言葉・言語, シエラレオネ Jun Nakajima 言葉・言語, シエラレオネ Jun Nakajima

書こうと思っても書くことができないとき。- 西アフリカでの「日々」を憶い出しながら。

書こうと思っても文章が書けないときがあるものである。言葉にならないときがある。

書こうと思っても文章が書けないときがあるものである。言葉にならないときがある。

たとえば、心身がほんとうに疲れているときに書けなくなったり、あるいは旅にどっぶりとつかっているときに書けなくなったりする。また、一日だけなど、ある短い時間・期間書けなくなることもあれば、比較的長い時間・期間にわたって書けなくなることもある。

ある程度長い期間にわたって「文章が書けなくなった」ときが、ぼくにはある。ただ書けなくなった(あるいは書かなくなった)のではなく、書こうと思っても書けなかったときである。

それは、2002年から2003年にわたって、西アフリカのシエラレオネに住んでいたときである。紛争が終結したばかりのシエラレオネに緊急支援を展開するNGOの一職員として活動していたときであった。

現地情勢はおちつきを取りもどしはじめているときではあったのだけれど、それでもそこでの現実と情況にぼくは圧倒され、また緊急支援の仕事に没頭しさまざまな問題・課題に直面していたこともあって、ぼくは「書くこと」ができなくなっていた。

もちろん仕事において書く仕事はこなしてはいた。報告書など、日本語と英語で書く仕事はたくさんあった。けれども、ぼくが「体験・経験していること」をその深みにおいてとらえ、言葉に表出してゆくことができなかった。

時間も、心身の状態も、「余裕がない」ということはあった。それほどに忙しかったし、支援の現場をとびまわりながら何役もこなし、マラリヤとも闘いながら、体力勝負のところもあった。さらには異文化のとまどいもついてまわる。

こんななかで、ぼくは書くことができなかった。

そのことを後悔をしているわけではない。とにかく「支援」に注力したことに、後悔はない。

また、書けないことが「悪い」ということでもない。仕事で書かなければいけないことは遂行していかなければいけないけれど、仕事を離れて書くことにおいて書けないことについて、良い・悪いということを言っているのでもない。

ただ、生きているなかではそんなときもある、ということ。それほどに、現実や体験・経験が圧倒するときがあるのだということ。でも、そんななかでも、深いところでは何かを感じているのだということ。それらは、いつか言葉になることもあれば、ならないこともあるということ。言葉になる「いつか」は、ある程度すぐであることもあれば、何年も先であることもあること。

そんなふうにして、体験・経験は、ぼくたちそれぞれの<土壌>となっていること。


ここ香港で、書こうと思っても言葉にならないなぁ、と思っていたら、シエラレオネの「あのとき」の感覚を憶い出したのであった。

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ツールの「メンテナンス」の大切さについて学んだこと。- シエラレオネで、東ティモールで。

西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。

西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールで働いていたころ(12年から17年ほどまえのことになるけれど)、ドライバーのスタッフの方々が、車両をとても丁寧に、時間をかけて手入れし、メンテナンスしている姿に触発されたことがある。

シエラレオネの電気も水道もない山奥、東ティモールの山間部にひろがるコーヒー農園など、そのような道があってないようなところを走る車両には、とても負荷がかかる。山奥ではなくても、交通機関どころか、交通網も整備されていないから、車両(さらにはロジスティクス)はプロジェクトをすすめるうえでのコアになる。

人の命も、仕事も、車両にかかってくるところがあり、ドライバーの方々は、車両のメンテナンスにいつも熱心である。朝早くから、車両のエンジン掛けから点検にいたるまで、ほんとうに余念がない。

そんな「姿」を鏡にして、ぼくは、じぶんの「姿勢」を見つめていた。


ドライバーの方にとっての「車両」は、ぼくにとっての「コンピューター」ということもできる。

もちろん、ぼくは、コンピューターだけで仕事をしていたわけではない。プロジェクトの「現場」、具体的には、難民キャンプや村々、コーヒー農園などの現場での仕事は、ぼく自身、つまり人間が問われるところだ。

だから、ぼくは「人間全体」が問われるところに、押しだされたのである。それはとてもチャレンジングであったし、ぼくも全身全霊で取り組んだ。

そんな「現場」にありながら、プロジェクトの運営や組織マネジメント、対外関係などにおいて、仕事のツールはやはり「コンピューター」であった。それは、ぼく自身の「拡張器官」であるとも言える。

けれども、都会のオフィスにあるコンピューターと異なり、プロジェクトの現場、それも電気や通信が整っていない現場でのコンピューター仕事である。そんな事情もあって、先進産業社会における都市で仕事をするのとは異なる諸々の注意点を含め、いろいろと気をつかうところであった。


いろいろと気をつかってはいたのだけれど、それでも、ぼくはほんとうにコンピューターをメンテナンスできているだろうか、また、ぼくの仕事を最善の仕方ですすめてゆくツールとなるようにケアできているだろうか、と、ドライバーの方々の車両メンテナンスにいつも横で接しながら、じぶんを振り返っていた。

それから、どれくらいケアできてきたか、どれくらいケアできているか。香港に移住してから、じぶん自身のコンピューターを含めて、どれくらいケアできてきたか。自信があるわけではない。忙しさを理由に、あとまわしにしてきたところもある。

でも、ときに、ドライバーの方々の「姿」がぼくの意識に、ふと思い起こされる。そんな「姿」が、メンテナンスの大切さを、ぼくのなかに呼び起こしてくれるのである。

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シエラレオネ Jun Nakajima シエラレオネ Jun Nakajima

「Peace Diamond(平和のダイヤモンド)」。- シエラレオネの「709カラット」(2017年)のダイヤモンドのゆくえ。

西アフリカのシエラレオネで、2017年に発見された「709カラット」のダイヤモンド。

西アフリカのシエラレオネで、2017年に発見された「709カラット」のダイヤモンド。

シエラレオネ史上3番目ともいわれるこのダイヤモンドのゆくえを、Time誌が追い、写真を含め6頁ほどの記事(Aryn Baker “The Diamond As Big As a Village”『Time』27 August 2018)にしている。

ダイヤモンドの「ゆくえ」と書いたが、正確には、それ自体のゆくえとともに、それが「もたらしたもの」である。

 

「ダイヤモンド」それ自体に特に興味をもっているわけではないぼくが、昨年からこのニュースを興味深く追っていたのは、まず第一に、それが、西アフリカのシエラレオネのことであったからである。

2002年、紛争が終結したばかりであった当時のシエラレオネに、ぼくはいた。

国際NGOの職員として、難民キャンプ支援、それから帰還民支援と呼ばれる支援の一環として井戸掘りプロジェクトなどに携わっていたのだ。

ぼくが常駐した場所は、ダイヤモンド産地であるコノ地区であり、地区としては前述のダイヤモンドが発見されたところである。

事務所をかまえていた付近は、ちょっと歩けば、すぐにダイヤモンド鉱山があった。

いわば、ほんとうにたくさんの「Komba Johnbull」たちが、日々、ダイヤモンド鉱山へと向かい、泥にまみれながら、作業をしていた。

このような経験が、ぼくを、シエラレオネとダイヤモンドに引きつけている。

 

Time誌は、あのダイヤモンドを発見した青年Komba Johnbull氏と、その青年が属する掘削チームのスポンサーであった牧師Emmanuel Momoh氏を中心に、「その後の物語」を語っている。

青年がどのようにダイヤモンドを見つけ、そして牧師がどのようにダイヤモンドを扱ったのか、そしてそのゆくえと「もたらされたもの」。

このダイヤモンドがいくらで落札されるかということ以上に、このダイヤモンドが、牧師によって、密輸業者ではなく、販売ルートでとしてシエラレオネ政府に届け出たことに、記事はフォーカスしている。

そのことは、確かに「大きな意味」をもつ行動であり、社会を変えてゆく力をもつかもしれない。

そこには、シエラレオネなどのダイヤモンドが、レオナルド・ディカプリオ主演の映画のタイトルのように、「Blood Diamond(血のダイヤモンド)」と呼ばれてきた物語を、「Peace Diamond(平和のダイヤモンド)」の物語へと変えてゆきたい人たちの意志と行動が、かけられている。

政府は、収益の15%を、ダイヤモンドが発見された地元の道路や学校や電気や水供給などに使うことを約束したのであった。

Momoh氏の発言について、Time誌はつぎのように書いている。

 

…「わたしたちのダイヤモンドはもう戦争のためのものではないのです。発展(development)のためのものなのです。」と彼は言う。「政府がダイヤモンドから取ったお金を村を発展することに利用するとき、ダイヤモンドは世界をよりよいところにすることができるのだと、全世界が見ることになるのです。」

Aryn Baker “The Diamond As Big As a Village” 『Time』(27 August 2018) ※日本語訳はブログ著者

 

「709カラット」のダイヤモンドは最終的に、最初に想定されたほど/夢見られたほど高値では売れなかったが、その収益の一部はMomoh氏と掘削チームのメンバーに渡されたことに加え、政府の約束通り、村のプロジェクトに還元され、プロジェクトが始動した(※Momoh氏は、プロジェクトのハードだけでなく、人などのソフト面が始動し維持されるのを注視していきたいとしている。正しいと思う)。

ダイヤモンドを発見した青年Komba Johnbull氏は、「貧困のサイクル」から抜け出ようと考え、自分の「教育」へ投資しようと考えるが、その「物語」はTime誌の記事を読んでほしい。

その経緯と顛末に、ぼくは考えさせられてしまった。

そのような思考とともに、かつて一緒に働いた人たちや村々の人たちは、どのような「物語」をその後紡いでいるのかと、ぼくの思いははるかシエラレオネへととんでゆくのである。

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シエラレオネ, 東ティモール Jun Nakajima シエラレオネ, 東ティモール Jun Nakajima

世界の現場で実感した<恐怖からの自由>の大切さ。- ぼくが「自由」を書きつづける理由のひとつ。

人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。

人間の個としての「自由」ということを、真木悠介(見田宗介)の明晰な論稿によりながら、別のブログに書いた。

「テレオノミーの開放系」というコンセプトであり、真木悠介(見田宗介)の言葉で、再度、ふれておきたい。

このコンセプトは、『自我の起原』(岩波書店、1993年)の最終章で提示されているが、真木悠介(見田宗介)は別のところで、その主旨をつぎのようにより簡潔に書いている。

 

