書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

本(テクスト)と読み手の相互的なかかわりあいのなかで。- シュリーマン『古代への情熱』を読んだ「昔」と「今」のあいだ。

だいぶ昔に読んだ本で、また読みたくなるような本。そして読みたくなって、その本をふたたび手に入れて、読んでゆく。ぼくにとってのそんな本の一冊に、シュリーマン『古代への情熱ーシュリーマン自伝』村田数之亮訳(岩波文庫、1954年)がある。

だいぶ昔に読んだ本で、また読みたくなるような本。そして読みたくなって、その本をふたたび手に入れて、読んでゆく。ぼくにとってのそんな本の一冊に、シュリーマン『古代への情熱ーシュリーマン自伝』村田数之亮訳(岩波文庫、1954年)がある。

ぼくが最初に『古代への情熱』を手にとったのは、おそらく、10代のころの学校の夏休みかなにかの折に、「読書感想文」用の図書としてであった。当時は学校の授業をのぞいてはほとんど「本」を読まず、読書感想文用の図書リストのなかから、なんとか、少しは読みたいと思う一冊をと思いながら、「古代への情熱」という名前に魅かれて、ぼくはシュリーマンの『古代への情熱』を手にとったのだと記憶している。

小さいころから、「ここではない、どこか」を時間的に、あるいは空間的に思いっきりひきのばしたようなものが好きであった。時間的に(過去のほうへ)ひきのばせば、それはたとえば「古代」になるし、空間的にひきのばせば、それはたとえば「宇宙」になる。だから、「古代」ということばにも、どこか魅かれるのであった。

なお、すてきな名前のタイトルだけれども、「古代への情熱」というタイトルは、原著の書名ではない。本書はシュリーマンの「自叙伝」の訳であるのだけれど、それはもともと著書『イリオス』(1881年)に収められていた文章であり、自叙伝的な文章は「少年時代と商人時代」の章にあたる。

「少年時代と商人時代」の章はそれほど長くないが、今回、この章を読んでいて、ぼくはとても楽しく読むことができたし、また、シュリーマンはこんなことを言っていたんだ、こんなふうに行動していたんだという「発見」を、ぼくはいくつもすることになった。そのような「発見」にたちどまっては、ぼくは深く考えさせられることもあったのだ。


それにしても、40歳をすぎたころから、ぼくはなぜか、「読書感想文」用の図書としてずっと前に読んだ本を読みたくなり、ぼくはそのような本をじっさいに手にとっては、読んでみるのだ。シュリーマンの『古代への情熱』もその一冊であり、そのほか、ヘルマン・ヘッセの本だったりする。

そのような「状況」が、ぼくと昔に読んだ本たちの<あいだ>に生まれつつあるとき、思想家・武道家の内田樹の書く文章のなかで「テクストと読み手の相互的なかかわりあい」について書かれたことばが、ぼくの、この状況と経験にひびいてくるのであった。

内田樹は、「自称弟子」として慕う「師」である哲学者レヴィナスの発することばのなかから、「テクストと読み手の相互的なかかわりあい」にかんする箇所を引用している。

レヴィナスは、つぎのように述べている。


 私たち現代人もしばしばこう言わないだろうか。「こんな状況になったせいで、パスカルのあのことばの意味がやっと分かった」とか、「モンテーニュのあのことばの意味が分かった」とか。偉大なテクストが偉大であるのは、まさしくテクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの深層を逆に照らし出すという相互作用のゆえではないだろうか(QLT,p89)。

内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)※「QLT」は、レヴィナス『タルムード四講話』内田樹訳(国文社、1987年)


「人は「事実や経験」への出会いによって、いろいろな本やテクストが「分かる」ようになる」と人は思うだろうが、レヴィナスは、その「前段階」として、「事実や経験」への出会いのまえに、「テクストとの出会いと導き」があるのではないかと述べている。そのように、テクストと読み手の<相互作用>をとらえている。

もう少しわかりやすくするために、このレヴィナスのことばの引用につづいて書かれる、内田樹の事例も挙げておこう。


…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。

内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)


この事例は、シュリーマン『古代への情熱』というテクストとぼくとの<相互作用>と重なるように、ぼくはこの箇所を読みながら思ったのだ。今回30年ちかくぶりに『古代への情熱』を読みながら、ぼくはそこに「まったく別の相貌」があることを知る。いろいろな「発見」を、ぼくはするのだ。でも、そのことは、この30年ちかくの「経験と成熟」だけでなく、10代にシュリーマンを読んだ経験が「すでに関与している」というのだ。

そんなことを考えていたら、「そんなこと」もあるだろうなと、ぼくは思うのであった。シュリーマンだけでなく、ヘルマン・ヘッセの「テクスト」をいっそうの深みにおいて読むことのできる経験においても、あの当時の「テクストとの出会いと導き」があったのだということもである。「そんなこと」もあるのだ。

そんなふうにして、「テクストと読み手」の<相互作用>を、じぶんが生きてきた時間のなかに見出してゆくのもおもしろいと思う。「本」というのは、だからいっそうに深いものだとぼくは思い、また、じぶんを変えてしまうような「本との出会い」はとても幸福なことだとも思う。

と、書きながら、一見すると、明確にじぶんを変えるような本でなくとも、本と出会い、その本を手にとって、ページをひらくとき、そこにはその後の人生の道ゆきをつくってゆくのような<相互作用>がはじまっているのだとも、思ったりするのである。

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古代日本人の「予祝」という方法と時間感覚。- 稔り/夢を「現実化」する力。

「古代日本人の夢の叶え方」として「予祝」(よしゅく)の儀礼を現代的意味のなかにとらえなおしながら、作家のひすいこたろうは、「予祝のススメ」について書いています。

「古代日本人の夢の叶え方」として「予祝」(よしゅく)の儀礼を現代的意味のなかにとらえなおしながら、作家のひすいこたろうは、「予祝のススメ」について書いています(ひすいこたろうは、その後、大嶋啓介と共に『前祝いの法則』(フォレスト出版、2018年)を著しているが、ぼくはまだ読んでいない)。

ひすいこたろうは、ある神社の神官の方から教わったこととして、「お花見」というものは、古代日本人が秋の豊作を現実として引き寄せるための「前祝い」であったことを紹介しています。


春に満開に咲く桜を、秋のお米の実りに見立てて、仲間とワイワイお酒を飲みながら先に喜び、お祝いすることで願いを引き寄せる。
これを「予祝」(よしゅく)というのだそうで、ちゃんと辞書にも載っています。

古代日本人がやっていた、夢の引き寄せの法則、それが「お花見」だったのです。
夏の盆踊りも、秋の方策を喜ぶ踊りであり、予祝だったわけです。

祝福をあらかじめ予定するのです。
いわば前祝い。
先に喜び、先に祝うことで、その現実を引き寄せるというのが日本人がやっていた夢の叶え方なんだそうです。

ひすいこたろう「「予祝(よしゅく)のススメ」~古代日本人の夢の叶え方」、Webサイト『ひすいこたろうオフィシャルブログ』


実際に、ひすいこたろうは「予祝」の方法を実践しながら、友人たちと「夢」を叶えてきた経験をベースに語っています。


古代の日本人にとって、生きるうえでの切実なこととして「秋の稔り」があり、それを確実にするための儀礼として「予祝」というものがあったのです。

この「予祝」については、社会学者の真木悠介も、著作『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)のなかで、古代日本人の「時間感覚・時間意識」を概観するなかで書いています。

「近代人・現代人」としてのぼくたちの時間感覚を基礎とするのではなく、「古代日本人」の時間感覚をともに理解してゆくことで、「予祝」という儀礼をよりよく認識することができるように思います。


 予祝という、この時期の日本人の時間意識の構造を凝縮している行為は、このとおい未来の収穫の確実さへの、祈念の切実さということをぬきにしては理解しえない。
 予祝とはいうまでもなく、春の農耕の開始に当たって、秋の収穫を予め祝うのである。平野が論じているように祈年祭とは、まさしくこのように、その一年の労働の意味に他ならない秋の稔りすなわちトシを、春にあらかじめ祝ってなされるミトシハジメに他ならなかった。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年。岩波現代ライブラリー、1991年)


平野仁啓の『続 古代日本人の精神構造』(未来社、1976年)も参照しながら、真木悠介は「古代日本人の時間意識」を表現しています。


 …その年のはじめに未来をあらかじめ現在化せしめる儀礼が、未だ来ぬトシに向かって辛苦しつづける労働の日々をとおして臨在し、<現在しつづける過去>の規格をこの未来に与えるのである。くり返しいえば、それはその年の長期にわたって外化された労働の意味に他ならない未来を既定の過去として設定することによって、これを現在しつづけるものとするのだ。

 …<俗なる時間>において人間の労働が未来に向かうと同時に、平行する<聖なる時間>において、神の約束の未来が来るのだ。耕作労働への田の神の臨在がこのことを具象化している。平野はこのことを収縮する時間ととらえる。
 収縮する時間はやがて、未来と過去と現在とがその一点に収斂する<時>に完結し、充足する。予祝とはこの時の収縮の呪術に他ならなかっただろう。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年。岩波現代ライブラリー、1997年)


古代日本人にとっての「予祝」を考える際に気をつけておきたいことは、古代日本人の「時間意識」が、近代・現代人のように過去から未来へと無限にひろがってゆく「時間意識」ではないことのなかで、「未来」が現実化されていったことです。

そもそもが、古代日本人にとっては、「未来」は稔りの時間幅、つまり「トシ」の時間幅を限度としているようなところがあり、近代・現代人のように何年後や何十年後などの「未来」ではありませんでした。

異なる「時間意識」のなかで、<聖なる時間>を平行させ、<現在しつづける過去>の規格を未来に与えながら、秋の稔りにたいする祈りが現実化されてゆく。

このように、限定されたなかではありつつも、古代日本人はこのような方法をよく考えたものだと思います。


それでも、「方法」として「予祝」という仕方が現代における「夢の叶え方」においておなじような効果を発揮させてゆくのは、予祝と夢の現実化のあいだに、意識化・イメージ化、ポジティブな肯定さ、信じる力と信じることによる「現実の世界」を切り取る力、楽しさなどを、植えこんでゆくからです。

「未来へと向かう力」というだけでなく、「未来が現在となる力」(現在しつづける過去)として、人の描く「物語」は構成されてゆきます。

予祝の方法はなにも非合理的な方法ではけっしてなく、まったく合理的なものです。

途上で出会う「問題」に対峙するときも、解決できない問題ではなく、(「稔り」は約束されているという論理のなかで)「解決できる問題」として向き合うことになります。

そして、これらを共有する「共同体」としての力がいろいろに作動してゆきます。

そのような力として、「予祝」という方法があるのだと、ぼくは見ています。

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成長・成熟, 社会構想 Jun Nakajima 成長・成熟, 社会構想 Jun Nakajima

「ルービックキューブ」を解く挑戦の「最前線」と<最前線>。- 雑誌『TIME』の記事から。

だいぶ前のことになるけれど、ブログ「「ルービックキューブ」の完成を体験してみる。- <できる>という身体感覚。」を書いた。

だいぶ前のことになるけれど、ブログ「「ルービックキューブ」の完成を体験してみる。- <できる>という身体感覚。」を書いた。

「ルービックキューブ」を知らない人たちももしかしたらいるだろうし、また世界レベルでは現在「どのくらいの速さ」でルービックキューブを完成させるのか知らない人たち(ぼくもその一人だった)もいるだろうからと、そのときに「とても簡易なイントロダクション」を書いたので、ここでもイントロダクションとして載せておくことにしよう。


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「ルービックキューブ(Rubik Cube)」。

ハンガリーのErno Rubik(エルノー・ルービック)教授が、1974年に創った立体のパズルである(※参照:Rubik’s Brand社のホームページより)。

1980年に世界で販売されるようになってから、推定4億個ものルービックキューブが販売されたようだ。

ルービックキューブは、一面は3x3=9個のキューブ、6面から成る(※現在は様々なバージョンがある)。

それぞれのキューブには色がつけられ、色がバラバラの面を、面ごとに同じ色にしてゆく。

生徒たちに3Dの問題を理解してもらいたく創られたもので、ルービック教授も最初にルービックキューブを創った際には、このパズルを解くのに1ヶ月を要したという。

年を重ねるごとに、パズルを解くスピードが上がり、2017年の大会では、優勝者は「4.59秒」という(ぼくはまったく予測もしなかった)秒数で、完成させている。

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ぼくが突如、今となって「ルービックキューブ」を取り上げたのは、海外旅行時の娯楽として購入していた「携帯用ルービックキューブ」を部屋で見つけ、そしてインターネット上に掲載されている「パズルの解き方の手引き」を参考にしながら、生まれてはじめて、ルービックキューブを解いたことについて書こうと思ったからである。

