ひきだしに、海外のコインや紙幣。- 「寄付」で、新たに息を吹き込む。
家のひきだしの奥のほうにたまっていきやすいものに、海外のコインや紙幣がある。ぼくのひきだしにも、オセアニアからヨーロッパ、アフリカ、それからもちろんアジアの国々まで、さまざまな国々のコインや紙幣が「埋もれている」のであった。
家のひきだしの奥のほうにたまっていきやすいものに、海外のコインや紙幣がある。ぼくのひきだしにも、オセアニアからヨーロッパ、アフリカ、それからもちろんアジアの国々まで、さまざまな国々のコインや紙幣が「埋もれている」のであった。
そもそも「埋もれる」ことを望んで、コインや紙幣をキープしていたわけでは、もちろんない。そのときそのときに「思い」があって、ひきだしにいれたわけである。
あるときは、旅の終わりに、素敵な体験を胸に「またぜったい来よう」と思ったのである。つまり、「また使うから」という思いで、ひきだしに入れたのである。
あるときは、やはり「思い出」として、手放せなかったこともある。
また、あるときは、単純にコインが残ってしまい、他の国々でどうすることもできなくて(もちろん捨てるわけにはいかない、と思い)、そのままになってしまったこともある。
そんないろいろな「思い」が、コインと紙幣にこめられて、ひきだしに眠りつづけてきたわけである。
使い切れなかったコインや紙幣は、たとえば、帰りの空港や飛行機(キャセイ航空など)のなかで寄付することができたりする。でも、「どこかで使うかもしれない」と思って財布に残したり、あるいは帰路忙しくしているうちに、気がつけば家のひきだしにしまわれているのである。
ぼくのひきだしには、20年分くらいの、さまざまなコインや紙幣があったわけで、ここまでたまってしまうと、これらのコインと紙幣のあつかいにこまってしまう。なお、コインや小さい額の紙幣は街の両替所ではとりあつかってくれないから、両替もできない。
ネット検索ではあまりいい情報がなく、ぼくの記憶の片隅に、香港国際空港のどこかに「寄付用のボックス」があったのだけれど確かではない。他のひとたちにも尋ねてみたりして、空港に「寄付用のボックス」があるという、ぼくの記憶とマッチする応答もあった。
そんなこんなしているうちに、ユニセフ(UNICEF)が、直接に寄付を受け付けているのをネットで見つけたのであった。そもそもキャセイ航空の機内でのコイン寄付は、ユニセフへの寄付である。海外のコインの寄付の手段としてキャセイ航空の機内がすすめられていることに加え、直接にも受け付けているとのことである。
それで、さっそくユニセフに足を運び、結構な重さのコインと紙幣を手渡したのであった。こうして、家に「埋もれていた」海外のコインや紙幣は、生き返ったのである。
それにしても、家に「埋もれていた」海外のコインや紙幣には、いろいろなことを考えさせられたのであった。
他方で、以前、NGO職員をしていたころ、西アフリカのシエラレオネでユニセフと仕事をしたことも思い出す。これらのコインや紙幣が「支援」の一部として使われるといいなぁと思う。
内戦下の子どもたちが放つ「ゆるし forgiveness」の声。- 「ゆるしは、まるで水のようなんだ」(Gausくん)。
『National Geographic』(ナショナル・ジオグラフィック)の短い映像に、ぼくは強い磁力に引かれるようにして、ひきこまれてしまった。
『National Geographic』(ナショナル・ジオグラフィック)の短い映像に、ぼくは強い磁力に引かれるようにして、ひきこまれてしまった。
「Healing From a Civil War, These Children Choose Forgiveness」(内戦から癒されること、これらの子どもたちは赦しを選ぶ)というタイトルと、動画リストに映されている子どもたちの眼差しに、ぼくは、なんとも言えない身体的な揺らぎを感じながら、引かれたのである。
Bintouちゃん(12歳)はイスラム教徒、またGausくん(9歳)はキリスト教徒。
中央アフリカ共和国で2012年から続く内戦(内戦は一方で宗教間などの争いの様相を呈す)において、二人はそれぞれ、派閥の敵対する側におかれることになった。
内戦にまきこまれた子どもたちが、その体験を振り返りながら自らのことばで語る。
声は今にもとぎれそうな声である。
家族を殺されながら、でもそこに「復讐」の連鎖をつくるのではなく、「ゆるし forgiveness」の声を放つ。
内戦前はふつうに共生していた二人は、内戦による「分離 separation」の力に、こうして抗ってゆく。
眼はどこか虚空に向けられながら、なんとか「希望 hope」のかけらをつかもうとしているかのようだ。
子どもたちは「ゆるし forgiveness」を選択する。
この映像は、ぼくのなかで、(今は平和な)西アフリカ・シエラレオネの風景と重なる。
広大なアフリカを一緒くたに語ることはできないし、中央アフリカ共和国からシエラレオネの間には距離があるけれど、それでも、風景の近似性、そしてなによりも内戦による混乱、痛み、傷痕、語りつくせないものが、ひろがっている。
