職場での「ほめることと叱ること」。- 河合隼雄のアドバイスに耳を傾けてみる。

人事マネジメントにおいて、「ほめることと叱ること」というテーマはよく語られ、聞かれ、悩まれるテーマである。

人事マネジメントにおいて、「ほめることと叱ること」というテーマはよく語られ、聞かれ、悩まれるテーマである。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の著作『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)のなかに、「ほめることと叱(しか)ること」について書かれているところがある。

部下に対してほめる方がいいのか、叱った方がいいのか、心理学的な効果などを、河合隼雄は質問されることがあったという。

河合隼雄は、心理学者によって行われた「実験」を導きとして、このテーマについて書いている。

 

実験はとてもシンプルである。

グループを三つに分け、どのグループにも同じような単純な仕事を与える。

仕事が終わったあとに、グループごとに対応をかえ、第一のグループには「ほめる」、第二のグループには「叱る」、第三のグループには「ほめも叱りもしない」とする。

翌日も同じように進め、前日からの進歩度合いをはかる。

二日目は、進歩の大きかった順に、「叱った」グループ、「ほめた」グループ、「何も言わなかった」グループとくる。

しかし、これを続けてゆくと、「ほめた」グループが「叱った」グループの進歩の上昇率の方がより高くなっていくという。

このような実験と実験結果である。

 

河合隼雄は、この結果から、ほめるのが良いというのは性急すぎるし、出される課題によっても変わるだろうと留保したうえで、つぎのように意見を加えている。

 

…この実験には、ほめたり叱ったり、というグループは含まれていない。おそらく、正解は「適切にほめ、適切に叱る」のが一番良いということになろうが、この適切にというところが、実際にどうするのか誰しも解らないのが困るところである。それではどうすればいいのだろうか。

河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)

 

この「適切に」ということを、ほめる/叱ることの割合をおくことによって、ある程度の指針をもつことができる。

もちろん、ほめる/叱るということのうちには、主体と客体のそれぞれの状況と関係性があるから、あくまでも指針ということである。

河合隼雄は「それではどうすればいいのだろうか」ということについて、まず、つぎのことをつづけて書いている。

 

 ほめるにしろ、叱るにしろ、そこに自分の個性が生きているとどちらでも良いようである。部下をほめることに一所懸命になりながら、嫌われている人もあるし、叱ってばかりいるのに、結構、部下に愛されている人もある。といっても、個性を生かすということも難しいことなので、思い切って、ハウ・ツー式に言うと、やっぱり…ほめることを心がけることであろう。

河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)

 

基本的なところにおいて「正しい」とぼくは思う。

くりかえし強調しておきたいのは、「個性を生かす」ということである。

難しいことであるけれども、ほめるにしろ、叱るにしろ、そこに自分の個性が生きてくるかどうか。

それはやはり、仕事を超えた人間的な魅力性、つまり生き方ということにある。

「すばらしい人間になる」ということではなく、個性、つまり自分の生き方が生きるがどうかである。

 

また、実験結果における第三グループ、「ほめも叱りもしない」グループは、進歩度が低いままであったことを忘れてはならない。

対話・会話もないままであることは、人事評価での思ってもみない評価の「ズレ」、さらには日々の誤解をいくつもいくつもつくりだしてゆく。

海外での人事マネジメントでは、「言葉」も制約要因としてあるかもしれない。

しかし、それは「言葉」だけの問題ではけっしてないし、また文化的な制約要因などはふだん「当たり前」としていることを「当たり前ではない」ものとして、より注意深く考えさせてくれるものでもある。

こんなことも含めて、「ほめることと叱ること」は、尽きることのないテーマである。

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「星の国から」という極意伝授。- 河合隼雄著『働きざかりの心理学』を今読む。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の著作群のなかに、『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)という著作がある。

心理学者・心理療法家の河合隼雄(1928ー2007)の著作群のなかに、『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)という著作がある。

元の本は1981年に出版され、文庫化されたのが1995年。

2000年頃に一度手にとり、2018年の今、再び、この本を読んでみる。

出版から文庫化された月日(1981年から1995年)にも日本的な社会と組織と人の変遷があり、また、ぼく自身の月日(2000年頃から2018年)にも、経験の山と谷がきざまれている。

ぼく自身の経験には「働く」ということがあったし、また「人と組織」に傾注してきたところでもある。

 

そのような眼で読んでゆくとき、河合隼雄の本質的な議論は、今でも、たくさんのことを教えてくれる。

「人と組織」の現在的なあり様とは少し異なる雰囲気がある箇所もあるけれども、そのような箇所は読者が差し引いて読めばよいだけで、むしろ、河合隼雄の本質的な議論に、ぼくは惹かれる。

 

本のなかに、「星の国から」という、興味深い文章がある。

「行きつけの飲み屋で飲んでいたら、横に座っていた会社の上司と部下らしい人の会話が聞こえてきた。」(前掲書)という文章ではじまる。

この「話」が、ほんとうに飲み屋で河合隼雄が聞いたものなのか、あるいはある程度の創作が入っているのかは定かではないけれども、河合隼雄が書くように、確かに「なかなか面白い会話」である。

 

登場人物は、上司の部長と部下の2人である。

飲み屋の席で、部下は、「今日の会議」がうまくいったこと、それが上司である部長の「思いどおりの結果」であっただろうこと、会議の司会であった部長があまり努力もしていないように見えたけれども最後は「うまくまとまってしまう」こと、そもそも仕事全体でも部長のやり方はそのような感じであることを、上司に伝える。

