香港, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港で、「酷暑警報」(Very Hot Weather Warning)に学んだこと。- 日本の「熱帯夜」との間(はざま)で。

日本のニュースを見ていて、「熱帯夜」という言葉を見つける。東京や関東地方の暑い夏の夜を思い出す。...Read On.

日本のニュースを見ていて、「熱帯夜」という言葉を見つける。

東京や関東地方の暑い夏の夜を思い出す。

「熱帯夜」というのは、気象庁の気象用語では「夜間の最低気温が25度以上のこと」とある。

ただし、統計種目ではないようで、インフォーマル的なものでもある。

「25度以上」というのは、海外に出て連続15年ほどになるぼくの記憶の中にも残っている。

「25度」は、海外に出てから最初の内は、意識的な基準のようなものとして、ぼくの中にあったことは確かだ。

だから、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それから香港と、熱帯や亜熱帯のところに住みながら、最初は、なぜか「25度」と比較してしまうようなところがあった。

でも、そんな「25度」という意識的な基準も、海外に長く住んでいると、うすれていく。

ぼくの身体が、それぞれの環境の場に順応しながら、それなりの完結性を、その場その場でつくっていく。

香港は、今この時期、最低気温が26度とか27度である。

日本の数値基準でいけば、香港では、毎日が熱帯夜になってしまう。

ぼくの身体は恐らく、摂氏でいけば、5度くらい上の幅で、完結性をつくっている。

人間の身体の順応性には、やはり感銘を受ける。

 

「熱帯夜」という表現は香港には(もちろん)なく、代わりのものではないけれど、香港の気象庁ともいうべき香港天文台からの「天気の警報」がある。

警報により、活動や予防の注意をよびかけるわけだ。

暑さについては、英語で「Very Hot Weather Warning」、中国語で「酷熱天気警告」という警告が発出される。

「Very Hot Weather」とはそのままの表現だけれど、文字を見るととても暑そうだ。

日本語に訳すとすると「酷暑警報」だろうか。

香港天文台のホームページを見ていると、警報には明確な気温は決められていないようだ。

今朝は、早朝7時前に警報が発出され、そのときで27度くらいで、日中は33度くらいまで上がった。

また、暑さとは逆に、寒いときには、「Cold Weather Warning/酷寒天気警告」が発出されるが、それは10度を下がるあたりだ。

 

大切なことは、海外で生活していくことを、ぼくたちはこのようにして、これまでの(狭い)「世界」を相対化していくことの方法とすることができる。

日本にいるときは、本気では信じていなかったのだろうけれど、「25度」は意識的な基準として、ぼくのなかにずっしりと住んでいたのだ。

これは一例だけれど、そんなことが山ほどある。

海外で15年以上生活しながら、いまだに発見することがあるほどで、ぼくたちのマインドと身体に積み重なる「生活の地層」ともいうべきものは、何層にもわたっている。

「新しい価値観や生き方」と「古い価値観や生き方」が、これまで(の人間の歴史)に類を見ないほどに、重なって並存し、そして相克と相乗を繰り返していく時代にいる中で、ぼくたちはどれだけ順応性と柔軟性を高くもつことができるのかが問われてくる。

それは日本と海外という相対性だけではもちろんないけれど、「生き方の相対化」を生きていく経験は、ぼくたちの強い味方だ。

一度さまよいでた者は、どこまでもさまよいでることができる。

Very Hot Weather Warningが発出されている暑い香港で、そんなことを、ぼくは思う。
 

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人類の目指すべき「三代目」の社会と生き方(見田宗介)。- 「二代目の現代」、キングコング西野、香港の社会。

社会学者・見田宗介は、「三代目」という生き方、という面白い言い方で、未来の社会と生き方を構想している。...Read On.

社会学者・見田宗介は、「三代目」という生き方、という面白い言い方で、未来の社会と生き方を構想している。

未来構想を共有する上では、共有しやすい言葉やイメージが一定の役割を果たす。

「三代目」という生き方、「三代目」という社会は、イメージをつかむためにも、面白い言い方である。

もちろん、面白いだけでなく、そこに展開される論は、抜け目がない。

『二千年紀の社会と思想』(太田出版)における見田宗介と大澤真幸の対談で示されたポイントを、ここではいくつかまとめておきたい。

まずは、一般的に言われる、一代目から三代目の描写は、次の通りである。
 

1)「商売」における一代目・二代目・三代目

●一代目:猛烈に稼いで豊かな財産を築き上げる

●二代目:一代目の苦労を知り、豊かであっても、さらに稼いでお店を大きくする

●三代目:辛苦を知らず、文化や趣味に生きて散財してしまう

見田宗介は、「売家と唐様で書く三代目」という、古い日本の川柳を取り上げて、説明している。

この川柳は、三代目は、散財のあげく、一代目が手にいれた家屋敷を売りに出さざるをえなくなり、「売家」という張り紙の字を唐様で書いたということ。

つまり、「ダメな・ネガティブなイメージの三代目」である。

商売もせず、アートや遊びに明け暮れるという、ネガティブなイメージで語られてきたことは、ぼくたちのー少なくとも、ぼくのー「イメージ」にはすりこまれている。

 

2)「三代目」というイメージのラディカルな反転

「三代目」というイメージのラディカルな反転をすることの必要性、またこの「三代目の社会」こそが人類の目指すべき社会だと、見田宗介は語っている。

ラディカルな反転は、次のポイントで述べられている。

●「三代目の生き方」が人間にとっての究極の幸福であること。つまり、お金を稼いだり権力をもつことではなく、文化や自然を楽しみ、友情や愛情を深めることを、人間は本来求めていること。

●「三代目の生き方」は、資源浪費も環境破壊もしない、共存する安定平衡的な生き方であること。

「売家と唐様で書く三代目」がつくられた時代の日本は「ゆたかな社会」ではなかったことに対して、今は物質的な豊かさを獲得した時代である。

「三代目」を、ラディカルに反転させていくことができる条件が、すでに存在している時代に、ぼくたちは生きている。


なお、「社会という視点」でみたとき、一代目と二代目の社会は、次のように語られている。

●一代目の社会:貧困のなかで生まれ育ち、貧しい社会に条件づけられた欲望をもつ(できるだけ多くの財産と物質的な豊かさを望む)価値観

●二代目の社会:豊かになっても、まだ成長、成長という価値観

「現代」は、「二代目の社会」(二代目末期の社会)であると、見田宗介は述べている。
(※日本のような社会を念頭に置いて話していると思われる。)

問題は、二代目の「価値観の遅滞」ともいうべきものだという。

社会学の理論には、文化は社会構造から遅れる(「文化の遅滞」)というものがあり、見田はこれを「価値観」に転用している。
 

…いまは、二代目末期の社会という感じがするのです。成長神話から抜け出せない根本的な理由は、欲望のpersistence(粘着力)とシステムの硬直性との双方から来る「価値観の遅滞」value lagということにあると思います。

見田宗介・大澤真幸『二千年紀の社会と思想』(太田出版)

 

3)「価値観の遅滞」と「先端(三代目)の価値観」との攻防

今は、見田のいう「価値観の遅滞」と、いわゆる「先端(三代目)の価値観」とが衝突を起こしながら、社会と生き方のダイナミクスを生み出しているように、ぼくには見える。

「仕事になるまで遊べ」と、芸人であり絵本作家のキングコング西野が書くとき、それは「三代目の価値観」に生きている。

そのキングコング西野は、子供のころから決めていたこととして「世間の人はどうでもいい」とNewsPicksのインタビューで語っている。

世間ではなく「友達」を大事にしてきたこと。

西野は、見田が言うような、まさに「アート、友情と愛情」に生きてきたわけだ。

「価値観の遅滞」に生きる人たちから見れば、そのような生き方はあってはならないし、信じられない。

 

ところで、クラウドファンディングでの創造的な企画である西野の新刊は、『革命のファンファーレ』と題されている。

それは、見田宗介が言う、三代目の社会へ移行していく「可能なる革命」、また別著での「名づけられない革命」などと、呼応しているように、ぼくには見える。

「革命」という言葉は、「価値観の遅滞」をきりひらく人たちに向けて、蒔かれている。

そして、「革命」は、これまでの歴史上の(抑圧的な)革命とはまったく異なるような、それ自体が「アート、友情と愛情」をいっぱいにつめこまれた魅力的な方法である。

人類は、「三代目」社会と生き方に、どのように向かっていくことができるのか。

「価値観の遅滞」だけでなく、「システムの硬直性」という大きな課題が、現代社会にはたちはだかっている。


そんな「三代目」の社会と生き方のことを考え書いている、ここ香港は、中国への返還から二十年をむかえた。

ぼくは、その20年の内、半分の10年をここで暮らしてきた。

この10年は、「二代目」をかけぬける10年であったと、ぼくは考える。

経済成長を一気に果たしてきたのだ。

それに追随するように、人や社会の新しい動向、法律の施行・改定などが、現象してきた。

香港の経済社会は、経済格差が激しいことなどから一概には言えないけれど、その先端において見る限り、「二代目末期」に入ってきているように、ぼくは感じている。

 

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キアロスタミの、「音楽」のない映画。- 映画『桜桃の味』の世界。

昨年2016年に他界した、イランの映画監督キアロスタミ。今から20年前の1997年に、彼の映画『桜桃の味』が公開された。...Read On.

