書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

他者からのコメントなどが自分の感情を揺さぶるときに。- 「感情を掘り起こすこと」を楽しむ。

他者が、自分の態度や行動についてコメントしたりフィードバックを投げかけてくれることがある。プライベートでも、仕事でも。...Read On.


他者が、自分の態度や行動について
コメントしたりフィードバックを投げ
かけてくれることがある。
プライベートでも、仕事でも。

もらったコメントやフィードバックを
注意深く聴きながら、それらは、
大きく二つに分けられる。

●なんらかの「感情」が湧くこと
●どんな「感情」も湧かないこと

聴きながら、イライラやフラストレー
ション、怒りなどの「感情」が湧いて
くることが、しばしばある。

聴く途中で、自分の感情に飲まれて、
言ってくれている他者に対し、
感情的な言葉を投げ返してしまうこと
があったりする。
コメントやフィードバックの内容に
対して、自分はそう思わない、自分は
ああだ・こうだ、と感情的な言葉を
並べる。

自分の感情が揺さぶられるような
コメントやフィードバックには、
なんらかの「真実」が含まれている
ものである。

でも、この「真実」に切り込んでいく
ことは、「感情の海」に放りこまれ、
心が痛んだり、居心地の悪さを極度に
感じることもあるから、どうしても
避けたくなる。
感情とその感情に眠る経験を掘り起こ
したくはなかったりする。

このような「感情を掘り起こす」機会
が訪れることを、楽しみに待ち、楽し
く掘り起こしていくことを、ぼくは、
次の著作シリーズから学んだ。

Robert Scheinfeldの著作シリーズで
ある。

●『Busting Loose from the Money Game』
 (邦訳『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』)
●『Busting Loose from the Business Game』
 (邦訳『「ビジネスゲーム」から自由になる法』)

方法の詳細は、これらの本たちの全体
が関わってくるため、ぜひ、読んで試し
てほしい。
(*ぼくは英語で読みました。邦訳は
読んでいません。なかなか手強い本で
す。)

Robert Scheinfeldは、
この「掘り起こす」作業を、
「雲をドリルで掘り起こす」という
比喩に例えている。

感情が揺さぶられる「地点」をドリル
で掘り起こしていくことで、
厚く覆っていた「雲」がとりのぞかれ
そこから「太陽の光」が差しこんでくる。

どんなに雲が厚く覆っていても、
「太陽」はいつもそこに在る。

その掘り起こすべき「地点」に、
ぼくたちは過去から通じる「物語」を
勝手に構築してきてしまったのだ。
ぼくたちから「力を奪ってしまう物語」を。

ドリルで掘り起こす「地点」がわかる
ということは楽しいことだし、
それで太陽の光がさしこんでくるので
あれば、それは楽しい作業となる。

そこに人生を変えていく「秘密」が
埋まっているというようにも考えること
もできる。

ぼくはそのようにして、
感情を掘り起こす作業をしてきたけれど、
「感情の地層」が何層にも重なっている
のを、よく見つける。
まだまだ、感情の地層にねりこまれた
「物語」をドリルで掘り起こし、
解体する作業がつづいていく。

その深さに気づき、驚きと共に、作業
継続のコミットメントを自分自身に誓う。

 

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「本との出会い」が深くなる、二つの仕方。- 「問題解決」と「ことば化」

「本との出会い力」ということを書いた。自分の準備ができたときに、その段階・レベルに応じた本が、自分の前に現れる。...Read On.


「本との出会い力」ということを
書いた。

自分の準備ができたときに、その
段階・レベルに応じた本が、自分
の前に現れる。
まるで、自分の準備が整うのを
待ち構えていたように。

それは、自分の眼の前に現れる
「問題」と似ている。
自分が解決できないような「問題」
は、自分の前には現れない。

ぼくがコンサルタントとして
コンサルティングをするときも同じだ。
自分が何らかの解決案を出せないよ
うなコンサルティング案件は来ない。

「自分を生きている」限りにおいて
必要なときに、本と出会うことが
できる。

本との出会いを深くする契機は、
二つある。
このことは、社会学者の見田宗介が、
少し異なる文脈で書いていて、
ぼくの中で一部ぼくなりに解釈されて
残っている。

本との出会いが深くなるとは、
本に魅せられることである。
それは、本が次のような契機を提供
してくれたときである。

●自分の問題を「解決する道・方法」を示してくれる
●ことばにならないことを「ことば化」してくれる

人は、本を読みながら、これら二つの
契機のいずれか、あるいは両方を得る
ときに、本に魅せられる。

ぼくにとっては、自分の中で感じて
いるけれど、ことばにならないような
事柄を「ことば化」してくれる本に、
何度も何度も出会ってきた。

そして、その出会いの深さは、
本が、ぼくの「パースペクティブ」
(物事の見方)を変えるほどに、
深くなる。

社会学者・見田宗介(真木悠介)の
一連の著作、例えば、
『気流の鳴る音』
『現代社会の存立構造』
『時間の比較社会学』
『宮沢賢治』
『自我の起原』
『現代社会の理論』
『社会学入門』
は、これらの仕方すべてにおいて
ぼくを捉えてやまない。

これらの本は、20年以上にわたり、
日本と日本の外で何度も何度も、
いろいろな状況の中で読んできた。
読むたびに、今でも学びと気づきに
充ちている。

生きているなかで、そのような本に
出会えることはひとつの奇跡である。

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「自己啓発」(の本)を嫌いになる前に立ち止まって考える、3つのこと。- 「本との出会い力」をつける。

「自己啓発」という本のジャンルがある。英語に直すのが実は難しいジャンルである。...Read On.

「自己啓発」という本のジャンルがある。
英語に直すのが実は難しいジャンルである。

英語は、例えば、
・Self-help
・Personal Development
・Personal Empowerment
など、と言われたりする。

ぼくは、以前、日本語の「自己啓発」と
いう言葉が好きではなかった。
今も、言葉自体は好きではない。

特に「啓発」という響きの中に、
日本の歴史上でしみついてしまった
イメージ(例えば、啓発=うさんくさい
など)が、ぼくの言語空間に「壁」を
つくってしまっている。

しかし、その「系列」の本は好きで、
日常の中で読んでは、興味のある行動・
方法は試している。

そこから学ぶべきことは数えきれずに
あるし、これからもずっと、学んでいく
と思う。

言葉は好きではないけれど、
それ自体は、とても大切なものである。

「自己啓発」(の本)を好きではない
人たちは、統計をとったわけではない
けれど、きっとたくさんいると思う。

そんな人たちに向けて、「自己啓発」を
嫌いになる前に考えること・行動するこ
とを、ぼくの経験から、書いておきたい。

「自己啓発はダメだ」と早急に判断する
前に、少し立ち止まって、考えるために。

 

