香港で、(11回目の)中秋節の夜を迎えながら。- 公園にくりだす子供たちの笑顔にみる「月明かり」。
香港で、11回目の中秋節の夜を迎える。昼間のにわか雨は地上を涼しくし、夜空に雲がひろがる中で、時々、月がその姿を雲間にのぞかせる。...Read On.
香港で、11回目の中秋節の夜を迎える。
昼間のにわか雨は地上を涼しくし、夜空に雲がひろがる中で、時々、月がその姿を雲間にのぞかせる。
香港は中秋節の当日は祝日ではないけれど、企業は(全てではないけれど)慣習上、夕方や午後などに社員が早帰りできるようにしたりする。
夜がやってくると、家族は子供たちをつれて、公園などにくりだす。
子供たちは、手に「(電気式の)提灯」をもって、楽しい様子で動き回っている。
提灯は、ハローキティなどの「キャラクター物」から、シンプルな物まで、いろいろある。
中には手作りの提灯まである。
そのような風景を今年も目にしながら、中秋節を迎える。
提灯の灯りだけでなく、子供たちや大人たちの笑顔で灯される風景を見て感じながら、いい風景だなと思う。
いい風景だと思いながら、二つのことを考える。
ひとつは、子供たちが子供たちであること。
子供たちを一定のイメージに押し込めるわけでは決してないけれど、子供たちが屋外で、歩き回ったり走ったりしている姿に子供たちを見る。
都会化と学歴社会の進化の中で、子供たちが早い次期から大人のような生活になげこまれる。
あまりにも対称的だけれど、東ティモールの山間部の子供たちは、学校が終わると山を駆け回る姿を、ぼくはいつも目にしていた。
どちらがいいとかそういうことではなく、ただ、子供たちが見せる笑顔は正直である。
二つ目は、夜の屋外での遊びという、非日常の経験である。
祭りや祭り的なイベントの「効用」として、日常に「非日常性」をひらくことで、人や社会の内に内包される混沌や無秩序的なものが現象する。
そうして、普段、日常として秩序立てられた人と社会に風穴をあけるようにして、バランスをとる作用がある。
非日常性を通過することで、その後に経験する日常は、これまでと異なる日常であるように感じられることもある。
さまざまな文化には、そのような非日常性の経験としてのイベントが、行事や儀式的に埋め込まれている。
中秋節に、夜遅くに屋外に出て、遅くまで遊ぶ。
日常においては、許されていない行為が、中秋節に一時的に解き放たれる。
文化という枠組みの中ではあるけれど、秩序を意図的に崩す。
そのような文化が、高度に都市化された香港で、生きている。
ぼくは、そんなことを考えながら、提灯をもって公園ではしゃぎまわる子供たちを眺める。
「子供」という「自然」が、その自然を花開かせるときである。
曇り空に月はあまり見えないけれど、地上では子供たちの笑顔が「月明かり」の明るさをたたえている。
公園いっぱいに笑顔がひろがる中秋節が今年も訪れていることに、ただ有り難さを感じる、香港で11回目の中秋節である。
香港で、(食べずに)「月餅」を楽しむ方法。- 月餅の種類と売られ方に惹きよせられて。
中秋節を明日10月4日に控え、ここ香港の街は「中秋節」の彩りが濃くなってきている。...Read On.
中秋節を明日10月4日に控え、ここ香港の街は「中秋節」の彩りが濃くなってきている。
中秋節の当日と、香港の祝日となる「中秋節の翌日」共に、天気のいたずらで月は見えないかもしれないが、街では「月餅」がいたるところで、いっぱいの「光」を放っている。
一年の行事の中で、旧正月と冬至と並んで大切にされる「中秋節」に「月餅」が彩りを添える。
月餅は、歴史や言い伝えなどがいろいろに語られるが、現代においては、家族などで一緒に食べることを楽しんだり、ギフトとしての役割も担っている。
甘い月餅はとても甘かったりするから、ぼくは例年、あまり食べないけれど、食べないなりに「月餅」を楽しんでいる。
ぼくが食べずに楽しむ方法は、秋の訪れを感じることの他に、月餅の種類を楽しみ、月餅の売られ方を観察し、そしてビジネスや社会を分析することである。
「甘み」も何もない方法だけれど、ぼくとしては<甘みのある楽しみ>の一つである。
まずは、月餅の「種類」である。
大きくは、甘系と塩系がある。
そこから、それぞれに数え切れないほどに、中身のバリエーションができていく。
中身のバリエーションも、ただ具を変えていくということにとどまらずに、例えば、下記のような広がりをつくっている。
● ブランド志向:ブランド名が刻印された月餅
● 健康志向:例えば「低糖」、保存料調整などの月餅
● モダン:アイス月餅、ドリアン入りの月餅など
● 月餅の「形」をしたスイーツ:月餅の形をした「チョコレート」など
● 月餅の「入れ物」の原型だけを残したもの:容器が月餅で中身は他のお菓子など
● 製造場所:「香港製造」に刻印が押された月餅
● その他
この10年を見てきても、香港における月餅のバリエーションの広がりには驚かされる。
月餅の「種類」に加えて、「売られ方」にも、いつも惹きつけられてしまう。
例えば、次のようなところである。
● 販売時期:いつ頃から売られ、いつ頃にピークを迎えるかなど
● ディスカウント(早割):早割価格が設定されていたりする
● ディスカウント(量):「何箱購入で、何箱フリー」的なディスカウント
● ディスカウント(その他):中秋節後のディスカウントなど
● 個別売り/箱売り:ひとつで購入できるか、箱での購入かなど
● 販売場所:店頭だけでなく、特設場所など
● その他
クーポンなどもあって、売られ方のバリエーションも広がりをもっている。
これらに加えて、プロモーションの仕方なども観察しながら、その売られ方に香港の凄さを見ることができる。
香港の街やショッピングモールを歩きながら、足を止めては、月餅の種類や売られ方を観察し、いろいろと考えることに、ぼくは楽しみを見つける。
コマーシャル化された中秋節の風景のひとつだと言われれば、そうだと言わざるを得ないけれど、そのような批評も飛び越えてゆくほどに、多種多様で多彩な月餅が「光」を放っている。
そして、ぼくは思う。
「中秋節」や「月餅」を大切にする人たちがいて、そこに深い「幸せ」を感じる人たちがいる。
表層的な形を変えても、そこに文化があって、人と人とのつながりがある。
そんなことを考えながら、明日中秋節には久しぶりに月餅を買って、(ひとつ丸ごとは食べられないから)妻と一緒に食べようかと、ぼくは思っている。
香港で、紅茶・ミルクティとコーヒーが出会うところ(「鴛鴦」)。- 四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』の繊細さ。
香港にいながら、「香港」に関する本を探していたときに、共に文学や批評を専門とする四方田犬彦と也斯の往復書簡をまとめた本、『いつも香港を見つめて』を見つけた。...Read On.
香港にいながら、「香港」に関する本を探していたときに、共に文学や批評を専門とする四方田犬彦と也斯の往復書簡をまとめた本、『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)を見つけた。
その時は、読もうと思わなかったのだけれど、今、この本を手にしてみて、四方田犬彦と也斯の繊細な観察眼と文章に心をうたれる。
また、也斯の文章を日本語に訳しているのは池上貞子先生で、大学時代に、池上貞子先生の授業で中国文学を学んだことを思い出す。
「香港に横たわっている文化的多層性を歴史的文脈のもとに分析的に観察する力」(四方田犬彦)によって、ぼくが今いる香港をその歴史という重層性とともに見せてくれるとともに、大学時代に遡るぼく自身の「歴史」も重なりながら、時間と空間がさまざまに交錯するような読書体験を、ぼくは味わう。
往復書簡は、さしあたって、也斯の「香港」と四方田の「東京」を行き来する。
四方田は日本・東京という立ち位置から文章を書き、香港に届ける。
日本の読者は、通常は、同じように日本にいて、「身体的」には同じ立ち位置から、この本を読む。
ぼくは今は香港で、この本を読んでいるから、四方田の語りが、時に香港にいるぼくに宛てられるような気がして、不思議な感じがする。
そのような読書体験を楽しみながら、二人の繊細な文章に心が動かされる。
也斯は、往復書簡において「食べ物」を題材にはじめることを提案する。
食べ物からコミュニケーションを開始することは、「真っ先に他の文化との接点を知ること」(也斯)になるからである。
文化と文化との<境界線>を越えてゆくのに、食べ物はコミュニケーションを容易にしていくのだ。
也斯は、「香港の食」の話を、香港の喫茶店でだされる独特の飲み物を題材につくった彼の詩を紹介することではじめる。
鴛鴦
五種類の異なる茶葉からつくる
濃厚なミルクティー 布の袋か
あるいは伝説のストッキングで やんわりと混雑を包み
もう一つのティーポットのなかに注ぐ その時間の長さが
茶の味の濃さの決め手 この加減が
うまく調節出来るかしら もしも ミルクティーを
もう一つのカップのコーヒーに混ぜたら この強烈な飲み物は
圧倒的な力で 相手を抹殺してしまうだろうか
それともまったく別の味? 街頭の屋台では
日常というかまどの上に 義理人情と世故を積みかさね
日常の世俗さと高尚さを混ぜあわせる 勤勉なそしてまたすこしだけ
散漫な……あの何とも表現しようのない味
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
ここで描写される飲み物が、紅茶とコーヒーをミックスしてつくられ、「鴛鴦」(Yuenyeung, Yinyeung, Yinyong)と呼ばれる飲み物だ。
ぼくも初めて口にしたときには、「散漫な……あの何とも表現しようのない味」を感じたものだ。
也斯は、この詩で、「二種類の異なる事物を混ぜあわせること」と、香港における「東西文化の合流」を重ね合わせながら、文章を紡いでゆく。
「東西文化」の融合の結果として、香港では「ミルクティ」が一般に飲まれている。
店ごとに味が異なり、それを試していくのは、楽しみのひとつだ。
美味しいミルクティの「淹れ方の秘訣」は、いろいろな言い伝えがあったと、也斯は紹介している。
…最も荒唐無稽な説は、女性の絹のストッキングで濾すと、美味になるというものです。実は、この言い伝えも香港の歴史の発展段階と関係があります。五十年代に上環の三角碼頭で働いていた労働者たちが、そのあたり一帯の屋台を歩き回っているうち、茶を煮出した袋を見つけました。それはちょうどその頃に西洋から香港に入ってきたばかりの、女性用の肌色のストッキングにそっくりだったのです。…
四方田犬彦・也斯『いつも香港を見つめて』(岩波書店、2008年)
この「勘違い」が伝わって、ストッキングで濾したお茶はおいしいということになったという。
香港の紅茶の煮出しを知っている人たちは、この「勘違い」を笑うことはできないだろう。
也斯の詩には、その言葉と行間から、「香港」を感じることができる。
香港の喧騒に囲まれ、立ち止まることを忘れてしまいそうになる中で、也斯の言葉が「香港」を繊細な仕方で、ぼくに語ってくれる。
往復書簡は、香港と日本の交錯が、上述のように、歴史的な文脈による文化的多層性の中で語られ、また読み解かれてゆく。
ここ香港にいて、その語りに耳をすましていると、やはり、時間と空間の軸が、ぼくの想像の中でぶれて曖昧になっていくのを感じる。
現在の都市空間に、過去の風景が見えてくる。
文化性に欠けると言われる香港だけれど、そこには<文化>が見えてくる。
人がいるかぎり、そこには人々の生から形作られ、伝えられる<文化>がある。
見えないものを見る力を、也斯と四方田は教えてくれる。
也斯が香港の文学や作家が陽の目をみることを望みながら他界したのが2013年。
あれから4年。
香港の文学や作家たちは、也斯の望みをどのように承継しているのだろうか。
紅茶・ミルクティとコーヒーが出会う、ここ香港で。
自然がつくりだす「アート」としての青空と雲を眺めながら。- 香港にひろがる青空の彼方へ。
中秋節を10日後ほどに控え、至るところが月餅で彩られる香港は、暑い日差しが差しながらも、香港のはるか南を通り過ぎていく台風の影響もあってか、やや強めだけれど気持ちのよい風が吹いていく。...Read On.