昨年2016年に他界した、イランの映画監督キアロスタミ。
今から20年前の1997年に、彼の映画『桜桃の味』が公開された。

映画『桜桃の味』は、主人公が車を運転するシーンからはじまる。
主人公は、自殺志願で、自殺を手助けしてくれる人たちを探し、物語が展開していく。

このような物語が展開される映画『桜桃の味』には、サウンドトラックのような「音楽」がない。

キアロスタミは、その理由について、「音楽」が「映像の物語」を邪魔するから、というようなことをどこかで語っていたと、ぼくは記憶している。
「サウンドトラック」は、それ自体に「物語」を宿していて、それが「映像の物語」と相容れなくなってしまうという。

「音楽」がない映像、車を運転するシーンなど、キアロスタミ独特の映画スタイルが、この映画『桜桃の味』でもみられる。

けれども、「音楽」がない、ということは、<音楽>がない、ということではない。

車の音、街の音、人びとの生活の音、自然や動物たちの声などの、アンサンブルとしての<音楽>がある。

普段の生活のなかで、これらの<音楽>をきくことができない者にとっては、映画のスクリーンという限られたなかでも、<音楽>をきくことができないかもしれない。

<音楽>をきくものにとっては、映画『桜桃の味』は、独特の奥行きをもって現前すると、ぼくは思う。

 

ポップやロックやクラシックなどの「音楽」は、ぼくたちの生において、二つの方向性をもっている。

  1. 欠如を埋めたり、補完したりする「音楽」
  2. 内に内在する生のリズム・躍動が、苦悩や歓喜として生まれる「音楽」

登場人物たちの心の機微が感じられず面白くない映画は、その欠如を、サウンドトラックの「音楽」で埋めようとするかもしれない。
例えば、人びとの「感情」の動きを、音楽の音の流れと強弱、そしてそこに流れる物語で、補完しようとする。

逆に、「生まれる」としか言いようのない、美しい「音楽」も存在する。

キアロスタミの映画『桜桃の味』は、1を避ける。

 

映画『桜桃の味』は、観る者を、映し出される生活空間と、映像に出てくる登場人物たちの「内面」に誘う。

映像にはハリウッド映画のような劇的さはないけれど、主人公の内面に内在するとき、その「世界」の動きは劇的である。

映画のモチーフである「自殺」は、この映画が上映されてから20年が経過したのちも、その統計数値は下がることはなく、上昇を続けている。

ユバル・ノア・ハラリの著作『Homo Deus』で展開されるように、人間の暴力(戦争・紛争、犯罪)で亡くなる人たちよりも、自殺で亡くなる人の数の方が多い。

ぼくが住んでいたニュージーランド、そして今住んでいるここ香港でも、自殺数の上昇が問題となっている。

ぼくが住んでいたシエラレオネや東ティモールの紛争・内戦では、ほんとうに多くの人たちが犠牲となったが、戦争のない「豊か」な国や地域の人たちは自ら命を絶つ。

  戦争・紛争で人が犠牲になった社会と、自殺で人がなくなっていく社会の往復のなかで、ぼくは考えてしまう。

そして、映画『桜桃の味』は、この情況に裂け目を入れるヒントを、ぼくたちに与えてくれることを思う。

この情況に打ちこまれた裂け目は、「音楽」も<音楽>も、人びとの生を豊饒化する世界を奏でるような世界の可能性を、すこしでも、たしかに切り拓いていくのだと、ぼくは思う。
 

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村上春樹, 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港にふりそそぐ雨に触発されて思うこと。- 「雨の楽しみ方」への想像力の獲得。

香港では、夏至にむかって、雨が降ってはやみ、やんでは降る。今年初の台風を迎えた後も、雨が香港に、ふりそそいでいる。...Read On.


香港では、夏至にむかって、雨が降ってはやみ、やんでは降る。
今年初の台風を迎えた後も、雨が香港に、ふりそそいでいる。

香港での過ごし方においては、住む場所と行く場所にとっては、雨も台風も、「避けること」ができる。
香港は、多くの建物が「屋根」でつながっているからである。

例えば、住んでいるマンション、フラットなどから、電車(MTR)の駅までつながっている。
駅の真上にマンションが位置していると、エレベーターで下におりると、すぐに駅だ。
それから、電車に乗って、目的地の駅でおりる。
その駅から、そのまま通路でつながっている仕事場やショッピングモールなどに向かう。
さらに、ショッピングモールから他のショッピングモールが、通路でつながっていたりする。

便利さと効率さが追求されている。
香港ならではの都市開発のかたちである。

養老孟司の言葉を借りれば、「脳化=社会」の徹底されたかたちでもあるように、ぼくには見える。
都市とは、「脳」がつくりあげた人工物である。
その本質は「人間のコントロール」をすみずみまで徹底させることにある。

だから、雨などの自然を含め、コントロールできないものを排除し、あるいはコントロール下におけるようなかたちをつくる。
香港の都市は、その中心部を「屋内通路」でつなげることで、自然をコントロール下におく。

脳化=社会では、自然は疎外される。
雨は、「悪い天気」である。

しかし、子供たちは、そんなことお構いなしに、「悪い天気」をのりこえてしまう。
ぼくは、繰り返し、子供たちの、この「のりこえ」に遭遇する。
「脳化=社会」と「子供たちによる乗り越え」については、別のブログにも同じ視点で書いた。

雨がふりそそぐなか、ぼくは、マンションを出て、他の棟の前を駅に向かって歩いていく。
アーケードや屋根があるから、傘をささなくても、雨をしのぐことができる。

そのうち、香港の3歳から5歳くらいの子供たちが、ぼくの視界にはいってくる。
子供たちは、レインコートを身にまとい、レインブーツをはいて、みずから、雨のなかにのりだしていく。

その眼は、雨をふらす空を見上げ、きらきらとした輝きをともしている。

雨に濡れないように、という大人たちの言葉と制止をはねのけて、雨のなかに幸せのかたちをつかむ。

子供たちは「脳化=社会」からはみでていく「自然」である。

ぼくたちは、大人になるにつれて、理性のなかで雨を疎外し、楽しみのひとつをなくしていく。

ぼくは子供に「負けたな」という思いがあるものの、やはり、極力、雨を避けようとする。


 

村上春樹の旅行記のなかで書かれる「悪い季節」の過ごし方が、ぼくの心象風景に、しずかに横たわっている。

村上春樹は「ウィスキーの匂いのする小さな旅の本」をつくるために、スコットランドのアイラ島におりたつ(旅自体は2000年よりも前のことだ)。
アイラ島はシングルモルト・ウィスキーの聖地である。

ただし、アイラ島は、夏の数ヶ月をのぞくと、気候は魅力的ではないという。
冬はとにかく雨がふり、風は強く、とにかく寒い。
それでも、この「悪い季節」にわざわざ辺鄙なアイラ島に来る人たちは少なくないという。

 

…彼らはひとりで島にやってきて、何週間か小さなコテージを借り、誰に邪魔されることもなくしずかに本を読む。暖炉によい香りのする泥炭(ピート)をくべ、小さな音でヴィヴァルディーのテープをかける。上等なウィスキーとグラスをひとつテーブルの上に載せ、電話の線を抜いてしまう。文字を追うのに疲れると、ときおり本を閉じて膝に起き、顔をあげて、暗い窓の外の、波や雨や風の音に耳を澄ませる。つまり悪い季節をそのまま受け入れて楽しんでしまう。こういうのはいかにも英国人的な人生の楽しみ方なのかもしれない。…

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫

 

雨がふりそそぐと、(天気が悪いなあという内なる声のひとつを制止して)ぼくはまず「感謝」をする。
香港の海に、香港の大地にふりそそいでいる雨に感謝する。

それから、世界のいろいろなところのことを思う。
東ティモールのコーヒーの木々にふりそそぐ雨を想像し、コーヒーの花が見事に咲くとよいと思う。
西アフリカのシエラレオネの井戸に、雨の水が、長い時間をかけて、地層に濾過されながらたまっていくとよいと思う。

感謝をしてから、ときに、「英国人的な人生の楽しみ方」にならう。
コテージも暖炉もないけれど、本をしずかに読む。

文字を追うのに疲れると、顔をあげて、窓の外にひろがる海と小さな森に目をやり、雨や風の音、鳥の声に耳を澄ませる。

子供たちのように雨のなかにとびだしていくことはしないけれど、ぼくにも「想像力」はある。
楽しみ方のかたちは、想像の彼方にまで、ひろがっていくはずだ。

そして、この想像の彼方に、「近代・現代」のあとにくる時代を準備する<萌芽>があるのだということ。
雨をふらす地球の有限性のなかに、想像力という無限の力が、いっぱいに解き放たれるのだということ。

香港にふりそそぐ雨にのって、ぼくの想像は、さまざまなイメージと思考を、ぼくの<内面の地層>にふりそそいでいる。
 

 

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香港科学館「Eternal Life: 古代エジプト展」を観て。- 「永遠の生」を希求すること。

香港にある香港科学館で、古代エジプト展「Eternal Life: Exploring Ancient Egypt」を観る。香港が中国に返還されてから20周年を迎えることを記念するイベントのひとつである。...Read On.

香港にある香港科学館で、古代エジプト展「Eternal Life: Exploring Ancient Egypt」を観る。
香港が中国に返還されてから20周年を迎えることを記念するイベントのひとつである。

展示場は、学校の社会見学で訪れている団体、家族、若者など、展示場は平日の午前でも、人であふれかえっている。

特別に開設された展示場では、大英博物館から、6体のミイラを中心に約200点がもちこまれ、展示されている。6体のミイラは、3,000年から1,800年前の時代を生きた個人たち(既婚女性、吟唱者、祭司、歌手、子供、若者)である。

CTスキャンなどの先端技術による病理学的見解、装飾品、壁画、食べ物など、展示物は多岐にわたっている。

それら展示物を見ながら、訪れる人たちは何を感じ、何に思いをはせ、何を考えているのだろう。

ぼくは以前、ロンドンの大英博物館で、これらのいくつかには出会っていたかもしれない。
でも、今考えてやまないのは、この「Eternal Life」、永遠の生という主題である。

 

1)「永遠の生」を希求すること

暗がりの展示場に足を踏み入れながら、ぼくは、「永遠の生」を希求したであろう人たちの、その生に思いをよせる。

ここの6人の人たちはどのような生をおくっていたのだろうか。
ミイラをつくり、それを見守り、その文化を支える社会はどのようなものであったのか。
人は何を恐れていたのか。
人はほんとうは何を希求していたのか。
永遠の生を希求する人たちの生は、何に支えられていたのか。

疑問と思考が、絶え間なく、ぼくにやってくる。
展示場を去ってからも、思考は古代エジプトの人たちによせられる。

古代エジプト展をみてから後に、社会学者・真木悠介の名著『時間の比較社会学』をひらく。

真木悠介は、「死の恐怖」というものを、まっすぐに見つめながら、こう書いている。
 

死の恐怖からの解放…われわれはこの精神の病にたいして、文明の数千年間、謝った処方を下してきたように思われる。まずそれを実在的に征服する試みとしての、不死の霊薬の探索やミイラ保存の技法といった技術的な解決の試行。第二にそれを幻想的に征服する試みとしての、肉体は有限であるが「魂」は永遠であるといった宗教的な解決の試行。そして第三に、それを論理的に征服する試みとしての、時間の非実在性の論証といった哲学的な解決の試行。…

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
 

真木悠介は、文明の数千年を見渡しながら「誤った処方」とする、
●技術的な解決の試行
●宗教的な解決の試行
●哲学的な解決の試行
をのりこえていく方向性を、次のように、書く。

 

…われわれがこの文明の病から、どのような幻想も自己欺瞞もなしに解放されうるとすれば、それはこのように、抽象化された時間の無限性という観念からふりかえって、この現在の生をむなしいと感覚してしまう、固有の時間意識の存立の構造をつきとめることをとおして、これをのりこえてゆく仕方でしかありえない。