(1)「自己啓発」という名前

ぼくは、言葉の響き、ぼく自身が勝手に
抱いているイメージから、「自己啓発」
的な本から遠ざかってきた。

ぼくは、そのような、日本語に刷り込ま
れている負のイメージを取り除くために
「結果として」取ることになった方法は
大きく二つある。

●英語の本で、学ぶこと
●内容として一部重なる他のジャンルから学ぶこと

第一に、英語の本で学ぶことで、日本語
にすりこまれた負のイメージを取り払って、
学ぶことができた。

「人生の格言」的なものから、本そのもの
の内容まで、英語で学んだ。

この分野は、アメリカで発展してきた分野
でもあり、英語で書かれている内容は、
ぼくの中にすっと入ってきた。

それから第二に、他のジャンルから攻めて
いった。
意図的に攻めたわけではないけれど、
結果として、自己啓発の領域に侵入して
いたというのが正しい。

社会学者の見田宗介著『気流の鳴る音』は
社会学に限らず、「生き方」の議論に、
垂直に降りていくような「分類不能な本」
である。

この本から、ぼくの関心が360度に広がっ
てきた。
「自己啓発」的なことも含めて。

 

(2)「知っている」ではなくて、「できているか」で判断する

「自己啓発」の本を読んでいると、
「この内容はすでに知っているよ」と
いうことに、何度も何度もでくわす。
「何にも新しいことは書かれていない」
と。

でも、「自己啓発」の本の目的があると
すれば、「知ること」で終わりではない。
「知ること」で、行動に移していくこと
である。

だから、自己啓発の本の有効性・有用性は
「知っている」ではなくて、
自分が「できているか」で判断する。

もちろん、まったくダメな本もある。
有限な人生だから、ダメな本を読むという
無駄な時間は避けたい。
でも、「本との出会い方」を知らないと
ダメな本と出会うことも結構ある。
けれど、そこからも学べることはある。

 

(3)「本との出会い方」を学ぶ

人との出会いと同じように、
ほんとうによい本を見つけることは
「本との出会い」と言える。

自分の「師匠・先生」と同じで、
本が勝手に現れるのではない。

自分の「学びの準備」が整ったときに
ほんとうに自分に必要な本と出会うこと
ができる。

本が、そっと、あるいはドラマ的に、
現れる。

そのような、素敵な「本との出会い」が
できるように、学びと経験をつみかさね
ていくこと。

素敵な出会いで出会った本も、
内容として「同じこと」を言っている。
でも、「同じこと」を言っていても、
自分の前に「現れた本」は、異なる仕方
で、異なる角度で、メッセージを投げか
ける。

「同じこと」を言っていても、
違った仕方で、自分につきささる。

だから、「自己啓発」が好きではなく
ても、立ち止まること。
嫌いになる前に、立ち止まって考える。

そこに、自分の「生き方」を変える
宝石の原石が眠っているかもしれない
から。

 

追伸:
「自己啓発」の英語訳としては、
ぼくの中では、
「Personal Development」
が感覚として近い。

でも、それもしっくりしないとき
もあって、
日本語の感覚からは、
「生きること」そのものである。

だから、「Life」なんだけれど、
それだと、何も言ってないように
聞こえて、身も蓋もないですね。

そうして、まだ、言葉を探してます。

 

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書籍, 村上春樹 Jun Nakajima 書籍, 村上春樹 Jun Nakajima

川上未映子・村上春樹著『みみずくは黄昏に飛びたつ』- 「抽斗」を増やしながら生きてゆくこと。

…同じことが「村上春樹」にも言える。人は、村上春樹が大好きな人、村上春樹が好きな人、それらどちらでもない人に分けられる。...Read On.


著作『The World According to Star
Wars』を、著者のCass R. Sunsteinは
このように書き始めている。
ユーモアをこめながら、でも結構真剣に。

「人間は3種類の人に分けられる。
Star Warsが大好きな人、Star Warsが
好きな人、それからそれらどちらでも
ない人。」

同じことが「村上春樹」にも言える。
人は、村上春樹が大好きな人、村上春樹
が好きな人、それらどちらでもない人に
分けられる。

これによると、ぼくは「村上春樹」が
大好きな人、である。

村上春樹の新作『騎士団長殺し』は
文章としても、物語としても、隙のない
作品である。

村上春樹が、
・一人称での語り
・「私」(「僕」ではなく)という主語
で、展開する物語である。

その主人公の「私」は36歳で、肖像画家。
妻に突如去られ、それから友人のはからい
で、小田原郊外の山の上に位置する、アト
リエ付きの家に一人で住むことになる。
肖像ではなく、ほんとうに描きたい絵を
追い求めているが、思ったようにいかない。
肖像画から手をきろうというときに、
謎めいた人から肖像画の依頼が来る。
そこから「物語」が思わぬところへ「私」
をみちびいていく。

出版から2か月しか経っていない2017年
4月末。
作家の川上未映子が村上春樹に訊く形で
インタビューがまとめられた書籍、
『みみずくは黄昏に飛びたつー
川上未映子訊く/村上春樹語るー』
(新潮社)が出版された。

川上未映子が書いているように、
著作『騎士団長殺し』のインタビューが
結果として村上春樹の作品全体に広がる
内容になっている。

【目次】
第一章:優れたパーカッショニストは、一番大事な音は叩かない
第二章:地下二階で起きていること
第三章:眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい
第四章:たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ

「第一章」は、2015年、村上春樹の
『職業としての小説家』の刊行記念で
行われたインタビューである。
文芸誌『MONKEY』に掲載された。

「第二章~第四章」が『騎士団長殺し』
が完成された後に、3日間にわたって
おこなわれたインタビューの記録である。

「作家によるインタビュー」が、通常の
インタビューとは異なる雰囲気と内容を
つくりだしている。
(*村上春樹は、作家同士の「対談」は
あまり好きではない、と語っている。
今回は「インタビュー」という形式で
ある。)
「言葉になりにくいもの/言葉」への
言葉化がいたるところで試みられている。

ここでは、(それらが主題というわけ
ではないけれど)3つだけにしぼって、
書いておきたいと、思う。

(*よい本なので、詳細については、
ぜひ読んでみてください。
『騎士団長殺し』それ自体の部分について
は、ここでは触れません。
物語そのものを、著作で味わってください。
インタビューでは、この新作について
かなりつっこんで話されています。)

 

(1)「抽斗(ひきだし)」

ぼくたちの「生き方」において、汎用的
に取り出せるところとしては、「作家の
抽斗」がある。
村上春樹は「いつも言うことだけど」と
断った上で、語っている。

 

作家にとって必要なのは抽斗なんです。
必要なときに必要な抽斗がさっと開いて
くれないと、小説は書けません。
みみずくもそのひとつかもしれない。
…手持ちのキャビネットが小さな人、
あるいは、仕事に追われて抽斗の中身を
詰める時間のない人は、だんだん涸れて
いきますよね。だから僕は何も書かない
時期には、一生懸命、抽斗にものを詰め
ていくことにしています。いったん長編
小説を書き出したらもう総力戦だから、
役に立つものはなんだって使います。
抽斗は一つでも多い方がいい。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

「抽斗」は、この世界で生ききるために
も、必要である。
どれだけ、抽斗ができているか、で、
ぼくたちの生はかわってくる。

例えば、ぼくが経験してきたように、
紛争地の圧倒的な「リアリティー」に
対面したとき。
人や組織の圧倒的な「問題・課題」に
直面しているとき。
ぼくたちもそんな場面では「総力戦」で
ある。
そこでは「抽斗」が大切な役割を果たす。

