シエラレオネ, 海外・異文化 Jun Nakajima シエラレオネ, 海外・異文化 Jun Nakajima

ロンドンでの「温かいシャワー」が、ぼくの身心に刻んだ深い記憶。- シエラレオネからの「トランジット」で。

香港はここ数日、時折、雨の恵みが、降りそそぐ。本格的な「雨」ではなく「にわか雨」である。雨の粒に抱きかかえられるようにして小さな花びらが道端に咲き散り、黄色の絨毯を織りなしている。...Read On.


香港はここ数日、時折、雨の恵みが、
降りそそぐ。
本格的な「雨」ではなく「にわか雨」
である。
雨の粒に抱きかかえられるようにして
小さな花びらが道端に咲き散り、
黄色の絨毯を織りなしている。

「にわか雨」の英語表現の「shower」
を頭に浮かべながら、自宅のバスルーム
で温かい「シャワー」を浴びていたら、
ロンドンで浴びた「温かいシャワー」の
ことを思い出した。

それは、確か2003年のことであった。
当時、西アフリカのシエラレオネで
ぼくは仕事をしていた。
紛争に翻弄されている/翻弄されてきた
難民・避難民の支援である。

シエラレオネでは、コノというところで
オペレーションを展開し、住んでいた。

当時は、電気も水道もなく、
事務所兼住まいは、ジェネレーターによる
発電と敷地内の井戸(および水タンク)
により、まかなわれていた。

お風呂はもちろんのこと、温かいシャワー
もなく、水シャワーで過ごしていた。
昼間の太陽が、水タンクを温め、夕方に
生ぬるい水を楽しむこともあったが、
基本的に、水シャワーであった。

人間のもっとも大きな「力」のひとつで
ある「適応性」は、水シャワーでも発揮
された。
ぼくは、程なくして、水シャワーに慣れて
しまった。
とはいえ、やはり、冷たく感じる時は、
しばしばあったものだ。

それでも、「水がある」ということだけ
でも感謝することであった。
シエラレオネのコノでは、井戸掘削の
プロジェクトを展開しており、
水があることの大切さは、重々感じて
いたからである。

あるとき、一時帰国のため、シエラレオネ
を離れ、ロンドンを経由して、東京に戻る
ことになった。
そのときは、トランジットのロンドンで
一泊することになった。

ロンドンの、どこにでもあるような宿に
到着し、荷物を部屋の片隅におちつかせる。
紛争地での緊張による高揚感が残りながら
も、どっと疲れが出たぼくは、すぐにシャ
ワーを浴びることにした。

バスタブではなく、シャワーを浴びるだけ
の狭い「シャワー室」であったけれど、
蛇口をひねり温度を調整されて注がれる
「温かいシャワー」に、ぼくは心身ともに
深く、打たれた。
この経験は、ぼくの内奥にしまわれた。

温かいシャワーを浴びるという「当たり前
のこと」を、当たり前ではないこととして、
感覚できる人になりたいと、
ぼくは、そのときに思った。

「トランジット」とは、
「当たり前」と「当たり前ではないもの」
の境界を見せ、それらをつなぐ<間>の
ことでもある。

 

それまでにも、アジア各地への一人旅で、
水シャワーしかない経験はいっぱいして
いたけれど、
この経験は、さらに、ぼくを深いところで
とらえてやまなかった。

同じような経験を、シエラレオネの次に
赴任することになった東ティモールでも、
幾度となく、することになった。

東ティモールでの日常も、水シャワーで
あった。

時に地方に泊まる時は、シャワーもなく、
ドラム缶にためられた水を、桶ですくって
大切に、使ったものだ。

東ティモールから日本に帰国するときは
当時、インドネシアのバリを経由した。
バリで温かいシャワーの感動を得ることも
あったし、トランジットで一泊もせずに
東京に戻ってその感動を堪能したものだ。

しかし、その後、香港に住むようになると
温かいシャワーは「普通」になってしまう。
人間の適応性は、逆も然りである。
有り難みと感謝の気持ちが、遠のいてしまう。
でも、ふとした折に、
身心の内奥に刻まれた「記憶」が
身心の表層に浮かんでくる。

今日も、シャワーを浴びながら、
「ロンドンでの温かいシャワーの記憶」が
意識にのぼってきた。

最近ぼくは、この浮かんできた「記憶」を
大切にすくう。
あるいは、マインドフルネス的に、
目の前にあるものへの「感謝」を心の中で
繰り返すことで、この大切なものを、
大切に、心に保管している。

