香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港の「トイレ事情」に、変遷を見る。- 変わりつづける香港。

香港に住んで12年になろうとしている。

香港に住んで12年になろうとしている。

香港に来るまえに住んでいた東ティモールを去って、香港に来たのは2007年。今年2019年で、十二支が一巡したことになる。

12年もいると、その場所の「変遷」を目の当たりにすることができる。

「転がる香港に苔は生えない」(@星野博美)と言われるように、香港はまったく止まることなく、転がり続けている。それも、転がるスピードが半端ではない。だから、「変遷」もいろいろである。


変わった事情のひとつに、「トイレ事情」がある。

世界のいろいろな場所の「トイレ事情」はそれだけで大きなトピックとなるけれど、ぼくが来た頃の香港は、また違った「事情」を有していた。

香港に来るまえに住んでいた西アフリカのシエラレオネと東ティモールは比較対象としにくいので、さらにその前に住んだり学んだり仕事をしていた「東京」と比べると、その「事情」があぶりだされる。


ひとつには、(中小規模の)ショッピング・センターのようなところでのトイレは「テナント用」であることである。つまり、トイレは、その場所に入っている店舗やレストラン用として、店舗やレストランを利用する人たち限定の施設である。

だから、例えば、CD・DVDを購入しようとして選んでいる最中にトイレに行きたくなったら、カウンターに行って「鍵」を借りることになる。男性用/女性用トイレのマークが大きく描かれた鍵を借り、トイレに行き、またカウンターに戻って鍵を返すことになる。

「変遷」と言えば、大きなショッピング・モールなどが増えて、だれでも、いつでも利用できるトイレが増えたことである。今でも「テナント用」のところもあるのだけれど、「いざ」というときに行けるトイレが増えたことは確かだ。

なお、テナント用のトイレも、(いくつかの場所で)「変遷」を見せた。鍵についている「男性用/女性用トイレのマーク」のキーホルダーが大きくなった(ところがある)。キーホルダーが小さいと、ポケットに入れたり、トイレに置きっ放しで、お店に返すのを忘れがちだからである。


ふたつめには、香港の電車(MTR)の駅構内(改札内)で、トイレ施設がある駅がとても少なかったことである。

東京では駅構内でトイレを利用することが多かったぼくにとっては、最初はなかなか不便であった。

なお、厳密には、駅の駅員さんに頼めば、(たぶん)駅員さんなどが使用する(鍵のかかった)トイレを使わせてもらうことができる。ぼくもいくどかお願いしたことがあった。でも、これはなかなか不便である。

でも、こんなところにも「変遷」が見られる。

MTRの、より多くの駅に「公共トイレ(public toilets)」の施設が設置されてきている。今回、このブログを書こうと思ったのも、この「変遷」を目にしたからでもある。

なお、MTRのホームページには、どの駅に公共トイレがあり、さらに、トイレのない駅では「最寄りの公共トイレへの距離」が明記されている。


みっつめには、香港のトイレの多くには、管理人の方が常在していて、常時きれいに保とうとしてくれている。このことを書いておかないといけない。

東京には「なかった」ものが、香港に「ある」。

ひとつめとふたつめのことと同じに、このみっつめにも「事情」がいろいろとあるのだろうけれども、いつもながらに、頭が下がる思いだ。

だから、トイレを使用したあとには、機会があれば、「ありがとうございます」の言葉を、ぼくは広東語で伝えるようにしている。


なお、「東京」のトイレのあり方をデフォルトとして書いているわけではない。ただ、東京(関東圏)にふつうに暮らしてから、香港に来て、「あるものがない」と思いつつ、でも、ときに不便さを感じ、「あった」ということに感謝したのものである。

そして、香港に長く住んでいると、またその事情が「ふつう」になってくる。でも、時間的な変遷のなかで、それもいろいろと変わってくるものである。便利になって、ありがたく感じることもあるし、不便であった過去をなつかしく思うこともある。

それにしても、香港は、変わりつづけている。変わることのなかに、香港がある。

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香港, 身体性 Jun Nakajima 香港, 身体性 Jun Nakajima

香港で、「感冒茶」を飲んで、体をやすめる。- その土地の「対処法」を活用すること。

旧正月(2月5日)以降、20度前後の、暖かく、過ごしやすい日がつづいていた香港。

旧正月(2月5日)以降、20度前後の、暖かく、過ごしやすい日がつづいていた香港。

ここ2日ほど、少し気温がさがっている。それでも15度から19度くらいで、「これくらいはなんでもない」と思っていたら、体の節々がいたくなって、これは「風邪のひきはじめ」かもと、初期段階における「対応モード」にはいる。

風邪は「敵」ではなく、身体の「祝祭」である、というような意味合いのことを、整体の野口晴哉は語っていたと思うけれど、ぼくの身体は「祝祭」を奏でているのだと、つまり、祭りのようにいったん秩序をこわし、新たな息吹をいれながら秩序を再構成しているのだと解釈する。

そんなわけで、「祝祭」が粛々ととりおこなわれるようにと、体を休ませようと思い、今回は、「感冒茶」を買って、飲むことにする。

「感冒茶」は、その名のとおり、「感冒」(風邪)の症状に効果を発揮する漢方茶・ハーブ茶である。


香港の街角では、このような飲み物を売っているお店にときどきでくわすのだけれど、飲みたいと思うときにはお店が近くになかったり、どこにあるか覚えていなかったりする。

このような昔からつづいているようなお店の店頭では、その場でお椀や紙コップで飲むこともできたり、あるいはテイクアウト用にペットボトルのものを購入することもできる。

そんな粋なお店とはべつに、モダンでおしゃれなお店もあり、駅の改札近くにならぶ売店のひとつとして出店している。

今回は、駅の改札近くにならんでいる「Hung Fook Tong」で感冒茶を買うことにする。以前、すでに試しているから、大丈夫だ。

感冒茶はさまざまなハーブなどからつくられているから、他のお茶や飲み物に比べ、少し高めである(Hung Fook Tongでは46香港ドル≒約650円)。500mlのペットボトルにはいっていて、購入時に温めてもらう。

「2回に分けて飲むのよ。あいだに4時間空けること。飲む前には何か食べるのよ」と、店員さんが、代わる代わる伝えてくれる。


お昼ご飯を食べ終わっていたから、ぼくは家に帰って、1回目の一杯を飲む。苦いのだけれど、ぼくは、このような漢方茶の苦さが好きなので、とくに苦にならない。さらに、このお店の感冒茶は少し砂糖が入っていて、飲みやすくしてあるようだ。

やがて身体に心地よさがやってきて(やってきたようで)、ぼくは横になって、眠ることにする。

だいぶ眠って起きて、夕食をとり、2回目の一杯を飲んでから、ぼくはこの文章を書いている。体の節々のいたみが残りながらも、だいぶ、体が楽になったように感じる。


書きながら、思い出す。海外で旅したり、暮らしているときに、体の不調が起きたら、その土地の「対処法」を活用すること。

アジアを旅していたときにお腹をこわして、ぼくは日本から持っていった薬ではなく、その土地で購入した薬を試したことを思い出す。西アフリカのシエラレオネに赴任し、最初のほうにしたことのひとつも、マラリアの治療薬を調達することであったことを思い出す。

その土地での「対処法」、その土地で手にすることのできる薬、それから漢方茶など、それらがそこに存在しているという存在理由が、やはりあるのだ。


なにはともあれ、朝からお昼にかけて、「今日のブログ書けるかな」と思ったのだけれど、感冒茶を飲んで、寝て起きたら、ブログを書くことができた。店員さんの「指示」にしたがい、2回に分けて感冒茶を飲み干したぼくは、そんなことを思いながら、ふたたび体を横にして、休もうと思う。


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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

「香港マラソン」の日に。- 香港で、「スポーツ系イベント」に参加すること。

ここ香港では、本日(2019年2月17日)「香港マラソン」が開催された。毎年、この時期に開催される、香港最大規模のマラソン大会である。フルマラソン、ハーフマラソン、10キロマラソンなどがある。

ここ香港では、本日(2019年2月17日)「香港マラソン」が開催された。毎年、この時期に開催される、香港最大規模のマラソン大会である。フルマラソン、ハーフマラソン、10キロマラソンなどがある。

ニュース(South China Morning Post)によると、74,000人以上の人たちが参加したという。50年ほどまえにはじめて開催されたときは、参加ランナーは28名であったというから、この50年のあいだに、ランナーたちは増えつづけてきたことになる。

ぼくが香港マラソンに参加したのは、たしか、2010年と2011年であったかと思う。その時期も「マラソン」という活動はだいぶ注目されていたけれど、さらにそのあと、香港で「走る人たち」が増えたように、ぼくは感じる。

走る理由や背景は人それぞれである。「香港マラソン2019」に参加する人たちも、それぞれに<個人の物語>をもちながらマラソンに参加したのだということを、South China Morning Postも伝えている。


『香港でよりよく生きていくための52のこと』の本を書いたとき、「香港でよりよく生きていくため」に、香港で「スポーツ系イベント」に参加することを、項目のひとつとしてぼくは挙げた。

「香港マラソン」に参加した体験をベースにしながら、ぼくはこの項目を挙げたのであった。大したことを書いたわけではない。けれども、大切なのは、じっさいに体験・経験してゆくことである。

べつに「香港マラソン」に限るわけではなく、他のスポーツでもよいし、あるいはなんらかの「イベント」に参加するのでもいい。

ただ、ぼくのなかには「香港マラソン」の体験が刻印されていたから、ぼくは「じぶんの体験・経験」をベースにしながら、語った。「香港マラソン」に参加したことで、たしかに、ぼくの「生きること」は、ひろがりとふかさを得たからだ。

だからとくに何もアイデアがなくて、香港で何かをしたい、というひとがいたら、ぼくはやはり、アイデアのひとつとして(あくまでも、たくさんあるうちの「ひとつ」としてだけれど)「香港マラソン」への参加を挙げるだろう。