中秋節を10日後ほどに控え、至るところが月餅で彩られる香港は、暑い日差しが差しながらも、香港のはるか南を通り過ぎていく台風の影響もあってか、やや強めだけれど気持ちのよい風が吹いていく。
季節の移り変わりを感じさせる青空と雲が、ぼくたちの頭上に、ひろがっている。
風が雲を急ぎ足にさせて、頭上にひろがる風景は万華鏡のように、そのデザインと色合いを変えていく。
まるで、青空のキャンバスに、自然が織りなす「アート」のライブショーを見ているようだ。
香港の晴れた午後に、エクササイズとしてのウォーキングに出かける。
強めの風を肌に受けながら、空に浮かぶ雲は刻々と姿を変えていく。
30度を超える夏日だけれど、風が吹き抜けていくため、暑さは気にならない。
時折、小さな雨雲がよこぎっては、少しの雨粒をおとしていく。
雨雲がさり、真白い厚い雲の出番となり、雲の合間から日差しが勢いよく差してくる。
その内に、厚い雲が青空のキャンバスの脇によせられ、青空が顔を出す。
青空には、白い絵の具をつけた絵画の筆を勢いよく無造作に走らせたような雲が描かれている。
その風景の<美の重力>を感じて、歩みをとめ、空を見上げる。
<美の重力>は、視界を地球の中心に向けてではなく、地球の外部に向けて、ぼくをひっぱっていく。
まるで宇宙にいて、宇宙から地球を見ているような錯覚をおぼえる。
見上げながら、空と雲と風と太陽などが織りなす「アート」に惹き込まれていた妻が、顔を上げたままに、ふと口にする。
「(通りがかりの)他の人たちも、私たちにつられて、空を見上げるかしら。」
彼女はそのまま空に見入っていて、ぼくが周りに目を向ける。
ジョギングをする人たち、歩いている人たち、サイクリングをしている人たち、話し込んでいる人たちなどが視界に入ってくるけれど、ぼくの視界の中では、誰も空を見上げてはいなかった。
「誰も見上げていないね。」
ぼくは言葉を返しながら、ライブショーを続ける空へと再び目を向ける。
空は三日月をうっすらと描き、そして、小さくなって飛んでいく飛行機も描き足していく。
「アート」は刻一刻と変わっていく。
そろそろ、見るのをやめないと。
ぼくは心の中でつぶやく。
<世界の見方>を間違わないように。
頭上に描かれる「アート」は、ライブショーをひとまず終わらせようとしていたのだ。
まぶたの裏に、終わりの風景が焼き付けられないように、「終わる」前に、ぼくは目を離さなければと思うのだけれど、どうしてももう少し見ていたいと思ってしまう。
あやうく「終わる」ところで、ぼくは目を空にひろがる「アート」からそらすことができた。
再び歩きはじめて、空に白く厚い雲がおおっていくのを、目の端がとらえる。
ぼくのまぶたの裏には、あの「アート」が残っていて、<美の重力>の余韻も感じられる。
その余韻の中で、香港にひろがる青空の彼方へと、ぼくはひきこまれていく。
有限な地球の中で、じぶんが無限にひらかれていくのを感じるひとときである。
香港で、「秋」を感じさせる3つのこと。- 中秋節に向けて、彩られる香港。
9月に入っても、日中は30度を超え、夜も25度を下回らない香港。亜熱帯に属するここ香港で、「秋」の訪れを感じるのは、ぼくにとって3つのことである。...Read On.
9月に入っても、日中は30度を超え、夜も25度を下回らない香港。
亜熱帯に属するここ香港で、「秋」の訪れを感じるのは、ぼくにとって3つのことである。
一つ目は、香港らしいところから言うと、「月餅」が店頭に並びはじめるとき、秋の足音が街に聞こえてくる。
月餅は、旧暦8月15日にあたる「中秋節」に食す風習があり、中秋節から2ヶ月くらい前から、広告が貼られ、店頭に並べられる。
2017年は10月4日が「中秋節」にあたる。
月餅についてはまた別に書こうと思うが、毎年、種類が増え、多様化していて、店頭に並べられるタイミングも若干早めになってきている。
秋の訪れを感じさせることの二つ目は、中秋節に向けて、「提灯」がかかげられる風景である。
提灯は、ろうそくではなく、現代では電燈によって光が灯される。
街や住まいの敷地などに、提灯がかかげられ、秋がまた一歩、歩みをよせる。
中秋節の当日には、子供たちは、いろいろなキャラクターや動物の提灯を手に、月が光を届ける屋外ですごす。
都会の生活の中にも、伝統と文化が根をはっている。
それから、三つ目は、「とんぼ」たちが、悠然と飛んでゆく姿である。
散歩の道すがら、あるいはジョギングの最中に、とんぼたちに、ぼくは出くわすことになる。
外は夏日に彩られながら、その中を、とんぼたちが現れる。
とんぼは、秋が近いことを、ぼくに知らせてくれる。
香港は四季の「段差」がそれほど大きくなく、夏日がそのまま冬に変わっていくようなところがあり、香港の秋は束の間の時間のように感じられる。
都会の生活は、さらに、季節の姿を見えなくさせる。
そのような中で、月餅、提灯、とんぼたちは、ぼくに「秋」の訪れを感じさせてくれる。
香港の「秋」を迎えるのも、今年で11回目である。
外部的な視点で見ていたこれらの風景が、いつしか、ぼくの生活の一部として、ぼくの中に内在している。
今年の中秋節に、月はその美しい姿で、どこまでも透き通った月光で香港を照らし出してくれるだろうか。
昨日20日は新月であった。
これから中秋節に向かって、月はゆっくりと、美しい姿を整え、光を宿してゆく。
月餅と提灯ととんぼも、中秋節に向けて、香港に彩りを与えてくれる。
近代化が透徹する現代社会であっても、これらの彩りはその灯を完全に消すことなく、ぼくたちの社会と人に生きている。
香港で、レストランにて、ぼくの2度の推測をくつがえした「謎の白いモノ」(写真)。- 思い込みとサプライズの狭間で。
香港のレストランで、ぼくの2度の推測をくつがえした「謎の白いモノ」(写真)に楽しんだ。...Read On.
香港のレストランで、ぼくの2度の推測をくつがえした「謎の白いモノ」(写真)に楽しんだ。
楽しむと共に、そのことにいろいろと考えさせられた。
ただ楽しんでいればよいものを、考えてしまうのはぼくの習慣だ。
中国料理のレストランでのこと。
まず席に案内され、席につくと同時に「何のお茶にするか」を聞かれ、「ジャスミン茶」を頼む。
それからメニューをながめ、料理は二種類注文する。
ひとつは「上海風焼きうどん」、もうひとつは「大きなスープとパフ米」であった。
それから、お手拭きを頼み、席でお茶を飲みながら、料理が来るのを待っていた。
そこで出てきたのが、写真の白いモノであった。
白い小さい皿に、謎の白いモノが載っていた。
ぼくの頭に最初に浮かんだのは、「キャンドル」か何か、というイメージであった。
「大きなスープ」を頼んだので、その小さな鍋か何かを温めておくための、小さなキャンドルか何か。
以前、同じレストランで頼んだ、小さな鍋のイメージが湧き上がったのだ。
その時は、小さな鍋の下にキャンドルが灯され、冷めないようになっていた。
そう思っていると、ウェイターの方が、手にもっていたお湯のポットで、その白いモノに少量のお湯を手際よくかけるのが見えた。
その白いモノは、お湯を受けて、膨らみはじめた。
それはマシュマロのようで、キャンドルではないと思ったぼくの頭に次に浮かんだのは、「大きなスープ」についてくる何らかの素材かな、ということだった。
乾燥したパフ米はスープの中に入れることになっていたから、その他にもスープとは別に運ばれてくる素材があると思ったのだ。
そう思っていると、その白いモノはさらに大きさを拡大しながら、その実態をあらわにし、ぼくを驚かせた。
それは、なんと、「お手拭き」だったのだ。
お手拭きは、プラスチック包装されたお手拭きがくるかと思っていたから、そのギャップはまったくのサプライズになった。
ぼくは、「二重の思い込み」をしていた。
一つ目は、「大きなスープ」のイメージに引っ張られ、白いモノはそれに関連するものだと思ってしまったこと。
二つ目は、お手拭きは(以前このレストランで出されたように)プラスチック包装のお手拭きだと思ってしまっていたこと。
(それからついでに言えば、お手拭きは「縦」向きには出されないと思っていた。)
人の意識というのは、日々のシミュレーションの集積のようなものであるから、「日々のシミュレーション」に引っ張られてしまう。
それにしても、日々のシミュレーションとしての思い込みは怖いなと思いつつ、だからこそ、いろいろな「サプライズ」があるのだとも考えてしまう。
人の世界は、さまざまな両義性の網の中にある。
それらは、人を困らせもするけれど、人を楽しませることもする。
サプライズやマジックはその間隙に生まれる。
ウェイターの方は、香港ならではの手際のよさで、「お手拭き」を提供する一連の作業をこなす。
あたかも、この一連の作業を楽しんでいるかのようであった。
2度の予想をはずしたぼくの前で、この「お手拭きのマジック」を知っていて、半分意図的にお手拭きを頼んだ妻は、ぼくの反応にたいして無邪気な笑いをなげかけていた。
香港のとあるレストランで、ぼくは「お手拭き」にマジックを見せられ、楽しまされ、そして教えられた。
直接的にそのお陰ということではないけれど、その後運ばれてきた料理は、期待していた以上においしかった。
香港で、「香港人口予測」(2017年-2066年)から考えること。- 個人・組織・社会の「構想」へ。
香港政府が2017年9月8日に、『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)を発表した。...Read On.