ぼくは、「人生のトランジット」で
こんなことを考え、感じている。

「当たり前のもの」を、
「当たり前のものではないもの」として
視て感覚することへと、
じぶんを解き放っていく。

 

追伸:
日本国外・海外に出て15年程になりますが
いわゆる「お風呂」につかることは
ほとんどありません。
香港の自宅で数回試してみた程度です。
すっかり、シャワーの生活です。
「お風呂に入る」ということも、
決して「当たり前」ではないのですね。
日本にいると、普通のことですが。

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「考えることの身体」について。- ロダン『考える人』は何を考えているか。

そんなことを考えながら、本を読んでいたら、オーギュスト・ロダンの有名な彫刻、『考える人』の面白い解釈に出会った。...Read On.

世界で生きていく上では「考える力」が
大切である。
その土台としての「論理・ロジック」に
ついては、ぼくの「個人史」を書いた

そんなことを考えながら、本を読んで
いたら、
オーギュスト・ロダンの有名な彫刻、
『考える人』の面白い解釈に出会った。

ロダンの『考える人』は、おそらく、
多くの人が見たことがあると思う。
※ロダン「考える人」Wikipedia
前屈姿勢で、なにやら、真剣に物事を
考えている男がいる。

子供のころから、この「考える人」は
何を考えているのだろう、と思いつつ、
でもその真相を調べることまでの
気持ちはわいてこなかった。

直感的には、なにか、哲学的な深い
ことを考えているのだろうと、推測を
立てていた。

ただ単に、「美術」「ロダン」という
響きが「哲学」と結びついただけだった
のかもしれない。

社会学者の見田宗介の著作を、再度読み
直しているところで、
『定本 見田宗介著作集X:春風万里』
に収録されている、「野口晴哉」に
関する論考に、ロダンの「考える人」が
取り上げられているのを、見つけた。
以前も読んでいたのだろうけれど、
飛ばして読んでしまっていたのだろう。

見田宗介は、ロダン「考える人」が
何を考えているのか、に関する、
野口晴哉(整体の創始者)の考え方に
ふれている。

野口晴哉は、「考える人」の「姿勢」
から、読み取るのだ。

人間が考えるということには
「二つの様相」があるとした上で、
思考の内容に応じ、身体は正反対の姿勢
をとるという。

 

一方は「行動の思考」、現在から近い
将来の、具体的で実用的な思考である。
他方は「上空の思考」ともいうべきもの
で、楽しい空想とか、遥かな未来の想像、
過去の思い出や、高度の哲学的、理論的
な思考のように、現実の上空を飛翔する
思考である。「行動の思考」をする身体
は前屈し、全身を凝集して緊張している。
「上空の思考」をする身体は反対に上体
をそらせて、伸び伸びと弛緩している。
ロダンの彫刻は重心を前に移して、足の
親指に力が入り手も内側に入っている
から、具体的な行動のための、方法の案
出とか順序の問題を考えている身体である。

見田宗介『定本 見田宗介著作集X:
春風万里』(岩波書店)

 

「身体」の視点から、ロダンの「考える人」
を視る、ということは、ぼくのパースペク
ティブにはなかった。

人の身体は多くを語ることは知りつつ、
ぼくたちは、「身体論」の教育を受けてきた
わけではない。
どちらかというと、教育の主眼は「心」に
投じられていた。

しかし、最近は、心と身体は切り離さない
「パースペクティブ」が、多く提示されて
きている。

「考える」ということを考えるとき
ぼくは、その身体のあり方を考える。
どのような「身体」で、ぼくらはよりよく
考えることができるのか、など。

「身体」は、人を変えていくための
ひとつの拠点だ。

「心身」という言い方もあれば、
「身心」という言い方もある。
心と身体が切り離せないという視点からは、
どちらも正しい。

心(マインド)から入っても、
身体(ボディ)から入っても、
ぼくたちは、自分たちを変えていくことが
できる。

しかし、ぼくが生きてきた時代は
どちらかというと「心」に重きを置かれて
きたように、思う。
「心の教育」ということの中で、
ぼくは「身体」を忘れてしまったのかも
しれない。
身体は忘れることができないのだけれど。

だから、自分を変えたいという思いを、
ぼくは「身体」を拠点にするという戦略に
うつしかえてきたのだと思う。

 

それにしても、
ロダン「考える人」は、
「地獄の門」の頂上で、いったい、
具体的なこととして、何を考えていたの
だろう。
そして、ロダンはなぜ「考える人」なんかを
創作したのだろう。

 