「マラソン」そのものから引き出せるよい点、それから「香港で走る」ことから引き出せるよい点がある。

「マラソン」そのものから引き出せる点は、べつに香港に限るものではない。でもきっかけとして、「マラソンを走ってみよう」と思うのは、海外にいるからこそ思うこともあるかもしれない。香港にいるんだから、たとえば「香港の……」に挑戦してみよう、などというように。

ぼくが「マラソン大会」に出たのは、香港におけるマラソン大会(ユニセフ主催のチャリティラン)が初めてであった。なにはともあれ、ぼくが「マラソン」をはじめてみて、学んだことや得たものはほんとうにたくさんあった。


「香港で走る」ということでいえば、<香港の風景>をじぶんの身体にすっぽりととりこむことができる。

いつもとは違う風景に接しながら(いつも見ている風景が違う風景にみえながら)、じぶんの身体でじっさいに感じることで、風景も距離感も、じぶんのなかにより親密な仕方できざまれるのである。

それは、準備段階から感じることができる。ふだんのトレーニングで走るときからである。

また、走る道中で、香港のいろいろな人たちと「走る場」を共有できる。なかには、声を交わしたり、一緒に走ったりすることもあるだろう。

そんなひとときひとときが、やはり有難いものであるし、また思い出としてものこってゆく。

もちろん、それらを体験・経験を「意味あるもの」として織り成してゆくのは、ひとそれぞれの<個人の物語>である。じぶんが生きる、ということの物語である。どのような物語をじぶんは生きているのか、ということが「香港で走る」ことに色彩をあたえ、あるいは「香港で走る」ことで、じぶんの物語は色彩をあたえられる。

そんな実体験を基礎にしながら、「香港でよりよく生きていくため」に、香港で「スポーツ系イベント」に参加することを、ぼくは挙げるのである。

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香港, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港の、「レモンいっぱいのレモンティー」。- レモンは「いっぱい」でもいいんだ、という認識への再設定。

香港の街に出て、食事をするときによく飲む飲み物は「ホットミルクティー」。香港式のホットミルクティー(港式奶茶)である。「香港式」は、とても濃い紅茶に、無糖練乳がたっぷりと入ったミルクティーである。お店によって「味」はさまざまで、その「さまざま」を味わってゆくのも楽しい。

香港の街に出て、食事をするときによく飲む飲み物は「ホットミルクティー」。香港式のホットミルクティー(港式奶茶)である。「香港式」は、とても濃い紅茶に、無糖練乳がたっぷりと入ったミルクティーである。お店によって「味」はさまざまで、その「さまざま」を味わってゆくのも楽しい。

けれども、12年ほど前に香港に移り住んで印象深かった「香港式」は、ミルクティーよりも、むしろ「レモンティー」であった。なぜかと言えば、レモンがたくさん入っていたからである。

レモンがいっぱいに入っている、ただそれだけのことだけれども、「ただそれだけ」のことが、ぼくの脳を少しずつ侵食していくことになる、「香港式」のひとつであったと思う。

レモンの輪切りがいっぱいに入っている紅茶。

このことの「インパクト」をひとことであらわすのであれば、「レモンはいっぱいでもいいんだ」というひとことである。


ぼくたちがある文化の中で暮らしてゆくなかで、ぼくたちはいろいろなものごとを「デフォルト」設定してゆく。ぼくたちが「気がついた」ときにはすでに「デフォルト設定」されていたものもあれば、暮らしてゆくなかでじぶんなりの「選択」を通してデフォルトとして設定してゆくこともある。

「レモンティー」で言えば、日本で暮らしているなかでは、レモンは「輪切り1枚(あるいは2枚?)」であった。少なくとも、ぼくのなかでのデフォルト設定は、そのようであった。そこに暮らしているときは、そのことに対してとくに何か思うわけでもなく、紅茶とともに出される輪切り1枚のレモンの香りとテーストを楽しんでいた。

そのようなデフォルト設定が、香港に来て、「再設定」を迫られることになる。別に誰かに頼まれて再設定を迫られるわけではないけれど、ぼくの「頭の中」で、レモンティーのイメージ設定をしなおすことになる、ということである。


香港の街のふつうのお店でレモンティー(例えば、冷たいレモンティー)を頼むとしよう。そうすると、レモンの輪切りは1枚ではなく、5枚ほどがぎっしりとグラスの底にしずめられて、出てくることになる。なお、紅茶それ自体も、濃い紅茶だ。

これらいっぱいのレモンをスプーンなどで押しつぶしながら、レモン汁を抽出し、紅茶にまぜてゆく。飲み物にシロップ(また砂糖)はふだんはあまりいれないぼくも、香港式のレモンティーにはシロップをいれることになる(あるいは、出されたときに、すでにシロップがまぜられている)。

味も香りもつよい香港式のレモンティーは、こうして、楽しむことができる。


香港に住むようになるよりも、さらに12年ほどをさかのぼった年に、ぼくは旅ではじめて香港に来たのだけれども、そのときは、これらの「香港式」を充分に楽しむことはなかった。

住むようになってはじめて、ぼくは、これらに親しんでゆくことになる。じぶんが「飲む/飲まない」ということにおける「親しさ」ということではなく、ぼくの身の回りの「環境」に、あたりまえのように存在しているという<親しみ>である。

こうして、レモンは輪切り1枚のデフォルト設定が、再設定されてゆくことになる。

香港のレモンティーのレモンは、いっぱいだ。レモンティーのレモンは、いっぱいあってもいい。必ずしも、輪切り1枚でなくてもいい。

もちろん、レモンの輪切り1枚という「レモンティー」のよさもある。そのかすかな香りとテーストが身にしみてくることもあったりする。

でも、ときおり、香港の日系のレストランに行ってレモンティーを頼むと、レモンの輪切りが1枚ついて、レモンティーが提供される。そんなとき、少しさびしさのようなものを感じて、ぼくの頭の中のレモンティーの設定が変わったことを認識したりすることになる。

そして、このようなことは、「レモンティー」だけではないなと、思うことになる。

レモンいっぱいのレモンティー(香港式のレモンティーが日本のレストランで提供されるとすれば、こんな名前がつけられるだろうか…)のように、ぼくのそれまでの「認識」を書き換えてきたような体験・経験を、ぼくは、ここ香港で、さらには東ティモール、西アフリカのシエラレオネ、ニュージーランドでしてきたのだということを思うのである。


追記:

ブログの写真に「レモンティー」をのせたかったのだけれど、写真がなくのせていない。最近はすっかり「香港式ホットミルクティー」なのである。

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香港, 身体性 Jun Nakajima 香港, 身体性 Jun Nakajima

「香港の音」のこと。-「静けさ」と「にぎやかさ」と。

静けさということ。現代人にとっての「静けさ」ということを。ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の体験をもとに、じぶんの体験もかさねあわせながら、少しのことを書いた。

静けさということ。現代人にとっての「静けさ」ということを。ユング派の分析家ロバート A. ジョンソン(Robert A. Johnson、1924-2018)の体験をもとに、じぶんの体験もかさねあわせながら、少しのことを書いた(ブログ「「静けさ・静寂・沈黙(silence)」を味方につける。- Robert A. Johnsonの体験に耳をかたむけて。」)。

静けさ「だけ」がいいとか悪いとかということではなく、しかし、「静けさ」が生活の片隅においやられているようなところはあるように思ったりする。

「にぎやかさ」ということで言えば、ここ香港は、にぎやかなところだ。


作曲家の久石譲は、解剖学者の養老孟司との対談(養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』角川oneテーマ21、2009年)のなかで、この「香港のにぎやかさ」にふれている。久石譲は興味深いエピソードを紹介している。それは、香港からカナダに移住した人たちに「もっとも売れたテープ」の話である。

香港からカナダに移住した人たちにもっとも売れたテープは、香港のにぎやかな音であったというのだ。食べ物屋の音、街中の音、人々の話し声など、香港の音が収録されたテープが飛ぶように売れたのだという。

大自然に囲まれたカナダの異常な静けさが、逆に落ちつかなかったのではないかという話だ。

実際にこの話がどのように伝わってきたのか、そのようなテープがどのくらい売れたのかなど、ぼくは知らない。けれども、ここ香港に住んでいると、わからなくもない。ある程度の「にぎやかさ」に心身がなれて、突然のようにやってくる「にぎやかさの欠如」は、心身を不安定にさせるかもしれない。

「静けさ」と「にぎやかさ・ノイズ」。このエピソードに対して、養老孟司はつぎのように応答している。


養老 そういうこともある。だから、物事はどっちがいいとか悪いとか一概に言えないんです。だいたいどっちであっても人生は損得なしだ、というのが僕のいけんですけどね。

養老孟司・久石譲『耳で考えるー脳は名曲を欲する』(角川oneテーマ21、2009年)


このエピソードが紹介される直前に、一般的に、「うるさい環境の方が落ちつくなあということもあるんじゃないですかね」と語る文脈で、養老孟司はこのように語っている。

「静けさ」と「にぎやかさ」の双方を享受できるようになるとよいと、ぼくは思ったりする。また、人それぞれに、それぞれの「とき」に応じて、求められるものも変わってくるのだと、ぼくは思う。


ところで、「香港の音」のテープということを聞いて、ぼくもいくらか、<音の採取>をしておこうかと思っている。

だいぶ以前、東ティモールに住んでいたときに、<音の採取>をしようと思っていたのだけれど、レコーダーの音質の問題などから、途中であきらめていた。

でも、今はスマートフォンの気軽な録音で、それなりの音質を確保できる。将来、香港を離れたとき、ぼくは「香港の音」、食べ物屋のにぎやかさや街中の喧騒などを聞きたくなるかもしれない。

と思いつつ、いや、心の中で記憶していたほうがいいんじゃないか、と、ぼくの内面の別の声がぼくに語りかける。

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香港の「西多士」(フレンチトースト)。- 「西多士」に教えられて。

香港に住みながら、長いあいだ、存在を知りながら食べてこなかったもののひとつに、「西多士」がある。香港式の「フレンチトースト」である。

香港に住みながら、長いあいだ、存在を知りながら食べてこなかったもののひとつに、「西多士」がある。香港式の「フレンチトースト」である。

食べてこなかった理由としては、見た目とても油っこく、また甘すぎるようであったからだろうか。同じ理由で、つまり油っこくて、甘いものを好んで食べることもできるのだろうけれど、長いあいだ、ぼくの身体は、そのようなものを積極的に欲してこなかったようだ。