香港政府が2017年9月8日に、『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)を発表した。
「超高齢社会になる」ということはすでにわかりつつ(しかし準備ができていないけれど)、関連することとしてぼくの関心を挙げるとすれば、大きく三つある。
- 人口推移における安定平衡的な社会(「高原・プラトー」)
- 平均余命(Life Expectancy)に見る、ライフステージの変遷
- 香港の企業などの組織と雇用の問題・課題
一つ目は、社会全体の行く末を見晴るかすものとしての全体像であり、二つ目は、人の人生のライフステージを変えてゆく動力のひとつであり、そして三つ目は、組織また個人としての雇用の問題・課題である。
今回の人口予測も、これら三つを考えさせてくれる「予測」となっている。
「数値」は、予測であっても(予測であることを理解しながら)、実際の動向を「見える化」してくれる。
今回の「香港人口予測」の数値は、例えば、下記のようだ。
【人口】
・2016年:734万人
・2043年:822万人
・2066年:772万人
【(超)高齢社会:65歳以上の人口】
・2016年:人口の16.6%
・2036年:人口の31.1%
・2066年:人口の36.6%
【平均余命】
・2016年:男81.3歳、女87.3歳
・2066年:男87.1歳、女93.1歳
【労働力】
・2016年:362万
・2019年ー2022年:367万から368万
・2031年:351万
・2066年:313万
これらの数値を見ながら、最初の三つについて、簡易に「問題・課題のありか」を書こうと思う。
<1. 人口の推移における「高原」>
人口の推移における「安定平衡的な社会」が、予測の中に明確におさまってきている。
つまり、人口は増え続けるのではなく、安定平衡的な社会へと向かっている。
香港に限らず、世界の先進諸国・地域は、すでにそこへと向かっている。
生物学者が「ロジスティクス曲線」と名づける推移に触れて、社会学者の見田宗介はこの「事実」に注意を向けている。
「ロジスティックス曲線」とは、縦軸に「個体の数」、横軸に「時間の経過」をとる座標軸におけるS字型の曲線である。
成功した生物種は、この座標軸の第I期を経て、第II期に爆発的に反映し、第III期で繁栄の頂点の後に滅亡していく(「修正ロジスティックス曲線」)。
この経路が「S字」をなしている。
哺乳類などの大型植物はより複雑な経路をとるといわれるが、人間という生物種も基本的には、ロジスティックス曲線をまぬがれないといわれる。
1960年代には地球の「人口爆発」が主要な問題であったけれども、前世紀末には反転して、ヨーロッパや日本のような「先進」産業諸国では「少子化」が深刻な問題となった。「南の国々」を含む世界全体は未だに人口爆発が止まらないというイメージが今日もあるが、実際に世界全体の人口増加率の数字を検証してみるとおどろくことに、1970年代を尖鋭な分水嶺として、それ以後は急速かにかつ一貫して増殖率を低下している。つまり人類は理論よりも先にすでに現実に、生命曲線の第II期から第III期への変曲点を、通過しつつある。この時点からふりかえってみると、「近代」という壮大な人類の爆発期はS字曲線の第II期という、一回限りの過渡的な大増殖期であったことがわかる。そして「現代」とはこの「近代」から、未来の安定平衡期に至る変曲ゾーンと見ることができる。
見田宗介「現代社会はどこに向かうか」『定本 見田宗介著作集I」岩波書店
この「未来の安定平衡期」が、香港においても、すでに予測された数値で指し示されている。
<2. 人生のライフステージ/3. 組織の雇用>
香港の平均余命も、確実に、「100歳」を射程圏内にとらえている。
女性はいよいよ90歳代へと突入していく。
リンダ・グラットンが著書『LIFE SHIFT:100年時代の人生戦略』で述べているように、今成人しているような人ではなく、今生まれたりこれから生まれる世代は「100歳」を生きていく。
伝統的な人生の「ライフステージ」(教育ー仕事ー定年の3サイクル)は、確実に変容していく。
香港の英字紙「South China Morning Paper」は、香港政府の「人口予測」の発表を受けて、「Thinking of retiring at 60? Think again - we’ll work longer, Hong Kong population projection shows」という記事を掲載している。
高齢社会の進展と労働力の減少を、(法的な定年年齢はないが)<定年年齢の(考え方の)見直し>と<高齢者と女性の労働力>で補完していくことが書かれている。
個人の視点からは「ライフステージ」のサイクルは変容していく方向に流れ、組織の視点からはそのような個人を雇用する仕方の変容におされていく。
個人の「生き方」の問題であり、組織の「組織つくり・マネジメント」の問題である。
香港の人口予測は、おそらく、これからのテクノロジーの発展(人工知能やIoT、先端医療など)や社会の発展(ベーシック・インカムなど)の可能性については、織り込んでいない。
これらの動きも見据えながら、個人が、組織が、社会が、どのように「未来の安定平衡期」への「移行」をとげていくのかが、今問われるべき問題・課題だ。
ぼくは、これらの大きなテーマを、大きくある必然性の中で一度「全体像」として描きながら、その中で各論(特に生き方や働き方、組織つくりやコミュニティつくりなど)に落としていく方途を、当面の課題としている。
それは、「予測」に生きるのではなく、予測を参考にしつつも、個人や組織や社会を「構想」していくという能動性に生きる生き方である。
香港で、ブルース・リー(李小龍)の「生の物語」に触れる。- 「直筆の文字」に、ブルース・リーを視る。
香港文化博物館では、2013年7月20日から2018年7月20日の5年にわたって、ブルース・リー展『Bruce Lee: Kung Fu・Art・Life』が開催されている。...Read On.
香港文化博物館では、2013年7月20日から2018年7月20日の5年にわたって、ブルース・リー展『Bruce Lee: Kung Fu・Art・Life』が開催されている。
ブルース・リー(Bruce Lee、李小龍)は、言わずと知れた、武道家であり映画俳優である。
香港に住んでいてブルース・リーを普段身近に感じることはあまりないけれど、香港と言えばブルース・リーとも見られ、香港の顔でもある。
1940年にサンフランシスコで生まれたブルース・リーは、香港で育った。
それから、18歳でアメリカに渡り、勉学と武道に傾倒していくことになる。
その後アクションスターとなったブルース・リーは、1973年に32歳の若さで他界したが、今でも、多くの人たちを魅了してやまない。
ブルース・リー展『Bruce Lee: Kung Fu・Art・Life』では、600点以上もの展示物を陳列し、ブルース・リーの人生の軌跡を追っている。
ブルース・リーが着た「黄色いトラック・スーツ」、ブルース・リーが使ったヌンチャク、数々の写真などなど、ブルース・リーのファンにとってはたまらない展示となっている。
また、ブルース・リーのファンでなくとも、そこに、人を魅了してやまない人物が生きてきた人生の軌跡と魅力を見ることができる。
ブルース・リーという「ひとりの生」の物語が、そこで語られている。
渡米したブルース・リーが「哲学」を学んでいたことなど、ぼくはまったく知らなかったから、それだけでもぼくの興味を引くものであった。
アクションスターというイメージからは程遠い哲学ということに、しかし、ブルース・リーという人物を重ね合わせながら、それもわかるような気もした。
そして、ぼくが興味を持ったのは、ブルース・リーの「直筆の文字」であった。
「直筆の文字」に、ぼくは魅かれる。
そこに、その人の生が浮かびあがるような気がする。
同博物館の展示『八代帝居:故宮養心殿文物展』(2017年6月29日ー10月15日展示)においても、ぼくは中国の清代の乾隆皇帝が手書きで書いた文字に魅かれる。
手書きの文字を心の中でなぞりながら、そこに、その人の気持ちを読みとる。
ブルース・リーの几帳面な文字は、ブルース・リーの人となりを物語っている。
手書きの文字の中で特に興味を引いたもののひとつは、彼の「武術トレーニング」のメモだ。
メモには、詳細に、トレーニングの仕方が記載されている。
毎日決められたスケジュールにしたがって、たんたんとトレーニングを積んでいくブルース・リーの姿が見えるようだ。
この積み重ねが「ブルース・リー」をつくってゆく。
それから、武術を教えるために(確か)スイスに出張していたブルース・リーが、リンダ夫人に宛てた手紙に、ぼくは魅かれる。
そこには、「ナイトクラブなどには興味なく、リンダのことを考えている」旨が書かれている。
ブルース・リーのリンダ夫人への「配慮」に、ぼくは学ばされる。
それが、「直筆の文字」だからか、気持ちが伝わってくるようだ。
ぼくは、「直筆の文字」とその行間に、ブルース・リーの姿と心情を感じる。
ところで、ブルース・リーの令嬢である「シャノン・リー」が、現在「Bruce Lee Family Company」を運営していて、Podcast『Bruce Lee Poscast』(英語)を世界に向けて届けている。
Podcastは、ブルース・リーの生と哲学からの学びを届けている。
53話(2017年7月6日発信)は、「Meaning of Life」(人生の意味)と題されている。
ブルース・リーは、人生の意味について、「The meaning of life is that is to be lived.」と述べていたという。
シャノン・リーは、こう付け加えている。
What he means by this is that life is meant to be engaged with, present in, taking action toward; it is not to be conceptualised or only thought about, but actually participated in.