「手引き」に忠実にしたがって解いたって、なにも「すごく」ないじゃないか、とある人は思うかもしれない。

もちろん、その通りで「すごく」なんかないし、もともと「すごさ」を誇示するためにブログを書いたのではない。

「手引き」通りに解いてみて嬉しかったことではあるものの、ぼくが書きたかったのは、なによりも、<できることを体感すること>という、身体感覚のことであった。

これまで「無理」だと思っていたことが<できる>ことで、その体験を通じて、この身体にその感覚をのこすことである。

そのようにして<できることを体感すること>は、ぼくに大切な感覚を与えてくれたようにぼくは感じたし、また、このことは「ルービックキューブ」だけでなく、人生のなかでいろいろと汎用性があることだと思ったのだ。


さて、ぼくのルービックキューブ体験はそのくらいにして、今回はルービックキューブを解く挑戦の「最前線」についてである。

雑誌『TIME』(Nov. 26/Dec. 3, 2018)を読んでいたら、「For the Record」の記事ページで、「1 min., 36.39 sec.」という数字、その上に描かれている青年の挿絵と共にぼくの関心をひいたのだ。

簡易説明文には、こう書いてある。


「New world-record time for solving three Rubik’s Cubes simultaneously with both hands and feet, set by 13-year-old Que Jianyu of China on Nov. 8, Guinness World Records Day」

雑誌『TIME』(Nov. 26/Dec. 3, 2018)


つまり、訳すと、「両手と足を使って3つのルービックキューブを同時に解くのにかかる時間の新世界記録。11月8日世界ギネスレコードデーに中国のQue Jianyu(13歳)が記録を樹立」である。

2017年の大会での優勝者は「4.59秒」でルービックキューブを解くことでさえも、ぼくが予測していなかったことだけれど、さらに、両手と足を同時に使い、3つのルービックキューブを解くなど、まったく思いつきもしなかったので、ぼくはほんの一瞬、なにがなんやらわからなくなった。

そうして、YouTubeをひらき、実際の映像で確認してみて、ぼくは再度びっくりしてしまったのだ。

これだけでなく、Que Jianyuくんは、「目隠し」をしても、ルービックキューブを解くことができる。

もちろん、はじめに、手もとのルービックキューブのそれぞれの並びを確認し、解いてゆく経路を頭のなかに描いてから目を隠すのだが、それにしても、驚かないわけにはいかない。


こうして、ぼくは、ルービックキューブの「最前線」のひらかれ方に興味をおぼえながら、またその最前線を果敢に切りひらいてゆく人たちの挑戦と才能に感心してしまうのだ。

それは、<できることを体感すること>がじぶんの身体にも登録されていたからでもある(と、ぼくは思う。もちろん、ふつうに見てみるだけでも、圧巻なのだけれど)。

また、時代はいろいろな分野・領域で「テクノロジー」の時代に突入しているのだけれども、手元のルービックキューブを相手に、パズルを解くことを(いろいろな仕方で)追求してゆくことへと「最前線」をきりひらいてゆくことに、どこか、微笑ましい気持ちもわいてくるのである。

その光景は、ぼくたちが「楽しむ」には多くの資源の収奪を必要としないのだ、ということともつながってくるようにさえ見えるのであり、そのことは、幸せということにおいて、(資源収奪的ではない)「時代の可能性」の<最前線>が見えるのだということでもある。

ぼくは、ルービックキューブの「最前線」に通底するような、「時代の可能性」の<最前線>(「新しさ」から自由な<新しさ>)を追っている。

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「失敗」のすゝめ。- 失敗がもたらす恩恵を「脳」から見てみる。

人生やビジネスの現場で、「挑戦と成功/失敗」の関係性は、つぎの順番で重宝される(はずである)。

人生やビジネスの現場で、「挑戦と成功/失敗」の関係性は、つぎの順番で重宝される(はずである)。

●挑戦し、成功する。
●挑戦し、失敗する。
●現状維持

ここでは、「挑戦」や「成功/失敗」とは何かを語っておらず、またここに「時間軸」を座標軸としてひいてしまうと、議論が複雑になるので、いったんこのままで話をすすめたいと思う。


さて、この序列は、日常のなかで、たとえば、つぎのように「変形」してしまう。

●挑戦し、成功する。
●現状維持
●挑戦し、失敗する。

「失敗」を回避することが、意識的であれ、無意識的であれ、重要視されてきて、「失敗回避」が目的化しはじめるのである。


さらに、「挑戦」ということや「成功」ということが、じぶんや周りにおいて「低く」見られる(重宝されない)事情がかさなったりして、つぎのようになってしまう。

●現状維持
●挑戦し、成功する。
●挑戦し、失敗する。

「挑戦」も「失敗」も、それらの機会を剥奪されてしまう。


「失敗はピンチではなく、チャンスである」ということは、そのことを経験してきた人たちにはよくわかることである。

この恩恵に加えて、失敗には、「もっと大きな恩恵」があるということを、「能」の観点から、人工知能研究者/脳科学コメンテーターの黒川伊保子が書いている。


 失敗は、脳にとって、最高のエクササイズなのだ。失敗して痛い思いをすると、その晩、脳は失敗に使った関連回路の閾値(生体反応に必要な刺激量)を上げて、電気信号が行きにくくなるようにするのである。
 失敗すれば、その晩、脳が進化するのだ。同じ失敗を繰り返さない脳に。失敗を重ねれば重ねるほど、私たち
の脳は、失敗しにくい脳に変わる。失敗に「し損」はない。
 ただし、失敗を他人のせいにする人は、脳が失敗だと認知できないので、脳は進化しない。失敗を悔やみすぎる人も、そのネガティブ信号が強すぎて、うまく進化できないことがある。
「失敗は潔く認めて、清々しく眠る」が正解。ショックが大きすぎたり、くよくよと考えすぎると、失敗回路をむしろ強めてしまう。

黒川伊保子『前向きに生きるなんてばかばかしい 脳科学で心のコリをほぐす本』(マガジンハウス、2018年)


脳には「天文学的な数の回路」があり、優先順位がついていないととっさの判断がかなわないということのなかで、失敗(と成功)によって優先順位がつけられてゆくのだという。

それにしても、「失敗は潔く認めて、清々しく眠る」という方法は、爽快だ。

たしかに、失敗をしたときに陥りやすい方向として、「他人のせいにすること」と「悔やみすぎること」があり、「脳」の観点から、これらの負の側面が指摘されている。

後者について、もう少し、黒川伊保子の語りを引いておこう。


 失敗は、くよくよと思い返してはいけない。なぜなら、せっかく通電しにくくした失敗回路に、もう一度通電してしまうからだ。
 失敗を、ジョークにして、笑い飛ばすのはいい。しかし、ありありと思い出して、内向させるのはNGだ。
 …
 特に、人に愚痴るのは、いけない。なぜなら、思い浮かべることで1回、口にすることで2回、その音声が耳から入ってくることで3回、親切な友だちが同情でもしてくれたら、それでもう1回、計4回も脳に書き込むことになる。失敗を告白するのなら、ぜひ、笑い飛ばしてくれる友人を選ぼう。

黒川伊保子『前向きに生きるなんてばかばかしい 脳科学で心のコリをほぐす本』(マガジンハウス、2018年)


なお、「人に愚痴る」ことの負の側面として付け加えておけば、語ることで「発散」できると思いつつ、実のところ、感情はじぶんの心の奥深くに抑圧されてゆくのだとも言われているのである。


なにはともあれ、「失敗のすゝめ」。

もちろん「失敗」を目的とということではなく、「失敗をよし」とする構えに生き、「失敗をよし」とする雰囲気・環境づくりをすることで、恩恵がもたらさせるのである。

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「人生には無駄なことはなにひとつない」と「人生は無駄だらけ」の序説。- どちらかではなく、どちらをも、生きる。

「人生には無駄なことはなにひとつない」と言われたりする一方で、「人生は無駄だらけ」とも言われたりします。

「人生には無駄なことはなにひとつない」と言われたりする一方で、「人生は無駄だらけ」とも言われたりします。

人生には無駄なことはなにひとつない。

人生は無駄だらけ。

これだけを並べると、「どっちなの?」と聴きたくなる衝動がわきあがりますが、このブログを読んでいる方はどう感じられますか。

この短い文章は、「人生には無駄なことはなにひとつない」と「人生は無駄だらけ」の<序説>として、書いています。


どちらかをきっぱりと選んで、その選択に沿って滔滔(とうとう)と語るほうが、「はっきり」していて伝わりやすいものです。

ある人にたいして、特定の状況と特定のコンテクストのなかであれば、ぼくもその「明瞭さ」を選ぶこともあると思います。

でも、この言葉だけをとりだしてみるのであれば、どちらが正しいというものではなく、どちらもある種の「真実」を含んでいると言わざるをえません。


ぼくたちの生きるという道ゆきのなかで、「言葉」というものが、心の深いところでひびくということがあります。

「人生には無駄なことはなにひとつない」と、深いところで感じざるをえない人もいますし、あるいは、「人生は無駄だらけ」と思わざるをえない人もいるわけです。

おなじ人であっても、道ゆきのなかで、「人生には無駄なことはなにひとつない」と確信的に思うこともあるし、あるいは、「人生は無駄だらけ」と確信することもあったりします。

そのように、それぞれに思ったり、感じたり、信じたりすることの底流には、あたりまえですが、<経験>というものがあるわけです。

どのような<経験>が、これらの思いや考えや確信を支えているのかが、問われることです。


「人生には無駄なことはなにひとつない」という言明は、人生の特定の「時間軸における座標ー空間軸における座標」に立ちながら、すべてのものごとがつながってゆくように感じる経験です。

それは、この特定の「座標」(なにかの道がひらけるときだとか、なにかを達成したりだとかの立ち位置)から見たときに、これまでのさまざまな座標がつながって見えるということで、スティーブ・ジョブズが「connecting the dots (コネクティング・ドット)」として語ったことでもあります。

基本的には「これまで」(過去)のことがつながるのですが、人によっては、未来の「dots(ドット)」さえも鮮烈に見えてくるように感じることはあると思います。

このような経験は、人生のその先に「困難」が立ちはだかったり、あるいは自分がなにをしているのかよくわからないようなときでも、そのような状況における思考と行動が、いずれ、どこかで「つながる」ことを信じる力にもなります。

じぶんが描いてゆく「物語」のなかで、いろいろなものが「つながる」経験が、いずれにしても確かなものとして「見える」わけです。


「人生は無駄だらけ」の言明は、「人生には無駄なことはなにひとつない」におけるような、ものごとの「つながり」が途切れた状況のようにも見えます。

実際に、そのようにネガティビティのなかで感覚してしまう場合もあるかもしれません。

けれども、この言明がポジティブな方向に向けられることもあると、ぼくは思います。

「私」とか、その私の「人生」だとかは、よりつきつめてゆくと、あるいは次元をかえて見てゆくと、ただの「夢」、幻想された夢のように見えてくることがあります。

そのような次元では、人間のするすべてのものごとが「無意味」であったり、「無駄」であったり、「余剰」のことのように感覚されます。

でも大切なことは、無意味だし、余剰だからとニヒリズムにおちいるのではなく、「だからこそ」その夢を豊饒に生きてゆくしかないんだ、というところにつきぬけてゆくこともできます(「life is but a dream, dream is, but, a life」!)。

「人生は無駄だらけ」だけれど、無駄こそが「人生」だ、という転回です。

ある種「醒めた」見方です。

そんな「無駄」だからこそ、どこまでもいつくしむことが大事になってくるし、そのいつくしみのなかに「豊饒に生きる」ことの本質があったりするのです。

そこでは「無駄」ということさえ、その言葉の意味合いを解体させられ、あらたに生成してくるような様相があります。


こんなふうに見てみると、「人生には無駄なことはなにひとつない」も、「人生は無駄だらけ」も、どちらもある種の「真実」を含んでいるのであり、ぼくにとっては、とくに矛盾する言葉ではなく、次元を異にしながら、あるいは文脈を異にしながら、共存している言葉たちです。

なお、「人生」を「仕事」に変えると語り方は変わりますし、くりかえしになりますけれど、対象である人や語られる文脈によっても語り方は変わりますので、そんな意味でも、ここでの文章は、あくまでも<序説>です。