ちなみに、香港式のフレンチトーストは油で揚げられたものだ。そんな油で揚げられたフレンチトーストに、バターやシロップや練乳などをかけて食べることになる。このトッピングは、店によって異なってくる。

そんな「様子」だから、ぼくは香港のフレンチトーストから、適度な距離をおいていたのだ(短期旅行で来たら、ふつうに試していたかもしれないけれど)。


でも、あるとき、意を決して(というほどでもないけれど)、注文してみた。香港の「ティータイム」のセットメニューとしてフレンチトーストがあり、セットには飲み物が含まれるから、これまた香港式のミルクティーを注文する。

テーブルに運ばれてくるや、いかにも油っこく、さっそく口にしてみて、やはり油っこく、甘い。それでも、「なかなかいけるかも」と思ったりもしながら食べる。毎日は食べることができないだろうけれど。

この日の「体験」が、つぎにつながってくる。

今度は、麺の老舗に麺を食べに行ったときに、その「つぎ」がやってきた。麺だけでもよかったのだけれど、メニューに掲載される「西多士」の大きな写真が目に入ってきて、「試してみよう」と、注文する。

すると、「◯◯分ほど時間がかかるよ」とお店のおじさんは去り際に告げてゆくのであった(たしか、15分か20分かと言われたのだと思う)。「速さ」をデフォルト設定とする香港においては、それなりの理由があって「時間がかかるよ」の言葉につながっている。

ほどなくして、シロップが先にやってきて、麺が運ばれてくる。店内は人でいっぱいだ。それから麺を食べ終わるころ、時間がかけられた「西多士」がやってくる。バターがのっていて、見るからに油っこい。

でも、切り分けられた「西多士」の一片を口にして、「おやっ」と思う。見た目ほどに油っこくないのだ。そしてそれ以上に感じたのは、おいしさであった。これはおいしい。

この発見の日から日をあけて、もう一度、この「西多士」を食べたが、やはりおいしいのであった。

「西多士」をつくりつづけるおじさんは、何年、この西多士をつくりつづけているのだろうかと、ぼくの想像がふくらんでゆくほどに、そこには「なにか」が感じられるのであった。


それにしても、香港の「西多士」には、いろいろと教えられた。

●「見た目」にとらわれないこと
● じぶんの「偏見」を脱してみること
●  多様性にひらかれること
などなど。

「見た目」(油っこい)にとらわれて、ぼくは距離をおいてしまっていた。現代の文明は「視覚」に支配される文明だ。「じぶん」という主体を危険にさらすことなく、目で客観的に判断するという具合に、五感のなかでもっとも「安全」を確保しやすい感覚である。

「見た目」は大切だけれども、ときに、うちやぶることが必要だ。

じぶんで「試してみること」で、じぶんで勝手につくってきた「偏見」を、ときに脱することができる。一度でダメでも、二度目(またそれ以降)に、脱する/うちやぶる瞬間がやってくるかもしれない。

そこには、「多様性」(「西多士」といってもほんとうに多様だ!)に充ちた世界がひろがっているのを見つけ、より「世界」がひろがってゆく。

ただの「西多士」とあなどるなかれ。

そして、ボーナスポイントとしてぼくが得たのは、じつは、ぼくは小さいころ「フレンチトースト」がとても好きだったことを思い出したこと。

香港の「西多士」とは異なるけれども、あるとき、ぼくはそれこそ毎朝、フレンチトーストを食べていたときがあった。ときには、じぶんでつくったりもしていた(でも、あるとき、フレンチトーストを食べることがぱったりととまってしまった。いつ、どのように、なぜなのか、ぼくにはわからない)。

<じぶんがとても好きだったものを思い出す>というのは、祝福に充ちた体験だ。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

「猫」のいる、香港の風景。- 「猫があまり見られない」環境のなかで、猫と出会う。

香港に住んでいて、「猫」を見ることがほとんどない。いつのことだったか、そんなことを思ったことがあった。

香港に住んでいて、「猫」を見ることがほとんどない。いつのことだったか、そんなことを思ったことがあった。

風景のなかに猫があらわれるのは、まれなことである。「香港」とくくってしまうのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくともぼくの経験からは、猫はあまり見ないのである。

逆に(「逆」と言い方もどうかと思うけれども)、「犬」はよく見る。ほぼ毎日(家の外に出るとすれば「毎日」)、ぼくは犬を見ている。ほんとうに、いろいろな犬たちを目にする。

おどろくことではなく、犬たちにとっては「散歩」があるからである。猫たちも「外出」はあっても、散歩ではない。


このような風景があらわれる「前提」、つまり環境をまだぼくは書いていない。

その前提とは、「高層マンション/アパートメント」の立ち並ぶ環境である。香港で暮らしてゆくとき、一軒家のオプションもあるけれども、香港の中心部に近くなればなるほどに「高層マンション/アパートメント」に住むことが「ふつう」である。

香港に長く住みながら、ぼくは、この「あたりまえのこと」に「明確に」気づいたのは比較的あとになってからであった。

覚えているのは、台湾を旅していたときのこと。台湾(香港から2時間弱のフライトで行ける距離にある)を旅していたとき、バスの窓の外に見える風景を見ながら、ぼくは「あれ、なんか違うなぁ」と感じたのであった。それは「高層ビルが少ないこと」であり「一軒家」が多いこと、つまり「香港と異なる風景」であった。

香港で日々暮らしてきて、「一軒家」の立ち並ぶ環境にいなかったことに、ぼくは気づいたのであった。


このような高層マンション/アパートメントの立ち並ぶ環境のなかで、猫たちは「家」のなかで暮らすか、あるいは一軒家的な場所でときおり、その姿をぼくに見せるのである。

だから、香港の中心から離れ、郊外の町にいったときに、路地裏で猫を見たときには、とてもなつかしく感じたりすることになる。また、香港の中心部においても、高層ビルが建っているような開発されている場所ではなく、裏道のようなところで、猫に出会うことがある。

そんな場所で猫に出会うと、「おっ」と、心が少し踊ることになる。

このブログの写真は、店先でゆったりとかまえる猫に出会って心が踊り、その気持ちにまかせて撮った猫である。

村上春樹の本に、旅のエッセイが収められた『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)という本があって、そのなかに、奥様である村上陽子が撮影した猫たちの写真も掲載されている。とてもすてきな写真たちだ。

香港の路地裏で、猫に向けてカメラを向けようとしたとき、ぼくの脳裏に、それらの写真たちが浮かんだ。ということを、とくに意味もないけれど、ここに書いておきたい。


ところで、少しまえに、読んでいた本のなかで、町の路地裏に猫(野良猫)たちが登場する。

その本のなかで、著者の平川克美は、自身で「猫の町」と呼ぶ、五反田と蒲田をつなぐ池上線沿線の䇮原中延駅の近くに引っ越してきてから、何か月か後に、道で出会う猫たちと会話をするようになったことを書いている。


 わたしはときどき、猫と対話します。
 「こんにちは。少し話をしようじゃないか」
 「きみたちにとって、この町は住みやすいですか。きみたちの仲間は、どうやって食べ物を確保していますか。病気になったときはどうするんですか」
 こんな質問を投げかけてみるのですが、もちろんわたしは猫語を話せるわけではありませんので、かれらに通じるわけもありません。

平川克美『路地裏の資本主義』(角川SSC新書、2014年)


こんな「猫町」から見ていると、「人間の生活の過剰さ」がよく見えてくると、平川克美は書いている。

そんな「猫町」の猫たちは、つぎのように、平川に問うている(平川克美の耳には、そのように聞こえてくる)。

「あなたたちは、どこへ行こうとしているのですか」と。


「猫町」ではないけれど、香港の猫たちは、果たして、なにを「問う」ているのだろうかと、ここ香港で、ぼくは考えてみたりする。

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音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima

「Mind the step」の連鎖する階段をのぼりながら。- 香港「Tai Kwun(大館)」にて。

香港のセントラルにある「Tai Kwun(大館)」(旧警察署・監獄などの跡地が改造されてつくられた、歴史遺産とアートの文化的空間・施設)。

香港のセントラルにある「Tai Kwun(大館)」(旧警察署・監獄などの跡地が改造されてつくられた、歴史遺産とアートの文化的空間・施設)。

2018年にオープンしたばかりの「Tai Kwun(大館)」は、TIME誌2018年9月3日号/10日号の特集「The World’s Greatest Places 2018」(2018年世界の最も素敵な場所)のなかで、「100 Destinations to Experience Right Now」(今体験すべき目的地100)のひとつとして選ばれた文化施設だ。


その「Tai Kwun(大館)」の敷地内に「JC Contemporary」と呼ばれる現代芸術館がある。

このブログの写真は、「JC Contemporary」内の「階段の風景」だ。

「JC Contemporary」の建物に入ると、レセプションが右にあり、展示物を見るためには左前方の階段をのぼってゆくことになる。階段にあがる手前のところにエレベーターもあるけれども、(確か)フロア・1階・2階からなる建物だから、階段へとふつうにひきよせられてゆく。


見てすぐに気づくように、この階段には、「Mind the step」という表示が、階段の一段一段につけられている。

Mind the step。段差に注意。

それぞれの段の奥ゆきが少し長いのだけれど、特段、段差が高いわけではない。


だから、ぼくの「思考」が少しばかり、混乱する。

こんなになんども注意されなくても、大丈夫なんだけれども、と。

いや、訪問者の人たちに向けて、丁寧に丁寧に伝えてくれているのだろうか。そうだ、でも、ここは美術館。コンテンポラリー・アーツだから、これも「エキシビジョン」のひとつだろうか。エキシビジョンとして、なにかを語っているのだろうか。

写真で見るのではなく、実際に、この階段を一段一段、足元に視線をおとしてゆっくりとのぼるとき、「Mind the step」の文字は、いやおうなく、ぼくの眼と思考のなかに入り込んでくる。