だから、常日頃から、ぼくたちは「学ぶこ
と」をしておく。
抽斗がいつでもさっと開いてくれるように。


(2)「物語をくぐらせる」プロセス

川上未映子の作家としての関心が、小説と
「近代的自我」の問題にある。
その関心に深く支えられた質問たちが、
村上春樹に矢継ぎ早に投げかけられていく。
言葉化の難しい領域であるけれど、
とてもスリリングなやりとりが展開される。

「物語と自己の関係」について川上未映子
が訊くなかで、村上春樹は語る。

 

…自我レベル、地上意識レベルでのボイス
の呼応というのはだいたいにおいて浅いも
のです。でも一旦地下に潜って、また出て
きたものっていうのは、一見同じように
見えても、倍音の深さが違うんです。
一回無意識の層をくぐらせて出てきたマテ
リアルは、前とは違うものになっている。
…だから僕が物語、物語と言っている
のは、要するにマテリアルをくぐらせる
作業なんです。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

この表現に、ぼくは「納得する」ことが
できる。
その納得感をもっと詳細に説明せよ、と
言われたら、できないけれど。

 

(3)言葉の身体性、書き直し

村上春樹の「創作プロセス」は、これまで
もいろいろなところで語られてきた。
このインタビューでも、違う角度をもって
語られる。

この「創作プロセス」は、作家はもとより
「なにかをつくること」に本気でとりくむ
人たちにとっては、自分の経験・体験に
照らして、ヒントとなる「語り」が、
いっぱいに散りばめられている。


僕の書き直しは、自分で言うのもなんだけ
ど、けっこうすごいと思います。
あまり自分のことは自慢したくないけど、
そのことだけは自慢してもいいような気が
する。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

「書き直し」に力をいれるのは、
第一稿での、書くものの「自発性」を
大切にするからである。
そして、書き直しは、「目よりは主に
耳を使う」ことで進んでいく。

ここに、言葉の「身体性」的な、ぼくの
求めているものに照射する「語り」が、
湧き上がっている。


音楽を演奏するみたいな感覚で文章を
書いているところは、たしかにあると
思う。耳で確かめながら文章を書いて
いるというか。

『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)

 

村上春樹は、1960年代の学園闘争の時
に感じていた「表層的な言葉に対する
不信感」を、今でも、感じている。

それへの抵抗の意思が、村上春樹の作品
をつくってきた。
でも、「表層的な言葉」にならないため
の武器は、村上の「文体リズム」にある。
それは、身体で書く文体リズムである。
「音楽から文章の書き方を学んだ」村上
の身体的な文体が、表層的な言葉を超えて
読者に呼応していく。

以上、このインタビューで、訊かれ、
語られているものの、ほんの一部である。

 

その他、村上春樹は過去の自分の著作
(新作『騎士団長殺し』を含め)の
詳細について、結構「覚えていない」
ところが印象的であったりする。

物語がプロット的ではなく自発的に
つくられ、書き直しで文章をつくりこ
んでいく、という村上の創作プロセス
が深く実感できる、「覚えていない
発言」である。

 

ぼくは、そんなインタビューを読み
ながら、『騎士団長殺し』をもう一度、
読みたいという衝動がわいてきた。
でも、もう少し、ぼくの側での
「自発性」を待とうと思う。
ほんとうに、読みたくなる瞬間を。

それまで、物語は、ぼくの意識下の
「見えない地層」で、
静かに熟成を続けているであろう。

そして、その間ぼくも、
せっせ、せっせと、
「抽斗」を増やしておこう、
と思っている。

 

追伸1:
ぼくは、高校時代に初めて村上春樹
の作品に出会いました。
書店で高く積まれた(赤色と緑色の
ハードカバーの)『ノルウェイの森』を
手にとったのです。
でもぼくは、好きになれなかったのです。
『ノルウェイの森』も、村上春樹も。

Cass R. Sunsteinをまねて言えば、
「村上春樹を大好きでも好きでもない人」
に分類されたわけです。

それから、大学院のときに友人にすすめ
られ、また読み始めたのです。
手にとったのは確か、
『世界の終わりとハードボイルド・
ワンダーランド』。

ぼくは、ページを繰る手が止まらなく
なってしまった。
「村上春樹を大好きな人」へと変わって
いったわけです。

このインタビューを心でききながら
ぼくは、ぼく自身の「変化」が
わかったような気がしています。
論理的にも、感覚的にも。


追伸2:
写真は、インタビューの書籍ではなく
『騎士団長殺し』です。
『みみずくは黄昏に飛びたつ』は
電子書籍で楽しみました。


追伸3:

「追伸」が多いですが、
作家・川上未映子の作品は読んだこと
がなくて、早速手に入れました。
川上未映子のインタビューでの
真摯さにひかれ、
ぼくと同年代の彼女の作品を読んで
みたくなったのです。

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あらゆる「技術」に共通するものを追って。- 野口晴哉の整体とカザルスの音楽。

整体の創始者といわれる野口晴哉。野口晴哉の存在を知ったのは、いつだっただろうか。すでに20年以上前になると思う。「自分を変える道ゆき」を探し求めていたときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。...Read On.


整体の創始者といわれる野口晴哉。
野口晴哉の存在を知ったのは、いつだった
だろうか。
すでに20年以上前になると思う。
「自分を変える道ゆき」を探し求めていた
ときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。

野口晴哉は1976年に逝去したから、
もちろん、著書等を通じての出会いである。
当時は、ちくま文庫の『風邪の効用』など
にふれたことを、記憶している。

2007年に、ぼくは香港に来て、
人事労務のコンサルティングをしていく
ことになる。

「コンサルティング」という領域は、
学びと経験を深く積んでいけばいくほど、
質が高まっていくようなところがある。

自分のコンサルティングを磨いていく
なかで、香港で、ふとしたことから、
野口晴哉の書籍に「相談」したくなった
ことがあった。

「相談相手」は、野口晴哉の『治療の書」
である。
野口晴哉が「治療」を捨てた書である。
人間を丈夫にするためには「治療」では
駄目だと、野口が「転回」して独自の道を
つくっていくことの、画期的な書である。
ぼくは、この書籍を日本から取り寄せた。

ぼくも、コンサルタントとして、
問題が起きてからの「対処」よりも、
問題の「予防」により力を投じはじめて
いたときであったから、
この書は、ぼくの心に響いた。

『治療の書』と共に、日本から取り寄せた
野口晴哉の書の中に、『大絋小絋』がある。
この書が、ぼくの心をつかんだ。

この書は野口晴哉の草稿から取り出された
エッセイ集である。

このエッセイ集の最後に、
「カザルスの音楽に“この道”をみがいて」
というエッセイが添えられている。

野口晴哉はクラシック音楽を愛していて、
特に「カザルスのバッハ組曲のレコード」
は、空襲による火事のときも持ち出すほど
であったという。

野口は、整体指導にもクラシックのレコー
ドを使用していた。
理由の一つは、
「自分の技術に時として迷いがでるから」
と、野口は書いている。
カザルスは、野口にとって「本物」であっ
た。
自分自身の技術を、この「本物」に負けな
いように磨いていくことを心がけていたと
いう。