…<テレオノミーの開放系>とは…、人間の<自我>の脱目的性ということである。…生命世界の中で唯一人間の<自我>だけが、最初はこの個体(「自分」)自身を自己=目的化することをとおして、生成子の再生産という鉄の目的性から解放され、しかしそうなると個体は無目的のものとなるから、自己自身の絶対化(エゴイズム)からさえも自由な、どのような生きる目的をももつことができる存在となる。…

見田宗介「走れメロスー思考の方法論についてー」『現代思想』青土社、2016年9月号

 

ぼくたちは「個」として、その自我の起原から見ると、どのような生きる目的ももつことも/もたないこともできる存在である。

 

このことを書いていたら、「個」ではなく、社会における自由という次元において、<恐怖からの自由>ということ、その大切さを思った。

<恐怖からの自由>というコンセプトについては、大学院で途上国の開発問題を専門にしながら「自由論」の領域にどっぷりとつかっているときに出会う。

そのことを、ぼくの経験の軸において、深いところで理解したのは、大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていったときであった。

その現場で「自由ではない」ということがどういうものか、まるで手に取ることのできるような仕方で、ぼくは実感したのだ。

 

この現場での経験と<恐怖からの自由>については、昨年別のブログ(「大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。」)で書いたので、一部を加筆修正して再掲する。

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ぼくは、内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年、赴任した。

当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が活動していて、その任務は平和維持や武装解除などであり、ぼくが赴任した当時も、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。

UNAMISILの影響もあって街は「平和」が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。

数々の対策を打ちながら「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。

 

それから2003年、ぼくは東ティモールにうつることになる。

バリ島から飛行機で2時間ほどの東ティモールは、長年にわたる紛争を経て独立を果たしたばかりであった。

当時の東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。

ぼくが現地入りしたときは、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。

独立による気分の高揚、さまざまな国際支援、平和維持活動の効果などもあって、とても「平和」な東ティモールであった。

しかし、それらの活動が終了・縮小された後の2006年、雲行きが怪しくなり始め、やがて首都ディリで騒乱が発生するに至る。

ディリ騒乱が発生した日、東ティモール政府は独自に事態を収拾できず、各国の軍隊に支援を要請する。

ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いた。

家のテレビのBBC放送は、家の前の状況を報道している、という奇妙な状況に、ぼくはおかれる。

その夜、政府の支援要請に応じたオーストラリア軍などが東ティモールに上陸し、事態は若干の落ち着きをみせるが、夜の街は異様な雰囲気を漂わせていた。

事態が沈静化した翌日、ぼくは国外退避することになる。

オーストラリア軍が完全にコントロールするディリの国際空港に入ったときに安心したことを、ぼくは覚えている。

平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。

ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。

 

机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~の自由」、特に「他者からの自由」ということである。

誰もが想像するところである。

シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。

政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。

その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。

「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。

ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモールのディリ騒乱)を自身で経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。

残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。

「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。

また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。

そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。

 

ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。

「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。

「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。

自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。

日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。

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シエラレオネと東ティモールは、今は「平和」であることを追記しておきたい(※現地に行く人たちが少ない場所であるから、その場所の語り方には注意を要すると考える)。

 

時間と空間は、平和と戦争・紛争との間に「ギャップ」をつくってゆくことも明記しておきたい。

当時、日本からシエラレオネへの経由地であったイギリスのロンドンは、シエラレオネからやってくると、まったく違う世界がひろがっていて、そのギャップにぼくは感覚を合わせるのに苦労した。

東ティモール騒乱のときも、経由地のバリ島は観光客たちで賑わう平和な場所であり、ぼくは二つの場所のギャップに、やはり、ひどくとまどったものだ。

空間だけに限らず、時間も然りである。

このような経験をしたものの責務のようなものとして、ぼくは、経験とそこで感じたことや学んだことを、少しでも書いておこうと思う。

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シエラレオネ Jun Nakajima シエラレオネ Jun Nakajima

思い出としての「新鮮なライム」。- 西アフリカ・シエラレオネの首都フリータウンの、ある日曜日に。

思い出は、ふとしたときに、やってくる。

思い出は、ふとしたときに、やってくる。

プルーストの作品における「紅茶にひたされたマドレーヌ菓子」の味が過去の記憶をよびもどすように、それはたとえば、「新鮮なライム」のみずみずしさとして、ぼくのところにやってくる。

けれども、プルーストの過去の記憶のように、その味の詳細な記憶はなく、新鮮なライムを飲み物のなかにしぼり、それを口にしたときに心を動かされたことを覚えている。

あるいは、ぼくがいた、「あの」空間の雰囲気が一緒になって、思い出・記憶のファイルにとじられている。

 

2002年の終わりから2003年の前半にかけてのこと、ぼくは西アフリカのシエラレオネにいた。

NGO職員として、当時、紛争が終結して間もないところで、支援活動に従事していた。

事務所は、首都フリータウンの事務所を含め、シエラレオネ内に3箇所あり、ぼくはそれらを行き来しながら活動していた。

 

それなりにシエラレオネの生活に慣れたころの、ある日曜日(だったと思う)に、一緒に働いていたシエラレオネの同僚が、ぼくを家に招待してくれた。

生活に慣れたころとはいえ、生活も仕事も、とてもチャレンジングな日々が続いていた。

そんな折の、つかの間の休息。

招待された家で、とくに何かをするわけでもなく、会話を交わし、飲み物をいただく。

すると、同僚は「ライムは欲しいですか?」とぼくに尋ね、そうですねと応えると、「ちょっと待ってて」と部屋を出ていく。

ちょっとして戻ってきた同僚は、ライムを手に戻ってきて、それをぼくに渡してくれる。

どうやら、家の庭に育っているライムを取ってきてくれたようだ。

そして、その鮮烈なみずみずしさと、新鮮な香りにぼくは、心身揺り動かされることになる。

15年以上経過した今も、そのときのことが、暖かい思い出として、思い起こされる。

 

新鮮なライムは、とりたてて珍しいものではない。

家庭菜園をしていたりすれば、いつだって、菜園から摘み取り、新鮮な味と香りを楽しむことができる。

 

「過去の記憶」というものは、時間の経過ととに<純化された記憶>となることもあるから、「新鮮なライム」の記憶は、ぼくのなかで、相当に純化され再構成されているのかもしれない。

そう思いながら、しかしそれだけではなく、あの時、あの場、そしてそこに置かれたじぶんという状況のなかで、ぼくの心身の深いところに<思い出・記憶の旗印>を立てたのだとも思う。

 

シエラレオネに生きる人たちにとって日常が戻ってきたとはいえ、人びとの心のなかには深い闇があり、また目に見える形では、たとえば、フリータウンの街の中にもまだ避難民キャンプがあって、紛争が残したものをむきだしにしている。

ぼくはといえば仕事は四方八方において困難がつづき、あるいはアフリカの強烈なマラリアにかかったりと、都会の便利さに慣らされてきた身体はサバイバルモードに入ったりすることもある。

そのようななかに置かれていたからこそ、「新鮮なライム」は、生ということの新鮮さをいっそう感じさせるものとして、ぼくにとってとてもとくべつなものであったように、思う。

そして、招かれた部屋のしずかな雰囲気となんでもない会話が、あたたかい思い出として、今も生きている。

それだけでも、あの時、あの場所にいてよかったと思えたりする。

ぼくたちは、どの時代の、どこにいても、そのような、なんでもない「とき」と、それからあたたかい思い出に、心の火を灯されるようにして生きる。

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西アフリカのシエラレオネで、「サッカー」をしてみる。- アフリカの<パワー>に魅せられて。

2002年の終わりから2003年の中頃にかけて、西アフリカのシエラレオネにぼくは住んでいた。

2002年の終わりから2003年の中頃にかけて、西アフリカのシエラレオネにぼくは住んでいた。

当時、リベリア難民支援とシエラレオネ帰還民支援というプロジェクトに、NGOの職員として携わっていた。

シエラレオネでは長年の内戦が終結したばかりで、難民となっていた人たちの、村々への帰還が進んでいたものの、隣国リベリアでの内戦は続き、リベリアからの難民がシエラレオネに押し寄せていた。

ぼくは、そのような「現実」の前に圧倒されながらも、持てる頭脳と体力で、全身全霊で仕事にうちこんでいた。

 

ぼくがシエラレオネに入ったときは、国連の平和維持軍も展開しているときであったけれど、それなりに(相対的に)「落ち着いている」状況であった。

難民キャンプに避難している人たちの生活も長期化により、「日常化」するようなところもある。

国連やいろいろなNGO団体がともにかかわる難民支援においてはさまざまな支援活動が展開され、日々生活するための「ベーシック・ニーズ」の提供だけでなく、心身の健康のための活動などもさまざまに企画される。

そのような活動のひとつに、サッカーイベントがあった。

とても簡易な形だけれど「サッカー場」を準備し、サッカーができるようにする。

文字通り、生きることに精一杯でありつづけてきた人たちの日々に、光が灯るようなイベントだ。

 

記憶が定かではないけれど、そのようなサッカーイベントの話が出ていたころに、野原をそのまま小さなサッカー場としたような場所で、ぼくはスタッフの人たちなどとサッカーボールを蹴った思い出がある。

何らかの用事でぼくはその場所に赴き、その日の仕事が終わったころに、シエラレオネのスタッフの人たちに誘われて、一緒にサッカーをしたのだ。

大学に入ってからも、友人たちに誘われて、ときおり東京でフットサルをやっていたぼくであったけれど、アフリカの人たちとサッカーをするのは初めてのことである。

サッカーのワールドカップの試合などを観ていて、アフリカ勢の選手たちの身体能力の高さには驚きを抱いていたから、ただの遊びでするサッカーとはいえ、ぼくは好奇心と怖れを同時に感じることになる。

そんな気持ちを抱きながらも、「何事も体験」と、ぼくは参加する。

参加人数はそれほど多くないけれど、二つのチームに分けて、試合形式でサッカーを始めることになった。

 

案の定、シエラレオネの人たちの動きは目を見張るもので、動きの「速さ」、それから身体の柔軟性とダイナミックさと強さに、ぼくの身体がまったくついていかない。

それが、特定の誰かということではなく、皆が皆、そのような動きだから、まったく油断できない。

どのくらいプレーしただろうか、ぼくは、早々にプレーから引き上げることになってしまった。
 

ちょっとした体験であったけれども、野原のような広場でシエラレオネの人たちと一緒にしたサッカーは、アフリカの<パワー>に触れる出来事のひとつとして、ぼくの記憶に刻みこまれている。

