香港で、「端午節」を過ごしながら。- 文化・風習を知り、体験し、自分の中に「具体的な世界」を描く。
香港では、今日(西暦2017年5月30日)は「端午節」で、いわゆる祝日にあたる。中国文化圏では「旧暦5月5日」が、「端午節」になる。...Read On.
香港では、今日(西暦2017年5月30日)
は「端午節」で、いわゆる祝日にあたる。
中国文化圏では「旧暦5月5日」が、
「端午節」になる。
端午節は、古代の詩人、屈原(Qu Yuan)
を偲ぶ日と言われる。
川に身を投じた屈原のことを知った人たち
が、
・「ちまき」を川に投げ入れることで、
屈原の遺体が魚に食べられてしまうことを
防ごうとしたこと、
・屈原の救出のために「舟」を出したこと、
から、
その風習が今でも形として残っている。
香港でも、端午節には、
・「ちまき」を食べること
・「ドラゴンボート」の競争が行われること
の風習が今でもある。
毎年、食品市場などで「ちまき」が見ら
れる時期が来ると、端午節の到来を感じる。
そして、ぼくは忘れかけている風習の由来
を思い出すのだ。
もちろん、このような風習は、
現代社会の中で、いろいろな力学に作用
されて、形骸化されやすい運命をたどる。
ただし、それは「形」だけであっても、
社会の中に「時のリズム」をつくり、
また、「共通のもの」を共有する装置と
なる。
文化の内部でそれら風習を守る人たちの
実践と、また(ぼくのような)「外部から
訪れる者」の興味とが、幸福な仕方で
スパークすることで、文化や風習が新しい
光を獲得していくこともある。
<横にいる他者>(真木悠介)との
「関係のゆたかさ」が、生のゆたかさの
内実をつくることの、ひとつの形でもある。
<横にいる他者>の視点が、
「あたりまえ」のこと/ものに、
新鮮な見方や楽しみ方を与えることがある。
(そのようなことを先日ブログで書いた。)
ぼくがかつて(そして今も)日本文化に
ついて聞かれるように、
ぼくも、他の文化のことを、その文化に
生きる人たちに聞く。
世界のいろいろなところで住みながら、
その場所の文化を尋ね、知り、体験し、
自分の世界を開いていく。
そのように、自分の「外部の世界」が
開かれるとともに、
自分の「内部の世界」が豊饒化されていく。
自分の中に「世界」が具体性をもって、
描かれていく。
教科書で読む「世界」ではなくて、
具体的に生きられる「世界」である。
そして、もしかしたら、<横にいる他者>
の世界も、少しばかりの光をきらめかせる
かもしれないと、思ってみたりする。
香港で迎える、11回目の端午節に、
ぼくは、そんなことを考える。
追伸:
端午節は「5月5日」で「5」が
並ぶ日です。
香港の街で、車道にカメラを向けて
シャッターを押したら、
アップロードした「写真」が撮れました。
バスとタクシーとトラム全部で、
「5台」です。
「交通機関の5種類」と見れば、
この写真には、
・バス(2階建てバス)
・ミニバス
・トラム
・タクシー
・自動車(後方に小さく見えます)
が写ってます。
香港の「移動」に使う交通機関が
一通り、ここにきれいに移りました。
シャッターを押して、写った写真を
見ながら、驚きました。
ニュージーランドで、ぼくがぼくから「消したかった」もの。- 「自分ではない誰か(自分)」を希求して。
大学の2年目を終えた1996年。ぼくは1年休学してニュージーランドで暮らすことにした。ワーキングホリデー制度を利用してニュージーランドに降り立った。...Read On.
大学の2年目を終えた1996年。
ぼくは1年休学してニュージーランド
で暮らすことにした。
ワーキングホリデー制度を利用して
ニュージーランドに降り立った。
大学では中国語を専攻していた。
中国に留学することも選択肢の
ひとつであったけれど、
英語圏で暮らしてみたかった。
高校生のときくらいから英語圏で
暮らす夢を抱いていた。
しかし、大学を選ぶときには、
将来仕事に役立つ「つぶしがきく」
言語を選んだ。
中国は国際社会で益々力をつけて
きていた時期であった。
ニュージーランドへは「英語圏で暮らす」という夢と共に、ぼくはいくつかの「目標」みたいなものをもっていった。
・英語を学ぶこと
・自分と将来のことを考えること
・悔いの残らない経験をすること
それから、ぼくは「異国で暮らす」
ことの中に、試みであり、望みである
ようなものをもっていた。
それは、ぼくの「学歴を消した生活」
であった。
東京で暮らしていると、
「学歴」がいろいろなところについて
まわる。
それは、ただ、ぼくがそう思っていた
だけかもしれないけれど、
ぼくは「学歴」で見られ、幾分か判断
されることが好きではなかった。
大学自体が嫌いであったということで
もなかった。
外国語の大学ということで、
日本だけでなく世界を見据えている
人たちが集まっている環境はよかった。
日本の大学については、海外に行くと、
知っている人たちはあまりいない。
ましてや、ぼくの大学は、日本でこそ
有名だけれど、
海外で知っている人はまずいない。
だから、異国の地で、学歴を消して、
ぼくは生きてみたかった。
しかし、学歴が気にされない・気に
ならない生活は、解放感があるのと
同時に、実際には「不安」のような
ものもついてまわった。
日本では学歴を消したかった自分で
あったが、自分のどこかでは、頼る
ところもあった。
そんな「依存」は、しかし、
異国の地であっけなく意味をなさなく
なってしまう。
ニュージーランドのいろいろな人たち
に出会い、いろいろと聞かれる。
その中に「どの大学」なんて質問は
もちろん、まったくなかった。
「あなたは普段何をしているのか?」
「これまでどんなことをしてきたのか?」
「家族は?」
「あなたは将来何をしたいのか?」
でも、ニュージーランドで会う人たち
に、「ぼくのこと」を聞かれると、
ぼくはあまり語ることを持ち合わせて
いない、という事実にぶちあたること
になる。
ぼくは「語る物語」を単純にもって
いなかった。
また、もっていたにしても、「物語」
として取り出す方法を知らなかった。
そして、語り方も知らなかった。
それから、徐々にだけれど、
「ニュージーランドで暮らすこと」は
「語る物語」をつくっていくことに
なっていったように、今のぼくは思う。
読んでいた本の中の、
ジョン・レノンの言葉が、
ニュージーランドのオークランドに
着いたばかりのぼくに突きささる。
ジョン・レノンはこう語る。
「自分の夢は自分でつくるしかない
んだ。僕は君をいやせやしないし、
君も僕をいやせない。」
それから、ニュージーランドで、
シェアハウスの一部屋を借りて
ニュージーランドの人たちと暮らし、
日本食レストランで働き、
そして、ぼくは、徒歩縦断の旅に出る。
スペインの聖地巡礼と同じくらいの
距離だろうか、700Km程をひたすら
歩いて、ぼくは断念する。
そして、ニュージーランドの山々を
登り、歩く。
その途中で出逢う人たちは、
誰も、ぼくに「学歴」なんて聞かな
かった。
ぼくは、オークランドでの生活の
ことを語り、徒歩縦断の旅を語った。
しかし、残るものもあった。
学歴は消えたけれども、
「日本人」ということが残った。
悪い意味合いではなくて、
出逢う人たちの「興味」につながる
事実であった。
そしてぼくは、「日本」をあまり
知らない自分に対峙せざるを得なく
なった。
もちろん、そんな「境界」がまった
くなくなるときも多々あったことは
付け加えておかなければならない。
それから、ぼくは西アフリカの
シエラレオネ、東ティモール、香港
と、生活の拠点を移動してきた。
香港では見た目はぼくが日本人だと
わかる人はほとんど会ったことが
ないけれど、それでも、いろいろな
意味で、「日本、日本人」という
ことが、ぼくの生活についてまわる。
そのことは、また別の機会に書きたい
と、ぼくは思う。
人は、時に、
「ここではないどこか」を希求し、
「自分ではない誰か」を希求すること
がある。
ここではない「どこか」へ行くことで、
望むようになることもあれば、
気がつけば「ここ」と変わらない
現実にもどってくることもある。
自分ではない「誰か」になろうとして
望むようになれることもあれば、
気がつけば「自分」という事実が
つきつける現実にもどってくることも
ある。
そんなことは無駄じゃないかと言う人
はいるかもしれない。
しかし、ある意味、それが生きると
いうことであり、
その過程の「越え方」によっては、
現実にもどったように見えて、実は
現実の「風景」が異なってみえること
もあると、ぼくは思う。
ソーラーパネルが届ける「光」。- 東ティモールでの「小さなランプ」の記憶。
香港で、海岸線を歩き/走りながら、道の片隅に、ソーラーパネルを見つける。海岸通りの公園に設置された装置の一部が、太陽熱により作動している。...Read On.
香港で、海岸線を歩き/走りながら、
道の片隅に、ソーラーパネルを見つ
ける(*写真)。
海岸通りの公園に設置された装置の
一部が、太陽熱により作動している。
ソーラーパネルは、
ぼくが、西アフリカのシエラレオネ
と東ティモールにいたときのことを
思い出させる。
どちらの国でも、
ぼくが住んでいた当時、
一部の地域しか電気が通っておらず、
また、電気が通っていても時間制限
がかけられていた。
だから事務所等には、電気発動機を
設置していた。
東ティモールのコーヒー生産者たち
が暮らす山間部は、当時、まだ電気
が完全には通っていなかった。
山間部の街の「中心エリア」には、
時間統制(電気がくる時間帯が決めら
れている)により、電気が通っていた。
しかし、街の中心を超えて、村々に
入っていくと、電気が通っていない。
夜は、灯油ランプなどで過ごすことに
なる。
ただし、電気にしろ、灯油ランプに
しろ、それなりのコストがかかる。
コーヒーの品質を上げていくことで
コーヒーをより高い価格で売って
世帯収入を増やすプロジェクトをして
いく中で、世帯支出を考えてしまう。
東ティモールの一人当たりGDPは
当時、400~500米ドル台であったか
と記憶している。
コーヒー生産者たちの収入も見ながら
一年間をやりくりする「困難さ」を
肌身で感じる。
そんな環境に暮らしながら、
太陽熱発電・ソーラーパネルの情報
には、常に、ぼくのアンテナが張られ
ていた。
そんな折、インターネットで、
太陽熱発電の「小さなランプ」を
発見する。
同僚と話しながら、ぼくたちは、
この「小さなランプ」を生活に取り
入れて試すことにした。
もともとの仕様は、玄関口に設置して
おくタイプのもの。
昼に太陽光を取り入れ、暗くなると
自然とランプがつく。
値段もそれほど高いものではない。
東ティモールの昼の照りつける太陽
の下に置いておき、夜はそれを使う。
いったん生活に取り入れてみると、
これほど便利なものはない。
東ティモールのスタッフたちの評判
も高かった。
その後、東ティモールの騒乱があり、
プロジェクトにかかりきりになり、
それからぼくは東ティモールを出る
ことになった。
あのランプが、どうなったかは、
定かではない。
しかし、このような場所での
太陽熱発電の可能性は、
決して小さくはなっていないと、
ぼくは思う。
香港で、インターネットで検索を
していたら、
やはり、「太陽熱発電の可能性」を
追求してきている人たちがいるのを
知った。
国レベルの大きなプロジェクトも
あれば、ぼくたちが追求していた
世帯レベルのプロジェクトもある。
様々な人たちが、様々な仕方で、
考え、知恵を合わせ、支援し、
そして確実に「誰かの世界」を
変えている。
香港の道端のソーラーパネルを
見ながら、ぼくはそんなことを思う。
世界は、必ずしも、争いと報復の
絶えない、場所というわけではない。
世界では、今日も、ある人(たち)
は他者を思い、考えを尽くし、知恵を
出し合ってアイデアをつくり、世界に、
「小さな明かり」を灯し続けている。
それは、太陽のように大きくはない
けれど、確かな「光」を届けている。
そして、ソーラーパワーが自然の力で
あることと同じに、
この「光」は、人間に本来埋め込まれ
ている「自然な力」である。
「雨」の風景。- 東京、ニュージーランド、シエラレオネ、東ティモール、そして香港。
香港はここのところ、雨の日が続いている。早朝に運動をする頃に、決まって、小雨が降りそそぐ。小雨が降ってはやみ、やんでは降る。...Read On.