野口晴哉はこのように書いている。
 

人間の体癖を修正したり、個人に適った体
の使い方を指導している私と音楽とは関係
なさそうだが、技術というものには、どん
な技術にも共通しているものがある。
カザルスは完成している。私は未完成であ
る。懸命に技術を磨いたが、五年たっても
十年たってもカザルスが私にのしかかる。

野口晴哉『大絋小絋』(全生社)

 

当時、さっそく、ぼくはカザルスのバッハ
の組曲を手にいれて、聴いた。

海外に出るようになって、ぼくはクラシッ
ク音楽を聴くようになっていたが、
カザルスのバッハの組曲の「完成度」は
ぼくにも大きくのしかかってきた。

それからというもの、ぼくは、
このカザルスの音色に、何度も何度も
戻っては、自分の「技術」の未完成に
直面していた。

野口晴哉は、それから、カザルスを聴く
ことの中に、自分の「変化」を聴きとる。

 

…夢の中でも、カザルスは大きく、私は
小さかった。それが始めてカザルスの
音楽を聴いて以来、二十四年半で、カザ
ルスが私にのしかからなくなった。

野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
 

この文章を書きながら、久しぶりに、
ぼくは、カザルスのバッハの組曲を
聴いている。
ぼくの中で「変化」はあるだろうかと。

カザルスは依然として、ぼくに、大きく
のしかかってくる。
カザルスの「完成度」が、ぼくの「未完
成度」を照らしている。

そして、それと同時に、ぼくの前に、
野口晴哉という「巨人」が立っている。
野口晴哉の文章が、ぼくにのしかかって
きている。

野口晴哉は、カザルスが自分にのしかから
なくなってからの感想として、
「うれしいが張り合いがなくなった」と、
綴っている。

ぼくは、野口晴哉とカザルス、そして
野口晴哉の存在を教えてくれた見田宗介
という「巨人たち」を前に、
「張り合い」を、自身にめぐらしている。

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「男女は(すべて)同じでなければならない」という「勘違い」- 「違い」からの出発。

日本に暮らし、アフリカに暮らし、アジアに暮らす。そんな中で、男女間の関係をあり方を、ぼくはいろいろと考えてきた。...Read On.

日本に暮らし、アフリカに暮らし、
アジアに暮らす。
そんな中で、男女間の関係をあり方を
ぼくはいろいろと考えてきた。
(ここでの男女は、男性性と女性性
という広い見方である。)

頭ではわかっていたけれど、男女間の
関係性は、表面的に観ると様々であった。

しかし、現代の人間は「重層的」な存在
(生命性・人間性・文明性・近代性・
現代性を帯びる存在)である。
生命性・人間性が、誰にでも生き続けて
いる。

ぼくが思春期を迎えた1980年代の日本
では、「男女雇用機会均等法」が制定
されたときであった。

法律の制定は、社会の状況を反映する
ものである。
その社会状況の中で、ぼくはなぜか
「男女は(すべて)同じでなければ
ならない」的な考え方を、自分の思考
にはりめぐらしてしまっていた。
よく考えずに、言葉の表層と社会的な
雰囲気だけに、自分をあずけてしまっ
ていたのだ。
もちろん「同じ」がよいこともあれば
「違う」こともある。

この「勘違い」が、人との関係において
無数の問題をつくりだしてしまった。

そして、ぼくだけではない、世界の多く
の人たちが、「自分中心」(男性なら
男性、女性なら女性)で考え行動して
しまっているように、ぼくは思う。

だから、日々の関係の失敗から経験的に
は学びを得ても、根本的な対策には至ら
ない。
また、相手が変わることを要求してしまう。

 

黒川伊保子の著書『鈍感な男 理不尽な
女』(幻冬舎)は、黒川が「まえがき」で
冗談交じりで言うように、「ノーベル平和
賞をもらってもいいくらいの一冊」である。
ノーベル平和賞は大げさにしても、
何らかの「平和賞」が授与されてもよいと、
ぼくはちょっと本気で思ったりする。

本書は、2部から成っている。

●Part 1: 女性脳のトリセツ
 ~女の機嫌をなおす18の処方箋

●Part 2: 男性脳と女性脳はなぜこんなに違うのか

Part1は、「女たちの18の不機嫌」の
ケースをとりあげている。

そして、黒川がそれぞれに解説を加え、
処方箋(対処方法)を提案している。

最初のケースは、
「もう、いい。自分でする!」と突然
キレる、ケースだ。
誰しもが経験する状況だ。
黒川伊保子の視線は、どこまでも寛容だ。

黒川伊保子は「女の機嫌のなおし方」と
題した「まえがき」で、次のように
記述している。

 

女は、惚れた男にだけ、よく機嫌を
損ねる生き物である。
なのに男は、女の機嫌をとるのが苦手だ。
人に秀でた才覚がある男ほど、その傾向
は顕著である。脳の信号処理が、目の前
の女性の気分にチューニングするように
はできていないからだ。目の前の人の
思いに引きずられて動揺する人は、
世界観が作れない。
 だから、彼女が少々嫌な顔をしても
気づかない。…女性の思いを察すること
は、本当に難しい。というわけで、女性
の機嫌のなおし方がとんとわからないの
は、男らしい男性の、正しい反応なので
ある。
 つまり、愛のある女と、才覚のある男
のベストカップルほど、「女の機嫌」に
つまずくことになる。
 で、この本の登場である。

黒川伊保子『鈍感な男 理不尽な女』
(幻冬舎)

 

この「まえがき」にぼくは気持ちが
救われた。
(別にぼくが人に秀でた才覚ある男
というわけではないけれど。)

この「世界中の男性の携帯辞書」(黒川)
は、日本語だけれど、世界中の男性が
読むべき本である。

そして、男性だけでなく、女性も一緒に
学び、日々関係を豊饒にしていくことで、
世界はきっと素敵になると、ぼくは思う。

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書籍, 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

村上春樹著『翻訳(ほとんど)全仕事』から学ぶ、翻訳・仕事・生き方の作法

村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』(中央公論新社)の主要なコンテンツは、次の二つである。...Read On.

村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)の主要なコンテンツ
は、次の二つである。

●翻訳作品クロニクル 1981-2017
●対談(村上春樹x柴田元幸)

「翻訳作品クロニクル」では、
これまでの翻訳仕事を取り上げ、
ひとつひとつに、解説や背景、
思うところをつづっている。

このひとつずつを読むだけで
「村上春樹の世界」に入ることが
できる。
それだけで、世界は素敵になる。

「対談」は、「翻訳業の師匠役」
(村上春樹)である柴田元幸との
対談である。

これまでも、村上春樹と柴田元幸は
他の本でも翻訳対談を刊行してきた
けれど、今回は「翻訳クロニクル的
な視点」での対談がくりひろげられ、
世界はまた、それだけで素敵になる。

以下では、ぼくにとっての印象的な
学びと気づきから、ほんの少しだけ
をピックアップ。

 

(1)翻訳の作法について

村上春樹の翻訳により文章が
「村上化」しているという主張に
対して、村上春樹は次のように
語っている。

 

…僕の色が翻訳に入りすぎていると
主張する人たちもいますが、僕自身
はそうは思わない。僕はどちらかと
いえば、他人の文体に自分の身体を
突っ込んでみる、という体験のほう
に興味があるんです。自分のほうに
作品を引っ張り寄せてくるという
よりは、自分が向こうに入って行っ
て、「ああ、なるほどね、こういう
ふうになっているのか」と納得する。
その世界の内側をじっくりと眺めて
いるととても楽しいし、役に立ちます。