「馬鹿なこと言うなよ、不熱心では部長はつとまらない」という部長に、食い下がる部下は秘術でもあるのかどうか、そして秘術があればぜひ伝授してほしい旨を話す。

秘術なんてものはないと前置きながら、部長は部下につぎのように応答していく。

 

上司「…確かに、会議も会社も大切だけどね、世界全体のなかで見れば、世界といっても宇宙のなかで見れば、そのなかの小さい星である太陽のまわりをまわっている衛星のひとつ、地球のなかでの、小さい小さい出来ごとだし、たとえ地球にだけかぎってもみても、地球の歴史のなかのごく僅かな部分をわれわれは生きているのだから。…だから仕事をしてゆくうえでも、地球外の星の国から見ているようなつもりで見ていると、皆がやいやい言っていることでも、それほど大きいことでもないように思えてくる。まあ、どちらでもいいことではないか、と思っていると、うまく収まってくる」

河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)

 

上司による「極意伝授」に対して、部下は、「どちらでもいい」としながらそれでも部長の思う方向にものごとが決まってゆくのはなぜかと、よい質問を投げ返す。

質問がなければそこで放っておこうと考えていた上司の部長は、さらに対話をつづけてゆき、つぎのようにしめくくっている。

 

上司「…だから両方のところのバランスが大切なのさ、人間に目が二つあるのは意味が大きいと思うな。ひとつは自分中心にものごとを見るし、ひとつは星の国からの視点でものをみる。そのバランスを保っていると、自然にうまくゆくのだよ」

河合隼雄『働きざかりの心理学』(新潮文庫、1995年)

 

この「面白い会話」の心を動かされたのは、第一に、世界や宇宙という空間軸、また歴史という時間軸の「とり方」、第二に、こんな会話を飲みの席とはいえ、とても自然に語る上司であること、そして第三に、これらを含め「どっしり感」の存在によってである。

もちろん、上司の考え方(そして生き方)に異を唱える人はいるだろうし、もう少し突っ込んで聞かなければいけない部分も会話のなかにはあるだろう。

それでも、やはり眼にとまるのは、このような個性あふれる人の存在であるようにも思う。

 

ぼくは、「世界で生ききる」うえで大切なこととして、<地球や宇宙>という視点をもつことがあるとかんがえている。

ぼくはそこにいろいろな「理由」を含めているけれど、一番端的な「効用」は、上司である部長が語ったようなところにある。

少なくとも、ぼくたちは<視点をかえる>という力をだれもがもち、この地球に、日々生きている。

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中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』。- けっして「古くない」、日本・日本の組織や集団・日本人を「視る」視点の提起。

ある本で、つぎのように論じられている。

ある本で、つぎのように論じられている。

 

…海外滞在が長いと出世がおくれる、ということは多くのサラリーマンたちの口にするところである。…本国の中央から遠くにいるということは、マイナスを意味するというのが常識になっており、事実、日本の人事というものがその傾向を充分もっていることはいなめないのである。
 この現場軽視の思想が、現地駐在員の発言権を弱め、彼らの現地生活は腰かけ的な一時しのぎのスタイルを生むのである。…

 

これは、中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』(講談社現代新書、1972年)の一節であり、今から45年以上も前の論考であるにもかかわらず、それはある側面において「今」を分析しているかのように思われる。

もちろん、この45年ほどの間に、グローバリゼーションが進展し、経済社会的に、あるいは企業組織的にも、いろいろな(そして、ときに根本的な)変化を遂げてきてはいる。

現地駐在員の方々の中には、現地生活を一時しのぎではなく、そこに「ミッション」を定めながら、仕事に傾注してきた/傾注している人たちがいる。

また、現在の状況においては、海外滞在が多くの「プラス」を意味していることもある。

そのような変化や個人的な傾注にかかわらず、また冒頭の文章も企業・組織によっては現在の状況とのズレがでていることを考慮に入れたうえで、それでも、「日本社会また組織」という地平からみるとき、中根千枝がこの本で書いていることは、さまざまな点において、「今」の状況をかんがえるための視点を与えてくれる。

 

中根千枝は社会人類学者であり、今でも読み継がれている、中根千枝『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書、1967年)がよく知られている。

この本の「姉妹篇」として、『適応の条件:日本的連続の思考』が書かれている。

ぼくが『タテ社会の人間関係』を読んだのは、大学に在学中の頃であったから、20年ほど前のことになる。

「日本社会」におけるいろいろな疑問を感じていた頃に読んだこの本は、その疑問の背景を、まるで「見方・考え方」にひとつひとつ輪郭をつくることで理解させてくれるような本であった。

 

少し長くなるけれども、目次の全体を下に書いておきたい。

 

【目次】

まえがき
第一部 カルチュア・ショックー異文化への対応
1ー異なる文化の拒絶反応
2ー日本文化(システム)への逃避
3ー表現と実行のあいだ
4ー特定ケースと一般化の問題
5ー日本的システムの強制
6ー日本的信頼関係の敗北
7ー契約に信頼をおく欧米との違い
8ー現地社会への逃避
9ー国内用の異国
10ー外国語の修得と文化の関係
11ー個人差による適応度

第二部 日本の国際化をはばむものー社会学的諸要因
1ー厚い“ウチ”の壁
2ー日本人の社会学的認識
3ー連続の思考・ウチからソトへ
4ー二者間関係における連続
5ー義理人情の分析
6ーもてる者ともたざる者の関係

適応の条件ー結びにかえて

 