思考の少しばかりの混乱がほどかれて、あとで思ったことは、「mindfulness(マインドフルネス)」のこと。意識・注意を「今ここ」の経験に向けること。

メディテーション(瞑想)とともに、ここのところ注目をあつめてきた「mindfulness(マインドフルネス)」。

「Mind the step」の表示は、一瞬一瞬において、一歩一歩、一段一段へと意識・注意を向けさせる。まるでマントラのように頭のなかでひびきながら。

この現代という時代において、ぼくたちの頭のなかは、いろいろな「声」や「ノイズ」でいっぱいである。歩くという行為、階段をただのぼるという行為のあいだにも、いろいろな声やノイズがやってきては、ぼくたちの意識や注意は「今ここ」から離れてしまう。

アーティストの意図があったり、訪問者たちの受け取り方はいろいろだろうけれど、「Mind the step」の表示が連鎖してゆく「JC Contemporary」の階段を思い出しながら、そんなことをぼくは考えている。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、「魚蛋河紛」の麵を食べて。- 2018年の終わりに。

香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋では暖房を稼働させている。

香港では、クリスマスを過ぎたころから、「香港の冬」の寒さがようやく訪れている。クリスマスのころは昼間は半袖で過ごすほどであったけれど、今は結構着込んで、部屋ではヒーターを稼働させている。

きりっとした空気がながれる2018年大晦日、香港の空はひきつづき、しずかな雲が織りなす風景をみせている(ブログ「香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。」)。

こんな日には、日本にいれば「年越し蕎麦」が選択肢のひとつだろうけれど、海外に長く住んでいると、選択肢はいろいろだ。

香港に来るまでは知らなかったのだけれど、香港では「うどん」(烏冬)はごくごく日常で食されている。でも、「蕎麦」はどうしてか、浸透していかない。うどんはいろいろなレストランのメニューに組み込まれ、うどん専門店も人気だけれど、蕎麦はそのようなわけにはいかないのだ。

なぜなのかは、よくわらかない。香港の人たちともそんなことを話したことがあったけれど、その「理由」までは深く入り込むこともなく、理由は定かではない。

蕎麦の独特の味があわないのか、あるいはとてもおいしい蕎麦にありつけないからなのか。ひとつぼくが思うのは、麺と具やスープ(あるいは、たれ)とがつくりだす世界という視点で、うどんのほうが、多様性をひらいているからではないかということ。つまり、うどんは、どんな具やスープやたれとも、大体において、組み合わさることができるから、ということである。

香港の食堂で、朝食に提供されているマカロニスープなんかを見ていると、そう思ったりするのだ。香港という、いろいろなフュージョン料理を花開かせる場所は、うどんのように、多様な組み合わせを実現させてくれる素材がうけいれやすいのではないかと思ったりするのである。

あくまでも、ぼくの仮説のひとつである。

ぼくはどちらかというと「蕎麦派」なので、香港でおいしい蕎麦(立ち食い蕎麦でもよいのだけれど)がないことは少し残念に思ってきたのだけれど、ここは香港、その他いろいろな麺類を楽しむことができるわけだし、現地では現地のものがやはりおいしい。

香港にいて無理してまで年越し蕎麦を食べるつもりもなく、でも、外は結構寒く、年越し蕎麦が暖かいスープ麺を連想させることから、「魚蛋河紛」の麵を大晦日に食べることにした。

「魚蛋河紛」は、英語ではFishball Noodleが近い。麺はきしめんのような麺で、具として、つみれ(魚団子)やはんぺんなどがつく。

香港では相席が日常であり、大きなテーブルに相席ですわり、香港の人たちに混じって食べる。食べながら、すっかり、心身が暖かくなる。香港各地に専門店があって、有名店はいつも人が並ぶ。今日も、早めに行って麺を楽しみ、食べ終わってお店から出ると、外は行列であった。

香港のスピーディーな速さのなか、わいわいがやがやとエネルギーのみなぎる店内で、いつものように「魚蛋河紛」を楽しみ、店をあとにしてから、ぼくは、「香港」の風景を、なぜだかどこか遠くから見ているような、懐かしく見ているような、そんなふうに感じるのであった。

なにはともあれ、香港での一年が、ふたたび過ぎようとしている。

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香港, 総論 Jun Nakajima 香港, 総論 Jun Nakajima

香港の「空」を見ながら。- 香港の、陽光としずかな雲の織りなす風景。

暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。

暖かい陽気のクリスマスのあと、ようやく、香港に「冬」がやってきたようだ。陽光は暖かさをふりそそいでいるけれど、ときおり吹く風が冬の冷たさをはこんでくる。

道をゆく人のなかには、半袖であったり、サンダルを履いている人もいるから、いつもながら、なんとも捉えどころのない冬ではあるのだけれど、やはり季節はうつりかわりを見せている。

香港の街は大気の問題からどこかうっすらと曇りがかったようでいるのだけれど、香港の「空」では、暖かな陽光としずかに動きゆく雲たちのコラボレーションが鮮やかにきらめきをつくりだしている。

ふーっと、心がもちあがるように、すいこまれる。

2018年も終わろうとしているなか、でも、そんなことを気にするふうでもなく、香港の「空」は、この地球の美しさをたたえている。


<人間の生きることの歓び>は、ただ、このような経験のうちにあったりする。そんなことを、ぼくは思い起こす。

「発展途上国の開発・発展と国際協力」を研究していたころ、「人間のベーシックニーズ」(住まいや食べ物や水など)ということにふれ、「ニーズ」ということを正面から考えていた。そのようなとき、見田宗介の名著『現代社会の理論』に出会い、その本のなかで語られる<人間の生きることの歓び>に、ぼくはすっかり惹かれて、いくどもいくども読み返すことになった。


…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
 どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)


「ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受」する。

「必要(ニーズ)」よりも歓喜と欲望は本原的であると、見田宗介は書いている。だからといって「必要」をおろそかにしていいということではないけれど、「生きる」ということが、「最も単純な歓びの源泉」であることの経験と享受と理解は、決定的なものであるように、ぼくは思う。

この源泉は、いま、そしてこれからの時代を、一歩、一歩、あゆんでゆくための、たしかな土台である。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、日本産の「さつまいも」を選びながら。- 「さつまいも」への視点。

「さつまいも」がいっぱいに積まれている。

「さつまいも」がいっぱいに積まれている。

日本のいろいろな産地・農場の「さつまいも」だ。ぼくの生まれ故郷である浜松の「うなぎいも」(うなぎを肥料として栽培されたさつまいも。浜名湖のうなぎと遠州浜のさつまいものコラボレーション)も並んでいる。

ここ香港の、スーパーマーケットの光景だ。

さまざまな産地・農場の「さつまいも」が、ほんとうにいっぱいにならんでいる。ここ数ヶ月、ずっとそんな様子だから、香港の人たちはそんなにたくさんの「さつまいも」を食べる習慣があったかどうか、途中から疑問がわいてくる。

香港での「さつまいも」と聞いて、ぼくが思いつくのは、デザートである。「糖水」のひとつで、しょうがのスープにさつまいもが入っている。とてもシンプルなデザートで、身体があたたまる。家でもつくることのできるデザートだけれど、「糖水」を提供するような香港のデザート店で食することができる。

「さつまいも」と聞いてすぐに思いつくのは、そのくらいなのだ。だから、たくさんの日本産「さつまいも」を前にしながら、ふと気になってしまうのである。


香港で10年以上暮らしながら、香港で受け入れられる「日本食」や「日本食食材」の動向が気になったりするのだけれど、たとえば、「納豆」がより日常化して、香港のスーパーマーケットで売られるようになってきたのを実感する。香港に住んでいる日本人だけでなく、香港の人たちも購入している。

「さつまいも」も、ここのところスーパーマーケットでよく見られるようになっていて、日本からの市場開拓と輸出がすすんできたのだろうと思いながら、また供給が増えたことから価格もよりリーズナブルになってきている恩恵も受けながら、ぼくは「さつまいも」を購入する。こうして、日本産の「さつまいも」はやはり甘いなぁと感じながら、おいしくいただくのである。

そうしているあいだにも、スーパーマーケットには、日本から輸入された「さつまいも」が、ひきつづき、いっぱいに並んでいる。さらに、増えたようにも感じるほどだ。


そのようにして「ふと気になったこと」を、ぼくは、香港の友人に直接に聞いてみる機会があったので、聞いてみることにした。

香港の人たちは、どのようにして「さつまいも」を食べるのか。

「デザートとして食べますよ」と、ぼくが連想していた、しょうがとさつまいもの「糖水」が最初の応答であった。

でも、それだけでは、来る日も来る日もスーパーマーケットに並ぶ「さつまいも」の事情は説明しきれない。だから、ぼくの質問の背景を説明して、再度聞く。

「そのままでも食べるよ。ふつうにふかすなどして」

日本産の「さつまいも」はとても甘く、最近は価格もリーズナブルになってきているから、よく食べられているのではないかと、友人は話してくれる。

ぼくは別に突飛な回答を期待していたわけでもないから、話を聴きながら、ふつうに納得してしまう。


「さつまいも、香港」でグーグル検索をしてみると、日本の農家の事情、香港・台湾・シンガポールの市場開拓など、記事や動画などで知ることができ、これがなかなかおもしろい。

日本では小さい「さつまいも」の市場価値がひくいところ、香港では(料理しやすいことなどから)小さいものが好まれると見た農家が、そこに特化してゆく様子などが語られていたりするのだ。

いろいろな人たちの、いろいろな事情が、いろいろな仕方で絡まり、つながりながら、香港のスーパーマーケットに日本産の「さつまいも」が、こうして並んでいる。

そのような新たな「視点」が、いっぱいに積まれている「さつまいも」に、いっそう興味をもつことの契機となる。いつも見ていたなんでもない風景が、「いつもとは違う」風景として見えてくる。


そんな香港のスーパーマーケットの野菜売り場で、「さつまいも」を前に、状態のよいものを選ぶ。選んでいると、ふと、香港の人たちも立ち止まって、「さつまいも」を選びはじめるのであった。