(この言葉で彼が言おうとしていることは、人生というのは、関わるものであり、そこに在るものであり、それに向かって行動をするものである。人生は、概念化されるものではないし、またただ考えるものでもなく、実際に参加するものである。)
Podcast『Bruce Lee Poscast』「Meaning of Life」
また、ブルース・リーは、「water(水)」(の流れ)を人生のメタファーとしていたことに触れ、さらにこう付け加えている。
Living exists when life through us - unhampered in its flow….
(人生がその流れを妨げられずにわたしたちを通過するとき、生きることは在る。)
Podcast『Bruce Lee Poscast』「Meaning of Life」
ブルース・リーは、哲学を学んできたことからも推測されるように、けっして考えなかったわけではないし、誰よりも考え、学ぶことを生きてきたはずだ。
しかし、ブルース・リーは、人生を生きるというより、<生きるということに生きてきた>ということである。
人生というものがあってそれを生きるのではなく、水のように流れる生そのものに内在して生きてきたということだ。
そして、シャノンが繰り返し述べているように、その流れのなかで、学び続け成長していくことを、ブルース・リーは生きた。
展示にあった「直筆の文字」も、そのようなブルース・リーの一面を確実に語っているように、ぼくには見えた。
人生「を」生きるのではなく、人生をぼくたちに「通過」させること。
そのときに、人生は、ぼくたちが思いもしなかった仕方で、ぼくたちの前に現れるのかもしれない。
ブルース・リーの生がそうであったように。
香港で、『故宮養心殿文物展』(香港文化博物館)を観て。- 清の時代の「鏡」に魅せられて。
香港で、香港文化博物館の『八代帝居:故宮養心殿文物展』(2017年6月29日ー10月15日展示)を訪れる。中国の清代において、八代にわたる皇帝が住居とした「養心殿」の文物展だ。...Read On.
香港で、香港文化博物館の『八代帝居:故宮養心殿文物展』(2017年6月29日ー10月15日展示)を訪れる。
中国の清代において、八代にわたる皇帝が住居とした「養心殿」の文物展だ。
「養心殿」(Hall of Mental Cultivation)は、中国の明代に、北京の紫禁城(故宮)に1537年に建設された建物である。
展示は、「養心殿」の家具などの文物などにより、「養心殿」を再現している。
展示を見ながら、ぼくが高校時代に習った「世界史」に出てきた「清代の皇帝たち」を「養心殿」に見ているようで、とても不思議な感覚を味わうことになった。
ぼくが北京の紫禁城(故宮)に足を運んだのは1994年、そのときの風景も思い出しながら、ぼくは「歴史の世界」を楽しんだ。
「養心殿」(Hall of Mental Cultivation)の「養心」は、『孟子』にある「養心莫善於寡欲」(”Leading a frugal life is the best way to cultivate the mind”)から来ているという。
明代には皇帝は時おりの滞在にしか使っていなかったところ、清代になって皇帝の住居、また執務室として使われるようになる。
清の雍正皇帝(1678 - 1735)が「Home Office」として使い始め、乾隆皇帝、嘉慶皇帝、道光皇帝、咸豐皇帝、同治皇帝、光緒皇帝、そして「ラストエンペラー」の宣統皇帝にわたる八代の皇帝たちに大切にされてきた養心殿。
養心殿の構造は次の通りである。
【中心】
「正殿明間」(Central Hall):皇帝が大臣たちと話し合いをしたり、官員が皇帝に謁見する間
【西側】
「西暖閣」(West Warmth Chamber):日々の執務などを行う執務室(*ブログ写真)
「三希堂」(Room of Three Rarities):乾隆皇帝の書斎
【東側】
「東暖閣」(East Warmth Chamber):宮廷の画家や彫刻家などの仕事場、元旦の筆書を執り行う場
「垂簾聴政」(Empress dowagers as regents behind the curtain):清の後期における摂政皇太后の間
展示では、この「養心殿」の構造が再現され、順番に見ていくことができる。
入り口から入って、まず目の前にひろがるのが「正殿明間」(Central Hall)。
重要な文化財であるため、セキュリティ・ガードが数名、「正殿明間」(Central Hall)を囲むようにして、見守っている。
この椅子に、清代の皇帝たちが座っていたところを想像するだけで、不思議な感覚をぼくは覚え、心がゆさぶられる。
「正殿明間」(Central Hall)から、「西暖閣」と「三希堂」にまわる。
この机で戦略が練られ、執務が執り行われていたことに、歴史の想像力がかきたてられる。
雍正皇帝はこの時代に夜遅くまで働き、睡眠時間は4時間に満たなかったというから驚きだ。
西側から、今度は東側に位置する「東暖閣」と「垂簾聴政」にまわっていく。
なかなか思い出せない映画『ラストエンペラー』の風景を、感覚として想像する。
それは、また、ぼくを不思議な感覚の中につれていく。
いろいろな展示物それぞれに魅せられながら、中でもぼくが魅せられたのは「鏡」であった。
清代の、大きな鏡。
その大きな鏡に自分の姿をうつしてみる。
鏡は、ぼくの姿を確かにうつしている。
清代にこの鏡に姿をうつしていたであろう人たちの内面に入っていくような感覚を覚える。
皇帝がこの鏡をのぞきこんでいる姿を想像し、ぼくはそれを見ているような不思議な感覚もわきあがる。
ぼくは、この「鏡」に魅せられてやまなかった。
鏡のもつ不思議な力が作用したのかもしれないけれど、先日読んでいた「鏡の中の自己=他者」という、社会学者の大澤真幸の論考も作用したのかもしれない。
「社会の起原」を追う大澤真幸は、「鏡像による自己認知」ということに注目する。
「鏡像による自己認知」は「他者体験」ときわめて深い関係があること、である。
発達心理学的な研究は、人間の赤ちゃんが1歳半から2歳程度の年齢に至るときに、鏡に映った像が自分であることを明確に理解するようになることを伝えている。
他方、「動物」はと言うと、鏡像の自己認知は非常に難しいようだ。
ただし、チンパンジーは一定の年齢に達すると認知ができるようになるという。
しかし、ある研究者は、チンパンジーが他個体から隔離されて育てられた場合に自己認知できないことを発見する(今日では実験は「非人道的」として実施できないという)。
さらに、3個体のチンパンジーに行ったこの実験の後に、2個体は「同じ部屋に同居」させ、1個体は「隔離させたまま、しかし他の2個体を見ることができる」ようにした。
結果は、前者の2個体は鏡像による自己認知が可能になったが、後者の1個体は自己認知ができなかったという。
大澤真幸は、この実験結果が含意することとして、次の二つのことを明示している(『動物的/人間的:1. 社会の起原』弘文堂)。
- 鏡像による自己認知が可能になるのは、他者の存在、他者についての経験の不可欠性
- その経験は他者を外から「見る」ということだけでは不十分で、身体的な直接の接触を含む、他者との実質的な相互作用がなければならないこと
大澤真幸はそして、次のように語っている。
鏡に映った自己を見るということは、自己の自己への関係であるように見える。しかし、その自己関係の前提として、他者との関係が、つまりある種の社会的体験が必要なのだ。他者との関係が、どこか魔術的な仕方で、自己への関係と転移してきたかのようだ。…
繰り返せば、鏡によって自分の顔を見る体験は、他者の顔を見る体験を前提にしている。それこそ、エマニュエル・レヴィナスが哲学的な思索のすべてを賭けて、その秘密を解き明かそうとした体験であろう。おそらく、そこに<社会>を構成する最小の要素が、つまり<社会>の原基(エレメント)がある。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
鏡に映る自己はもちろん自己であるのだけれど、この能力の獲得という原初の過程において、ぼくたちは「他者」を経験し、媒介にしている。
「養心殿」の鏡を前にしながら、そしてそこに映る自分を見ながら、ぼくはそのようなことを考える。
でも、そのような考えをとびこえるようにして、その「鏡の体験」は、ぼくを不思議な空間になげこむことになった。
清代にこの鏡を通して、人は何を見ていたのだろう。
そして、ぼくは、この鏡を通して、今何を見ているのだろう。
鏡の前に立ったときの感覚は、まだぼくの身体に残っているのを感じる。
香港で、続けざまに台風が通りすぎてゆくなかで。- なにげない木々たちの不在から存在を感じること。
香港は、本日(8月27日)、先日の台風の記憶が新しいままに、そしてまだ倒木や施設の復旧が完全ではないなかで、早朝から次の台風の影響を受ける。...Read On.
香港は、本日(8月27日)、先日の台風の記憶が新しいままに、そしてまだ倒木や施設の復旧が完全ではないなかで、早朝から次の台風の影響を受ける。
先日ほどの強度はないけれど、強風が建物をうち、横降りの豪雨に見舞われる。
それにしても、ここ数日、住まいの界隈を歩きながら、先日の台風の強さを感じることになった。
至るところで、木が倒れ、木の太い枝が折れ、木の葉が立ち枯れてゆく。
「台風の強さ」を感じていたぼくは、しかし、同時に悲しさのようなものを覚える。
いつも歩いている歩道の脇の木々を眼にしながら。
ぼくは、そして気づくことになる。
いつも歩いている歩道の木々たちが、どれほど、ぼくの内面を支えてくれていたのかということを。
人は何かを失ったり、なくしたりしてはじめて、その普段の「存在」の大きさを感じる。
それは人であったりする。
しかし、それは自然でもある。
普段なにげなく通りすぎていた道の脇にたたずむ木々が、いつしか、ぼくの内面の風景の、大切な一部となっている。
台風によって、それを失ってみてはじめて、木々の「存在」を深いところで感じる。
人は、環境に左右されないで、自分で物事の解釈をし、どうするかを選択することができる。
しかし、他方で、それでも、環境というものの影響を感じる。
環境を超えてゆくことができることと同時に、環境に生かされている人の存在ということ。
そんなことを考えながら、木々たちへの感謝の気持ちが、ぼくの内面にわきあがる。
社会学者の見田宗介が取り上げている、ジュール・シュペルヴィエールの詩が思い起こされる。
森がある 鳥たちが年々この森にやってくる
森が伐採されて一本の木になってしまうと それでも鳥たちは この一本の木に向って集まってくる
この一本の木も伐り倒されてしまうと それでも鳥たちは この森の不在に向ってたち帰ってくる
見田宗介「近代日本の愛の歴史 一八六八/二〇一〇」『定本 見田宗介著作集 IV - 近代日本の心情の歴史』岩波書店
とても印象的な詩である。
見田宗介はこの詩を取り上げながら、現代日本の若者たちの「愛」のゆくえ(愛の不在)を、深く暖い眼で見ている。
ぼくは、倒れ、立ち枯れ始めている木々を見ながら、「森の不在」にたち帰ってゆく鳥たちの気持ちーもしそのようなものがあればということだけれどーが、少しだけれど感じることができるような気がする。
「森の存在」はそれほどまでに、鳥たちの存在の一部となっているのだということ。
木々や森たちの存在が、どれほど深く、人の存在の一部となっているのかということ。
そして、人は、選択し行動することができることを思う。
「不在」を<存在>に変えることができる。
「森の不在」を<森の存在>に、そして「愛の不在」を<愛の存在>に。
五輪真弓『心の友』に交響する東ティモールの大地と人びと。- シンプルで素朴な世界にひびく音楽。
香港のぼくが住んでいるところの界隈は、数日前の台風によって木々たちが倒され、台風が去って2日経ってからも、通路が木や枝にさえぎられている。...Read On.