「異文化への対応」と「日本の国際化をはばむもの」という、「今でも」本質的なものとして立ち上がる課題にたいして、1970年代初頭という「国際化」のはじまりの時代に、中根千枝は自身の海外経験と「タテ社会」の論理をもって向かい、論を展開している。

一部の記述は当時の状況を反映したものであり、一見すると「古さ」を感じるものである。

しかし、日本企業のより積極的な海外進出などを見ることになった「国際化」の初期の時代だからこそ、現象する問題が先鋭化されて発現することもあること、またそれらを駆動する力学は今でも見られる現象や問題を分析する上で大切な視点を与えてくれることから、「古くない」と言える論考である。

むしろ、それは、海外の日系企業において変わってゆく形態や施策や試みや努力などの底流において、今も生きつづけている力学を論じていると、ぼくは読む。

こうして、冒頭の状況に戻ってくる。

底流に生きつづけている力学としての「タテ社会」は、つぎのように書かれている。

 

…「タテ」のイメージは、自己中心的な社会認識と異なるようであるが、いずれもヒエラルキーの頂点あるいは自己という基点を設けて、そこからの距離によって他の人々、集団を位置づけるという点で同じである。いずれも異質の存在、機能というものを考慮にいれないところに特色があるといえよう。
 タテ組織の頂点、あるいは自己(集団)を基点とする思考方法によるイメージ化は、さらに、中央から地方へというスキームに結びつくものである。これは、本書のテーマからいえば、本部と現場、本社(本省)と海外駐在員ということになる。

中根千枝『適応の条件:日本的連続の思考』講談社現代新書、1972年

 

この力学において、「日本人全体、そして日本の中枢の人たちは、まだ本当にソトの世界を理解しようとしていない」のであり、このことは「『ソトに出る者』は相対的に低い地位におかれてきたという、社会学的なシステムと密接に関連している」と、中根千枝は書いている。

繰り返しになるが、現在における、海外における日系企業の動きにおいては、さまざまな動きと試みによって、「タテ社会」から生じる問題の克服、あるいはそれ自体の構造変化をねらうものが見られる。

けれども、と前置詞を置いた上で、ぼくは、この現代においても、いろいろな実際の場面で、ぼくは、中根千枝の指摘するような状況を見て取るのである。

 

この小さな本(新書)には、そのような指摘と分析、そしてときに厳しいコメントが詰まっている。

20年ぶりに中根千枝の本をひらき、その20年のほとんどを海外で仕事をしてきた経験を本の内容に重ねてみながら、ぼくはここ香港で、日本・日本の組織・日本の集団・日本人について、いろいろと深くかんがえさせられる。

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「働き方」における働く人たちの内面を照らす物語。- 朱野帰子著『わたし、定時で帰ります。』を読んで。

朱野帰子の小説『わたし、定時で帰ります。』(新潮社、2018年)(正式な発売の前の「期間限定無料版」)を読む。

朱野帰子の小説『わたし、定時で帰ります。』(新潮社、2018年)(正式な発売の前の「期間限定無料版」)を読む。

本のタイトルであり、作品中にいくども語られる「わたし、定時で帰ります」ということは、デジタルマーケティング会社に勤務する東山結衣のモットーである。

18時の終業時間には必ず仕事を終えることを、三十二歳になる東山結衣は執拗なまでに実践している。

そこに、破格の受注額で仕事を引き受けようとする福永清次という新しいマネジャーが配属され、「ウェブサイトの大幅リニューアル」というプロジェクトが動き出すなかで、いろいろにドラマが展開していく作品だ。

 

「わたし、定時で帰ります。」という言葉に、人はそれぞれに、いろいろな記憶や感情、そして心のなかで展開する「物語」をいだくであろう。

日本は「働き方改革」のなかにあり、海外の日系企業も異文化との接点のなかで「働き方(またマネジメント)」にいろいろな問題や課題をかかえている。

この本の物語は、人それぞれに違う仕方で響くであろう「働き方」を主旋律にして展開されていく。

人それぞれに多様な捉えられ方をする「多様性」を反映するように、登場人物も多様な背景をもつ個人で設定されている。

 

このような物語を読むうちにぼくが感じる「違和感」は、仕事の意義や目的などが脇に追いやられていることであるが、そのことが逆に、実際に「働き方」という組織内部のマネジメントに終始しがちな仕事の日常をうつしだしているようにも見てとれる。

その意味において、(良し悪しはさておき)ある程度の働く人たちの「ありがちな目」を通じた風景を意図的に描きだした作品とも言える。

 

この作品はそのような日常を描きながら、職場の人たちが相互に「誤解」をしている心象風景も描いていることで、人と組織の問題の一端をつかんでいる。

そして「誤解」は、それぞれの人のいわば「偏った見方・バイアス」に絡めとられた形でつくられ、そして言葉や行動に現れる。

東山結衣は、「わたし、定時で帰ります」という<位置>にじぶんを置いたことで、そしてある意味、この「ふっきれた立ち位置」を肯定的に転換させてゆくことで、この誤解に充ちた職場空間に光明を与えてゆくことになる。

 

読者は「東山結衣」であるかもしれないし「東山結衣」ではないかもしれないけれど、登場人物のある程度の「タイバーシティ」のなかで、いずれかの登場人物にじぶんの心情を重ねながら、あるいは上司や部下を登場人物に重ね合わせながら、物語を読み、何かを見つけ、何かを感じることができるように思う。

