ツールの「メンテナンス」の大切さについて学んだこと。- シエラレオネで、東ティモールで。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。
シエラレオネの電気も水道もない山奥、東ティモールの山間部にひろがるコーヒー農園など、そのような道があってないようなところを走る車両には、とても負荷がかかる。山奥ではなくても、交通機関どころか、交通網も整備されていないから、車両(さらにはロジスティクス)はプロジェクトをすすめるうえでのコアになる。
人の命も、仕事も、車両にかかってくるところがあり、ドライバーの方々は、車両のメンテナンスにいつも熱心である。朝早くから、車両のエンジン掛けから点検にいたるまで、ほんとうに余念がない。
そんな「姿」を鏡にして、ぼくは、じぶんの「姿勢」を見つめていた。
ドライバーの方にとっての「車両」は、ぼくにとっての「コンピューター」ということもできる。
もちろん、ぼくは、コンピューターだけで仕事をしていたわけではない。プロジェクトの「現場」、具体的には、難民キャンプや村々、コーヒー農園などの現場での仕事は、ぼく自身、つまり人間が問われるところだ。
だから、ぼくは「人間全体」が問われるところに、押しだされたのである。それはとてもチャレンジングであったし、ぼくも全身全霊で取り組んだ。
そんな「現場」にありながら、プロジェクトの運営や組織マネジメント、対外関係などにおいて、仕事のツールはやはり「コンピューター」であった。それは、ぼく自身の「拡張器官」であるとも言える。
けれども、都会のオフィスにあるコンピューターと異なり、プロジェクトの現場、それも電気や通信が整っていない現場でのコンピューター仕事である。そんな事情もあって、先進産業社会における都市で仕事をするのとは異なる諸々の注意点を含め、いろいろと気をつかうところであった。
いろいろと気をつかってはいたのだけれど、それでも、ぼくはほんとうにコンピューターをメンテナンスできているだろうか、また、ぼくの仕事を最善の仕方ですすめてゆくツールとなるようにケアできているだろうか、と、ドライバーの方々の車両メンテナンスにいつも横で接しながら、じぶんを振り返っていた。
それから、どれくらいケアできてきたか、どれくらいケアできているか。香港に移住してから、じぶん自身のコンピューターを含めて、どれくらいケアできてきたか。自信があるわけではない。忙しさを理由に、あとまわしにしてきたところもある。
でも、ときに、ドライバーの方々の「姿」がぼくの意識に、ふと思い起こされる。そんな「姿」が、メンテナンスの大切さを、ぼくのなかに呼び起こしてくれるのである。
東ティモールで、ぼくはよく笑った。-「ギャグやジョーク」が創る/が生まれる関係性。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールではNGO職員として、それから香港では人事労務コンサルタントとして仕事をしてきた。シエラレオネの人たち、東ティモールの人たち、香港の人たち、世界のさまざまなところから来ている人たち、海外で仕事をする日本の人たちと、一緒に仕事をしてきた。
これらの経験は、ぼくにとって、なににもかえられない、ほんとうに宝の経験である。
26歳でシエラレオネに赴任。最初の赴任が「アフリカ」という、今思えば、(ぼくにとって)これ以上ないほどの機会をいただいた。
現地組織またプロジェクト運営上は「管理職」であり、来る日も来る日も試行錯誤の連続のなかで、「組織を運営する」ことと「一緒に働く」ということを経験してきた。15年以上が経過した今から振り返れば、ああしていればこうしていれば、ということがいろいろとあるのだが、それでも、当時は、じぶんの「限界線」をはるかに超えてゆくような気持ちで、全力を尽くしたと思う。
翌年(2003年)に東ティモールへと新たに赴任する際には、シエラレオネでの「経験」を最大限に生かしていこうと、気持ちを新たにして、東ティモールの首都ディリに降り立った。
結局、2007年初頭まで東ティモールにいたのだけれど、東ティモールで「一緒に働く」ということを思い起こすとき、うまくいかない時期や厳しい時期などがいっぱいにあったなかで、それでも、ぼくは一緒に働いた人たちと「よく笑った」ということを思い起こす。
「厳しい時期」には、ディリ騒乱という外的な状況変化も含まれる。ディリ騒乱によってぼくは一時的に東ティモールから退避しなければいけない状況になったが、そんな時期があったにもかかわらず、一緒に仕事をしながら、あるいはコーヒー農園の近くで一緒に過ごしながら(寝食を共にしていた)、「よく笑った」と思う。
「よく笑う」ことは、たとえば、東ティモールの同僚たちとかわすギャグやジョークから生まれた。日本であれば、たとえば「オヤジギャグ」というカテゴリーに投じられるような、ほんとうに単純で、「つまらない」ギャグやジョークで、ぼくたちは、ほんとうによく笑った。
はたから見れば、なんでそんなギャグやジョークで笑えるのだろう、というような「内容」であったと思う。でも、ぼくたちは、それで充分であったのだ。
言語の違いや生活習慣/行動の仕方の違いなど、異文化の<あいだ>だからこそ生まれてくるようなギャグやジョークもあった。同一文化内のデフォルト的なギャグやジョークではないから、双方に新鮮味があったことも、「おかしみ」を共に感じることができた一因であったかもしれない。
でも、今振り返ると、ギャグやジョークが生まれてくるような<関係性>の土台があったことが、とても大きなことであったのだと、ぼくは思う。そのような土台において、ギャグやジョークは生まれると共に、関係性をさらに創っていく円滑油となる。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークをかわすことのできる関係性。
とてもシンプルで、単純で、「内容」という内容がないようなギャグやジョークで、充分に笑い合うことのできる関係性。
そんな笑いの祝祭空間で、関係がさらに熟成し、「笑う」ということだけで、ともにいるということの<存在>を祝福できるような関係性。
うまく意思が伝わらないことも、コミュニケーションの行き違いも、いろいろとあったけれど、「よく笑い合う」関係性が、もろもろを包んでいた。
2007年、東ティモールを去るとき胸にこみあげるものがあったけれど、それは、今だからこそ、いっそう愛おしいものとして、ぼくの胸にこみあげてくるものがある。
そんな関係性のなかで、一緒に仕事をし、一緒に生きてきた体験は、ほんとうに、ぼくにとっての宝物だ。
世界の現場で実感した<恐怖からの自由>の大切さ。- ぼくが「自由」を書きつづける理由のひとつ。
人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。
人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。
「テレオノミーの開放系」というコンセプトであり、真木悠介(見田宗介)の言葉で、再度、ふれておきたい。
このコンセプトは、『自我の起原』(岩波書店、1993年)の最終章で提示されているが、真木悠介(見田宗介)は別のところで、その主旨をつぎのようにより簡潔に書いている。
…<テレオノミーの開放系>とは…、人間の<自我>の脱目的性ということである。…生命世界の中で唯一人間の<自我>だけが、最初はこの個体(「自分」)自身を自己=目的化することをとおして、生成子の再生産という鉄の目的性から解放され、しかしそうなると個体は無目的のものとなるから、自己自身の絶対化(エゴイズム)からさえも自由な、どのような生きる目的をももつことができる存在となる。…
見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』青土社、2016年9月号
ぼくたちは「個」として、その自我の起原から見ると、どのような生きる目的ももつことも/もたないこともできる存在である。
このことを書いていたら、「個」ではなく、社会における自由という次元において、<恐怖からの自由>ということ、その大切さを思った。
<恐怖からの自由>というコンセプトについては、大学院で途上国の開発問題を専門にしながら「自由論」の領域にどっぷりとつかっているときに出会う。
そのことを、ぼくの経験の軸において、深いところで理解したのは、大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていったときであった。
その現場で「自由ではない」ということがどういうものか、まるで手に取ることのできるような仕方で、ぼくは実感したのだ。
この現場での経験と<恐怖からの自由>については、昨年別のブログ(「大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。」)で書いたので、一部を加筆修正して再掲する。
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ぼくは、内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年、赴任した。
当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が活動していて、その任務は平和維持や武装解除などであり、ぼくが赴任した当時も、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。
UNAMISILの影響もあって街は「平和」が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。
数々の対策を打ちながら「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。
それから2003年、ぼくは東ティモールにうつることになる。
バリ島から飛行機で2時間ほどの東ティモールは、長年にわたる紛争を経て独立を果たしたばかりであった。
当時の東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。
ぼくが現地入りしたときは、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。
独立による気分の高揚、さまざまな国際支援、平和維持活動の効果などもあって、とても「平和」な東ティモールであった。
しかし、それらの活動が終了・縮小された後の2006年、雲行きが怪しくなり始め、やがて首都ディリで騒乱が発生するに至る。
ディリ騒乱が発生した日、東ティモール政府は独自に事態を収拾できず、各国の軍隊に支援を要請する。
ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いた。
家のテレビのBBC放送は、家の前の状況を報道している、という奇妙な状況に、ぼくはおかれる。
その夜、政府の支援要請に応じたオーストラリア軍などが東ティモールに上陸し、事態は若干の落ち着きをみせるが、夜の街は異様な雰囲気を漂わせていた。
事態が沈静化した翌日、ぼくは国外退避することになる。
オーストラリア軍が完全にコントロールするディリの国際空港に入ったときに安心したことを、ぼくは覚えている。
平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。
ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。
机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~の自由」、特に「他者からの自由」ということである。
誰もが想像するところである。
シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。
政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。
その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。
「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。
ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモールのディリ騒乱)を自身で経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。
残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。
「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。
また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。
そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。
ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。
「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。
「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。
自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。
日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。
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シエラレオネと東ティモールは、今は「平和」であることを追記しておきたい(※現地に行く人たちが少ない場所であるから、その場所の語り方には注意を要すると考える)。
時間と空間は、平和と戦争・紛争との間に「ギャップ」をつくってゆくことも明記しておきたい。
当時、日本からシエラレオネへの経由地であったイギリスのロンドンは、シエラレオネからやってくると、まったく違う世界がひろがっていて、そのギャップにぼくは感覚を合わせるのに苦労した。
東ティモール騒乱のときも、経由地のバリ島は観光客たちで賑わう平和な場所であり、ぼくは二つの場所のギャップに、やはり、ひどくとまどったものだ。
空間だけに限らず、時間も然りである。
このような経験をしたものの責務のようなものとして、ぼくは、経験とそこで感じたことや学んだことを、少しでも書いておこうと思う。
東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)
「War is over, if you want it…」。争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。...Read On.