香港のぼくが住んでいるところの界隈は、数日前の台風によって木々たちが倒され、台風が去って2日経ってからも、通路が木や枝にさえぎられている。
少し遠くに足を運ぶと、公園のベンチの支えが折れていたり、その他施設も被害を受けているのが目に入ってくる。
そんな風景にも、太陽は何事もなかったように強い陽射しをおくり、青い空がうすい雲をたなびかせて、彼方までひろがっている。
そして、また次の台風が近づいている。
ぼくは、五輪真弓の『心の友』が聴きたくなり、曲をさがして、再生ボタンをおす。
『心の友』のメロディーと歌詞が紡ぐ音の響きが、心身の奥の方に届く。
五輪真弓の『心の友』という曲を知ったのは、東ティモールに住むようになってからであった。
1980年代にインドネシアで『心の友』がヒットし、インドネシア領であった東ティモールにも、曲が流れていたのだという。
なぜ、インドネシアで、五輪真弓の『心の友』がヒットしたのかはそれほどわかっていない。
『心の友』は、五輪真弓のアルバム『潮騒』(1982年)に、アルバムの曲のひとつとして収められている。
当時インドネシアのラジオ関係者が五輪真弓の日本でのコンサートに行き、そこで購入した『潮騒』をインドネシアのラジオで流したことで人気を博したことがきっかけと言われる(参照:wikipedia 五輪真弓)。
ぼくが東ティモールに住んでいた2004年、隣国のインドネシアのスマトラ島沖で大地震が起きた。
ぼくの所属していたNGOは、時間をおかずにチームを送り、緊急支援にあたった。
被災者を支えるために、五輪真弓はインドネシアの歌手デロンと共に歌う「Kokoro no tomo」を収録し、世に放つことになる。
東ティモールでは、一緒にはたらいていた東ティモール人スタッフたちも、それからコーヒー生産者の仲間たちも、『心の友』を知っていた。
より正確には、「知っている」ということ以上に、そこに感情や思いが重ねられているのを感じる。
独立前は、インドネシア占領下にあった東ティモール。
それでも、インドネシアと東ティモールの間にある「大きな垣根」を超えるようにして、あるいはすりぬけるようにして、音楽は人びとの心の中に届いていた。
『心の友』は、それぞれに、字義通りサバイバルの環境に生きなければならない人たちの表面にはりめぐらされた「盾の殻」をつきぬけて、つかの間、シンプルで素朴な人たちのほんらいの姿を浮き上がらせる契機となったように、ぼくには思える。
ぼくは、東ティモールで、ギターで『心の友』のコードを弾きながら、日本語の歌詞を口ずさむ。
この歌とメロディーが、はるか昔から、この土地で育まれてきたような、そんな錯覚を覚える。
社会学者の大澤真幸は、人間の特徴として「大勢が一緒に笑うこと」があり、笑いは共感のメカニズムとして機能することに着目し、笑いが進むと音楽になると考えていると語っている(『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社)。
笑いが進むと、音楽になる。
音楽の背後には、対人関係があると、大澤真幸は考えている。
シンプルで素朴な人たちの「共感」が、シンプルな曲である「心の友」を素地に、東ティモールの大地の上で交響したのかもしれない。
「…愛はいつもララバイ、旅に疲れた時、ただ心の友と、私を呼んで…」とサビが歌われる『心の友』の最初は、こう歌いだされる。
あなたから苦しみを奪えたその時
私にも生きてゆく勇気が湧いてくる…
五輪真弓『心の友』
長い旅路の中で自身の苦しみに砕かれながらも、他者の苦しみに気を配り、満面の笑顔を投げかけたであろう東ティモールの人たち。
その笑顔は他者の苦しみを幾分か和らげ、そして「私にも生きてゆく勇気」を与えてゆくなかで、日々立ち上がってきたであろうと、東ティモールの人たちと3年半ほど一緒に暮らしたぼくは思う。
香港で、台風の過ぎさった後に考える「進化論」。- 木々が倒れ枝々が折れている傍らで咲く「花」。
香港は、2017年8月23日に、香港天文台(気象庁)が「台風シグナル10」を発令した。台風のシグナルの最上位にくる警告だ。...Read On.
香港では、2017年8月23日に、香港天文台(気象庁)が「台風シグナル10」を発令した。
台風のシグナルの最上位にくる警報だ。
言葉としては、「ハリケーン(Hurricane)」と名づけられている。
ビジネスがとまり、株式市場が閉じ、飛行機もキャンセルされるなど社会への影響も大きく、ニュースは40億香港ドル(約560億円)から80億香港ドル(約1100億円)の損失を告げる。
一夜明けて見る、木々が根こそぎ倒れ、枝々が折れている風景に、昨日の強風と激しい雨の威力をみせつけられる。
共生系としての森の木々はそれでも台風をうけとめたようだけれど、例えば、人工的に一本一本植えられた木々たちのいくつかは強風に耐えきれなかったようだ。
他方で、人工的に、花壇に植えられている花たちは、いつもと変わらない姿をみせている。
ビルの壁や垣根や木々に守られる形で、木々よりもはるかに「弱い」花たちが、そこに強く咲いている。
その姿を見ながら、ぼくは「進化論」のことを考える。
20年ほど前から、ぼくのテーマとして、人や社会の「成長」や「発展」がおかれていて、それと並行する形で「進化」に関する文献を読んできた。
中でも、とりわけ、真木悠介『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店)は、ぼくの好奇心をひらいてくれた。
この著作に触発されて、大澤真幸は『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)を書いている。
大澤真幸は、この著作の中で、古生物学者であるデイヴィッド・ラウプの進化論から、進化というのは出来上がったものではなく、常に「適応へのプロセスにあること」を導いている。
ラウプの進化論は、正攻的な進化論ではなく、「絶滅」の視点から進化を考えるものとなっている。
「絶滅」のシナリオには、三つのパターンがあるという。
- 「公正なゲーム(fair game)」
- 「弾幕の戦場(field of bullets)」
- 「理不尽な絶滅(wanton extinction)」
一つ目の「公正なゲーム」は、「進化論」として一般的にイメージするもので、繁殖において有利な遺伝子をもっている種が生き残り、不利な遺伝子をもっている種が絶滅に至るというものである。
二つ目の「弾幕の戦場」は、たまたま運が悪い生物が絶滅に至るというシナリオである。
戦場で無差別に撃たれる弾丸(天体との衝突、火山噴火などの状況)のもとに絶滅するか否かは、生物的な優劣の差ではなく、運の問題である。
三つ目の「理不尽な絶滅」は、上記二つを合わせたようなところにある。
大澤真幸は、白亜紀の天体衝突による地球規模の寒冷化で絶滅した生物の中で生き残った「珪藻類」の例を挙げている。
珪藻類は、海流の影響で栄養分がとれない季節に「休眠する能力」をもっていて、それが地球規模の寒冷化という環境において役立ったという。
これが、前の二つのシナリオとどう違うのか。冬眠の能力が環境に適応的だったと解釈すると、第一のシナリオに回収できるように思える。しかし、珪藻類の冬眠の能力は、天体衝突に備えて進化してきた性質ではない。それは、もともと、湧昇流の季節的な変動に対応して進化してきたものである。ゲームのルールが偶発的に変わってしまったのだが、たまたま、前のゲームのために発達させていた能力が、後のゲームでも役立ったのである。こういうやり方で勝利者が決まったとき、われわれは、これを「公正なゲーム」だとは感じないだろう。「珪藻類は適応的な性質をもっている」とは言えない。そうではなく、ルールの変更の後に遡及的に、珪藻類は適応的だったと見なされるのだ。
大澤真幸『動物的/人間的:1. 社会の起原』(弘文堂)
地球環境は、常に「変化」の内におかれている。
だから、進化の「適応状態」があるのではなく、常に「適応へのプロセス」の中に、生物は生きている。
真木悠介は、進化というのは適応をめざしている「試行錯誤の連続」だと言っている(『<わたし>と<みんな>の社会学』太田出版)。
生物の「多様性」の本質はそこにあるという。
そのようなプロセスの中で、ときに「ゲームのルール」が大きく変わってしまうことがある。
木々が倒れ、枝々が折れている中で、花壇の中で美しく咲く花たちを見ながら、木々や花たちの環境というゲームのルールは人間によって変えられてきたことを、ぼくは考える。
そして、人間社会も「ゲームのルール」が大きく変わることがある。
現代という「過渡期」は、「ゲームのルール」が書き直されている/いく時代だ。
新しい時代に、ぼくたち一人一人がそれぞれに違った仕方で「花」を咲かせることができるとよいと思う。
ただし、人はその人生において「試行錯誤の連続」に生きている。
そのことが、人の「多様性」をつくってもいる。
その多様性の中で、「花」は今日咲くかもしれないし、明日咲くかもしれない。
ぼくたちにできるのは、日々の「試行錯誤の連続」を、豊饒に生きてゆくことである。
台風が通り過ぎたばかりの香港で、ぼくはそのようなことを思う。
香港で、飲食店の「座席」から考える人と社会。- 「一人用の席」が増えたこの10年の変遷のなかで。
2007年に、東ティモールから香港にうつってきて、はじめのころに思っていたこと。...Read On.