シエラレオネにぼくが滞在していたのは、2002年後半から2003年前半にかけてである。
シエラレオネは内戦が終結したばかりで、ぼくはNGO職員として、支援を展開するNGOの一員として活動していた。
シエラレオネ国内はもとより、隣国リベリアの内戦のため、リベリア難民がシエラレオネにおしよせていた。
そのときに、同じ空間を共有し、同じ空気を吸い、生きるという場を共にした、シエラレオネとリベリアの子どもたちの、その姿や表情が、この映像にどうしても重なってくる。
ぼくの「じぶん」ということに、彼ら・彼女たちの声が、共生している。
「Forgiveness is like water.」
「ゆるしは、まるで水のようなんだ」と、Gausくんは、しずかに語る。
映像は、子どもたちが井戸のようなところから吹き出す水で戯れる様子を映し出し、またGausくんが川の浅瀬のようなところを歩く姿を映す。
Gausくんがこのことばによって「何を」言おうとしたのかは、明確には語られていない。
でも、このことばは、ぼくの深いところに響いてくる。
ぼくが思うに、「水 water」は、まずは生活のためのものであるけれど、吹き出る水に「一緒」に戯れる子どもたちの表象は、子どもたちを(人を)「つなげる」ものとしてあるように見える。
また、水は、それに身体をひたすことにより、心身を「洗う」ものである(過去のこと・記憶を洗ってくれるものであり)と同時に、川の流れのように、絶えず流れをつくって、「洗い流してくれる」ものである。
まるで水のような「ゆるし forgiveness」とは、じぶんの内面を「洗う」と同時に、他者たちの/他者たちに向かう気持ちを「洗い流す」ものである。
このようなものとして、「水 water」とは、「生命そのもの」である。
子どもたちは「自然」の存在であり、このようなことを、意識することなく感覚しているように、ぼくには思えてくる。
「ゆるしは、まるで水のようなんだ」
「ゆるし forgiveness」を、じぶんたちで選んだ子どもたちの「物語」である。
それははるか彼方のことではなく、この先の平野と山と大海を超えていったところに生きている「物語」である。
開発協力・国際協力の「善悪」の彼岸へ。- 「光」と「闇」の統合理論と実践へ。
「途上国 developing countries」と呼ばれる国、そしてその地域やコミュニティの発展・開発(development)を支援する「開発協力」や「国際協力」ということを学びはじめたのは、確か1997年、大学3年になったときであったと記憶している。
「途上国 developing countries」と呼ばれる国、そしてその地域やコミュニティの発展・開発(development)を支援する「開発協力」や「国際協力」ということを学びはじめたのは、確か1997年、大学3年になったときであったと記憶している。
大学の授業のひとつに国際協力論のようなものがあって、実際に「途上国」での開発協力に携わってきている実務者による講義であった。
「現場」の話とあって、それはいっそう興味深く、当時のぼくには響いたのである。
関連書籍も読みはじめて「困ったこと」のひとつは、開発協力・国際協力を「善悪のものさし」ではかり、そのいずれかに偏りがちな議論がなされていたことである。
開発協力・国際協力を「まったくの美しき物語」として(だけ)描く論調があるかと思えば、他方で、開発協力・国際協力が途上国の現場において「負の遺産」を作り出してきているという論調がある。
「負の遺産」は、たとえば、日本のODA(政府開発協力)によるダム建設プロジェクトが、環境破壊などを引き起こしているといったものだ。
それぞれの論調がそれぞれの「見方」において「現実」を描き出しているのではあろうが、それぞれの論調が相容れない仕方で屹立している。
見田宗介の言葉を転用すれば、開発協力・国際協力の「光の巨大」の言説と、「闇の巨大」の言説が分裂してしまっているのであった。
後年、開発協力や国際協力を学びはじめたばかりの学生の方々と話していたときに思ったのは、このような論調にかなりの程度ひっぱられてしまっているということである。
つまり、書籍などで「負の遺産」などを目の当たりにした学生の方々は、その「純粋な心性」ですっかりその論調を取り込んでしまい、「罪的な」意識や考え方をもっていたのであった。
もちろん、開発協力・国際協力には、「光」の部分も、また「闇」の部分も、そのうちに宿しているし、帰結させてもいるのだと、ぼくは思う。
しかし、それらは、開発協力・国際協力ということだけに内在するものではない。
たとえば、巨視的に見れば、「現代社会」の理論という地平においても分裂している、「光の巨大」と「闇の巨大」の分裂でもある。
見田宗介はつぎのように書いている。