登場人物のそれぞれの内面に光をあてながら、そしてそれらいずれもの感情を引き受けようとしながら、ぼくはこの作品を一気に読み終えた。

この物語のなかで、「定時で帰るなんてなんぞや/ありえない」という極と、「とにかく定時で帰ります」という極との<橋渡し>が、どのようになされ、そしてどのように結実していくかを追いながら。
 

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職場における「物語」の適用と方法のヒント。- 豊田義博著『なぜ若手社員は「指示待ち」を選ぶのか?』。

職場における「物語」の適用と方法と有効性について、豊田義博が著書『なぜ若手社員は「指示待ち」を選ぶのか?ー職場での成長を放棄する若者たち』(PHP研究所)で、背景を含め、実践におとせるところまで具体的に書いている。


職場における「物語」の適用と方法と有効性について、豊田義博が著書『なぜ若手社員は「指示待ち」を選ぶのか?ー職場での成長を放棄する若者たち』(PHP研究所)で、背景を含め、実践におとせるところまで具体的に書いている。

ぼくのメンターである方からその存在を教えられた本書は、「物語」を職場での実践へ接続することにおけるヒントがさまざまに提示してくれる。

「20代が、生き生きと働ける次世代社会の創造」を使命とする著者の豊田義博が、キーワードとして挙げているのは、次の4つである。

● 社会とのつながり
● 問いかけ
● 物語
● 環境適応性

どれもがぼくの関心とつながり、またそれぞれのキーワードは相互に連関するものであるが、ぼくの当面の(そしておそらくずっと続いていく)フォーカスとして、生きるということの「物語」がある。

 

本書は、若手が生き生きと働けるようにするための「マネジャーへの処方箋」として、「物語・ストーリー」のエッセンスを、次のように取り入れた方法を提示している。

1) キャリアインタビュー
2)「仕事の型」づくりにつながる3つのプロセス:「初期設定の工程」「実践の工程」「成果検証の工程」

豊田が土台のひとつとして置いている考え方は、「批判的学習モード」と呼ばれる学習モードである。

モードを、下記に示される「手段探索モード」から他のモードへと変換をしていくことが提示されている。

● 手段探索モード:自分の置かれている状況を所与とし、指示が出ると、その手段や方法をすぐに考える思考回路
● 目的合意モード:指示が出ると、その目的は適切かなど、背景や考え方に戻って、目的を批判的に考え直す思考回路
● 背景批判モード:目的設定の背景と考え方を批判的に考え直す思考回路

この「批判的学習モード」を活かすことで、若手社員が入社後に(多くは幻滅をともなって)みにつけてしまっている思い込みや先入観(豊田は「フィルター」と呼ぶ)をはずすことを、豊田義博はすすめている。

 

1)キャリアインタビュー

そのとっかかりの方法として豊田義博が提示する「キャリアインタビュー」では、若手社員がどにょうに会社に出会い、どのように好感をもち、どのような期待をもって入社したのかを聞いていく。

若手社員にこのキャリアインタビューを行うことで、フィルターをかけてしまう前の認識に気づく機会を提供する。

そのプロセスで「自己発見をもたらす四つの質問」として、豊田は次の4つを挙げて、言い回し例も含めて提示している。

● 経験が「広がる」質問
● 経験が「結びつく」質問
● 経験の「見方が変わる」質問
● 経験が「統合される」質問

このインタビューには、このプロセスで若手社員は「物語」を語ることになること、その物語を通じて現時点でのものの見方や考え方の良し悪しや偏りを気づかせることが、大きな目的として置かれている。

 

2)「仕事の型」づくりにつながる3つのプロセス:「初期設定の工程」「実践の工程」「成果検証の工程」

本書よくふれられる「仕事の型」(=基礎力の自分流コーディネーション)をみにつけていくことが大切とされ、その原型は最初の3年で出来上がっていくものとされる。

その「仕事の型」をつくっていくことにつながるプロセスとして、「初期設定の工程」「実践の工程」「成果検証の工程」の3つのプロセスがある。

目の前の仕事の先に「顧客や社会」とのつながりが見えていない状況の若手社員のために、3つのプロセスを通じて、経験学習を促進していくことになる。

そのひとつ目の「初期設定」のポイントとして、豊田義博は次のように書いている。

 

 ポイントは、この工程において、その仕事の主役は、彼・彼女であり、彼・彼女がいい仕事をすることで、顧客が喜ぶ、というストーリーを、彼・彼女の頭の中に想起させることです。
 繰り返しになりますが、仕事は、マネジャーであるあなたから、メンバーである彼・彼女へのアサインによってスタートします。あなたは、必要な情報をいろいろと語り、彼・彼女に仕事の概要を伝え、わかってもらおうとするでしょう。しかし、このようなレクチャースタイルは、一つ間違うと、その仕事の主役はあなたであり、彼・彼女はその主役がいい成果を出すためのわき役であるという認識を強く植え付けてしまいます。

豊田義博『なぜ若手社員は「指示待ち」を選ぶのか?』(PHP研究所)

 

豊田義博自身の「使命」とする「20代が、生き生きと働ける次世代社会の創造」は、方法論的に「20代」にフォーカスする仕方で追及されている。

本書のひとつの特異性のひとつに、若手社員に接するマネジャーへのアドバイスに限らず、第5章で「若手社員への処方箋」として若手社員へのアドバイスが展開されていることが挙げられる。

人それぞれが、それぞれに、物語をきりひらいていこうとするところに、新たな物語はひらかれていくのだということでもある。

それは、根底的には「20代が」というよりは「20代も」というところであり、さらにはどの世代にとっても「生き生きと働ける」ことがつくられるところに、ほんとうの「生き生き」が創造されてくるように思われる。