香港はここのところ、雨の日が続いて
いる。
早朝に運動をする頃に、決まって、
小雨が降りそそぐ。
小雨が降ってはやみ、やんでは降る。
天気は「良い・悪い」で考えない、
ということを以前書いた。
(ブログ「「天気がいい/悪い」と
言わないように。 - 自分の中に「地球」
を描く。」)
晴れが良くて、雨が悪い、という考え
方には、自然から離陸した社会の
「前提」がすでにすりこまれている。
雨は、自然の、地球の恵みでもある。
なお、「好き・嫌い」は、個人の問題
である。
そんなことと、
ぼくが住んできた場所の「雨の風景」
が重なり、いくつかのことを書こうと
思う。
解剖学者の養老孟司は、著書『唯脳論』
の中で、「脳化=社会」について述べて
いる。
都会・都市は、人間の脳がつくりだした
「脳化=社会」であり、
人間が「コントロール」できる空間で
ある。
自然はコントロールできないものである。
雨も、コントロールできないものとして
都会・都市の外部からやってくる。
雨は、都会・都市では「やっかいなもの」
である。
他方、東京に住んでいたとき、
ぼくは、都会においても、「雨」を楽しむ
人たちがいることを、作家・沢木耕太郎の
エッセイで知った。
もう20年近く前のことである。
確か、傘を売っている人の話であったと
記憶している。
雨が降ると(雨の時期には)売り上げが
上がるということもあるけれど、
それ以上に、傘が彩る街並みに、心踊る
人を描いた作品であった。
(詳細はまったく覚えていない。)
大学2年を終え、休学して渡ったニュージー
ランド。
徒歩縦断の試みとトランピング(トレッキ
ング)の旅では、雨は、さすがに「恐怖」
としてあった。
都会ではなく自然の中だけれど、自然の中
だからこそ、歩く者にとっては、雨は厳しい
顔を見せる。
仕事の最初の赴任地、西アフリカのシエラ
レオネ。
アフリカと言うと、日本の人たちは雨のない
風景を思い浮かべてしまう偏見にとりつかれ
るが、
シエラレオネは雨期にはよく雨が降る熱帯
地域であった。
井戸掘削(プロジェクト)は雨期にはできず、
乾季の時期にスケジュールを組んだ。
雨期の移動は、車両がしばしば泥に足をとら
れ、移動を困難にさせる。
雨期に各村に調査に行っていたから、
車両が立ち往生する記憶が残っている。
また、雨は蚊を発生させ、生きていくには
厳しい環境でもある。
しかし雨のおかげで、例えば、アブラヤシが
よく育ち、パーム油が豊富にとれる。
東ティモールも、雨期はよく雨が降る。
コーヒー産地では、雨期の雨が大切だ。
とはいえ、コーヒー農園は、山をまたいで、
各地に広がっている。
強い雨が降ると、道がふさがれる。
四輪駆動の車両も、道のない道に、足をとら
れる。
他方、首都ディリは相対的に道は整備されて
いる。
しかし、雨が少ないと水が枯渇し、ディリの
水道の水が制限される。
雨が生に密着している空間である。
そして、香港。
高層ビルが立ち並ぶ、都会の「顔」をした
香港では、雨は「やっかい」である。
しかし、香港の高層ビル群は、互いに、
繋がっていることが多いから、雨を避けて
移動していくことが比較的容易である。
それでも、ぼくたちは雨を避けたくなる。
しかし、香港の小さな子供達は、雨を、
あっさりと「乗り越えて」しまう。
傘を売る人と同じように、
楽しげなレインコートと長靴を身にまとい、
色とりどりの傘を手にさしながら、
雨の降りそそぐ中に飛びだしていく。
雨に濡れても、気にせず、雨を楽しんでいる。
「子供」は「自然」なのだ。
(養老孟司も、子供は自然であること、
コントロールがきかないことをを述べている)
他方、自然の「顔」をした香港は、
海と緑をたたえている。
緑の木々たちに雨は静かに、そして時に強く
注ぐ。
そして、「雨の風景」は、ぼくの中で香港
を超えて、世界にひろがっていく。
雨を避けたくなる理性が働きながら、
ぼくの中に「美しい文章」のイメージが
ひろがる。
社会学者の真木悠介(見田宗介)が、
屋久島に住んでいた山尾三省に導かれて、
7000年を生きてきた「縄文杉」に会いに
行った文章である。
…一つだけ気にくわないのは、雨が降って
いる。熱く乾いた国々ばかりを好きなわた
しは、雨はきらいだ。けれど三省は、
縄文杉に会いに行くのは、こういう雨の日
がいちばんいいのだという。「こんなに
森が森らしい森に会いに行くのは、ぼくも
はじめてです」と、途々もいう。
晴れますよ。という宿の人の見送りの
言葉に反して、雨は終日降り止まなかった。
…雨は明るくて静かな雨で、ほんとうに雨
が降っているのか、ただ霧の中を歩いて
いるのか、雨でなく光がさんさんと降って
いるのか、歩いているうちに、わからなか
った。その不可思議の明るさの中で、また、
あの時が訪れた。雨と雨でないものとの境
がなくなり、光が光でないものとの境が
なくなり、生と生でないものとの境がなく
なり、明るい水の降りそそぐ森だけがあった。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
ぼくも、「森が森らしい森」に、これまでの
人生で、幾度か、直接に出会った。
それは、例えば、ニュージーランドの北部
で、90マイルビーチから内陸に入ったとこ
ろの「森」であった。
90マイルビーチを数日かけて歩いた後、
雨が降りはじめたところで、ぼくはようやく
海岸線から内陸に向かって歩む方向を変えた。
そこでは、霧雨のような雨と光が降りそそぐ
森が、静かに、ぼくを包んだのであった。
「今まで飲んでいた烏龍茶は、いったい何だったのだろう。」- 23年程前の上海の豫園で。
ぼくの初めての「海外」は上海。1994年、大学1年のときのことであった。横浜港から鑑真号にのって、3泊4日の旅路であった。...Read On.
ぼくの初めての「海外」は上海。
1994年、大学1年のときのことで
あった。
横浜港から鑑真号にのって、3泊4日の
旅路であった。
上海に着いて、「日本ではない物事」
に囲まれる経験は、不思議なもので
あった。
「周りの世界との距離感」のような
ものが、ひどく揺らいだ。
日本語のない環境は、そんな揺らぎの
振り幅をいっそう大きくした。
ぼくは「周りの世界との距離感」を
つかみ、揺らぎを鎮めていくように、
上海の街を歩いた。
夏のとても暑い日であった。
「豫園」という庭園にある小龍包の
有名店を訪れ、小龍包を楽しむ。
豫園を歩きながら、夏の暑さにさすが
にやられてしまう。
上海の街では、時折、冷房のかかった
場所を探して、そこに一時的に「避難」
して、暑さと折り合いをつけていた。
豫園では、お茶を飲むのことのできる
「茶館」が、どうやら冷房がかかって
いるようであった。
少し値段がはるので躊躇したが、
暑さにはかなわず、ぼくは茶館に入る
ことにした。
メニューの中から、ぼくは、烏龍茶を
選ぶ。
当時は茶の種類をよく知らなかった。
日本では烏龍茶を飲んだりするので、
安全策で、烏龍茶を選択した。
やがて、烏龍茶が運ばれてくる。
日本のペットボトルに入っているような
烏龍茶とはもちろん異なり、フォーマル
な形式である。
茶道具が一通り揃っている。
工程を終えて、小さなティーカップ
(茶杯)に烏龍茶を注ぐ。
そして、そっと、丁寧に口元に運ぶ。
豊かな香りを楽しみながら、ぼくは
烏龍茶を飲む。
「うん?」
ぼくは、烏龍茶との「距離感」に
大きな揺らぎを感じたのだ。
今まで日本で飲んでいた烏龍茶とは、
まったく異なる香りと味であったので
ある。
何度も口に運びながら、ぼくは思わず
にはいられなかった。
「今まで飲んでいた烏龍茶は、
いったい何だったのだろう。」
烏龍茶にはいろいろな種類があること
は後に知ることになるけれど、
当時感じたのは「種類」を超えるほど
に異なる飲み物だったのだ。
それから、ぼくは烏龍茶との「関係性」
を取り戻すのに、心身共に、ステップ
を踏んでいかなければならなかった。
それは決して大げさではなく。
でも、ひとつ言えることは、この経験
はとても大切であったことである。
例えば、「今までAである」と思って
信じてやまなかったものが、
「いや、Bである」という体験である。
Aというものの既成概念が、あっけなく
壊されていく。
後年、東ティモールのコーヒーを口に
したときも、ぼくは思わずにはいられ
なかった。
「今まで飲んでいたコーヒーは、
いったい何だったのだろう。」
東ティモール、エルメラ県レテフォホ。
コーヒーの木になる赤いチェリーを採り、
乾いたパーチメントに精製をしていく。
まったくの手作業である。
そのできあがったばかりの
パーチメントを脱穀し、そして手作業で
丁寧に煎る。
やがて、コーヒーの、あの香りがたちこ
めてくる。
煎ったコーヒーをグラインダーで粉にし、
ハンドドリップでコーヒーを淹れる。
そのコーヒーを、
そっと、丁寧に口に運び、口の中で味を
確かめる。
「今までのコーヒーは、何だったのか?」
ぼくの「世界」の一部が、確実に、
書き換えられていくときである。
この体験は、
コーヒーや烏龍茶などの飲み物に限らず、
ぼくたちが生きていくなかで、
時折、出くわすものである。
そうして、ぼくたちの「狭い観念」は、
広い海原に向かって、その一部が決壊
する。
ぼくは、23年程前の上海の豫園で、
ぼくに張られた「堤防」を決壊する
装置を、自らに装填したのだ。
旅の<初めの炎>を灯しながら。- 初めての「海外」、上海の記憶。
香港のビクトリア湾。いくつかのクルーズフェリーが定期的に行き来している。ビクトリア湾から大洋に出て、それからビクトリア湾に戻ってくる。そんな風景を、ぼくは、毎日眼にしながら、香港の日々を生きている。...Read On.