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香港, 日本 Jun Nakajima 香港, 日本 Jun Nakajima

香港で、「納豆」を食べながら。- 香港で日常化する「納豆」。

2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。

2002年から海外に住むようになって16年が経過し、それ以前のニュージーランドでの滞在(1996年)も含めると、通算で17年ほど海外に住んでいることになる。これまでの人生の40%ほどの「時間」が、日本の外であったことになる。

海外にいながら、日本と「海外」の<あいだ>のようなところで、いろいろと経験し、いろいろと考え、いろいろと感じてきた。

そんななかで「納豆」を媒体としながら、考えることもあったりする。「納豆」とは、あの、食べ物の「納豆」である。


ここ香港で暮らしながら、ぼくは結構な頻度で「納豆」を食べている。その頻度は、今では日本に住んでいたときと変わらないくらいである。

香港に住みはじめてから11年半ほど経過したが、そのあいだに、納豆はますます容易に手にいれることができるようになってきた。

香港に来た最初の頃は、たとえば、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるSOGOの地下、あるいは日本人が多く住むTaikoo Shing(太古城)にあるAPITAに行って、納豆を含め日本食材を購入していた。それが、最近では、香港系のスーパーマーケットでも、まるでこれまでずっとそこにあったかのように、納豆が並んでいる。

納豆を購入する人が日本人だけにかぎらず、マーケットが拡大してきたのだろう。このようなマーケットの拡大のお陰もあって、納豆が容易に手に入るようになり、ぼくはいつでも好きなときに納豆を食べることができるのだ。


ニュージーランドにいたときはどうだっただろうかと、ぼくは思い返す。ニュージーランドのオークランドで、ぼくは日本食レストランで働いていて、果たしてレストランで納豆を供していたかどうか。さすがに、1996年のことで、ぼくの記憶は定かではない。でも、普段食べることはなかったことを、ぼくは覚えている。日本食食材のお店も、当時は小さなお店があっただけである。

2002年から2003年にかけて西アフリカのシエラレオネにいたときは、さすがに納豆はなかった。シエラレオネにいる日本人は一桁であったし、日本食材というものは、海外で造られたキッコーマンの醤油のようなものを除いてはなかったと思う。アフリカと日本との「距離」をさすがに感じたことを覚えている。

でも、2003年の半ばに東ティモールに移ったときは、驚かずにはいられなかった。当時、まだ日本の自衛隊が東ティモールに展開していたことの影響もあっただろうけれど、日本食レストランがあり、また、日本食食材(製造場所は海外も含む)も、品数は相当に限られながらも、手に入れることができたからだ。そして、その限られた日本食食材のなかに「納豆」があったのだ。

華人の人たちによって経営されているスーパーマーケットに「納豆」があったのだけれど、でも、さすがに購入はしなかった。その納豆は「冷凍」されていて、いつからそこにあるかわからないようなものであったからだ(多分、賞味期限も切れていたのだと思う)。しかし、なにはともあれ、東ティモールで納豆を手に入れることができる。そのことはやはり驚きであり、また日本との「近さ」のようなものを、ぼくは感じたのであった。

そして2007年にここ香港に移り、日本食食材の充実さにぼくは圧倒され、それ以降、ますます充実してゆく日本食食材を享受してきたことになる。


海外に住みながら、<ふるさと>の感覚を感じるときはどんなときだろうと、ぼくは考えたことがあった。ぼくが住んできた場所で、日本からもっとも遠いシエラレオネの地で、より正面からぼくは考えはじめたのだと思う。

そのときに思ったのは、<ことば>(ぼくの場合は「日本語」)であり、また<食べ物>(ぼくの場合は「日本食」)であり、そして、<親しい人たちの存在>ということであった。

もちろん、地球を「ふるさと」とする感覚においては、どの場所をも<ふるさと>とする感覚をもつことは不可能ではない。でも、そのこととは異なる次元において、どんなときに、どんなものに<ふるさと>を感じるのだろうかと、ぼくはこのじぶんの身体の経験を通じて、正面から考え、ことばと食べ物と親しい人たちを<ふるさと>として感じたのであった。

でも、時代は急速に変わってきた。グローバル化の進展と情報通信技術の発展で、ぼくたちは、世界のどこにいても、たとえば日本語で会話し、親しい人たちとつながることができる。場所によっては、日本食も(お金はかかるかもしれないけど)容易に手に入れることができる。だからなのか、日本からだいぶ足が遠のいてしまっている。

香港で納豆をかき混ぜながら、ぼくはそんなことを考える。「納豆」に、<ふるさと>をどこか感じながら。

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音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima

「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。

ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。

先日(2018年12月18日)に、ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。

香港のHMVは25年ほど前に香港に登場し、音楽シーンの中心的役割の一端を担ってきた。ぼくが香港に来た2007年、HMVには多くの人たちが出入りしていた。

当時は、映画などはDVDだけでなく、VCDもあって、HMV内にもVCDコーナーが設置されていた。音楽CDの品揃えは香港内ではやはり群を抜いていたから、ぼくは時間を見つけては、銅鑼灣(Causeway Bay)、中環(Central)、九龍湾(Kowloon Bay)のHMVに立ち寄ったものだ。

驚いたのは、日本で購入するよりもリーズナブルな価格でCDもDVDも購入できたこと。そんなこともあって、結構いろいろなCDとDVDを香港のHMVで手に入れた。当時よく聴くようになっていたクラシック音楽をはじめ、香港の生活のなかで縁の深かったビーチボーイズ(特に、名盤「ペット・サウンズ」)など、ぼくの香港生活においてなくてはならない「音楽」は、その多くをぼくは香港HMVで手に入れたのであった。

香港で、CDとコンサートがひとつの「セット」のような仕方で、ぼくは音楽を楽しんできたと、10年以上の香港生活をふりかえってみて思う。

ノルウェイのピアニストであるLeif Ove Andsnesが弾く「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850を、その息づかいが身体にしみこむまでCDで聴いていたところ、彼がマーラー室内管弦楽団とともに香港にやってきた。ピアノを弾きながら指揮をするという興味深い形式のなか、とても親密で繊細な音楽を、この身体で聴くことができた。

ビーチボーイズも50周年記念のコンサートツアーで香港にやってきた。ブライアン・ウィルソンの存在感とともに、休憩を挟んで3時間におよぶパワフルなステージを堪能できた。

Coldplayも、ぼくは香港に住みながら初めてその音楽に触れ、そして、香港のコンサート会場で、一体感につつまれるあの音楽を楽しむことができた。


でも、このような時間的経過のなかで、音楽が提供される「形式」は、深い変遷のなかにあったのだ。iPodのなかに収められる音楽の曲たちは、いつからかiPhoneなどのスマートフォンのなかに移住してゆく。CDからiTunesを通してiPodに収められた音楽の曲たちは、いまでは、Apple Musicのような「音楽ストリーミング」サービスによって、いつでも、どこでも、ぼくたちの手元と耳に届くようになった。

さらにぼくが生きてきた40年余りの時系列のなかに音楽媒体を見渡すと、レコードとカセット、CD(またMD)、それからデジタルへと、音楽媒体は目まぐるしい変遷をとげてきたことを思う。これらの変遷が、たった40年近くのあいだに、一気に進んだのだ。そんな特別な時代に、ぼくは生きている。

カセットテープは10代の頃、重宝した。その当時のだれもがしていたように、じぶんなりの曲構成で、オリジナルのカセットテープを作成したりしていた。1996年にニュージーランドにいるときは、なぜかカセットテープがよく売られていて、CDに比べ安価だったから、ぼくはカセットテープと共に生活していた。

レコードはレコードがコレクターアイテムとして扱われるようになってからも、ぼくはときどき聴いていた。東京の街で、ビートルズのレコード盤を手に入れ、そこに、1960年代の音を聴いた。

それからCDも、東京の街をいろいろと歩きまわりながら手に入れた。香港に移ってからも、香港HMVで、それは続いたのであった。


この10年をふりかえって、CDやDVD離れの傾向のなか、香港HMVもずいぶんと、いろいろな手立てを立てて、存続を企図してきていた。ヘッドフォンなどの機器類、レコードのレア品、本や雑誌、グッズ、レストラン併設など、幅を広げてきていた。でも、確実に、出入りする人は減っていた。

その減少と入れ替わるようにして出現してきた「音楽ストリーミング」、またNetflixのような「映像ストリーミング」。これらの時代の到来は明らかであったし、だれもが実感していることではある。でも、実際に、店舗が閉じられるということになってみて、この時代の変遷がいっそう、実感をともなって感じられる。


必然の流れでありながら、やはり寂しくも感じる。でもよい面だって、ある。ストリーミングという形式は、CDやDVDのような「マテリアル・物質」に依存することなく、現代社会の抱える環境・資源問題から、より自由な仕方で(環境への負担を軽減し、資源収奪的な要素が減った形で)、音楽や映像を共有することができるということでもある。

そして、あたりまえのことだけれど、「音楽」を聴くことができないわけではないし、「音楽」が聴かれなくなったというわけではない。「音楽」はなくならない。東京の街や香港の街を歩きながら、聴きたかった音楽、あるいは予期もしない音楽に出会うという楽しみはなくなったけれど、音楽との「出会い」そのものがなくなるわけではない。

「音楽ストリーミング」という何千万曲もの音楽を収めた音楽ライブラリーの宇宙が、手元に存在している。その宇宙の入り口が、手元にあるのだ。音楽を聴く者としては、それは夢のような世界だ。

もちろん、音楽産業(音楽を作ったり販売したり配信したりする側)としては、異なる見方がいろいろあるだろう。

この文章を書きながら、だいぶ前(数年前)に手に入れた著作『How Music Got Free: The End of An Industry, The Turn of The Century, And The Patient Zero of Piracy』by Stephen Witt(Viking, 2015)のこと、その本をまだほとんど読んでいないことを思い出した。(ぼくにとって)この本を読むタイミングが熟したのかもしれない。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港の「エスカレーター」の利用のこと。- 日本と香港の「片側空けのマナー」から。