その視点からは、人それぞれが、「物語」をどれだけ生きているのか、ということが大切であるように思われる。

そして、その「物語」は、仕事だけでなく、<生きることの物語>である。

時代も世界も、働くこと(ワーク)と生きること(ライフ)が相反する仕方ではなく、密接につながり、また統合されたりするような動きを見せてきている。

その意味においても、<生きることの物語>をどのように生き、語り、紡いでいくことができるのかが、若手に限らず、どの世代においても、とても大切なこととしてぼくたちの前に現れているように、ぼくは思う。
 

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現代社会における「声と耳」(見田宗介)という視点。- 「ワークライフバランス」を一歩引いて考えながら。

「ワークライフバランス」論ということを、いろいろと考えている。

「ワークライフバランス」ということを、いろいろと考えている。

日本でもここ香港でも、この「標語」ほどひろく社会にいきわたり、賛否両論を起こし、またのりこえの方途の議論を活性化してきたものは、最近ではあまりないのではないかとも思う。

違和感の表明と新しい方向性の積極的な展開として、例えば、落合陽一が提唱するような「ワーク”アズ”ライフ」ということがあったりする。

基本路線においては賛同するところでもあるのだけれど、一歩踏みとどまって、視界をひろげることで、「ワークライフバランス」を考えている。

 

一歩踏みとどまって考えるとき、ぼくが「分析」をしたいと思ったのは、この標語や賛否や新しい方途は、誰が、誰に向かって、何を意図して語っているいるのだろうか、ということである。

「働くこと」のいろいろな形態と形式と内容を一緒くたにして語るのは性急にすぎる。

そんなことを考えながら、再び読み直したのは、社会学者である見田宗介の初期著作と「現代文化の理論」に関する論考である。

見田宗介の初期著作や論考は、後期の著作群からは思いもよらないほど、「現代日本」の諸相と内実、ひとりひとりの発する声に迫っている。

 

もうひとつは、「現代文化の総体的な理論」の助走として書かれた、「声と耳 現代文化の理論への助走」(初出:『岩波講座 現代社会学』第一巻「現代社会の社会学」岩波書店、1997年)である。

この論考は、「難解」であるとして岩波新書から出された『社会学入門』(岩波書店、2006年)からは外されたが、著作集の第Ⅱ巻において「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」と改題され所収された。

フランスの思想家ミシェル・フーコーの「権力」にかんする理論にふれながら、見田宗介は次のように書いている。

 

 権力は耳である。このことをフーコーは見事に論じた。権力はひとに「真理」を語らせる。このことをとおして権力は、「真理」を発見する「主体」としてわれわれを構成してしまう。…ところで、大衆もまた耳である。大衆はひとに「真理」を語らせる。このことをとおして大衆は、「真理」を発見する「主体」としてわれわれを構成してしまう。…権力もまた大衆も、同じひとつのもののそれぞれの器官に他ならないからです。…
 方向をもった耳のうしろにはどんな耳でも…、方向をもった身体がある。

見田宗介「声と耳ー現代思想の社会学Ⅰ:ミシェル・フーコー『性の歴史』覚書ー」『定本 見田宗介著作集Ⅱ』岩波書店、2011年

 

「どんな思想も、通俗化という運命を逃れることができない」と、見田宗介はこの論考を書き出している。

仏教やキリスト教、プラトニック・ラブやエピキュリアン、マルクス主義やフロイト主義などを、「ある特定の方向に一面化し、単純化し、平板化することを愛好し、必要とさえする力」が、それぞれの時代の社会の構造の力学に根拠があることへと、読者の視点を向けさせている。

「ワークライフバランス」ということも、その言葉が取り出され、使われ、一面だけが語られ、単純化されて語られることは、時代の社会の構造に力学を持っている。

「方向をもった耳のうしろ」には、方向をもった身体がある。

また、そもそも「ライフ=生」ということで見るながら、「ワークライフ」という並置はおかしいにもかかわらず、そのように感覚する「身体たち」をつくってきた社会の構造も、丁寧に取り出されなければならない。

「ワークライフバランス」を一歩引いてみながら、どのような力学のダイナミズムが動き、誰が、誰に向けて、どのように語っているのか、誰が特定の方向に耳を向けて聴いているかなどを、丁寧に取り出していく。

議論が一面的にならないよう、また「未来」という方向性をただ今あることの「否定」という仕方にならないよう、ぼくは「声と耳」の身体のありかを確かめながら、考えている。
 

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言葉の<交換>にみる、仕事と人間性の本質。- それ自体歓びであるコミュニケーション。

仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。...Read On.

仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。

何かを一緒に成し遂げていくうえで、コミュニケーションはとても大切である。

しかも、成し遂げなければいけない時間の幅が、どんどん短縮されてきている中で、効率的なコミュニケーションも求められる。

効果的かつ効率的なコミュニケーションの技を磨いていくことに、ますます焦点はあてられていく。

 

そのことを理解しつつ、「上手くいく/上手くいかない」という次元から下へ降りていきながら、手段としてのコミュニケーションではなく、それ自体が歓びであるようなコミュニケーションのことを実感しておくことが、ぼくたちが他者と共に仕事をしていくうえでは肝心なことである。

思想家の内田樹は、著書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)のなかで、ドストエフスキーの『死の家の記憶』に出てくる究極の拷問という話を取り上げて、歓びとしてのコミュニケーションに光をあてている。

 