香港のビクトリア湾。
いくつかのクルーズフェリーが定期的
に行き来している。
ビクトリア湾から大洋に出て、
それからビクトリア湾に戻ってくる。
そんな風景を、ぼくは、毎日眼にしな
がら、香港の日々を生きている。
フェリーは、ぼくが初めて日本の国外
に出たときのことを思い出させる。
ぼくが、初めて海外に出たのは、
1994年の夏のことであった。
当時、ぼくは大学に入ったばかりで
あった。
地元を出て東京にある大学に通い、
中国語を専門に勉強していた。
だから、最初の海外として中国を目指し
たとしても、なんら不思議はない。
いろいろ考えた挙句、
ぼくは、横浜と上海を結ぶフェリー、
鑑真号に乗って、上海から中国に入る
ことにした。
当時はエアチケットはそれなりの
値段がしたし、LCCなどはもちろん
運航していなかった。
そして、何よりも、船旅(的なもの)
にあこがれた。
ぼくの「初めての海外」は、横浜港から
鑑真号にのって上海に入り、そこから
電車で西安に行き、西安から北京を
目指すルートとなった。
北京の故宮で、ある日のある時間に
大学の友人と待ち合わせをして、
会えたら、そこから一緒に天津へ、
そして天津からフェリー(燕京号)で
神戸港に向かうことを計画した。
横浜港では、すでに中国語が飛び交い、
日本と中国を行き来する家族たちが
別れの時を、惜しむようにして分かち
あっている。
やがて、横浜港から鑑真号は出港し、
大洋に出ていく。
心踊らせるぼくは、夕食時に、青島
ビールを飲んだことも影響して、
3泊4日の船旅が「船酔いの旅」と
なってしまった。
大洋は、台風が近づいていたことから、
波を荒くしていた。
その後はベッドに横になったまま、
ほとんど食事をとらず、やがて到着日
となった。
到着日には、ようやく、身体が戻り
はじめていた。
そんなぼくを、上海の入り口の黄浦江
が待っていた。
褐色で、広大に広がる黄浦江に、
ぼくは、深く、心を動かされた。
上海港に着いても、ぼくは船酔いのため
頭がぐるぐるまわっていた。
しかし、港のイミグレーションの風景、
そして、日本とは明らかに異なる匂い、
それらにぼくは、完全に、心を奪われて
いた。
上海港から歩いていけるホテルの
ドミトリーに、ぼくはその日は泊まる
ことにした。
世界各地から、旅人が、そこに集まって
いた。
なんらかのビジネスをしているような
人たちもいた。
それから、ぼくは、上海の街を、熱に
うかされるように、歩いた。
西洋式建築が並ぶ外灘を歩く。
豫園で、小龍包を食べ、烏龍茶を飲む。
蛇をはじめて、食べてみる。
デパートメントストアに入ってみる。
日本人とはわからない格好をしていた
つもりが、通りで、「社長さん、社長
さん!」と呼び止められる。
上海駅の広場に群をなす人たちに圧倒
される。
ぼくは、完全に、心を奪われていた。
それから、この旅が終わってからも、
毎年、ぼくは、海外を目指した。
その内、「旅に慣れる」という状況に
も直面した。
また香港に住みながら、今でこそ、
旅への憧憬は大きくはなくなっている。
それでも、ぼくの中には、
1994年に、上海に降り立った時の
記憶が、刻まれているのを感じる。
初めていく「海外」は、
どんな旅であれ、ぼくたちの中に、
「何か」を残してくれる。
社会学者の見田宗介が、
インド・古代バラモンの奥義書以来の、
エソテリカ(秘密の教え)という伝統に
触れている。
そのエソテリカの内のひとつが、
<初めの炎を保ちなさい>という教えで
ある。
(見田宗介『社会学入門』岩波新書)
ぼくは、上海に降り立ったときに
灯された<初めの炎>を灯している。
香港のビクトリア湾を行き来する
フェリーを眺めながら、
ぼくは、ぼくの心の中で静かに灯る
<初めの炎>を、そっと確かめる。
追伸:
今でも、中国と日本をむすぶフェリー
は運航していて、「新鑑真号」が
大阪・神戸と上海を行き来している
ようです。
なお、天津と神戸をむすぶ燕京号は、
2012年で運航を終了したとのこと。
世界で、「笑顔・笑い」を届ける。- 紛争地で。ビジネスで。世界で。
作家・起業家のJames Altucherは、彼のブログ記事、「笑いにいったい何が起こったのか?」の中で、「1日に笑う回数」の統計に触れている。...Read On.
作家・起業家のJames Altucherは、
彼のブログ記事、
「What Happened to All the
Laughter?」(「笑いにいったい
何が起こったのか?」)
の中で、「1日に笑う回数」の統計
に触れている。
その箇所を日本語訳すると、
こんな具合だ。
子供は1日に平均で300回笑う。
大人が笑う回数は、平均で…、
1日5回なんだ。
なんてことだ。
どのようにして、我々は、
300回から5回に行ったんだ?
いったい全体、我々に、
何が起こったと言うんだ?
だから、我々は1日の途中で、
パニックになりはじめたり
するんだ。…
James Altucher
Blog「What Happened to
All the Laughter?」
Jamesは、このブログ記事の
中で、この「どのようにして」
を列挙していく。
「遊び」がなくなったこと、
「ばか」になることを恐れる
こと、などなど。
この統計数値の出所は述べら
れていないけれど、
肝心なのは、数値の「正確さ」
ではない。
肝心なのは、
「笑うこと」は日々やはり
少ないこと、
である。
300回から5回というギャップ
を聞いたときに、驚きもある
が、他方で、納得する部分も
あるのだ。
心のどこかで、ぼくたちは、
やはり「知って」いるのだ。
笑うことが減ったことを。
というぼくはと言うと、
笑いや笑顔が得意ではない。
大人になってからというより
子供の頃から「まじめ」が
顔に出てしまうのである。
世界を旅し、世界に住むよう
になってからは、ある程度の
「緊張感」をもってきたこと
もある。
それでも、(というより、
だからこそ)ぼくは、
笑いや笑顔に努めてきた。
あるいは、笑いのでるような
場をつくってきた。
もちろん、友人や同僚など
から、たくさんの笑いと笑顔
をもらってきた。
西アフリカのシエラレオネ
の難民キャンプや村で、
大変な状況に置かれてきた
であろう見知らぬ人たちに
笑顔を届ける。
東ティモールのコーヒー生産
者たちとの会議前に、皆と
談笑する。
笑顔で、村をまわっていく。
これらのプロジェクトを率い
るスタッフに、冗談を投げか
ける。
ぼくのシンプルすぎる冗談だ
けれど笑いのきっかけになる。
香港における人事労務のコン
サルテーションでも、
大変な問題を議論するときも、
最後には笑顔が出るような
対話と施策をつくっていく。
世界で、笑いや笑顔を届ける。
紛争後のシエラレオネや
東ティモールで。
香港のビジネス環境で。
そして、世界を旅し、暮らし
ていく中で。
とは言っても、
ぼくはついつい、
真剣な顔になってしまう。
Ron Gutman(ロン・ガット
マン)は、著書『Smile』の
中で、こう述べている。
幼児が示してくれるのは、
笑うこと(smiling)は
生まれつきのもの(innate)
であり、状況的なもの
(circumstantial)ではない
ということです。
私たちは、周りのものに
たた反応して笑うのでは
ありません。…
Ron Gutman
『Smile』(TED)
笑うことは、
ぼくたちが、すでに、
生まれながらにして持って
いるものである。
そして、それは、
「ただ生きることの奇跡」
とでも言うほかのない、
ぼくたちの生の本質に、
その起原をもっている
ように、ぼくには感じられる。
追伸:
上記のRon Gutmanの著作は
彼のTEDでのトークを元に
しています。
下記はリンクです。
世界で、「水」との関係性をつくりなおす。- 「日本での当たり前」を乗り越えながら。
日本を出て海外を旅行するときに旅行ガイドなどを開くと、「水に注意すること」が、書かれているのを見つける。日本で当たり前の「水」は、世界では当たり前ではない。...Read On.