情報化/消費化社会の「光の巨大」に目を奪われる「現代社会」の華麗な諸理論は、環境、公害、資源、エネルギー、南北の飢餓や貧困の巨大な実在と、それがこの情報化/消費化社会のシステムの原理それ自体がその「臨界」に生成する問題系であることを正面から見ようとしない。反対に、現代世界の「闇の巨大」を告発する多くの理論は、この現代の情報化/消費化社会の、人間の社会の歴史の中での相対的な優位と魅力と、その未来に開かれてある原的な可能性とを見ようとしない。
見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)
開発協力・国際協力の論調の「分裂」を経験しながら、ぼくはこの文章(本)に出会い、開発協力・国際協力の「光」と「闇」とを統合するなかに描き、また実践されるものとしての方向性を、より明確に意識したのであったし、なによりも勇気づけられたのであった。
その後、大学院で修士論文を書き終える際に、光と闇の「統合理論」という更なる研究テーマが取りだされたのであったけれど、それから約16年が経過した今も、まだそこには至っていない。
しかし、それは、実際に「現場」に出ているなかで、プロジェクトの形成や実施、評価において、意識されていたことである。
この意識(配慮)されながらの実践のなかに、このテーマは、現実に生きてきたのだと言うこともできる。
国際協力・国際支援の現場での、個人的な内面の葛藤。-「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールで国際協力・国際支援に携わっていたころ、現場からの帰り道や移動中に、ときおりぼくのなかで「葛藤」のようなものが起きた。
西アフリカのシエラレオネと東ティモールで国際協力・国際支援に携わっていたころ、現場からの帰り道や移動中に、ときおりぼくのなかで「葛藤」のようなものが起きた。
支援が「何人」に届くか、また何人に対して効果があるかということについて、その数字の大小の葛藤だ。
「できるだけ多くの人たち」に支援を届け、生活がよくなってほしいと思う一方で、「数は少なくても」ほんとうに効果のある支援を展開したいと思う。
そのどちらもがぼくの心の中にはあって、何かのおりにふと、もやもやしたものが湧き上がってくるのであった。
もちろん、支援を展開する状況によっても、支援の形態は異なる。
生死にかかわるような緊急支援を展開する場合と、緊急の状態ではなく、いわゆる現場の「日常」にかかわってゆくような支援とでは、方法はさまざまに異なってくる。
紛争や自然災害時の緊急支援は「できるだけ多くの人たち」という状況に直面しやすいし、生活改善的な支援はその地域の特定のコミュニティに「根」をはってゆくような支援をデザインしてゆくを目指したりする。
前者は例えば物資支給ということが支援の多くを占めることになりやすく、後者はソフト面の支援が大切な要素として入ってくる。
支援の形態だけでなく、支援の「成果の評価」の側面もある。
支援のコストに対してどれだけの効果があったのかを「費用対効果」として考慮し、成果を評価する。
「限られたリソース」を有効に使ってゆくためにはこの視点とスタンスはとても大切でありながら、他方で「効果」の判定は見方によっては複雑でもある。
このような事情がありながら、それでも、ぼくの内面では、「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」というふたつの側面が葛藤のようなものを起こすのであった。
当時も今も、現地に生きる人たちにとって支援がすべてなどとは思わないけれど、他方で支援ということの大きな力にも注意深くあろうと思った。
そのようないろいろな「声」が、ぼくの内面でそれそれ互いに意見を交わしつづけていた。
今になっては、「できるだけ多くの人たちへの支援」と「数は少なくても根のはる支援」というふたつの側面については、それらどちらもが、その気持ちの<源泉>をぼく自身の内奥にもつものであることを思う。
どちらがいいということでもなく、人それぞれに、その人の「目的」として、あるいは「方法」としてもつことのできるものである。
また、同じ人にとってもいつも同じということではなく、人生のタイミングや局面によっても、じぶんにあう目的や方法は異なる。
さらには、この見方自体、つまりこの視点が依って立つ前提自体を変えることもできる。
このような内面的な「対話」をつづけながら、その対話をとめるのではなく、継続してゆくことのバランスのなかで、ぼくはつねに、じぶんのやっていることをより客観的に見つめようとしてきたのだと思う。
コフィー・アナン(Kofi Annan)事務総長の国連(United Nations)と時間を共にして。- ぼくの研究から、フィールドでの協働に至るまで。
小さい頃から「世界がひとつになる」というイメージに惹かれてきた。
小さい頃から「世界がひとつになる」というイメージに惹かれてきた。
「国」という国境線で分けられた世界ではなく、この「地球」という世界のひろがりとつながりにである。
小さい頃に「戦争」の話をよく耳にしていたからかもしれない。
イメージに牽引される仕方で、いつからか、「国連」(United Nations)に興味をもつようになった。