「War is over, if you want it…」。
争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。
John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲のひとつである「Happy Xmas (War is Over)」のバックコーラスが届ける歌詞である。
ジョン・レノンが主旋律を歌いながら、ヨーコとハーレムコミュニティ合唱団の子供たちが声を奏でている。
2002年から2003年にかけて、戦争が停戦に至ったばかりの西アフリカのシエラレオネに赴任していたときも、それから2003年から2007年初頭にかけて、独立したばかりの東ティモールにいたときにも、この名曲はぼくの深いところで、力強いメロディーと歌声で鳴り響いていた。
シエラレオネは停戦に至っていたけれども隣国リベリアは内戦が激化していて、難民がシエラレオネに押し寄せていた。
独立したばかりの東ティモールは平和を維持してきたけれど、2006年になってディリ騒乱が発生し、国内避難民を発生させた。
そのような現実に身をおきながら、国際支援を展開しているぼくの内面を、ジョン・レノンの歌が支えてくれていた。
「争いは終わる、望むのなら」と。
東ティモールの首都ディリでの騒乱は、ふりかえるのであればその前触れはいっぱいに集められるけれど、騒乱へと突如に落ちてゆく行き方は(万が一の準備はしつつも)あまり予測されない事態であった。
ディリ中心街の銃撃戦の場に、ぼくはいつのまにか置かれ、翌日には東ティモールを退去せざるをえない状況になった。
すぐにもどる予定が、国際支援の制度上のしばりにしばられ、なかなか戻れず、日本から遠隔でプロジェクトを指揮していた。
ディリの状況はよくならず、情勢は不安定さを増していくことになる。
その間、しばりのない他のチームがディリに入り、国内避難民の支援をはじめていた。
そうして情勢が若干の落ち着きをみせはじめたころ、ディリを退避してから数ヶ月後に、ようやく、ぼくはディリにもどることができた。
2006年9月のことだったかと思う。
不安定さはまだ残り、慎重な支援事業を展開していった。
一時は恐れたコーヒーの出荷を、コーヒー生産者たちとチーム一丸で、ぼくたちは達成した。
出荷作業も終わり、そのフォローアップも落ち着いたのは、2006年の末であった。
クリスマスは、ぼくはディリにいた。
いたるところで小競り合いがつづくディリであったけれど、クリスマスの前あたりから、街は「落ち着き」を得ていた。
クリスマスの夜、事務所の前からディリの山腹をながめながら、ぼくはじぶんのなかで、つぶやいていた。
War is over, if you want it…
争いをつづけている人たちであっても、「クリスマス」という、カトリック教徒であろう彼らにとって大切な日には、争いをとめることができたのだ。
その事実に、ぼくは少し安心した。
<共同幻想としてのクリスマス>という、人間的な事象はくずれることなく、生きつづけている。
完全に人間がこわれてしまったわけではない。
ジョン・レノンの歌にこめられた<共同幻想>を書き換える企ては、その根拠をもっていることを、ぼくは争いが続く場で感じたのだ。
望めば、争いは終わるのだ。
たとえ、それがつかの間のことであったとしても。
今では東ティモールは、ふたたび、平和な日々をとりもどしている。
東ティモールにいる間、「Happy Xmas (War is Over)」の東ティモール版のようなバージョンを収録したいと、ぼくはかんがえていた。
ニューヨークのハーレムコミュニティ合唱団に替わって、東ティモール合唱団(あるいは世界の合唱団)のような合唱団がバックコーラスの歌声を奏でるというものだ。
そのときはその夢を形にすることはできなかったけれど、ぼくの「人生でやりたいことのリスト」にひきつづき含まれている。
ここ香港でクリスマスイブをむかえるなかで、ぼくはその夢をおもいだす。
生きることの「軸」を支えるもののひとつとして。- 遅ればせながら、東ティモールの「サンタクルス記念日」を思って。
遅ればせながら、東ティモールの「サンタクルス記念日」のことに、ぼくは思いを馳せている。毎年の「11月12日」が、その日にあたる。...Read On.
遅ればせながら、東ティモールの「サンタクルス記念日」のことに、ぼくは思いを馳せている。
毎年の「11月12日」が、その日にあたる。
1991年の11月12日、インドネシア占領下の東ティモールのディリで「サンタクルス事件(サンタクルスの虐殺)」が起きた。
独立派の若者がインドネシアの武装集団に殺害され、そのためのサンタクルス墓地での儀礼の際、集まっていた人たちが独立を求めるデモをしたことから、インドネシア軍が発砲。
多くの人たちが亡くなった。
この事件が国際世論の転機ともなり、後の東ティモールの独立につながっていく。
「11月12日」は、今では「サンタクルス記念日」として、東ティモールの祝日となっている。
東ティモールに住んでいたときは、サンタクルスの墓地の近くをよく通ったし、日本から来た人たちをよく案内した。
ポルトガル式の墓地はとてもきれいに維持されていて、ぼくはときおり、事件のきっかけとなった若者の墓の前で立ち止まっては、心のなかでお祈りをした。
サンタクルス記念日にサンタクルス墓地に行くことはなかったと記憶しているけれど、11月12日には、歴史のページをひらき、ぼくはしずかに、東ティモールの人たちのことを思ったものだ。
たいへんな仕事があっても、その思いを糧のひとつとして、ぼくは東ティモールでの支援活動にうちこむことができた。
2007年に東ティモールを離れて香港に移ってからも、サンタクルスのことはなぜかぼくのなかに残り、11月12日にぼくはしずかに、東ティモールの人たちに想いを馳せてきた。
東ティモールの独立への厳しい道のりの象徴として、この事件が取り上げられ、その映像に心をひきさかれてきたことも、ぼくのなかに残っていることの理由のひとつである。
ただ、それ以上に、サンタクルスのあの場にいて虐殺を逃れ生き残った人から直接に、サンタクルス事件の話を聞いたときのことが、ぼくの心身の深いところに残っている。
あの話を聞いたときに、ぼくのなかに、なにかが形づくられたように、ぼくは思う。
ひとことでは言い表せないような思いと感情が、ぼくの心身に伝わり、すとーんと心身の深いところにおちてゆき、深く刻まれることになった。
それは、今でも、ぼくの生きることの「軸」を、確かに支えてくれているもののひとつであるように、ぼくは思う。
生きるということの方向性、人として大切なこと、人との関係ということ、いろいろな問題や課題の解決など、そのような諸々への姿勢・スタンスにおいて、ひとつの<支え>となっている。
心身の深いところに、そのような<支え>のいくつもが存在していて、ぼくを支えてくれている。
「すぐに何かを」というような即効性のあるものではないけれど、ぼくの存在における深い流れをつくっている。
少し遅れたけれど、今年も、「サンタクルス記念日」のことを思いながら、そんなことを感じている。
「移動」の中で考えること、思いつくこと。- シエラレオネと東ティモールで大切にした「移動の思考」。
2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。...Read On.