日本を出て海外を旅行するときに
旅行ガイドなどを開くと、
「水に注意すること」
が、書かれているのを見つける。
日本で当たり前の「水」は、
世界では当たり前ではない。
世界の各地では、次のように
「ない」状況に置かれている。
●「安全」ではない
●「水道」ではない
●「水」がない
ぼくも、世界を旅するようになって
から、また世界に住むようになって
から、このことを実際に体験して
きた。
1)「安全」ではない
ぼくは、大学時代にかけめぐった
アジアの国々で、
この水の経験の洗礼を受けた。
水道水はそのままでは飲めない。
だから、水を購入する。
厄介なのは、「氷」である。
アジアの屋台などで食事をするとき
飲み物に「氷」がついてくる。
昔は飲み物は「冷えていない」こと
が普通であったから、氷をグラスに
入れて、そこに飲み物が注がれる。
でも、氷は、水道水から作られて
いたりするから、結果として、
お腹をこわしたりする。
また、場所によっては、飲めない
だけでなく、口に入れることも危険
である。
だから、歯を磨くときも、
購入してきた水をつかったりした
ものだ。
2)「水道」ではない
「水道」は世界ではデフォルトでは
ない。
「水道」がないところがたくさん
ある。
東ティモールのコーヒープロジェクト
が展開されたエルメラ県レテフォホ。
コーヒー精製にも、生活にも水が
欠かせないコーヒー生産者たちは、
「竹」をつなげる形で、いわゆる水道
をつくっている。
竹を垂直に半分にわり、つなげる。
水が湧き出ている高台から竹を伝って
水が届く仕組みだ。
「蛇口をひねれば…」の日本ではない。
3)「水」がない
「水」がそもそも身近にない、と
いうこともある。
西アフリカのシエラレオネでは、
コノという地域に住んでいた。
ダイヤモンド産地で有名な場所で
それなりの「街」を形成していた
けれど、当時(2002年)には、
街に水道はなかった。
だから、井戸水をつかっていた。
また、当時はプロジェクトとして
井戸掘削の事業を展開していた。
水のない村で、掘削機で、井戸を
掘っていく事業である。
掘削機が水源にたどりつき、
ポンプをとりつけて無事に水が
汲み上げられる。
村の人たちの笑顔が、いっぱいに
ひろがる。
なんとも言葉にならない、よい
光景である。
ある時、ぼくは完成した井戸の
点検のためある村を訪れた。
村人たちと水が出るのを確認する。
たくさんの村人たちが集まって
いてくれた。
ぼくは、思いも寄らない光景に
一瞬動けなくなってしまった。
村の人たちが皆、地面にひれふす
形で、感謝を伝えてくれたのである。
ぼくは「そんなことしないでくださ
い」というジェスチャーをしたのだ
と思う。
「水の大切さ」と共に、ぼくの中に
深く刻印された光景である。
さらに、「水がない」地点から
「水への感謝」につながる瞬間は、
「宇宙の視点」である。
ぼくは、火星が舞台の映画を観る。
人が火星へ移住することの本を読む。
宇宙を旅する映画を観る。
これらの「宇宙の視点」がぼくたち
に投げかけるのは、「水の奇跡」で
ある。
ただ水が存在するということの
奇跡。
そんな風にして、ぼくは、水への
畏敬の念と感謝の気持ちをオンに
する。
世界に住むようになって、ぼくが
変わったのは、
水をよく飲むようになったことだ。
日本にいたときは、「飲み物=
ソフトドリンク、お茶など」で
あった。
それが、水が、ぼくのなかで完全に
デフォルトとなった。
上記のような「ない」状況を通過し
今のところ落ち着いているのは、
・購入した水を飲む
・常温(あるいは温めて)で飲む
である。
世界のいろいろなところの水を
楽しんでいる。
その土地その土地の水を必ず試す。
人のすごいところは、環境に慣れる
適応性である。
しかし、その反面、適応がゆえに、
「ない状況」を忘れてしまう。
だから、水を飲めること、
水を使えることに、感謝を忘れない
よう、ぼくは心がける。
記憶をたよりに、また今ここの水に
感謝を向けながら。
追伸:
水は購入したから「安全」という
わけでもありません。
そこにはいろいろな要素があります。
売っているペットボトルの水を
購入したら、
リサイクルのペットボトルに
中身をリフィルして売られている
なんてこともあります。
キャップの部分が、再度、接合され
ている跡で見つけたりします。
ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」。- 転回、コミットメント、物語の力。
「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」(とブライアン・ウィルソン)ということを書いた。そうしたら、それでは、ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」はどうなんだろうと、思ったのだ。...Read On.
「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」
(とブライアン・ウィルソン)という
ことを書いた。
そうしたら、それでは、ぼくにとって
の「シエラレオネと村上春樹」は
どうなんだろうと、思ったのだ。
ぼくにとっての、
まったく個人的な経験としての、
「シエラレオネと村上春樹」。
シエラレオネと村上春樹が、直截的
につながっているわけではないけれど、
ぼくを通じて、この二つは確かに
つながっている。
でも、直感的に、やはり「何か」が
あるように、ぼくには感じられる。
だから、書いておこうと思う。
ぼくが国際NGOの職員として
シエラレオネに行っていたのは
2002年から2003年にかけての
ことであった。
シエラレオネは2002年のはじめに
10年以上にわたった内戦が終結した
ばかりであった。
また、隣国リベリアでも内戦が続き、
リベリアからシエラレオネへは
難民が流入していた。
2002年、ぼくは東京で黄熱病の予防
接種を受け、上司と共に、ロンドンを
経由してシエラレオネの首都フリー
タウンに入った。
最初は短期出張であった。
難民キャンプの運営プロジェクトの
補佐である。
ぼくは、東京と同じ地球の、同じ
時代の、ただ飛行機で着いてしまう
場所で、まったく違った現実の中に
いた。
最初の短期出張は3か月ほど続いた
だろうか。
ぼくは、シエラレオネの短期出張
から日本にもどり、そのとき、
村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』
を読むことになる。
ぼくは、小説『海辺のカフカ』の
登場人物に、
また、そのときの村上春樹に、
「肯定性への転回」を読みとっていた。
『海辺のカフカ』では、
主人公の少年がヒッチハイクで四国
への旅を続ける場面がある。
その旅で、主人公は、あるトラックの
運転手に出会う。
朝食を食べる場面で、運転手の口から
「関係性」ということが語られる。
「関係性ということが実はとても
大切なことじゃないか」といった風に。
村上春樹の初期の作品が、社会からの
「デタッチメント」を色調としてきた
のに対し、ここでは「関係性」への
コミットメント的なことが物語として
語られている。
旅に出ていた主人公の少年は、
最後には「家に帰り、学校に戻ること」
を決める。
この物語の展開のなかには、
とても大切な「転回」がひそんでいる。
少年は、「非現実的世界」において、
この「転回」を生き、現実的な世界に
戻っていく。
どんな人も現実的な世界のなかで
暮らしているけれど、
生きることの様々な場面で、
非現実的な世界、非日常の世界に
接触し、新たな力を獲得して、
現実的な世界に戻ってくる。
『海辺のカフカ』の少年もそうだし、
『銀河鉄道の夜』のジョバンニもそう
であったし、
宮崎駿の作品に登場する主人公たちも
そうである。
村瀬学は、日本の戦後歌謡を追うなか
で、歌詞に「丘」(字義通りの「丘」
もあれば、象徴的な「丘」もある)
が多いことに気づく。
例えば、人は現実に疲れ果てたとき、
丘をのぼり、そこで生きる力を得て、
坂を駆け下り、現実の世界に戻って
いく。
(なお、『銀河鉄道の夜』のジョバン
ニも、その銀河鉄道の夢をみたのは、
丘の上であった。)
そんなことを、シエラレオネから
戻ってきた日本で、ぼくは村上春樹
の『海辺のカフカ』を読みながら
考えていた。
シエラレオネに仕事で行くことに
なったことは、そもそも、ぼくが
国際協力・国際支援の分野に
コミットすることを決めたことに
遡る。
ぼくにとっての「丘へのぼって、
生きる力を得て、駆け下りてくる」
という「転回」は、1996年に、
ワーキングホリデーでニュージー
ランドへ行ったことである。
それは、そのときには、まったく
わからなかったけれど。
ぼくのなかで「デタッチメント」
から、「コミットメント」へと
転回したときである。
今、思い返すと。
そのコミットメントの延長で、
ぼくは国際協力を専門として学び、
国際NGOに職を得て、
西アフリカのシエラレオネに
辿りついたわけだ。
そのタイミングで、
ぼくは村上春樹の『海辺のカフカ』
を読む。
内戦の傷跡が深く残るシエラレオネ
から戻ってきたなかで。
ぼくは、シエラレオネの日々に、
積極的に、自分のために文章を書く
ことがほとんどできなかった。
仕事に深く没頭していたことも
あったけれども、
現実に圧倒されて、自分のなかに
言葉がなかった。
そんななかでも、「物語を読む」
ということは、ぼくを癒すことで
もあった。
ぼくの内面では、「物語」が
ぼくを暗い次元に投げ込むことを
防いでいたのだと、今は思う。
当時はそんなことを考える余裕は
なかったけれど。
ぼくにとって、
シエラレオネと村上春樹は、
こんなふうにつながってきた。
あくまでも、ぼくにとっての
個人的な体験にすぎないけれど。
また、それは一見すると、
まったく関係がないものごとの
つながりである。
でも、実は、どこかで、何かで
つながっているように、ぼくは
感じている。
そして、
(広い意味での)「物語」は、
世界を変える力をもつと、
ぼくは思う。
それが、シエラレオネの現場で
あろうと、村上春樹の読者が
生きている世界であろうと。
だから、力強い「物語」を
つくっていかなければならない。
ほんとうの「リーダー」は、
そんな「物語」を語ることの
できる人たちである。
すぐには成果はないかもしれない
けれど、人に未来をみせる・感じ
させる「物語」を、である。
「未来」という言葉が、消え失せ
ていってしまうような世界で。
追伸:
シエラレオネにも持って行った
村上春樹の本は、
『もし僕らのことばがウィスキー
であったなら』(新潮文庫)
でした。
シエラレオネにロンドン経由で
行っていて、この紀行本の舞台で
あるスコットランドが近く感じら
れたこともあるかもしれません。
ただ、ひどく疲れた日に、
この本をひらいて、村上春樹の
言葉のリズムに身をまかせると、
気持ちが楽になったのです。
だから、
東ティモールに移っても、
この本はぼくと共にありました。
そして、
香港に移っても、
この本はぼくと共にあります。
世界で15年働いてきたことは、ぼくにとって「何であったのか」。- 多様性、出会い、自分のライフ・ミッション。
15年にわたり、世界で働いてきた。世界でいろいろな人たちと働いてきた。...Read On.