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どこまでもつづく「メタ認知」の永久運動から。- 人間の知性の次元をくりあげる。

あることを考えていると、思考がとめどなくなってしまうことがある。

あることを考えていると、思考がとめどなくなってしまうことがある。

あるいは、じぶんは「こう思う」と思った途端に、その自分の考えていることに対して、「ほんとかなぁ」という疑問符がつけられてしまう。

きりがないから、どこかでいったんとめるしかない。

以前はこんなこと考えつづけていても「無駄」のように感じていたこともあったけれど、いまではとくに「無駄」だとは思わない。

ぼくのなかでのこのような「移行」が、いつ、どんなふうに、どんな具合でなされたのかは知る由もなく、仮説や推測の域をでないが、ひとつ触れておくとすれば、やはり、この「私」という現象をあくまでも「現象」として理解し、その「私」のつむぎだす「生」が<ひとつの夢>であるということがより切実に、この心身に感じられるようになったことが、それなりにインパクトを与えたのだろうと、ぼくは思う。

そのプロセスにおいて、「生産的/無駄」という境界線も書き換えられたのだということもあると思う。

なにはともあれ、<いま>という時点で見れば、このような「知的活動」それ自体が楽しいのだということは言える。

思想家の内田樹は、つぎのように書く。

 人間の脳や知性の構造について考察するときには、どこかで「自分の脳の活動を自分の脳の活動が追い越す」というアクロバシーが必要になる。
「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか?この言明が真であるという根拠を私はどこに見出すのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ……(以下無限)。
…「いや、これでいいんだ」と、この無限後退(池谷さんはこれを「リカージョン」<recursion>と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく、生産的なものと感知できる人がいる。
 真に科学的な知性とはそのような人のことである。

内田樹『街場の読書論』潮新書

いわゆる「メタ認知」ということの、永久運動。

「考えている自分と考え」の外部にでることでそれらを対象化し、それらを外部から認識することが、いくどもいくども続いてゆくのだ。

なお、ここで触れられている「池谷さん」は、脳研究者の池谷祐二。

この文章は、池谷祐二の著作『単純な脳、複雑な「私」』の書評的な文章として書かれている。

この文章につづいて、この「無限後退」(あるいは「リカージョン」)を「生産的なもの」と感知する知性(リカージョンが生産的な理由は本人にとって「気持ちいい」からである)について、池谷裕二の本と知性に触れながら、内田樹は文章を書き継いでいる。

そうして、そのおもしろいポイントをつく書き継がれた文章の最後のほうで、つぎのようなことばがおとずれることになる。

…私たちは「私を超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
 これは人間の基本である。
 子どもは「子どもには見えないものが見えている人、子どもには理解できない理路がわかっている人」を想定しない限り、子どものレベルから抜け出すことができない。人間のすべての知性はそういう構造になっている。
「自分の知性では理解できないことを理解できている知性」(ラカンはそれをsujet suppose savoir「知っていると想定された主体」と呼んだ)を想定することなしに、人間の知性はその次元を繰り上げることができない。

内田樹『街場の読書論』潮新書

途中の文章を省いたから論理がとんだように見えるかもしれないが、「無限後退」(「リカージョン」)の探求を支えているのは、<誰か>が「すでに解いた/いずれ解いてくれる」という確信であるというのが、内田樹の説くところであり、その<誰か>は、論理的には「宇宙の設計者」以外にはいないと彼は書く(「真に科学的な知性」はその絶頂において「宗教的になる」のだと、内田樹は付け加えている。宗教ではなく「宗教的」である)。

そのようにして仮定された「私を超えるもの」、たとえば、子どもにとっての「大人」であったり、弟子にとっての「師」であったり(内田樹は別の著書でこのことについて詳細に書いている)、そのような<仮定された「私を超えるもの」>がなければ、ぼくたちは「成長できない」というわけだ。

自然科学を対象とする科学にとっては、「私を超えるもの」をつきつめてゆけば、それは「地球」や「宇宙」になっていくから、<仮定された「私を超えるもの」>は「宇宙そのもの」(擬人化して言えば「宇宙の設計者」)以外にはいないということになる。

いずれにしろ、「無限後退」(あるいは「リカージョン」)が、それを支える<仮定された「私を超えるもの」>によって架橋され、こうして「成長論」に接続されてゆく仕方は見事であり、ぼくはいつもながらに教えられるのである。

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「天は自ら助くるものを助く」の変奏曲を奏でる。- 香港のホテルで考える糸井重里。

「香港のホテルで、なに考えてるんだか、おれは」とつぶやく糸井重里さんの文章は、「天は自ら助くるものを助く」ということばに導かれながら、「天は自ら助くるものを助く」の、いわば<変奏曲>を奏でています。

「香港のホテルで、なに考えてるんだか、おれは」とつぶやく糸井重里さんの文章は、「天は自ら助くるものを助く」ということばに導かれながら、「天は自ら助くるものを助く」の、いわば<変奏曲>を奏でています。

「天は自ら助くるものを助く」ということばが「よくできたことば」であること、つまり「大人」が納得するようなことばであることを確認したうえで、糸井重里さんの<ことばの磁場>が徐々に乱れはじめ、音楽の調べが転調してゆくように、文章の色あいが変わっていきます。

そうして、シンバルの音が高らかに鳴りひびくかのように「かくして」という言葉がおかれ、変奏曲を奏ではじめるのです。

かくして、大人を長年やってきた大人は、こんなふうに言い換えることになる。「天は自らを助くるものを助くのだが、扉をノックする程度のものを助くることもあるし、よくよく考えてみれば、自らを助けるものを助けないことだってしょっちゅうあるし、結局は好きなようにしなさい」と。ずいぶんと平らかな、なにも言ってないに等しい文、ここに流れ着いてしまうのであります。しかし、いちばんほんとうなのは、こっちです。

2018年11月14日「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』

「大人を長年やってきた大人」である糸井重里さんの経験と思考の地層をいくどもいくども通過しながら発せられたことばであるように、「大人をそこそこの年数やってきた大人」であるぼくは、このことばを読みながら、やはり思うわけです。

こうして、サミュエル・スマイルズ著『Self-Help』の冒頭に堂々とあらわれる「天は自ら助くるものを助く」という言葉の<変奏曲>が、ぼくの耳には心地よくきこえてくるのです。

なお、ぼくの<変奏曲>は、「天は自ら助くるものを助く」の「自ら」に照準をあわせながら、「自ら」ということ事態を解体し再構成する方向にすすんでゆくのですが、ここではそこに立ち入らず、ひとまず「自ら」をカッコでくくり、「天は『自ら』助くるものを助く」とだけ、書いておこうと思います。

それはそれとして、糸井さんはさらに、つぎのように語ります。

ただ、ここに流れ着いてしまったら、もうウケない。ここまでの当たり前は価値を持たないし、残念ながら、きみ、モテたりもしないのですよ。だってなぁ、なにも言ってないにひとしいのだから。でも、でもね、最後にうっかりを装って付け加えた「結局は、好きなようにしなさい」の部分は、平凡をくぐり抜けた強気のメッセージではあります。香港のホテルで、なに考えてるんだか、おれは。

2018年11月14日「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』

その「平凡をくぐり抜けた強気のメッセージ」を、ぼくの胸元まっしぐらに投げられたボールをうけるようにして、ぼくはうけとるのであります。

ここ「香港」で、この香港の磁場のなかで、あれやこれや「なに考えてるんだか」の思考を、糸井さんには楽しんでいっていただきたいと、勝手に思うところです。

ところで、つけくわえておきたいのは、「天は自ら助くるものを助く」を説く、サミュエル・スマイルズの『Self-Help』が明治時代初期に出版されたときの邦題『西国立志編』のうちに、社会学者の見田宗介先生は、日本近代化の<精神>としての「立身出世主義」を読みとっていることです。

 民間における福沢諭吉の『学問のすゝめ』、中村正直による『西国立志編』のベストセラーも、このような書を無数の儀本、異本をよぶまでに競って受け入れた精神の風土にまず注目しなければならないだろう。「原名自助論」とその副題にあるごとく“Self-Help”が「西国立志編」なる訳題で売られたことが重要である。 
 由来日本の相次ぐ世代の青少年は、教師からも親からも世論指導者たちからも、いわば競争的上昇の理想をたえず鼓舞されてきた。

見田宗介「「立身出世主義」の構造ー日本近代化の<精神>」『定本 見田宗介著作集Ⅲ』岩波書店

今では「自助論」として売られている著作が、そのはじまりにおいて「立志編」として、日本の近代化を支える精神たちとともに歩まれていたわけです。

その後の日本は、近代化をすすめ、近代化をなしとげてゆくなかで、「立身出世」ということが、社会構造的にも、また個人的な目標としても、意味を喪失してくずれてゆくことになるのですが、それでも、「天は自ら助くるものを助く」の精神は、別の文脈のなかで生きのこっているのが現代日本だと、ぼくは思います。

新たに更新された文脈は、どこまでもつづく(かにみえる)経済成長神話を身にまとい、個々の人たちの「競争的上昇の理想」をそのシステムに組みこみながら、「天は自ら助くるものを助く」の言葉の意味合いを、イデオロギー的にせばめてしまうように見えます。

「大人を長年やってきた大人」である糸井重里さんは、そのようなイデオロギー的な装束を、彼の経験と思考と行動のうちに徐々にはぎとりながら、「結局は、好きなようにしなさい」という強気のメッセージにたどりついたのだ、ということでもあると思います。

糸井さんは「平凡をくぐり抜けた…」というように、ぼくたちの生活の「平凡」のなかに、ぼくたちが知らない/気づかないうちにある種のイデオロギー性が侵入しているわけで、糸井さんは意識的にそこに距離をつくりながら、やがて、「結局は、好きなようにしなさい」という場所に降りたったのです。

そのように降りたった場所もやはり「平凡」であるのかもしれないけれど、そこは以前の「平凡」とは異なる<平凡さ>の風にふかれているところだと、ぼくは思っています。

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「○○の冒険に一生を賭けてみる人間が、一人くらいいたっていいじゃないか」。- 見田宗介先生の「生きかた・ありかた」に勇気づけられる。

ぼくにとっての「見田宗介先生」はとても特別であって、ぼくが見田宗介先生や著作などについて書くときにじぶんがとるポジションも、「完全な師」の「完全記号」を一生懸命に読みとくような立ち位置に、ぼくはいることになります。

ぼくにとっての「見田宗介先生」はとても特別であって、ぼくが見田宗介先生や著作などについて書くときにじぶんがとるポジションも、「完全な師」の「完全記号」を一生懸命に読みとくような立ち位置に、ぼくはいることになります(※11月11日のブログ「ぼくにとっての「見田宗介先生」と著作群。- どのような立ち位置で、ぼくは書くか。」)。

見田宗介先生の「生き方」においても、「自称弟子」としてのぼくは、その師のふるまいに圧倒的な影響や励ましを得ることになるのです。

たとえば、社会学者としての「生きかた」や「ありかた」においては、つぎのような語りに、ぼくはじぶんの心身のふかくにおいて共感・共振することになります。


見田 ぼくがほんとうにやりたかったことは、…「ほんとうに歓びに充ちた人生を送るにはどうしたらいいか」、そして「すべての人が歓びに充ちた人生を送るにはどのような社会をつくればいいか」ということ、その中でもとくに二つの焦点として、<死とニヒリズムの問題系>、<愛とエゴイズムの問題系>ということでしたが、それは基本的には文学や思想の問題なのです。けれどもぼくは、これらの問題を、現実的な事実の実証と、透徹した理論という方法で追求したかった。つまり文学や思想の主題を、科学という方法で追求したかったのです。

討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社


追求される<死とニヒリズムの問題系>と<愛とエゴイズムの問題系>という主題と内容をとっても、ぼくの生きられる切実な問題と重なってくるものだけれど、生きかたやありかたということにおいて、つぎの点にぼくは惹かれてやまないのです。

第一に、見田宗介先生が「ほんとうにやりたかったこと」をどこまでも、真摯に追求してゆくという姿勢と継続です。

第二に、「ほんとうにやりたいこと」というのが、ほんとうに歓びに充ちた人生を送るにはどうしたらいいか」という個人の生きかた、そして「すべての人が歓びに充ちた人生を送るにはどのような社会をつくればいいか」という社会のありかたという、とても根源的・根柢的な問題意識につらぬかれていることです。