2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。
日本からシエラレオネは、当時はロンドン経由であり、飛行時間はやはり長かった。
シエラレオネ国内でも、よく移動した。
シエラレオネの首都フリータウンに降り立つと、市内へは、なぜかヘリコプターでの移動であった。
フリータウンに事務所本部をもちながら、ボーとコノというところにそれぞれ事務所があった。
それぞれの事務所間は、主に、スタッフが運転してくれる車両などで移動した。
ボー事務所は、リベリア難民の支援の拠点であった。
難民キャンプまでは車で1時間ほどの距離で、難民キャンプに行くときは往復2時間の移動であった。
大雨が降ると、オフロードの泥道は車両の足をつかみ、ときに抜け出せないような状況であった。
ぼくが主に駐在していたのは、コノ事務所。
シエラレオネの東部に位置し、ギニアやリベリアに近くなる。
コノ事務所は、帰還民支援(難民として逃れていたシエラレオネ人が紛争後に戻った村々の支援)として、井戸掘削と衛生教育の支援の拠点であった。
道路は整備されていないから、車両での移動は時間を要した。
支援そのものだけでなく、各ステークホルダー(シエラレオネ地方政府、国連、NGOなど)との会議なども多く、よく移動したことを覚えている。
ぼくは、いつのまにか移動に慣れ、「移動の時間と空間」を大切にした。
首都フリータウンはそれなりにコンクリートの道路が整備されていたが、渋滞にはまることもあり、各ドキュメントに目を通すなど車内は仕事の空間であった。
フリータウンをはずれ、ボーやコノに行くとき、あるいはボーやコノにおいては、道が道でないようなところで車両が上下左右に揺れるから、スタッフの人たちと話すことに加え、「考えること」にぼくは徹した。
「移動の時間と空間」は、とても貴重なものであった。
一箇所にとどまって仕事をしているときに「煮詰まってしまった問題・課題」を考えているうちに、ふとアイデアがわいたり、解決策を思いついたりした。
相当に煮詰めていた思考が、ふーっと解き放たれるようにしてひろがり、思考の間隙をぬって、これまで考えていなかったことが浮上する。
ぼくはその内に、「移動の思考」を方法とするようになった。
東ティモールに移っても、方法としての「移動の思考」は、ぼくにとってとても大切であった。
首都ディリからコーヒー生産地であるエルメラ県レテフォホまで、整備の行き届いていない道路を通って、2時間から3時間ほどかかる道のりであった。
シエラレオネと異なることのひとつは、東ティモールでのこの移動は、「気温が変わること」であった。
エルメラ県はディリに比べて標高を高くし、レテフォホは涼しいコーヒー生産地だ。
移動と共に気温が変わっていく「移動の時間と空間」の中で、スタッフが運転してくれる車両の助手席に座りながら、ぼくはいろいろなことを考えた。
煮詰まっている問題・課題はもちろんのこと、組織マネジメント、新しいプロジェクト、プロジェクトのプロポーザルの内容と構成、ホームページ用の文章、スケジュールなどなど、「移動の時間と空間」をぼくは思考の方法として活用した。
さらに、ディリとエルメラ県をつなぐ道路で、知り合いなどと車両でよくすれちがうことがあった。
他の国際NGOの人たちであったり、東ティモール政府の人たちであったりと、さまざまであった。
ときに、互いに車両を降りて、仕事の話をしたり、互いを励ましあったりと、移動の道程は特別なものとなった。
車両を降りたときに、あたり一面にひろがる木々たちがつくる静寂が、まだぼくの記憶に鮮明に残っている。
シエラレオネや東ティモールにおいて「移動の時間と空間」はぼくにとってとても大切な時間と空間であったのだけれども、掘り下げてゆくと、ぼくたちはいつも<時間と空間の移動>の中に在る。
この反転を言葉の綾だけでなく、言葉の内実を生きるところにまで生ききることに、「移動の思考」だけではなく<思考の移動>がひらけてくるように、ぼくは思う。
外国語の言い回しによって「物事の見方・風景」が変わること。- 東ティモールのテトゥン語「matan aat」という<拠点>から。
日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。...Read On.
日本では「10月10日」は「目の愛護デー」。
10.10を横にしたときに、目と眉に見えるという、ユーモアの効いた日だ。
ぼくが子供の頃は10月10日は「体育の日」だったけれど、第2月曜日への移動により状況は変わってしまった。
「人生100年時代」を生きる際の課題のひとつは「目」であり、目の大切さを改めて感じている。
とりあえずは、コンピュータや携帯電話の画面に向かっては、時折休んで、遠くに目をやったりしている。
「目が悪いこと(視力が低いこと)」については、15年程前に東ティモールに住んでいたとき、東ティモールのテトゥン語の語彙を東ティモール人の同僚に投げかけられて、気づかされたことがある。
コンタクトレンズではなく、眼鏡をかけていたから、ぼくの目の視力が低いことは誰もがみてとることができた。
テトゥン語で、その時に投げかけられたのは、次のような言い回しである。
「matan aat」
「matan」は、「目(=eye)」のことである。
形容詞の「aat」は、「悪い・壊れた(= bad, broken)」などの意味合いである。
「matan aat」ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた目/目が壊れている」と訳した。
「壊れた」と訳したのは、こんな事情がある。
東ティモールのハードなオフロードでの移動により、よく車両が壊れるのだが、「車両が壊れた」ということを「kareta aat」という言い回しでコミュニケーションをとっていたからだ。
語彙数の限定的なテトゥン語であるから、そして外国人であるぼくとのコミュニケーションであるから、ひとつの用語がいろいろに使われる(ちなみに、コーヒー豆のよくないものも「cafe aat」として会話していた)。
だから、ぼくの「脳の語彙変換装置」は、「壊れた車両」と言うのと同じように、「壊れた目」と訳したのだ。
「matan aat」は、テトゥン語の教科書などに「blind」として載っていたりするけれど、当時は、目が悪いということで、ぼくたちはコミュニケーションをとっていた。
東ティモールで眼鏡をかけている人は圧倒的に少ない。
東京や、ここ香港とは比較にならないほど、眼鏡をかける人口は少ない。
ましてや、東ティモールの子供たちはまずかけていない(今はどうかわからないけれど)。
ここ香港では、ほんとうに小さい子供たちが、眼鏡をかけている。
日本にいるときには眼鏡をかけていることが「普通」だったのが、東ティモールでは「普通ではない」こととしてある。
あるいは、どこかかっこよさやインテリ的なものを含んだ「見方・風景」から、「そうではない見方・風景」へと、ぼくの<物事を見る眼鏡>を変えてしまう。
東ティモールという環境の中で、「matan aat(壊れた目)」と言われて、ぼくの目に対する「見方・風景」が変わってしまった。
異なる環境で、異なる言語で、ある「同じもの」を語るとき・指し示すとき、その「効果」のひとつとして、物事を見る「見方・風景」を変えてしまうということがある。
それは、とても鮮烈な経験であった。
言語でつくられる「檻」から解き放たれる経験のひとつだ。
今でも、じぶんの目のことに思いをめぐらすときに、このテトゥン語が立ち上がってくることがある。
ぼくたちはこのように、「世界の見方・風景」を変え、もっとひろい「世界」へと視界をひろげてゆくことができる。
ぼくたちが「変わる」ということの拠点のひとつとして、ぼくたちはそこに拠点のひとつをもつことができる。
香港で、東ティモールのコーヒーを見つけて。- 東ティモールコーヒーの香りと味の記憶と点火された思考。
中秋節と中秋節翌日が過ぎたけれど、香港の街はまだその余韻を残しながら、活気と喧騒の中にあるように見える。コーヒーを飲もうと、Starbucksのプレミア店「Starbucks Reserve」のバーに腰掛ける。...Read On.
中秋節と中秋節翌日が過ぎたけれど、香港の街はまだその余韻を残しながら、活気と喧騒の中にあるように見える。
コーヒーを飲もうと、Starbucksのプレミア店「Starbucks Reserve」のバーに腰掛ける。
「さて何を飲もうか」と、バーのカウンターに並べられた、コーヒー豆が入った透明のボトルに眼を向けると、「East Timor」の文字が眼に入ってくる。
「East Timor」の文字の下には「Peaberry」と書かれている。
小さな丸豆である。
コーヒーのチェリーを採取し、コーヒーを精製していると、その中に若干、Peaberryが混じっているのを見つけることができる。
量的にはたくさんあるものではない。
「East Timor Peaberry」を、Starbucksのプレミア店が扱っている。
Starbucksが東ティモール産のコーヒーを販売していたことは、以前から知っていた。
「販売していた」と過去形で書いたのは、13年程前に、オーストラリアのシドニーにあるStarbucksで目にしてから、見ることがなかったからだ。
東ティモールに住んでいるときに、休暇を利用して、オーストラリアのパース経由でシドニーに降り立ったときに、Starbucksでたまたま見つけた。
当時から東ティモールで活動していたCooperative Cafe Timor(CCT)というコーヒー生産者組合を経由して、Starbucksにコーヒーが売られていたことは知っていたから、それを実際に目で確かめた形であった。
CCTは医療クリニックのサービスを提供するなどして、地域社会に貢献している。
ところが、当時、精製していたコーヒーの品質にはいろいろと問題を抱えていた。
そのようなことを思い出していると、準備されるコーヒーから、確かに「東ティモールコーヒー」に独特の「香り」が流れてきた。
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、「East Timor Peaberry」の説明書きを見つけ、それを読んでいたら、案の定、CCTと協働の説明が書かれていた。
ぼくが東ティモールを離れたのが2007年初頭。
企業利益に偏重していたStarbucksを立て直すためにHoward SchultzがCEOに戻ったのが、2008年。
Starbucksが軌道修正してきた影響もあったのだろうと推測しながら、「East Timor Peaberry」コーヒーの香りと味を楽しむ。
ぼくが東ティモールで関わってきたレテフォホのコーヒー生産者たちのコーヒーが懐かしくなる。
レテフォホの土地と彼(女)らが生産する高品質のコーヒーに、あらためて、畏れのような念を感じる。
高品質のコーヒーを求める「消費者」の存在は、とても大切だ。
品質に無頓着な消費者が安い価格のコーヒーを求めると、「生産者」はそのようなコーヒーを生産し、やがて価格競争の中で自分たちのコーヒーと生活をつぶしてゆく。
高品質のコーヒーを(慈善ではなく)感謝の現れとして高価格で求めることは、コーヒー生産者たちの生活をつくってゆく。
東ティモールのコーヒーに思わぬところで出会うことで、「East Timor」の名が広がってゆく嬉しさを感じると共に、ぼくは上で書いたようなことをいろいろと考えさせられた。
東ティモールを去ってから10年を経た、ここ香港で。
世界のレストランから。- 東ティモールの「廃墟のレストラン」に灯るろうそくの光が記憶を照らして。
世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。...Read On.