サッカーのワールドカップで、アフリカ勢の動きを見ながら、ぼくは、アフリカの独特の<パワー>に魅せられたときのことを、思い出す。

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「生きるリアリティの幅」をひろげてゆくこと。- アフリカ・シエラレオネの経験。

西アフリカのシエラレオネでの、<アフリカの経験>は、ぼくにとって、今でも言葉に尽くしがたい経験のひろがりと深さに充ちている。

西アフリカのシエラレオネでの、<アフリカの経験>は、ぼくにとって、今でも言葉に尽くしがたい経験のひろがりと深さに充ちている。

山崎豊子の著作『沈まぬ太陽』を読んでいたら、ぼくの記憶の貯蔵庫から、<アフリカ・シエラレオネの経験>の記憶がとくとくと、こぼれおちてきた。

時間というフィルターにかけられて、過去の記憶の浄清作用も働いているかもしれないけれど、たいへんであったことの記憶も含めて、当時のぼくにはわかっていなかったような、「心を奪われた」人と出来事の記憶たちが、静かに、ぼくの記憶の表層にうつしだされる。

2002年、長年の紛争に終止符が打たれたシエラレオネに降り立ち、NGO職員として支援活動に従事した、ぼくの記憶たちである。

 

空港からフリータウンの市内をつなぐヘリコプターのプロペラが旋回する音。

首都フリータウンの街の明かりと喧騒と静けさ。

頭にたくさんの荷物をのせて、大地を、姿勢よく、すーっと歩いてゆく女性たち。

キャッサバの葉っぱとパーム油でつくられた料理。

紛争での傷跡を心身に背負っている人たち。

一緒に働くシエラレオネの人たち。

トラブルが日常になる日々の仕事。

井戸掘削が成功し、身体で喜びをあらわしてくれる村人の人たち。

マラリアで倒れた夜の空気。

ひどく疲れた夜に、家の外で舞う蛍たちの光景。

運動会で踊りながら行進をして、生きることの歓びを全身で表現する人たち。

こうして、ぼくのなかで、記憶たちがこぼれおちてくる。

 

シエラレオネの生活を思い出しながら、それがとても愛おしくなり、そして「シエラレオネで生きる」という経験が、今のぼくという人間の大切な一部となっていることを感じる。

「世界観がひろくなった」という言い方もできるけれど、それは正確ではないようにも、思う。

「世界観」は確実にひろくなったのだけれど、「観」ということ以上に、このじぶんの心身がもつ「生きるリアリティの幅」がひろがったという方が、感覚としてはより正確である。

それは、本や動画などからだけでは得ることのできない、「あの」空間がもつリアリティに支えられている。

この経験を、少しずつ文章にしているけれど、15年以上経った今でも、なかなかできずにいる。

経験の核のところが輝かしすぎるからかもしれない。

あのとき、あの場所で、一緒に働き、一緒に生きることのできた人たちとの出会いの<奇跡>を感じると、ぼくは今でも心が暖かくなる。

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<アフリカの経験>が記憶からこぼれおちてくる。- 山崎豊子の「アフリカ」(『沈まぬ太陽』)に触発されて。

山崎豊子の著作『沈まぬ太陽(一)ーアフリカ篇・上ー』(新潮文庫)の第一章「アフリカ」で、主人公の恩地元(おんちはじめ)が赴任先のケニアのナイロビで、「欧州・中近東・アフリカ地区の支店長会議」の準備におわれていて、ふと一息ついていたときのことである。

山崎豊子の著作『沈まぬ太陽(一)ーアフリカ篇・上ー』(新潮文庫)の第一章「アフリカ」、主人公の恩地元(おんちはじめ)が、赴任先のケニアのナイロビで、「欧州・中近東・アフリカ地区の支店長会議」の準備におわれていて、ふと一息ついていたときのことである。

 

 ブランディのおかわりを注ぎかけ、恩地は妙に気怠いのに気付いた。
 …
 グラスを置き、シャワーを浴びようと、セーターを脱いだ途端、悪寒がした。額に手を当てると、かなりの熱がある。
 疲れで風邪でもひいたかと、シャワーを止め、バスローブを羽織って、二階の寝室に上って行く階段で目眩みがした。
 風邪薬を飲み、早々にベッドに入ったが、激しい頭痛がし、体ががたがたと震えだした。…
 もしやと、恩地は不吉な予感がした。ナイロビに着任して半年後、ケニア最大の港町であるモンバサの旅行代理店まで営業に出張した折、蚊に刺されたのか、一ヶ月後にマラリアで倒れた。東南アジアのマラリアと異なり、アフリカのマラリアは症状が強烈だった。運よく大事に至らなかったが、もし手当てが遅れた場合は、高熱のために死に至ることもある。

山崎豊子『沈まぬ太陽(一)ーアフリカ篇・上ー』(新潮文庫)

 

この箇所を読みながら、ぼくは、アフリカでマラリアにかかったときのことを思い出していた。

もう15年ほど前になるが、西アフリカのシエラレオネに滞在していたときのことである。

滞在しはじめて、まだ半年も経っていないころ、大きな仕事が一段落して一息ついたとき、夕食後に椅子からくずれおちるように、ぼくはその場に倒れた。

そしてその出来事から1年ほど経過したころ、今度は東ティモールで、ぼくは身体の底から体験することになる。

「東南アジアのマラリアと異なり、アフリカのマラリアは症状が強烈」であることを。

 

そのようなアフリカの経験は、ぼくにとって、ほんとうに「宝」だ。

最初の赴任地がアフリカの地であって、ほんとうによかったと、ふりかえりながら、思う。

アフリカに行くことは、まったくの想定外であったし、そこでの生活はなかなかにハードであったのだけれど、アフリカで生きるという体感が、ぼくの身体のなかに埋め込まれたのだ。

アフリカというところはぼくが思っていたところから180度も異なるところであったと思うけれど、それが、ぼくの「生きることの幅」をひろげてくれた。

恩地元がマラリアにかかった話を読みながら、ぼくは「身体」でアフリカの経験を思い出すようにして、恩地元の<アフリカ>を追っていた。

恩地元の話とは時代も場所も異なるアフリカの地だけれど、ぼくのアフリカの経験が、記憶のなかからこぼれるように、意識のなかに降りてくる。

 

ところで、そもそも山崎豊子の作品をふたたび読もうと思ったのは、社会学者である大澤真幸の著作『山崎豊子と<男>たち』(新潮選書、2017年)の「問いの提起」に惹かれたからである。

 

 山崎豊子は、「男らしい男」を描いた。…彼女ほど、まさに「直球勝負」とも言えるような率直な筆致で、男を描き得た作家は、男女を問わずいない。なぜ、山崎豊子にだけそれがなしえたのか。

大澤真幸『山崎豊子と<男>たち』(新潮選書、2017年)

 

この問いを読みながら、ぼくは、これまでに読んだ山崎豊子の作品に登場する<男>たちを思い起こしていた。

ぼくがそれまでに読んでいたのは2作品、『大地の子』と『不毛地帯』である。

だから、<男>たちは、『大地の子』の陸一心(りくいっしん)と『不毛地帯』の壱岐正(いきただし)だ。

大澤真幸の「問い」に惹かれるように、ぼくは、山崎豊子の描いた「男らしい男」を読みたくなり、まだ読んでいない作品から、『沈まぬ太陽』を選んだ。

『沈まぬ太陽』を選んだ理由のひとつは、それが「アフリカ篇」ではじまっていたことである。

恩地元が住んでいたのは「東アフリカ」あり、ぼくが住んでいたのは「西アフリカ」で、「アフリカ」といえどもまったく異なる環境だけれど、ぼくはアフリカという場の経験の重なりを感じてみたかったのだ。

 

『不毛地帯』を、ぼくは西アフリカのシエラレオネで読み、壱岐正をアフリカで感じていた。

今は、『沈まぬ太陽』を、ぼくはここ香港で読み、恩地元をアジアで感じている。

『沈まぬ太陽』を読んでは、ときおり、大澤真幸の『山崎豊子と<男>たち』を読む。

なぜ、山崎豊子だけが、「男らしい男」を描くことができたのか。

大澤真幸の提起するそんな問いを、ぼくは、壱岐正や恩地元が日本の外で人生の一部を生きたように、日本の外で生きながらかんがえている。

山崎豊子の描く<男>が、ぼくのなかにどのように存在していて(あるいは存在せず)、どのようにぼくの生きることと重なりを共有しているか(あるいは共有していないか)という問いも、じぶんに投げかけながら。

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「移動」の中で考えること、思いつくこと。- シエラレオネと東ティモールで大切にした「移動の思考」。

2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。...Read On.

2002年に西アフリカのシエラレオネで仕事(国際協力・緊急支援)をし、2003年に東ティモールに移ってコーヒー生産者支援をしてゆく中で、ぼくはよく「移動」した。

日本からシエラレオネは、当時はロンドン経由であり、飛行時間はやはり長かった。

シエラレオネ国内でも、よく移動した。

シエラレオネの首都フリータウンに降り立つと、市内へは、なぜかヘリコプターでの移動であった。

フリータウンに事務所本部をもちながら、ボーとコノというところにそれぞれ事務所があった。

それぞれの事務所間は、主に、スタッフが運転してくれる車両などで移動した。

ボー事務所は、リベリア難民の支援の拠点であった。

難民キャンプまでは車で1時間ほどの距離で、難民キャンプに行くときは往復2時間の移動であった。

大雨が降ると、オフロードの泥道は車両の足をつかみ、ときに抜け出せないような状況であった。

ぼくが主に駐在していたのは、コノ事務所。

シエラレオネの東部に位置し、ギニアやリベリアに近くなる。

コノ事務所は、帰還民支援(難民として逃れていたシエラレオネ人が紛争後に戻った村々の支援)として、井戸掘削と衛生教育の支援の拠点であった。

道路は整備されていないから、車両での移動は時間を要した。

支援そのものだけでなく、各ステークホルダー(シエラレオネ地方政府、国連、NGOなど)との会議なども多く、よく移動したことを覚えている。

 

ぼくは、いつのまにか移動に慣れ、「移動の時間と空間」を大切にした。

首都フリータウンはそれなりにコンクリートの道路が整備されていたが、渋滞にはまることもあり、各ドキュメントに目を通すなど車内は仕事の空間であった。

フリータウンをはずれ、ボーやコノに行くとき、あるいはボーやコノにおいては、道が道でないようなところで車両が上下左右に揺れるから、スタッフの人たちと話すことに加え、「考えること」にぼくは徹した。