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
 

このような「序章」ではじまる『時間の比較社会学』の世界に、こうして、ぼくはまた惹き寄せられてしまうのだ。
 

2)「軸の時代」(ヤスパース)と古代エジプト

人間が希求してやまない「抽象化された時間の無限性」の生成期として、見田宗介(真木悠介はペンネーム)は、カール・ヤスパースが「軸の時代」(枢軸時代)と呼ぶ時代を重ねる。

カール・ヤスパースは、著書『歴史の起源と目標』のなかで、この「軸の時代」という、歴史の素描を展開している。

ヤスパースは、紀元前800年から200年の間を「軸の時代」と呼んだ。

その時期に、キリスト教の基層となるユダヤ教、仏教、儒教のような世界宗教、古代ギリシアの「哲学」などが、一斉に生まれた。

それは、香港の展示場で展示されている、古代エジプトのミイラがつくられていた時期と重なる。

この「軸の時代」の社会的文脈として、見田宗介は、貨幣経済の成立と浸透、交易経済の成熟、都市化、共同体から外部に向かう生活世界などを見ている。


…貨幣経済と社会の都市化と共同体からの離脱と生活世界の<無限>化は、<近代>の本質そのものに他ならないから、<軸の時代>とは、「近代」の遠い起原、あるいは近代に至る一つの巨大な文明の衝迫の起動の時代に他ならなかった。

見田宗介「高原の見晴らしを切開くこと」『現代思想』Vol.42-16
 

そして、現代は、この<無限>が、再度<有限>に出会う時代である。
「巨大な文明」の岐路にある。

ヤスパースと見田宗介の「思考の交差点」(「軸の時代」と「無限性」)から、ぼくたちは、古代エジプトの人たちが希求した「永遠の生」をどのように見ることができるか。

古代エジプトの人たちが切実に希求した「永遠の生」とその根底にある「無限への希求」の行き着く先(あるいは転回)の時代に、ぼくたちは今、こうしておかれている。

人間が生きることのできる空間(とそれが産出する資源、環境)と時間は「有限」である。
 

グローバリゼーションとは、無限に拡大しつづける一つの文明が、最終の有限性と出会う場所である。

見田宗介「高原の見晴らしを切開くこと」『現代思想』Vol.42-16
 

3)「Homo Deus」(ユバル・ノア・ハラリ)と「不死」

しかし、人類の「永遠の生への希求」は、その「無限性」を、捨てていない(あるいは捨てることができない)。

ユバル・ノア・ハラリは著書『Homo Deus』で、人類が「次に見据えるプロジェクト」として、3つを挙げている。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

人類は、無限が有限に出会う現代という時代において、「不死」(永遠の生)を、霊薬やミイラではない「技術的な解決の試行」の方向性に、突き進めていく道をも選ぶ。

古代エジプトで日常に見られたであろう「飢饉」や「戦争」を解決してきた人類は、しかし、「不死」の希求を捨てていない。

ぼくたちは、このような時代の只中に、おかれている。


ところで、ピラミッド=ミイラと考えがちだけれど、ミイラは裕福な者であれば作ることができたという。

しかし、真木悠介の名著『気流の鳴る音』の「序」の最後に置かれる、ピラミッドの話が思い起こされる。

真木悠介は、エジプトではなく、マヤのピラミッド(そしてその周りにどこまでも広がるジャングル)を目にしながら、次のような想念を書きとめている。
 

…ピラミッドとはある種の疎外の表現ではなかったかという想念が頭をかすめる。幸福な部族はピラミッドなど作らなかったのではないか。テキーラの作られないときにマゲイの花は咲くように、巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれないと思う。…

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
 

この文章を、自分の心に映しながら、ぼくも同じような想念を抱く。

そして、自分の中に、「ピラミッド(のようなもの)を希求する気持ち」と「ピラミッド(のようなもの)など希求しない気持ち」の二つが、共にあることを確認する。

それは、まるで、「生の充実を『誤った処方』で追い求める自分」と「生の充実を心に感じている自分」とが、せめぎあっているかのようである。

その「せめぎあい」の落ち着かなさを、ぼくは、古代エジプト展の展示物の存在に囲まれながら、感じていたのかもしれない。
 

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、「モーニングセット」を楽しみながら。- 「香港の食堂」の風景に重なる、静かな幸せの「味わい」。

香港スタイルの「ファーストフード」チェーン店で、早朝の時間帯に、「モーニングセット」を楽しむ。香港の至るところは人で混むから、混みだす前に、店に入る。...Read On.


香港スタイルの「ファーストフード」
チェーン店で、早朝の時間帯に、
「モーニングセット」を楽しむ。
香港の至るところは人で混むから、
混みだす前に、店に入る。

ぼくはトーストとスクランブルエッグ
を食べながら、
10年程前、香港に来たときに、
朝食べたスクランブルエッグを思い出す。
これから香港に住もうと、準備をして
いたときのことだ。

そこに、ぼくにとっての香港のイメージ
が凝縮されているかのようだ。

ところで、香港スタイルの「ファースト
フード」店のメニューは、朝の時間帯も
さまざまだ。
西洋風と中華風をメインに、うどんなど
も見られる。

西洋風のモーニングセットは、通常、
・パン(一般的にはトースト)
・卵(目玉焼きかスクランブルエッグ)
・魚系か肉系
・飲み物(ミルクティ、コーヒーなど)
からなる。
卵の焼き方など、細かく指定できる。
また、サイドオーダーもあり、
麺類、マカロニ、オートミールなど
をつけることができる。

写真付きのメニューボードが入り口に
あり、キャッシャーでオーダーする。
オーダーが明記されたレシートおよび
チケットを受け取り、カウンターに行く。

カウンターで、チケットを渡し、
オーダーにしたがって、トレーに
食べ物が載せられ、そして最後に飲み物
が置かれる。
その時間、例えば、ざっと、30秒ほど。

トレーを手にし、席に座る。
そうして、食事を楽しむ。
さっと食べていく人もいれば、
携帯電話や新聞を手に長居する人もいる。
混んでいると、相席になる。
香港では、相席はいつものことだ。

食べ終わった後は、トレーはテーブルの
上に残したままで、退席する。
ホールのスタッフの方々がトレーを
片付ける。
混んでいると、席を探していた人が
すぐさま席を確保する。

ざっと、こんな流れだ。

香港では、香港スタイルの「ファースト
フード」チェーン大手が3つある。
・Cafe de Coral (大家楽)
・Fairwood (大快活)
・Maxim’s MX(美心)

香港では長い歴史をもち、
Cafe de Coralは1968年に設立され、
Fairwoodは1972年に最初のレストラン
をもったようだ。

香港で330店舗という一番規模の大きい
Cafe de Coralに訪れる人は、
一日に30万人という。
3つのチェーンを合わせれば、
まさしく、「香港の食堂」だ。

「ファーストフード」という言い方が
されるが、内実は「食堂」に近い。

一日は、4つの時間帯に分かれている。
・朝食
・昼食
・ティータイム
・夕食

それぞれにメニューが変わり、
ご飯や麺など充実している。
夕食などには、カツやカレーなどの
人気の日本食もよく見かける。

「ファースト」の意味合いにおいては、
とにかく、準備が早いのだ。
“No City for Slow Men”(Jason
Y. Ng)の精神
が、ここでも息づいて
いる。

20年程前、初めて香港に来たとき、
ぼくは、この香港スタイルのファースト
フード店で、昼食を食べたことを覚えて
いる。
名前は覚えていないけれど、Tsim Sha
Tsuiのどこかの店に入ったことだけは
覚えている。

広東語は一言も話せなかったから、
写真のメニューを指差して、オーダー
した。
店のシステムも全くわからなかった
けれど、こんな形態のレストランがある
ことに感動したこと、手頃な値段で美味
しかったことを、ぼくは記憶している。

プルーストの『失われた時を求めて』に
出てくる紅茶とケーキが記憶の入り口で
あったように、
香港スタイルのセットメニューと
スクランブルエッグは、ぼくの香港の
記憶の入り口でもある。
そして、それらの記憶と、目の前に広が
る香港の風景が重なり、静かな幸せを
ぼくに届けてくれる。

人が混みだして、その静かな幸せの
「味わい」がかきけされないうちに、
ぼくはモーニングセットを食べ終えて、
店を後にする。


 

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、「端午節」を過ごしながら。- 文化・風習を知り、体験し、自分の中に「具体的な世界」を描く。

香港では、今日(西暦2017年5月30日)は「端午節」で、いわゆる祝日にあたる。中国文化圏では「旧暦5月5日」が、「端午節」になる。...Read On.


香港では、今日(西暦2017年5月30日)
は「端午節」で、いわゆる祝日にあたる。
中国文化圏では「旧暦5月5日」が、
「端午節」になる。

端午節は、古代の詩人、屈原(Qu Yuan)
を偲ぶ日と言われる。
川に身を投じた屈原のことを知った人たち
が、
・「ちまき」を川に投げ入れることで、
屈原の遺体が魚に食べられてしまうことを
防ごうとしたこと、
・屈原の救出のために「舟」を出したこと、
から、
その風習が今でも形として残っている。

香港でも、端午節には、
・「ちまき」を食べること
・「ドラゴンボート」の競争が行われること
の風習が今でもある。

毎年、食品市場などで「ちまき」が見ら
れる時期が来ると、端午節の到来を感じる。
そして、ぼくは忘れかけている風習の由来
を思い出すのだ。

もちろん、このような風習は、
現代社会の中で、いろいろな力学に作用
されて、形骸化されやすい運命をたどる。
ただし、それは「形」だけであっても、
社会の中に「時のリズム」をつくり、
また、「共通のもの」を共有する装置と
なる。

文化の内部でそれら風習を守る人たちの
実践と、また(ぼくのような)「外部から
訪れる者」の興味とが、幸福な仕方で
スパークすることで、文化や風習が新しい
光を獲得していくこともある。

<横にいる他者>(真木悠介)との
「関係のゆたかさ」が、生のゆたかさの
内実をつくることの、ひとつの形でもある。
<横にいる他者>の視点が、
「あたりまえ」のこと/ものに、
新鮮な見方や楽しみ方を与えることがある。
そのようなことを先日ブログで書いた。

ぼくがかつて(そして今も)日本文化に
ついて聞かれるように、
ぼくも、他の文化のことを、その文化に
生きる人たちに聞く。

世界のいろいろなところで住みながら、
その場所の文化を尋ね、知り、体験し、
自分の世界を開いていく。

そのように、自分の「外部の世界」が
開かれるとともに、
自分の「内部の世界」が豊饒化されていく。
自分の中に「世界」が具体性をもって、
描かれていく。
教科書で読む「世界」ではなくて、
具体的に生きられる「世界」である。

そして、もしかしたら、<横にいる他者>
の世界も、少しばかりの光をきらめかせる
かもしれないと、思ってみたりする。

香港で迎える、11回目の端午節に、
ぼくは、そんなことを考える。


追伸:
端午節は「5月5日」で「5」が
並ぶ日です。
香港の街で、車道にカメラを向けて
シャッターを押したら、
アップロードした「写真」が撮れました。
バスとタクシーとトラム全部で、
「5台」です。

「交通機関の5種類」と見れば、
この写真には、
・バス(2階建てバス)
・ミニバス
・トラム
・タクシー
・自動車(後方に小さく見えます)
が写ってます。

香港の「移動」に使う交通機関が
一通り、ここにきれいに移りました。

シャッターを押して、写った写真を
見ながら、驚きました。


 

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「ひとり旅」と「二人・集団の旅」とは。- <横にいる他者>(真木悠介)が開く視界と世界。

香港にそれなりに長く住んでいると、そこの風景が「当たり前」になってくる。...Read On.