世界のいろいろなレストランで食事をしてきた。
思い出深いレストランのひとつを取り上げると、東ティモールのディリ市内にあった「廃墟のレストラン」である。
正確には、廃墟の建物が「レストラン」となっていた。
廃墟は、コンクリートがむきだしで、屋根はなく、破壊された建物の壁と柱が、かろうじて建物の形態をふちどっていた。
2002年に独立した東ティモールは、さかのぼること1999年に、独立に関する住民投票を行なった。
その結果、事実上の独立が決まると、インドネシア併合維持派は民兵により破壊活動へと走った。
ぼくが東ティモールに入った2003年頃、破壊された建物がまだ見受けられた。
「廃墟のレストラン」は、そのように破壊された、首都ディリ郊外の建物のひとつであった。
そこの家族が、破壊された建物を残したままで、レストランを開業していたのだ。
「レストラン」とは、別に「建物」を意味するとは限らない。
そこに、食事を提供する人たちがいて、食事をとる人たち(カスタマー)がいて、食事があって、サービスがあれば、「レストラン」になる。
「廃墟のレストラン」は、夜に「レストラン」となる。
廃墟のひとつの部屋(部屋といっても部屋があったであろう空間である)に、長テーブルが出される。
外が次第に暗くなり、ろうそくがテーブルと、そこに着席している人たちを灯す。
料理は、以前はポルトガル領であったこともあり、ポルトガル料理的なものが並ぶ。
廃墟で、屋根はなく、壁もあってないようなものだから、星たちが頭上にのぼり、周囲の静かな気配が直に伝わってくる。
難点は「蚊」で、コイルの蚊取り線香が足元で、煙を一生懸命にたいている。
ぼくたちは、レストランで食事をとりながら、東ティモールのこと、そこでの支援活動の話などを語る。
当時はとても平和な東ティモールであって、独立闘争や民兵による破壊活動がなかなか想像しにくいほどであった中で、「廃墟」という空間は困難な歴史を伝え続けていた。
レストランのオーナー家族が「廃墟」を残していることの目的のひとつも、歴史を忘れないことであったかと記憶している。
しんみりとしてしまうこともあるのだけれど、そのように生きている人たちに勇気づけられ、翌日、チャレンジングな支援活動にまた立ち上がっていったものである。
料理はおいしかったと思うのだけれど、それ以上に、その空間とそこに生きる人たち、一緒に東ティモールで支援活動を行う人たちなどとの総体としての体験として、東ティモールの「廃墟のレストラン」は、ぼくの中に記憶されている。
2006年に、首都ディリなどが再度騒乱になげこまれてから、ぼくが東ティモールを去る2007年初頭まで、ぼくが再びこのレストランに行くことはなかった。
あれから、この「廃墟のレストラン」がどうなったかはわからない。
わからないけれど、ぼくを含め、そこを訪れた人たちの心の中に確かに記憶として残っていると思う。
困難な歴史を刻印づけながらも、しかし一歩でも未来に向かって歩む人たちの存在を、ろうそくの光が灯しながら。
大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。
ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。...Read On.
ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。
修士論文は『開発と自由』と題し、途上国(と先進国)の発展を「自由」という観点から論じた。
大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていくことになる。
その現場で、「自由」あるいは「不自由」ということが、まるで、手に取ることのできるような仕方で、ぼくは感じてきた。
内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年に赴任する。
当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が結成され活動していて、その任務のひとつに平和維持や武装解除などがあり、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。
UNAMISILの影響もあって街は平和が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。
数々の対策を打ちながら、「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。
2003年に、ぼくは東ティモールにうつることになる。
東ティモールも、長年にわたる紛争を経て、独立を果たしたばかりであった。
東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。
当時、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。
それらの活動が終了・縮小された後の2006年に、東ティモール騒乱が発生し、政府は独自に事態を収拾できず各国の軍隊に支援を要請する。
ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いていた。
その夜、オーストラリア軍などが上陸し、沈静化した翌日に、ぼくは国外退避することになる。
平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。
ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。
机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~からの自由」、特に「他者(の干渉)からの自由」ということである。
誰もが理解するところである。
シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。
政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。
その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。
「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。
ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモール騒乱)をじしんが経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。
残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。
「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。
また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。
そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。
ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。
「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。
「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。
自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。
日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。
東ティモールのアルカティリ首相との思い出。- 2017年9月アルカティリ新首相就任のニュースを目にしながら。
21世紀最初の独立国(2002年に独立)、東ティモール。ぼくは2003年の半ば頃から2007年初頭にかけて、NGO職員として東ティモールに駐在し、コーヒー生産者たちの支援に携わっていた。...Read On.
21世紀最初の独立国(2002年に独立)、東ティモール。
ぼくは2003年の半ば頃から2007年初頭にかけて、NGO職員として東ティモールに駐在し、コーヒー生産者たちの支援に携わっていた。
香港に来る前に住んでいた国である。
この2017年7月に議会選が行われ、第1党となった東ティモール独立革命戦線(フレティリン)。
9月15日に、フレティリンのマリ・アルカティリ書記長が新首相に就任した。
マリ・アルカティリ新首相は、東ティモール独立後の初代首相であった人物である。
インドネシアによる占領時には、モザンビークにうつり、東ティモール独立のための外交に力を注いだ。
東ティモール独立に際し、東ティモールに戻り、シャナナ・グスマン大統領のもと、初代首相となる。
2006年、東ティモールの騒乱時に、辞任要求が高まる中で、辞任している。
ぼくが東ティモールにいる間、イベントなどでアルカティリ首相(当時)を目にすることは時々あった。
直接お会いしたのは、確か、2005年のことであったと思う。
アルカティリ首相(当時)は、地方を回っていて、ぼくがコーヒー生産者支援に携わっていたエルメラ県レテフォホも、スケジュールに入っていたのだ。
一通りのセレモニーが終わったあたりに、ぼくは1~2分ほどだったと記憶しているけれど、主に仕事のためにコーヒー生産者支援などのお話をさせていただいた。
エレベータに居合わせる30秒程度で自分の話を伝えるという「エレーベータトーク」のように、ぼくは短い時間で伝える準備をした。
東ティモールの公用語であるテトゥン語でお話をさせていただいたようにも記憶しているけれど、定かではない。
英語も混じったかもしれない。
話の内容も明確には覚えていないけれど、そこで感じられた空気感、それからアルカティリ首相の鋭い眼光、その中で緊張した声で一生懸命話そうとするぼく自身の姿が、今でも思い起こされる。
鋭い眼光と発せられる言葉のどっしりとした響きに、一国の舵取りにおいて決断・判断をしてきた人の強さと重さを、ぼくは感じた。
その時の「感覚」は、今でも、この身体に残っている。
独特の雰囲気と空気感があったからだと思う。
経験というものの「直接性」から生まれる記憶である。
2017年9月に新首相となったアルカティリ氏のニュースを見ながら、ぼくの中には、当時の記憶が、感覚と共に湧き上がってくる。
ぼくは、このような経験の積み重ねの中に生きてきたことを思う。
東ティモールの人物の記憶で言えば、もちろん、初代大統領のシャナナ・グスマン氏の印象は大きい。
直接にはお会いする機会はなかったけれど、時折、間近に目にすることがあった。
初代大統領であったシャナナ・グスマン氏については、また別の機会に書きたいと思う。
五輪真弓『心の友』に交響する東ティモールの大地と人びと。- シンプルで素朴な世界にひびく音楽。
香港のぼくが住んでいるところの界隈は、数日前の台風によって木々たちが倒され、台風が去って2日経ってからも、通路が木や枝にさえぎられている。...Read On.