村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)

 

ぼくは、この感覚がとてもよくわかる。

ぼくが翻訳という作業をしはじめたのは、
とりわけ、大学と大学院でである。
仕事ではなく、「課題」のようなものと
してであったけれど、中国文学の翻訳も
あったし、英語論文の翻訳もあった。

論文では、その著者の「論理」の中に
入りこみ、論理をたどった。
その過程で、言葉の「定義」をひとつ
ひとつ確認して、著者の意図に、身体を
投じた。
その中で「行間」が浮かび上がってきた
りした。

ぼくにとっては、翻訳的作業は、
「自分という殻」を一休みして、一旦
外に出るような行為だ。
翻訳はヤドカリの殻の部分をひと時の
間、交換するような作業だ。

村上春樹の言葉とリズムが、ぼくの
身体に、すーっと、浸透してくるのが
わかる。

 

(2)仕事の作法について

柴田元幸との対談の中で、村上春樹は
「翻訳仕事の仕方」を語っている。

村上春樹の「仕事の仕方」に学んで
きたぼくとしては、「なるほど」と
うなずくところだ。

「一日の時間配分」を聞かれた村上は、
次のように応答している。

 

基本的に時間があまっちゃうんですね。
僕はだいたい朝四時頃起きるじゃない
ですか。だから朝のうちに自分の小説
の仕事を済ませちゃうと、あとは時間
があまって……。ジムに行ったり走った
りするのは一、二時間あればオーケー
だから、まだ暇がある。それで、じゃあ
翻訳でもやろうかと思って、ついつい
やっちゃうわけです。…朝のうちは翻訳
はしません。朝は大事な時間なので、
集中して自分の仕事をして、翻訳は午後
の楽しみにとっておきます。
で、日が暮れたら仕事はしない。…

村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)

 

「午後の楽しみ」の翻訳は、しかし、
2時間ほどで疲れてしまうようである。

村上春樹の圧倒的な質量の翻訳書は、
この「午後の楽しみ」から生まれている。

 

(3)生き方の作法について

「まえがき」で村上春樹が、翻訳書の
総体を眺めながら振り返る言葉が印象的だ。

 

ここにこうして集めた僕の翻訳書を
順番に眺めてみると、「ああ、こういう
本によって、こうして自分というものが
形づくられてきたんだな」と実感する
ことになる。

村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)

 

翻訳書のひとつひとつも魅力的だ
けれど、翻訳という作業の総体は
「作家・村上春樹」の生き方を
照らし出している。

「作家・村上春樹」は、翻訳という
丹念な作業の積み重ね(そのうちに
は「壊しては作り直す」作業で一杯
だったとぼくは思う)と、自身の
小説執筆という深い「井戸掘り」の
内に、やはり「創られながら創る
こと」(真木悠介)
という経験を
生ききってきたのだと、ぼくは思う。

ぼくも、そんな経験を生きていきたい
と、村上春樹の翻訳書と本書を前に、
感じてやまない。


追伸:
翻訳書のすべてを読んだわけでは
ないけれど、
ぼくは『グレート・ギャッツビー』
の翻訳が好きです。
スコット・フィッツジェラルドが
書く「冒頭」もすごいけれど、
村上春樹の翻訳する「冒頭」も
すごいです。

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書籍, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

堀江貴文著『すべての教育は「洗脳」である』-「G人材とL人材」論について、香港で考える。

堀江貴文の新著『すべての教育は「洗脳」である』を、ここ香港で読む。副題は「21世紀の脱・学校論」。...Read On.

堀江貴文の新著、
『すべての教育は「洗脳」である』
を、ここ香港で読む。
副題は「21世紀の脱・学校論」。

日本では題名(とくに「洗脳」と
いう言葉)だけで反論を呼ぶのかも
しれないが、語られている内容は、
「まっとうな分析」である。

学校は、メインストリームの制度に
おいては、産業革命に開かれた社会
の枠組みを超えられずにいることは
確かだ。
(ただし、途上国における教育は、
若干の「留保」が必要であると思う。)

さて、本著作において、ぼくの関心事
とつながるところは、
「第2章 G人材とL人材」である。

堀江貴文によると、
今後、人は、生まれた国・地域に関係
なく、「生き方、考え方、働き方」に
おいて、次のように、大きく二つに
分かれていくという。

●G人材:「グローバル」を行動範囲
●L人材:「ローカル」(地元)に根付く人材

G人材は、彼の言葉では、次のような
人材だ。

 

【G人材】
・人物像:合理的・寛容・フラット
・大切なもの:自分のやりたいこと
・フットワーク:軽い・変化を好む
・豊かさの指標:情報
・こだわる場所:なし
・生きている時間:現在
・希少性:高い

堀江貴文
『すべての教育は「洗脳」である』
(光文社)

 

もちろん、例外を排除し、理解を
目的として簡素化された人材像である。

彼が本書で何度もくりかえすように、
どちらがよい・悪いということではなく
「生き方」の問題である。


大切なのは、GとLの二つから、
うまみのありそうな方を選ぶ
ことではない。自分のやりたい
こと、大切にしたいものを理解
することなのである。その結果
どちらを選ぶことになろうと、
あなたの”本音”と合致している
限り、幸せな生き方は追求でき
るはずだ。

堀江貴文
『すべての教育は「洗脳」である』
(光文社)

 

上述したように、堀江の「G人材・
L人材」論は、理解のために簡素化
された参照のようなものである。

なお、どちらでもない人は、
「N人材」として説明されている。
Nはnationの頭文字である。

それぞれの特徴の詳細はともあれ、
人材の「二極化」自体は、これから
さらにすすんでいくと思われる。

産業革命が牽引してきた「近代」と
いう時代の慣性、その解体という
力学のなかで、ぼくたちは、価値観
と生き方において、違う極に引き裂
かれている。

それら両極への力学のなかで、
大切なことは、自分の「生き方」で
ある。
世界の編成が目まぐるしく変遷する
なかで、どのように生きていきたいのか
が、いつもぼくたちに、問われている。



ところで、本書で触れられる、
G人材の豊かさの指標に記載された、
「情報」の考え方がおもしろい。

背景として押さえておくことは、
インターネットがもたらしたのは、
情報を、
「所有すべきもの」から
「アクセス」するものに、
変貌させたこと。
つまり、情報革命は、
「所有」の価値を落としたこと。

G人材は、このような、
「アクセスするもの」としての
「情報」に価値をおく、と語られる。

この方向性が内包する「可能性」は、
<消費/情報化社会>の弊害
を解決する•低減する道へと続いて
いるように、ぼくは直感する。

それにしても、
ぼくは、堀江貴文の「口癖」が好きだ。

 

「やればいいじゃん!」
 

何かに迷ったときに、ぼくの脳裡に
この言葉が聞こえる。

本書のメッセージは、冒頭に置かれ
た、この「口癖」にもどってくる。


行動は、いつしか、自分が「あたり
まえ」だと思っていることに疑問を
さす。

その裂け目から、「洗脳」をほどく
糸口がひらく。

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香港, 書籍, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 書籍, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、麺にさそわれて - 「車仔麺」にみる文化。

香港の陽光にさそわれると、今度は、香港の麺がぼくをさそった。知る人ぞ知る「車仔麺」の有名店に足を運ぶ。...Read More.