日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む。

日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む(乗りものニュース「危険なマナー『片側空け』は変わるか エスカレーター「歩かないで!」東京駅で対策)。

急いでいる人のためにエスカレーターの右側を空けることが、東京や東京周辺で「マナー」となっているなかで、エスカレーターの「片側空け」というマナーを変えようというのだ(この「マナー」がはたして、日本のどのくらいの地域に及んでいるかはぼくは知らないけれど)。こうして、エスカレーターでは歩かないこと、手すりにつかまること、左右2列で乗ることなどが、推奨されている。

消費者庁にデータも掲載されていて、東京消防庁管内では2013年までの3年間で、なんと、3865人がエスカレーターでの事故(ほとんどが点灯・転落)で救急搬送されているという。数値で見ると、問題がよりいっそう深刻さの容貌を見せる。

歩行対策によってエスカレーターを歩く人は減ったようだけれど、「意識を切り替えてもらう」ことの難しさを、JR東日本の担当者の方は語っている。

ニュースを読みながら、ここ香港での状況が、ぼくの頭のなかで交差してくる。

香港の「エスカレーターの状況」をかんたんに述べておくと、3つのことが挙げられる。


● エスカレーターの「スピードが速い」

● エスカレーターの「片側空け」は香港でもマナーとなっている(つまり、急いでいる人は片側を歩く)

● (東京と逆で)「左側」を空ける(つまり、急いでいる人は左側を歩く)


香港に長く住んできた今となっては慣れてしまったけれど、香港のエスカレーターの「スピード」は、圧倒的に速い。場所によっても(またメーカーによっても)異なるけれど、日本の1.5倍~2倍の速さはあるのではないかと思う。日本のエスカレーターに慣れていたぼくにとって、最初の頃、少し怖いくらいの速さであった。

でも「慣れ」というものはすごいもので、香港のエスカレーターの速さに慣れてしまうと、今度は日本のエスカレーターの遅さにイライラしてしまったこともある。とにもかくにも、香港のエスカレーターは速い。


その速いエスカレーターであっても、香港の「速さ」をカバーしきれないようで、「片側空け」は香港でもマナーとなっている。そして上述のように、東京とは逆で、「左側」を空ける。日本に戻ったときに、ぼくはつい「左側」を空けてしまうこともあったし、逆に、香港に戻ってきて、つい「右側」を空けてしまうこともあった。

はたして、左側や右側を覚えているのは、意識なのか、身体なのか、あるいはそのあわいのような心身なのか。

いずれにしろ、速いスピードで動くエスカレーターの、空いた片側を、急いでいる人は、また空いた片側に押し出された人は、歩くことになる。下りのときは、歩くというよりも、早歩きとなるといったほうが正確である。

ぼくも以前は、急いでいるときや列ができているときは空いている片側を歩いたし、今でも、人がいっぱいのときは、空いている片側を歩いたりする。空いているときなどは歩かないし、また歩くときにも、せめて、手すりに手をかけながら歩くようにはしている。

さらに、香港では、しばしばエスカレーターが不調を起こし、ショッピングモールなどのエスカレーターでは、2列(上がりと下り)のエスカレーターの一方を止めて修理にかかり、もう一方のエスカレーターも止めて「歩く」ために開放する。つまり、止まったエスカレーターを、上がる人と下る人が共有するのだ。段差があるから、上がるのは大変だし、下るのは気をつけなければならない。この状況が結構頻繁に発生することになる。


香港と日本との共通性としてくくりだすのであれば(もちろん個人差は多分にあるし一概には言えることではないことは承知のうえで言えば)、「急ぐ」ということが挙げられる。けれども、その内実は、香港では「速さ」、日本では「時間の正確性」というところに重心を置いた「急ぐ」である。

そんなことをぼくは考える。

それにしても、エスカレーターの利用の仕方を、啓蒙的に(たとえばポスターなどのメッセージで)変えることは、やはりむずかしい。

香港のエスカレーターを利用しながら、ぼくの意識と利用の仕方が少しなりとも変化をしてきたのは、じぶんをあるいは周りをより客観的に見る、ということによってであった。

エスカレーターの空いている片側を歩くことでどれだけの「時間」を短縮できるか、ということを実感したり、あるいは観察してみると、使うエネルギーの割にはそれほどの短縮効果がないことを、ぼくはあるときに客観的に考えた。あるいは、状況を見ながら、やはり2列でエスカレーターを利用したほうが、総体的にはエスカレーターの運搬能力は高いことがわかる。

ときには、「エスカレーターの利用の仕方」ということを超えたところ、じぶんの生きかたを見直してゆく過程で、たとえば心に「余裕」をもちたいと思ったこともあった。駅では、階段を使うことで少しでも身体を使おうと心がけることもある。そのような経験のなかで、ぼくの意識や行動は多少なりとも変わってきたように、ぼくは思う。

「エスカレーターの利用」の意識を変えるためには、「エスカレーターの利用」を超えたところに意識や行動が向かうことが、ぼくにとっては有効であったのだ。それは大きく言えば、生きかたを変えてゆくことでもある。

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香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

海外をつなぐ「ビデオ通話」のこと。- 手紙とポストカードのノルタルジアとともに。

1990年代に、アジアを旅したり、ニュージーランドに住んでいたりしたときには、まだ、ビデオ通話はなかった(方法はあったかもしれないけれど一般的ではなかった)。もちろん国際電話はできたのだけれど、それなりにお金もかかるし、余程の急ぎの件がなければ国際電話はしなかった。

1990年代に、アジアを旅したり、ニュージーランドに住んでいたりしたときには、まだ、ビデオ通話はなかった(方法はあったかもしれないけれど一般的ではなかった)。もちろん国際電話はできたのだけれど、それなりにお金もかかるし、余程の急ぎの件がなければ国際電話はしなかった。

だから、ふつうのときであれば、旅先から、あるいはニュージーランドの住まいから、ぼくは「手紙」や「ポストカード」を手書きで書き、また家族や友人たちのなかには手紙やポストカードを送ってくれる人たちもいた。あるいは、東京に住んでいると、ときおり、海外を旅している友人たちからのポストカードが届いた。

相手のことを思いながら書き、手紙やポストカードのなかに相手を感じる。それはとても「しあわせ」なときであったと、ぼくは思う。

そのような、日本と海外の距離(感)、あるいは親しい人たちとの距離(感)が、海外を旅したり海外に住んだりすることを、いっそう「特別なこと」のように感じさせたのであった。


2000年代になって、情報通信技術の発展によって、インスタント・メッセージやビデオ通話などが一般的になってきて、この「距離・距離感」が一変した。

「インターネット環境」が整っていれば、世界のどこにいても、この「距離・距離感」を一気に縮めて、いつでも誰かとメッセージをやりとりしたり、通話することができるようになった。ぼくが2000年代半ば頃に西アフリカのシエラレオネや東ティモールに住んでいたときは、さすがにネット環境が整っておらず、実際の距離も、そして距離感も「遠く」に感じたものであったけれど、それでもインターネットがある環境ではすぐさま「つながる」ことができた。

2010年代は、スマートフォンの普及もあって、この「つながり」が、いつでも、どこでも容易になった。

いまぼくは、ここ香港でこうして文章を書いているけれど、こうしていながら、世界各地へ/から、メッセージや通話でいつでも「つながる」ことができる。手紙やポストカードを書き、あるいは受け取っていた時代が、それほど遠くない過去であるのにもかかわらず、はるか遠くの過去のように感じられるのである。

この「つながり」は、ほんとうにすごいことだし、ありがたいことだし、よろこばしいことである。けれども、手紙とポストカードの時代を、ぼくは懐かしみながら、あの「感覚」が失われつつあることが残念であるようにも思う。

もちろん、今だって、手紙やポストカードを届けることができるし、そうすることでいつもとは違った気持ちをのせることができるのだけれども、それでも、いつでも容易につながることのできる状況がいつも手元にあることを思うと、1990年代のときとは「違う」という感覚がぼくのなかで湧き起こる。


それでも、そのような少し残念のような気持ちをふきとばすような光景に、ぼくはここ香港で、出会う。

香港には、35万人を超える「Domestic Helper」(つまり、住み込みのヘルパーの方々)がいて、ほとんどがフィリピンとインドネシアから来ている人たちだ(香港政府の特別なスキームで香港に滞在している)。香港の人口が740万人ほどであることを考えると、35万人という人数のすごさを感じる。実際にも、マンションでも、通りでも、ショッピングモールでも、どこでも、ヘルパーの方々にすれ違い、この香港で共に共生しているのだ(香港に来るまで、ぼくはこの状況を知らなかった)。

そんな彼女たちが、通りを歩きながら、とてもうれしそうな表情をみせている。そして、すれ違うようなとき、ぼくは気づくことになる。彼女たちは、スマートフォンのビデオ通話で、おそらく、ふるさとの家族やパートナーやボーイフレンドや友人たちと通話をしているのだということ。

こちらが見ようとしなくても、どうしてもそのような光景が目に入ってしまうのだ。でも、ぼくを捉えるのは、彼女たちの笑顔だ。

そんなとき、ビデオ通話があること、ビデオ通話がいつもできるような環境であることを、ぼくはほんとうにすばらしいことだと思うのである。手紙やポストカードへの、ぼくの小さなノスタルジアなど、一気に吹き飛ばしてしまう笑顔なのだ。

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香港, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港で、「香港のもの」と「香港ではないもの」を求めて。- 「ここというところへ」と「ここではないどこかへ」。

香港にいるのだから「香港のもの」を楽しみたい。どこにいても見たり聞いたりできるものではなく、香港だからこそ、見ることができるもの。

香港にいるのだから「香港のもの」を楽しみたい。どこにいても見たり聞いたりできるものではなく、香港だからこそ、見ることができるもの。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)で開催されている2018年クリスマス企画「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」では、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景が、ミニチュアで再現されている。香港で「消えゆく記憶」を、香港の二人のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、ミニチュア作品というメディアにのせる。

展示されている6つの作品は、とても精巧にできていて、とても親密だ。そんなことを、ブログ「香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。」に書いた。