香港のぼくが住んでいるところの界隈は、数日前の台風によって木々たちが倒され、台風が去って2日経ってからも、通路が木や枝にさえぎられている。
少し遠くに足を運ぶと、公園のベンチの支えが折れていたり、その他施設も被害を受けているのが目に入ってくる。
そんな風景にも、太陽は何事もなかったように強い陽射しをおくり、青い空がうすい雲をたなびかせて、彼方までひろがっている。
そして、また次の台風が近づいている。
ぼくは、五輪真弓の『心の友』が聴きたくなり、曲をさがして、再生ボタンをおす。
『心の友』のメロディーと歌詞が紡ぐ音の響きが、心身の奥の方に届く。
五輪真弓の『心の友』という曲を知ったのは、東ティモールに住むようになってからであった。
1980年代にインドネシアで『心の友』がヒットし、インドネシア領であった東ティモールにも、曲が流れていたのだという。
なぜ、インドネシアで、五輪真弓の『心の友』がヒットしたのかはそれほどわかっていない。
『心の友』は、五輪真弓のアルバム『潮騒』(1982年)に、アルバムの曲のひとつとして収められている。
当時インドネシアのラジオ関係者が五輪真弓の日本でのコンサートに行き、そこで購入した『潮騒』をインドネシアのラジオで流したことで人気を博したことがきっかけと言われる(参照:wikipedia 五輪真弓)。
ぼくが東ティモールに住んでいた2004年、隣国のインドネシアのスマトラ島沖で大地震が起きた。
ぼくの所属していたNGOは、時間をおかずにチームを送り、緊急支援にあたった。
被災者を支えるために、五輪真弓はインドネシアの歌手デロンと共に歌う「Kokoro no tomo」を収録し、世に放つことになる。
東ティモールでは、一緒にはたらいていた東ティモール人スタッフたちも、それからコーヒー生産者の仲間たちも、『心の友』を知っていた。
より正確には、「知っている」ということ以上に、そこに感情や思いが重ねられているのを感じる。
独立前は、インドネシア占領下にあった東ティモール。
それでも、インドネシアと東ティモールの間にある「大きな垣根」を超えるようにして、あるいはすりぬけるようにして、音楽は人びとの心の中に届いていた。
『心の友』は、それぞれに、字義通りサバイバルの環境に生きなければならない人たちの表面にはりめぐらされた「盾の殻」をつきぬけて、つかの間、シンプルで素朴な人たちのほんらいの姿を浮き上がらせる契機となったように、ぼくには思える。
ぼくは、東ティモールで、ギターで『心の友』のコードを弾きながら、日本語の歌詞を口ずさむ。
この歌とメロディーが、はるか昔から、この土地で育まれてきたような、そんな錯覚を覚える。
社会学者の大澤真幸は、人間の特徴として「大勢が一緒に笑うこと」があり、笑いは共感のメカニズムとして機能することに着目し、笑いが進むと音楽になると考えていると語っている(『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社)。
笑いが進むと、音楽になる。
音楽の背後には、対人関係があると、大澤真幸は考えている。
シンプルで素朴な人たちの「共感」が、シンプルな曲である「心の友」を素地に、東ティモールの大地の上で交響したのかもしれない。
「…愛はいつもララバイ、旅に疲れた時、ただ心の友と、私を呼んで…」とサビが歌われる『心の友』の最初は、こう歌いだされる。
あなたから苦しみを奪えたその時
私にも生きてゆく勇気が湧いてくる…
五輪真弓『心の友』
長い旅路の中で自身の苦しみに砕かれながらも、他者の苦しみに気を配り、満面の笑顔を投げかけたであろう東ティモールの人たち。
その笑顔は他者の苦しみを幾分か和らげ、そして「私にも生きてゆく勇気」を与えてゆくなかで、日々立ち上がってきたであろうと、東ティモールの人たちと3年半ほど一緒に暮らしたぼくは思う。
レテフォホ(東ティモール)の人と自然とコーヒー。- 素敵な映像「レテフォホ星降る山のコーヒー・東ティモール」に触発されて書く。
東ティモールのエルメラ県レテフォホ。コーヒーの産地である。Peace Coffee Clubによる、レテフォホの素敵な映像に触発されて、ぼくは書く。...Read On.
東ティモールのエルメラ県レテフォホ。
コーヒーの産地である。
Peace Coffee Clubによる、レテフォホの素敵な映像に触発されて、ここ香港でぼくは書く。
まずは、映像「Letefoho Coffee from Timor-Leste / レテフォホ星降る山のコーヒー・東ティモール」(2分1秒)をご覧いただきたい。
リラックスした環境で、例えば、コーヒーでも飲みながら。
映像(YouTube)
「Letefoho Coffee from Timor-Leste / レテフォホ星降る山のコーヒー・東ティモール」(PeaceCoffeeClub)
(※上記タイトルをクリックしてYouTubeへ)
レテフォホには、2007年まで、ぼくはよく滞在していた。
「よく」というのは、首都ディリとレテフォホの2拠点に事務所を構えていたから、よく行き来していた。
映像の舞台であるレテフォホにいたときから、もうすでに10年ほどが経過したという感覚と、いや、10年ほど前にぼくはレテフォホにいたんだという感覚が、ぼくのなかで交差する。
この10年のうちに世界は変わり、そのうちのひとつであるドローンの技術が、この映像でレテフォホを空からの視点できりとっていく。
山の稜線にそって、町の中心部がひろがっている。
コーヒーの木をまもるようにして、傘のようなシェードツリーたちが森をつくっている。
なじみの顔たちが、ぼくに、元気な姿をとどけてくれる。
そんな自然と人を、頂から、「クリスト・レイ」(キリスト像)が見届けている。
コーヒーは、芸術作品のような、このレテフォホから生まれる。
そして、今は、そのブランドを確かなものとしている。
かつて、ぼくは、東ティモールの「コーヒー産業(プロジェクト)」について書くなかで、こんな風に書いた。
…コーヒーの木を守るシェードツリーを一望することができるレテフォホの丘で、やさしく流れる気流に身体をさらし、満面の笑顔を投げかけてくる東ティモールの人びとに囲まれていると、こんな環境で生育するコーヒーが美味しくないわけがない、という想念が頭をかすめる。…
中島純「コーヒー立国」『東ティモールを知るための50章』山田満編著(明石書店)
ぼくは、映像を見ながら、やはり、思わずにはいられない。
「レテフォホ」という土地の、自然と人たちがつくりだすコーヒーは、美味しくないわけがない。
この映像は、「レテフォホ星降る山のコーヒー・東ティモール」と名づけられている。
夜が明ける前の、朝4時頃。
ぼくは、トイレにいくために、よく起きた。
実を言うと、起きたいために、トイレにいきたくなるといった方が正しいような気がしていた。
トイレにいくためには、いったん外に出なければいけない。
レテフォホは山間地だから、外はきりっとした空気がとおっている。
いったん外に出るところで、ぼくは、息をのむ。
目の前に、空いっぱいの星たちがたたずんでいる。
流れ星が、いくども、空をかけてゆく。
星座などまったくわからないほどに、空いっぱいの星たち。
ぼくは、息をのみ、星たちの世界にすいこまれるような錯覚を覚える。
ぼくの楽しみのひとつだった。
また、日々起きる、さまざまな困難を、「大丈夫、解決できる」と感じさせる<宇宙からのまなざし>でもあった。
「星降る山」とは、そこに生きるものたちにとっては、実質のある、ほんとうの言葉である。
映像を見ながら、そのようないろいろな思いと感情と思い出がおしよせてきて、レテフォホに行きたくなった。
そうして、ぼくは、もう一度、映像を見る。
映像(YouTube)
「Letefoho Coffee from Timor-Leste / レテフォホ星降る山のコーヒー・東ティモール」(PeaceCoffeeClub)
(※上記タイトルをクリックしてYouTubeへ)
テトゥン語(東ティモール)を久しぶりに使いながら。- 「言語の貯蔵庫」のドアを開ける。
久しぶりに、東ティモールの言語である「テトゥン語」を使って文章を書いた。...Read On.