 

香港にそれなりに長く住んでいると、
そこの風景が「当たり前」になって
くる。

車道の標識に「ミッキーマウスの
影絵」(香港ディズニーランドに
通じる道路を示す標識)があっても
何とも思わない。

「標識にミッキーマウスがいるんだ」

と、香港に遊びに来た家族や友人に
言われてはじめて、当たり前のもの
が当たり前ではなくなったりする。

標識のミッキーマウスが、
「不思議さ」を帯びて、目の前に
風景として立ち上がってくる。

香港に住んでいて、
香港の外から香港に来た
家族や友人などの「他者の眼」が
ぼくに「新鮮な眼」を与えてくれる。

日本で、海外の人と一緒に行動した
ときも、同じような場面に、
ぼくたちは出会うことになる。

日本に着いたばかりの留学生と共に、
東京や横浜の街を歩きながら、
ぼくは幾度となく、「新鮮な眼」で
これまでなんとも思っていなかった
場面に出会ってきた。

社会学者の真木悠介は、
「方法としての旅」と題する文章
(『旅のノートから』岩波書店)で
ぼくの眼をさらに豊かにしてくれる
世界の視方を教えてくれた。

「ひとり旅」にこだわってきた真木
悠介が、「二人・集団の旅」の豊饒
さを見直していく経験と思考のプロ
セスを綴る、感動的な文章だ。

真木悠介の思考は、いきなり、
垂直に深いところへ降りていく。

 

二人の旅、集団の旅の構造は、
人間にとって<他者>というものの
意味を、根底からとらえかえす原型
となりうる。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

真木悠介は、哲学者等が語る「他者」’
が、「私」と向かい合う形(他者が
私を見て、私が他者を見る)でとらえ
られていることに、目をつける。

それに対し、真木は<横にいる他者>
の視点を鮮烈に提示している。


…「同行二人」ということは、私が
二組の目をもって遍路することである。
集団の旅において私は、たくさんの目
をもって見、たくさんの皮膚をもって
感覚し、たくさんの欲望をもって行動
する。そして世界は、その目と皮膚と
欲望の多様性に応じて、重層する奥行
きをもって現前し、開示される。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

「ミッキーマウスの影絵」が標識に
あるのを見ることができたのは、
ぼくが他者の眼を「私の眼」として
影絵を見たからである。

同じように、
日本で海外の人たちの見るもの、
感覚するもの、欲しいものなどを
通じて、ぼくはぼく一人では見ること
がなかったであろう仕方で、日本を見、
日本を感覚し、日本を味わってきた。

真木悠介の「方法としての旅」には、
ぼくたちの日々の充実感や驚き、
それから幸せというものの内実が、
端的に、示されている。
真木悠介は上記に続けて、次のような
美しい文章を書いている。


関係のゆたかさが生のゆたかさの内実
をなすというのは、他者が彼とか彼女
として経験されたり、<汝>として
出会われたりすることとともに、
さらにいっそう根本的には、他者が
私の視覚であり、私の感受と必要と
欲望の奥行きを形成するからである。
他者は三人称であり、二人称であり、
そして一人称である。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

「横にいる他者」が去った後にも、
その余韻が、ぼくの中に静かに残り、
香港の風景は、いつもと少し違った
風景を、ぼくに見せてくれる。

そして、そのような経験や感覚は、
日常から離れていくような「旅」だけ
で感じるものではなく、
日常という<旅>の中でともにする
<横にいる他者>たちによっても、
ぼくの世界は豊饒化されているという
ことを感じる。

世界で出逢ってきた他者たち。
日本で、アジア各地で、ニュージー
ランドで、シエラレオネで、東ティモ
ールで、香港でぼくの<横にいた/
いる他者>たちが、ぼくの世界の内実
を、ゆたかにしてきてくれた。

「生きること」のゆたかさが、
そこに、いっぱいにつまっている。

 

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香港で、「香港のスピード」を感覚する。 - “No City for Slow Men” (Jason Y. Ng)の精神。

“No City for Slow Men”。これは、香港に向けられた言葉である。...Read On.

 


“No City for Slow Men”

これは、香港に向けられた言葉で
ある。

香港に生まれ、海外で暮らし後に
香港に戻ってきたJason Y. Ngの著作
『No City for Slow Men
- Hong Kong’s quirks and
quandaries laid bare』
のタイトル名である。

同書に収められた36のエッセイの
ひとつに、この、
“No City for Slow Men”
のタイトルがつけられ、
同時に同書のタイトルになっている。

エッセイ“No City for Slow Men”に
付されている中国語(繁体字)は、
次の通りだ。

「此地不容慢人」

日本語に訳してみると、
「この地(香港)は、遅い人に
適さない/遅い人を受け入れない」
となる。

“No City for Slow Men”
(此地不容慢人)

香港を一言で表現するとしたら、
この表現がすっきりとくる。
香港は「遅い人たち」にとっての
都市ではない。

Jason Ngは、
「スピードはDNAの中にある」
というように、書いている。

香港に来たことがある人たち、
香港に住んでいる人たちは、
この「感覚」がわかるだろう。

香港では、スピードは、個人の中に
も、社会の中にも、そしてあらゆる
領域をも貫通する価値観である。
プライオリティの高い価値観である。

Jasonのエッセイの冒頭に叙述されて
いるように、
香港の繁華街を歩いていると、
後ろから、広東語の声が飛んでくる。
台車をひいた人たち(物を運搬する人
たちなど)が、道を開けてくれと、
お腹の底から響く声を投げかけてくる。

互いにつくりだすスピードが、
日々のエネルギー源となっているか
のように、香港のスピードは維持され
加速されている。

チェーンの大衆食堂に入れば、
驚くほど早くに、セットメニューが
ととのえられる。

仕事場では、
仕事を早くこなしていくことに
神経がそそがれる。

スーパーマーケットなどの店舗の列は
あっという間にさばかれていく。

店舗の列をさばく「世界選手権」が
あったなら、香港はまちがいなく、
世界トップ3に入る速さだ。

そんな香港のスピードも、
この10年を観察しつづけていると、
「幾分かの変化」を見せているように
ぼくには感じられる。

「人の歩く速さ」は、
東京に住んでいたころから、
そして香港に住んでいる今も、
ぼくの「定点観測」項目のひとつだ。

生活の速さは、一定の生活スタイルを
規定していく。

その生活のスタイルの中で、
得るものもあれば、失うものもある。
よいこともあれば、よくないことも
ある。
そして、そこから、人や社会の深層が
見てとれる。

香港経済社会は、
2008年のリーマンショック後もあまり
影響なく、成長率を伸ばした。
その後も、経済発展は続き、
ぼくが見てきた労働市場も活況を呈して
きた。
その動きが、ここ数年、若干の「落ち
着き」を見せ始めている。

それと時期を重ねるようにして、
「人の歩く速さ」に変化があったように
ぼくは個人的に感覚している。
つまり、若干遅くなったのでは、という
感覚を、ぼくはもつ

まったくの、ぼくの感覚にすぎない
けれども、ぼくは意識して、「人の歩く
速さ」を観察してきたことは確かだ。

そして、生活スタイルも、
変化をしてきているように、
ぼくはその社会の只中で感じている。

もちろん、それでも、
“No City for Slow Men”の精神は、
DNAに組み込まれているかのごとく、
今日も香港を動かしている。

 

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「雨」の風景。- 東京、ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、そして香港。

香港はここのところ、雨の日が続いている。早朝に運動をする頃に、決まって、小雨が降りそそぐ。小雨が降ってはやみ、やんでは降る。...Read On.

 

香港はここのところ、雨の日が続いて
いる。
早朝に運動をする頃に、決まって、
小雨が降りそそぐ。
小雨が降ってはやみ、やんでは降る。

天気は「良い・悪い」で考えない、
ということを以前書いた。
ブログ「「天気がいい/悪い」と
言わないように。 - 自分の中に「地球」
を描く。」

晴れが良くて、雨が悪い、という考え
方には、自然から離陸した社会の
「前提」がすでにすりこまれている。

雨は、自然の、地球の恵みでもある。
なお、「好き・嫌い」は、個人の問題
である。

そんなことと、
ぼくが住んできた場所の「雨の風景」
が重なり、いくつかのことを書こうと
思う。

解剖学者の養老孟司は、著書『唯脳論』
の中で、「脳化=社会」について述べて
いる。
都会・都市は、人間の脳がつくりだした
「脳化=社会」であり、
人間が「コントロール」できる空間で
ある。

自然はコントロールできないものである。
雨も、コントロールできないものとして
都会・都市の外部からやってくる。
雨は、都会・都市では「やっかいなもの」
である。

他方、東京に住んでいたとき、
ぼくは、都会においても、「雨」を楽しむ
人たちがいることを、作家・沢木耕太郎の
エッセイで知った。
もう20年近く前のことである。
確か、傘を売っている人の話であったと
記憶している。
雨が降ると(雨の時期には)売り上げが
上がるということもあるけれど、
それ以上に、傘が彩る街並みに、心踊る
人を描いた作品であった。
(詳細はまったく覚えていない。)

大学2年を終え、休学して渡ったニュージー
ランド。
徒歩縦断の試みとトランピング(トレッキ
ング)の旅では、雨は、さすがに「恐怖」
としてあった。
都会ではなく自然の中だけれど、自然の中
だからこそ、歩く者にとっては、雨は厳しい
顔を見せる。