<クリスマス+香港>の組み合わせに「香港」をより親密に見ることができる。クリスマスという「時間」を先にしてそのように書いたけれど、それは、むしろ、<香港+クリスマス>と言ったほうが正確である。「香港」という空間のなかに、クリスマスシーズンという時間の風景が加味されている。

いずれにしろ、「香港の風景」を前面に出しながら、ぼくは「香港のもの」を楽しむことができる。


けれども、「香港のもの」を楽しみたいという欲求とともに、「香港ではないもの」を楽しみたいという欲求も、ぼくのなかにはある。せっかく香港にいるのだから「香港のもの」を楽しむ、ということとともに、香港にいるけれど、あるいは香港にいるからこそ、「香港ではないもの」へと気持ちが向かう。

香港は「国際都市」と言われてきたように、そこには世界のものが何でもある。「日本のもの」もあらゆるところにある。そのような環境のなかで、香港式の食事を提供するレストランは、たとえば、「香港の」という形容詞を、店舗名やメニューに入れなければならなかったりする(※なお、「香港式」とはなんぞや、という議論が別途ではいろいろありうるのだけれど)。

このことは別に香港だけに限ることではなく、東京にいても、そこは世界のいろいろなものであふれている。

そのような場所で、「ここというところへ」向かう欲求と「ここではないどこかへ」向かう欲求が、ともに、じぶんのなかに存在することになる。東京にいたときは「ここではないどこかへ」という欲求がぼくのなかで強かったのだけれど、そののちに住むことになった、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そして香港と、どこにいても、これら二つの方向に向かう欲求が、ぼくのなかで共存してきたのだということができる。

それはやはり「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」(真木悠介)ということだろうかと、これら二つの欲求を感じるとき、ぼくはじぶんの感覚を確かめるのであった。


また、こんな見方もある。

社会学者の見田宗介(見田宗介)がとりあげている、ドイツの劇作家・詩人・演出家であったベルトルト・ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)はつぎのように語る。


<むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました>

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)※その後『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)に所収


「幻想の相互投射性」。そう、見田宗介は読みとる。「白いお城」か「花咲く野原」の、いずれかが魅力的なのではなく、いずれもが魅力的であり、人に幻想を抱かせるほどにメルヘン的である。「<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理」(見田宗介)。世界の「あり方」のことである。

あるところに住みながら、ぼくたちは「ここではないどこか」を夢見る。でも、やがて、そこへ住むことになり、今度は「あるところ」を夢見る。

生まれ故郷の浜松を離れ、東京・埼玉、ニュージーランド、シエラレオネ(西アフリカ)、東ティモール、香港に住んできた過程で、ぼくは「根をもつことと翼をもつこと」の根源的な欲求を感じ、そして、「<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理」を実感する。

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香港, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 香港, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。

この企画では、香港のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景を、ミニチュアで再現し創り上げている。1980年代のクリスマスの時期に、アミューズメント・パークで楽しむ人たち、映画を楽しむ人たち、食事を楽しむ人たちなど、6つの風景がミニチュアで創られているのだ。そのなかのひとつは、アーティストが33名の生徒さんたちと一緒に創った労作でもあるという。

とても精巧に創られていて、1980年代の香港を知らないのにもかかわらず、その当時の風景がイメージとして浮かび上がってくるかのようだ。その精巧さは、展示場の年配の警備員の方が、当時はこのようだったんだ、というようなことを、展示を見に来ている人に熱心に説明したくなるほどである(実際に警備員の方は熱心に説明されていたようである)。

Times Squareの入り口に設置された特別展示会場での展示であり、小さな場所の、小さな展示(展示物自体が「ミニチュア」)なのですが、<クリスマス+香港の風景>の組み合わせによって、「香港のもの」(作者も、対象も)を見ることができて、ぼくはうれしく思ったのであった(なお、「香港の風景」と言えば、Times Squareの中にある「LEGO」の店舗にはレゴのブロックで創られた香港の風景があって、とても精巧精密にできていて圧巻である)。


<クリスマス+香港の風景>をミニチュア作品のなかに見ていたのだけれど、気にかかったのは「1980年代」の風景であったということ。

ミニチュアを直接に見ているときは、その精巧な世界にひきこまれていて不思議には思わなかったのだけれど、あとになって、ふと思うのであった。なぜ「1980年代」なのだろう、と。30年以上もまえの「香港の風景」が、どうして呼びだされたのだろうか、湧き上がってきたのだろうか、ということを、ぼくは考えてしまったわけである。

この企画の広告にも記載されているように、あるいはアーティストのTony Lai氏とMaggie Chan氏にかんする記事にあるように、それは香港のよき時代の記憶/失われた記憶へとつれもどしてくれるメディア、あるいは「乗り物」としてのミニチュア作品であるのかもしれないけれど、はたして、そのような記憶に登録されている「香港」というものはどのような「香港」であったのだろうか。めざましい経済発展を成し遂げてきた1980年代以後の香港が手に入れたものは何で、失ったものは何であったのか。

ぼくにはそのことはわからない。想像はできるけれど、ぼくの直接の経験がベースになっているわけではない。

ぼくが生きてきた「日本」の経験に即しながら、しいて言えば、「平成」の時代から振りかえる「昭和」の風景かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。イメージとしては、いわゆる、「レトロ」なイメージである。

昭和の時代のレトロな風景に向かう心情(レトロな風景と、そのような風景に息づく人間模様や風情や心境など)が、1980年代の香港の風景に向かう心情と、どこか重なっているかもしれないと思ったりするのだ。実際に、ミニチュア作品のなかに見られる、街頭の「屋台」などが、そのような見方を少しは裏づけているかもしれない。

でも、記憶というものは、過去の記憶を「純化」してゆく作用ももっている。記憶は、当時の風景からいろいろなものを捨象していって、美しい風景へといくぶんか「純化」してゆくのだ。それは「間違った記憶」ということもできるかもしれないけれど(そして記憶は多分にして「再構成された/再解釈された記憶」であるのだけれど)、ぼくは、そのなかには「真実」も含まれるのだと思う。

そのようにして記憶として純化されながらも、確かにそこにあった「真実」とは何であったのだろうか。その「真実」は、いまとなっては失われてしまった(あるいは失われてしまったかのようにみえる)のだろうか。また、それと同時に、何かを手にしてきたのであれば、それは何であったのだろうか。

さらに、それらは、深いところで、「ぼく」の経験や感覚とつながっているだろうか。つながっているとしたら、どのようにつながっているのだろうか。

ミニチュアではなく、窓の外に見える香港の高層ビルの明かりを見ながら、ぼくはそのような問いを明かりに向けて投げかける。

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観客の女の子の「声」がつくったミュージカル。- 香港で鑑賞したミュージカル『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)。

香港の湾仔に位置する「The Hong Kong Academy for Performing Arts」(香港演芸学院)のシアターでは、毎年ミュージカル公演がある。2019年1月には『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)が開幕する。

香港の湾仔に位置する「The Hong Kong Academy for Performing Arts」(香港演芸学院)のシアターでは、毎年ミュージカル公演がある。2019年1月には『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)が開幕する。

『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)は、ABBAのヒット曲によって構成されるミュージカル。2008年には映画化(メリル・ストリープなどが出演)もされ、今年2018年には映画第二作目『Mamma Mia! Here We Go Again』が上映されている。

だいぶ前(5年以上前だと思う)、香港の『Mamma Mia!』ミュージカル公演を観に行ったことがあって、そのときの「観客の女の子が発した声」が、いまでも、ぼくのなかに鮮やかにのこっている。


シアターに鳴り響いた「女の子の声」にたどりつくために、『Mamma Mia!』の「あらすじ」に、かんたんに触れておかなければならない。なぜならば、「女の子の声」が響きわたったのは、上演の最後のほうであったからである。

『Mamma Mia!』は、ギリシャの島の小さなホテルを舞台に、そのホテルの経営者である母親ドナと娘ソフィ、さらにソフィの父親かもしれない男性3名が加わって展開してゆく物語。

婚約者スカイと結婚する準備をすすめているソフィは、結婚式では父親にバージンロードを一緒に歩いほしいと願うが、父親が誰だかわからない。ソフィは母親ドナの日記の記述から父親の候補者3名を見つけだし、ドナに内緒で結婚式に招く。内一人が父親かもしれない3名の男性、サム、ビル、ハリーが島にやってくることになって、美しいギリシャの島で、ドラマが繰り広げられてゆくのだ。

そんなこんなで話は進展し、いろいろなドラマを通過しながら、最後のところで、男性の一人がドナにプロポーズをすることになる。こうして、男性がプロポーズの言葉をドナに投げかけるのだ。

「Would you marry me?」

たぶん、だいたいこのようなシンプルなプロポーズの言葉であったと記憶している。

このころには、ぼくを含め、観客の人たちは「物語の世界」にかんぜんに没入していて、息をひそめているように静かであったと思う。

と書いたところで、もうおわかりかもしれない。

このときの息をのむような静けさの空気を割ったのは、ドナではなく、観客の小さい女の子の「声」であった。

「I do!!!」

小さい女の子の声で「かわいい」声なのだけれど、凛としていて、とても澄んだ、確信に満ちた声が、会場をつらぬいたのであった。「つらぬいた」と書いたが、女の子が座っているであろう会場のちょうど真ん中あたりの席から、空気をつらぬいて、言葉が舞台で演じている出演者に<届けられる>のがわかるような声であった。タイミングも、かんぺきなタイミングであった。

舞台の上ですすむドラマにかんぜんに入りこんでいた会場は、どっと、笑いと歓声とで湧いた。

この雰囲気のなかを、ふたたび舞台の上にドラマをもどす出演者の方々のプロフェッショナリティもさすがであったけれど、女の子の「声」がいっそう<ドラマ>をつくったのであった。

それにしても、あのような透きとおるような「声」を聴いたのは、これまでにそれほど多くはないと、ぼくは思う。

「子ども」とは、じぶんと他者、またじぶんの「からだ」と「こころ」が未分化であったり、曖昧であったりする存在でもある。

そのように曖昧な輪郭の<境界線>が物語のなかでくずれて、意識することなく、あの女の子の身体が、あのような透きとおる声を発したのだと、ぼくは考える。


いつもミュージカルを観にいくわけではないし、たくさん観てきたわけでもないけれど、ここ香港で観たミュージカル『Mamma Mia!』は、ぼくにとって、もっとも印象に残っているミュージカルである。