久しぶりに、東ティモールの言語である「テトゥン語」を使って文章を書いた。
簡単なやりとりであれば、東ティモールを去った後もあったけれど、一対一を超える人たちに見てもらう文章を書くということで、姿勢を正して、気合いを入れて書く。
それほど長い文章ではないのだけれど、語彙と文法をひとつひとつ確認しながら、思い出しながら、書いた。
2003年の夏から2007年の初頭にかけて東ティモールに住んでいたとき、ぼくは、テトゥン語を覚えて、日常や仕事で使ってきた。
本格的に学ぶようになったのは、最初の一年にさしかかるころであったと思う。
最初は、首都ディリにいることが多く、なんとか英語ですすめることができたのだけれど、コーヒー生産地である山に行くようになり、テトゥン語がないとまったく生活と仕事に不自由するようになっていったことが、大きなきっかけであった。
だから、まったくの「必要性」におされて、学んでいった。
参考書などはあったけれど、もちろん他の言語とは比べものにならないほど少なかった。
今では、英語や日本語によるテトゥン語の参考書は、それなりに揃っているようだ。
そのような状態だったこともあり、ぼくがテトゥン語を勉強しはじめたころは、「音」から入っていった。
それまでの「言語習得」(英語も中国語も)は、ぼくは、「字」から入っていったけれど、テトゥン語は「音」で学んだ。
「音」を中心に学んでいく言語は、不思議なものであった。
そのようにして「音から学んだテトゥン語」は、日常でも、コーヒー生産者との会議でも、政府関係者とのやりとりでも、生きた。
実際に、テトゥン語は「書き言葉」というよりも、「話し言葉」として発展してきたようなことも聞いていた。
だからか、生活に必要な最小限の言葉であり、「近代的な言葉」はポルトガル語やインドネシア語が取り入れられている。
必要最小限な言葉であることは、しかし、生きるということの貧しさを意味はしない。
言葉が生まれでる、あるいは言葉の背景である、人と人との関係性は、豊かな「関係の土壌」を形成している。
シンプルな「言葉の世界」は、シンプルに、豊かにつながる人と人との関係性を表現してもいる。
ぼくにとっても「話し言葉」として覚えた言語だから、書くとなると、それなりの準備と確認が必要になる。
そして、すでに10年前に日常で使うことをしなくなった言語であるから、ぼくのなかの「言語の貯蔵庫」の具合が、気になった。
ネット上で手に入れた英語の参考書に目を通しながら、語彙を確認し、覚えていない言葉を探す。
でも、いったん、覚えていない言葉の情報の一片がわかると、「言語の貯蔵庫」のドアがひらきだす。
そして、言葉のひとつひとつから、東ティモールでの記憶が飛び立つのを感じる。
風景や交わした会話の断片が、思い出されてゆく。
それは、とても不思議な体験でもあった。
シンプルなテトゥン語の「言葉の世界」が、ぼくの記憶をきっちりと形づくっている。
そして、「言葉の世界」の外にひろがる、言葉にしてはならないあの感覚と体験が、そこにはいっぱいにひろがっている。
途上国で感じる「懐かしさ」という感覚を掘り下げて。- シエラレオネで、東ティモールで。
いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。...Read On.
いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。
ゆったりとした環境、人懐っこい笑顔などに囲まれながら、「懐かしさ」を感じる。
ぼくも、同じような「感じ」を持ちながら、しかし、この感覚は「懐かしさ」なのだろうか、ということを、西アフリカのシエラレオネと東ティモールという「途上国」に4年ほど住みながら、自問してきた。
経済統計やメディアなどにおいては、シエラレオネは「世界でもっとも寿命が短い国」であり、東ティモールはアジアのなかでも「最貧国」と言われたりする。
ぼくは、西アフリカのシエラレオネには、2002年後半から2003年の前半まで、東ティモールには2003年後半から2007年の初頭まで、滞在していた。
そのような「現場」で考える。
そして、今も考えたりする(だから、こうして書いている)。
このような些細な問いがなぜ大切かということは、ひとつには、ただの「直感」であるけれど、もうひとつには、そこに「つながり」をつくるヒントが隠されているように思ったからだ。
また、「懐かしさ」という、いわば「過去」への視線が、途上国から先進国へという直線的な発展論の見方を内包しているようでもあったから、それにたいして疑問ももっていた。
東ティモールから次の香港に移ってから10年が経ち、その歳月のなかでも、ぼくが抱いてきた「感覚」や「考え」を、丁寧に掘り下げることをしてきた。
シエラレオネや東ティモールを去ってから考えるということは、ひとつには現場では「余裕」がなかったことと、そして外から見ることで客観視できるからということでもある。
さて、「懐かしさ」の感覚は、表層においては、何かの「昔っぽい」イメージ(ほんものであれ、映像であれ)が浮かびあがることにおいて、確かに感じるのかもしれない。
ぼくも以前、アジアへの旅のなかで、そんなイメージがわきあがったことを覚えている。
しかし、ぼくは、その感覚の言葉は、必ずしも正確ではないように感じてきた。
掘り下げてみると、その感覚は、人だれしもがもつ「ただ生きることということの歓び」が裸形で現れる感覚であるように思う。
「懐かしさ」は、風景にたいしての「昔っぽさ」というよりは、自分のなかに眠ったような状態にある「ただ生きることの歓び」というシンプルな感覚が深い層より裸出してくるということだ。
都会の喧騒や情報が氾濫する環境や生活で、ホコリが覆ってしまっていた地層が、(一般化はできないけれど)「途上国」の風景、それからそこに生きる人びとの笑顔によって、ホコリが取り払われる。
懐かしさは、そんな生きる歓びの原風景へとつながる感覚なのではないか。
もちろん、世界のどこにいても、人びとは厳しい生活のなかに置かれていたりするけれど(途上国における「貧しい」ということはまた別に書きたい)、そんなことも(ひとときのあいだ)突き抜けて感覚される、ただ生きるということの歓びの地層である。
これからの未来を構想することを考えているときに、人や社会はどこへ「着地」していくのかという問題意識のなかで、社会学者の見田宗介の明晰な言葉を追っていて、「生きることが一切の価値の基礎」という言葉に、ぼくの感覚が着地した。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
具体論ではないけれど、いわゆる「先進国」と「途上国」の「つながり」を考えるとき、この「歓びの生地」に、人も社会も着地をしていくことが大切であるということを思う。
あるいは、少なくとも、そこを意識しながら、交流や支援などのつながりをつくっていくことが大切である。
シエラレオネで、東ティモールで、ぼくは、「必要」なものを支援しながらも、この「ただ生きることの歓び」の地層を忘れないように、人びとや環境に接してきた。
現場で日々おきる困難と、そこに渦巻く様々な感情と向き合い、ときには必死に闘いながら。
そして、今、そのような「感覚の地層」に、人がときおり途上国に感じる「懐かしさ」がつながっているのではないかということ、それからその「感覚の地層」こそが、人と社会が次の時代に向かう「着地点」であるのではないかということを、ぼくは考えている。
「語ってはいけないものを語ってはいけない」(真木悠介『旅のノートから』)。- ぼくたちの一番大切な経験の見方、語り方、そして生き方。
真木悠介の著作『旅のノートから』は、とても素敵な本だ(現在は『真木悠介著作集Ⅳ』所収)。...Read On.
真木悠介の著作『旅のノートから』は、とても素敵な本だ(現在は『真木悠介著作集Ⅳ』所収)。
真木悠介が、「18葉だけの写真と30片くらいのノートで、わたしが生きたということの全体に思い残す何ものもないと、感じられているもの」である。
もともと「私家版」のようなものとしてつくり、好きな人たちに贈るつもりでいたという。
30片の「ノート」の最後は、「えそてりか I」というタイトルがつけられている。
1990年のインドへの旅の後に書きつけた、この世界の見方、語り方、そして生き方についての「私記」である。
ただし、この「ノート」は、世界の見方の「過ち」、世界を語る仕方の「過ち」から書き始めている。
この世界では、見てはいけないものがあり、語ってはいけないものがある。
ここでは、「金の卵を生むニワトリ」の話が、例のひとつとして、あげられている。
金の卵を生むニワトリがいました。そのニワトリのもち主は、こんなにたくさんの金の卵を生みつづけるのだから、その「本体」はどんなに巨きな金の塊だろうと思ってそのニワトリをしめてみると、ふつうのニワトリの肉の塊があるだけでした。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
「花」もそうであろう。
花の美しさにみちびかれて、人は、「本体」はどんな美しさをたたえているのかと花をむしりとる。
むしりとって見たところで、そこには根があり、茎があるだけだ。
日本では江戸時代まで、花をむしりることは禁じられていたという。
それは、畏れの感覚にささえられたものであっただろうけれど、他方で、「世界の見方」を人々はどこかで知っていたのだということもできる。
人は、経験の煌きに導かれて、経験の「核」への衝動にとらわれる。
真木悠介は、「語ってはいけないこと」にふれて、こう書いている。
ぼくたちの一番大切な経験は、そこからきらめく言葉たちが限りなく飛び立ってゆく源泉である。けれどもこの源泉自体を言葉にしてしまおうとするなら、ぼくたちは何もかも失ってしまう。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
語ること、言葉にすることで、切り開かれる世界や歓びの倍増を経験することもあるけれど、村上春樹が「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と書くように、ぼくたちは言葉の限定性のなかで生きる。
言葉にすることで、経験や出来事が、ありふれたものになってしまう。
真木悠介は、「性、という出来事じたいの煌きと深さ。と、性について語ることの無残との落差。見ることの無残との落差。」と、ぼくたちの一番大切な経験のひとつを例として挙げている。
この一番大切な経験の「源泉」自体、真木の別の言葉では「生のリアリティの核のところ」に、ぼくたちは、わけいってはいけない。
では、どうすればいいのか。
「えそてりか I」の最後には、こう書きつけられている。
それに照らされた世界を見ること。
それに陽射された世界を語ること。
それに祝福された世界を生きること。
真木悠介『旅のノートから』岩波書店
18葉の写真の一葉一葉、そして30片のノートの一片一片が、生きることの核に、照らされた世界、祝福された世界の輝きが戯れている。
『旅のノートから』の表紙の写真、インドのコモリン岬の子供たち(その感動的な話は、見田宗介『社会学入門』(岩波新書)のなかで、語られている)。
この写真を見ていたら、ぼくは、『東ティモールを知るための50章』(明石書店)の表紙の写真を思い出した。
ぼくが、東ティモールのレテフォホで撮影した写真だ。
コーヒーパーチメントと呼ばれる、コーヒー豆に殻がついた状態のものを乾かしている工程のなかで、村に立ち寄った際に撮った写真だ。
その写真を再度見ながら、ぼくは思う。
この一葉も、陽射され、祝福された世界の輝きが戯れているのだ、と。
戦争は終えることができる、争いは止めることができる。- ジョン・レノンの歌、そして東ティモールの「静かな夜」に。
戦争や争いを「なくする」という、「否定の否定」という方法は、否定にいきつく他はないことを別に書いた。だから、問題を「裂開」しなければならない。...Read on.