香港の陽光にさそわれると、
今度は、香港の麺がぼくをさそった。

知る人ぞ知る「車仔麺」の有名店に足を運ぶ。
「車仔麺」の歴史は1950年代に遡ると言われ
昔の屋台麺である。
今でこそ、屋台ではないが、香港のいたる
ところで食すことができる。

広東語が話せない場合、「少し困難」なのは、
オーダーのプロセスである。
麺、スープ、具を、細かくオーダーするため
である。
「セット」のメニューもあるが、やはり細かく
選びたい。

ぼくは「単語発音+ジェスチャー」勝負の
広東語で、麺と具材をオーダーしていく。

具材は、肉のあらゆる部分、野菜、卵、
ソーセージなど多種多様である。

ぼくは、野菜を中心にまとめ、
卵焼きを添え、香港式のホットミルクティー
を頼んだ。

自分で頼みながら、香港の食文化の多様性に
改めて感心してしまう。

「車仔麺」は具材はありとあらゆるものが
取り入れられる。
ミルクティーと麺の取り合わせも、日本に
いたらしないだろうなと、客観的に考える。

張競氏の「中華料理の文化史」の一節が
その背景を語ってくれているようであった。


…まずいものが淘汰され、おいしいものだけ
が残る。食材も、調味料も、料理法も、
出自はどうであれ、料理をおいしくすること
ができれば、たえず取り入れられてきている。
この意味では中華料理は多くの異民族の料理
文化を取り入れた、いわば雑種の食文化である。

張競『中華料理の文化史』(ちくま新書)
 

ソーセージが入っても、麺がおいしくなれば
喜んで取り入れられていくわけである。
そして、この仮説にもうなってしまう。

 

現在、地球上のどこの国にも必ず中華料理が
あると言われている。世界のほとんどの国で
受け入れられ、誰が食べてもそれほど違和感
を感じさせないのは、やはりその雑種性の
ゆえであろう。

張競『中華料理の文化史』(ちくま新書)
 

日本はもちろんのこと、
東ティモールでも中華料理に助けられた。
ニュージーランドでも、そして西アフリカ
のシエラレオネ(最近歴史に
残る大きさの
ダイヤモンドが発掘されたコノ地区)でも、
中華料理はぼくとともにあった。

そして香港の多種多様なものを許容する文化
は、さらに雑種性をとりこんできているよう
にみえる。

グローバル化を考える文脈の中で、
食文化の接触と受容と変容は、話題に尽き
ないトピックである。

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ひとに「伝える」ことができるとしたら -「伝える技術」の一つ下の地層で。

「伝える技術」的な書籍がポピュラーである。

ぼくも、日々の生活のなかで、いろいろと
参考にしている。
佐々木圭一『伝え方が9割』など、実際の
実践につなげていくべきところが多い。

そもそも本を読む人は意外に少なかったり
する。
また、本を読んだとしても、ぼくを含めて
多くの人が、読んで終わりになりがちで
ある。
内容を実践にうつして、試行錯誤のなかで、
じぶんなりの仕方を身につけていくことが
何よりも大切である。

このような書籍がポピュラーである背景
には、コミュニケーションのむずかしさ
がある。
コミュニケーション能力が、さまざまな
場と局面で求められている。

ひとに伝わらない苦々しい経験と
もどかしさが、伝える方法・仕方の学び
を求める人たちをひきつけていく。

「伝える」ということを考えるとき、
ぼくの脳裏には、社会学者・真木悠介
の文章が浮かぶ。

「エローラの像」という文書で、
真木悠介著『旅のノートから』(岩波
書店)に収められている。

真木悠介は、インドにあるエローラ石窟
群にある「teaching Buddha」という
像から、「伝える」が成り立つことの
「秘密」をとりだしてきている。

この「teaching Buddha」は、3つの
像があり、それらは「教える」という
ことに至る3つの姿勢を形づくっている
という。

 

 最初にあるのが ”giving Buddha” -
「与えるブッダ」、あるいは自分を
「明け渡す」という姿勢。自分を

オープンにするという姿勢である。
次にあるのが ”touching Buddha” -
「触れる」ということ。相手に触れる。
ということである。「心に触れる」
「魂に触れる」という日本語がある
ように、そしてtouchという英語も
また、感動させる、心に触れるという
意味があるように、元々は相手の身体
に触れる、じっさいに触れるという
具体性からくるのだろうが、とにかく
相手の存在の核の部分に「触れる」と
いうこと。このことが次にある。
teaching pose - 「教える」という
ことが可能になるのは、この2つの後
ではじめて成り立つことである。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
 

教える、つまり「伝える」ということは、
与えること、それから触れることがあって
はじめて成り立っていく。

伝えることができない苦々しい経験の
只中で、ぼくは、この「秘密」を思い出す。

「技術」「術」などのハウツーの手前、
一段下の地層において、ぼくは、自問する。
相手に与えることができているか。
オープンになれているか。
相手の心に触れることができているか。

「方法」は「姿勢」がともわないと、
ぼくたちを、伝わらないことの、あの苦々
しい経験のなかに、おきざりにしていく。

だから、今日も、ひとつ下の地層を、
ぼくは掘っていく。

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「コミュニケーション能力」を紐解く - 平田オリザ著『わかりあえないことから』の繊細さ。

劇作家・平田オリザの「コミュニケーション」
に対するまなざしは、繊細でしなやかである。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)は、副題を「コミュニケー
ション能力とは何か」としている。

世の中で、あまりにも「コミュニケーション
能力」が叫ばれてきたことに対する、問題提起
である。

 

(1)「コミュニケーション能力」とは何か

平田オリザは、コミュニケーションに対して
繊細・しなやかで、しかし真剣な切り口で
疑問を投げかける。

例えば、企業の人事採用では「コミュニケー
ション能力」が求められてきている現状がある。
これに対して、即座に問い返す。


「では、御社の求めているコミュニケーション
能力とは何ですか?」

 

また、企業の管理職者が、若者たちのコミュニ
ケーション能力に嘆くことに対して、きりかえす。


「はたして本当にそうなのだろうか?」


劇作家である平田オリザからの問いかけは、
シンプルだけれど、重い。

ぼくが経験してきた国際協力の現場でも、
海外の企業においても、コミュニケーション
能力の大切さはとてもつもなく大きい。

しかし、コミュニケーション能力を叫ぶ
当の本人たちの「間」において、そこでいう
コミュニケーションの内実のズレがあったり
する。

だから、一段おとして、企業なり企業、
個人なり個人のレベルで、コミュニケーション
能力の内実を明晰に理解しておくことが求めら
れる。


(2)「ダブルバインド」にしばられる

平田オリザは、企業が求めるコミュニケー
ション能力に「ダブルバインド」(二重
拘束)が見られることを指摘する。

「ダブルバインド」とは、二つの矛盾する
コマンドが強制されていることであるという。

例えば、自主性のコマンドが発出されて
いるなかで、ある人が上司に相談する。
相談を拒否されるが、問題が起きると、
報告しなかったことに対して叱られる。

このようなダブルバインドのなかで、
社員たちは身動きがとれなくなっていく。
平田オリザは、日本社会に転じて語る。

 