2007年に、東ティモールから香港にうつってきて、はじめのころに思っていたこと。
飲食店の「座席」において、「一人」での来店を想定した座席が見つからなかったことである。
例えば、「一人」で座ることを想定した座席は、ひとつに「カウンター席」がある。
1994年から2002年にかけて、ぼくは東京や関東圏で生活をしながら、廉価な食事を提供するような飲食店にはだいたいカウンター席のようなところがあって、一人でも気軽に入ることができた。
香港の「都会」には、そのような席が普通にあると思っていたから、最初のうちは結構とまどったものだ。
「二人席」はもちろんあるけれど、それでも数は比較的限られ、そして混んでくると否応がなく「相席」として使われるのである(「相席」から考える人と社会も面白いものだが、またの機会に書きたいと思う)。
一番多かったのは「四人席」の形式であったと記憶している。
「四人席」に一人で座って食事となると、混んでくると、より高い確率で「相席」になるような状況であった。
日本では「相席」は一般的ではないから、当時も、そして今でも、違和感はぬぐいきれない。
そんな「情勢」が変わったのは、ここ5年くらいのことだ。
香港の飲食店の店舗が改装されると、そこには、一人客用にカウンター席がつくられ、また二人席も増えていた。
二人席は状況によって、つなげて四人席にもできる。
ちょうどその頃だったと思うのだけれど、一人で食事をする人たちが心なしか増えてきていた時期でもあった。
それまでは、家族やグループで食事をするのがデフォルト的であったのが、<情勢地図>が変遷をとげているようであった。
ぼくの勝手な感覚だけれど、それまでは一人で食事をすることが肩身の狭いような状況であった。
より正確には、「一人で食事をすること」はぼくにとっては全然問題ないのだけれど、一人を想定していないような座席配置の飲食店に入るのは、来てはいけないような感覚が湧き上がったりしたことが、最初のうちは時々だけれどあった。
それが、<情勢地図>の変遷のなかで、「普通のこと」のようにもなってきたのだ。
良い・悪いということは別にして。
その背景には、香港の経済成長もあるだろう。
リーマンショックのインパクトをはねのけるようにして、香港の経済は2008年頃から2015年ほどにかけて拡大してきた。
ぼくの「感覚」では、日本のバブル期のような状況であった。
それは、香港の「都市化」を進展させ、香港の中心部だけでなく、香港の中心から少し離れた地域の発展を進展させてきた。
さらには、「スマートフォン普及」という社会現象も接続している。
スマートフォンは、「一人であること」を推進するような側面もある。
スマートフォンを片手に動画などの世界に一人ではいっていくこともあれば、他方、スマートフォンを媒体にして、一人でいながらそこにはいない「誰か」とコミュニケーションをとるということもある。
このような経済社会の進展のなかで、人そのもの、それから人と人との関係も変遷をしてきたのだ。
社会の「内部」にいると、なかなか見えにくい事柄が、異文化という相対性の只中にいることで、逆に「見える」ようになることの例のひとつである。
しかし、表層において「見える」ことだけでなく、深い地層において、香港の「人と社会」がどのような基底的な変化を要請され、変遷し、さらにどこへ向かってゆくのかということについては、より精緻な情報収集と分析と仮説と観察が必要である。
ぼくのなかにはある程度考えていることがすでにあるけれど、そのことの言語化については時間もかかるため、今後の課題のひとつとしておきたい。
香港で、「糖水」を楽しみながら。- 「糖水」に見るデザート文化。
「糖水」(Tong sui)は「広東料理の最後にデザートとして出されるスイーツ、甘くて温かいスープまたはカスタードの総称」(wikipedia「糖水」)である。...Read On.
「糖水」(Tong sui)は「広東料理の最後にデザートとして出されるスイーツ、甘くて温かいスープまたはカスタードの総称」(wikipedia「糖水」)である。
字から見てとれるように、「sugar+water」ということで、基本レシピは例えば「材料+シュガー+水」からなっている。
種類はいろいろで、例えば、こんなものだ。
●「黒ごまと砂糖と水」が長時間火にかけられてつくられる「芝麻糊」(black sesame soup)
●「ピーナッツ系と砂糖と水」でつくられる「花生糊」(peanut paste soup)など
●「小豆と砂糖と水」などがベースでつくられる「紅豆沙」(red bean soup)
●豆腐をベースとした豆腐プリンともいうべく「豆腐花」
そのほかにも、いろいろとある。
これらの自然食材それぞれが「効用」をもち、「糖水」ごとに「身体への効用」が語られる。
身体を「温める/冷ます」という効用はもちろんのこと、咳に効くとか、腎臓によいとか、である。
このような「糖水」は、例えば、次のような「形式」で、食べることになる。
- 「広東料理の最後に出されるデザート」という(おそらく)オリジナルの形式
- デザート店
- 小売店
オリジナルの形式に近い形で、夕食後にレストランで食すこともあれば、レストランを出てデザート店に向かうこともある。
あるいは、デザート店や小売店で購入して、家にもちかえって家族と食べることもある。
ただのデザートという以上に、「糖水」は香港文化のなかに根をおろしている。
その証拠といっては何だけれど、夜は「糖水」を出す店はどこも人でいっぱいで、活気にみちている。
「糖水文化」の効用としては、このように「人をつなげる」ことも挙げられる。
「糖水」を媒介にして、家族や友人同士などが集うことになる、あるいは「お茶をする」ようにコミュニケーションを促進する。
しかし、伝統的なデザートがしばしば直面するように、「糖水」もモダン化してきているようなところがあるように見受けられる。
「糖水」はつくるのに手間と時間がかかるという意味で、スローフードだ。
「スロー」は、より効率的で手間のかからない方法にとってかわられることもある。
また、都会という環境のなかで、味が強くなり、例えば「甘さ」のもとで素材の味がのっとられてしまうこともある。
このようなモダン化の圧力のなかで、「昔ながらの自然な味」は押しやられてしまうことになる。
「昔ながらの味」を知っている人たちから、そんなことを聞いたりする。
また他方で、他の「都会的でモダンなデザート」が続々と出てくる。
香港はさらに、「高い賃料」という最大の難関があり、店舗を維持するのが難しく、またコストカットのプレッシャーも強い。
そのような状況だから、おいしい「糖水」のお店をみつけると、おいしさを楽しむと共に、応援したくなる。
だから、近くによれば、食事の後などに寄って「糖水」を楽しむ。
時には、はるばる、おいしい「糖水」を目的として、足を運ぶ。
そしておいしい「糖水」を楽しみながら、そこに昔から守られてきた味と心を感じ、これからもつくり続けてくれることを願ったりする。
一般的に、「伝統」というのは、しばしば外部から来たものたちによっても支えられたりするように、「糖水」という伝統を、外部から来たぼくは、楽しみながら食べることで応援する。
少しモダンな「カシューナッツ」のペーストを楽しみながら、ぼくはそんなことを考える。
香港で、誠品書店の「ベストセラー」棚を眺めながら、考えること。- 人々の「耳」のありかをみつめて。
台湾の大型書店チェーンである「誠品書店」(Eslite Bookstore)が、香港に第一号店をCauseway Bayに出店してから、すでに4年がたつ。...Read On.
台湾の大型書店チェーンである「誠品書店」(Eslite Bookstore)が、香港に第一号店をCauseway Bayに出店してから、すでに4年がたつ。
その間に、Tsim Sha TsuiとTaikooにも出店し、現在は合計で3店舗。
第一号店が世界でもっとも土地の値段が高いとされる香港のCauseway Bayに出店されたときには、書店が一般的にその規模を縮小させてきている時期であったこと、また香港ではあまり本が読まれないのではないかということなどから、台湾で成功してきた「誠品書店」が、果たして香港でやっていけるのかどうか、ぼくとしても(期待をかけながらも)懐疑的であった。
そんな懐疑もどこへやら、日本人が多く住むTaikooに出店を果たしている。
Causeway BayやTaikooの店舗にときおり立ち寄りながら、どんな本が香港で話題を集めているかを確認することが、ぼくの最近の「定点観測」のひとつだ。
「ベストセラー」は、作家や出版社の力量もさることながら、何よりも、大衆の「耳」のありかである。
そこに、人々の生活、人々の生きられる問題や課題が垣間見られる。
「誠品書店」のベストセラー棚は、ピックアップの仕方によっていくつかに分かれている。
それぞれ、ランクが1位から10位まであって、並べられている。
日本の書籍で、中国語に訳されたものも多く並んでいる。
台湾で翻訳され、それらが香港でも店頭に並ぶ。
ある一列をざっくりと見ると、日本の書籍が翻訳されて並べられていて、大別すると二つのジャンルに分かれている。
「心理学系」と「片付け系」である。
前者は正当系というより、例えば「人を操る心理学」の漫画版などが上位に来ている。
後者は、例えば「断捨離」の本である。
この二つの系が、ベストセラー系列のひとつにおける1位から10位のランクの多くを占めている。
さっと見ると、通りすぎてしまうか、表層だけで見てしまうようなベストセラーのランクだけれど、ここには、香港の生活における、人々の切実な気持ちが充ちている。
それは、香港で生きてゆくための「二つの戦線」における、生きられる問題なのだ。
- 職場の人間関係
- 住まいの空間
生きていく上での、職場と住まい、あるいは仕事と生活という二つの領域が、書籍のベストセラー・ランキングに垣間見られる。
職場と住まいは、日々の生活の「時間と空間」となる場所であり、瞬間だ。
なかなかうまくいかない職場の人間関係、それから住まいの空間の限定性への悩みなどが、切実な思いをつくり、人々の「耳」となる。
そして、これら二つの領域は、地層を深く掘っていくと、生きることの「二つの側面」を支えていることがわかる。
それらは、社会学者の見田宗介に少しだけ倣って言えば、「仕事」は生きることの「物質的な拠り所」を確保することであり、また「住まい」は生きることの「精神的な拠り所」を確保することである。
ただし、そこには「ねじれ」があり、仕事をする職場という「物質的な拠り所」を支えるところで、「精神的な」人間関係になやむ。
そして、住まいという「精神的な拠り所」を支えるところで、「物質的な」空間の確保になやむ。
いずれにしても、生の「物質的・精神的な拠り所」を、この香港において人々は渇望している。
ぼくが見るに、この「二つの戦線」は、ひきつづき、人々が香港で生きてゆく際の感心と渇望、苦悶と喜びなどを規定するような磁場を形づくってゆくと思う。
ただし、ベストセラー棚はこれらだけではないことも付け加えておかなければならない。
世界的な大ベストセラーである、Yuval Norah Harariの『Sapience』と『Homo Deus』は、それらの英語版も中国語版も、長きにわたり棚をうめていたりする。
「誠品書店」のベストセラー棚を「定点観測」しながら、ぼくは、このように、人や社会、それから未来に思いをひろげてゆく。
香港で、香港を「拠点」に旧友と再会する。- 変わりゆくアジア、人とのつながり、空間の自由度。
香港で、15年ぶりに、旧友と再会する。大学院で勉学に励んでいる時に、縁あって出会った留学生の方々の内のひとりだ。...Read On.