それから第三に、これらの姿勢と継続と問題意識を、社会学という領域のなかで、孤高的に追求し続けてこられたこと。

見田宗介先生は、別の著書(『社会学入門』岩波新書)のなかで、社会学というものが<越境する知>(※専門領域を越えてゆく領域横断的な知)と呼ばれることにふれ、学問の問題意識においてだけは禁欲してはいけないのだと書いています(※なお、この箇所の文章は、新書に収められるだいぶ前に、AERAムックに掲載され、ぼくはその文章を読んでいました)。

専門領域を横断すること自体を「目的」にしてはいけないとしながら、しかし、じぶんにとってほんとうに切実な問題を追求することの「結果」として領域を横断せざるをえないということ、そこで「禁欲」してはいけないのだと。

ぼくがかかわってきた「発展途上国の問題」とフィールドでの実践は、それらを切実に追求してゆくうえでは「結果」として専門性の領域を超えていかざるをえないというぼくの経験に、見田宗介先生のことばは、直截的に励ましと勇気を与えてくれるものでした。

ぼくにとって、ほんとうに勇気づけることばでした。

なお、「文学や思想の問題」を「現実的な事実の実証と、透徹した理論という方法で追求」ということも、ぼくにとってとても大切なことであって、まさにぼくが求めるものでもあったところに、ぼくにとっての「完全な師」としての見田宗介先生がおられることになります。


さて、勇気づけられることばは、上で引用したことばのあとに、さらに継続してゆきます。


見田 そんなこと(<死とニヒリズムの問題系>と<愛とエゴイズムの問題系>という基本的には文学や思想の問題を、現実的な事実の実証と、透徹した理論という方法で追求することー引用者)がどこまでできるか、できないのかはわかりません。けれどもそういう統合の冒険に一生を賭けてみる人間が、一人くらいいたっていいじゃないかと(笑)。

討議:見田宗介 X 加藤典洋「現代社会論/比較社会学を再照射する」『現代思想』2015 vol.43-19、青土社


「…の冒険に一生を賭けてみる人間が、一人くらいいたっていいじゃないか」。

「…の冒険に一生を賭ける」ことを見つけることは、だれでもができるものではないかもしれないけれど、「一人くらいいたっていいじゃないか」というように、みずからの生を定め、ひらいてゆく仕方に、ぼくはとても勇気づけられるのです。

「生きかた」を書いたり、「世界で生ききる」ことを書いたり、「未来の社会」を書いたり、ぼくにとって切実な問題は、他者にとっては「とても大きなトピック」だったりするものです(実際に、そのように言われたりすることもあります)。

あるいは「発展途上国の問題」を追求しつづけてきたなかで、ぼくは「発展とは?開発とは?」ということを問わずにはいられず、その後に修士論文でも書いたのですが、そもそも「発展とは?開発とは?」という問題自体が、「とても大きなトピック」です(実践的な問いではないかもしれませんが、ぼくは、問わずにはいられなかったのです)。

そのような「とても大きなトピック」を追求してゆくなかで、ある人は、「トピックが大きいねぇ」などと言われるかもしれません。

そんなとき、若干でも怯(ひる)んでしまう声がぼくのなかに現れることもありますが、ぼくは、やはり思うわけです。

かつていろいろな旅に生き、それからいろいろな場所で住んできた人間が、とても大きなトピックを切実に追求してゆく、そんな人が一人くらいいてもいいですよね、と。

見田宗介先生の<背中>を見ながら、ぼくは、勇気づけられるのです。

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書籍, 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

「近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている」。- 夏目漱石『坑夫』における自己の流動性。

小説の一節から。

小説の一節から。


…近頃ではてんで性格なんてものはないものだと考えている。よく小説家がこんな性格を書くの、あんな性格をこしらえるのと云って得意がっている。読者もあの性格がこうだの、ああだのと分かったような事を云ってるが、ありゃ、みんな嘘をかいて楽しんだり、嘘を読んで嬉しがっているんだろう。本当の事を云うと性格なんて纏(まとま)ったものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。神さまでも手古ずるくらい纏まらない物体だ。…

夏目漱石『坑夫』青空文庫


これは夏目漱石の小説『坑夫』の一節である。

『坑夫』を読んでいたら、この一節が気になったのではなく、「このような箇所」を探しながら『坑夫』を読んでいて、「あっ、こんなふうに漱石は書いているんだ」と見つけた一節である。

自我とか自己とかが確固としたものとしてあるのではなく、むしろ、その逆のように感覚するものとして、漱石はこの小説の主人公に語らせている。


夏目漱石の『坑夫』のなかにそのようなことが描かれてあることを知ったのは、村上春樹の翻訳者でよく知られているジェイ・ルービンの発言によってであった。

『坑夫』の英語翻訳もしているジェイ・ルービンは、「世界は村上春樹をどう読むか」のシンポジウム(2006年開催。文春文庫『世界は村上春樹をどう読むか』2009年として発刊)のなかで、「自己とか自我の流動性」について触れていて、夏目漱石がどのように書いているのか、直接に『坑夫』を読みたくなったのだ。


『坑夫』は、19歳の青年が東京の家から家出をして、ひょんなことから坑夫になってゆく物語で、その青年が後年に回想する仕方で物語る形式をとっている。

坑夫になるというきっかけがひらかれてゆく場面で、冒頭の一節があるのだけれど、さらに読みすすめてゆくと、漱石はつぎのようにも主人公に語らせている。


…人間のうちで纏ったものは身体だけである。身体が纏ってるもんだから、心も同様に片づいたものだと思って、昨日と今日とまるで反対の事をしながらも、やはりもとの通りの自分だと平気で済ましているものがだいぶある。…

夏目漱石『坑夫』青空文庫


そんなふうに考える主人公によって語られる『坑夫』の物語に、まったく予測していなかったのだけれど、ぼくはとても惹かれたのであった。

ぼくは夏目漱石の熱心な読者ではないけれど、これまでに読んだいくつかの有名な作品のなかにあって、おそらく漱石らしくない作品である『坑夫』を、ぼくはもっとも「おもしろい」と感じるのである。

『坑夫』を読みすすめながら、ときおり、ジェイ・ルービンの著書『村上春樹と私』(東洋経済新報社、2016年)をひらいて読んでいたら、ジェイ・ルービンが自身による『坑夫』の英語訳と、その「前書き」を書いた村上春樹について、つぎのように書いているのを、ぼくは見つけた。


…村上さんは、2015年9月に出版された私の『坑夫』の改訳の前書きで漱石の全小説の中で『坑夫』が一番好きな作品だと言った。…
 実を言うと、『坑夫』を初めて訳したのは1988年だった。そして1993年から2年間私は村上さんと同じケンブリッジに住んでいたころ、二人で『坑夫』の話をした記憶がある。
 その時、村上さんはもちろん『坑夫』を読んでいたが、詳しく覚えていなかった。私が一生懸命に勧めたので、彼はすぐ読んで、主人公がいろいろな辛いことを経験しても全然変わらないというところが一番好きだと言った。その後、『坑夫』の話をしなかったが、2002年になって、『海辺のカフカ』を読んでみて、こんな言葉に出合った。 …

ジェイ・ルービン『村上春樹と私』(東洋経済新報社、2016年)


『坑夫』は、村上春樹の小説『海辺のカフカ』のなかで登場する書物となったのであった(ぼくは『海辺のカフカ』のその場面をほとんど覚えていないのだけれど)。

ちなみに、村上春樹は、期間限定公開サイト「村上さんのところ」(『村上さんのところ』新潮社、2015年)に寄せられた質問に応える仕方で、ジェイ・ルービンが英訳した『坑夫』のためにイントロダクション(前書き)を書いたこと、また『坑夫』が面白いことなどを書いている。

『坑夫』が、夏目漱石の小説のなかで一番不評の作品である(あった)ことを、ジェイ・ルービンは言及しているが、じぶん自身で読んでみないとわからないものである。


ところで、『坑夫』へのきっかけをつくってくれたのは、日本とは異なる文化に生きてきたジェイ・ルービンであった。

ある固有の文化や作品を「守る」のは、ときに、その文化にとっての「他者」であることもあるのだ、ということを思う。

なにか固有の文化へと「同一・統一」してゆくのではなく、むしろ「多様性」を開花してゆくことで、つまり他者にひらかれてゆくことで、その固有の文化なりが絶えず、いのちを燃やしつづけていくようにも見えるのである。

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村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

「私」をめぐる冒険の道ゆきで。- 自己の感覚は「騒々しい議会」(リチャード・パワーズ)。

世界で村上春樹はどう読まれているのか。

世界で村上春樹はどう読まれているのか。

「村上春樹」を熱心に読む読者であれば興味のひかれる問いである。

でも、村上春樹を読まない人たち、あるいは読書にもあまり興味がない人たちにとっても、見方を変えてみれば、興味のひかれる問いであろう。

世界で日本のある作家(あるいは日本というもの)がどのように見られているのか、という問いに転換してみることもできる。

そのような問いは、『日本辺境論』での内田樹の視点を援用すれば、日本・日本人が、つねに、じぶんたちがどのように「見られているのか」という問いに回帰しつづけることで、じぶんたちのあり方を確認することの一環としてあるように見える。

なにはともあれ、「世界で村上春樹はどう読まれているのか」をめぐるシンポジウムが2006年に日本で開催され、『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)として編まれている。

「村上春樹」作品をさまざまな言語に訳す翻訳者たちなどが集まり、いろいろな視点で、ワイワイガヤガヤ、それぞれの翻訳版の紹介や議論をくりひろげてゆく。

そこでは、論点は、村上作品を基点にしながらもそれをこえて、日本や日本文学や日本文化、またグローバリゼーションなども加わってゆくのだ。


それでも、とくにひきつけられたのは、アメリカの小説家リチャード・パワーズ(Richard Powers)による基調講演「ハルキ・ムラカミー広域分散ー自己鏡像化ー地下世界ーニューロサイエンス流ー魂シェアリング・ピクチャーショー」(柴田元幸訳)であった。

2018年に発刊された最新作『The Overstory』が「2018 Man Booker Prize」の最終選考にのこり、またこれを読んだ柴田元幸が、リチャード・パワーズの代表作を簡単に決めつけてはいけないと思い直したという作品を書き続けているリチャード・パワーズ。

このひどく長い題名を冠した基調講演の冒頭のほうで、もろもろのあいさつを終えて、いよいよ、この長い題名のつけられた「世界」へと誘おうというところで、リチャード・パワーズはつぎのように語りはじめている。


 いまからおよそ十年前、村上春樹が傑作『ねじまき鳥クロニクル』の仕上げにかかっていたころ、イタリアはパルマの研究所で、国際的なニューロサイエンティストの一団が、心のはたらきをめぐる、現代有数の影響力甚大な発見に行きあたりました。…

『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)


「講演」の体裁・形式からはみだしてゆくように、なんとも「物語」的な語り口で、リチャード・パワーズは一気に聴衆を、彼の「世界」へとひきこんでいるように見える。

少なくとも、これを読みながら、ぼくはなにか違う世界に入ってゆくような、そのような感覚にみまわれたのである。


ところで、ここで指摘される「影響力甚大な発見」とは、「ミラー・ニューロン」として知られるメカニズムのことである(この文章を読むまで、ぼくは「ミラー・ニューロン」の発見はもっと前の時代のものだと勝手に思っていた)。

このメカニズムによって、他者による行為をみるときに、「鏡」的に、自身のなかで同じ神経細胞が作動し、高次元の認知機能に益している。

リチャード・パワーズは、このメカニズムが発見されたサルの実験とヒトの実験にも言及しながら、そのインパクトと意義を語り、さらに村上春樹の作品と交差させてゆくという、なんとも興味深い、不思議な世界に、聴衆(読者)を誘ってゆくのである。

この「ミラー・ニューロン」とそのメカニズムの発見を含め、脳科学は1990年代にさまざまな発見や理論を生み出したことにふれ、それらをベースとした理解では、心というものは、「何百もの分散したサブシステムに分解され、それら一つひとつが、ゆるやかに絡みあった連合関係を成して、それぞれ個別に信号を発している」と、リチャード・パワーズは語る。