仕事の最初の赴任地、西アフリカのシエラ
レオネ。
アフリカと言うと、日本の人たちは雨のない
風景を思い浮かべてしまう偏見にとりつかれ
るが、
シエラレオネは雨期にはよく雨が降る熱帯
地域であった。
井戸掘削(プロジェクト)は雨期にはできず、
乾季の時期にスケジュールを組んだ。
雨期の移動は、車両がしばしば泥に足をとら
れ、移動を困難にさせる。
雨期に各村に調査に行っていたから、
車両が立ち往生する記憶が残っている。
また、雨は蚊を発生させ、生きていくには
厳しい環境でもある。
しかし雨のおかげで、例えば、アブラヤシが
よく育ち、パーム油が豊富にとれる。

東ティモールも、雨期はよく雨が降る。
コーヒー産地では、雨期の雨が大切だ。
とはいえ、コーヒー農園は、山をまたいで、
各地に広がっている。
強い雨が降ると、道がふさがれる。
四輪駆動の車両も、道のない道に、足をとら
れる。
他方、首都ディリは相対的に道は整備されて
いる。
しかし、雨が少ないと水が枯渇し、ディリの
水道の水が制限される。
雨が生に密着している空間である。

そして、香港。
高層ビルが立ち並ぶ、都会の「顔」をした
香港では、雨は「やっかい」である。
しかし、香港の高層ビル群は、互いに、
繋がっていることが多いから、雨を避けて
移動していくことが比較的容易である。
それでも、ぼくたちは雨を避けたくなる。

しかし、香港の小さな子供達は、雨を、
あっさりと「乗り越えて」しまう。
傘を売る人と同じように、
楽しげなレインコートと長靴を身にまとい、
色とりどりの傘を手にさしながら、
雨の降りそそぐ中に飛びだしていく。
雨に濡れても、気にせず、雨を楽しんでいる。
「子供」は「自然」なのだ。
(養老孟司も、子供は自然であること、
コントロールがきかないことをを述べている)

他方、自然の「顔」をした香港は、
海と緑をたたえている。
緑の木々たちに雨は静かに、そして時に強く
注ぐ。
そして、「雨の風景」は、ぼくの中で香港
を超えて、世界にひろがっていく。


雨を避けたくなる理性が働きながら、
ぼくの中に「美しい文章」のイメージが
ひろがる。
社会学者の真木悠介(見田宗介)が、
屋久島に住んでいた山尾三省に導かれて、
7000年を生きてきた「縄文杉」に会いに
行った文章である。

 

…一つだけ気にくわないのは、雨が降って
いる。熱く乾いた国々ばかりを好きなわた
しは、雨はきらいだ。けれど三省は、
縄文杉に会いに行くのは、こういう雨の日
がいちばんいいのだという。「こんなに
森が森らしい森に会いに行くのは、ぼくも
はじめてです」と、途々もいう。
 晴れますよ。という宿の人の見送りの
言葉に反して、雨は終日降り止まなかった。
…雨は明るくて静かな雨で、ほんとうに雨
が降っているのか、ただ霧の中を歩いて
いるのか、雨でなく光がさんさんと降って
いるのか、歩いているうちに、わからなか
った。その不可思議の明るさの中で、また、
あの時が訪れた。雨と雨でないものとの境
がなくなり、光が光でないものとの境が
なくなり、生と生でないものとの境がなく
なり、明るい水の降りそそぐ森だけがあった。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

ぼくも、「森が森らしい森」に、これまでの
人生で、幾度か、直接に出会った。

それは、例えば、ニュージーランドの北部
で、90マイルビーチから内陸に入ったとこ
ろの「森」であった。
90マイルビーチを数日かけて歩いた後、
雨が降りはじめたところで、ぼくはようやく
海岸線から内陸に向かって歩む方向を変えた。

そこでは、霧雨のような雨と光が降りそそぐ
森が、静かに、ぼくを包んだのであった。

 

 

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香港, 村上春樹, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 香港, 村上春樹, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

村上春樹に教わる「クラシック音楽を聴く喜び」。- ピアニストLeif Ove Andsnesの音楽を体験として。

ぼくが、クラシック音楽を聴くようになったのは、日本の外で、仕事をするようになってからだ。正確には歓びをもってクラシック音楽を聴くようになったことである。...Read On.


ぼくが、クラシック音楽を聴くように
なったのは、日本の外で、仕事をする
ようになってからだ。
正確には歓びをもってクラシック音楽
を聴くようになったことである。

西アフリカのシエラレオネでの仕事を
していた頃が、ぼくの記憶と感覚の中
では、ひとつの「分水嶺」のような
時期であった。

紛争が終結したばかりのシエラレオネ
での経験と、ぼくがクラシック音楽を
聴くようになったことは、
決して、ばらばらに起こったことでは
ないと、ぼくは思っている。
ブログ「紛争とクラシック音楽」

クラシック音楽の美しい調べの深い
地層には、人の悲しみや心の痛みが
堆積している。

シエラレオネで、紛争の傷跡を身体で
感じ、東ティモールの銃撃戦の只中に
身を置いた後に、ぼくは香港に移って
きた。

香港で、村上春樹著『意味がなければ
スイングはない』(文藝春秋)を読む。
村上春樹が、音楽のことを「腰を据え
てじっくり書い」た本である。

ジャズ、クラシック、ロックとジャンル
を超えて、主に取り上げられた人物は
次の通りである。

・シダー・ウオルトン
・ブライアン・ウィルソン
・シューベルト
・スタン・ゲッツ
・ブルース・スプリングスティーン
・ゼルキンとルービンシュタイン
・ウィントン・マルサリス
・スガシカオ
・フランシス・プーランク
・ウディー・ガスリー

とりわけ、ぼくに響いたのは、
なぜか、シューベルトであった。
シューベルトについて語られた章だけ、
「作品名」がタイトルにつけられていた。

「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850

シューベルトのピアノ・ソナタの中で、
村上春樹が「長いあいだ個人的にもっと
も愛好している作品」(前掲書)である。

 

…自慢するのではないが、このソナタは
とりわけ長く、けっこう退屈で、形式的
にもまとまりがなく、技術的な聴かせど
ころもほとんど見当たらない。いくつか
の構造的欠陥さえ見受けられる。…

村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)

 

ぼくはなぜか、(聴いてもいないのに)
この作品に惹かれた。

村上は、この曲を演奏するピアニストを
15名リストアップする。
そして、「現代の演奏」の中から素晴ら
しい演奏として、
ノルウェイのピアニストである、
Leif Ove Andsnesを挙げている。
村上の「迷いなしのお勧め」である。

ぼくは、まるで先生にしたがうように、
LeifのCDを購入し、彼の演奏を聴く。
村上がそうしたように、他の演奏家の
演奏ともできるかぎり比べながら。
でも、最後にはLeifの演奏に戻ってくる
のであった。

その後は、Leif Ove Andsnesのピアノ
ソナタD850を、ぼくはよく聴くように
なった。
疲れた日の夜遅くに、
あるいは空気が凛とする早朝に。

その内に、ぼくは、香港で
クラシック音楽を生演奏で聴く楽しみ
を見つけた。
一流の演奏家が香港を訪れるのだ。
日本に比べ、おそらく、チケットも
手にいれやすい。

2015年、香港。
ぼくは、Leif Ove Andsnesの演奏を
直接に聴く。
マーラー室内管弦楽団と共に演奏する
ベートーヴェンのピアノ協奏曲。

Leif Ove Andsnesは、
通常指揮者が立つ場所にピアノを置き、
管弦楽団の方向に向かって指揮をとり、
そして聴衆に背中と指の柔らかさを
見せながら、しなやかにピアノを演奏する。
自由で、親密な空気が流れてくる。

この「形式」にも驚かされたが、
Leifとマーラー室内管弦楽団がつくる
音楽に、ぼくは、文字通り、心を奪わ
れてしまった。

こんなに美しく、心の深いところまで
届くクラシック音楽を、ぼくは、それ
までの人生で聴いたことがなかった。
そして、その後も、まだ聴いていない。

この体験は、ぼくの心の中に、
暖かい記憶として静かに残っている。

村上春樹は、次のように、語っている。


思うのだけれど、クラシック音楽を
聴く喜びのひとつは、自分なりの
いくつかの名曲を持ち、自分なりの
何人かの名演奏家を持つことにある
のではないだろうか。それは場合に
よっては、世間の評価とは合致しない
かもしれない。でもそのような
「自分だけの引き出し」を持つことに
よって、その人の音楽世界は独自の
広がりを持ち、深みを持つように
なっていくはずだ。…

村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)


ぼくは、このことを、村上春樹から
教わった。

押し付けがましさのかけらも感じず、
まったく自発的に。

Leif Ove Andsnesの演奏する
シューベルトの「ピアノ・ソナタ
第十七番ニ長調」D850から、
Leif Ove Andsnesが香港で魅せて
くれたマーラー室内管弦楽団との
奇跡的な演奏へと続いていく、
「個人的体験」を通じて。

 

…僕らは結局のところ、血肉ある
個人的記憶を燃料として、世界を
生きている。もし記憶のぬくもり
というものがなかったとしたら、
…我々の人生はおそらく、耐え難
いまでに寒々しいものになって
いるはずだ。だからこそおそらく
僕らは恋をするのだし、ときと
して、まるで恋をするように音楽
を聴くのだ。

村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)


ぼくは、納得してしまうのである。
個人的体験の記憶のぬくもりを
燃料として、ぼくは、この世界で
生きていることを。


 

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ぼくにとっての「香港と村上春樹とブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズ)」。- 名曲「God Only Knows」に彩られて。

人も、本も、音楽も、たまたまの偶然によって、すてきに出会うこともあるけれど、ときに「すてきな出会いに導いてくれる人」に出会うという偶然に、ぼくたちは出会うことがある。...Read On.