いま、日本社会は、社会全体が、
「異文化理解能力」と、日本型の「同調
圧力」のダブルバインドにあっている。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

(3)「わかりあえない」地点から。

平田オリザのまなざしは真剣だが、繊細な
地点からの視点だ。

題名にあるように「わかりあえないこと
から」という地点から、コミュニケーション
を語る。

わかりあえないなかで「わかりあう」こと。

しかし、平田オリザは、上記のダブルバインド
を必ずしも悪いこととはみていない。

 

 私たちは、この中途半端さ、この宙づり
にされた気持ち、ダブルバインドから来る
「自分が自分でない感覚」と向きあわなけ
ればならない。
 わかりあえないというところから歩き
だそう。

平田オリザ著『わかりあえないことから』
(講談社現代新書)

 

そう、
わかりあえないというところから
ぼくは、歩きだし、歩きつづける。

そうすることで、言葉は、「わかりあう」
メディアとなり、そして、まれに、
それは言葉をこえる言葉となるのだ。

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とことん人から学ぶこと - James Altucherの流儀に心身が動かされる。

ベストセラー作家・投資家・起業家の
James Altucherは、とにかく人から学ぶ。
とことん学んでいく。

Jamesは、新著『Reinvent Yourself』
中で、「プラス、イコール、マイナス」の
流儀を紹介している。
(2017年1月の出版。邦訳はなし)

学びはこの「プラス、イコール、マイナス」
から生みだしていく。

「プラス」は、自分よりも「上」の人。
つまり、メンターからの学び。

「イコール」は、自分の「ライバル」で
ある人。ライバルであることからくる学び。

「マイナス」は、自分から「下」の人。
教えることからの学び。

彼の、徹底した学びと、そしてそこから
気づき、さらには実践に、ぼくは心を
動かされ、ぼくの行動へとつながっていく。


(1)徹底した学びの「姿勢」

彼の学びの「姿勢」は、圧倒的にオープン
である。文章から、話し方から、姿勢が
あふれだしている。

彼のPodcast「The James Altucher Show」
では、いつも、そのことを感じさせられる。

毎回、超一流のゲストを迎えての「学び」
のインタビューである。

2017年3月のTony Robbinsのインタビュー
は、JamesもTonyRobbinsも、語りが圧巻
であった。


歴史家Yuval Harari氏(『Homo Deus』
の著者)へのインタビュー
も、傑作である。
ぼくは、Jamesがインタビューの終わりで
投げかけた、とてもシンプルな質問に、
心が震えた。

 

(2)徹底した学びの「振り返り」

それから、彼は徹底して学びを振り返る。

「The James Altucher Show」の
インタビュー終了後に、彼は学びを
文章でまとめる。

その学びは、ブログで公開されていく。
そして、それが、書籍になっていく。

徹底した振り返りには、頭が上がらない。
 

(3)徹底した学びの実践

そして、学びと振り返りは、もちろん
「実践」につなげられていく。

これまで数々の「失敗」を繰り返して
きたJamesが、自分をアップグレード
していく。

 

(1)から(3)のサイクルが高速で
回されていく。

彼の英語は、シンプルな単語で構成され
話し言葉的な文章はリズミカルだ。
文体は真面目すぎず、しかし真剣である。

これらが、総合的に結晶していく形で、
彼の新著のタイトルにある言葉
「reinvention」が生まれたように、
ぼくは思う。

ぼくは、彼の学びへの「謙虚さ」と
「オープンさ」に心身が動かされる。

Jamesのインタビューに耳を傾けながら
自分をアップグレードしていく気持ちの
<炎>を、ぼくは大切にともしている。

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「香港」を視て考える - トラベルガイドでもなく、学術書でもない1冊(英語)

「香港」を視て考える。
語りにくい香港を、日々の体験から、
その「世相」から、すくいあげていく。

香港の人や街路や食などから
手がかりをすくっていく。

そして手がかりを文章におとしていく。
ぼくは、文章を書きためているところだ。

文章が書きたまったところで、
他者がどのように香港を「書いて」いるか
気になりグーグル検索する。

検索していて気づいたのは、「香港」に
関連する書籍は、

  1. トラベルガイド
  2. 学術書

の二つが主流である。

この主流に加わる形で、
香港を舞台にした小説などがある。

1と2の「中間」が見つからない。
英語でもグーグル検索するが、やはり
この二つのカテゴリーに収まってしまう。

その間隙から見つけたのが、この書籍で
ある。

『Reading Hong Kong, Reading Ourselves』
Edited by Janel Curry, Paul Hanstedt
(CityU Press, 2014)

香港の大学に来ていたアメリカの研究者
たちが、それぞれの専門分野の視点で、
でもカジュアルな文体と構成で書いた
文章群から成っている。

トラベルガイドでもないし、
がちがちの学術書・研究書でもない。
しかし、学術的な「客観性の姿勢」がある。

トピックは多岐にわたっている。
食、社会、街路、言語、歴史、教育など。
これらを日々の「体験」からすくいあげる。

視点は、西洋人が視る「香港」。
日本人が視る「香港」だけではみえない
視点もはいってくる。

文化と文化の「間」からみえてくる視点が
面白い。

そこの「間」から、
ぼくたちは、どのように、よりよい生き方
を構想できるだろうか。

そんなぼくの思考にお構いなく、
香港の街は、今日も、忙しなく、活気を
装っている。

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こんな書籍もある。グローバルに生きていくために。- John Marcarian著『Expatland』

グローバルに動くようになり
なかなかのチャレンジングな課題は
「税金」である。

少なくとも、ぼくは、税務や会計の専門家
ではない。

日本を拠点にして、ある期間の間、海外で
仕事をしていくのは、まだ比較的わかりやすい。
あくまでも「軸足」は日本であるからである。

ただし、グローバルな時代においては、
日本生まれであったとしても、様々な仕方で
海外にうつっていくことになる。

大別すると、下記のようなカテゴリーがある。

  1. 「日本を拠点」に海外で生活をする
  2. 「海外を拠点」に海外で生活をする

海外を拠点とする場合は、生活形態は、
さらにバラエティに富む。

「海外Aを拠点」に、「海外A」で生活を
することもあれば、
「海外Aを拠点」に、「海外B」で生活を
していくこともある。

さらに、IT技術の発展による「もう一つの
世界」、つまりインターネットの世界に
おけるビジネスは、状況をさらに複雑にして
いく。

「グローバルなリアルの世界」と
「インターネットのバーチャルな世界」が
重層的に重なりあい、制度が状況においつ
いていない。

そんな「チャレンジ」を前に、
グーグル検索を重ねていたら、標題の書籍を
見つけたのだ。

John Marcarian氏による『Expatland』。
(英語の書籍で、邦訳はない)

著者は、税金のアドバイザーである。
グローバルな国外居住者(expat)の税金
に関する専門家で、自身で会社を設立している。

本書は「設定」が面白い。
「Expatland」という架空の世界を設定し
国外居住者にまつわることを説明している。
各国の国外居住者を「ひとつ」にまとめて
いる。