そう語りながら、彼は、「私は誰なのか?」という、古典的な問いとそれへの応えに接続させる。


…たったひとつの単語を口にするだけの営みですら、百人あまりのミュージシャンにシンフォニーを演奏させる行為になぞらえてもおかしくありません。
 だとすれば、「私は誰なのか?」という自己の感覚も、こうした雑多なプロセスの上に浮かんでいるのであって、一義的な「アイデンティティ」などではありえません。それは騒々しい議会であって、そこではゆるやかなルーツでつながった議員たちがたがいにアップデートしあい、模倣し、修正しあう。そうした交渉を通して、自己はそのつど自らを作り上げているのです。そして、これがリツォラッティによるミラー・ニューロンの発見が示唆しているさらに重要な点ですが、そうした一人の人間の自己というゆるやかな議会は、それが触れあうほかの人間の自己たちを時々刻々アップデートし、それらほかの自己たちによってアップデートされてもいるのです。

『世界は村上春樹をどう読むか』(文春文庫、2009年)


原文がわからず柴田元幸の日本語訳に効果もあるのかもしれないが、自己の感覚を「雑多なプロセスの上に浮かんでいる」ものとしてとらえるのはイメージをひろげてくれるし、また「騒々しい議会」という表現もなかなかおもしろい(「議会」が言葉として使われるのは、アメリカ的なのかと、アメリカの中間選挙の状況を追いながら思ってしまうのである)。

一義的なアイデンティティのような「私」ではなく、他者をもまじえながら、つねにアップデートしあっている、それぞれの「自己」。

このような見方に、ぼくは賛同する(のだけれど、問いは、さらに射程を遠くに、あるいは深くに、投じられるところであるとも思う。たとえば、なぜ、「一義的なアイデンティティ」的感覚が(少なくとも表面的には)行き渡っているのだろう、とか)。

ぼくの、「私」をめぐる冒険、はつづく。

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物語・ストーリー, 成長・成熟 Jun Nakajima 物語・ストーリー, 成長・成熟 Jun Nakajima

CNNの記事にみる、最下位ランナーの「物語」。- ランナーには、いつだって、個々の<物語>がある。

CNNニュース(2018年11月4日)に、「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。


CNNニュース(2018年11月4日)に、
「The final finisher: The inspiring stories of last-place marathon runners」(「最後の完走者:最下位のマラソンランナーたちの感動的な/触発的な物語」)と題された記事がある。

マラソン大会といえば、人やメディアは「優勝者」や入賞者に光をあてる傾向があることとは逆に、この記事は「最後の完走者」、つまりビリの走者に光をあてている。

そこには、人をインスパイアするような「物語」があるのだと、ライターのJacqueline Howardは書いている。

記事のなかに、ニューヨークシティマラソンのダイレクターであるPeter Ciacciaの言葉がおかれているように、「for every runner, there’s a story.」(「すべてのランナーに、物語があるんだ」)と言うほうが、視点がより包括的で、より徹底しているけれども、記事には「フォーカス」が必要であるし、「最下位ランナーの物語」は人の関心をひくものであるだろうから、このようなタイトルと内容の展開は「理解できるもの」である。

そのことを確認したうえで、「最下位のマラソンランナーたちの物語」にひかれることを、ぼくはここに書いておきたい。


「最下位のマラソンランナーたち(last-place marathon runners)」と複数形で書かれているように、ここでは4名のランナーが取り上げられている(もちろん、ふつうは意識しないけれど、どんなマラソン大会にも「最下位」のランナーがいるものである)。

「まひした身体」でロンドンマラソン(2018)を「最下位」で完走したサイモンさんは、じぶんの子供たちにとって「スーパーヒーロー」となり、また、まひした身体にかかわらず自身の足でこのレースを完走した最初の男性(the first paralyzed man)という記録付きであった。

ニューヨークシティマラソン(2017)を「最下位」で完走したデーヴィッドさんは、このレースの完走は10回目であったけれど、つま先を使って車椅子をおしながら完走であった。

アトランタでのハーフマラソン「The Race」を「最下位」で完走したアミナさんは、ぜんそく持ちでありながらできるとは思っていなかった完走を果たした。

世界中のマラソンやウルトラマラソンを110も走ったリサさんは、それぞれの完走を祝うため、新しく獲得したメダルをかけたまま寝ることを慣習があるのだというけれども、参加したレースのうち25回が「最下位」であったという(彼女は、レースを走りはじめたとき、「ビリ」になることを恐れていたという)。


この記事を書いたライターのJacqueline Howardは、これら4人が「共通してもつもの」を取り出している。

彼ら・彼女たちが「あきらめなかったこと」だ。

あきらめずにゴールを目指し、ビリであっても、走り(あるいは歩き)、ゴールをつきぬける。

より本質的には、じぶんの抱いていた「困難」をあきらめずに(あるいは徹底的にあきらめることによって)、のりこえてゆく精神の運動がみられることであるように、ぼくは思う。


そして、「共通してもつもの」として、より根底的には、それぞれの人たちにとっての<物語>がたちあがり、その物語に生きたことだと、ぼくは思う。

これら4人の「最下位のマラソンランナーたち」の「物語」、それは記事ではとても短い物語だけれど、物語の一端が見えてくるようにさえ感じられる物語である。

でも、それらの物語は、「メディア記事としての物語」ではなく、彼ら・彼女たち自身の<物語>として、鮮烈に生きられてきた物語である。

ぼくはそう思う。


そして、くりかえしになるけれど、「最下位のランナーたち」にかぎらず、だれにとっても、物語はあるのだということ。

途中であきらめてしまい、完走できなかったものたちにも、物語はある。

マラソンのレースは、そのような、個々の物語が、一緒に走るという舞台において交差し交響し共振する場でもある。

個々の物語が、とくに語られるということがなくても。

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「旅で人は変わることができるか?」。- 旅人「沢木耕太郎」のまなざし、それから「大沢たかお」の旅。

「旅で人は変わることができるか?」

「旅で人は変わることができるか?」

10代の終わりから20代前半にかけてのぼくにとって、とても切実に迫ってきた「問い」です。

当時の思索ののちに至った、この問いに対する「答え・応え」は、「変わることもできる」し、「変わらないこともできる(変わらない)」という、ごくごくあたりまえのものでした。

今考えてみても、このような問いの立て方であれば、そう応えるしかないことは、至極当然のことのようですが、当時のぼくにとっては、それでも、「切実な問い」であったことに変わりはありません。

その「切実さ」に賭けられていたのは、「旅で人は変わることができる」として、どのような「旅」であるのか、「旅」を方法として取り出すとともに、どのように「人」を変えるのか、あるいはどのような影響を「人」にあたえるのか、という問いでした。

18歳のときにはじめて海外を旅し(鑑真号で横浜から上海へ渡り、西安と北京・天津をめぐる旅)、また香港、ベトナム、タイ、ミャンマー、ラオスへも足をのばし、さらには、ニュージーランドに「住む」という経験を経ながら、ぼくは、じぶんの身体の実感を手がかりにして「旅の方法論」をとりだそうとしたわけです。

ところで、当時読んでいた本のなかに、沢木耕太郎の著書シリーズ『深夜特急』(新潮社)があり、それは少なからず、ぼくの旅に影響をあたえたのでした。

今の若い世代に読まれているのかどうかはわかりませんが、ユーラシア大陸を、デリーからロンドンまで乗合バスでゆくという旅は、多くの人たちに影響をあたえてきたものです。

沢木耕太郎の旅(1970年代)は、インドのデリーを出発点とする予定であったのが事情により(今ぼくが住んでいる、ここ)「香港」からの出発となったのでしたが、そのことが幸福な仕方で作用し、「香港」というはじまりが、沢木耕太郎に「順化」の理想ルートをあたえ、また沢木耕太郎の旅のスタイルを形つくったのだということを、後年に書かれた沢木耕太郎自身の言葉によって、ぼくは知ることになりました。

その沢木耕太郎は、同じ著書『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)のなかで、ぼくが冒頭に挙げた「問い」にも応えています。

沢木耕太郎は、この問いに対する「応え」の結論部分を、つぎのように書いています。

 旅は人を変える。しかし変わらない人というのも間違いなくいる。旅がその人を変えないということは、旅に対するその人の対応の仕方の問題なのだろうと思う。人が変わることができる機会というのが人生のうちにそう何度もあるわけではない。だからやはり、旅には出ていった方がいい。危険はいっぱいあるけれど、困難はいっぱいあるけれど、やはり出ていった方がいい。いろいろなところに行き、いろいろなことを経験した方がいい、と私は思うのだ。

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

旅は人を変えるし、旅は人を変えない。

最終的には、その「人」しだいである、という「結論」は、あたりまえの結論だけれど、肝心なことは、その結論に至るまでのプロセス、つまり経験じたいにあると、ぼくは思います。

沢木耕太郎は、自身の旅の経験を下敷きにしながらこの言葉を書いているとともに、たとえば、ほかの「事例」として、テレビドラマ化された『深夜特急』(1996年~1998年)に出演していた「大沢たかお」に触れています。

このテレビドラマが興味深かったところは、ドキュメンタリーとドラマを融合するという、その形式と内容にありました。

あるプロデューサーがあまりにも熱心であったため、テレビドラマ化の申し出を沢木耕太郎は受け入れることにし、のちに、ようやく決まった主演の、大沢たかおに出会い、そのときの大沢たかおの印象をつぎのように語っています。

 私が初めて会ったときの大沢さんは、確かに背は高いが、線が細くてひ弱な感じだった。これであの苛酷な地域の旅に耐えられるのだろうかと心配になるくらいだった。しかし、考えてみれば、旅に出たばかりの私もほとんど似たようなものだったと思い返した。大沢さんもぜひやりたいと言うし…、それでは気をつけて行ってらっしゃいとロケに送り出した。…

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

そののち、3年がかり、三部作の大作となった『劇的紀行 深夜特急』が放映されますが、沢木耕太郎は、このテレビドラマを見ながら、驚きにとらわれることになります。

…その中の大沢さんを見て私は少し驚いた。彼が明確に変化していったように見えたからだ。…仕事としての旅を彼は自分自身のための旅と捉え直していったらしいのだ。大沢さんは、一作目から二作目、二作目から三作目と旅していくうちに少しずつ変わっていった。それは、旅の質が変わったためではないか、と私には思われた。…

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

大沢たかおの「変化」は、沢木耕太郎の眼にだけでなく、だれの眼にも明らかであったのではないかと思います。

少なくとも、ぼくの眼にも、明らかに感じるとることができた「変化」であり、そのことがこのテレビドラマを魅力的にした要因でもあったと、ぼくは考えます。

沢木耕太郎は、すべてうまくすすんだら、最終ロケ地のロンドンで落ち合って一杯酒を呑もうと約束していたとおり、ロンドンに向かい、そこで大沢たかおにふたたび会うことになります。

そのときに見た「大沢たかお」は、沢木耕太郎の眼に、「別人」のように見えたのであり、じぶんにたいして確かな自信をもったかのように感じたと、前掲の『旅する力 深夜特急ノート』のなかに書きながら、あわせて、日本に帰ってから大沢たかおが受けたインタビューの言葉をひろっています。

大沢たかおは、つぎのようにインタビューに応えます。

《この仕事の話をいただいた頃の僕って、力不足を認識している一方でどんどん大役が入ってきて。自分の足で歩いていない、自分が頭打ちになっているんじゃないか、その不安感から逃げ出したかったんです。未知なものを求めて、仕事をすべて投げ出して旅に出た26歳の主人公と一緒でした。
 原作に、「ふっと体が軽くなった気がした」とか、「また、ひとつ自由になれたような気がした」って表現が幾度も出てくるんですが、僕も第2弾のインド・ロケをしてる頃そんな感じを強く持った。一場面一場面完成させていく度に、重い服を一枚ずつ脱いでいったような。
 だから、マルセイユで身体を壊して医者から帰国を命じられた時も、撮影を止める気はなかったですね。ここで散るなら散るでいいかなって。》

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

この言葉に耳をすませながら、大沢たかおの「変化」についても、そしてテレビドラマの魅力についても、ぼくは心の深いところで納得がいくような気がしました。

そして、やはり、「旅で人は変わることができるか?」ということへの、ひとりの人間の<応え>を見ることができたのだと思います。

つまり、沢木耕太郎が書いたように、「旅」にたいする、その人の対応の仕方ということをです。

それにしても、『劇的紀行 深夜特急』をいっそう魅力的にしているのは、井上陽水が歌う主題歌(「積み荷のない船」)であると、ぼくは思ってやまないのですが、いかがですか?