 ドストエフスキーの『死の家の記憶』に究極の拷問という話があります。それは「無意味な労働」のことです。半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しのような仕事に人間は耐えられません。
 しかし、同じような労働であっても、そこに他者との「やりとり」さえあれば人間は生きてゆけます。たとえ、穴を掘って埋めるだけというような作業でも、人がいて、一緒にチーム組んで、プロセスの合理化とか、省力化とかについて、あれこれ議論したり、工夫したりしながらやれば、そのような工夫そのもののうちに人間はやり甲斐を見出すことができます。…
 仕事の話で人々が忘れがちなのは、このことです。

内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫

 

このことに触れたうえで、内田樹は、人間が仕事に求めていることは、究極的には「コミュニケーション」であるとしている。

仕事としてやったことに他者からの応答、ポジティブな反応がある。

このような「やりとり」が人間性の本質であり、それが満たされることで、人間は満足を得ていく。

この「やりとり」を、内田樹は<交換>として取り出し、物々交換、お金の交換、言葉の交換(ただ相手が言ったことを繰り返すだけの言葉の交換含め)と展開している。

人間は交換が好きであるということへの視点である。

内田樹が触れている三浦雅士の「三浦説」は面白い。

三浦説によると、むかし、山の民と海の民は収穫物が余ったから物を交換したのではなく、交換したかったから、交換するのが愉しかったから、たくさんの収穫物を収穫したという。

そうして、分業、階級、国家が生まれたという、「ふつうの考え方」の逆さの考え方だ。

 

ますます加速し、ますますのダイバーシティの環境のなかで、コミュニケーションの困難さにぶつかっていると、つい忘れがちになってしまう、<歓びとしてのコミュニケーション(言葉のやりとり・交換)>を、ときには思い出し、実感したい。

そこへの暖かな視点があるだけでも、コミュニケーションが上手くいかないときの「捉え方」も、いくぶんか変わってくるように、ぼくは思う。

コミュニケーションが上手くいったときは、ひとつの祝福である。

多くのことが「手段」におしこめられていく世界にあって、「それ自体として歓び」である世界へ、いろいろなことをひらいていくこと。

時代は、確実にその方向性に向かっている、とぼくは思う。

 

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漫画「クロカン」における「チーム」づくり。- 人と組織、そしてマネジメントをかんがえさせられる作品。

漫画「クロカン」。「型破りなクロカン野球で目指せ甲子園」(マンガトリガー)というストーリーで展開される作品(著者:三田紀房)。...Read On.

 

漫画「クロカン」。

「型破りなクロカン野球で目指せ甲子園」(マンガトリガー)というストーリーで展開される作品(著者:三田紀房)。

1996年から2002年まで雑誌で連載され、アプリ「マンガトリガー」で、無料(「待てばタダ」)で掲載されている「懐かしい作品」である(ちなみに「マンガトリガー」のビジネスモデルは面白い)。

ぼくは「マンガトリガー」で初めて知り、作品に描かれる、人と組織(チーム)、それからマネジメントということを考えさせられながら、作品を読んでいる。

 

甲子園をめざす桐野高校野球部の監督、黒木竜次(28歳)、通称クロカンが主人公である。

監督就任後に3年目に県大会ベスト4、4年目で準優勝にまでチームをつくっていく。

同野球部の部長、森岡謙一郎(28歳)が描く「エース中心の、守り抜く野球」とは対称的に、クロカンの指導方法と監督の采配は「はちゃめちゃ」である。

高校時代は二人でバッテリーを組んでいた森岡にどういうチームを作りたいのかと聞かれ、「しいていえば、バカばっかのチームだな」と応答するクロカン。

そんなクロカンが、甲子園をめざして、「はちゃめちゃ」な策を展開する。

 

第2話「口火」は、口火として、策のひとつがチームに「火を灯す」ストーリーである。

既成事実的にエースだと誰からも思われているピッチャーの正宮をショート(+抑えのピッチャー)に転向させる。

チーム内にも、チームの外にも、波紋を広げていくなかで、キャプテンの小松がクロカンに相談にくるシーンがある。

小松は、クロカンに、なぜ正宮をショートに変えたのかをたずねる。

 

「あの 監督……
教えて下さい
どうして正宮をピッチャーからショートにしたんですか?
みんな頼りにしてたエースが急にショートだなんて…

みんな憶測とか噂とか……
好き勝手なこと言い出して
モメてケンカ腰になって収拾つかなくて…」

三田紀房『クロカン』コルク

 

キャプテン小松にたいし、「ダメだ……俺から理由は言わねぇ……」と伝え、クロカンは「答え」をさしださない。

あくまでも、自分で考えさせる姿勢をとる。

そして、クロカンは、小松をまっすぐに見つめ、次のように尋ねる。

 

「おまえはあいつらとどういうチームにしてぇ?」
「キャプテンとしておめえはどう思うかって聞いてんだよ」

三田紀房『クロカン』コルク

 

チームで話し合ったこともないと答える小松にたいし、クロカンは言葉を続ける。

 

「チームは俺や森岡や誰のものでもねぇ
おまえらのもんだろ
それをどうしたいのか
自分らで考えもしねぇのか」

「まず
てめえらで考えろ……」

三田紀房『クロカン』コルク

 

黙る小松にたいし、「モメることを恐れるな」と最後にアドバイスをなげかける。

ぼくはこのシーンに心を動かされる。

 