その流れのようなところで、大学で「国際関係論」という学問の分野を学びたくなり、休学して住んだニュージーランドから帰国したぼくは「国際関係論」ゼミ(Peter B. Oblas教授)に所属した。
その年は、今思い返すと、今月(2018年8月)に亡くなられたコフィ・アナン氏が国連の事務総長(Secretary General)に就任した1997年のことであった。
ゼミはOblas教授のもとで数名が集い、英語で行われ、(英語)論文の書き方、そして国際関係について学んだ。
卒業論文としてぼくが選んだトピックは「国連」についてであった。
発展途上国の開発・発展にも興味をもちはじめていたぼくは、それと国連を組み合わせて、国際協力における国連のコーディネーション機能とその限界などについて書いた。
それまでとは異なり、英語文献で国連を学べば学ぶほどに、国連に対して抱かれやすい理想像よりも、その現実性と困難を知ることになった。
事務総長というポジションについても「世界で最も困難な仕事」と形容される事情も、ぼくは徐々に理解していった。
それから数年が経過し、大学院で途上国開発・発展を専門に学んだぼくは、国際NGOの職員として、2002年、西アフリカのシエラレオネに降り立っていた。
携わるプロジェクトは、国連難民高等弁務官事務所が主導する事業の一環であった。
紛争が終結したばかりのシエラレオネの人たちが故郷などに戻り生活を建て直す支援、また隣国リベリアの紛争を逃れてくる難民の人たちの支援である。
治安も安定せず、国連の平和維持軍も展開していたときであった。
国連は引き続き、コフィー・アナン事務総長のもとで運営されていた。
翌年2003年、東ティモールに移ったぼくは、そこでも、国連の強い影響下に独立後の国づくりがすすむ環境で、仕事をすることになった。
ぼくが東ティモールに滞在中の2006年12月をもって、コフィー・アナンは事務総長職を終えた。
やがて、ぼくも、紛争地や途上国での仕事に区切りをつけて、2007年初頭に東ティモールを離れることになった。
今思い返すと、ぼくが大学で国連について学び、そして実際のフィールドで国連と共に仕事をしていた時期は、コフィー・アナンが事務総長として国連を率いていたときであった。
コフィー・アナン氏が亡くなり、いろいろと思い返しているうちに、ぼくはそんなことに気づいた。
コフィー・アナン事務総長のもとでの国連は「ひとつの時代」をつくったけれども、その時代は、ぼくにとっても大切な時であった。
なぜ「支援」するのかということについて。- じぶんの深いところからくる「衝動」としての<助けの手>。
世界で、いろいろな「支援の手」が、さしのべられている。
世界で、いろいろな「支援の手」が、さしのべられている。
紛争においても、自然災害においても、事故においても、それぞれの現場で、ふつうには想像もつかないような、危険を背負った支援がおこなわれる。
助ける側も助けられる側も、生死や大事、あるいは人生や生活がかかってくるような状況におかれることもある。
そのようななかで、どうしてそこまでできるのだろう、と思うほどに、人は全身全霊で立ち向かってゆく。
「どうしてそこまでできるのだろう」という問いの後ろには、何が人をそうさせるのだろうか、という思いと疑問がある。
そこへの「回答や推測」は、語る人の立ち位置によって、あるいは語る人の視点によって、さまざまである。
純粋に利他的な行動であるという語り、信念に基づく行動であるという語りから、なんらかの「利得」のためだという語りまで、いろいろだ。
そして、それらの「語り」は、それぞれにおいて、それぞれの真実の一面を語るものでありながら、すべてを語りつくすものではないように聞こえる。
それでも、実際に出来事が起きている「現場」では、人は、<何かの衝動>につきうごかされるように、じぶんという「個」をさしおいて、ときにじぶんを犠牲にする仕方で、助けの手をさしのべたりする。
ぼくも、「何かの衝動」につきうごかされるように、国際協力・国際支援の道を歩み、紛争後の西アフリカのシエラレオネ、それから紛争後の東ティモールで、NGOの活動を担っていた。
シエラレオネでの難民キャンプの人たちや帰還民の人たちへの支援、東ティモールでのコーヒー生産者たちへの支援、それらの「現場」に立つことになって、ぼくはできることをしながら、いろいろとかんがえてもいた。
日々は、雑用もあり、解決しなければならない事柄でいっぱいで、また「仕事」をこなしてゆく過程でもあり、いつもいつも「何かの衝動」につきうごかされているわけではない。
「支援」の現実にまとわりつく、いろいろな局面に対処してゆかなければならない。
それでも、緊急な状況、差し迫った状況、あるいはそのような間隙において、ぼくは、じぶんの深いところからくる「何かの強い衝動」につきうごかされるような感覚をもって、活動する。
それ以上を問うことができないような「何かの衝動」に動かされているように、ぼくは感じたものだ。