香港で、15年ぶりに、旧友と再会する。
大学院で勉学に励んでいる時に、縁あって出会った留学生の方々の内のひとりだ。
アジアに住んでいて、香港に休暇でご家族と来るとのことで、日本ではなく香港での再会となった。
再会を楽しむと共に、感じることがある。
第一に、「変わりゆくアジア」を感じること。
アジア(アジア以外もそうだけれど、実感として一層感じることとして)は確実に変わってきている。
「成長・発展」ということを、同じときに、同じキャンパスで学んできた友人とその国の成長・発展が、変わりゆくアジアの像と重ねって、今のぼくには見える。
また、「香港」という、人が行き交う交差点にいることも手伝ってか、アジアの人たちの行き来がますます増え、物理的にも心理的にも「近く」なってきていることを感じる。
友人に最後に会ったのが15年ほど前であったけれど、その15年は、とても大きかったのだと思う。
第二に、「人のつながり」が、より自由につくってゆくことができること。
このグローバルな世界が、インターネットを通じて、一瞬でつながってしまうことは、「ドラマ」的な側面をなくしてしまうこともあるけれど、もっと自由な関係性をつくり、維持し、発展させてゆくことの土台であることである。
インターネットでつながることが、今回のような再会を可能なものとしてくれたことは確かで、この15年の変化は、人と人との関係性を、幾層にも重層化してきたことを、やはり感じる。
そのことはあたりまえのこととして感じられることかもしれないけれど、感じている以上に、ぼくたちの生きることの諸相を変えてゆくものであることを、あらためて認識した。
それから第三に、再会は、いずれかの母国ではなく、「どこでも」起こるということ。
海外の友人たちから「これから日本に行くんだけど」とか「今日本にいるんだけど」とメッセージが入るたびに、「香港にいる」ことを伝える。
うまく機会があわないわけだけれど、逆に、いずれかの母国ではなく、「香港を拠点」に、小さな同窓会をひらくことができる。
香港に遊びにくる人たちもいれば、逆に、香港を拠点に、こちらから訪れることもできる。
現実の「空間」も、自由度を増している。
昨日の満月の夜の後は、少し雲が増えて、雲がちょうど月のあたりを覆う。
月が雲に覆われながら、香港のビクトリア湾とビル群は、「Symphony of Lights」と名づけられる、毎晩20時からのイルミネーションの光たちに彩られる。
ビクトリア湾をのぞむ、九龍島の南端にあるプロムナードは、イルミネーションをみる人たちでいっぱいだ。
しばらく見ていなかったけれど、久しぶりに見ると、新鮮に眼に映る。
観光で来る人たちの「眼」を通して、生活している香港は、いつもとは違った様相を見せる。
近い内に、今度は、ぼくが友人を訪れる番だ。
そこに「遠さ」は感じない。
ただ、「行くことを決める」だけで、物語がはじまる世界に、ぼくたちはいる。
香港で、さまざまに「呼びかけ」られながら。- 「販促の磁場」のなかに置かれて考えること。
香港では、どこに行っても、ぼくたちはさまざまな仕方で「呼びかけ」られる。「これを買わないか、あれを買わないか」という呼びかけだ。...Read On.
香港では、どこに行っても、ぼくたちはさまざまな仕方で「呼びかけ」られる。
「これを買わないか、あれを買わないか」という呼びかけだ。
販促の「呼びかけ」が、ぼくたちに浴びせられる。
ほんとうは、香港に限らず、情報化/消費化社会では、常に、ぼくたちは「呼びかけ」られている。
しかし、香港では、勢いのある広東語のリズムにのせられて、直接的な言葉がぼくたちに投げかけられる。
例えば、こんな感じだ。
コンビニエンスストアでは、レジで支払いをするときには必ず、レジ前に並べられた商品の購入をすすめられる。
洋服などを買いにいくと、ディスカウント情報がまず伝えられ、多くの商品の購入をすすめられる。
キャセイ航空では、飛行機が一定の高度に達してシートベルトのマークが消えた途端、機内販売とディスカウント情報が伝えられたりする。
食品市場では、フルーツを買うと、別のフルーツはどうか、と声が飛んでくる。
レストランでも、おすすめのメニューをすすめられる。
スーパーマーケットでは、プロモーターの人たちが、あちこちから声をかけてくる。
こんな感じだから、ぼくがもっとも使う広東語のひとつは、「必要ありません」だったりする。
先日は、「米線」と呼ばれる、お米でつくられた麺を食べに行ったところ、机の上に「広告」のシールが貼られていた。
電気製品系であったり、美容系であったり、ミニ倉庫(家具などの保管)であったりする。
「こんなところまで…」と、ぼくは複雑な気持ちをいだきながら、感心したりもしてしまう。
また、さらには、街頭募金の呼びかけは、募金してくれた人の服に貼り付けられるシールを「買ってください」という表現がされたりもする。
「販促の磁場」のなかに置かれて、ぼくたちは、常に「呼びかけ」られている。
ぼくは個人的にはあんまり好きでなかったりするけれど、それでも、好き・嫌いの感情を通りこして、いろいろと考えさせられる。
例えば、こんなことを考えたりする。
1)きっちりと伝えること
人(出身)や階層など多様性のある社会において、やはり「きっちりと伝えること」が必要とされてきたことである。
要望などは伝えないと、相手はわかってくれない。
そんな前提のなかで、言葉で直接的に伝える。
これは販促に限らず、仕事場でもそうであったりする。
日本的文化に慣れている場合、香港では「きっちりと伝えられる」ことにびっくりしてばかりではやっていけないし、相手に「きっちりと伝えること」が大切である。
2)プッシュ型・押しで売るということ
きっちりと伝えることとつながることとして、プッシュ型・押しの力で売ることが(すべてではないけれど)方法とされている。
相手がどう思うかにかかわらず、まずは伝えること、願いを伝えること、そこからの出発である。
それにしても、その「粘り強さ」には感心させられてしまう(もちろん声をかけることが「仕事のひとつ」とされていたりする)。
なんどもなんども、いろいろな人たちに声をかけていく。
そして、きっと、そのうちの幾人かは(あるいは相当な人が)、呼びかけに応えて、購入したりするから、方法は継続されていく。
3)「功利」をこえたところにあるもの
上で書いたような「功利」的な意図がまずはありつつも、ときに、ぼくは思ってしまう。
「功利」をこえたところとして、これは「挨拶」に近いのではないかということ。
販促という呼びかけの言葉は、人と人をつなげるような、挨拶的な言葉の役割を果たしているのではないかということ。
特に、食品市場での呼びかけは、そんな様相をみせる(だから、ぼくと妻は今朝、「呼びかけ」に応えて、すすめられたフルーツを追加で購入してしまった)。
「香港」というところは、歴史的にも人の移動が多く、ここに根ざす人たちのアイデンティティ形成の歴史は比較的に言えば長くはない。
そのような土地で、言葉の交わし合いは、人と人とをつなげるうえでとても大切であると、ぼくは思う。
だから、「販促の磁場」におかれながらも、ときに、ぼくはそんな感覚のなかで、販促という表層をこえて、笑顔をかえす。
静かにお金を渡し、静かに商品を受け取るよりも、「販促という名の挨拶」による言葉の行き交いのなかで物を買う方がよいのではないかと思ったりする。
そういうふうにカッコよく文章を終えたいのだが、あまりにも機械的な販促に、ぼくはそっけない応答をしてしまうことも多い(静かに買い物をしたいときって、ありますよね)。
そんなときにうっとうしく思ってしまう販促も、香港を一時的に離れると、ほっとした気持ちと、しかし他方でさびしさのようなものを感じてしまう。
そうして香港に帰ってきて、販促の磁場におかれると、「あぁ、香港だな」と思ったりする。
香港の「販促の磁場」はそんなことも含めて面白く、深く考えさせられてしまう。
香港で、「九龍半島の南端」にたたずみながら。- 何をするのでもなく、ただ、ぼーっと、すること。
香港の九龍半島の南端に位置するプロムナード(散歩道)から、ビクトリア湾と湾を挟んで立ち並ぶ香港島の高層ビル群をながめる。「香港」を感じるひとときだ。...Read On.