舞台の上での演技やダンスや歌もとてもよかったのだけれど、それを観ていた観客の人たちのつくりだす雰囲気、そしてそんななかから奇跡のように放たれた、小さな女の子の「声」。

いまでも、あのときのことを思い出すと、ぼくの心は暖かくなる。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、ふたたび「人口」に焦点をあてる。- 『2017年香港家庭計画知識、態度及び実行調査』結果を見ながら。

ブログ(2017年9月12日)「香港で、「香港人口予測」(2017年-2066年)から考える。- 個人・組織・社会の「構想」へ。」で、香港政府が発表した『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)をもとに、香港の人口予測について、巨視的な視点をふまえて少しのことを書いた。

ブログ(2017年9月12日)「香港で、「香港人口予測」(2017年-2066年)から考える。- 個人・組織・社会の「構想」へ。」で、香港政府が発表した『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)をもとに、香港の人口予測について、巨視的な視点をふまえて少しのことを書いた。

香港の人口ということに別の角度から光をあてるものとして、香港家庭計画指導会(The Family Planning Association of Hong Kong)が2018年12月4日に『Family Planning Knowledge, Attitude and Practice in Hong Kong Survey 2017』(2017年香港家庭計画知識、態度及び実行調査)(報告書は中国語のみ)を発表した。

この調査は、1967年に開始され、五年に一回の頻度で、香港で行われてきたもので、15歳から49歳の既婚・同居の女性とパートナーを対象としてきたものだ。2017年8月から2018年6月にかけて行われた今回の調査は第11回目の調査となり、1,514名の女性と1,059名のパートナーから回答を得たという(※前傾の「調査報告書」より)。


この調査報告書の結果について触れていたメディアのひとつ、SCMP(South China Morning Post)が大きく取り上げていたポイントは、香港の女性の15%ほど(正確には14.6%)が子供が欲しいかどうか(子供が欲しいか/さらなる子供が欲しいか)について「未決定」であるということ、この数値がここ30年来で最も高い数値であることである。ちなみに、前回の2012年度調査では、この「未決定」の回答は10.1%であった。

この数値はこの質問の全体(また他の質問、さらには他年度の結果)を含めて理解する必要があるが、この質問の他の回答は、「子供が欲しい/さらなる子供が欲しい:15.3%」(2012年度調査では20.2%)、「子供が欲しくない/さらなる子供が欲しくない:67.4%」(2012年度は63.8%)、「わからない:2.7%」(2012年度は5.5%)である(※なお、2012年度以前との数値比較も見ておくこと必要がある。「子供が欲しくない」の数値はそれ以前は結構高い数値を示していたなど)。

理由としては、SCMPでも焦点があてられているとおり、「経済的負担」が大きいことが挙げられている。経済的負担は香港に限らない要因のひとつだけれど、やはり直接的に聞いたりすることである。

ここでは、何かの「結論」をみちびくのではなく、社会の<微視的な視点>において、そのような傾向が出てきているということにとどめておきたい。また、このような<微視的な視点>については、この調査結果に限らず、香港の日常で、直接的にあるいはさまざまな媒体を通じ、さまざまな「個別の事情」を聞いたり、読んだりすることができるものもある。


ぼく自身の関心としては、<微視的な視点>とともに、<巨視的な視点>とをあわせながら、人と社会の動向を捉えてゆくことである。ここでの<巨視的な視点>の理論的基礎は、人口の動態を巨視的な目で見る「S字曲線」、あるいは生物学でいう「ロジスティックス曲線」(また「修正ロジスティックス曲線」)である。「S字」というのは、「S」がちょうど右に傾くように、人口の動態を描くことができる、つまり時間の経過とともに(人口爆発期のあとに)減少傾向に転じてゆくのである。

「S字曲線」という現象を現代社会の理論の基礎として最初においたのは、『孤独な群衆』(1950年)のリースマンであったと、社会学者の見田宗介は書いている(『社会学入門』岩波新書、2006年)。「S字曲線」の理論にかんするリースマンの限界のひとつは、明確な統計的数値を提示できなかったことがひとつであったが、「現実」はというと、リースマンの著作から20年後くらい(1970年代)から、アメリカ、ヨーロッパ、日本、韓国など、高度産業化をとげた社会で、人口増加率の減少が実現されてきていると、見田は指摘している。

見田宗介は、さらにつぎのように書いている。


 地球人口の全体を見ると、21世紀初頭の現在、未だ近代の「人口爆発」の初期あるいは中期の段階、あるいはそれ以前の段階にある地域も多いから、その全体を合成してできる曲線は、今もなお高度成長期中であるように見える。けれどもいっそう注意深く見ると、その「傾斜角」、つまり増加の率そのものは、あの1970年という時期を境に、明確な減少を開始している…。地球の人口増加率が年率二%をこえていたのは、1962年から71年のちょうど10年間だけである。
 つまり地球を総体として考えてみたばあいにも、この1970年前後という「熱い時代」を変曲点として、人間の爆発的な繁殖という奇跡のような一時期は、すでにその終息に向かう局面に入っていると考えていい。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書、2006年)※なお一部年数表記を変更


このように、とても大きな<巨視的な視点>から見ると、このような傾向が見てとれるのであり、日本はもちろんのこと、ここ香港も、地球全体の歴史的な局面のなかで、状況を分析してゆく必要があると思う。

はじめのところで見た『2017年香港家庭計画知識、態度及び実行調査』結果は、そのような人口の動態における、<微視的な視点>のさまざまな局面や傾向の一端を示すものであるかもしれない。「経済的負担」は現実問題として大きな要因であるけれど、それだけに限るものではないし、もう少し広い視野で見るべきものと、ぼくは考える。

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香港, 日本 Jun Nakajima 香港, 日本 Jun Nakajima

香港の、ふつうの「電車の風景」のなかで。- 「何時何分」と「次の電車」とのあいだ。

「電車」の風景(あるいは、「電車のない」風景)がある。

「電車」の風景(あるいは、「電車のない」風景)がある。

「あたりまえ」のことだけれど、住むところによって、「電車」のある風景があり、「電車」のない風景がある。

ニュージーランドには電車が通っているけれど南北すべてに通じているわけではないし、西アフリカのシエラレオネには(昔はあったようだが)電車は走っていない。

東ティモールにも電車はない(ぼくがいたころの東ティモールには車道に「信号機」さえなかった)。

ニュージーランドでも、シエラレオネでも、東ティモールでも、そのほとんどは、自動車(ニュージーランドではバスも)による移動であった。

ここ香港には、香港MTR(港鉄)がそのネットワークを拡張しながら、香港の人びとの活動のけっして欠かせない部分となっている。

ネットワークといえば、今年(2018年)の9月には「広深港高速鉄道」(広州から深セン、香港に至る高速鉄道)が新たに開通している。

MTRがどれほど香港の日常に入り込んでいるかは、10月のある日の午前、香港の4つの鉄道車線においてシステム不具合のため「マニュアル運行」となり大混乱となったことからも、うかがうことができる。

こんな具合に、いろいろなところに住んでいると、電車のある(電車のない)風景があって、そこの場所にいるときには「ふつうのこと」のように見えるのだけれど、その場所からはなれたり、あるいはその風景のなかで「心象世界」をすきとおらせてゆくと、ときに不思議なことに思えてくるのである。


そんなふうにして「香港MTR」のことをかんがえていたら、電車が到着する「時間の表示」も、たとえば東京のそれとは異なるのだと、「あたりまえのこと」だけれども、改めて「見えて」くるのであった。

東京では、プラットフォームの電光掲示板には「何時何分」の電車ということがわかるようになっている。

日々の移動は、この「何時何分」にかけられていて、生活や活動がこの「何時何分」によって動いてゆく。

こんなことを考えていると、今年の5月にBBCのニュースで「Japanese train departs 25 second early - again」(BBC News)という見出しの記事に出くわしたことを、ぼくは思い出すことになる。

そのニュースは、日本の鉄道会社が、電車が25秒早く駅を出発したこと(数ヶ月の内に同様のケースとして2件目)について謝罪したことを伝えていた(もちろん言外の驚きとともに)。


香港MTRでは、ぼくの知るかぎり、「何時何分」という表示はないし、時刻表も(始発・終電を除いて)ない(システム上はあるのだろうけれど、どこにも記載されていないから、電車の利用者としては正確にはわからない)。

中国語と英語それぞれの表示が、代わる代わる、あと「何分」を表示し、到着直前に「到着」の表示がされる。

香港MTRのアプリのひとつが『Next Train』という名前と機能でつくられているように、「次の電車」がいつくるのか(何分でくるのか)が、肝要であるのだ。

この表示のされ方も、このように「次の電車」を待つ仕方も、ぼくは今ではごくごく「あたりまえ」のこととしながら電車を利用しているけれど、東京に住んでいたときとは「異なる」ということを思う。

そして、そう思いながら、この「異なり」が、どのような「時間感覚」や「生活感覚/生活様式」の<違い>をもとにして現出しているのか、あるいは、これらの「異なり」が、(ぼくを含めて)ここに住む人たちの「時間感覚」や「生活感覚/生活様式」をどのように醸成していくのか、ということを考えてしまう。

東京はさまざまな鉄道路線(鉄道会社)が存在しているから、それらの「つながり」をつくるには、「次の電車」ではなく、「何時何分」という<時刻>が要請されるようにも思う。

ただし、それだけだろうか、という問いがわいてきては、ぼくのなかに「仮説」をつぎからつぎへと生んでゆくのである。

そのような「仮説」を頭のなかでゆらせながら、ぼくは、香港の「電車の風景」を見る。

それにしても、「何時何分」によって社会システム(および生活システム)のすみずみまでが編成されていることについては、日本の外に住んでいると、ますます驚嘆させられるものだ(それがよいかどうかなどは別のこととして)。

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