そのように感じた衝動と限定された経験のなかで、ぼくは、世界の、さまざまな「現場」に生きているであろう、この「衝動」のことを思う。
任務や仕事としてくくられる行動のなかにも、<助けの手>をさしのべることの「衝動」が、個々の身体の奥深くに息づいている。
世界のそれぞれの「現場」からのニュースを見聞きしながら、そんなことを思い、また、安全に<助けの手>がとどくとよいと、ぼくは気持ちを向ける。
「子どもたちが笑う」風景と国際協力・国際支援。- シエラレオネの難民キャンプで、東ティモールの村々で、ふりむけられた笑顔。
国際協力・国際支援ということにおいて、その風景はしばしば、「子どもたちの笑う風景」として、写真や映像において切り取られる。
国際協力・国際支援ということにおいて、その風景はしばしば、「子どもたちの笑う風景」として、写真や映像において切り取られる。
屈託のない、どこまでもひろがってゆくような笑顔が、それらから見るものに伝わってくる。
逆に子どもたちの「悲惨な状況」が切り取られて伝えられることもあるけれど、それとは対極に位置するように、「笑う姿」がメディアに映し出される。
そこには、見るものに対し、国際協力・国際支援といった支援への「支援」や「理解」を要請する意図が織り込まれる。
子どもたちのいっぱいにひろがる笑顔に触発され、メッセージを発する者の意図に応答するように、「(金銭的/非金銭的)支援」を提供する人たちがいる一方で、個々の経験の回路が作動して、これらのイメージに「作られたイメージ」を読み取って抵抗感を感じる人たちもいる。
それらの異なる「反応」は、そこには個別の経験を含めいろいろな力学が作動しているから、その背景や理由は一概には言えない。
けれども、ぼく個人の経験に照らし合わせると、「子どもたちの笑う姿」は、国際協力・国際支援ということの「現場」において、そこで働く/活動する者(つまり、ここでは「ぼく」)の気持ちや行動を積極的に駆動したものである。
2002年、西アフリカのシエラレオネにおける難民キャンプで、リベリア難民の小さな子どもたちが、ぼくにふりむける笑顔が、どれだけ、ぼくに力を与えてくれたか、ということのなかに、経験されている。
国際協力・国際支援の「現場」は、(場所や状況にもよるけれど)一般にかんがえられるようなところではないかもしれない。
写真や映像というものが、現実の一部のみを切り取るものであるように、現場で働く者にとって、「子どもたちの笑顔」だけを見ているのではないし、「悲惨な状況」だけを見ているのでもない。
また、以前の「ボランティア」というイメージに塗り込められていたような、「仲良く、わきあいあい、楽しい」協力・支援という場面(だけ)ではない。
「現場」での仕事は、「なんとなく」という仕方での関わり合い方ではやっていけないし、「プロフェッショナルさ」が求められる。
組織を運営したり、人と関わる際に起きるであろう問題や課題や困難にしばしば直面しながら、また先進産業地域に住む者にとっては「思いもよらない」ような状況にも出くわしながら、プロフェッショナルとして、プロジェクトを進めていかなければならない。
「それでも」という接続詞で、ぼくは文章をつなぐ。
「笑顔」だけで出来上がっている世界ではまったくないけれど、「それでも」と、ぼくは書き続ける。
それでも、「子どもたちの笑顔」は、現場に生きる/現場で働く人たちの「奥深く」に届く。
先進産業地域の環境に生きる人たちが<写真や映像に切り取られて見る世界>のひとつの典型的な形式であるだけでなく、現場に生きる/現場で働く人たちにとっても、現場の世界は「子どもたちの笑顔」で切り取られる。
少なくとも、「ぼく」にとっては、子どもたちの笑顔は、そのようなものとしてあった。
シエラレオネの難民キャンプで子どもたちにふりむけられる笑顔とはにかみ、東ティモールの村々でぼくにまっすぐに届けられる子どもたちの笑顔と歓声、等々。
それらは、写真や映像ではなく、その時、その場におけるリアリティとして、経験される。
子どもたちがぼくにふりむける笑顔に生かされ、よりよい「未来」を想像し、また創造のための思考や行動や努力に向かう気持ちに火を点火する。
そのように触発される力は、ぼくの中の、ずっと奥深いところからやってくるようなものとして、感じられる。
それは、「人がよろこぶことを人はよろこぶ」という欲望の構造からなのか、あるいは「人間」にあらかじめ装填された自己を解き放つ装置が作動したからなのか。
「子どもたちが笑う」風景は、写真や映像のなかだけでなく、国際協力・国際支援という「現場」においても、ひとつの<真実の風景>として、ぼくの日々の中で経験されていた。
東ティモールでむかえた「クリスマス」(2006年)の記憶から。- 「War is over, if you want it...」(ジョン・レノン)
「War is over, if you want it…」。争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。...Read On.