 

人も、本も、音楽も、
たまたまの偶然によって、
すてきに出会うこともあるけれど、
ときに「すてきな出会いに導いて
くれる人」に出会うという偶然に、
ぼくたちは出会うことがある。

ぼくにとって、作家の村上春樹は、
「すてきな出会いに導いてくれる人」
である。

ちなみに、村上春樹は、ぼくにとって

  1. 「物語」を語ってくれる人
  2. 「生き方」を指南してくれる人
  3. 音楽や本へと導いてくれる人

である。

今回は、3番目、音楽への出会いを
導いてくれたことの話である。

ぼくが香港に移ってきた2007年の末
のこと。
村上春樹は、和田誠と共に、
『村上ソングズ』(中央公論新社)
という著作を出版した。

本書では、29曲が取り上げられ、
村上春樹が英語歌詞の翻訳と解説を、
和田誠が絵を描く形で、つくられて
いる(内2曲は和田誠が解説)。
29曲の内2曲をのぞいて、すべて
村上春樹が選んだ曲たちである。

その一曲目に、
「1965年に発表されたビーチボー
イズの伝説のアルバム『ペット・
サウンズ』に収められたとびっきり
美しい曲」(村上春樹)である、
「God Only Knows」
(「神さましか知らない」)が
とりあげられている。

ビーチボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンが作曲した
名曲である。

 

…God only knows what I’d be
without you.
…君のいない僕の人生がどんなもの
か、それは神さましか知らない。

「God Only Knows」


村上春樹が「いっそ『完璧な音楽』
と断言してしまいた」くなる音楽で
あり、
ビートルズのポール・マッカートニ
ーが「実に実に偉大な曲だ」と言う
名曲である。

ぼくは、村上春樹の翻訳と解説を
読みながら、この曲のメロディーと
コーラスに想いを馳せていた。
当時は、今のように、Apple Music
ですぐに検索して聴くなんてことが
できなかった。
だから、香港のCauseway Bayにある
HMVに行って、ビーチボーイズの
名盤『ペット・サウンズ」を購入する
しかなかった。

昔(1950年から1960年代)の音楽が
好きなぼくは、以前にも、もちろん
『ペット・サウンズ』は聴いていた
けれど、この曲は覚えていなかった。
二十代前半くらいまでは、村上春樹が
ビーチボーイズを語るときによく話題
に挙げるビートルズを、ぼくはよく
聴いていたこともある。

さて、名盤『ペット・サウンズ』をCD
で購入して、聴く。
「God Only Knows」は、すてきなメロ
ディと言葉の響きを届けながら、ぼく
から、なつかしさの感情もひきだす。

ちょっと調べていると、
映画『Love Actually』の最後のシーン
で流れていた曲だとわかる。
クリスマス後の空港で、人が再会して
いくシーンである。
「空港での再会」は、海外をとびまわ
っていたぼくにとって、とても印象的
なシーンであったから、ぼくはよく
覚えていた。

香港で生活をしていたぼくにとって、
名曲「God Only Knows」は、
なぜか、心に響いた。
それからも、ブライアン・ウィルソン
のCD・DVDで、ブライアンがこの曲
を歌うのを聴いていた。
香港に生活を移し、30代を生きるぼく
には、ビートルズよりも、ビーチボーイ
ズ(ブライアン・ウィルソン)の方が、
心に響いていた。

 

村上春樹は2007年の『村上ソングズ』
に引き続き、2008年に、
ジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』
の翻訳書(新潮社)を出版した。


時は過ぎ、2012年8月、
ビーチボーイズが結成50周年を迎えて
再結成しての世界ツアーを敢行。
香港にもやってきたのである。

ブライアン・ウィルソンの苦悩の個人史
などから再結成の世界ツアーはないと
思っていたから、驚きと歓びでいっぱい
であった。

ブライアン・ウィルソンも70歳を迎え、
他のメンバーも高齢である。
コンサートは休憩を途中はさんで、
第一部と第二部の3時間におよんだこと
に、ぼくはさらに驚かされることになった。

この香港公演で、
ブライアン・ウィルソンは、
名曲「God Only Knows」を、
ぼくたちに、聴かせてくれた。
彼の歌声に耳をすませながら、
ぼくはなぜか、目に涙がたまったことを
覚えている。

それから3年が経過した2015年。
ブライアン・ウィルソンの半生を描いた
映画「Love & Mercy」が上映された。
ぼくは、映画館に足をはこび、
ブライアン・ウィルソンの苦悩の半生を
観る。
ぼくにとっては、ぼくの内面の深いとこ
ろに届く映画であった。

そして、2016年、ビーチボーイズは、
再度、香港公演にやってきたけれど
(HK Philとの共演)、
今度はブライアン・ウィルソン抜きの
メンバー構成であった。
ブライアン・ウィルソンは、個人で
世界公演に出ていたのだ。
ビーチボーイズの香港公演は
これまたすばらしいものであったけれ
ど、ブライアンのいない公演は寂しい
ものでもあった。

同年、ブライアン・ウィルソンは、
半生を綴った自伝を発表している。

そして、この自伝の存在が、
ぼくにブライアン・ウィルソンを
思い出させたのだ。

よくよく観てみると、
ぼくの香港10年は、村上春樹とブライ
アン・ウィルソンに、
「音楽」を通じて彩られた10年でも
あったことに、ぼくは気づいたのだ。


香港 
 x
村上春樹 
 x
ブライアン・ウィルソン

ぼくの中で、この組み合わせによる
化学反応がどのように起こったのかは
わからない。

でも、確かに、それはぼくの中で、
香港と村上春樹とブライアン・ウィル
ソンだったのだ。


 

追伸:
村上春樹がブライアン・ウィルソンに
ついて書いている本は下記です。

●『意味がなければスイングはない』
 (文芸春秋)
●『村上ソングズ』(中央公論新社)
●『ペット・サウンズ』(新潮社)

『意味がなければスイングはない』の
中で、ブライアンを取り上げ、
ブライアンの名曲「Love and Mercy」
について文章を書いています。
村上春樹は、ハワイのワイキキで、
ブライアンの歌う「Love and Mercy」
に、胸が熱くなる経験をしています。

映画「Love & Mercy」のタイトルは
この名曲から来ています。
映画の最後に、この曲がながれます。
映画館でぼくは、村上春樹と同じよう
に、その曲と歌声に含まれる切実な
想いに、胸が熱くなりました。


 

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、朝日が差しこむ海岸通りの「人の交差点」にて思うこと。- 香港の早朝の風景。

早朝のすきとおるような空気があたりを包み、朝日が静かに差しこんでくる。ここのところ、運動する時間を早朝に変えている。朝日が差しこんでくる海岸通りを歩き、そして走る。...Read On.

早朝のすきとおるような空気があたり
を包み、朝日が静かに差しこんでくる。

ここのところ、運動する時間を早朝に
変えている。
朝日が差しこんでくる海岸通りを歩き、
そして走る。

通りには、すでにいろいろな人たちが
くりだしている。

汗をいっぱいにかいて走っている人たち。
音楽やラジオを鳴らしながら行き来する
人たち。
太極拳(Tai chi)で身体を動かす人たち。
ロードバイクで滑走する人たち。
運動を始めたばかりという姿の人たち。

通りは朝日が差しこむ「人の交差点」だ。
いろいろな人たちが、交差していく。


そんな早朝の風景に惹かれながら、
人がすれちがう波風の中で、ぼくは
次のようなことに思いをめぐらしている。

 

(1)交差点ですれちがう人たち

すれちがう人たちは、毎朝、同じ人たち
であったりする。

お互いに知り合いでもなんでもないけれ
ど(時に朝の挨拶をすることはある)、
そこには「何か」が共有されているよう
なところがある。
それはそれで、すばらしいことである。

共有される「何か」は、いろいろなもの
であろう。
例えば、「何かに向かう肯定性」のよう
なものであったりする。

ある調査では、香港人は、平均よりも
多く身体的活動をしているという。
ぼくの「実感値」としても、ここ10年程
の間に、「走る人」はだいぶ増えたよう
に思う。

「人の交差点」で、ぼくたちは、
いろいろな人たちとすれちがっている。
それぞれに、いろいろな人生を歩き、
走りながら。

 

(2)朝のすきとおる空気

午後に走ることは、それまでの頭脳的な
疲れを癒し、散らばった情報やアイデア
を吟味・再編成・再構築していくような
ところがあった。

朝は、すっきりした頭脳の状態である。
考え事がなくはないけれど、比較的、
すっきりとして何も入っていない「器」
から、ポジティブな何かが湧き上がる
ようなところがある。

朝のすきとおる空気が全身を包み、
心身を浄化するような作用を感じる
ことができる。
それは、午後の空気には、感じられない
ものである。

 

(3)心の余裕

運動の時間を朝に変えてみて、「余裕」
ができた。
活動時間はそんなに変わるわけでは
ないけれど、心の余裕がでるようだ。

「時間のマジック」も作用する。
朝に活動することで、同じ時間でも、
その日がより長く感じられる。
時間の感じ方は、主観的なものである。

「時間に追われる」のではなく、
「時間を追っていく」感覚をもつこと
がしやすくなる。

以前、香港マラソンに参加するための
トレーニングとして早朝に運動をして
いたときのことを思い出す。

 

「朝の効用」は、多くの人たちが
語ってきたところである。
ここ、香港でも、朝の効用は大きいと
ぼくは思う。
香港社会の「(物事が進む)スピード
の速さ」は、心地よいこともあるけれ
ど、それなりのストレスを生んでいく。
「速さ」は、人と自然、人と人との
関係をも規定していく。
朝の時間は、幾分か、それらを相対化
してくれる。

しかし、朝は「効用」(何かのため)
という思考にとどまるものではない。

効用にけっして還元できないような、
それ自体が祝福であるような風景が
香港の朝にはひろがっている。

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香港で、「街の空間」を考える。- 「街の路地裏」に身を投じて。

香港に住むようになって、10年が経過した。住み始めた当初は「街の空間」の印象は、次のようなものであった。...Read On.


香港に住むようになって、10年が
経過した。

住み始めた当初は「街の空間」の
印象は、次のようなものであった。
・高層ビルが多いこと
・密集していること
・雑多な空間であること

「高層ビル」は、オフィス用だけ
でなく、人々の住まいであるマン
ションも高層ビルが一面に続いて
いる。

香港は、東京都の半分ほどの面積
に、700万人以上が暮らしている。
まだ、今も、人口は増えていると
いう。

だから、「空間」は貴重である。
ビルは、横ではなく、上に向かっ
て伸びていく。

ぼくは、そんな空間に、暮らして
きた。

香港はアジア各地への「ハブ」的
な位置にあり、旅をする拠点とし
ては絶好の場所である。
2011年か2012年頃に、ぼくは、
初めて台湾に行った。
香港から1時間40分ほどのフライ
ト時間である。

空港から台北の街の中心に向かう
バスから、窓の外を眺めていた
ぼくは、「ひっかかり」を感じて
いた。

空が広いこと、街の空間が日本に
似ていたことも印象的ではあった
けれど、それだけではなかった。

「あっ」

と、ぼくは気づいた。
気づいたのは、
一軒家が多いことに。

高層ビルが香港に比べ少ないこと
を感じながら、その裏返しとして
「一軒家」が多いことに気づいた
のだ。
それは、ほっとする感覚をぼくに
与えたことを、今でも、覚えて
いる。

そんな「視点」をもちかえり、
ぼくは香港の街の空間をみてきた。

香港も、中心部を離れ、緑の木々
たちがいっぱいに広がる空間に
立ち入ると、風景が一変してくる。

高層ビルだけでなく、
「村」の風景が眼にはいってくる。
村にはコミュニティがある。
そして、そこには、昔ながらの
一軒家が連なっている。

そんな「街の路地裏」の迷宮に
はいる。
数十年前の風景が残っている。
店舗のつくりも、そこにかかる
看板も、そんな名残をいっぱい
に放っている。

そんな「街の路地裏」に身を投じ
ながら、ぼくは考える。
「街の空間」は、そこに住む人々
の心身の持ちように、大きく影響
を与えるだろうことを。
また、人と人との「関係性」に
影響するだろうことを。

香港は、今も各地で、高層ビルの
建設が盛んに行われている。
新しいマンションの敷地の中には
一軒家とマンション棟が兼在して
いたりするのを見る。

そんな風景を眼の前にしながら
香港の社会はどこに向かうのだろう
かと、勝手に思いをめぐらしている。


 

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香港で、「貧困」のコンセプトを考える - シエラレオネ・東ティモールから香港を経る中で。

香港は、この10年で、物価がとても高くなった。不動産価格はなかなか下がらない。家賃などもこの10年で上がり続けてきた。...Read On.