15年にわたり、世界で働いてきた。
世界でいろいろな人たちと働いてきた。
大学時代には、
ワーキングホリデー制度を活用して
訪れたニュージーランドの日本食
レストランで、働いた。
韓国人の方がオーナーで、従業員は
中国人・台湾人・日本人という
組み合わせであった。
それから、国際NGOの組織で、
西アフリカのシエラレオネに赴任。
難民キャンプの運営、井戸掘削など
のプロジェクトで、
シエラレオネの人たち、それから
隣国リベリアからの難民の人たちと、
働いた。
NGOのチーム、他のNGO、国連、
シエラレオネ政府、シエラレオネの
いろいろなコミュニティの人たち
など、日々かかわりながら、紛争後
のシエラレオネで、働いた。
シエラレオネから、東ティモールに
移り、今度はコーヒー生産者支援。
独立した東ティモールの輸出産業の
要であるコーヒー産業において、
コーヒー生産者の生活支援であった。
NGOチーム、他のNGO、JICA、
日本政府、東ティモール農業省、
国連、エルメラ県レテフォホの人たち
など、プロジェクトを軸に、いろいろ
な人たちと仕事をしてきた。
香港では、人事労務コンサルタントと
して、主に香港にある日系企業の方々
と、人・組織のマネジメントにおける
問題・課題に向き合ってきた。
香港に駐在員として来られる日本の方々、
管理職として勤務される香港の方々など
ほんとうに多くの方々と、仕事をさせて
いただいた。
働くという「場」だからこそ、いろいろ
な方々に出会うことができた。
通算で15年以上にわたり世界で働いて
きて、その経験たちが、
ぼくに「どのような影響を与えたのか」、
ぼくにとって「何であったのか」
について、ぼくはこんなことを考えている。
(1)働く・生きるの多様性
日本にいたときは、ぼくの視界・視野
は、ひどく狭いものであった。
「レールにのるか、レールから外れる
か」くらいにしか、ぼくは見ることが
できないでいた。
世界に出てみて、働く、そしてそれを
貫いていく「生きる」という経験に
おいて、その多様性に圧倒された。
出会う人それぞれに、生きてきた人生
があり、それぞれの場で人生が交錯し
て一緒に仕事をする。
人の生きる「道」は、人がいるだけ
あるのだと、実感として、ぼくは
思えるようになった。
出会う人たちとは、一部の仕事だけの
関係であることもあるけれど、
仕事という枠組みは往々にして曖昧に
なり、人と人との関係、つまり生きる
という経験に押し出されてきた。
「働き方」も、ぼくが習ってきたこと
や思っていたことが、実際の経験の中
で、書き換えを余儀なくされた。
(2)出会いにつくられる「自分」
働く・生きるの多様性は、「人との
出会い」によって、ぼくに提示されて
きた。
出会った人たちに、少なからず、影響
を受けてきた。
出会った人たちが、やがて、ぼく自身
の内面に住みついていく。
「良心は両親の声」と言われるように、
また、
「自我はひとつの関係である」と
社会学者の見田宗介が言うように、
「自分」とは、他者との関係性でつく
られるものでもある。
そのようにして、ぼくの「自分」とい
う経験は、出会う人たちの影響を受け、
豊饒な空間をぼく自身の内部につくっ
てきた。
そのようにして、出会い、仕事を一緒
にしてきた人たちが、ぼくの中に、
生きている。
(3)ぼくの「ライフ・ミッション」
働く・生きるの多様性に圧倒され、
また、人との出会いにより「自分」を
つくりながらも、
やがて、ぼくは自分の軸のようなもの
を形づくってきた。
絞り出されてきたとも言える。
そのように絞り出されてきたのが
今のぼくという人間であり、また
ぼくの「ライフ・ミッション」である。
子供も大人も、どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、
そして感動的に生ききることの
できる世界(関係性)を
クリエイティブにつくっていくこと。
数年前に、この今の「ライフ・ミッ
ション」に結実してきた。
このプロセスの中で、
働くことと生きることが、
ひとつになってきたように、思う。
ぼくはこんな風景を思い出す。
シエラレオネのある地区の
簡易な空港の滑走路で、
ぼくはシエラレオネのスタッフと
人のマネジメントの難しさを語って
いた。
いろいろと難しい問題にぶつかって
いたのだ。
「最後は、やはり人なんですよね。
人間学です。」
ぼくは、滑走路から飛びたつ国連機
を遠い目で眺めながら、
英語で、そんな言葉を彼に投げかけ
たことを、今でも覚えている。
そして、今でも、
ぼくは「人」を追い求めている。
「人と人との関係性」(社会、組織、
交響圏など)を追い求めている。
どんな人たちも、
目を輝かせて、生をカラフルに、
そして感動的に生ききる世界を
つくっていくために。
香港で、朝日が差しこむ海岸通りの「人の交差点」にて思うこと。- 香港の早朝の風景。
早朝のすきとおるような空気があたりを包み、朝日が静かに差しこんでくる。ここのところ、運動する時間を早朝に変えている。朝日が差しこんでくる海岸通りを歩き、そして走る。...Read On.
早朝のすきとおるような空気があたり
を包み、朝日が静かに差しこんでくる。
ここのところ、運動する時間を早朝に
変えている。
朝日が差しこんでくる海岸通りを歩き、
そして走る。
通りには、すでにいろいろな人たちが
くりだしている。
汗をいっぱいにかいて走っている人たち。
音楽やラジオを鳴らしながら行き来する
人たち。
太極拳(Tai chi)で身体を動かす人たち。
ロードバイクで滑走する人たち。
運動を始めたばかりという姿の人たち。
通りは朝日が差しこむ「人の交差点」だ。
いろいろな人たちが、交差していく。
そんな早朝の風景に惹かれながら、
人がすれちがう波風の中で、ぼくは
次のようなことに思いをめぐらしている。
(1)交差点ですれちがう人たち
すれちがう人たちは、毎朝、同じ人たち
であったりする。
お互いに知り合いでもなんでもないけれ
ど(時に朝の挨拶をすることはある)、
そこには「何か」が共有されているよう
なところがある。
それはそれで、すばらしいことである。
共有される「何か」は、いろいろなもの
であろう。
例えば、「何かに向かう肯定性」のよう
なものであったりする。
ある調査では、香港人は、平均よりも
多く身体的活動をしているという。
ぼくの「実感値」としても、ここ10年程
の間に、「走る人」はだいぶ増えたよう
に思う。
「人の交差点」で、ぼくたちは、
いろいろな人たちとすれちがっている。
それぞれに、いろいろな人生を歩き、
走りながら。
(2)朝のすきとおる空気
午後に走ることは、それまでの頭脳的な
疲れを癒し、散らばった情報やアイデア
を吟味・再編成・再構築していくような
ところがあった。
朝は、すっきりした頭脳の状態である。
考え事がなくはないけれど、比較的、
すっきりとして何も入っていない「器」
から、ポジティブな何かが湧き上がる
ようなところがある。
朝のすきとおる空気が全身を包み、
心身を浄化するような作用を感じる
ことができる。
それは、午後の空気には、感じられない
ものである。
(3)心の余裕
運動の時間を朝に変えてみて、「余裕」
ができた。
活動時間はそんなに変わるわけでは
ないけれど、心の余裕がでるようだ。
「時間のマジック」も作用する。
朝に活動することで、同じ時間でも、
その日がより長く感じられる。
時間の感じ方は、主観的なものである。
「時間に追われる」のではなく、
「時間を追っていく」感覚をもつこと
がしやすくなる。
以前、香港マラソンに参加するための
トレーニングとして早朝に運動をして
いたときのことを思い出す。
「朝の効用」は、多くの人たちが
語ってきたところである。
ここ、香港でも、朝の効用は大きいと
ぼくは思う。
香港社会の「(物事が進む)スピード
の速さ」は、心地よいこともあるけれ
ど、それなりのストレスを生んでいく。
「速さ」は、人と自然、人と人との
関係をも規定していく。
朝の時間は、幾分か、それらを相対化
してくれる。
しかし、朝は「効用」(何かのため)
という思考にとどまるものではない。
効用にけっして還元できないような、
それ自体が祝福であるような風景が
香港の朝にはひろがっている。
香港で、「街の空間」を考える。- 「街の路地裏」に身を投じて。
香港に住むようになって、10年が経過した。住み始めた当初は「街の空間」の印象は、次のようなものであった。...Read On.
香港に住むようになって、10年が
経過した。
住み始めた当初は「街の空間」の
印象は、次のようなものであった。
・高層ビルが多いこと
・密集していること
・雑多な空間であること
「高層ビル」は、オフィス用だけ
でなく、人々の住まいであるマン
ションも高層ビルが一面に続いて
いる。
香港は、東京都の半分ほどの面積
に、700万人以上が暮らしている。
まだ、今も、人口は増えていると
いう。
だから、「空間」は貴重である。
ビルは、横ではなく、上に向かっ
て伸びていく。
ぼくは、そんな空間に、暮らして
きた。
香港はアジア各地への「ハブ」的
な位置にあり、旅をする拠点とし
ては絶好の場所である。
2011年か2012年頃に、ぼくは、
初めて台湾に行った。
香港から1時間40分ほどのフライ
ト時間である。
空港から台北の街の中心に向かう
バスから、窓の外を眺めていた
ぼくは、「ひっかかり」を感じて
いた。
空が広いこと、街の空間が日本に
似ていたことも印象的ではあった
けれど、それだけではなかった。
「あっ」
と、ぼくは気づいた。
気づいたのは、
一軒家が多いことに。
高層ビルが香港に比べ少ないこと
を感じながら、その裏返しとして
「一軒家」が多いことに気づいた
のだ。
それは、ほっとする感覚をぼくに
与えたことを、今でも、覚えて
いる。
そんな「視点」をもちかえり、
ぼくは香港の街の空間をみてきた。
香港も、中心部を離れ、緑の木々
たちがいっぱいに広がる空間に
立ち入ると、風景が一変してくる。
高層ビルだけでなく、
「村」の風景が眼にはいってくる。
村にはコミュニティがある。
そして、そこには、昔ながらの
一軒家が連なっている。
そんな「街の路地裏」の迷宮に
はいる。
数十年前の風景が残っている。
店舗のつくりも、そこにかかる
看板も、そんな名残をいっぱい
に放っている。
そんな「街の路地裏」に身を投じ
ながら、ぼくは考える。
「街の空間」は、そこに住む人々
の心身の持ちように、大きく影響
を与えるだろうことを。
また、人と人との「関係性」に
影響するだろうことを。
香港は、今も各地で、高層ビルの
建設が盛んに行われている。
新しいマンションの敷地の中には
一軒家とマンション棟が兼在して
いたりするのを見る。
そんな風景を眼の前にしながら
香港の社会はどこに向かうのだろう
かと、勝手に思いをめぐらしている。
「じぶんの考え方でつくられた家」を「引越し」する。- シエラレオネでかかったマラリアに教えられて。
ここ数日、西アフリカ・シエラレオネの「記憶の井戸」に降りていったら、シャワーのこと、運動会のことの記憶が、井戸の底からわいてきた。...Read On.