「War is over, if you want it…」。
争いは終わるよ、あなたがそれを望むのであるなら。
John & Yoko/Plastic Ono Band(ジョンとヨーコ/プラスティック・オノ・バンド)の名曲のひとつである「Happy Xmas (War is Over)」のバックコーラスが届ける歌詞である。
ジョン・レノンが主旋律を歌いながら、ヨーコとハーレムコミュニティ合唱団の子供たちが声を奏でている。
2002年から2003年にかけて、戦争が停戦に至ったばかりの西アフリカのシエラレオネに赴任していたときも、それから2003年から2007年初頭にかけて、独立したばかりの東ティモールにいたときにも、この名曲はぼくの深いところで、力強いメロディーと歌声で鳴り響いていた。
シエラレオネは停戦に至っていたけれども隣国リベリアは内戦が激化していて、難民がシエラレオネに押し寄せていた。
独立したばかりの東ティモールは平和を維持してきたけれど、2006年になってディリ騒乱が発生し、国内避難民を発生させた。
そのような現実に身をおきながら、国際支援を展開しているぼくの内面を、ジョン・レノンの歌が支えてくれていた。
「争いは終わる、望むのなら」と。
東ティモールの首都ディリでの騒乱は、ふりかえるのであればその前触れはいっぱいに集められるけれど、騒乱へと突如に落ちてゆく行き方は(万が一の準備はしつつも)あまり予測されない事態であった。
ディリ中心街の銃撃戦の場に、ぼくはいつのまにか置かれ、翌日には東ティモールを退去せざるをえない状況になった。
すぐにもどる予定が、国際支援の制度上のしばりにしばられ、なかなか戻れず、日本から遠隔でプロジェクトを指揮していた。
ディリの状況はよくならず、情勢は不安定さを増していくことになる。
その間、しばりのない他のチームがディリに入り、国内避難民の支援をはじめていた。
そうして情勢が若干の落ち着きをみせはじめたころ、ディリを退避してから数ヶ月後に、ようやく、ぼくはディリにもどることができた。
2006年9月のことだったかと思う。
不安定さはまだ残り、慎重な支援事業を展開していった。
一時は恐れたコーヒーの出荷を、コーヒー生産者たちとチーム一丸で、ぼくたちは達成した。
出荷作業も終わり、そのフォローアップも落ち着いたのは、2006年の末であった。
クリスマスは、ぼくはディリにいた。
いたるところで小競り合いがつづくディリであったけれど、クリスマスの前あたりから、街は「落ち着き」を得ていた。
クリスマスの夜、事務所の前からディリの山腹をながめながら、ぼくはじぶんのなかで、つぶやいていた。
War is over, if you want it…
争いをつづけている人たちであっても、「クリスマス」という、カトリック教徒であろう彼らにとって大切な日には、争いをとめることができたのだ。
その事実に、ぼくは少し安心した。
<共同幻想としてのクリスマス>という、人間的な事象はくずれることなく、生きつづけている。
完全に人間がこわれてしまったわけではない。
ジョン・レノンの歌にこめられた<共同幻想>を書き換える企ては、その根拠をもっていることを、ぼくは争いが続く場で感じたのだ。
望めば、争いは終わるのだ。
たとえ、それがつかの間のことであったとしても。
今では東ティモールは、ふたたび、平和な日々をとりもどしている。
東ティモールにいる間、「Happy Xmas (War is Over)」の東ティモール版のようなバージョンを収録したいと、ぼくはかんがえていた。
ニューヨークのハーレムコミュニティ合唱団に替わって、東ティモール合唱団(あるいは世界の合唱団)のような合唱団がバックコーラスの歌声を奏でるというものだ。
そのときはその夢を形にすることはできなかったけれど、ぼくの「人生でやりたいことのリスト」にひきつづき含まれている。
ここ香港でクリスマスイブをむかえるなかで、ぼくはその夢をおもいだす。
緊急支援と開発協力の<あいだ>。- 国際協力で、ぼくの立っていた時空間。
思考の戯れのなかで、「Transition(トランジション)」という言葉に光があてられたかと思ったら、ぼくの思考は、国際協力という実践において以前立っていた時空間にとんでいった。...Read On.