追伸:
西アフリカのシエラレオネで働いて
いるとき、
ぼくは夕方、事務所の前で、
しばしば、考え事にふけっていた。
(ぼくは安全対策の行き届いた
事務所に住んでいました。)

シエラレオネの「現実」の中で、
考え事が山積していた。
ある人は、ぼくが「哲学者のようで
あった」という。
今思い起こして、それは、
「行動の思考」であったのか、
「上空の思考」であったのか。
どちらかというと後者であったので
はないかと、ぼくは思う。
具体的な思考は、就業時間中に、
とことんしていたし、
何よりも、ぼくの「身体」は前屈と
いうよりは、上体をそらせて、
ひらかれていたから。

ぼくの身体は、シエラレオネの
空にむけられて、ひらかれていた。

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シエラレオネのダイヤモンド、そして「石と花」

西アフリカのシエラレオネで、2017年3月、706カラット(一部のニュースでは709カラット)のダイヤモンドを、牧師が発見した。...Read On.

西アフリカのシエラレオネで、
2017年3月、706カラット(一部
のニュースでは709カラット)の
ダイヤモンドを、牧師が発見した。

世界で、史上10番目にもなりうる
というダイヤモンドである。
タイム誌の記事によると、
US$5000万相当のダイヤモンド。
競売でまだ買い手がつかないようで
ある。

発見された場所は、シエラレオネ
東部の「コノ地区」である。
ダイヤモンド産地として有名な場所
である。

シエラレオネのダイヤモンドは
内戦や紛争の原因であり、資金源で
あった歴史をもつ。

ぼくは、2002年末頃から2003年
途中にかけて、「コノ地区」に駐在
していた。
ぼくの所属する国際NGOは、
難民・避難民の帰還支援として、
国連難民高等弁務官事務所と
共に、井戸掘削事業を展開して
いた。

コノは、当時電気も水道もなかっ
た。
電気はジェネレーターで発電し
水は井戸からであった。

事務所の周辺にはダイヤモンド
鉱山がひろがっていた。
朝から多くの人たちが、
手作りの竹ザルを手に、泥まみれ
になりながら、ダイヤモンド原石
を探していた。

巨大ダイヤモンド発見のニュース
は、ぼくに、コノを思い出させた。

ダイヤモンドは、ただの「原石」で
あるものが、磨きをかけていくこと
で、まさしく「ダイヤモンド」になる。
そこに「夢」と生活をかけて、
今日も、人々は鉱山で泥をすくう。



そのような記憶と、路上に咲く花が、
イメージとして重なる中で、野口晴哉
(「整体」の創始者として知られる)
の文章が思い起こされる。


花は花と見ることによって花である。
石は石と見ることによって石である。
花も石である。
石も花である。

野口晴哉『碧巌ところどころ』
(全生社)

 

この言葉の存在を教えてくれた
社会学者の見田宗介は、「教育や
福祉や看護の仕事に巣立ってゆく
年々の学生たちに、記して贈る
ことば」として、この言葉を次の
ように説明している。

 

野口晴哉がこのことをいう時、
それは美しい理想でもなく
主観的観念論でもなく、人間は
人間が気を集注する方向に変化し
伸びてゆくものだという、現実的
な人間理解と実践知によって
裏打ちされている。石も花として
花開かせるという仕事は、技法が
技法であることの核心をきちんと
通ってつきぬけてゆく気構えだけ
が、はじめて実現することのでき
る冒険である。

見田宗介『定本 見田宗介著作集X』
(岩波書店)


「人」にかかわるものとして、
石を花開かせることを身にひき
うけていく気構えと実践ができて
きたか、と、野口晴哉の厳しく
美しい言葉は、ぼくに問いをなげ
かけてくる。

シエラレオネで
原石がダイヤモンドとして成る。
ぼくは、シエラレオネで、
「支援」という仕事の実践で
石を花開かせることができたか。

香港の路上で、
美しい花を見ながら、
また、香港の「Hong Kong
Sevens」の開幕が、香港の
春の訪れをつげるなか、
そんなことを、ぼくは思っている。

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「良い人」と「悪い人」を考える冒険 - シエラレオネ・東ティモールで考えたことを、香港の晴れた日に考える。

世界のいろいろな国・地域で、いろいろな国・地域の出身の人たちと話をしていて、「良い人」と「悪い人」の話になることがある。...Read On.