ここ数日、西アフリカ・シエラレオネ
の「記憶の井戸」に降りていったら、
・シャワーのこと
・運動会のこと
の記憶が、井戸の底からわいてきた。
そして、シエラレオネは、ちゅうど、
独立記念日を迎えたところであった。
「記憶」というものは、
一度溢れ出すと、いろいろな記憶が
一緒になって溢れてくる。
ぼくは、シエラレオネで、人生で初めて
「マラリア」にかかったことを思い出す。
すでに15年以上前のことになる。
「蚊」を媒介としてかかる感染症として
は、主に、マラリア、デング熱、黄熱、
それから最近話題となったジカ熱などが
ある。
シエラレオネに入国するには、事前に、
黄熱病の予防接種が必須である。
だから、黄熱には予防接種で対応して
いた。
他方マラリアには、当時ワクチンが
なかった。
先日、イギリスの製薬会社が開発した
ワクチンを、アフリカ3カ国で試験運用
していくことがニュースになっていた。
ぼくがシエラレオネにいた当時は、
ワクチンはなかった。
予防としては投薬もあるが、副作用が
重すぎるため、通常の蚊対策(スプレー
や蚊よけコイルなど)で予防する。
寝るときは、必ず、蚊帳(かや)を使う。
マラリアは、突如、やってきた。
当時、大きな仕事をかかえ、それなりの
期間、仕事にかかりきりになった。
ようやく、その仕事を終えることができ
仕事完了祝いをかねて、夕食を外でとって
いた。
夕食がすすみ、談笑もつづいていた。
ぼくも、解放感と共に、夕食を楽しんで
いたところだった。
そのときのことであった。
ぼくは、座っていた椅子から転げ落ちる
ような形で、起き上がれなくなったのだ。
何が起きたのかわからず、
しかし、立ち上がれず、また歩けない。
歩けなくなる経験はそれまでにほとんど
したことがなかった。
それからのことは実はあまり記憶にない。
レストランから事務所兼住まいへ戻る際
も、車内では横になり、住まいに戻って
も、高熱にうなされていたことは覚えて
いる。
知り合いの医師に診てもらったのだと、
おぼろげながら、覚えている。
マラリア診断キットで確認もしたのだと
思う。
マラリアは治療薬は充実していること
から、治療薬をとった。
治療薬による副作用で、ひどい夢に
うなされたことも覚えている。
数日間(それでも途中仕事をしながら)
ぼくは違う世界をさまよっているよう
な感覚にあった。
回復後、蚊対策を強化し、自分自身の
免疫力を高めることに注力した。
シエラレオネで会った「国境なき医師
団」の知り合いからは、予防策の一つ
として、ニンニクを直接皮膚に塗りつ
ける方法を習ったりもした。
ぼくは、その後も、マラリアには
悩まされる。
しかし、最初にかかったマラリアほど
の「重さ」はなくなった。
そして東ティモールに移ってからも、
マラリアにかかることが幾度となく
あった。
それでも、東ティモールのマラリアに
比較し、ぼくの感覚では、アフリカの
マラリアの方が「強力」であるように
感じた。
シエラレオネと東ティモールでの経験
から学んだことは、
「予防」の大切さということである。
環境整備による予防もそうだし、
自分自身の体調管理などによる
自己免疫力強化はとても大切である。
しかし「自分自身のこと」となると、
後回しになりがちだ。
他者をまずはケアしよう、
自分はなんとかなるだろう、
といった考え方などに規定され、
自分自身を酷使してしまう。
でも、後回しによる苦い経験の数々が
後回しにしてしまうような考え方と
感覚で固められた、ぼくの「自我の殻」
を、少しずつだけれど、破ってきた。
ぼくは未だにこの「殻」を完全には
破りきれずにいるけれど、
でも確実に、違う殻に「引越し」を
している。
「じぶんの考え方でつくられた家」を
「引越し」すること。
「じぶん」とは、「ひとつの家」のよう
に、その内にたくさんのもの・ことを
内包する、ひとつの「システム=複合体」
である。
「じぶん」という結節点を基点に、
いろいろなもの・ことが、システム的に
つながっている。
一部だけでなく、システムを変えること
は、なかなかに、骨の折れることだ。
何はともあれ、「引越し先」は、
「まず何よりも自分自身のコンディシ
ョンを最善に整えること」
という考え方と、その行動である。
この点においては自分を優先する。
自分を何よりも先におく。
でもそうすることで、他者にもより
よく貢献できる自分を準備することが
できる。
この「引越し」のために、
ぼくは、いろいろなものを捨て、
いろいろなものを変えてきたと思う。
実際の「外的な世界」でも、そして
ぼくの「内的な世界」でも。
ぼくは、この家の「引越し」を、
何年にもかけて実行している。
それは「時間を要する引越し」だ。
一部を引越しすると、その下のレイヤ
ーから、また片付けなければいけない
ものが出てくる。
だから、海をゆったり渡る船便のよう
に、焦らずに、引越しをしている。
村上春樹の小説(『騎士団長殺し』)
の主人公のように、
「時間を味方」につけながら。
追伸:
「マラリアの記憶」がわいてきて、
マラリアをGoogleで検索をかけたら、
「世界マラリアデー」が出てきました。
「世界マラリアデー」というのがあって
先日の「4月25日」のことでした。
これも、偶然ですね。
世界では、今も年間2億人以上が
マラリアにかかり、40万人以上の
人たち(特に子供たち)が亡くなって
います。
西アフリカのシエラレオネで参加した「運動会」の記憶。- 鮮烈に残る「光景」に導かれて。
昨日「4月27日」は、西アフリカのシエラレオネの「独立記念日」であった。シエラレオネは、1961年、イギリスから独立した。...Read On.
昨日「4月27日」は、西アフリカの
シエラレオネの「独立記念日」であった。
シエラレオネは、1961年、イギリスから
独立した。
この日を特別に記憶していたわけではない
けれど、シエラレオネの友人のメッセージ
で、気づいた。
友人は、お祝いムードとは逆に、今の
シエラレオネの社会問題に、真摯に目を
向けていた。
シエラレオネは、以前の長い紛争の影響で
今でも「世界で最も平均寿命が短い国」で
ある。
世界保健機関(WHO)の最新データでは、
シエラレオネの平均寿命はようやく50歳代
にのり、「50.1」である。
ここ香港は、「世界で最も平均寿命が長い」
ところである。
この落差に、ぼくは「感覚」がくずれて
しまう。
さて、その香港で、この特別な日を意識
していたわけではないけれど、昨日は、
シエラレオネからの「トランジット」で
ロンドンにいたときのことを書いた。
なぜか、その記憶と一緒に、シエラレオネ
の「運動会」の記憶が、わきあがってきた
のだ。
何故かはまったくわからないけれど、
つながりのひとつを挙げるとすれば、
シエラレオネのコノ地区の中心「コノ」の
町の記憶である。
でも、それはつながりの「粒」が大きい。
ともあれ、2002年から2003年にかけて
コノに滞在していた折、
ぼくたちのNGO組織のコノ事務所スタッフ
で、運動会に参戦したことがある。
そもそも、コミュニティ活動の一環であっ
たと思う。
ある日、運動会のオーガナイザーの方々が
事務所にやってきて、運動会をやるので
寄付をしてほしい、という依頼を受けた。
いろいろと考慮した挙句(立場上いろいろ
と考慮する必要がある)、ぼくたちは
運動会の運営費を補助することにした。
そして、ぼくたちの組織も、チームとして
運動会に参加することになった。
西アフリカのシエレラオネ、そのコノ地区
で行われた「運動会」。
そんな経験は、誰もができるわけではない。
運動会といっても、場所は「原っぱ」の
ようなところ。
でも、子供から大人まで、人々の熱気と
エネルギーと笑顔が、運動会にふさわしい
「場」をつくっていた。
ぼく自身は、競技には参戦しなかったけれ
ど、会場に赴き、スタッフたちを応援した。
最後はどうなったかは覚えていない。
昨日から、わきあがってくるイメージは、
「入場行進」である。
コミュニティーの小さな運動会でも、
入場行進があった。
各チームは、それぞれに「チーム・カラー」
が決められた。
ぼくたちは「白色」であった。
各チームが、順番に行進をする。
オリンピックのようなイメージだ。
しかし、オリンピックや、日本の学校の
行進とは、根本的に異なる様子が、
鮮烈なイメージとして、ぼくの記憶に刻ま
れたのだ。
それは、「踊り」である。
子供も大人も、踊りながら、行進をして
いくのである。
アフリカは、踊りが文化に溶け込んでいる。
しかし、ぼくは、行進までもが、踊りの場
になるとは、思ってもいなかった。
そして、踊りは、超一級である。
子供たちも、ここぞと、自分たちの踊りを
見せていく。
この光景は、圧巻であった。
ぼくは、と言うと、踊りは全然ダメだから、
笑顔で、みんなの輪の中にいた。
祝祭としての、運動会であった。
紛争が終結して間もないシエラレオネで
体験した、この光景と祝祭は、
ぼくの中に「希望の光」として残っている。
「光」の景色である。
紛争後の様々な困難もある。
世界で最も寿命が短い。
エボラがシエラレオネを襲ったときもある。
社会問題も、数え上げたらきりがない。
ぼくは、それらが感覚として、自分の内奥に
残っている。
でも、ぼくの中に残っている、
この「希望の光」も、尽きることなく、
燃え続けている。
メッセージを放ったシエラレオネの友人は
自身として「行動すること」を表明して、
文章を終えていた。
ぼくも、どのように、この「希望の光」を
行動へと移し変えていくかを、考えている。
具体的な一歩の前に、
友人にメッセージをうっておこう。
それらの問題・課題へは、どんな形であれ、
ぼくもサポートすることを。
サポートが、どんなに小さくても。
追伸:
シエラレオネにいたときから15年が
経過しても、シエラレオネの人たちと
つながりがあることはうれしいことです。
ロンドンでの「温かいシャワー」が、ぼくの身心に刻んだ深い記憶。- シエラレオネからの「トランジット」で。
香港はここ数日、時折、雨の恵みが、降りそそぐ。本格的な「雨」ではなく「にわか雨」である。雨の粒に抱きかかえられるようにして小さな花びらが道端に咲き散り、黄色の絨毯を織りなしている。...Read On.
香港はここ数日、時折、雨の恵みが、
降りそそぐ。
本格的な「雨」ではなく「にわか雨」
である。
雨の粒に抱きかかえられるようにして
小さな花びらが道端に咲き散り、
黄色の絨毯を織りなしている。
「にわか雨」の英語表現の「shower」
を頭に浮かべながら、自宅のバスルーム
で温かい「シャワー」を浴びていたら、
ロンドンで浴びた「温かいシャワー」の
ことを思い出した。
それは、確か2003年のことであった。
当時、西アフリカのシエラレオネで
ぼくは仕事をしていた。
紛争に翻弄されている/翻弄されてきた
難民・避難民の支援である。
シエラレオネでは、コノというところで
オペレーションを展開し、住んでいた。
当時は、電気も水道もなく、
事務所兼住まいは、ジェネレーターによる
発電と敷地内の井戸(および水タンク)
により、まかなわれていた。
お風呂はもちろんのこと、温かいシャワー
もなく、水シャワーで過ごしていた。
昼間の太陽が、水タンクを温め、夕方に
生ぬるい水を楽しむこともあったが、
基本的に、水シャワーであった。
人間のもっとも大きな「力」のひとつで
ある「適応性」は、水シャワーでも発揮
された。
ぼくは、程なくして、水シャワーに慣れて
しまった。
とはいえ、やはり、冷たく感じる時は、
しばしばあったものだ。
それでも、「水がある」ということだけ
でも感謝することであった。
シエラレオネのコノでは、井戸掘削の
プロジェクトを展開しており、
水があることの大切さは、重々感じて
いたからである。
あるとき、一時帰国のため、シエラレオネ
を離れ、ロンドンを経由して、東京に戻る
ことになった。
そのときは、トランジットのロンドンで
一泊することになった。
ロンドンの、どこにでもあるような宿に
到着し、荷物を部屋の片隅におちつかせる。
紛争地での緊張による高揚感が残りながら
も、どっと疲れが出たぼくは、すぐにシャ
ワーを浴びることにした。
バスタブではなく、シャワーを浴びるだけ
の狭い「シャワー室」であったけれど、
蛇口をひねり温度を調整されて注がれる
「温かいシャワー」に、ぼくは心身ともに
深く、打たれた。
この経験は、ぼくの内奥にしまわれた。
温かいシャワーを浴びるという「当たり前
のこと」を、当たり前ではないこととして、
感覚できる人になりたいと、
ぼくは、そのときに思った。
「トランジット」とは、
「当たり前」と「当たり前ではないもの」
の境界を見せ、それらをつなぐ<間>の
ことでもある。
それまでにも、アジア各地への一人旅で、
水シャワーしかない経験はいっぱいして
いたけれど、
この経験は、さらに、ぼくを深いところで
とらえてやまなかった。
同じような経験を、シエラレオネの次に
赴任することになった東ティモールでも、
幾度となく、することになった。
東ティモールでの日常も、水シャワーで
あった。
時に地方に泊まる時は、シャワーもなく、
ドラム缶にためられた水を、桶ですくって
大切に、使ったものだ。
東ティモールから日本に帰国するときは
当時、インドネシアのバリを経由した。
バリで温かいシャワーの感動を得ることも
あったし、トランジットで一泊もせずに
東京に戻ってその感動を堪能したものだ。
しかし、その後、香港に住むようになると
温かいシャワーは「普通」になってしまう。
人間の適応性は、逆も然りである。
有り難みと感謝の気持ちが、遠のいてしまう。
でも、ふとした折に、
身心の内奥に刻まれた「記憶」が
身心の表層に浮かんでくる。
今日も、シャワーを浴びながら、
「ロンドンでの温かいシャワーの記憶」が
意識にのぼってきた。
最近ぼくは、この浮かんできた「記憶」を
大切にすくう。
あるいは、マインドフルネス的に、
目の前にあるものへの「感謝」を心の中で
繰り返すことで、この大切なものを、
大切に、心に保管している。
ぼくは、「人生のトランジット」で
こんなことを考え、感じている。
「当たり前のもの」を、
「当たり前のものではないもの」として
視て感覚することへと、
じぶんを解き放っていく。
追伸:
日本国外・海外に出て15年程になりますが
いわゆる「お風呂」につかることは
ほとんどありません。
香港の自宅で数回試してみた程度です。
すっかり、シャワーの生活です。
「お風呂に入る」ということも、
決して「当たり前」ではないのですね。
日本にいると、普通のことですが。
「知識」から「憧憬と経験」へ。- ぼくが、英語を身につけてきた道から。
日本国外に15年も住んでいると、(場所によるかもしれないけれど、ぼくにとって)英語は普通に身についている。...Read On.