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「もう遅い」けれど、「遅すぎ」ではない。「なにかをはじめる」思想。- 糸井重里氏のことばと視点。

糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。

糸井重里氏は、2018年11月2日『ほぼ日刊イトイ新聞』の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を、つぎのように書き始めています。


なにかをはじめるのに、「もう遅い」と思っちゃだめだなぁとつくづく思います。…

糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号


先日も、糸井重里の「今日のダーリン」でとりあげられていたことを素材にして書きましたが、今日のことばも、ぼくのなかに鮮烈に投げこまれたことから、こうして、また糸井重里の視点を素材に書いています。

でも、鮮烈さは、上記のことばとは少し違ったところにありました。

なにかをはじめるのに「もう遅い」と思ってはだめだ、ということは、糸井重里の実感がこめられたことばであるのですが、さらにその先におかれたことばに、ぼくはとても惹かれるのです。


そのことばにふれるまえに、コンテクストを書き足しておきますが、糸井重里はこの文章を書くまえ、つまり「今日のダーリン」が届けられる日の昨夜に「笑福亭鶴瓶の落語会」を見にいってきたところです。

「ぼくが言うのもおこがましいのですが…」と前置きをしながら、糸井重里は、笑福亭鶴瓶の落語が、「ずいぶん上手になっている」ことをそこで感じたと言います。

そのことにあれこれと付け加えながら、糸井重里は、つぎのように語ります。


で、ね。「俺が落語家になったんは五十歳のときですよ」ですよ。そこからはじめるって、遅いでしょう?それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった。いや、「遅すぎ」にしなかったんですよね、本人が。「ほれ、こんなふうに、まだまだ上手くなるよ」と、見本を見せてくれてるような気がします。なにかをはじめると、よく「もう遅い」と言われます。そう言えば、ぼくも「ほぼ日」をはじめたのが五十歳。わりと具体的に「もう遅い」とも言われましたっけ。うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。

糸井重里「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」『ほぼ日刊イトイ新聞』2018年11月2日号


「もう遅い」ということを、ぼくたちは思ってしまったり、あるいは人に言われたりしてしまいます。

「もう遅い」と思っちゃだめなのだけれど、どうしても、思ってしまうことがある。

世間や周りの人たちの「見方」が、じぶんに内面化してしまっているから、思ってしまうということもあります。

でも、そこからのひとことが、心に沁みてきます。


「それはそうなんだけど、「遅すぎ」ではなかった」


「もう遅い」から「遅すぎ」までの距離、それは確かに、はるかな距離(空間・時間)かもしれないと、ぼくは思うわけです。

世間的に(したがって、じぶん的にも)「もう遅い」という声が聞こえてくるようなのだけれど(そして、そう思ってはいけないこともわかっているんだけれど)、そこで<遅い>ということばの罠にかかって、あきらめてしまうのではなく、「遅すぎ」ではないんだと、じぶんをひらいてゆく。

それは、とてもひびいてくることばであり、知恵だと思うのです。


糸井重里は、しかし、笑福亭鶴瓶の落語においては、「いや「遅すぎ」にしなかったんだ」というように捉えています。

この捉え方は、遅い/遅くない、ということを超えてゆく「正しい」方法でもあるのだけれど、この認識は、糸井重里の感じていることの半分しか語っていないように、ぼくには見えます。

残りの半分については、じぶんも「もう遅い」と言われた経験があったことにふれながら、最後にこう書いたことに現れています。


「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん。」


つまり、ここでは、将来的に「成功」することで、過去の「遅い/遅くない」ということを書き換えるという方法が語られているのではなく(つまり、なにかの「達成」をもって「正しさ」を証明することが書かれているのではなく)、<歩み>自体の楽しさが書かれているわけです。


ぼくたちが「生きる」という道ゆきにおいて、なにかをはじめるときに、何をもって、「遅い」だとか、「遅くない」とかを判断し、評価するのだろう。

もちろん、そのような声をふりきって、未来においてなにかの「達成」を見せて、さしだして、「あのときは遅くなかったのだ」と証明し、言い聞かせることも(上で述べたように)方法のひとつではあるわけです。

けれども、そこで見せつける「達成」とはなんだろうか、と問い返すこともできます。

いずれにしても、人は、いつか「死」というものを迎えてゆくのであり、個人(個体)においては、達成は跡形もなくなってしまうのです。

ぼくたちにできるのは、人間として生きる、この世の一日一日を、遅かろうが速かろうが、その一歩一歩を歩むことでしかないと、ぼくは思うのです。

こういう視点で、「うん、歩みも遅かった、もう二十年も過ぎちゃったもん」という糸井重里のことばを見ると、「歩みは世間的には遅いと言われるだろうけれど、一歩一歩が楽しかったんだ。そのほかになにがあるというんだ」というように、ぼくには聴こえてきます。

それは、「遅すぎ」ではない、ということの、(より)徹底した生き方であるように、ぼくは感じるのです。


それにしても、なにかをはじめる人に向かって、「「もう遅い」ということはないよ」と伝えるよりも、「「遅すぎる」ことはないよ」と伝えるほうが、相手に伝わるということがあると思いませんか?

ぼくは、そう思います。

繰り返しになりますが、本人は、心のどこかで、「もう遅い」ということを感じてしまっていることがあるのだから。

と、思って、さっそく、「遅すぎることはないよ」と、伝えてみました。

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<空間的な移動>による「人生41年」環境を経験したこと。-「なにを書こうか」とひらく、糸井重里の文章との「対話」から。

「なにを書こうか、ずっと迷っていた。…」と、糸井重里は今日、2018年10月30日の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を書き始めています。

「なにを書こうか、ずっと迷っていた。…」と、糸井重里は今日、2018年10月30日の「今日のダーリン(糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの)」を書き始めています。

糸井重里が『ほぼ日刊イトイ新聞』上で、毎日書き続けている「エッセイのようなもの」ですが、糸井重里はしばしば、「なにを書こうか迷う」のを、ぼくたちは目にします。

ぼくはこのブログで「なにを書こうか」と思っているときに、iPhoneで『ほぼ日刊イトイ新聞』アプリを立ち上げ、トップに掲載されている「今日のダーリン」を見たりすると、結構な割合で、糸井重里氏が「なにを書こうか」と迷っている文章の出だしに出会うのです。

この「迷い」は、迷いというからには、まったく書くことがないということではなく、あれもこれもあって(あるいはそのように予感して)、でも、このタイミングで、どのように書くのか、あるいは納得のいく仕方で書くことができるだろうかなどを考慮しているうちに「はまってしまう」袋小路のようなものです。

ぼくの場合は、トピックそのものがしぼりきれないこともあって、たとえば「今日のダーリン」などに訪れて、あるいは本を読んでみて、じぶんとそれらの文章のあいだの<間隙>から生まれてくるようなものを探りあてようとしたりするのです。

つまり、ある種の、他者との「対話」から、書くことが立ち上がってくるのをうかがうわけです。

それは、主体の表現というかたちの「書くこと」ではなく、「対話」によって書いていくことです。


そんなわけで、糸井重里の書いたものを読んでいたら(書かれたテクストと仮想敵な対話をしていたら)、思いつくことがあったのです。

取り上げられていたのは、歴史をさかのぼったときの「時間感覚と人生」です。

人生100年時代といわれるようになりましたが、(歴史にあったように)仮に人生が30年の時代にいると考えたとしたら、一年、一月、一日というものの時間感覚はどのように違うのかと、糸井重里はじぶん自身に問いながら書いています(なお、「一年、一月、一日」というように、ここに「週」が入っていないのは、おそらく意図的なのだと推測しますが、「週」が一般的に使われるようになったのは「近代」に入ってからです。人生30年時代は近代以前のことでしょうから、これは「正しい」わけです)。

こうだろうか、ああだろうかと書きながら、とにもかくにも人生100年時代とは「ものすごいちがい」を感じることになるわけです。

このことはあたりまえではあるのだけれども、この問いを問う人それぞれの「実感の度合い」あるいは「想像力のひろさ/深さ」によって、ちがいの感覚のされ方はさまざまであるものだと思います。


そのように読みながら、ふと(思い出しながら)考えていたのは、<空間的な移動>によって、ぼくは「人生41年」のところに生きていたことがあるのだということでした。

糸井重里は想像力を駆使しながら<時間的な移動>(昔だったら…)という思考のなかで考えて書いたのですが、ぼくはこの現代における<空間的な移動>で、実際にその「場」にいたわけです。

それはどういうことかというと、ぼくは、2002年、当時内戦が終結したばかりの西アフリカ・シエラレオネに住んでいたということ、シエラレオネでは当時平均余命が41歳程度であったのです(シエラレオネでは現在ようやく、平均余命は51歳程度までに至っています)。

もちろん、ぼくは外部からやってきて1年に満たない時間を過ごしただけですし、また平均余命の算定方法などからもいくらか差し引いて考慮すべきことがあるのだと思いますが、それでも、この現代という同時代において、空間を移動することで、ぼくは「人生41年」の環境に生きていたことになります。

つまり、「実感」として、あるいは実感という感覚の土台となる経験において、ぼくはある限度のなかでその経験をいくぶんか得ているわけです。

「人生41年」から見れば、当時のぼくは26歳から27歳であったから、そこから15年ほどで41歳に到達し、また今の時点ではすでにぼくはその41歳を超えるところにいることになります。

シエラレオネにいた当時、山本敏晴さんの『世界で一番いのちの短い国ーシエラレオネの国境なき医師団』(白水社、2002年)という著作もあり、ぼくのなかでも、そのような環境にいるんだということは明確に感じていました。

そのような経験を書かなければと思うのですが、今すぐに書けるようなことではないことを、書きながら思うところです(<空間的>に今もそのような環境があることは、少なくとも、知っておくことであると思います)。


このようなことを、糸井重里の書いたテクストとの対話のなかで、ぼくは考えていました。

さらに、糸井重里が最後のところで、「…ぼくは、いまも1000年生きるつもりで日々を過ごしています。」と書いている箇所に至って、「仮想的、人生30年時代」思考からの転回に、いくぶんかのおどろきのようなものを感じると共に、でもそのこと(糸井重里の生きかた)がとてもすんなりとわかるような気がしました。

人生を「短く」想定しようと、あるいは人生を「かなり長く」想定しようと、いずれもが、<今、ここ>の生をどのように生きるのかという問いと言動に凝縮されているのだから。

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高橋源一郎の「システム」、大江千里の「物語」、Patricia Graceの文学。- 他者に「出会い」、そして「知ること」。

作家の高橋源一郎が他者のことを論じたり、書いたり、あるいは他者と話したりする前の前段階として採用する、「全作品を読む・見る・聞く」システム。

作家の高橋源一郎が他者のことを論じたり、書いたり、あるいは他者と話したりする前の前段階として採用する、「全作品を読む・見る・聞く」システム(こちらのブログで触れました。「高橋源一郎の「システム」(リスペクトの作法)に学ぶ。- ついでに、「二重人格」を見て取る、その視覚も。」)。

この<リスペクトの作法>の効果・効用として、高橋源一郎はそこに「リスペクト以上のもの」を確認しています。


…この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。…書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。

高橋源一郎「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」、Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)


この体験の一例として、高橋源一郎は、橋下徹を挙げて、語っています。

批判してやろうと思っていた橋下徹の全著作を読むうちに、橋下氏が好きになってしまったわけです。


この実例のように「批判対象→好きになる」という心情移行ではなく、「(あまり関心はもたないけれど)リスペクト→リスペクト以上に興味をもち、耳を傾ける」という具合に、ぼくの心情移行を感じている他者として、シンガーソングライターの大江千里氏がいます。

大江千里(おおえせんり)は、1980年代にデビューしたシンガーソングライター。

他のアーティストたちにも楽曲が提供され、彼の曲が耳にはいる機会も多々あったと思うのですが、とくに好きということもなく、「(あまり関心はもたないけれど)リスペクト」という状態で今に至っていました。

その状態に変化をもたらした契機は、彼の著作を読んだことにあります。

とはいっても、高橋源一郎のように「全作品を読む・見る・聞く」システムを発動させたわけではなく、しかし、「著作を購入し読む」ということをしたわけです。


ぼくが関心をもったのは、大江千里の「ジャズピアニスト」への転向の物語でした。

2007年、47歳の大江千里は、腕試し的に出願していた音楽大学(ニューヨークにあるザ・ニュースクール・フォー・ジャズ・アンド・コンテポラリーミュージックのジャズピアノ科)の合格通知を得たことで、10代なかばに断念していたジャズへの思いと志にふたたび情熱の火を点火し、急遽日本での仕事をキャンセルし、愛犬のぴと共にニューヨークに旅立ってゆくことで、新たな人生を歩みはじめる。

この経緯が、『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』(角川書店、2015年)としてまとめられていて、この本を読み進め、大江千里の「ジャズ作品」を聴いてゆくなかで、ぼくの心情変化がすすんでいったことになります。