世界のいろいろな国・地域で、いろいろ
な国・地域の出身の人たちと話をして
いて、「良い人」と「悪い人」の話に
なることがある。

国境を越えての会話というコンテクスト
も作用し、
「良い人」と「悪い人」は世界どこにも
いる、という話になっていく。
だから、「悪い人」には気をつけよう、
という地点に会話が落ちついていく。

この視点は、一面では「正しい」けれど
ぼくはいつも気持ちがさわぐ。

より正確には、
人は誰しも(「例外」はどこでもあるが)
良い人にもなるし、悪い人にもなりうる
と、ぼくは思う。

映画「Star Wars」のダース・ベイダー
は「悪い人」だけれど、暗黒面のフォー
スに屈っする前は「良い人」であった。
また、悪い人でありながら、内奥には
「良い人」を抑えこんでいたりする。

ぼくは、2003年、内戦終結直後の
シエラレオネに、難民(国内避難民)の
緊急支援のため派遣された。

戦争の「傷跡」が、なまなましく、
ひろがっていた。
人の身体の傷はもちろんのこと、
人の心の傷は、心の原型をくずすところ
まで深いものであった。

落ち着きとある程度の秩序を取り戻して
いたシエラレオネだが、
いつ何が起こるかはわからない。
万全の安全対策で、気が張る生活が
つづいた。

そんな環境に身をおきながら、
ぼくは、時々、自分の内奥にひろがる
「暗い湖」を見ていた。
もし、この地で、秩序が壊れ、内戦に
突入したら。
戦いの只中におかれ、戦闘員として
生きのびていかなければならないと
したら。
ぼくは正気ではいられない
だろうという感覚がわきあがる。
「良い人」でいられる自信が「暗い湖」
の底にきえてしまった。

今(当時)は、国連の元で活動する
部隊のもとで、ひとまず「安全な環境・
秩序」が、つくられている。
だから、緊急支援を担う「良い人」で
いられる。

東ティモールにいたとき、
2006年、この「安全な環境・秩序」
が、くずれかかった。
首相は事態を収取できず、他国の軍隊
の出動を要請した。

オーストラリア軍がすぐに出動となり
空港に軍隊が配備されたりと、
秩序の回復が早急になされた。

東ティモールでは、独立以前の、
独立闘争の残酷で過酷な話を、
聞いていた。

そんな話を聞くたびに、ぼくは、
ぼくがその状況に置かれたら、どの
ように振るまうだろう、と考えずには
いられなかった。

このような経験を経て、ぼくは、
人は誰しもが良い人にもなるし、
悪い人にもなることを、実感値として
つみあげてきた。

だから、人として、また社会として
できることは、すくなくとも、
人が「悪い人」にならないような
環境をつくりだしていくことだ。

大川正彦が著書『正義』のなかで、
ジューディス・シュクラーの「恐怖
の自由主義」(<恐怖からの自由>
を軸にすえる自由主義)をとりあげ
ている。

この言葉と議論を、シエラレオネで、
東ティモールで、ぼくは、自問して
いた。

歴史学者ユバル・ノア・ハラリは
人間(サピエンス)が乗り越えて
きた問題・課題のひとつとして、
「戦争」を挙げている。

<恐怖からの自由>を用意する素地
が、社会にはできたのだ。

世界で、今も続いている「恐怖」の
現実の中で、しかし、希望は開かれて
いるはずだ。

ぼくたちは、誰しもが「悪い人」に
なりえてしまうことを身に引き受け、
そこから希望を開いていくという、
人それぞれの「責任」(response - 
ability=応答可能性)を、この時代の
「過渡期」で担っている。

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紛争とクラシック音楽

最近はクラシック音楽を聴くようになった。
香港で、クラシック音楽を聴く。
香港には、世界から一流の奏者がやってくる。
規模が小さい香港だけれど、これはよいところだ。
Lang Lang以外であれば、チケットも比較的容易に手にはいる。

それにしても、ぼくにとってのクラシック音楽は、小学生から
10代にかけて退屈極まりない音楽であった。
だから、ぼくは、ロックやパンクロックにはまっていく。
10代は、そのような音楽のバンド活動に熱中していったのだ。

時を経て、ぼくは、海外ではたらくようになる。
最初の赴任地は、西アフリカのシエラレオネ。
赴任した当初2002年は、紛争終結後間もない時期である。
国連が組織する平和維持軍が駐屯する国であった。

シエラレオネでは、紛争の傷跡を見て、心身の深い痛みを
負う人たちと接触し、暮らし、仕事をしていく。
そのような生活をおくっていくなかで、いつからか、ぼくは
クラシック音楽を聴くようになっていた。