思考の戯れのなかで、「Transition(トランジション)」という言葉に光があてられたかと思ったら、ぼくの思考は、国際協力という実践において以前立っていた時空間にとんでいった。
それは、緊急支援と開発協力の<あいだ>という時空間である。
紛争や大災害のインパクトを受けながら、「緊急支援」として状況への介入がなされる。
紛争であれば例えば難民支援であったりするし、大災害でも地震や津波で家を失った人たちへの支援であったりする。
その後、状況が落ち着き、避難していた人たちは(可能であれば)もともと住んでいた場所などに戻っていく。
しかし、いわゆる途上国においては、戻った場所での生活基盤も脆弱であることが多く、開発協力などで、中長期的に支援をしていくことがある。
「緊急支援→開発協力」へという流れにおいて、その中間である「生活にもどっていく」段階での支援がある。
西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールでぼくが活動をしていたときの、ぼくの立ち位置は、まさにその段階であった
「トランジション」での支援である。
「緊急支援→開発協力」の図式で言えば、矢印のところである。
ぼくはもともと、発展途上国の「開発協力」を学んでいた。
地域に根ざし、中長期的な視野で、持続可能な発展へときりひらいてゆくための、支援である。
先進国の押しつけ(だけ)にならない支援のコンセプトが、一気に出てきていた時期である。
人生というものはわからないもので、ぼくが仕事を得たのは、緊急支援に比重をおく組織であった。
ぼくの最初の赴任地は、西アフリカのシエラレオネ。
紛争終結後で、緊急支援とともに、帰還民支援として「トランジション」の支援に入っていた。
次の赴任地である、東ティモールでも、紛争後の緊急支援に一区切りがつけられる時期であった。
地に足をつけて「開発協力」を志していたから、複雑な気持ちを抱きながらも、ぼくはこの「トランジション」の支援に意味を見出してゆく。
実際に、「緊急支援→開発協力」への繋ぎの大切さと方法論が議論されていたころであった。
緊急支援はスピードと規模ゆえに、その地域に大きなインパクトを与える。
一気に、人や物が流れ込み、問題解決を達成しながら、しかしその大きなインパクトゆえに負の部分も残してしまう。
だから後々の着地はもとより、その着地にいたるプロセスがセンシティブで難しいのだ。
そんなことを、「トランジション」という言葉を手がかりにして、ぼくはふと考えたのであった。
そして今、世界は、「トランジション」の段階だ。
20世紀後半に一気に経済的な発展を遂げ、そこから「次なる時代」へとつながっていく段階である。
ぼくはこのトランジションに焦点をあてている。
国際協力でぼくの立っていた時空間と、今ぼくが立っている時空間は、「トランジション」という状況でつながっている。
そこで、ぼくのできることはなんだろうかとかんがえる。
国際協力の道を志してから、じぶんに言い聞かせてきた言葉。-「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」(森崎和江)
大学時代に、途上国への国際協力・国際支援という道を志したときから、支援の現場にいたときも、それから今でも、ぼくの中に存在している言葉がある。...Read On.
大学時代に、途上国への国際協力・国際支援という道を志したときから、支援の現場にいたときも、それから今でも、ぼくの中に存在している言葉がある。
「草の存在が見える人間になりたい。今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない。…」
森崎和江が1980年代半ばに『思想の科学』(第64号)に寄せた文章の一部である。
文章は「教育の原点での自己と他者」と題され、強者や弱者の「存在の矛盾」の問題に向き合うものだ。
この文章は、次のように続く。
「子供も大人も日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなることを知っていたい。そのことを体得しあえる関係を教育の現場として、随所に求めたい。」
西アフリカのシエラレオネで難民の人たちや住民の人たち、東ティモールのコーヒー生産者とその家族たちに向き合いながら、ぼくの中で、森崎和江の言葉がこだましていた。
「子供も大人も日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなること」。
そして「草の存在」が見えたとしても、「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない。」
いわゆる「途上国」と呼ばれる国や地域の人たちが、そのまま草の存在であるということではないし、「弱者」であるということではない。
どこでも、人間存在としての強さや深さをもっている人たちはいる。
しかし、ある時代に、ある場所で、ある環境の中で、生きることの「幅」(潜在能力)をひどく狭まれている人たちがいる。
それは、途上国に限られることではないし、世界のどこででも起こりうることだ。
森崎和江が対象として語るように、教育の場にも起こりうることである。
あくまでも相対的に恵まれていたぼくは(例えば、食べることには困らない)、国際協力・国際支援での仕事を志しながら、当時出会った森崎和江の言葉に、深く耳を傾けざるを得なかったのだ。
「草の存在が見える人間になりたい」と。