漫画であるし、高校野球という枠のなかではあるけれど、人や組織(チーム)をかんがえる際に、とても大切なことを「物語」として描いている。

「守り」に入ってしまう人とチーム、既成事実的に動くチーム、どういうチームにしたいかがわからないチーム、「考えること」を現実には放棄してしまっている人など、物語を通じてかんがえさせられてしまう。

それらは、現実に、人や組織が直面していく問題であり、課題だ。

さらに、直接的には語られていないことで、ぼくが気になっているのは、この「口火をきったタイミング」である。

監督になって4年目に準優勝を果たした後に、この「口火」がきられたことだ。

そんなことをかんがえながら、ぼくは次の話へとすすんでゆく。

「まず、てめぇで考えろ」というクロカンの声が、ぼくにはきこえてくる。
 

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一言一言に賭けられた物語。- 福島正伸著『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』

会社におけるほとんどの問題は「理想の会社」を描くことで解決できるという経験をもとに、コンサルタントでありセミナー講師であり、そして経営者でもある福島正伸が、2009年に『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』という著作を書いている。...Read On.


会社におけるほとんどの問題は「理想の会社」を描くことで解決できるという経験をもとに、コンサルタントでありセミナー講師であり、そして経営者でもある福島正伸が、2009年に『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』という著作を書いている。

直球が投げられるようなメッセージをもつ著作であるけれど、著作を際立たせているのは、第一に「理想の会社」のイメージを他者と共有する方法として「理想の会社の状況を物語にすること」を提案していること、また第二に、その物語のもつ具体性である。

福島正伸は、文字通り、「理想の会社」を物語として描くことをすすめている。

そして、「理想の会社の状況を物語にすること」の特徴や利点は、福島自身が挙げているように、さまざまに列挙することができる。

 

【目次】
第1部:「理想の会社」を描こう!
第2部:「理想の会社」物語
第3部:「理想の会社」の描き方

 

本書は、第1部で「理想の会社」を描くことの説明があり、そのひとつの例として第2部で物語が描かれ、事例を踏まえた上で「描き方」のヒントが提示されている。

第2部の「物語」がこの本の見どころである。

ここでいう「物語」は、いわば「小説風」である。

どのような言葉が交わされるか、どのように仕事がすすんでいくか、どのように問題解決されるかなどが、小説風に、語られている。

まさに、一言一言に物語が賭けられている。

 

第3部で挙げられている、「理想の会社」を描くときのポイントは次の通りである。

  1. 日常のすべての仕事に当てはめることー当たり前と思っていることに、意義を見いだす
  2. 誰もがやる気になる会話ー理想のあいさつ
  3. 仕事のレベルを極めるー働く姿が芸術
  4. 常識を超える、想像を超えるー「まさかそこまで」といわれる
  5. 情景だけでなく、感情も表現する
  6. すべての人が幸せになることー会社の成長をすべての人が喜ぶこと

これらを踏まえて、「理想の会社」の情景を描く際の手法や心構えとして3つ挙げられている。

(1)理想の一日を描く
(2)良い事例をいっぱい集める
(3)「理想の会社」を描くことは、理想の会社になること

 

一言一言に物語が賭けられているということについては「(1)理想の一日を描く」でも、描き方のコツが書かれている。

例えば、こんな感じだ。

 

◇ 朝、家族にどのような気持ちで、どのようなあいさつをするか
 ・「おはよう!日本を変えるために目が覚めたよ」

◇問題が起きたときの言葉
 ・「ようやく、私の出番が来たようですね。これまでいろいろな経験をしてきたのはこの時のためだったんです。まさせてください!」

◇退社するときに、一言
 ・他の社員に声をかけながら、
 「今日も一日、一緒に働くことができて、とてもうれしく思います。明日は、今日よりも皆さんの見本になれるように頑張ります!」

福島正伸『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』きこ書房

 

一言の内容どうこうではなく、先にも書いたように、「理想の会社」としてここまで描ききることに、<物語としての力>が生きてくることに、この方法の力がある。

 

福島正伸は、第3部の最後に、次のような言葉を置いている。

 

「理想の会社」を描く。
それは、理想の会社になる過程そのものなのです。

福島正伸『毎日、社員が感動して涙を流す 理想の会社』きこ書房

 

いわゆる「現実主義」の人たちからは、「理想と現実」という図式の中で、「現実を見なくてはいけない」と語られたりする。

人は、この「理想と現実」という図式にとらわれている。

しかし、よくよく考えていくと、現実主義者であれ、意識されなくても「理想的なもの」を抱いていたりする。

逆に理想をめざす人たちは「理想を現実化する」ということの内に「現実的である」のだ。

ぼくたちは、明確に理想を描き、それを現実化するプロセスを生きてゆくことを選択することができる。

そこでは、「理想主義と現実主義」という図式は、プロセスの内に解体されてゆくのである。

 

福島正伸が提示する「物語としての理想の会社を描くこと」は、「会社」に限られるものではなく、ぼくたちひとりひとりの「人生」に適用できる骨太さをもっている。

ぼくたちは、ぼくたちの「生き方の理想」を、物語として具体的に描くことができるし、それは「理想の人」になる過程そのものを鮮明に起動させる契機のひとつになると、ぼくは思う。
 

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「能率」か「情緒」か?「むずかしい仕事」と「地域の問題」において。- 「日本人の意識」調査の結果から。

「『能率』か『情緒』か?」などのような問いに対する日本人の考え方と考え方の変容について、統計学的に、客観的な数字で見ることのできる資料として、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査がある。...Read On.


