社会学者の見田宗介(筆名:真木悠介)。
「学者」だからといって通りすぎないでほしい、「社会学」だから関係ないやと通りすぎないでほしい、じぶんは「文系」ではないからと通りすぎないでほしい。ぼくはそう願います。
見田宗介の「切実な問題」は、<人間の解放>です。
だから、「学者」や「社会学」や「文系」などという看板をまえにして、立ち去らないでほしいとぼくはおもいます。
音楽バンドの動画で、たとえば、「Stand BY Me(Live at…)」という題名を見たら、どう思いますか?「Live at…」と書かれていたら、「…で開催されたコンサート映像」だと思うのが、ふつうだろうと思います(今の時代、「ふつう」というのは使い方がむずかしいのだけど、あえて)。
ふだんは「猫」を見ることがあまりない香港の街角で、猫に出会う。カメラを向けると、瓶のうえにすわっている猫は、まったく動じずに、ぼくのほうにただ目を向ける(ブログ「「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫に出会う。」)。
社会学者の見田宗介は、今ではよく知られる論考において、1945年以降における日本の現代社会史を、「現実」に対する3つの反対語(現実と理想、現実と夢、現実と虚構)にふれながら、また日本の「高度成長期」とも絡めながら、3つの時期の特徴を語った。
心理学者の河合隼雄は、京都大学の最終講義(河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫)で、ユングがよく使ってきた「コンステレーション」(constellation)という言葉を手がかりに、こころのこと、心理療法のこと、生きることを語っている。
「あたりまえのもの」を、<あたりまえではないもの>として見ていくこと。社会学者の見田宗介は、この方法論を、社会学のキーワードとして、<自明性の罠からの解放>という言葉で表現している。
最近、英語のポッドキャスト(podcast)を聞いているとき、英語の講義・セミナーなどの動画を観ているとき、さらに英語のブログなどを読んでいると、「takeaway」という言葉をよく聞いたり、目にしたりする。