その言葉に続く、「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」が、ぼくの心により頻繁に浮かぶようになったのは、ぼくが実際に「支援の現場」に降り立ち、その現実に直面しているときであった。
例えばシエラレオネでは、紛争による混乱と傷跡に翻弄される人たちと日々直接に接し、訴えを聞き、要望を聞き、あるいは言葉にならないような表情を投げかけられて、「草の存在」が見えてくる。
訪れた難民キャンプや村からの帰路で、あるいは夜をひとりで過ごしながら、時折、あの言葉がやってくる。
今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない…。
支援の現場で、この眼で直接に見えるにもかかわらず、しかしこの眼で直接に見えるからこそ、この言葉の大切さが感じられる。
「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなること」と、ぼくはじぶん自身に向かう。
それでも、いろいろな状況と環境の中で、「他者」が見えなくなったことはあったと思う。
だから、森崎和江の言葉は、今でもぼくの心の中に、時折、現れる。
ここ香港にいて、たくさんの「人」に向き合ってきながら、後半の部分に「重点」が置かれる形で、それはぼくにやってくる。
「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなる」という言葉だ。
生活を営みながら、仕事をしながら、ぼくはじぶんに言い聞かせる。
今思えば、ぼくの生きる過程に沿う仕方で、森崎和江の言葉におけるぼくの「重点」が移行してきたようだ。
初めは「草の存在が見える人間になりたい」ということからはじまり、それから支援の現場で焦点は「今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない」に移る。
その内に、「日々自分とたたかわねば、他者が見えなくなる」という言葉がぼくの生きる道ゆきを照らすようになる。
そうして今、ぼくは、いわゆる「教育」ではないけれど、文章を書き「他者に伝える・共有する」ということをしている。
けれども、そのことは翻って、ぼく自身に向かって語られてもいる。
今日それができたとしても明日もまた可能だとはきまっていない、と。
国際協力・国際支援などのはるか「手前」のところで。- 出会う人たち一人一人に、きっちりと向き合うこと。
国際協力・国際支援・国際援助・途上国支援・開発協力などの言葉の磁場にひきつけられるように、20歳頃のぼくは、その「広大な領域」に足を踏み入れていった。...Read On.
国際協力・国際支援・国際援助・途上国支援・開発協力などの言葉の磁場にひきつけられるように、20歳頃のぼくは、その「広大な領域」に足を踏み入れていった。
でも、思い出してみると、それ以前に、ぼくは「国際」という言葉が触発する世界のイメージに強いあこがれを持っていた。
そしてそんな言葉を深掘りしてみると、(争いはあっても)戦争のない世界を、子供の頃から強く希求していたことに思い至る。
そのような世界をほんとうにつくりたいと希求し、その「手段」として、国際協力などの領域を、仕事としていくことを定めたのが大学のときであった。
しかし「定めた」と言っても、その広大な領域は圧倒的に広い世界であって、専門性が求められる中の揺らぎが続いた。
それでも、学べるところから、とにかく学んでいった。
大学院を終えて、NGO/NPOで働くという「縁」を得ることになった。
911後の世界の混迷の中で、同僚はアフガニスタンやイラクに駐在し、ぼくは西アフリカのシエラレオネに降り立った。
長年に渡る内戦が終了したばかりのシエラレオネで、国連の平和維持活動が継続される中、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と共に緊急支援を展開した。
こうして、ぼくは、緊急支援・国際支援の「現場」に入っていくことになる。
シエラレオネの現場に入っていくことで、それまでに志していた、「国際」「国際支援」「戦争のない世界」といったキーワードが、ぼくの生の中で、<焼き鳥の串>にささるようにつながっていった。
当時は、そんなことを考えている余裕もなく、シエラレオネの現実と仕事の厳しさに立ち向かうことで精一杯であった。
それでも、ぼくが大切にしてきたことの「土台」は、シエラレオネで出会う人たち一人一人(いろいろな人たちだ)に、きっちりと向き合うことである。
その人たちにとってみれば、「日本人のイメージ」は、ぼくを通して形作られていく。
ベネディクト・アンダーソンが著書『想像の共同体』でどれだけ鮮やかに、国というものが「想像の共同体」であることを説いても、あるいは同様に吉本隆明の「共同幻想論」をもちだして語ろうとも、現実には「国」があたかも「モノ」であるように確固としたものとして存在しているように、多くの人たちには感じられる。
こうして、言説は「国というカテゴリー」からはなかなか自由になれない。
そのような現実の中、ぼくは出会う人たちに真摯に向き合ってきた。
それは、「国際」「国際支援」「戦争のない世界」といった<焼き鳥の串>にささったキーワードにからめられている、<焼き鳥のたれ>のようなものだ。
<たれ>がなかったら、それらはまったく味気ないものになってしまう。
世界で出会う人たちに真摯に向き合うこと。
それは、ただ仲良くすることとはイコールではない。
一緒に<生きる>こと。
戦争のない世界をめざしたり、国際協力・国際支援などを実践していくことの、はるか「手前」のところで、ぼくが大切にしてきたことである。