「移動の時間と空間」は、とても貴重なものであった。

一箇所にとどまって仕事をしているときに「煮詰まってしまった問題・課題」を考えているうちに、ふとアイデアがわいたり、解決策を思いついたりした。

相当に煮詰めていた思考が、ふーっと解き放たれるようにしてひろがり、思考の間隙をぬって、これまで考えていなかったことが浮上する。

ぼくはその内に、「移動の思考」を方法とするようになった。

 

東ティモールに移っても、方法としての「移動の思考」は、ぼくにとってとても大切であった。

首都ディリからコーヒー生産地であるエルメラ県レテフォホまで、整備の行き届いていない道路を通って、2時間から3時間ほどかかる道のりであった。

シエラレオネと異なることのひとつは、東ティモールでのこの移動は、「気温が変わること」であった。

エルメラ県はディリに比べて標高を高くし、レテフォホは涼しいコーヒー生産地だ。

移動と共に気温が変わっていく「移動の時間と空間」の中で、スタッフが運転してくれる車両の助手席に座りながら、ぼくはいろいろなことを考えた。

煮詰まっている問題・課題はもちろんのこと、組織マネジメント、新しいプロジェクト、プロジェクトのプロポーザルの内容と構成、ホームページ用の文章、スケジュールなどなど、「移動の時間と空間」をぼくは思考の方法として活用した。

さらに、ディリとエルメラ県をつなぐ道路で、知り合いなどと車両でよくすれちがうことがあった。

他の国際NGOの人たちであったり、東ティモール政府の人たちであったりと、さまざまであった。

ときに、互いに車両を降りて、仕事の話をしたり、互いを励ましあったりと、移動の道程は特別なものとなった。

車両を降りたときに、あたり一面にひろがる木々たちがつくる静寂が、まだぼくの記憶に鮮明に残っている。

 

シエラレオネや東ティモールにおいて「移動の時間と空間」はぼくにとってとても大切な時間と空間であったのだけれども、掘り下げてゆくと、ぼくたちはいつも<時間と空間の移動>の中に在る。

この反転を言葉の綾だけでなく、言葉の内実を生きるところにまで生ききることに、「移動の思考」だけではなく<思考の移動>がひらけてくるように、ぼくは思う。

 

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歌手Angelique Kidjoから伝わってくるアフリカの大地に根ざす「まっすぐな」歌声。- <志の力>に体験として触れること。

Angelique Kidjo。西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。...Read On.

Angelique Kidjo(アンジェリーク・キジョー)。

西アフリカに位置するベナンに生まれ、20代前半にパリに移り、今はニューヨークをベースとするシンガーソングライターである。

アフリカ音楽をその倍音と基調にしながら、さまざまなジャンルや音楽家の音楽に彩られた音楽を奏でる。

また、音楽を超えて「活動家(Activist)」として、アフリカの女性のエンパワーメントなどに取り組んできている。

国連の親善大使なども務めてきており、その活動の幅には驚かされる。

最も影響力のあるアフリカ人として、各紙が取り上げてきた人物だ。

 

2年前の2015年に、ここ香港で初めて、コンサートの舞台に立ち、その歌声を届けた。

ぼくはそれまで、西アフリカ出身のAngelique Kidjoを知らなかった。

グラミー賞など数々の賞を受賞している経歴から、「一流」の音楽に触れようと、ぼくは香港文化センターに足を運んだ。

普段はクラシック音楽が奏でられるホールに機材が置かれ、音楽と共に、Angelique Kidjoが現れる。

彼女の出で立ちは、西アフリカ(ぼくが住んでいたシエラレオネ)の女性たちを思い起こさせる。

小柄な身体から放たれる、どこまでも届くような歌声は、魂のレベルに直接に届く響きに満たされている。

小さなホールは、徐々に、彼女の歌声とアフリカダンスの世界にひたされてゆく。

事前に「音楽の予習」をしていかなかったぼくも、次第に、彼女の世界にひきこまれる。

 

彼女の歌声は、ほんとうに、まっすぐな歌声である。

歌と歌の間に彼女から発せられるメッセージも、まっすぐである。

そのどこまでもまっすぐな響きが、ぼくの心に矢のようにとんでくる感じだ。

しかし、彼女の「まっすぐさ」は、ただのまっすぐさではない。

いわば、言葉にしきれない苦悩と苦闘を内にする者が、あるいはそれらを乗り越えてきた者だけが放つことのできるような「まっすぐさ」である。

アフリカの「状況」を飲み下して発せられる声であり、アフリカの「語られ方」に異を唱える方法としてのまっすぐさでもある。

ぼくが感じる「アフリカ的」なものを語るならば、それは大地から発せられるような、地に足のついた声。

それは、シエラレオネの大地と人びとを、ぼくに思い出させた。

コンサートが終わって、その「熱」にうかされながら、ぼくはシエラレオネ人の友人(元同僚)にメッセージを送ってしまったほどだ。

Angelique Kidjoも、ぼくのシエラレオネ人の友人も、共に、アフリカ人女性のエンパワーメントに力を注いでいる。

 

コンサートも終盤、Angelique Kidjoは、観客たちを舞台に呼び寄せ、ダンスの共演空間を創りだした。

(ダンスを得意としない)ぼくは舞台には上がらなかったけれど、この光景は今でもこの身体に残っている。

Angelique Kidjoは、さらに、曲中に舞台から観客席におりて、観客の合間をかけめぐってゆく。

通路側の席にいたぼくは、運よく、Angelique Kidjoと握手を交わした。

<志の力>をいっぱいにもらったように、ぼくは感じた。

コンサートでパフォーマンスを楽しむ以上のものを、たくさん受け取ったのだ。

その受け取った「ギフト」は、彼女に出会った個々の人たちが自らの生で芽を育て、花を咲かせるような地点に向けて肩を押してゆくようなところに、Angelique Kidjoの力はある。

CDやYouTubeなどでは決して得ることのできない「体験」を、ぼくは得た。

<志の力>に、身体でふれてゆく「体験」は、なにものにも代え難いものとなった。

 

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シエラレオネ, 東ティモール Jun Nakajima シエラレオネ, 東ティモール Jun Nakajima

大学で「自由論」に向き合い、世界で「自由」(「不自由」)を経験して。- 「恐怖からの自由」という視点から。

ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。...Read On.

ぼくは、大学院で研究をしていたときに、取り憑かれたように「自由論」を学んだ。

修士論文は『開発と自由』と題し、途上国(と先進国)の発展を「自由」という観点から論じた。

大学院を終えて、NGO職員として、途上国、特に紛争地と言われる現場に出ていくことになる。

その現場で、「自由」あるいは「不自由」ということが、まるで、手に取ることのできるような仕方で、ぼくは感じてきた。

 

内戦が終結したばかりの西アフリカのシエラレオネに、2002年に赴任する。

当時、国際連合シエレレオネ派遣団(UNAMISIL)が結成され活動していて、その任務のひとつに平和維持や武装解除などがあり、各国の軍隊などが駐屯して任務にあたっていた。

UNAMISILの影響もあって街は平和が保たれていたけれど、安全対策は最重要事項のひとつであった。

数々の対策を打ちながら、「安全」を確保しなければならない中で、「危険からの自由」ということの大切さを、手に取ることができるように、ぼくは実感していくことになる。

 

2003年に、ぼくは東ティモールにうつることになる。

東ティモールも、長年にわたる紛争を経て、独立を果たしたばかりであった。

東ティモールでも、国際連合東ティモール支援団(UNMISET)のもとに、国連の平和維持活動が展開されていた。

当時、日本の自衛隊もPKO活動として東ティモールに派遣されていた。

それらの活動が終了・縮小された後の2006年に、東ティモール騒乱が発生し、政府は独自に事態を収拾できず各国の軍隊に支援を要請する。

ぼくは首都ディリの市街戦の真っ只中に置かれ、家の外の通りでは銃撃戦が続いていた。

その夜、オーストラリア軍などが上陸し、沈静化した翌日に、ぼくは国外退避することになる。

平和的状況を失って、「自由」の輪郭と姿が、じぶんの深いところにさらに刻印されていく。

ぼくは自由と不自由の間にある<落差・格差>のようなものを、見ているようであった。

 

机上で学んだ「自由論」のひとつの基本は、「~からの自由」、特に「他者(の干渉)からの自由」ということである。

誰もが理解するところである。

シエラレオネと東ティモールの経験は、「恐怖からの自由」ということを基底におく自由主義(シュクラーの提唱)をぼくに思い出させた。

政治学者である大川正彦の著作『正義論』(岩波書店)の中で、シュクラーの「恐怖の自由主義(the liberalism of fear)」(大川は「恐怖からの自由」を軸にそえる自由主義と注記している)が紹介されている。

その詳細はいったん横に置いておくが、ぼくが惹かれたのは、まずは「恐怖からの自由」を基軸としておくことの大切さである。

「恐怖からの自由」は、「残酷な行為」からの自由である。

ぼくは「残酷な行為」を無数に経験してきた社会と人たちの中に生きながら、そして社会の秩序が崩壊する現場(東ティモール騒乱)をじしんが経験しながら、机上で学んでいた「恐怖からの自由」という言葉の痛切さを感じることになったのだ。

残酷な行為から自由であることが、どれほど大切であるかということ。

「自由論」は、ともすると抽象的になりすぎる。

また、日常で自由を語る人たちは、自分勝手さと表裏をなすような自由を標榜したりする。

そのような議論と表面的にすぎる考え方を一気にとらえかえすように、「恐怖からの自由」ということの大切さを、ぼくは感じてきた。

 

ぼくの経験と実感は、今も世界各地で「恐怖からの自由」を手にできない人たちへと、ぼくの眼と心を向けさせる。

「恐怖からの自由」という、その自由を失わないと見えにくいような自由な社会に暮らしながら、あらためて、「恐怖からの自由」を生きることができることに感謝し、ぼくにできることを考える。

「恐怖からの自由」は、「他者(による残酷な行為)からの自由」であるけれど、それは<他者たちとともにつくられる自由/他者たちによってつくられる自由>でもある。

自由とは、他者の干渉や介入などから自由になるということだけでなく、他者たちとともにつくる/他者たちによってつくられる<自由>という大事な側面をもつ。

日々空気のように享受している「恐怖からの自由」という見えないもの/見えにくいものを視る<視力>を持ちながら、ぼくたちは<自由>をともにつくっていくことができる。

 

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国際協力・国際支援などのはるか「手前」のところで。- 出会う人たち一人一人に、きっちりと向き合うこと。

国際協力・国際支援・国際援助・途上国支援・開発協力などの言葉の磁場にひきつけられるように、20歳頃のぼくは、その「広大な領域」に足を踏み入れていった。...Read On.