日本国外に15年も住んでいると、
(場所によるかもしれないけれど、
ぼくにとって)英語は普通に身について
いる。
もちろん、レベルとしてはまだまだで
ある。
言語というのは、
当たり前と言えば当たり前だけれど、
できない人から見ると、少しでも話せる
人は話せるように見える。
また、そんな少しでも話せる人は、
すごく話せる人から見れば、まだまだ
話せていない。
その意味で、まだまだである。
英語は「知識」で話そうとすると、
どこかで無理がくる。
文法や単語や語彙といった「知識」だけ
では、どこかで壁にぶつかってしまう。
それはそれで大切ではあるけれど。
英語をまさしく「英語」とするのは、
知識だけでなく、コミュニケーションへ
の「思い(憧憬)」と「経験」である。
「知識」に、「思いと経験」が掛け算
される形で「知恵」になっていく。
つまり、身についていく。
多くの人が「学ぶこと=知識を得ること」
で、止まってしまう。
香港でも、よく見てきた光景だ。
「学ぶこと」が「知識を得ること」に
狭められてしまう。
「知識」x「思い・憧憬」x「経験」
=「知恵」
ひとつずつ説明を加えておきたい。
(1)「思い・憧憬」
「コミュニケーションをとりたい」と
いう思い・憧憬(たとえ、それが直接的
な会話であろうと、書籍などであろうと)
大切である。
言葉に、気持ちがこもり「言葉」になる。
あの時、話せなかった悔しい思い出など
が、強い思いに変わる。
ぼくはそのような悔恨を、アジアへの旅
で、ニュージーランドで、強く感じてきた。
20年以上前、香港でようやく見つけた宿
の方に、どれだけ御礼を伝えたかったか。
など。
また、悔恨だけでなく、好奇心や知りたい
気持ちなども、憧憬をひらく。
ぼくは、好きな洋楽を英語で理解したか
ったし、洋書も、「ぼくの世界」を開く
入り口であった。
なんでもいい。
自分のほんとうにしたいことや学びたい
ことは、英語やその他言語によって、
ひとまわりも、ふたまわりも大きな世界
を、ぼくたちに開いてみせてくれる。
(2)「経験」
そして、「経験」である。
学校の授業なども、学び方によっては
経験とすることもできる。
けれども、やはり「生きた・活きた英語」
に触れること。
アジア英語もあれば、アフリカ英語、
ヨーロッバ英語もある。
アジア英語も各地の英語でくせがある。
アフリカも、ヨーロッパも同じだ。
「生きた・活きた英語」にふれてきて、
ぼくは自分の学びの姿勢が恥ずかしく
なったものだ。
ぼくは、何にこだわってきたのだろうと。
「経験」の中には、
「失敗と成功」の体験がある。
なんど失敗したことか。
でも伝わることもある。
「経験」の中には、
「レビュー」がある。
「失敗と成功」を振り返って、
レビューして学ぶ。
(3)「知恵」
「知識」x「思い・憧憬」x「経験」
として、
「知恵」となっていく。
「知識」は学びつづけて当然のもの
として、でもそれは「知識」でしかない。
そして、これらは、
ほんとうの「コミュニケーション力」
と一緒になって、ほんとうの「言葉」と
なる。
ここで言う、ほんとうの「知恵」は、
言語力とコミュニケーション力が
一緒になったものだ。
このような道を通って、ぼくは今ここ
にいる。
だから、「知識への偏向」から
飛び出よう。
思いと経験が、知識を要請するときが
後から、きっとくるから。
「KonMari」へのインタビュー(Tim Ferriss)から学ぶ。- 「KonMari Method」の本質について。
Podcast「The Tim Ferriss Show」のゲストは、KonMari。そう、著書『人生がときめく片づけの魔法』が、すでに世界40ヶ国語に翻訳されている、近藤麻理恵。...Read On.
Podcast「The Tim Ferriss Show」の
ゲストは、KonMari。
そう、
著書『人生がときめく片づけの魔法』が、
すでに世界40ヶ国語に翻訳されている、
近藤麻理恵。
彼女の「片づけの方法」は、
「KonMari Method」として世界に広がり
をみせている。
ぼくも、彼女の著書は数年前に読み、
「片づけの方法」を学んで、試してきた。
著書が世界で大ベストセラーになっている
ことは知っていたけれど、
アメリカを中心に、英語圏でのビジネスの
展開の拡がりに、ぼくは感銘を受けた。
その近藤麻理恵が、Tim Ferriss Showの
ゲストとして、呼ばれた。
久しぶりに「KonMari Method」のコア
コンセプトに触れ、また学ばせていただいた。
(1)「シンプルさ x 肯定」
彼女の「方法」は決して目新しいもので
はないけれど、彼女の方法とメッセージは
なぜか、人の心に届くものである。
ひとつには、方法の「シンプルさ」がある。
「Spark Joy」と英訳される「ときめき」
を感じるものを、残す。
ふたつめに、方法に「重さ」を感じない。
つまり、負荷的ではなく、「Joy」へと
みちびくコンセプトと実践である。
この二つが、「シンプルさ x 肯定」と
して掛け算され、伝わる力をもつ。
伝わる力は、「人を動かす力」をあわせ
持つ力だ。
(2)「KonMari」だから。
それから、やはり「KonMari」だから、
ということ。
そのことの意味合いは、3つある。
- 「KonMari」という人
- コンサルタントとしての能力
- 経験の深さから立ち上がるもの
3つ目に触れると、
インタビューの中で面白かったのは、
彼女が、「Spark Joy」にたどり着く
までの「道のり」である。
彼女は、最初の「片づけ」の経験では
「片づけ=捨てること」として、
それをとことん、気絶するまで、やり
続けたという。
そのプロセスは、とてもつらかった、
という。
その「気絶」の瞬間に、片づけで大切
なことは、捨てることではなく、
「残すもの」にあることに、深く気づ
いたという。
「Spark Joy」が見えたという。
この深い経験は、
アンチテーゼからテーゼ、
否定から肯定、
デタッチメントからコミットメント
という経験と、本質的なところでは
同じ経験であると、ぼくは思う。
(3)時代背景とタイミング
最後に、時代背景とタイミングである。
それは、裏返すと、人びとが今、求めて
いるものであったことである。
「消費化社会」が、その内実を変容させ
ていく過程で、
人びとは、物質的なものに対して、
それから自身の内面において、
これまでの方向性を「転回」せざるを
得ないような、状況に置かれている。
また、もしかしたら、西洋的な視点から
は、「KonMari Method」には、「東洋
思想的なもの」を感じる方法であるかも
しれない。
生き方を切り開く「方法」として、
世界のハイパフォーマーたちは、東洋
思想的な方法をとりいれてきている。
インタビューの中で、KonMariは、
「KonMari Method」を実践する人たち
の中で、「注意が足りない点は?」と
聞かれる。
KonMariは「KonMari Method」は
思っていた以上にきっちりと受け入れ
られてきているけれど、と前置きをした
上で、足りないものとして「感謝」と
応える。
「物を捨てるときに感謝すること」と
いう「KonMari Method」のポイントに
加え、日々においての「物への感謝」を、
彼女は付け加えた。
いわゆる万物への感謝である。
「感謝」はどの文化でも大切なことだ
けれど、「万物」への感謝は、近代では
一般的ではなくなった。
「感謝」とは、本質的に、関係をとり
もどす思想であり、実践である。
分断する思想ではなく、「つなげる」
思想である。
人と人との関係を、つなげること。
人と自然との関係を、つなげること。
時代は「つながる/つなげる思想」を
求めている。
「Spark Joy」は、KonMariが述べる
ように、「残すこと」の思想・実践で
ある。
ほんとうに大切なものを「残すこと」。
それは、本質において、「つながる/
つなげる思想」であり、その具体的な
方法である。
「方法としての旅」から見えはじめたこと。- <虚構の時代>(見田宗介)の中で。
「方法としての旅」ということを考えた。二十世紀の終わりに、ぼくは、「もがきの閉塞」とでも呼ぶべき生きにくさに出口を探して、日本の外に飛び出し、旅をくりかえした。...Read On.