そもそも、クラシック音楽が生まれた時代は、
戦争や紛争が絶えない時代でもあった。
クラシック音楽の美しい調べには、痛みや悲しみが
埋め込まれているのだ。

クラシック音楽を聴きながら、ぼくは、音楽がつくられた時代の
人たちのことを思う。
そして、この現代において戦争や紛争に翻弄されてきた人たちの
痛みや悲しみを感じ、祈りと微かに光る希望を抱く。

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シエラレオネと言葉

2002年から2003年にかけて、ぼくは、西アフリカのシエラレオネで仕事をしていた。
シエラレオネで仕事をしているとき、ぼくは、感じていること・思っていること・考えていることを「言葉化」することが、ひどくつらくなってしまった。

仕事をこなしていくこと、現実に対応していくことで精一杯であったこともある。
ひどく混乱してしまったこともある。

仕事が終わると、ぼくは事務所(兼住居)の前に椅子を持ち出し、考え事にふける日々が続いた。
「現実」の中で、言葉を失ってしまった。
「現実」に圧倒されてしまった。
シエラレオネには延べ1年近く滞在することになったのだけれども、ぼくは、言葉を紡ぎ出すことができなかった。

人は、時として、自分の言葉を凌駕するような現実に出会う。
自分の言語空間がつくりかえられていく経験をする。
破壊と創造。

社会学者の見田宗介が、バタイユの言葉を転換して述べるように、「創られながら創ること」。
何かを創ってきたというよりは、創られてきたという感覚の方が大きい。

シエラレオネでの仕事から、10年以上が経過して、ぼくはようやく「自分の言葉」をつむぎだしていく素地ができた。
ぼくは、今こうして、言葉をつむいでいる。

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写真家との出会い - シエラレオネにて

2003年にシエラレオネで仕事をしていたとき、ある写真家の方に出会った。

写真家の彼は、岩波書店の戦争シリーズのなかの1巻を創作するために、西アフリカのシエラレオネとリベリアに取材に来るという。ひどく忙しい日々がつづいていたけれど、同世代の彼の取材に、ぼくは出来る限りの協力を提供した。

彼と過ごす内に、彼がパレスチナで片目を喪失したこと、彼の父親は自殺されたことなどを知ることになった。そんな彼が、戦争の途方もない傷痕を負ったシエラレオネの人々と、笑顔で陽気に戯れている姿を見ていると、彼自身の痛みや哀しさが、シエラレオネの人々の痛みや哀しさと、底のほうで共振しているように、ぼくには見えた。

その彼が、当時内戦が続くリベリアに旅立っていった。首都モンロビアはまだ銃撃戦がつづいている危険地帯。一歩間違えば、確実に生命を落とす空間。シエラレオネのスタッフたちを含め、皆が心配していた。

その後、彼から連絡もないまま、ぼくは日本で休暇を過ごすことになる。その移動のため、シエラレオネの首都フリータウンの空港にいたぼくは、そこで偶然にも、彼に再会した。懐かしい声が遠くから聞こえ、ぼくは驚嘆と共に安堵したことを覚えている。彼も、リベリアでの取材を終え、日本に帰国する途上であった。

飛行機を待つ間、また飛行機の中で、またロンドンの空港で、ぼくは彼の話に耳をかたむける。リベリアの首都モンロビアの街中は依然として戦闘が続き、死体は散乱し、コレラが子供の命を奪っている。フリータウンの空港では、CNNがモンロビアの状況を映し出していた。瞬間、ぼくの身体にはとても冷たいものが貫き、身体が悲しみでいっぱいになった。身体の悲しみはとめどなく湧いてくる。なぜか、シエラレオネの人々の悲哀と憎悪が、ぼくの身体と心にどくどくと浸透してくるのであった。シエラレオネを離れ、ロンドン経由で日本に帰国したぼくは、気づかない内に、身体に多くのものを背負っていた。

「彼」の作品は、その後、雑誌『アエラ』に掲載され、また当初の目的どおり、ひとつの作品となった。

彼が後日送ってくれた、その作品、亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)というフォト・ドキュメンタリーの写真一枚一枚に引き込まれ、ぼくは、身体と心にひどい痛みを感じる。

でも同時に、痛みを知る彼だからこそ、そんな作品ができたのだとも感じる。見るたびに、痛みが身体に伝わってくる写真を見ながら、ぼくはアフリカの戦争とそこに住む人々に思いを馳せる。そして、亮さんの一連の写真に時折織り込まれている、人々の絶望的なまでの「祈り」の写真のように、ぼくも心で絶望的なまでに叫びながら、でも静かに、この世界に光をさがす。

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