国際協力・国際支援・国際援助・途上国支援・開発協力などの言葉の磁場にひきつけられるように、20歳頃のぼくは、その「広大な領域」に足を踏み入れていった。

でも、思い出してみると、それ以前に、ぼくは「国際」という言葉が触発する世界のイメージに強いあこがれを持っていた。

そしてそんな言葉を深掘りしてみると、(争いはあっても)戦争のない世界を、子供の頃から強く希求していたことに思い至る。

そのような世界をほんとうにつくりたいと希求し、その「手段」として、国際協力などの領域を、仕事としていくことを定めたのが大学のときであった。

しかし「定めた」と言っても、その広大な領域は圧倒的に広い世界であって、専門性が求められる中の揺らぎが続いた。

それでも、学べるところから、とにかく学んでいった。

大学院を終えて、NGO/NPOで働くという「縁」を得ることになった。

911後の世界の混迷の中で、同僚はアフガニスタンやイラクに駐在し、ぼくは西アフリカのシエラレオネに降り立った。

長年に渡る内戦が終了したばかりのシエラレオネで、国連の平和維持活動が継続される中、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と共に緊急支援を展開した。

こうして、ぼくは、緊急支援・国際支援の「現場」に入っていくことになる。

 

シエラレオネの現場に入っていくことで、それまでに志していた、「国際」「国際支援」「戦争のない世界」といったキーワードが、ぼくの生の中で、<焼き鳥の串>にささるようにつながっていった。

当時は、そんなことを考えている余裕もなく、シエラレオネの現実と仕事の厳しさに立ち向かうことで精一杯であった。

それでも、ぼくが大切にしてきたことの「土台」は、シエラレオネで出会う人たち一人一人(いろいろな人たちだ)に、きっちりと向き合うことである。

その人たちにとってみれば、「日本人のイメージ」は、ぼくを通して形作られていく。

ベネディクト・アンダーソンが著書『想像の共同体』でどれだけ鮮やかに、国というものが「想像の共同体」であることを説いても、あるいは同様に吉本隆明の「共同幻想論」をもちだして語ろうとも、現実には「国」があたかも「モノ」であるように確固としたものとして存在しているように、多くの人たちには感じられる。

こうして、言説は「国というカテゴリー」からはなかなか自由になれない。

そのような現実の中、ぼくは出会う人たちに真摯に向き合ってきた。

それは、「国際」「国際支援」「戦争のない世界」といった<焼き鳥の串>にささったキーワードにからめられている、<焼き鳥のたれ>のようなものだ。

<たれ>がなかったら、それらはまったく味気ないものになってしまう。

 

世界で出会う人たちに真摯に向き合うこと。

それは、ただ仲良くすることとはイコールではない。

一緒に<生きる>こと。

戦争のない世界をめざしたり、国際協力・国際支援などを実践していくことの、はるか「手前」のところで、ぼくが大切にしてきたことである。
 

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シエラレオネ, 成長・成熟 Jun Nakajima シエラレオネ, 成長・成熟 Jun Nakajima

世界をまっすぐにみることの「気づき」。- W・ユージン・スミス、亀山亮、石牟礼道子の<視覚>。

「気づかせることが唯一の強さだ」。写真家W・ユージン・スミスの言葉を、ぼくは写真家の亀山亮の写真ドキュメンタリーから知り、印象付けられた。...Read On.


「気づかせることが唯一の強さだ」

写真家W・ユージン・スミスの言葉を、ぼくは写真家の亀山亮の写真ドキュメンタリーから知り、印象付けられた。

亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)の「あとがき」に置かれた、亀山亮が大切にする言葉。

 

W・ユージン・スミスの写真は「水俣」の惨状を切り取ったものが、小さい頃のぼくの脳裏にもやきついている。

ユージン・スミスの生い立ちをみていたら(※参照:wikipedia「ユージン・スミス」)、第二次世界大戦でサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として赴き、沖縄で砲弾により負傷していることを知る。

時を経て、「水俣病」の実態を写真におさめ、座り込みにも参加したという。

1972年にチッソ工場に訪問したときには、暴行を受ける事件にまきこまれ、カメラが壊され、そして片目を失明している。


それから30年後の2000年、亀山亮はパレスチナで、イスラエル軍の撃ったゴム皮膜弾が左目に当たり、片目を失明した。

彼は「海外に出た初めの頃」のことを、次のように書いている。
 

 海外に出た初めの頃は、ただひたすら他の世界を見たかった。また日本の鵺のような実体がない場所に、うんざりしていた。いち早く脱出したいと思っていた。自分自身も変えたかった。頭で理解するのではなく肉体で感じたかった。…

亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)

 

ぼくと同年代の亀山亮もぼくも同様の「衝動」を感じながら海外に出て、彼は「写真で何ができるか」を問いながら「写真」に生き、ぼくは「開発とは何か」を問いながら「国際支援」へと生きることの舵をきった。

そして2003年、亀山亮とぼくの人生が、シエラレオネで交差することになったのだ。

彼はその後も、「気づかせることが唯一の強さだ」の生き方をおいもとめるように、メキシコ、アフリカ、沖縄などで写真をとりつづけている。

カメラのピントを合わせるために失明していない右目を使い、もう片方の目で「気づき」への渇望を欲する現実へと<感覚の焦点>を合わせながら。

 

作家の石牟礼道子は「水俣」と共に生きてきた。

その石牟礼道子の目がほとんどみえなくなったころのエピソードを、真木悠介が書いている。

 

 人づてに聞いた話だけれども、石牟礼道子さんの目がほとんどみえなくなったころ、水俣の告発する会のある集会の終わったあとで、若い人たちがワイ歌など歌っていると、石牟礼さんが一人細い声で、童謡かなにかを歌っている。いつともなく他の人たちが歌うのをやめて、その声に聴きいっていると、石牟礼さんがふと、一人ずつ私の方に顔を向けて、いっしょに歌ってくださいと言って、それから順番に一人ずつ、デュエットで歌っていったという。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)

 

このエピソードを聞いたときに感じたことを、「全く私の独断として読んでほしいのだけれど」と断りながら、真木悠介は次のように書いている。

 

…そのとき私には石牟礼さんが、死ということを感覚しておられるように思われて仕方がなかった。自分がもうすぐ死ぬということではなくて、私たちすべて、やがて死すべき者として、ここに今出会っているということのふしぎさ、いとおしさである。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)

 

ぼくもときおり、ふとしたときに、「私たちすべて、やがて死すべき者として、ここに今出会っているということのふしぎさ、いとおしさ」としか言いようのないような感覚を覚えることがある。

このような感覚に包まれるとき、人も世界も、いつもとはちがった様相をぼくにみせてくれる。

そのような<視覚>を、闇にまっすぐに対峙してきたW・ユージン・スミス、亀山亮、石牟礼道子が、差し出してくれている。

 

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シエラレオネ Jun Nakajima シエラレオネ Jun Nakajima

ぼくの中に根をはって生きる「西アフリカのリベリア」。- リベリアに「光」をあてて。

西アフリカのリベリア国とニューヨークを舞台とした映画『リベリアの白い血』(原題『Out of My Hand』)が8月5日より日本で公開されているようだ。...Read On.


西アフリカのリベリア国とニューヨークを舞台とした映画『リベリアの白い血』(原題『Out of My Hand』)が8月5日より日本で公開されているようだ。

ニューヨークを拠点とする日本人監督の福永壮志による作品。

ゴム農園で働くリベリア人男性が、移民としてニューヨークに渡り、そこでさまざまな問題に直面してゆく。

 

西アフリカのリベリアは、ぼくの<内面のグローバル地図>に強く刻まれている国のひとつだ。

リベリアは、シエラレオネの東隣の国(首都モンロビア)。

アメリカで解放された黒人奴隷たちが移住し、1847年に独立建国された国だ。

1989年から2003年にわたって内戦がつづいた。

 

ぼくは、その最終年2003年に、ちょうどシエラレオネにいた。

そして、ぼくのシエラレオネでの最初の仕事は、リベリア難民たちのキャンプ運営の補佐であった。

リベリア内戦では、約14年間に、27万人が亡くなり、79万人の難民が発生したといわれている。

難民が向かった先のひとつが、隣国シエラレオネであった。

当時、シエラレオネも内戦が終結したばかりである。

国連難民高等弁務官(UNHCR)のもとで、国際NGOが共同でキャンプ運営にあたっていた。

その中で、ぼくが所属していたNGOは、国連機関と他の国際NGOと共に、5,000人規模のキャンプ二つを管理していた。

だから、ぼくは、リベリアの人たちとも日々を生きていたのだ。

 

映画『リベリアの白い血』のことを知ったのは、写真家の亀山亮の告知であった。

亀山亮と出会ったのは、シエラレオネのコノにおいてであった。

ぼくは、コノ地区の事務所にうつっていて、その時、アフリカ3国(シエラレオネ、リベリア、アンゴラ)をまわっていた亀山亮がシエラレオネのコノに写真撮影にきていたのだった。

シエラレオネのあとに、亀山亮は内戦が激化するリベリアに旅立っていった。

リベリアの首都モンロビアでは停戦がくずれて、戦闘が激化した。

銃声や爆発音が響き、迫撃砲がとんでいた。

シエラレオネのスタッフたちもぼくも、亀山亮のことが心配であった。

 

ぼくはそれからシエラレオネをいったん離れるため、首都フリータウンの空港にいた。

テレビにうつるリベリア内戦の状況をぼくは空港の椅子にすわって見ていた。

そのとき、ぼくの名前を呼ぶ、懐かしい声が聞こえ、そこには亀山亮がいた。

彼から聞くリベリア内戦の状況に、ぼくは言葉を失った。

 

後日、そのときに撮られたリベリア内戦の状況を、亀山亮の写真ドキュメンタリーの写真と文章にみることになり、再び言葉をうしなうことになる。

映画『リベリアの白い血』は、今ここ香港では観ることができないけれど、ぼくは、ここ香港で、亀山亮の写真ドキュメンタリー『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)を再びひらく。

そのようにして、リベリアに「光」をあてる。

ぼくは、忘れていない。

リベリアの内戦と、リベリアの人たちを。

 

亀山亮は写真ドキュメンタリーの「あとがき」に、こんな言葉を置いている。

 

「気づかせることが唯一の強さだ」
写真家W・ユージン・スミスの言葉を大事にしたい。

亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)

 

気づかせることが唯一の強さ。

リベリアを直接に知り、リベリアの人たちとあの日々を生きたぼくに、この言葉が重くのしかかってくる。

一歩として、このように文章で、リベリアに「光」をあてる。

「彼らの闇からの魂の叫びが、本当に僕たちに届く日」(亀山亮、前掲書)に向かって。

 

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途上国で感じる「懐かしさ」という感覚を掘り下げて。- シエラレオネで、東ティモールで。

いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。...Read On.

いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。

ゆったりとした環境、人懐っこい笑顔などに囲まれながら、「懐かしさ」を感じる。

ぼくも、同じような「感じ」を持ちながら、しかし、この感覚は「懐かしさ」なのだろうか、ということを、西アフリカのシエラレオネと東ティモールという「途上国」に4年ほど住みながら、自問してきた。

経済統計やメディアなどにおいては、シエラレオネは「世界でもっとも寿命が短い国」であり、東ティモールはアジアのなかでも「最貧国」と言われたりする。

ぼくは、西アフリカのシエラレオネには、2002年後半から2003年の前半まで、東ティモールには2003年後半から2007年の初頭まで、滞在していた。

そのような「現場」で考える。

そして、今も考えたりする(だから、こうして書いている)。

このような些細な問いがなぜ大切かということは、ひとつには、ただの「直感」であるけれど、もうひとつには、そこに「つながり」をつくるヒントが隠されているように思ったからだ。

また、「懐かしさ」という、いわば「過去」への視線が、途上国から先進国へという直線的な発展論の見方を内包しているようでもあったから、それにたいして疑問ももっていた。

東ティモールから次の香港に移ってから10年が経ち、その歳月のなかでも、ぼくが抱いてきた「感覚」や「考え」を、丁寧に掘り下げることをしてきた。

シエラレオネや東ティモールを去ってから考えるということは、ひとつには現場では「余裕」がなかったことと、そして外から見ることで客観視できるからということでもある。

 

さて、「懐かしさ」の感覚は、表層においては、何かの「昔っぽい」イメージ(ほんものであれ、映像であれ)が浮かびあがることにおいて、確かに感じるのかもしれない。

ぼくも以前、アジアへの旅のなかで、そんなイメージがわきあがったことを覚えている。

しかし、ぼくは、その感覚の言葉は、必ずしも正確ではないように感じてきた。

掘り下げてみると、その感覚は、人だれしもがもつ「ただ生きることということの歓び」が裸形で現れる感覚であるように思う。

「懐かしさ」は、風景にたいしての「昔っぽさ」というよりは、自分のなかに眠ったような状態にある「ただ生きることの歓び」というシンプルな感覚が深い層より裸出してくるということだ。

都会の喧騒や情報が氾濫する環境や生活で、ホコリが覆ってしまっていた地層が、(一般化はできないけれど)「途上国」の風景、それからそこに生きる人びとの笑顔によって、ホコリが取り払われる。

懐かしさは、そんな生きる歓びの原風景へとつながる感覚なのではないか。

もちろん、世界のどこにいても、人びとは厳しい生活のなかに置かれていたりするけれど(途上国における「貧しい」ということはまた別に書きたい)、そんなことも(ひとときのあいだ)突き抜けて感覚される、ただ生きるということの歓びの地層である。

 

これからの未来を構想することを考えているときに、人や社会はどこへ「着地」していくのかという問題意識のなかで、社会学者の見田宗介の明晰な言葉を追っていて、「生きることが一切の価値の基礎」という言葉に、ぼくの感覚が着地した。

 

…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
 どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)

 

具体論ではないけれど、いわゆる「先進国」と「途上国」の「つながり」を考えるとき、この「歓びの生地」に、人も社会も着地をしていくことが大切であるということを思う。

あるいは、少なくとも、そこを意識しながら、交流や支援などのつながりをつくっていくことが大切である。

シエラレオネで、東ティモールで、ぼくは、「必要」なものを支援しながらも、この「ただ生きることの歓び」の地層を忘れないように、人びとや環境に接してきた。

現場で日々おきる困難と、そこに渦巻く様々な感情と向き合い、ときには必死に闘いながら。

そして、今、そのような「感覚の地層」に、人がときおり途上国に感じる「懐かしさ」がつながっているのではないかということ、それからその「感覚の地層」こそが、人と社会が次の時代に向かう「着地点」であるのではないかということを、ぼくは考えている。
 

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「美しい姿勢」への憧れ。- 「ZYPRESSEN」のように、世界に立つために。

ほんとうに「美しい姿勢」に、ぼくは憧れる。人の美しい姿勢と歩く姿は、ぼくの記憶のなかで、アフリカの人たちのイメージと重なる。...Read On.


ほんとうに「美しい姿勢」に、ぼくは憧れる。
人の美しい姿勢と歩く姿は、ぼくの記憶のなかで、アフリカの人たちのイメージと重なる。

西アフリカのシエラレオネ。
朝靄の中を、大地に垂直に立ち、凛とした姿勢で歩を進める人たち。
夕暮れ時には、人のシルエットたちが、同じように、存在の根を大地にはるように、歩んでいく。
とりわけ、頭の上に籠を載せて歩いていく女性たちの、その姿勢と歩みの美しさに、畏れに近い感情を抱く。

「存在」の重み。存在感。
大地に、確かな仕方で立つ姿勢は、とても美しい。

美しい姿勢に対する憧れは、ぼく自身の姿勢の悪さとよくならないもどかしさの裏返しである。
小学生の頃、日本の学校で「姿勢の矯正」の教育があった記憶が、ぼくのなかにはある。
ぼくの姿勢は、中学生の頃には、「前のめり」になっていく。
高校生の頃には、それに、「猫背」が加わる。
そして、いつしか、ぼくは姿勢のことを、意識しなくなっていく。

一般的に、義務教育を終えてから後には、「姿勢」について、きっちりと教えてもらう機会はあまりないかもしれない。
時に、姿勢を仕事とするような場合や、接客やサービスの仕事などにおいて必要な場合、幸運にも、上司などの注意を受けることはある。
また、自分から「学ぶ」という人の話も、あまり聞かない。

なにはともあれ、自分で、切り拓いていくしかない。

ぼくの場合は、美しい姿勢への憧れ、そして他者たちの寛容な「サポート」により、少しづつ、姿勢を変えてきている。

人生のパートナーが、ぼくの横で、いつも指摘してくれる。ぼくも指摘する「指摘協定」だ。
職場で、プレゼンのリハーサルで上司が指導してくれたこともある。
メンターに指導を受ける。
本に学ぶ。

作家の中谷彰宏は、「生まれ変わりたい」と願う人たちへの指導で、姿勢をひとつの契機とする。


生まれ変わりたい人に対して一番目に直すのは、服装です。
二番目は、姿勢を直します。
これは身体的な姿勢と物事の考え方の姿勢です。
三番目に、新しい知識や工夫を入れます。

中谷彰宏『服を変えると、人生が変わる。』
秀和システム

 

中谷彰宏が書いていることを逆転させて、習う側から読むと、服装や姿勢を変えるということは「生まれ変わる」気持ちがあるということでもある。
ぼくの「根底」における「生まれ変わりたい」という焦燥が、ぼくの心に、絶えず火をくべてきたことは確かだ。

それから、「姿勢の専門家」たちの本にも助けられた。
とりわけ、猫背にはいくつか種類があり、ぼくは「腰猫背」であったことの理解は、目を見開かせるものであった。
「猫背」は、シンプルに背中の問題だと思っていたからだ。

そんな風に、自分の姿勢を気にしながら、香港の街で、行き交う人たち、とくに若者たちの姿勢が気にかかってしまう。

若者たちの姿勢が、ぼくが同じくらいの年齢であったころの自分の姿勢と重なる。
ぼくがそうであったように、時代や社会に対する「姿勢」のあらわれのように、ぼくには見える。

「姿勢」は、ぼくたちがこの「世界」に対峙する仕方を表現する。
そして、それはそうであるままで、他者、それから何よりも自分自身に対する態度・あり方でもある。

 

社会学者の見田宗介は、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出てくる、「ZYPRESSEN」という言葉に眼を留める。
ひらがなと漢字のなかで、突如とあらわれる「ZYPRESSEN」。

 

「ZYPRESSEN」…は、糸杉である。詩の冒頭の陰湿な<諂曲模様>と鮮明な対照をなすものとして、ZYPRESSENは立ち並んでいる。ー曲線にたいする直線。水平にたいする直線。からまり合うものらにたいして、一本一本、いさぎよくそそり立つもの。…
 ZYPRESSENとは、地平をつきぬけるものである。…

見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
 

宮沢賢治は、若い頃、ゴッホの描く「糸杉」に惹かれていたという。
ゴッホの「炎」のイメージの糸杉が、宮沢賢治の詩に重なりながら、世界に垂直にそそり立つ賢治の意志をそこに結晶させている。

そして、ぼくも、ゴッホの糸杉に小さい頃から惹かれ、宮沢賢治、そして見田宗介の、「世界にたいして垂直にそそり立つ」あり方に、憧れてきた。

ぼくの、意志も、身体も、生それ自体も、垂直にそそり立っているか。

ゴッホの糸杉、宮沢賢治の『春と修羅』、見田宗介の文章、そしてアフリカの道を行き来するシルエットたちが、ぼくにそう問いかけてやまない。

押しつけるのでもなく、責めるのでもなく、ただ静かに、そこに垂直に「存在」しながら。

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世界で、「水」との関係性をつくりなおす。- 「日本での当たり前」を乗り越えながら。

日本を出て海外を旅行するときに旅行ガイドなどを開くと、「水に注意すること」が、書かれているのを見つける。日本で当たり前の「水」は、世界では当たり前ではない。...Read On.