二十世紀の終わりに、ぼくは、
「もがきの閉塞」とでも呼ぶべき
生きにくさに出口を探して、日本の
外に飛び出し、旅をくりかえした。
ぼくが「生きにくさ」を感覚していた
(当時の)日本は、どのような時代に
おかれていたのかを振り返るとき、
社会学者の見田宗介の有名な理論が
導きの糸となる。
「現実」という言葉は、三つの反対語
をもっています。「理想と現実」「夢
と現実」「虚構と現実」というふうに。
日本の現代社会史の三つの時期の、
時代の心性の基調色を大づかみに特徴
づけてみると、ちょうどこの「現実」
の三つの反対語によって、それぞれの
時代の特質を定着することができると
思います。
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
「三つの時期」について、見田は、
下記のように、理論を展開している。
●理想の時代:1945年~1960年頃
*プレ高度成長期
●夢の時代:1960年~1970年代前半
*高度成長期
●虚構の時代:1970年代後半~。
*ポスト高度成長期
人びとは、それぞれの時代において、
<理想><夢><虚構>に生きようと
してきた、という。
「現実」ということとの関わりに
ついて、見田宗介は、続けて、この
ように書いている。
「理想」に生きようとする心性と
「虚構」に生きようとする心性は
現実に向かう仕方を逆転している。
「理想」は現実化(realize)する
ことを求めるように、理想に向かう
欲望は、また現実に向かう欲望です。
…虚構に生きようとする精神は、
もうリアリティを愛さない。
二十世紀のおわりの時代の日本を、
特にその都市を特色づけたのは、
リアリティの「脱臭」に向けて
浮遊する<虚構>の言説であり、
表現であり、生の技法でもあった。
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
ぼくが生まれ、そして「旅」をくり
かえしていた時代は、この考え方で
いくと、<虚構>の時代であった。
ぼくは、「虚構の時代」にあって、
<理想>や<夢>を生きようと、
もがいてきたように、振り返る中で
思う。
それは、格好悪いことであったかも
しれない。
トレンドにのっていなかったことか
もしれない。
でも、<ほんとうのもの>を、ぼくは
探していた。
その中で、「方法としての旅」があった。
自分の身体を、まったく異なる社会
に投じた。
五感をひらくことで、自分を変えよう
とした。
旅先で、とにかく、歩いた。
歩いて、見えてくるものがないか、
ぼくは、上海の街を、香港の街を
歩いていた。
ニュージーランドでは、徒歩縦断という、
人生の「無駄」に生きた。
方法を探しもとめ、自ら実験し、思考する。
「旅」は、いつの日か、仕事という形
で、ぼくを世界に連れだった。
紛争の傷を深く負った人たちとその社会、
紛争から立ち直る人たちとその社会。
日々を一所懸命に生きる人たち。
どんなに「悲惨な現実」をも、乗り超えて
いく人たち。
そんな人たちと、そのような社会で、
ぼくは生きてきたのだ。
そして、そんな中で、
どうしたら、この時代に、よりよく生きて
いくことができるのか、を、
失敗をいっぱいにしながら、
生きて、考えている。
このブログはそのような試みのひとつである。
追伸:
作家・辺見庸も、同じ時期に、虚構では
ない、「生きたことば」を探し求めて
いた。
彼の文章は、身体から、絞り出された
ような、言葉たちである。
ぼくは、その頃から、「生きたことば」
に敏感になりはじめた。
ぼくの「旅の経験」の奥行き。方法としての「旅」-「目の独裁」から感覚を解き放つこと(真木悠介)
<目の独裁>から自由になること。ぼくが生きていくことの、豊かさの「奥行き」を、言葉として明晰に提示してくれた、真木悠介の一節である。...Read On.
…目の世界が唯一の「客観的な」世界
であるという偏見が、われわれの世界
にあるからだ。われわれの文明はまず
なによりも目の文明、目に依存する
文明だ。
このような<目の独裁>からすべて
の感覚を解き放つこと。世界をきく。
世界をかぐ。世界を味わう。世界に
ふれる。これだけのことによっても、
世界の奥行きはまるでかわってくる
はずだ。
真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房)
<目の独裁>から自由になること。
ぼくが生きていくことの、豊かさの
「奥行き」を、言葉として明晰に
提示してくれた、真木悠介の一節である。
この言葉たちが収められている
名著『気流の鳴る音』に出会う直前の
数年間、ぼくは「旅」に魅せられていた。
もう20年以上前のことだ。
東京で感じる閉塞感、あるいは居心地の
悪さのようなものから自由になりたいと
ぼくはもがいていた。
「もがきの閉塞」から、裂け目とその先
に光を見ることができたのは、一連の
「旅」であった。
18歳で、横浜港から鑑真号にのって上海。
上海から西安、そして北京と天津。
天津港からは、燕京号で神戸へ。
19歳で、香港から広州。
広州からベトナム、そして広州から香港。
20歳で、ニュージーランドに滞在。
ニュージーランドから戻り、
ぼくは「本との出会い」を得ていた。
その中で出会ったのが、
真木悠介『気流の鳴る音』であった。
それは、ぼくの「旅での経験」を、
<ことば化>してくれたと同時に、
これまでの「もがきの閉塞」の先に
「新しい世界」の存在と美しさを、
ぼくに提示してくれた。
「旅での経験」で、ぼくの身心をはじめ
からさらったのは、「におい」であった。
中国は「におい」に充ちた空間であった。
香港も、飛行機から降りたときに、
「におい」が、ぼくを出迎えた。
ベトナムも、もちろん、ぼくの臭覚を
襲撃してきた。
それらは、東京では感じなかった。
<目の独裁>から解き放たれ、
世界をかぐ。
真木悠介の言うように、これだけでも
世界の奥行きはかわった。
「旅」は、ぼくにとって「方法」の
ひとつとなった。
そうして、ぼくは、自問した。
「旅で人は変わることができるのか?」
その後も「具体的な方法」を探し求めた。
幼少に視力を失ったエッセイストである
三宮麻由子『そっと耳を澄ませば』など
を読んだ。
「音」の採集などを試みた。
「Dialogue in the Dark」を経験した。
これらを経験してきて、ぼくは<目の
独裁>から抜け出せただろうか。
おそらく、完全に解き放たれた「地点」
などは、存在しないのではないか。
ひとつ言えることは、
これらの経験は、ぼくの「世界」に
確かに奥行きを与えてきてくれたこと。
これらの経験は、ぼくの身心の内奥に、
広々と拡がる「世界」の入り口への、
確かな「楔(くさび)」を打ち込んで
くれた。
追伸1:
最近のアジアの国々は、
「におい」が薄くなってきたように
ぼくは感じる。
経済発展と、それに伴う各地の
「都市化」の力学が、
においを脱臭してきたのだと思う。
いい・悪いの話では、ないけれど。
追伸2:
写真は、
真木悠介『気流の鳴る音』の
最初の「形」。
ぼくの大切な一冊。
その後、「ちくま学芸文庫」になり
そして、今は、岩波書店の
「定本 真木悠介著作集」に
収められている。
「論理・ロジック」の学び方について。 - ぼくの(まったくの)個人史から。
世界で仕事をしていく中で、また、情報が氾濫する世界で、「論理・ロジック」はとても大切である。...Read On.
世界で仕事をしていく中で、
また、情報が氾濫する世界で、
「論理・ロジック」はとても大切である。
それが、すべてではないけれど、
「論理・ロジック」は、徹底的に
身につけておくべきものである。
多くの人たちとコミュニケーションを
とってきた中で、ぼくが感じるのは、
「論理・ロジック」を本当に身につけて
いる人はそんなに多くないということだ。
ぼくが「論理・ロジック」を学んできた
方法を、ぼくの(まったくの)個人史から
共有したい。
ひとつでも、ヒントになればよいと思う。
(1)「論文」の書き方を学ぶ
ぼくが、「論理・ロジック」を最初に
学んだのは、大学のゼミであった。
大学3年・4年と「国際関係論」のゼミ
で、Peter B. Oblas先生のもとで、
ぼくは「論文の書き方」を学んだ。
論文の書き方に関する英語書籍を、
ゼミ生で読み進めながら、
参考文献の探し方、ノートの取り方、
英語論文の書き方まで、学んでいった。
大学4年が終わるときに、ぼくは、
卒業論文を英語で書き上げた。
もちろん、「論」を展開しながら。
この経験は、ぼくが今まで大学で提出して
きた「論文」は、「論文」ではなかった
ことを教えてくれた。
ただの「感想文」をぼくは書いていた。
「英語論文」の世界では、論・ロジックは
とても大切である。
英語で書いたことが、さまざまな視界を
ひらき、さまざまなことを教えてくれた。
知識を超える学びであった。
Oblas先生から、「論の芽」が出てきた
ようなことを、卒論のコメントとして
直接いただいたことをぼくは覚えている。
(2)本との出会い
大学3年・4年時には、
Peter B. Oblas先生との出会いに加え
さまざまな書籍との出会いがあった。
何よりも、社会学者の見田宗介(真木
悠介)の書籍、『気流の鳴る音』
『時間の比較社会学』『自我の起原』
『現代社会の理論』『宮沢賢治』など
との出会いにより、
ぼくの「本の読み方」が変わった。
見田宗介の書く文章は、
要約が極めて難しいほどに削ぎ落とされ
理論が徹底している。
見田宗介の理論が、最初はまったく理解
できなかったぼくは何度も何度も読んだ。
字義通り、読み倒した。
見田宗介先生に、ぼくは、書籍を通して
論理・ロジック、そして理論を学んだ。
(3)大学院での「論文」
「論文の書き方」を学んで、
「何か」を掴んだぼくは「論・ロジック」
の面白さを得た。
そして、見田宗介の理論が、深いところ
で理解できるようになっていた。
それは世界が開かれていくような感触だ。
大学院では「論文」を書いた。
毎週のように提出する論文において、
「論・ロジック」を組み立てていった。
そして、論文を書くために、
徹底的に、他者の論文や書籍を読んだ。
そこで展開される「論理」に、
村上春樹が翻訳をするときのように、
「論理」の中にすっぽりと身を投じた。
修士論文は、その集大成として、書いて
いった。
個別の論文で論を立て、
個別の論文が最後につながる形で、
修士論文ができたのだ。
(4)仕事の世界で。
国際NGOで働きはじめてからも、
「論理・ロジック」は極めて大切であった。
仕事の実務・現場の世界でも、それは
変わらない。
西アフリカのシエラレオネでは、
国連や現地政府を相手に、論を立てて
コミュニケーションをとらなければなら
なかった。
東ティモールでも同じことだ。
国際協力機構とのやりとり、様々な
報告書、政府でのプレゼンテーション、
などなど。
香港での人事労務コンサルテーション
では、もちろんのことである。
コンサルテーションは、まずは
ロジック勝負である。
とにかく、使い倒しながら、学んで
いった。
完璧は目指さずに。
これらは、ぼくのまったくの個人史である。
今も、日々、論理・ロジックを学んでいる。
現代という時代の過渡期で、
また情報化社会が進化していくなかで、
これからの世界をひらくために
「論理・ロジック」を、
徹底的に身につけておきたい。
くりかえすけれど、徹底的に。
追伸:
写真は、ぼくが、世界どこで暮らすとき
にももっていく、見田宗介先生の著作
の一部です。
ぼくの人生の旅の「同伴者」です。