戦争や争いを「なくする」という、「否定の否定」という方法は、否定にいきつく他はないことを別に書いた。
だから、問題を「裂開」しなければならない。
例えば、芸人の西野亮廣は、「戦争は無くならない」という地点から出発して、「戦争は止めることはできる」ということを定め、エンターテイメントによる感動を武器とすることを見出す(西野亮廣『魔法のコンパスー道なき道の歩き方』主婦と生活社)。
戦争や争いを「減らす・減る」ということもできる。
戦争や暴力による死者ということであれば、統計数値上、減ってきていることが客観的に示されている。
歴史学者のYuval Harariは、そのことを著書『Homo Deus』で数値を示しながら指摘している。
また、Steven Pinkerは、著書『The Better Angels of Our Nature』で、主題的に取り上げている。
副題はまさに「Why Violence has Declined」(なぜ暴力は減少したのか)だ。
このことは、ぼくたちの「望み」である。
戦争を「止める」ということに戻ると、西野亮廣の『魔法のコンパス』を読みながら考えていたら、二つのことを思い起こした。
一つは、ジョン・レノンの曲だ。
ジョン・レノンの曲に、「Happy Xmas (War Is Over)」がある。
1971年にリリースされ、今でも、クリスマスの時期には必ずどこかで聞く歌だ。
ぼくの、とても好きな曲だ。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールという紛争後の社会に身をおきながら、ぼくの「心の耳」にリフレインしていた曲である。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが歌う後ろで、子供たちからなるコーラス隊がこんなふうに歌う。
…
war is over
if you want it
war is over
now…
John Lennon “Happy Xmas (War Is Over)”
戦争・争いは終わるよ、あなたが望めば、と。
当時ベトナム戦争に照準をあわせて歌われた歌だけれど、それは今の時代にも貫通する。
ジョン・レノンも、戦争・争いはなくすのではなく、戦争は「終える」/「止める」ことができることを伝えている。
それから、二つ目に思い起こす風景は、2006年12月の東ティモール。
2006年半ばに騒乱が起こり、首都ディリでは国内避難民が発生し、オーストラリア軍などが駐屯しながらも、争いが続いていた。
銃撃戦などの状況から日本に一時退避していたぼくも、すでに東ティモールに戻っていて、コーヒーを無事に出荷した後の時期であった。
争いや衝突が、小さい規模ながらも間断なく続いていた。
しかし、クリスマスを迎えたところで、争いが一時的に、止まったことを、ぼくは今でも覚えている。
首都ディリが、静かな夜に包まれたときであった。
東ティモールはカトリックの国で、クリスマスは大切なひととき。
人は望めば、争いの途中であっても、争いを止めることができるのだ。
人間が完全には壊れていないことに、ぼくは心の底で、安堵感を感じることができた。
戦争や争いはなくすことはできないけれど、終える・止めることはできる。
東ティモールの、あの「静かな夜」は、ぼくの心の風景に、今でも確かな感覚と共に残っている。
そして、「戦争・争いは終わるよ」という、子供たちのコーラスが、透明にこだまする。
あなたが望めば、と。
その声は、ほんとうに望むことができているだろうか、という「問い」を、ぼくに投げかけている。
東ティモールに「肯定性の彩り」を与える。- 学生団体による「Timofee」プロジェクト。
「Timofee」という東ティモールの支援プロジェクトのお話を伺う機会を得た。「国際問題の理解を深め、啓発していくこと」を目的とする、慶應義塾大学公認の学生団体S.A.L.に所属している、真摯な青年からの連絡であった。...Read On.
「Timofee」という東ティモールの支援プロジェクトのお話を伺う機会を得た。
「国際問題の理解を深め、啓発していくこと」を目的とする、慶應義塾大学公認の学生団体S.A.L.に所属している、真摯な青年からの連絡であった。
「Timofee」(由来はTimor + Coffee)とは、ホームページによると、「東ティモールを焦点に当てて活動する学生団体S.A.L.のプロジェクト」。
クラウドファンディングによって、資金を集め、プロジェクトを展開する。
第一弾は2015年から2016年にかけて「フリーマガジン Timofee」の制作・配布(完了)、そして現在、第二弾「スタディツアー」。
企画を立て、今は、クラウドファンディングで資金集めを行なっている(2017年7月14日まで。※リンクはこちら)。
プロジェクト第一弾の「フリーマガジン Timofee」は、日本語版・英語版・テトゥン語で制作し、1000部のテトゥン語版を東ティモールで配布したという。
日本語版は、ホームページ上で、見ることができる(※リンクはこちら)。
写真をふんだんにとりいれ、コラム、漫画などを組み合わせ、デザイン性にもすぐれた雑誌に仕上がっている。
コラムにも書かれているように、東ティモールと聞くと、多くの人は「危険」「紛争」ということをイメージするが、雑誌のデザインと色調はそんなイメージを払拭する。
雑誌は「何もない国」という文章からはじまる。
「何もない国」
旅人はこの国をそう呼ぶ。
何もない国とは、
おそらく目立った所がない国という意味だろう。
…
だが、旅人が気づきにくいだけで、
この国はたくさんの魅力で溢れかえっていた。
それらはどれもこれも鮮やかで見たことのないものばかり。
今はまだ何もないと言われる国、
だったら世界に見せつけてやろうじゃないか。
さあ、東ティモールを彩ろう。
『Timofee』Vol.001 (Spring, 2016)
「さあ、東ティモールを彩ろう」という言葉に導かれながら、写真とコラムが、東ティモールを語っていく。
2003年、ぼくが西アフリアのシエラレオネを後にし、次の赴任地である東ティモールの首都ディリに降り立ったときのことを思い起こす。
空港から事務所に向かう幹線道路から「何もない」街並みを、ぼくは目にする。
夜で暗かったのもあるし、当時は信号もなかったこともあって、その「何もなさ」は想像を超えるものであった。
そして、社会学者・真木悠介の名著『気流の鳴る音』の一節が、ぼくのなかで湧き上がる。
真木悠介は、マヤのピラミッド(そしてその周りにどこまでも広がるジャングル)を目の前にしながら思ったことを、次のように書きとめる。
…ピラミッドとはある種の疎外の表現ではなかったかという想念が頭をかすめる。幸福な部族はピラミッドなど作らなかったのではないか。テキーラの作られないときにマゲイの花は咲くように、巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれないと思う。…
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
首都ディリにはじめておりたってから、その後3年半を、ぼくは東ティモールで過ごす。
ピラミッドのごとく「文明的・都市的」なものはなくても、ぼくは、東ティモールで「生の充実」を生きていくことができた。
東ティモールを去ってから10年経って、自分のなかで立ち上がってくるような風景があったりもする。
雑誌『Timofee』のコラムは繊細な筆致でその一端をつかんでいる。
いろいろと学ばせていただきながら、他方、東ティモールが「世界につながっていること」を、嬉しく思う。
現在、進めているという第二弾「スタディー・ツアー」でも、そんな「世界のつながり」をつくろうとしている。
この企画では、東ティモールの大学生5名を日本に招く。
そして、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町を訪問することで、「ゼロからのまちづくり」と「東ティモールの国づくり」をつなげる。
スタディーツアーの企画を拝見し、雑誌『Timofee』を読み、真摯な一青年のお話を直接に伺いながら、ぼくは、メンバーの方々のコミットメント、行動力、フットワークなどに、感心してしまう。
雑誌『Timofee』が東ティモールを照らす仕方と同じように、活動は「肯定性の彩り」に充ちている。
それは、明るさをたたえている。
ただし、表面的な「明るさ」ではなく、明るさのなかに「輝き」をもっている。
「明るさはあるが輝きのない」現代のさまざまな事象のなかで、肯定性の彩りは、明るさと輝きを共に宿しているように、ぼくには見える。
人生はひとつの(あるいは無数の)プロジェクト。- 国際協力プロジェクトで学んだこと。
人生はプロジェクトである。東ティモールのことを思い出していたら、そんな言葉が、ふと、浮かび上がった。...Read On.