「全作品を読む・見る・聞く」システムの、ミニバージョンを発動させたわけです(大江千里の別の著作『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』も読もうかなと思うところです)。


ところで、ニュージーランド作家Patricia Graceの最初の著作『Waiariki』(1975)という短編集に収められている最初の短編は、「A Way of Talking」と題されています。

マオリの女性作家によって英語で書かれた物語が出版されたのは、この著作が初めてであったという、記念碑的著作の最初の一編です。

とても短い短編ですが、心を揺さぶられる作品です。

そこで語られるテーマのひとつに、マオリ人とヨーロッパ系の人たちとのあいだの、人種的な距離ということがあります。

異なる人種の人たちを「…人は」という語り口で語るなか、つまり「話し方(a way of talking)」のなかに、その距離が表出してくることを描いています。

この短編のなかには、この距離を縮めてゆくための「入り口」が語られているようにぼくは読むのですが、それはそのような語りに「固有名」を入れてゆくこと、そして、固有名によって個人と個人として関係をつくること、そのようにぼくは「入り口」が提示されているのだと思います。


それは、ぼくが東ティモールに住んでいたときに感じたものと交差することになります。

「ポルトガル人は…」と語られるなかで(東ティモールはポルトガルの植民地でした)、ぼくがなんとなく抱いていた「偏見」があったのですが、実際にポルトガル人の方に「固有名」で出会ったことを契機にして、カテゴリー的な偏見の枠が消えてゆくのを感じたのでした。

思えば、このことは世界のいろいろなところにいって、個人と個人で「出会う」ときに、ぼくが感じていたことでもあったのですが、東ティモールで、ぼくはより明確にわかったのでした。

そのような視点が、Patricia Graceの語りのなかに、「話し方(a way of talking)」の移行という入り口を読み取ったのでした。


固有名で人と出会うことは、高橋源一郎の「全作品を読む・見る・聞く」システムと共通する作法であるように、ぼくは考えています。

それは、ある他者を知ってゆく、という作法です。

好きになるか、嫌いになるか、あるいはその中間になるかどうかはわかりませんが、ある他者を知ってゆく。

そのことが、とても大切だと、ぼくは思うのです。

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高橋源一郎の「システム」(リスペクトの作法)に学ぶ。- ついでに、「二重人格」を見て取る、その視覚も。

「多重人格」のことを別のブログ(「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。)で書いたあとに、いくつかの文章を読んでいたら、作家の高橋源一郎が書いた文章に目がとまりました。

「多重人格」のことを別のブログ(「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。)で書いたあとに、いくつかの文章を読んでいたら、作家の高橋源一郎が書いた文章に目がとまりました。

Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)に掲載された文章で、「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」という、ひときわ目を引くタイトルが冠されていたのです。

文藝評論家の「小川榮太郎」と聞いて、ぼくは誰かもわからずに読み始めたのですが、読み始めてからようやく、小川榮太郎が「新潮45」問題にまつわる人だということがわかりました。

ここ香港に住んでいると、日本のニュースに「自動的に」さらされることはなく(香港のニュースでいろいろと取り上げられるものもあるのですが)、むしろこちらから探しにいかないと(あるいは情報が入ってくるように設定していないと)、情報は入ってきません。

そんな状況で、「新潮45」問題のことはその概要を知りながら、個人名まではぼくの記憶のなかにはなく、高橋源一郎の文章を読みながら、ぼくは状況の一部と個人名を確認したわけです。


高橋源一郎のこの文章を読みながら、ぼくがちょうど書いていた「多重人格」につなげて興味深かった点は、つぎのような箇所に見受けられます。

「新潮45」問題についての原稿を書く準備として、小川榮太郎の全著作を読んだ高橋源一郎は、つぎのような印象を明確にもつに至ったというのです。


…おれは、小川さんの全著作を読み、ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し「他者性への畏れや慮りを忘れ」ない「小川榮太郎・A」だ。そして、もうひとりは、「新潮45」のような文章を平気で書いてしまう、「無神経」で「傍若無人な」「小川榮太郎・B」だ。…

高橋源一郎「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」、Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)


つまり、高橋源一郎も明確に書いているように、全著作を読んだあとに、そこに、小川榮太郎の「二重人格」を見て取ることになるわけです。

このことについては、つぎのようにも書いています。


「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。…

高橋源一郎「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」、Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)

ぼくは、小川榮太郎の書いたものをひとつも読んだことがないので、この見方に対してどうこう言うことはできませんが、「人格」という観点から、とても興味深い見方だと思うのです。


このことはちょうど「多重人格」のことを書いたあとであったために関心が向けられたのでもあったのですが、そもそも、ブログで書こうと思ったのは、高橋源一郎の「システム」についてでした。

つまり、この「全著作を読む」というシステムについてです。

高橋源一郎は、この「システム」について、つぎのように説明を加えています。


…おれがふだん励行している「論じる、もしくは、話をする前に、その相手の全著作を読んでおく」システムについて触れておきたい。よく、「なんでそんな馬鹿なことするんだよ」といわれる。同感だ。だが、それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである。…

高橋源一郎「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」、Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)


こうして、高橋源一郎は、パーソナリティをつとめるNHKラジオ「すっぴん!」で毎週ゲストを迎える前に、「全著作(作家以外の方は全作品)」を基本自費で手に入れてチェックすること(でも著作が400冊越えや出演映画が100本以上など膨大な場合にはすべてはチェックできず、ゲストに謝ること)を書いている。

このシステムとその徹底具合、さらに「相手へのリスペクト表現」としての実践であることに、ぼくは素直に感心してしまうのです(できることなら、ぼくもこのシステムを、じぶんにインストールしたいとさえ思うのです)。

でも、さらにぼくを捉えたのは、つぎの「効用」でした。


…この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。以前、元大阪府知事・市長の橋下徹の言動にむかついて、批判してやろうと思い、やはり彼の全著作を取り寄せた。そのかなりの部分が絶版になっていたが、努力して集め、そして読んだ。そしたら、すっかり橋下氏が好きになってしまったのだ……。書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。

高橋源一郎「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」、Webサイト「Webでも考える人」(新潮社)


高橋源一郎は、この「効用」に、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」があるとさえ見ています。

この「全著作を読む」ことによる効用が、小川榮太郎を読み解く仕方に作用したことは、このブログの前半に見てきたところです。

なお、「ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒント」については、この文章の趣旨とずれてくることから、これ以上は説かれていませんが、このことは、ぼくたち一人一人が身に引き受けて、考えてみることであるように、ぼくは思います。


でも、ぼくたちは世界のすべての人たちを「全著作を読む」ように知ることはできないではないか、という意見も出てくることが予測されます。

それはその通りで、ぼくたちは誰もが、じぶんの生活空間において、「親密圏」とともに、「公共圏」という大きな圏域をもつことになります。

けれども、数の限りがあるなかでも「相手をリスペクトする」システムがじぶんに備わっており(100%でなくともそのようなシステムが形成されており)、実際に「嫌いだと感じていた人たちのことを好きになってしまう」体験・経験の積み重ねのなかで、それは、公共圏における他者たちに向き合う仕方を変遷させてゆくように、ぼくは考えるわけです。

好きにはならないかもしれないけれど、「リスペクト」することはできる、そう思うのです。

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「多重人格」において前提されている「自己」。- 「内田樹の研究室」読破の旅路で出くわした文章。

「自分とは何か」をめぐる、ささやかな、でもぼくにとっては切実な冒険について、その少しのことを別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書きました。

「自分とは何か」をめぐる、ささやかな、でもぼくにとっては切実な冒険について、その少しのことを別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書きました。

そんな折に、思想家・武道家の内田樹が「多重人格」について書いている文章に、時期を同じくして出くわしましたので、ここではその文章を取り上げておきたいと思うのです。


ちなみに、内田樹のWebサイト『内田樹の研究室』は、1999年7月からのブログをアーカイブとしても残していて、ぼくは今、この1999年7月のブログから現在2018年に向けて旅立ったところです(ようやく、2000年1月にまで到達しました)。

1996年に、ぼくはニュージーランドにいて、徒歩縦断を企図して700キロほどを歩いたこと(でも縦断は4分の1ほどで断念したこと)がありますので、この旅路も、一歩一歩、今度は無理をせず、歩いてゆこうと思いながら、ブログを読んでいます。

ブログの「数」に限って言えば、年を経るごとに減ってきてはいるのですが、ある時期までは毎日だとか2日に1回といった頻度でブログがアップされているので、まだまだ旅路ははるか先までつづきます(1999年と言えば、ぼくがまだ大学に通っていたころだから、この旅路の長さが実感として感じられるのである)。

「内容」は多岐にわたるけれど、このブログが編纂されて本が何冊も出ているように、日々の出来事を綴ったブログを流し読みするというようわけにもいかず、2000年1月に書かれた「多重人格」についての文章のように、いくどもいくども、立ち止まってしまうのです。


というわけで、「多重人格」についてですが、この言葉を起点に小論文を書け、と言われたら、どのように書きますか?

内田樹は、アメリカで患者数数十万という「流行病」としての「多重人格」ということから書き出し、その定説にふれたうえで、「多重化した人格を統合する」という療法に対する疑義を最初から差しはさんで生きます。


…これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。
最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。
私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。…

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


このように、いきなり「自己とは何か」という根本的な問題にきりこみ、その「前提」を疑うことで、多重人格の問題に光をあててゆくのだけれど、ぼくはまったくもって、この「持説」に賛同するわけです。

内田樹は、パーソナリティの発達過程の話題へと話をすすめながら、つぎのように書いていくことになります。


…コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。
相手と自分の社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発…それは人間が二人向き合うごとに違う。その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。
場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。…

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


さらに、別のブログでぼくがとりあげた「ほんとうの自分」や「自己実現」ということにも、ふれてゆくことになります。


「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を踏まえている。…

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


「自分を統括する中枢的な自我がなければならない」という予断については、微細に見ておくべきところです。

「本当の自分を探す」とか「自己実現」などの議論をひとくくりにして語ってしまう前に一歩立ち止まることが必要だとぼくは思いますが、メディアなどで表層的に語られてきたような「ほんとうの自分」や「自己実現」や「自分探し」が、どこかに「自分」というものが<確かなもの>として存在していることを前提にしているということはできるように思います。

この立場とは逆に、「自分」というもの(こと)が不確かなもので、「自分」は「場面」ごとに現象してくるという見方があり、内田樹も(ぼくも)そのように「自分」ということ(現象)を見るわけです。

このことは、ぼくは別のブログ(「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。)で書いたわけです。

なお、それでは、この「自分」ということを根拠づけるのは何かという、次元を異にする問いがあるのですが、このことについてはここではこれ以上ふれないことにします(ぼくがいろいろ学んできて、じぶんが納得したのは、見田宗介=真木悠介による「近代的自我」の論点があることだけを、ここでは書いておきます)。


多重人格のこと、自己とは何かということ、そこに前提されていること、「大人」になることなどを展開しながら、内田樹は最後に、つぎのように書いています。


…私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議におもってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」なの。…
「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」なのだよ。…
私は「内田樹という名前で発信してぜんぜん平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。

内田樹、2000年1月14日ブログ、サイト『内田樹の研究室』


内田樹による話しの「最後」が、まさかこう来るとは予期しておらず、深く感心しながら、ぼくも思うのです。

明瞭に意識してはいなかったけれど、このホームページの「ぼく」も、「多重人格のひとつ」なんだということを。

でも、それも考えてみれば当然のことだと思います。

ぼくは、「多重人格」や「自己とは何か」という話を、日常の社会生活のなかでしているわけではないですから(日常のなかでその考え方を生かしてはいますけど)。

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「ほんとうの自分」ということのメモ。- 「ほんとうの…」に向けるまなざし以上に、「自分」に向けるまなざし。

「ほんとうの自分」ということが問われたりします(今日は文体を少し変えて書こうと思います)。

「ほんとうの自分」ということが問われたりします(今日は文体を少し変えて書こうと思います)。

今生きている自分はほんとうの自分ではなくて、ほんとうの自分は異なるんだ、という問題意識です。

日々生きているなかで、そのような意識が、どうしても切実に現れてくる。

この「ほんとうの自分」を見つけ出す旅は、「自分探し」と呼ばれたり(今ではあまり言われなくなりましたね)、「自己実現」という言葉を持ち出してきたりして、いろいろに模索され、語られてきました。