香港は、この10年で、物価がとても
高くなった。
不動産価格はなかなか下がらない。
家賃などもこの10年で上がり続けて
きた。
海外からくる、いわゆるエクスパット
は、高騰する家賃を避けるために、
外に家を探しもとめているという
ニュースが出ていた。

香港は、貧富の差が大きいところだ。
「ジニ係数」という所得分配の不平等
さを示す係数において、香港はアジア
でもっとも係数が高い。
それだけ、所得格差が開いている。

ぼくは、大学後半から大学院で、
「途上国の開発」や「貧困問題」を
研究してきた。

大学院修了後は、世界で最も寿命が低い
と言われていたシエラレオネ、
それからアジアで最も貧しいと当時言わ
れていた東ティモールに、
国際NGOの職員として駐在した。

「貧困」については、そのカテゴリーは
好きではないけれど、学問としても、
それから実務でも、正面から向き合って
きた。

シエラレオネでは紛争後の緊急支援に
たずさわり、それから、東ティモール
では、コーヒー生産・精製の支援から
「収入改善」のプロジェクトを運営して
きた。
そこから、経済成長を続ける香港に
わたってきた。
香港では、「経済」や「お金」という
ものを、正面から考えさせられてきた。

しかし、途上国(南北問題の「南」の
国)の貧困と、先進国の貧困とを、
理解しておく必要がある。

ぼくは、このことを、社会学者・見田
宗介の「現代社会の理論」から学んだ。
「貧困のコンセプト。二重の剥奪」と
題された文章で、見田はこのように記述
している。

 

…貧困は、金銭をもたないことにある
のではない。金銭を必要とする生活の
形式の中で、金銭をもたないことにある。
貨幣からの疎外の以前に、貨幣への疎外
がある。この二重の疎外が、貧困の概念
である。
 貨幣を媒介としてしか豊かさを手に
入れることのできない生活の形式の中に
人々が投げ込まれる時、つまり人びとの
生がその中に根を下ろしてきた自然を
解体し、共同体を解体し、あるいは自然
から引き離され、共同体から引き離され
る時、貨幣が人びとと自然の果実や他者
の仕事の成果とを媒介する唯一の方法と
なり、「所得」が人びとの豊かさと貧困、
幸福と不幸の尺度として立ち現れる…。

見田宗介『定本 見田宗介著作集 I』
(岩波書店)


途上国の「貧困研究」では、見田宗介が
正しく指摘するように、この「あたり前」
のことを議論の前提として忘れてしまう
ことがある。

 

香港の生活(香港だけでなく、例えば、
東京の生活もそうだけれど)は、まさに、
「金銭を必要とする生活の形式の中」に、
人びとをまきこんでいく。

物価が上がり続けてきた中で、
つまり「金銭を必要とする生活」度合いが
強まる中で、人びとは、「貧困」に陥らな
いように、走り続けなければならない。

香港では「自然」は実際には大規模に広が
っているものの、それは生活の物質的な
豊かさをもたらすものではない。

多くの人は「都会生活」である。つまり、
「貨幣への疎外」を経験している。
だから、通常は「金銭」を増やしていく
ことしか、道はない。

「金銭を必要とする生活」のダイナミクス
と、その切迫感が、香港のスピードの速さ
とエネルギーを生み出しているように、
ぼくには見える。

ただし、香港では「共同体」が、「家族」
という単位で、最後の砦を守っている。
核家族ということもあるけれど、
「拡大家族的な共同体」の砦であったりする。

「家族」が、愛情の共同体であると共に、
ソーシャル・セキュリティ的な役割(物質的
な拠り所)も担っている。

世界で最も「貧しい」と言われていたシエラ
レオネから、アジアで最も「貧しい」と言わ
れていた東ティモールへ。
それから世界でも最も「豊かな」ところで
ある香港へ。

ぼくは、この「格差」の中で、社会や世界を
考えさせられる。
ぼくも、「金銭を必要とする生活」の只中で、
しかし、日々、こうして食事をすることが
できることに感謝する。
感謝しながら、「自分にできること」を考える。

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香港で、市場に併設の食堂で食べた麺の記憶 - よく晴れた朝の静かな市場で。

香港のよく晴れた朝、出来立てのパンと新鮮な果物を手にいれるために、近くのパン屋さんと市場に足を運ぶ。...Read On.

香港のよく晴れた朝、
出来立てのパンと新鮮な果物を手に
いれるために、近くのパン屋さんと
市場に足を運ぶ。

都会の香港だが、新鮮な野菜や果物
などを売っている市場(いちば)も
各地でにぎわっている。

きれいな場所とは言えないけれど、
最近は各地で改装が進んでいたりする。

アジアを一人旅していたころは
よく市場に行った。
その土地の生活が垣間見え、
また、自分の五感が開かれる。

現代人は五感の中で、「眼」に
「支配」されている。
アジアの市場の音や匂いなどは
ぼくたちの五感を開いてくれる。

香港に住むようになって、しかし、
スーパーマーケットに頼りきりに
なってしまっていた。
それはそれで便利だけれど、
最近は市場に買い出しにいくこと
が多い。

だから、今回も足を運んだのだ。
朝方で、まだ人はまばらであった。
(香港の「朝」はあまり早くないの
だろう。)

まずは、目当ての果物を手にいれる。
それから、朝の市場を歩く。
野菜や果物などの「新鮮さ」にひか
れる。

その「新鮮さ」にひかれて、
併設の小さい食堂の前で立ち止まる。
家に帰って朝食を食べる予定だった
けれど、ここで牛肉麺を食べてみる
ことにした。

20年以上前のベトナム旅行を思い出す。
市場横でフォーを食べたものだ。

メニューの一番上にある麺(”牛腩河”)
をオーダーした。
2分ほどで麺が運ばれてくる。
見るからに、新鮮だ。

案の定、おいしかった。
ぼくの期待に、期待を超えて、
きっちりと応えてくれる。
お肉も、ネギも、麺も、スープもとても
新鮮だ。

なんでもないお店だけれど、
そこにはやはり食の文化がある。
ガイドブックにものっていないし、
レストランを紹介するアプリにも
でてこない。

でも、作家・辺見庸が『もの食う
人々』の取材で、世界の美味しい
ものを探し求めていきついた境地
を、ぼくは思い出す。

食材や調理ももちろん大切だけれど、
いきつくところ、食べる側の状態に
よってしまうのだ。

香港のよく晴れた朝に、
気持ちよく外を歩いて、市場に足を
運び、そこの店に静かに腰掛ける。
おじさんが、一所懸命に、プライド
をもって麺をつくり、おばさんが
運んできてくれる。
ぼくたちはそれを静かに味わう。

そこに、忘れられないおいしさが
生まれる。
そのおいしさは、繰り返しのきかない、
一回限りのものだったりする。
味を正確には覚えていないけれど。


追伸:
「写真」は麺とスープに少し手をつけた
後にとりました。
運ばれてきて、温かい内にすぐに
食べることが、作り手に対する
礼儀です。
写真なんかとっている場合では
ないけれど、さっとだけ、撮りました。


 

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香港で考える「香港なるもの」の、3つのこと - 「黄大仙」寺院を訪れて。

香港の観光スポットである「黄大仙」の寺院(道教・仏教・儒教)に行ってきた。...Read On.

香港の観光スポットである「黄大仙」
の寺院(道教・仏教・儒教)に行って
きた。

*黄大仙寺院「Wikipedia」ページ
 

近くにあるためか、寺院の前を何度も
通り過ぎながら、10年間、一度も
行ったことがなかった。

混むことを予想し、朝9時30分頃には
到着した。
しかし、すでにツアー客(中国大陸と
韓国からのツアーが多い)でごった返
していた。

「黄大仙」の寺院を通じて、
ぼくは「香港なるもの」の3つのこと
を考えた。

 

(1)小さいけれど何でもある香港

イメージでは黄大仙寺院は、とても
大きいと勝手に思っていた。
でも、実際に行ってみて、非常に
コンパクトにまとまっていた。
庭園などもあるけれど、全体的に
小さい。

香港は、その中に、何でもある。
香港のすごいところだ。
けれども、小さい。

黄大仙のような寺院も、香港には
ある。
黄大仙寺院は立派な建築であり、
それはそれで素晴らしい。
けれど、規模は小さい。
(ただし、「占い館」の店舗数は
圧巻であった。)

 

(2)ビジネスへのコミットメント

ビジネスへのコミットメントは
熱いものがある。
その熱意には、いつもながら、感心
してしまう。

占い師たちは、通りがかるぼくたち
に声をかけてくる。
一所懸命な占いへの誘いである。

黄大仙の駅から寺院につながる道
では、ご年配の方々が、一所懸命に
お線香を売っている。
ご年配の方々は独自のルールで
一列に並び、順番で、声がけをして
くる。
(ぼくもかなり迫られた。)

「香港なるもの」を感じるひと時
である。

 

(3)喧騒の中の「修行」

寺院は喧騒につつまれていた。

寺院の脇も、寺院の中も、人が行き
交い、声がとぶ。

香港の喧騒の中での「祈り」は
相当にむずかしいことを感じる。

ぼくは特定の宗教をもたない。

でもマインドを落ちつかせる
メディテーションはする。

喧騒の中でも、喧騒をものとも
しない心と精神をもつことは、
ある意味「修行」である。

香港はそんな機会を与えてくれる。

10年で相当鍛えられてきた
ぼくも、まだまだであることを
感じたひと時であった。


それにしても、
やはり「体験」は大切であること
を感じさせてくれた、黄大仙。

「書を捨てよ、街に出よう」
(寺山修司)の実感値が上がった、
「黄大仙」であった。

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香港, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港で、22年前の「旅」を振り返る - 「人との出会い」を考える。

1995年7月、初めて、香港に来た。飛行機でする旅としても、初めてであった。...Read On.