香港の九龍半島の南端に位置するプロムナード(散歩道)から、ビクトリア湾と湾を挟んで立ち並ぶ香港島の高層ビル群をながめる。
「香港」を感じるひとときだ。
今は、改装工事のため、一部入ることができないところがある。
九龍半島の南端に位置するプロムナード。
ここから、「シンフォニー・オブ・ライツ」と呼ばれる「世界最大の光と音のショー」を楽しむことができる。
「シンフォニー・オブ・ライツ」では、ビクトリア湾の両側に立つ40棟以上ものビルが光を放ち、夜空とビクトリア湾を、照らし出す。
毎晩20時から約13分間にわたって繰り広げられるショーだ。
香港の夜景は、そこに「香港」の刻印を確かに刻んでいる。
1995年、旅の目的地のひとつして、香港にはじめて来たとき、「香港は夜型の街だ」と、ぼくは感じた。
同じ旅の行く先であった中国本土やベトナムの朝は早かった。
その対称性のなかで、香港が(東京と同じように)夜型であることを、ぼくは感じていた。
しかし、九龍半島から香港島をながめる風景は、ぼくにとって、「午前から昼にかけての風景」である。
22年前、午前の朝食の後に、宿から歩いて、ぼくはこのプロムナードにやってきては、香港島をながめていた。
ただ何をするのでもなく、ぼーっと、ながめているだけであったけれど。
「九龍半島の南端」のプロムナードは、人をひきつけてやまない、不思議な力の磁場をもった場所である。
バックパッカースタイルでの旅を書き続ける下川祐治は、著書『週末 香港・マカオでちょっとエキゾチック』(朝日文庫)のなかで、やはり、この「九龍半島の南端」で、香港の旅をはじめる。
彼は、この著書の旅以前の香港を振り返りながら、こんなふうに、書いている。
香港ではさしたる目的もなかったから、ただ、ただ、街を歩いていた。…夜はいつも九龍半島の南端の埠頭から、香港島の夜景を眺めていた。…九龍半島の南端から香港島の夜景を眺めることが好きだった。…
それからも何回か香港に足を運んだ。宿に荷を置き、真っ先に向かう場所が九龍半島の南端埠頭だった。
「また香港に来た」
どこか自分の居場所に戻ってきたような気がした。…
下川祐治『週末 香港・マカオでちょっとエキゾチック』(朝日文庫)
そして、下川祐治は、香港島のネオンサインを、この九龍半島の南端から、やはり、ぼーっと、ながめていた。
ぼくにとっては、夜景の風景ではなく(夜景もいいけれど)、午前から昼間の風景。
香港が「旅」の行く先から、生活するという「日常」へと変わっても、九龍半島の南端からながめる香港島は、「香港」を感じさせる風景だ。
日常として生きる香港でも、ぼくは、ときおり、九龍半島の南端のプロムナードから、香港島をながめる。
ビクトリア湾とそこに行き交う船を視界に、香港の今を身に感じる。
でも、何を考えるのでもなく、やはり、ぼーっと、ながめる。
そして、ぼくはしずかに確かめるのだ。
ぼくは今、香港にいる、ということを。
「九龍半島の南端」のプロムナードとそこからの風景は、人をひきつけ、人びとのなかに「香港」を刻むような磁場をもっている。
何をするわけでもないけれど、そこにいると、ぼくの「内面の磁場」も、ある意味、ととのえられるような、そんな場所である。
そして、ぼくは思う。
人は、そんな「場所と風景」をもって、日々を生きているのだ。
何をするのでもなく、逆に、しないことで、「内面の磁場」をととのえるような、そんな場所と風景を。
香港で、台風上陸のなか、「リスク管理」を考える。- 不安と(何事もない)安堵のメンタリティ。
香港の東の端に、台風が上陸した。ちょうどこの文章を書き始めた頃に、台風は、香港の北の上空を移動している。...Read On.
香港の東の端に、台風が上陸した。
ちょうどこの文章を書き始めた頃に、台風は、香港の北の上空を移動している。
昨日から最も低いレベルの警報(シグナル1)が出ていたが、当初その上の警報(シグナル3)にはならないだろうという状況であった。
それが、夜半にシグナル3が発令され、今朝方の9時20分には警報がシグナル8へと、さらに一段階あがった。
シグナル8になると、例えば、交通機関が乱れたり、店舗が閉まったりと社会的な影響が出る。
今日は日曜日だけれど、平日ともなると、シグナル8号発令により、ビジネスが止まったりして大きな影響がある。
だから、「台風シグナル8」というリスクは、香港に住んでいる人たちの心身を動かす。
ひとつに、社会機能が一時的に止まるかもしれないという状況は、(程度の差はあれ)パニックを人の内面に起動する。
スーパーマーケットやパン屋などには、人が殺到したりする。
台風のシグナル8がでている時間は、1日未満である。
半日ほどで通常はシグナル3へとダウングレードされる。
それでも、食材などがスーパーマーケットの棚からなくなっていく。
もちろん、新鮮な食材への影響は、配送などの関係から2日ほど続いたりする。
そのようなことを「差し引いた」としても、人は、必要以上に食材をかいためているように見られる。
ぼくが、予備の食料品として買いためた経験は、2006年の東ティモールでの騒乱の「前夜」からである。
実際に、お米が一時期、スーパーマーケットからなくなるなどの事象が起きた。
東ティモールの「難しさ」は、輸入経路が非常に限定されていること。
だから、万が一のために、スタッフたちの分も含めて、一定期間やっていけるだけのお米を貯蔵したりした。
それは、実際に、後に、役立つことになる。
人の個体の維持という、「生物」としての人間の諸相が起動され、ぼくたちは万が一に備える。
今でも、この諸相はいつでも「起動」できる状態だけれど、台風というリスクにたいしては、ぼくは一歩距離をおいて、冷静に対処する。
ふたつめに、(何事もなかったときに感じる)安堵のメンタリティは、ときに、批判へと転回されることがある。
シグナル8が発令されても、ほとんど台風の影響が見られないようなときもある。
今日も、台風が上陸して(でも北に逸れながら)、風は静止したかのようで、雨だけが時折ふりそそいだ。
そして、(ぼくのいるところでは)何事もなく、シグナル8の台風警報は、発令から4時間後の13時20分に解除された。
ビジネスなどの「大切なこと」にもかかわるから、何事もなかったときは、途端に天気予報への批判になる。
「何事もなかったこと」への視線は、冷たい。
人間の「生物」としての諸相ではなく、自然から離陸した「現代」という人間の諸相が現れるのだろうか。
大事が起こらなかったことへの感謝ではなく、起こらなかったことによる時間・機会喪失のようなものを感覚する。
批判の矛先は、天気予報を管轄する政府機関であったりする。
しかし、実際には、「その地点」にいるぼくたちにはわからなかったりする。
政府機関の「判断」は、香港全体を視野にしていて、香港の一部ではない。
実際には、ぼくのいる「地点」からは見えず、他の場所や地域では被害が出ているかもしれない。
あるいは、少しの「差」が、甚大な被害につながるような状況であったかもしれない。
ぼくたちは、そのような「かもしれない」というリスクを、何事もなかったという時間と地理的な地点で、忘れてしまう。
不安と安堵のメンタリティの「揺らぎ」のなかで思うのは、やはり、リスクへの向き合い方は最終的に「自分自身」次第であるということ。
気象情報はあくまでも「外部情報」として、自分自身の内部にある「リスク管理の管制塔」にインプットをし、そこでリスクにどのように対処・対応するかを自ら決める。
また、日頃から、「リスク管理の管制塔」は、事前準備として予備訓練をし、いつでも起動されるために整備されていないといけない。
とくに、自分が生まれ育ったような「ホーム」ではなく、海外のような「アウェー」の場合はなおさらである。
そして、「不安と安堵のメンタリティの揺らぎ」は、生きてあることへの深い感謝に支えられながら、「予防対策」と「冷静な対応」という人間の知恵として、その形態と内実を変容させていくことで、ぼくたちは、この世界で、よりよく生きていくことができる。
「台風」という言葉がにつかないほどに、木々たちが緑色をたたえながら静かにそびえたち、雲たちが静かに流れ、コンドルが飛んでいる香港の風景を眺めながら、ぼくはそんなことを思う。
香港で、「自転車シェアリング」用の自転車を目にして。- 「無限の試みの時代」のなかで。
香港で、早朝のエクササイズをしていて、「自転車シェアリング」用の自転車を目にする。...Read On.
香港で、早朝のエクササイズをしていて、「自転車シェアリング」用の自転車を目にする。
香港の英字紙「South China Morning Post」(SCMP)に掲載されたニュースの見出しで、「自転車シェアリング」アプリがスタートしたことは知っていたけれど、実際に自転車を目にするのは初めてのことであった。
緑色で、遠くからでも目につく。
なぜこんな場所に自転車が駐められているのだろうと思ってみたら、「自転車シェアリング」の自転車であった。
その名は「GoBee Bike」。
Beeのごとく、蜂が自転車をこいでいるロゴマークとURLが見える。
前出のSCMPのニュース(2017年4月24日の記事)は、2017年4月にスタートしたばかりの「GoBee Bike」は、トラブルの多い・がたつく(bumpy)スタートをきったことを伝えていた。
ひとつはシェアリング用の自転車7台が壊れて見つかったこと、それからアプリのセキュリティ上の問題であった。
そんなスタートをきりながらも、ぼくの住んでいるところの近くでも目にするようになってきた。
「GoBee Bike」は、香港に拠点を置く。
会社の「ビジョン」は二つある。
- 「Last mile transportation (最後の距離の交通機関)」の必要性を解決すること
- 都市生活者のために、健康的なライフスタイルと緑の環境を促進すること
サービスを使うには、アプリをダウンロードして、デポジット(HK$399、日本円で約5,800円)を支払う。
いつでも、どこにでも駐めることのできる自転車は、アプリ上で見つけることができる。
自転車は、ソーラーパワーによるGPS smart lockが搭載されているとのことだ。
自転車はQRコードを使って開錠できるようになっている。
使用料金は、今のところ、30分につきHK$5(日本円で約70円)だ。
世界各地で「自転車シェアリング」サービスはスタートしているけれど、それが香港でみられるのは、よいことだと思う。
SCMPのニュースが取り上げるように問題は多いはずだ。
最初の時点で、回避しなければならない問題もある。
でも、何よりも、ビジョンをかかげ、そこに向かって、確実に行動を起こしていく。
目に見える形で香港の日常にはいりこみ、物理的にであれ心理的にであれ、「変化」を感じさせていく。
都市化が進み、健康や環境が顕在化してきている中で、「変化」を社会に投じる。
問題・課題を議論する前に、なにはともあれ、それは素晴らしいことだと、ぼくは思う。
問題・課題は、走りながら、あるいは蜂のように飛びながら、修正を加えていけばよい。
ときには、やりなおしたっていい。
ぼくたちは、今、「無限の試みの時代」にいる。
未来を構想・イメージし、そこに何度も問いや試みをなげかけて、やりとりしながら、道をひらいていくのだ。
それにしても、利用者はなんであんな場所に自転車を駐めたのだろう、駐めるような場所ではないのに。
「last mile transportation」のニーズが、そこにはあるのだろうか。
緑色の自転車が並ぶのを見ながら、ぼくはそんなことを思う。