれる世界に、ときおり、ぼくは魅かれてもきた。
昔の時代の日本を描く小説にあらわれる、義理人情の世界に、あこがれのようなものを抱いたりするのだ。
しかし、そのような「義理人情」「義理」「義」などは、ぼくのなかに、拘束されるような息苦しさを感じさせもする。
老荘思想の提示する<大道あり>の視点は、仁義よりも原初のものとして、仁義というものの、この<両義性>をうつしだす水面のようでもある。
ぼくがもとめる、仁義というものの肯定的な側面は、おそらく、「大道」ということのなかにある、人間と自然、人間と人間の融合・調和の世界なのではないかと、ぼくは思ったりもしている。