それにしても、そのような「旅」に出た人たちが、「ほんとうの自分」を見つけたと明快に書いているレポートを、ぼくは(あまり)見ていません(「あまり」と書くのは、人によって明快さは異なっていて「見つけた」ということも人によって異なるからです)。


ちなみに、ぼくにとっては、「ほんとうの」ということ以上に、「自分」ということの方が、もともと切実なこととして現れてきたのでした。

「自分探し」とか「自己実現」などの言説がメディアでしばしば語られることになるよりも前の時代に多感な時期を過ごしたからかもしれませんが、「自分探し」においても、また「自己実現」ということにおいても、「探し」や「実現」ということ以上に、「自分」や「自己」そのものに対して、ぼくはやむにやまれない疑問、また居心地の悪さをもってしまったのです。

そのような疑問や居心地の悪さは、たとえば、「二重人格じゃないの」という友人からのフィードバック、あるいは太宰治『人間失格』の登場人物のなかに投影する仕方で感じたりするものでした。

でも、それは、「二重」の人格、つまり、「嘘の自分」がいて、「ほんとうの自分」がいるというように、単純には考えられないようなものであり、むしろ「多重人格」的な様相にも見えるものだったのです。

そのようなものとして、「自分」とか「自己」とかは、なにか「確固なもの」(実体があるもの)というのではなくて、自在に変わるようなものとして、ぼくには感じられていたのです。

のちに本を読むようになって、実にたくさんの人たちが、宮沢賢治も、見田宗介も、養老孟司も、内田樹も、南直哉も、平野啓一郎も、同じように感覚していることを知って、いくぶんかの安心ととめどない興味をわきあがらせてゆくことになるのですが、この「自分」や「自己」や「自我」という問題が、ほんとうに切実なものとして、ぼくの生きるという経験に立ち現れてきたことが、ぼくが生きてきた中での「軸」としてありつづけてきたことを感じます。


ざっくりと言ってしまうと、世の中には、「『自分・自己』という「もの」が確固として/実体としてあると信じている人」と「『自分・自己』という経験は現象にすぎないと見ている人」とがいるわけです(あくまでも「ざっくり」ということであって、実際はそのような感覚を対極としてその中間もあるわけですが)。

普段の生活のなかでは、これら二つの立場がコンフリクトすることは、見た目はないかもしれませんが(あくまでも「見た目」です)、やはり、なにかの話や事を深くすすめてゆくようなときに、「根本的な違い」として現れてくることがあるようにも思うわけです。

いつものことながら、どちらがよいわるいということを言いたいのではなく、そのような「違い」があるのだということを知ることが、他者やじぶんを理解するためにも大切だと考えるところです。

そして、海外に暮らしながら、異なる文化に身を入れ、異なる言語でコミュニケーションをとることは、いっそう、ぼくを「自分・自己」という問題領域におしだしてゆくのです。

が、このことは、別の機会にでも書こうと思います。


ここでは最後に、見田宗介が読み解く「宮沢賢治」から、問題の核心をいっきに突く文章を取り上げます。


 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です

 宮澤賢治が生前に刊行したただひとつの詩集である『春と修羅』の序は、<わたくしといふ現象は>ということばではじまっている。自我というもの、あるいは正確にいうならば自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学のテーゼを、賢治は一九二〇年代に明確に意識し、そして感覚していた。

見田宗介『宮沢賢治』岩波書店、1984年


学生のころ、はじめて『春と修羅』を読んだときにはまったくひっかかってこなかった一節が、今では切実なものとして、生きられることばとして、ぼくのなかで立ち上がってきます。

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

これからの時代の、「初心忘るべからず」(世阿弥)。- たとえば、バッサリと裁ち切ること。

日本の伝統芸能である「能」が、650年にわたって「続いてきた理由」とはなにか、「それを可能にしているものはなにか」と問いながら、能楽師の安田登は、「初心」と「伝統」であると、ずばり答えている。

日本の伝統芸能である「能」が、650年にわたって「続いてきた理由」とはなにか、「それを可能にしているものはなにか」と問いながら、能楽師の安田登は、「初心」と「伝統」であると、ずばり答えている。

そのうちの「初心」について、能を大成した世阿弥が記した「初心忘るべからず」にふれながら、安田登は「初心」という言葉を使ったのは観阿弥・世阿弥が初めてではなく、しかし、世阿弥はこの「初心忘るべからず」を繰り返すこと、「初心」の精神を能の中に「仕掛け」たことを書いている(安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書))。

精神論にとどまらず、<初心の仕掛け>を能に施すこと、そこに能の650年にわたる存続を見ている。


「初心忘るべからず」という言葉が、観阿弥・世阿弥にとって、現在一般に使われるような「初々しい気持ち」という意味で使われていなかったことは、世阿弥の書き記したものからはもちろんのこと、いろいろな人たちが教えてくれている。

このトピックだけでも、語って尽きないものである。

だから、安田登は「初心」という言葉の意味に焦点をあてながら書いているが、それはとてもクリアなイメージと意味を与えてくれる。


 初心の「初」という漢字は、「衣」偏と「刀」からできており、もとの意味は「衣(布地)を刀(鋏)で断つ」。すなわち「初」とは、まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れることを示し、「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なのです。

安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)


「まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れること」のイメージは鮮烈である。

このイメージをつかんでおくことで、「初心忘るべからず」の意味も、そしてその言葉の正しい解釈ということ以上に、ぼくたちが生きていくなかで、ぼくたち自身の言葉とすることができる(「格言」は他者に向けられると説教じみて苦しさを感じることがあるけれど、それがじぶんによってじぶんとじぶんの生に向けられるときに、生きてくる)。


「初」の鮮烈なイメージと意味をおさえたうえで、安田登は、つぎのように書いている。


 …固定化された自己イメージをそのまま放っておくと、「自己」と「自己イメージ」との間にはギャップが生じます。現状の「自己」と、過去のままにあり続けようとする「自己イメージによる自分」との差は広がり、ついにはそのギャップの中で毎日がつまらなく、息苦しいものになる。そうなると好奇心もうすれ、成長も止まってしまいます。人生も、その人間もつまらないものになっていくのです。
 そんなときに必要なのが「初心」です。古い自己イメージをバッサリ裁ち切り、次なるステージに上り、そして新しい身の丈に合った自分に立ち返るー世阿弥はこれを「時々の初心」とも呼びました。
 また、「老後の初心」ということも言っています。どんな年齢になっても自分自身を裁ち切り、新たなステージに上る勇気が必要だと。

安田登『能ー650年続いた仕掛けとはー』(新潮新書)


「つまらなさ」は、ぼくは、人にとってもっとも大きな「敵」のひとつだと考える(人は、「つまらなさ」よりも、「不幸」を選ぶというようなことが、ほんとうにあるのだと思う)。

そんな「つまらなさ」を「バッサリ裁ち切る」イメージが鮮烈に書かれている。

そのイメージと意味がもたらすのは、不安や迷いであろう。

安田登は、「老後の初心」の厳しさ、つまり、これまでの過去の達成などが忘れられず、じぶんの生の限りも見えてくるなかで、自己を「裁ち切る」ことなどしたら、「本当にもう一度変容し得るのだろうか」と迷うだろうことに言及している。

そして、それでも裁ち切る、のだということ。


ぼくは読みながら、「人生100年時代」において、これはとても大切なことではないかと、安田登の言葉に共振する。

「老後の初心」の「老後」は、今の時代の時間軸の文脈で、読み方の仕方を若干変更する必要がある(現代社会における「老後=定年後」的なイメージから自由になる必要がある)。

「人生100年時代」という時間軸において、「初心忘るべからず」という、<初心の仕掛け>をどのようにじぶんの人生に組み込んでゆくのかが、今問われていることである。

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「上機嫌でいること」の効用。- 「危機的局面であるほど上機嫌であれ」(内田樹)。

「上機嫌でいること」を、経済学者アマルティア・センの方法論のひとつである「固有的 intrinsic - 道具的 instrumental」の両側面からのアプローチ、つまり「それ自体(の意味)」と「効用・手段」という視点で見れば、「それ自体」が歓びであることであり、また「効用・手段」としても役に立つものである。

「上機嫌でいること」を、経済学者アマルティア・センの方法論のひとつである「固有的 intrinsic - 道具的 instrumental」の両側面からのアプローチ、つまり「それ自体(の意味)」と「効用・手段」という視点で見れば、「それ自体」が歓びであることであり、また「効用・手段」としても役に立つものである。

ぼくたちは、何かの物事を考えるときに、「(手段として)何かの役に立つ」という考えかたに、ずいぶんひたってしまっている(よくもわるくも)。

「それって、何かの意味があるのですか?」という質問(詰問?)は、「それをすることで、何か得するんですか?」という、「道具的(手段的) instrumental」な質問である。

じぶんにとって「得」にならないんであればしない(したくない)、という前提がひそんでいる。

でも、それほどにそのような考えかたに「ひたっている」からこそ、逆に、人を説得するときには「これはこういう効果があるんですよ」という話しかたが、それこそ、効果を発揮する、という世界にぼくたちはいる。


「上機嫌でいること」は、「それ自体」で歓びであることだから、「幸せ」になりたいと思う人たちにとってそれだけで十分であり、これ以上の説明は必要ではないという見方もあるけれど、現実には、「上機嫌でいること」の効果や利得などの道具的・手段的側面を強調しなければならなかったりする。

別の視点から見れば、「上機嫌でいること」が、なかなかむずかしい世界にぼくたちは生きているということでもある。

だからといって、「上機嫌」でいることができないことについて、外部にひろがる「世界」だけを非難しても生産的ではないし、じぶんもいっそう苦しくなる(この言い方も「道具的・手段的」な言い方だ。「非難すること」の効用・効果でもって、そのことの是非を考えている)。

また、そもそも、非難したり、じぶんが苦しくなるのは、「じぶんの内面」にその根拠をもっているということもある(外部を非難することは、じぶんが抑圧している感情などを外部に「敵」として投影し、その敵目掛けて非難するという倒錯した状況であったりする)。

そのような事情もあるなかで、「上機嫌でいること」がさらっとできてしまう人はともかく、そこにむずかしさを感じてしまう人にとっては、その効用・効果を確認することは、「上機嫌でいること」へとひらかれていくためには、大切なことだったりする。

また順序を逆にして、たとえば、じぶんの「知的身体的なパフォーマンスを最大化するためにはどうしたらよいか」という問いから導き出される仕方で、「上機嫌でいること」が取り出されることもある。

思想家・武道家の内田樹は、そのような問いを設定して、つぎのように書いている。

 それは「上機嫌でいる」ということです。にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態、それが一番頭の回転がよくなるときなんです。…悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。いつもと同じくらいまでは頭が働くかも知れないけれど、感情的になっている限り、とくにネガティブな感情にとらえられている限り、自分の限界を超えて頭が回転するということは起こりません。

内田樹『最終講義 生き延びるための七講』文春文庫


ここでは「危機的局面」が想定されている。

危機的局面にぶつかったとき、人は、頭の回転を最高度までに上げていかなければ、その状況に対処できなかったりする。

内田樹の説明のなかで繰り返しておきたいところは、悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったりという精神状態では、いつもと同じくらいまでは頭が働くかも知れない「けれど」、「自分の限界を超えて」頭が回転するということは起こらないということである(原書では「傍点」がふられている)。

危機的局面では、いつもと同じでは「局面」が乗り越えられないかもしれない。


(今はいたって平和な)東ティモールで、ぼくはかつて、銃撃戦にまきこまれたことがある。

翌日には国外退去することになる「危機的局面」において、ぼくは、不思議と、ネガティブな感情は(わきおこっても)持続することなく、いわば「ゾーン」に入ったような感覚で、頭が回転していた。

「上機嫌」という状態ではなかったけれど、ぼくの知的身体は「パフォーマンス」を上げるための叡智を総動員していたのだろう。


内田樹は、つづけて、つぎのように書いている。


 真に危機的な状況に投じられ、自分の知的ポテンシャルを総動員しなければ生き延びられないというところまで追い詰められたら、人間はにっこり笑うはずなんです。それが一番頭の回転がよくなる状態だから。上機嫌になる、オープンマインドになるというのは精神論的な教訓じゃないんです。追い詰められた生物が採用する、生き延びるための必死の戦略なんです。

内田樹『最終講義 生き延びるための七講』文春文庫


このことは、「一人の人間」としても、あるいはチームや組織などの「集団」としても機能するものである。


「危機的局面であるほど上機嫌であれ」。


ぼくたちが生きてゆくための、方法のひとつである。

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