1995年7月、初めて、香港に来た。
飛行機でする旅としても、初めて

あった。

成田空港から、香港の(今はなき)
啓徳空港へのフライトであった。
今でもいつもそうなのだけれど、
「飛行機」が空を飛ぶという不思議さ
に、当時も思考の迷宮に陥っていた。

前年の1994年の夏は、
横浜港から上海への3泊4日のフェ
リーの旅であったこともあり、
たった3時間半ほどで日本から香港
へ着いてしまうことに、ぼくは
驚くばかりであった。

機内に乗り込む人たちを見ながら、
この人たちは、どんな思いで、飛行機
に乗って香港に向かうのだろうと、
ぼくは物思いにふけてしまう。

その機内で、ぼくの隣の席は、
若い日本人夫婦(のよう)であった。
夫である彼の方が、ぼくに話しかけて
きた。

彼らは中国生まれであった。
小学生くらいまでの人生を中国で
過ごし、それから日本に移った。
ご家族が在留孤児であったようだ。

彼は自衛隊に入隊し、
ひとまずの任期が終わり時間が
できたところで、旅に出たとのこと
であった。

機内ではいろいろな話をした。

自衛隊で、サリン事件で出動した
こと。
また、関西大震災でのことなど。

1995年は、1月に関西大震災、
そして3月には東京でサリン事件
が発生していた。

1995年3月20日、昼近くに、
ぼくは起床。
電車に乗って大学に向かうとき、
ぼくは、その路線のすぐ先で、
朝方にサリン事件が起きたことを
知った。

香港への旅は、同じ年の夏のこと
であった。

彼らに出会えて、いい人たちに
出会えたことを感謝した。

一人旅を通じて、ぼくは、
ほんとうに多くの人たちに出会
えた。
返還前の香港で、中国で、タイで
ベトナムで、ラオスで、ミャンマー
で。

その後も、シエラレオネ、東ティ
モール、香港で暮らしていく中で
いろいろな人たちに出会ってきた。

 

ぼくは「人との出会い」を考える。

第一に、出会ってきた人たちが、
ぼくの「内的な世界」を豊饒に
してくれた。

東京の部屋を出て、世界に飛び出
してみて、ぼくの「内的な世界」
は、いろいろな人たちと出会う中
で書き換えられていった。

「内的な世界」が、砂漠のようで
あるとしたら、
そこに木が植えられ、オアシスが
でき、街ができ、人が行き交い、
そのようにして「世界」ができて
いくようであった。

「自分(という現象)」は、
他者の集積でもある。
他者の「声」が、内化されて、
「自分」という現象が形成されて
いく。

「自分」は、その本質にして、
一人ではなく、他者の集まりで
ある。

出会いが与えてくれたことの
二つ目は、
「いろいろな生き方」や「いろ
いろな人生」があってもよいのだ
という感覚であった。

それまでは、人生は大別すると
二つしかないと思っていた。
レールにのる人生と
レールにのらない人生。
今思うとバカバカしいけれど、
当時のぼくは真剣に悩んでいた。

世界のいろいろなところで
世界のいろいろな国・地域の
人たちに出会う中で、この感覚と
考え方が崩れた。

人生は、カテゴリー化を許さない
のだと。
人の数だけ、人生はあるのだと。

だから、ぼくも、
魅力的な人生をつくっていきたい。
他者の「内的な世界」を豊饒化
するような生き方であり、
人生の数は人の数だけあるという
生き方である。

ぼくの(そして、ぼくと人生の
パートナーの)人生の旅は、まだ
始まったばかりだ。

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香港で、22年前の「ぼく」に出会う -「夢よりも深い覚醒」(見田宗介)という生き方。

香港の重慶大厦(チョンキン・マンション)の前で、ぼくは、22年前の「ぼく」に出会う。...Read On.

香港の重慶大厦(チョンキン・マンシ
ョン)の前で、ぼくは、22年前の
「ぼく」に出会う。

ぼくは、1995年7月15日、はじめて
訪れた香港
の街をさまよった挙句に、
やっとの思いで重慶大厦に到着した。

2017年のぼくは、重慶大厦の前で、
バックパックを背負い、一人で、香港
や海外を歩いていた「ぼく」を見たのだ。

1995年のぼくは、このめくるめく香港
という「大きな世界」で、不安と興奮の
内におかれていた。

2017年のぼくは、1995年、どのように
このエリアを「さまよった」のか、
わからない。

ぼくには、ふたつの気持ちが湧き上が
った。
ひとつは、ドライに、こんな小さな空間
で、どうして迷ったんだ、という気持ち。
もうひとつは、1995年に感じた「大きな
世界」に今更ながら入りこみ、そこで
不安と興奮をかかえこむ気持ちである。

ふと、社会学者・見田宗介(=真木悠介)
の、鮮やかな文章が脳裏によみがえる。

その文章は、竹田青嗣の著書『陽水の
快楽』によせられた、見田の「解説」
であった。

見田宗介は、音楽家の井上陽水が
竹田青嗣にとってどのような存在で
あるのかを、こんな風に表現している。

 

『招待状のないショー』(1976年)
の絶唱「結詞」に至る陽水の仕事の
うちに竹田が聴くのは、つぎのような
ことだ。
 青春の夢を必ず訪れる挫折をとお
して、「ひとは、憧憬や感傷や理想
を奥歯で咬み殺すリアリストになる。
陽水にもその痛恨が滲みなかった
はずがないが、彼は自分の中の
リアリストの方を噛み殺したのだ。」
 夢から醒める、ということが、
感動の解体であるばかりでなく、
いっそう深い感動の獲得でもある、
というところにつきぬけていく力
として、陽水は竹田にとってある
ようにぼくにはみえる。

見田宗介「夢よりも深い覚醒へ
ー竹田青嗣『陽水の快楽』」
『定本 見田宗介著作集X』所収



この「解説」は、「人生の生き方」
を変える力をもつ文章である。
少なくとも、ぼくは、この文章に
心から共感し、励まされてもきた。

2017年のぼくは、1995年の
「ぼく」に向かって、したり顔で
「香港の街は知っているよ」と、
声をかけたくなる。

けれどもぼくは、「心の深い地層」
では、あの「大きな世界」で、
不安と興奮が呼び覚まされている。

「夢よりも深い覚醒」へ。

2017年に「重慶大厦」の前で
出会った1995年の「ぼく」は、
2017年のぼくを、夢よりも深い
覚醒に、いざなってくれたように
ぼくは感じている。

ぼくは、リアリストの方を
噛み殺したのだ。

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香港で、香港の記憶をめぐる - 「重慶大厦」に「1995年の記憶」をみる。

香港は、ビクトリア湾を境に、香港島と九龍・新界側にわかれている。Tsim Sha Tsuiは九龍側の先端に位置し、香港島の美しい風景に面している。...Read On.

香港は、ビクトリア湾を境に、
香港島と九龍・新界側にわかれて
いる。
Tsim Sha Tsuiは九龍側の先端に
位置し、香港島の美しい風景に
面している。

そのTsim Sha Tsuiに、「重慶大厦」
(チョンキン・マンション)が佇ん
でいる。
重慶大厦は、安宿が集合している
建物である。
主要道路であるネーザンロードで、
その存在感を放っている。

1995年7月15日。
ぼくは、はじめて、香港の地に降り
立った。
香港はまだ、イギリス統治下であっ
た。
ぼくにとっては、はじめての飛行機
による旅でもあった。
前年1994年の中国旅行は、
日本から/へフェリーを利用した
ため、はじめての飛行機による旅
であった。

バックパッカーたちの情報からは
重慶大厦は安宿として有名であった。
だから、ぼくも、重慶大厦を目指し
た。
もちろん、予約などせずに、飛び
込みでいくつもりであった。

香港空港は今とは場所が異なり、
住宅街に突如とあらわれる啓徳空港
であった。
その位置から着地が難しいなど、
当時はまったく知らず、スリリング
な着地は、機内で拍手を巻き起こした。

夜10時にさしかかるところであった。
香港は雨が降っていた。

入国審査に時間がかかる。
バスの路線がまったく理解できない。
不安だけがつのっていく。

外国人バックパッカー群が、
乗り降りするところで、ぼくも
乗り降りをする。

バスを降りると、
そこには「香港の街」が広がっていた。
雑多で喧騒の通りが、ぼくを迎えた。

コンビニや東急などの都会に様相に、
ぼくは安堵とともにがっかりした。

ぼくは、その香港の街を、バック
パックを背負って、さまよった。
2時間以上もさまよい、時計は
夜中の12時をすでに超えていた。

飛行機で隣りに座っていた日本人
夫婦は、すでにホテルに着いている
だろうかと、気にかかった。

宿探しに途方に暮れ、
マクドナルドで休憩することにした。
マクドナルドで座りながら、考える。
宿をあきらめ街をふらつくか、
もう一度探すか。
考えた末、ぼくはもう一度トライ
することに決めた。

新たな決心のもとに5分ほど歩くと
ぼくは、安宿があるエリアに戻って
きていることに気づいた。
「よし」と、力がわいてくる。

歩きに力が入る。ぼくは、そうして
「重慶大厦」の文字を見つけたのだ。

夜中の1時になろうとしているとこ
ろであった。

こんな時間に宿を見つけられるか
わからなかったけれど、
適当な安宿の前で、入り口のベルを
ならす。

誰もでてくる気配がなく、
ぼくは、あきらめと共に、引き返す。

それと同時に、ドアが開く音が響く。

宿の管理人と思われる、ヨーロッパ
系の女性が、ぼくを招き入れてくれた。
ぼくは拙い英語で、しかし興奮気味に
泊まりたい旨を伝えていた。
こうして、ぼくは、宿のドミトリーに
泊まることができた。


あれから、22年の歳月が流れようと
している。

こうして、香港に住み、重慶大厦を
眺める。

改装された重慶大厦は、今も、
そこに存在感を放っている。

そこに、ぼくは、香港の記憶を
めぐる。
香港にいながら、香港の記憶を
めぐる。

今となっては、はじめて香港に到着
した夜、どこの道をどうやって、
さまよっていたのか、わからない。
あのマクドナルドが、どこのマクド
ナルドだったのかもわからない。

ただ、ぼくは、確かに、この地に
降り立ち、さまよい、重慶大厦に
辿りついた。

それは、子供のとき、不安と興奮で、
裏山を「探検」したときと似ている。
大人になったとき、その裏山を
訪れると、探検という言葉には
似合わない程の場所であった。
でも、子供のときには、そこが、
ひとつの「大きな世界」であった。

そして、あの旅で、
ぼくは、香港に将来仕事で来る
ような「予感」を抱き、
ぼくは、今こうして香港にいる。

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