「『能率』か『情緒』か?」などのような問いに対する日本人の考え方と考え方の変容について、統計学的に、客観的な数字で見ることのできる資料として、NHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査がある。

調査は1973年から5年ごとに行われ、日本人の生活や社会についての意見の動きを捉えることを目的としている。

最新の調査は、2013年に行われている。

日本の国外(海外)で15年にわたり生活をし、働いてきた中で、「日本人の意識」や考え方と、異国・異文化における人々の意識や考え方との<間>におかれながら、いろいろと問題に直面し、考えさせられてもきた。

そのような問題意識で、「日本人の意識」調査のデータを見ていると、とても興味深いことばかりだ。

海外で(もちろん日本国内でも)よりよく生きて、よりよく働くためにも、「気づき」を得て、日々に生かしていくことが大切だ。

その「気づき」のためにも、調査結果のデータはたくさんのことを、客観的な数値で見せてくれる。

 

「能率・情緒」という意識と考え方について、「仕事」と「隣近所」という場に関する設問を見ることにする。

 

能率・情緒(仕事の相手)
第16問 
かりにあなたが、リストにあげた甲、乙いずれかの人と組んで仕事をするとします。
その仕事がかなりむずかしく、しかも長期間にわたる場合、あなたはどちらの人を選びたいと思いますか。
甲:多少つきあいにくいが、能力のすぐれた人
乙:多少能力は劣るが、人柄のよい人

NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査(2013年)結果の概要

 

これまで行われた9回の調査の内、ここでは1973年・1993年・2013年のデータを共有しておくと次のようになる。

  1. 甲の人を選ぶ(能率):26.9%(1973), 24.6%(1993), 27.0%(2013)
  2. 乙の人を選ぶ(情緒):68.0%(1973), 70.8%(1993), 70.3%(2013)
  3. わからない、無回答等:5.0%(1973), 4.6%(1993), 2.7%(2013)

むずかしい問題に向かい中長期にわたって一緒に仕事をする相手を選ぶ際に、能率よりも「情緒」を選ぶ人が多いことは、推測の域を超えるところではない。

ただし、それでもおどろくのは、第一に、情緒を選ぶ人が70%という高い数値であり、それから第二に、この40年間の推移において、ほとんど数値が動かないことである。

一貫して高い数値を維持し、2013年という最近においても、その数値の水準が維持され続けていることである。

むずかしい仕事の乗り越えを、仕事そのものの解決というより、「人間関係」にたくしているように(あるいは人間関係に解消してしまうように)みえる。

例えば、香港という「能率」を重視する社会の中で、香港的な能率と日本的な情緒という仕事の仕方のようなところで、異文化のズレがさまざまな事象の中に見られる。

このトピックはここから深く分析していくことも可能だけれど、ここでは立ち入らず、次の「地域・隣近所」における「能率・情緒」を見てみる。

 

能率・情緒(会合)
第32問 
かりに、この地域に起きた問題を話し合うために、隣近所の人が10人程度集まったとします。
その場合、会合の進め方としては、リストにある甲、乙どちらがよいと思いますか。
甲:世間話などをまじえながら、時間がかかってもなごやかに話をすすめる
乙:むだな話を抜きにして、てきぱきと手ぎわよくみんなの意見をまとめる     

NHK放送文化研究所「日本人の意識」調査(2013年)結果の概要

 

ここでも、前の設問と同じように、1973年・1993年・2013年のデータを共有しておくと次のようになる。

  1. 甲の人を選ぶ(情緒):44.5%(1973), 50.9%(1993), 54.8%(2013)
  2. 乙の人を選ぶ(能率):51.7%(1973), 44.6%(1993), 42.5%(2013)
  3. わからない、無回答等:3.8%(1973), 4.5%(1993), 2.7%(2013)

「仕事の相手」の設問とは、場(関わり方)の設定、時間(短期、長期)の設定などが異なるが、それでも興味深いデータを見ることができる。

第一に、「能率」を選ぶ人が多いこと、第二に、1973年時点では「能率」を選択する人の方が多かったこと、さらに第三に、1973年以後徐々に「情緒」の数値の方が大きくなっていることである。

1973年の数値の背景としては、「隣近所」というコミュニティの「つながり」が醸成されていたこと、あるいは逆に「つながり」がなかったけれど見えない信頼感のようなものが形成されやすい場であったのかもしれない。

「情緒」が醸成されている/醸成されやすい環境で、むしろ「能率」に目が向けられる。

あるいは、日本社会の「合理化」という近代化の動力におされる形で、社会のすみずみまで、「能率」が貫徹されていく過程であったのかもしれない。

1973年以降は、今度は、日本社会における共同体と家族の変容(あるいは解体)の中で、「つながり」の細い糸を巻いては強くするように、「情緒」を大切にしているように見える。

あるいは、社会における合理化の貫徹の中で、また311などを契機としていく中で、違うところに価値を見出す人たちの出現を表しているのかもしれない。

 

調査では、甲・乙という設問のあり方だけれど、現実はそれほど単純ではない。

能率も大切だし、情緒も大切だ。

能率か情緒かに関する抽象的な議論にはあまり意味がない。

日々の仕事やコミュニティにおける問題・課題の解決では、双方が求められ、日々の具体性の中で双方を駆使していく必要がある。

そのことを認識しながらも、しかし、意識の底辺における考え方や感じ方が、問題・課題解決から人や組織を遠ざけることもある。

異文化の中では、それが「先鋭化」しがちだ。

その一歩引いた視点の中で、「気づき」を土台に、仕事やコミュニティでの人との関わり方を考え、生きていくことが、ぼくたちをより広い世界に解き放ってくれる。
 

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