 

日本を出て海外を旅行するときに
旅行ガイドなどを開くと、
「水に注意すること」
が、書かれているのを見つける。

日本で当たり前の「水」は、
世界では当たり前ではない。

世界の各地では、次のように
「ない」状況に置かれている。

●「安全」ではない
●「水道」ではない
●「水」がない

ぼくも、世界を旅するようになって
から、また世界に住むようになって
から、このことを実際に体験して
きた。


1)「安全」ではない

ぼくは、大学時代にかけめぐった
アジアの国々で、
この水の経験の洗礼を受けた。

水道水はそのままでは飲めない。
だから、水を購入する。
厄介なのは、「氷」である。
アジアの屋台などで食事をするとき
飲み物に「氷」がついてくる。
昔は飲み物は「冷えていない」こと
が普通であったから、氷をグラスに
入れて、そこに飲み物が注がれる。
でも、氷は、水道水から作られて
いたりするから、結果として、
お腹をこわしたりする。

また、場所によっては、飲めない
だけでなく、口に入れることも危険
である。
だから、歯を磨くときも、
購入してきた水をつかったりした
ものだ。

 

2)「水道」ではない

「水道」は世界ではデフォルトでは
ない。
「水道」がないところがたくさん
ある。

東ティモールのコーヒープロジェクト
が展開されたエルメラ県レテフォホ。

コーヒー精製にも、生活にも水が
欠かせないコーヒー生産者たちは、
「竹」をつなげる形で、いわゆる水道
をつくっている。

竹を垂直に半分にわり、つなげる。
水が湧き出ている高台から竹を伝って
水が届く仕組みだ。

「蛇口をひねれば…」の日本ではない。
 

3)「水」がない

「水」がそもそも身近にない、と
いうこともある。

西アフリカのシエラレオネでは、
コノという地域に住んでいた。
ダイヤモンド産地で有名な場所で
それなりの「街」を形成していた
けれど、当時(2002年)には、
街に水道はなかった。
だから、井戸水をつかっていた。

また、当時はプロジェクトとして
井戸掘削の事業を展開していた。
水のない村で、掘削機で、井戸を
掘っていく事業である。
掘削機が水源にたどりつき、
ポンプをとりつけて無事に水が
汲み上げられる。
村の人たちの笑顔が、いっぱいに
ひろがる。
なんとも言葉にならない、よい
光景である。

ある時、ぼくは完成した井戸の
点検のためある村を訪れた。
村人たちと水が出るのを確認する。
たくさんの村人たちが集まって
いてくれた。
ぼくは、思いも寄らない光景に
一瞬動けなくなってしまった。
村の人たちが皆、地面にひれふす
形で、感謝を伝えてくれたのである。
ぼくは「そんなことしないでくださ
い」というジェスチャーをしたのだ
と思う。
「水の大切さ」と共に、ぼくの中に
深く刻印された光景である。

さらに、「水がない」地点から
「水への感謝」につながる瞬間は、
「宇宙の視点」である。
ぼくは、火星が舞台の映画を観る。
人が火星へ移住することの本を読む。
宇宙を旅する映画を観る。
これらの「宇宙の視点」がぼくたち
に投げかけるのは、「水の奇跡」で
ある。

ただ水が存在するということの
奇跡。
そんな風にして、ぼくは、水への
畏敬の念と感謝の気持ちをオンに
する。

世界に住むようになって、ぼくが
変わったのは、
水をよく飲むようになったことだ。

日本にいたときは、「飲み物=
ソフトドリンク、お茶など」で
あった。
それが、水が、ぼくのなかで完全に
デフォルトとなった。

上記のような「ない」状況を通過し
今のところ落ち着いているのは、
・購入した水を飲む
・常温(あるいは温めて)で飲む
である。

世界のいろいろなところの水を
楽しんでいる。
その土地その土地の水を必ず試す。

人のすごいところは、環境に慣れる
適応性である。
しかし、その反面、適応がゆえに、
「ない状況」を忘れてしまう。

だから、水を飲めること、
水を使えることに、感謝を忘れない
よう、ぼくは心がける。
記憶をたよりに、また今ここの水に
感謝を向けながら。


追伸:
水は購入したから「安全」という
わけでもありません。
そこにはいろいろな要素があります。

売っているペットボトルの水を
購入したら、
リサイクルのペットボトルに
中身をリフィルして売られている
なんてこともあります。
キャップの部分が、再度、接合され
ている跡で見つけたりします。

 

 

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ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」。- 転回、コミットメント、物語の力。

「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」(とブライアン・ウィルソン)ということを書いた。そうしたら、それでは、ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」はどうなんだろうと、思ったのだ。...Read On.

 

「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」
(とブライアン・ウィルソン)という
ことを書いた。

そうしたら、それでは、ぼくにとって
の「シエラレオネと村上春樹」は
どうなんだろうと、思ったのだ。

ぼくにとっての、
まったく個人的な経験としての、
「シエラレオネと村上春樹」。

シエラレオネと村上春樹が、直截的
につながっているわけではないけれど、
ぼくを通じて、この二つは確かに
つながっている。

でも、直感的に、やはり「何か」が
あるように、ぼくには感じられる。
だから、書いておこうと思う。

ぼくが国際NGOの職員として
シエラレオネに行っていたのは
2002年から2003年にかけての
ことであった。

シエラレオネは2002年のはじめに
10年以上にわたった内戦が終結した
ばかりであった。
また、隣国リベリアでも内戦が続き、
リベリアからシエラレオネへは
難民が流入していた。

2002年、ぼくは東京で黄熱病の予防
接種を受け、上司と共に、ロンドンを
経由してシエラレオネの首都フリー
タウンに入った。

最初は短期出張であった。
難民キャンプの運営プロジェクトの
補佐である。

ぼくは、東京と同じ地球の、同じ
時代の、ただ飛行機で着いてしまう
場所で、まったく違った現実の中に
いた。

最初の短期出張は3か月ほど続いた
だろうか。
ぼくは、シエラレオネの短期出張
から日本にもどり、そのとき、
村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』
を読むことになる。

ぼくは、小説『海辺のカフカ』の
登場人物に、
また、そのときの村上春樹に、
「肯定性への転回」を読みとっていた。

『海辺のカフカ』では、
主人公の少年がヒッチハイクで四国
への旅を続ける場面がある。

その旅で、主人公は、あるトラックの
運転手に出会う。
朝食を食べる場面で、運転手の口から
「関係性」ということが語られる。

「関係性ということが実はとても
大切なことじゃないか」といった風に。

村上春樹の初期の作品が、社会からの
「デタッチメント」を色調としてきた
のに対し、ここでは「関係性」への
コミットメント的なことが物語として
語られている。

旅に出ていた主人公の少年は、
最後には「家に帰り、学校に戻ること」
を決める。

この物語の展開のなかには、
とても大切な「転回」がひそんでいる。
少年は、「非現実的世界」において、
この「転回」を生き、現実的な世界に
戻っていく。

どんな人も現実的な世界のなかで
暮らしているけれど、
生きることの様々な場面で、
非現実的な世界、非日常の世界に
接触し、新たな力を獲得して、
現実的な世界に戻ってくる。

『海辺のカフカ』の少年もそうだし、
『銀河鉄道の夜』のジョバンニもそう
であったし、
宮崎駿の作品に登場する主人公たちも
そうである。

村瀬学は、日本の戦後歌謡を追うなか
で、歌詞に「丘」(字義通りの「丘」
もあれば、象徴的な「丘」もある)
が多いことに気づく。
例えば、人は現実に疲れ果てたとき、
丘をのぼり、そこで生きる力を得て、
坂を駆け下り、現実の世界に戻って
いく。
(なお、『銀河鉄道の夜』のジョバン
ニも、その銀河鉄道の夢をみたのは、
丘の上であった。)

そんなことを、シエラレオネから
戻ってきた日本で、ぼくは村上春樹
の『海辺のカフカ』を読みながら
考えていた。

シエラレオネに仕事で行くことに
なったことは、そもそも、ぼくが
国際協力・国際支援の分野に
コミットすることを決めたことに
遡る。

ぼくにとっての「丘へのぼって、
生きる力を得て、駆け下りてくる」
という「転回」は、1996年に、
ワーキングホリデーでニュージー
ランドへ行ったことである。
それは、そのときには、まったく
わからなかったけれど。

ぼくのなかで「デタッチメント」
から、「コミットメント」へと
転回したときである。
今、思い返すと。

そのコミットメントの延長で、
ぼくは国際協力を専門として学び、
国際NGOに職を得て、
西アフリカのシエラレオネに
辿りついたわけだ。

そのタイミングで、
ぼくは村上春樹の『海辺のカフカ』
を読む。
内戦の傷跡が深く残るシエラレオネ
から戻ってきたなかで。

ぼくは、シエラレオネの日々に、
積極的に、自分のために文章を書く
ことがほとんどできなかった。
仕事に深く没頭していたことも
あったけれども、
現実に圧倒されて、自分のなかに
言葉がなかった。

そんななかでも、「物語を読む」
ということは、ぼくを癒すことで
もあった。
ぼくの内面では、「物語」が
ぼくを暗い次元に投げ込むことを
防いでいたのだと、今は思う。
当時はそんなことを考える余裕は
なかったけれど。

ぼくにとって、
シエラレオネと村上春樹は、
こんなふうにつながってきた。
あくまでも、ぼくにとっての
個人的な体験にすぎないけれど。

また、それは一見すると、
まったく関係がないものごとの
つながりである。
でも、実は、どこかで、何かで
つながっているように、ぼくは
感じている。

そして、
(広い意味での)「物語」は、
世界を変える力をもつと、
ぼくは思う。

それが、シエラレオネの現場で
あろうと、村上春樹の読者が
生きている世界であろうと。

だから、力強い「物語」を
つくっていかなければならない。

ほんとうの「リーダー」は、
そんな「物語」を語ることの
できる人たちである。
すぐには成果はないかもしれない
けれど、人に未来をみせる・感じ
させる「物語」を、である。
「未来」という言葉が、消え失せ
ていってしまうような世界で。

 

追伸:
シエラレオネにも持って行った
村上春樹の本は、
『もし僕らのことばがウィスキー
であったなら』(新潮文庫)
でした。

シエラレオネにロンドン経由で
行っていて、この紀行本の舞台で
あるスコットランドが近く感じら
れたこともあるかもしれません。

ただ、ひどく疲れた日に、
この本をひらいて、村上春樹の
言葉のリズムに身をまかせると、
気持ちが楽になったのです。

だから、
東ティモールに移っても、
この本はぼくと共にありました。
そして、
香港に移っても、
この本はぼくと共にあります。


 

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「じぶんの考え方でつくられた家」を「引越し」する。- シエラレオネでかかったマラリアに教えられて。

ここ数日、西アフリカ・シエラレオネの「記憶の井戸」に降りていったら、シャワーのこと、運動会のことの記憶が、井戸の底からわいてきた。...Read On.