人生はプロジェクトである。
東ティモールのことを思い出していたら、そんな言葉が、ふと、浮かび上がった。
ぼくは、東ティモールでは、NGO職員としてコーヒー生産者支援のプロジェクトに携わっていた。
2003年から2007年のことだ。
国際協力などのプロジェクト(比較的中長期的なプロジェクト)においては、ビジネスと同じように、綿密なプロジェクト計画をつくっていく。
実施可能性をさぐるフィージビリティ調査などの調査から、予算を含むプロジェクト原案をつくり、なんどもチェックと書き直しを繰り返して、ようやく完成させる。
プロジェクト計画は、詳細につくる。
時間という横軸(過去ー現在ー将来)と、社会という縦軸(個人・家族ーコミュニティー地方・地域ー国)の総体を論理的に考慮しながら、今ここのプロジェクトに集約させる。
自分の頭も、あるいはチームなどのリソースも、字義通り、総動員でのプロジェクト計画となる。
それから、例えば資金供与先である公的機関の厳しい審査を通し、プロジェクトがはじまる。
プロジェクトがはじまっても、進捗管理に追われたりする。
人やコミュニティ、また自然という「現実」は、思ったとおりにはなかなかいかないから、実施管理もシビアだ。
そして、プロジェクト期間終了時には、プロジェクトの成果を確認し、レビューし、報告書を作成する。
このようにして、「プロジェクト・サイクル」をきっちりとまわしていく。
国連や欧米系の国際NGOは、プロジェクトを戦略的・戦術的に計画し、また成果を報告することに長けている(実施過程はいろいろだし、自分の目で綿密には見ていないからなんとも言えない)。
「戦略」が弱いと言われる日本の組織としては、学ばされることが多い。
プロジェクトの目的・目標を定め、活動計画に落とし、時間軸を立てながら、予定を立てる。
「森と木」をみる目、戦略思考、論理力、数値、文章力、政治的配慮、文化的な繊細さなど、あらゆるものが求められるプロセスだ。
ぼくも、自分のもっているものを最大限駆使しながら、しかし途方にくれる経験を超え出るという「創られながら創る」(真木悠介)ことのプロセスをなんどもくぐりぬけてきた。
そのような仕事が、少しでも、現地の人たちの「力」になれればと。
プロジェクトは一定の成果を生みだし、現地の人たちに役立つとともに、このプロセスの総体は、ぼく自身の「生き方」にも影響をおよぼすようになった。
プロジェクトも軌道にのり一段落しているときだったと記憶しているが、ぼくは、人生もひとつの(あるいは無数の)プロジェクトではないかと、東ティモールの(おそらく)首都ディリの市内を移動中に思ったのだ。
ぼくたちは仕事では、プロジェクト計画から進捗管理、そして報告書作成までの一連の「プロジェクト・サイクル」をまわすけれど、「果たして自分自身の人生は…」、と思ったのだ。
自分の人生となると、例えば「大枠」だけを目標としてイメージし、仕事に集注した将来を想像することにとどまる。
そして、そんな「大枠」の目標は、大枠として達成される。
ぼくは、「人生はひとつの(あるいは無数の)プロジェクト」という気づきを頼りに、自分の人生というプロジェクトをつくることに着手するようになった。
個人のミッションを立て、そこから分野ごとに目標を立て、活動計画を立てる。
そうやって、試行錯誤で、ここまできた。
当たり前だけれど、うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともある。
人生(のあらゆる分野)に目標を立て、活動計画をつくり、きっちりと遂行して達成する人たちもいる。
人生はいきあたりばったりでチャンスが開かれていく、という人たちもいる。
どちらがいい、というよりは、やはり、どちらも「人生の道具箱」には入れておきたい。
いつでも使えるように。
でも、ぼくとしてはーあくまでも、ぼく個人ということではー、どちらかというよりは、統合するような形で、活用したい。
目標を立て、活動計画をつくりながらも、「いきあたりばったり」的なオープンさは持っていたい。
「いきあたりばったり」でチャンスをつかむ人たちも、実は、無意識の次元では論理的に考えていたりするものだ。
また、一方で、「いきあたりばったり」で遭遇するチャンスをつかみつつも、時間という横軸と社会という縦軸を総合的に把握しながら、小さい無数のプロジェクトを論理的につくりたい。
人生の段階において、どちらの「度合い」を高くするか、どのようなプロジェクト(大きさや期間)をつくるかは、柔軟に変えていく。
ぼくは、いまだに試行錯誤の毎日だけれど、統合的かつ柔軟性をもって、どちらも大切にしたいと思う。
でも思うのだけれど、人生というのは、このような意図も、ときに、するするとすりぬけていってしまう。
それが、生きることの面白さである。
銃弾が飛んだ夜に、ぼくの「心を温めてくれた」映画。- 2006年、東ティモールの首都ディリで。
2006年、東ティモールの首都ディリ。ぼくはコーヒープロジェクトのため東ティモールに住んで3年程が経っていた時期のこと。2002年の独立後、平和を取り戻していた東ティモールの街に、また銃声が響く。...Read On.
2006年、東ティモールの首都ディリ。
ぼくはコーヒープロジェクトのため
東ティモールに住んで3年程が経って
いた時期のこと。
2002年の独立後、平和を取り戻して
いた東ティモールの街に、また銃声
が響く。
ただし、事態はまだ局所的であった。
後日、当時の東ティモール政府が
事態を収拾できなくなり、他国に
支援を要請し、オーストラリア軍など
が上陸する前のことだ。
日本よりも平和ではないかと思うほど
の東ティモールであったが、
ここ数ヶ月ほど、治安が悪くなり始め
ていたころであった。
首都ディリ郊外。
コーヒー生産地であるエルメラ県へ
と続いていく道が封鎖されていた。
その日、コーヒー生産地から降りて
くるスタッフたちが、封鎖の場所で、
身動きがとれなくなっていた。
首都ディリの事務所にいたぼくは、
スタッフたちと連絡を取り合う。
銃弾が飛んでいる状況だという。
もちろん安全を最優先にして動く
ことを確認しあう。
それから数時間ほどかかっただろう
か、スタッフたちは局所の危険を
避け、無事に事務所に到着した。
安堵と共に、しかし安全対策を適切
に、すみやかに進めていく。
事態はひとまず落ち着きを取り戻し
たようであった。
それから、ようやく一段落し、
ぼくは、リビングルームに腰を下ろ
した。
どっと、心情的な疲れが出てくる。
ぼくの心は「荒涼とした風景」を
抱えているようであった。
普段はあまり感じない「ホームシッ
ク」的な感情もわきあがっている
ことに気づく。
ぼくは、気分を変えるため、
日本のDVDを見ることにした。
同僚が以前置いていってくれていた
DVDの中から、
『踊る大走査線 THE MOVIE』
を、ぼくは選んだ。
ぼくの記憶では「THE MOVIE2
レインボーブリッジを封鎖せよ!」
である。
日本の東京の風景が映像に出てくる。
そこで、物語が進行していく。
ぼくは、映像を見ながら、物語を
追いながら、なぜか、心が温まって
いくのを感じることになった。
銃弾が飛んだ夜に、
ぼくの「荒涼とした心の風景」に、
「暖かい風景」が灯された。
だから、ぼくは、今でも、
『踊る大捜査線』に感謝している。
そして「物語の力」を感じずには
いられない。
この世界から「物語」がなくなった
ら、なにもなくなってしまうのでは
ないかと思うほどだ。
後日、ぼくは、首都ディリの繁華街
(人はいなかったけれど)で展開さ
れる銃撃戦の只中(眼の前)に、
置かれる。
あの「荒涼とした風景」が、
再び、ぼくの心をむしばんでいく。
東ティモールを退避し、日本に戻っ
ても、銃弾の音と、その「荒涼と
した風景」が、ぼくの頭と心に
棲みつくことになった。
そんな折、
ぼくは、仕事帰りに、東京の渋谷に
ある本屋さんに、毎晩のように立ち
寄ることになった。
哲学者のミッシェル・フーコーが、
多くの書物が並ぶ図書館を、
人間の幻想がすみつく場所と感じて
いたことにつながるように、
ぼくにとっては、本屋さんは、
人間が創り出した「物語たち」が、
いっぱいに溢れている空間である。
その空間が、当時のぼくを、深い
ところで癒してくれたのだ。
だから、ぼくは今日も、「物語」を
読み、「物語」を観て、「物語」を
聴く。
そして、自らも、「希望の物語」を
抱き、そして書きたいと思う。