 

ここ数日、西アフリカ・シエラレオネ
の「記憶の井戸」に降りていったら、
・シャワーのこと
・運動会のこと
の記憶が、井戸の底からわいてきた。
そして、シエラレオネは、ちゅうど、
独立記念日を迎えたところであった。

「記憶」というものは、
一度溢れ出すと、いろいろな記憶が
一緒になって溢れてくる。

ぼくは、シエラレオネで、人生で初めて
「マラリア」にかかったことを思い出す。
すでに15年以上前のことになる。

「蚊」を媒介としてかかる感染症として
は、主に、マラリア、デング熱、黄熱、
それから最近話題となったジカ熱などが
ある。

シエラレオネに入国するには、事前に、
黄熱病の予防接種が必須である。
だから、黄熱には予防接種で対応して
いた。

他方マラリアには、当時ワクチンが
なかった。
先日、イギリスの製薬会社が開発した
ワクチンを、アフリカ3カ国で試験運用
していくことがニュースになっていた。
ぼくがシエラレオネにいた当時は、
ワクチンはなかった。

予防としては投薬もあるが、副作用が
重すぎるため、通常の蚊対策(スプレー
や蚊よけコイルなど)で予防する。
寝るときは、必ず、蚊帳(かや)を使う。

マラリアは、突如、やってきた。

当時、大きな仕事をかかえ、それなりの
期間、仕事にかかりきりになった。
ようやく、その仕事を終えることができ
仕事完了祝いをかねて、夕食を外でとって
いた。
夕食がすすみ、談笑もつづいていた。
ぼくも、解放感と共に、夕食を楽しんで
いたところだった。

そのときのことであった。

ぼくは、座っていた椅子から転げ落ちる
ような形で、起き上がれなくなったのだ。
何が起きたのかわからず、
しかし、立ち上がれず、また歩けない。
歩けなくなる経験はそれまでにほとんど
したことがなかった。

それからのことは実はあまり記憶にない。
レストランから事務所兼住まいへ戻る際
も、車内では横になり、住まいに戻って
も、高熱にうなされていたことは覚えて
いる。

知り合いの医師に診てもらったのだと、
おぼろげながら、覚えている。
マラリア診断キットで確認もしたのだと
思う。
マラリアは治療薬は充実していること
から、治療薬をとった。
治療薬による副作用で、ひどい夢に
うなされたことも覚えている。

数日間(それでも途中仕事をしながら)
ぼくは違う世界をさまよっているよう
な感覚にあった。

回復後、蚊対策を強化し、自分自身の
免疫力を高めることに注力した。
シエラレオネで会った「国境なき医師
団」の知り合いからは、予防策の一つ
として、ニンニクを直接皮膚に塗りつ
ける方法を習ったりもした。

ぼくは、その後も、マラリアには
悩まされる。
しかし、最初にかかったマラリアほど
の「重さ」はなくなった。
そして東ティモールに移ってからも、
マラリアにかかることが幾度となく
あった。
それでも、東ティモールのマラリアに
比較し、ぼくの感覚では、アフリカの
マラリアの方が「強力」であるように
感じた。


シエラレオネと東ティモールでの経験
から学んだことは、
「予防」の大切さということである。

環境整備による予防もそうだし、
自分自身の体調管理などによる
自己免疫力強化はとても大切である。

しかし「自分自身のこと」となると、
後回しになりがちだ。
他者をまずはケアしよう、
自分はなんとかなるだろう、
といった考え方などに規定され、
自分自身を酷使してしまう。

でも、後回しによる苦い経験の数々が
後回しにしてしまうような考え方と
感覚で固められた、ぼくの「自我の殻」
を、少しずつだけれど、破ってきた。

ぼくは未だにこの「殻」を完全には
破りきれずにいるけれど、
でも確実に、違う殻に「引越し」を
している。

「じぶんの考え方でつくられた家」を
「引越し」すること。

「じぶん」とは、「ひとつの家」のよう
に、その内にたくさんのもの・ことを
内包する、ひとつの「システム=複合体」
である。
「じぶん」という結節点を基点に、
いろいろなもの・ことが、システム的に
つながっている。
一部だけでなく、システムを変えること
は、なかなかに、骨の折れることだ。

何はともあれ、「引越し先」は、
「まず何よりも自分自身のコンディシ
ョンを最善に整えること」
という考え方と、その行動である。
この点においては自分を優先する。
自分を何よりも先におく。
でもそうすることで、他者にもより
よく貢献できる自分を準備することが
できる。

この「引越し」のために、
ぼくは、いろいろなものを捨て、
いろいろなものを変えてきたと思う。
実際の「外的な世界」でも、そして
ぼくの「内的な世界」でも。

ぼくは、この家の「引越し」を、
何年にもかけて実行している。
それは「時間を要する引越し」だ。
一部を引越しすると、その下のレイヤ
ーから、また片付けなければいけない
ものが出てくる。
だから、海をゆったり渡る船便のよう
に、焦らずに、引越しをしている。

村上春樹の小説(『騎士団長殺し』)
の主人公のように、
「時間を味方」につけながら。

 

追伸:
「マラリアの記憶」がわいてきて、
マラリアをGoogleで検索をかけたら、
「世界マラリアデー」が出てきました。

「世界マラリアデー」というのがあって
先日の「4月25日」のことでした。
これも、偶然ですね。

世界では、今も年間2億人以上が
マラリアにかかり、40万人以上の
人たち(特に子供たち)が亡くなって
います。

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シエラレオネ, 海外・異文化 Jun Nakajima シエラレオネ, 海外・異文化 Jun Nakajima

西アフリカのシエラレオネで参加した「運動会」の記憶。- 鮮烈に残る「光景」に導かれて。

昨日「4月27日」は、西アフリカのシエラレオネの「独立記念日」であった。シエラレオネは、1961年、イギリスから独立した。...Read On.


昨日「4月27日」は、西アフリカの
シエラレオネの「独立記念日」であった。
シエラレオネは、1961年、イギリスから
独立した。

この日を特別に記憶していたわけではない
けれど、シエラレオネの友人のメッセージ
で、気づいた。
友人は、お祝いムードとは逆に、今の
シエラレオネの社会問題に、真摯に目を
向けていた。

シエラレオネは、以前の長い紛争の影響で
今でも「世界で最も平均寿命が短い国」で
ある。
世界保健機関(WHO)の最新データでは、
シエラレオネの平均寿命はようやく50歳代
にのり、「50.1」である。

ここ香港は、「世界で最も平均寿命が長い」
ところである。
この落差に、ぼくは「感覚」がくずれて
しまう。

さて、その香港で、この特別な日を意識
していたわけではないけれど、昨日は、
シエラレオネからの「トランジット」で
ロンドンにいたときのことを書いた

なぜか、その記憶と一緒に、シエラレオネ
の「運動会」の記憶が、わきあがってきた
のだ。

何故かはまったくわからないけれど、
つながりのひとつを挙げるとすれば、
シエラレオネのコノ地区の中心「コノ」の
町の記憶である。
でも、それはつながりの「粒」が大きい。

ともあれ、2002年から2003年にかけて
コノに滞在していた折、
ぼくたちのNGO組織のコノ事務所スタッフ
で、運動会に参戦したことがある。

そもそも、コミュニティ活動の一環であっ
たと思う。
ある日、運動会のオーガナイザーの方々が
事務所にやってきて、運動会をやるので
寄付をしてほしい、という依頼を受けた。

いろいろと考慮した挙句(立場上いろいろ
と考慮する必要がある)、ぼくたちは
運動会の運営費を補助することにした。
そして、ぼくたちの組織も、チームとして
運動会に参加することになった。

西アフリカのシエレラオネ、そのコノ地区
で行われた「運動会」。
そんな経験は、誰もができるわけではない。

運動会といっても、場所は「原っぱ」の
ようなところ。
でも、子供から大人まで、人々の熱気と
エネルギーと笑顔が、運動会にふさわしい
「場」をつくっていた。

ぼく自身は、競技には参戦しなかったけれ
ど、会場に赴き、スタッフたちを応援した。
最後はどうなったかは覚えていない。

昨日から、わきあがってくるイメージは、
「入場行進」である。
コミュニティーの小さな運動会でも、
入場行進があった。

各チームは、それぞれに「チーム・カラー」
が決められた。
ぼくたちは「白色」であった。
各チームが、順番に行進をする。
オリンピックのようなイメージだ。

しかし、オリンピックや、日本の学校の
行進とは、根本的に異なる様子が、
鮮烈なイメージとして、ぼくの記憶に刻ま
れたのだ。

それは、「踊り」である。
子供も大人も、踊りながら、行進をして
いくのである。
アフリカは、踊りが文化に溶け込んでいる。
しかし、ぼくは、行進までもが、踊りの場
になるとは、思ってもいなかった。

そして、踊りは、超一級である。
子供たちも、ここぞと、自分たちの踊りを
見せていく。

この光景は、圧巻であった。

ぼくは、と言うと、踊りは全然ダメだから、
笑顔で、みんなの輪の中にいた。
祝祭としての、運動会であった。

紛争が終結して間もないシエラレオネで
体験した、この光景と祝祭は、
ぼくの中に「希望の光」として残っている。
「光」の景色である。

紛争後の様々な困難もある。
世界で最も寿命が短い。
エボラがシエラレオネを襲ったときもある。
社会問題も、数え上げたらきりがない。
ぼくは、それらが感覚として、自分の内奥に
残っている。

でも、ぼくの中に残っている、
この「希望の光」も、尽きることなく、
燃え続けている。

メッセージを放ったシエラレオネの友人は
自身として「行動すること」を表明して、
文章を終えていた。

ぼくも、どのように、この「希望の光」を
行動へと移し変えていくかを、考えている。

具体的な一歩の前に、
友人にメッセージをうっておこう。
それらの問題・課題へは、どんな形であれ、
ぼくもサポートすることを。
サポートが、どんなに小さくても。

 

追伸:
シエラレオネにいたときから15年が
経過しても、シエラレオネの人たちと
つながりがあることはうれしいことです。

 

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