扱っているトピックは次の通りである。
税務まわりを中心に、幅を少し広げている。

・「Expatland」の家族生活
・「Expatland」の教育
・「Expatland」の銀行
・「Expatland」のファイナンス
・「Expatland」のファイナンシャル・プランニング
・「Expatland」のエステート・プランニング
・「Expatland」の保険
・「Expatland」の法務
・「Expatland」のセキュリティ
・「Expatland」の構造
・「Expatland」の税務
・「Expatland」の定年

書籍紹介の動画もよくできている。

これらの「導きの系」を頼りに、
ぼくは「Expatland」の税務にわけいって
いく。

英語でのグーグル検索が、ぼくに
幾千もある導きの系のひとつを手渡して
くれた。

「インターネットのバーチャルな世界」は、
ひとつではない。
そこでは、言語により、異なる世界が
広がっている。
ひとつの世界の裏に・横に、別の世界が
ひろがっている。

「英語」は、字義通り、もうひとつの
「世界」にわけいる入り口である。

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生き方の「モデル」をみつけることで変わる - シュリーマンの語学力

外国語を勉強してきて、
外国語を駆使し、ぼくは
日本以外のところで生活してきた。

「きっと将来役にたつ」との確信の
もとに、英語にフォーカスし、勉強してきた。

外国語学習ということで、
誰か「モデル」となる人がいたかと
いうと、なかなか思い出せない。
鮮烈な「モデル」は、人の人生を
大きく変えていく力をもつことがある。

覚えているのは、
『古代への情熱』(岩波文庫)の
シュリーマンである。
シュリーマンは、19世紀に生きた
人物である。

トロヤ戦争の物語から、トロヤの
古都が必ず存在したことを信じる。
そして、数々の困難を乗り越えて
トロヤ遺跡を発見した人物である。

ぼくは、学校の「課題図書」で
この『古代への情熱』を読むことに
なった。
副題にあるように「シュリーマン自伝」
である。

トロヤ遺跡に辿りつくまでの「情熱」に
も、ぼくは心を動かされた。
しかし、彼の語学に対する「情熱」も
また、ぼくの脳裏に鮮明に焼きついたのだ。

彼の言語習得の「一方法」は次の通りである。

● 非常に多く音読すること
● 翻訳しないこと
● 毎日1時間をあてること
● 興味ある対象について作文すること
● この作文を教師の指導によって訂正すること
● 前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること

(『古代への情熱』岩波文庫より)

「あとがき」にあるように、
シュリーマンはその後15ヶ国語を
話したり書いたりするようになったという。

ぼくのイメージには、
この圧倒的な語学力をもつシュリーマンが
存在している。

その後のぼくの人生で、15ヶ国語が
できるようになったわけではない。

でも、シュリーマンの「生き方」は、
ぼくに、夢や勉学の情熱と人間の可能性を
教えてくれたように、思う。

学校の「課題図書」は、その当時は
できれば避けたいものであったけれど、
シュリーマンやヘルマン・ヘッセなど、
その後のぼくの人生に影響を与えてきた
ことを、25年ほど経ってから、ぼくは思う。

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書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

世界で人々の生活を観る「メガネ」: 柳田國男『明治大正史-世相編』のちから。

世界のいろいろなところで
いろいろな人たちの生活をみることは
楽しみのひとつである。

着るもの・着方、食べるもの・食べ方、
住むところ・住み方など、興味と関心
はつきない。

香港に10年住んできたなかで、
それら変遷を観ることは、ぼくの
楽しみであった。

例えば、日本の「おにぎり」。
香港の食に最初は浸透せず、
でもそれが徐々に受け入れられていく
移り変わりは興味深いものであった。
香港では主食に「冷たい食べ物」は
好まれないと思われていたから、
なおさら興味深いものであった。

柳田國男の著作『明治大正史 - 世相編』
は、このような「世相」を観る視点や
洞察の宝庫である。

見田宗介の仕事(「<魔のない世界>
ー「近代社会」の比較社会学ー」
『社会学入門』所収)に導かれて、
ぼくは、柳田國男のこの著作に
たどりついた。

第1章「眼に映ずる世相」の冒頭は
こうはじまる。

 

以前も世の中の変わり目という
ことに、だれでも気が付くような
時代は何度かあった。歴史は遠く
過ぎ去った昔の跡を、尋ね求めて
記憶するというだけでなく、
それと眼の前の新しい現象との、
繋がる線路を見きわめる任務が
あることを、考えていた人は
多かったようである。ところが
その仕事は、実際は容易なもので
なかった。この世相の渦巻きの
全き姿を知るということは、
同じ流れに浮かぶ者にとって、
そう簡単なる努力ではなかった
のである。

柳田國男『明治大正史-世相編』
(講談社学術文庫)

 

今の時代も「世の中の変わり目」
である。誰もが気づいている。
しかし、「同じ流れに浮かぶ者」
として、世相を知ることは容易
ではない。

柳田國男がこれを書いたのは、
1930年であったという。
この時間の隔たりに関係なく、
本書はほんとうに多くのことを
まなばせてくれる。

ぼくたちの日本での「衣食住」を
ふりかえるだけでなく、
柳田の視点や洞察は、時間と
空間を超えるものがある。

ぼくは多少なりとも、
そんな視点と洞察の「メガネ」
をかけて、ここ香港の「世相」
を眺めてみたいと思う。

日本以外の国・地域(海外)に
いることのいいところは、
「同じ流れに浮かぶ」ことから、
多少なりとも、流れの外にでる
ことができることである。

それを寂しいという人もある
かもしれないけれど、興味の
つきない<立ち位置>であると、
ぼくは思ってやまない。

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総論, 社会構想, 書籍 Jun Nakajima 総論, 社会構想, 書籍 Jun Nakajima

Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。

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「人間の歴史」を巨視的に視ること - 見田宗介の明晰な理論

「人間の歴史」を巨視的に視ること。
日々の生活や明日生きていくことには
関係なくみえる。

でも、そのことは、ぼくたちの
「生き方」をきりひらいていくため
にも、とても大切なことである。
今日のパンをつくってはくれない
けれど、ベネフィットは大きい。

「不確実性の時代」のなかで、
日々のメディア情報の渦のなかで、
巨視的な視野を獲得しておくことは
精神をおちつかせてくれる。

Yuval氏の著作、
『Sapiens』と『Homo Deus』は
そんな効果もあたえてくれる。

巨視的な視野を獲得していく上で、
見田宗介先生の理論は極めて明晰で
ある。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)
に収められている論考、
「人間と社会の未来 - 名づけられない
革命 -」は、とてもパワフルである。

そのなかで展開される論の内の二つは
次の通りである。

●人間の歴史の五つの局面。現代の意味
●現代人間の五層構造

「人間の歴史」は、五つの局面から
なっている。

  1. 原始社会(定常期)
  2. 文明社会(過渡期)
  3. 近代社会(爆発期)
  4. 現代社会(過渡期)
  5. 未来社会(定常期)

見田先生は「現代」をこのように
明晰にとらえている。

 

…「現代」と呼ばれる社会は、この
「近代」の爆発の最終の位相である
という力線と、新しい安定平衡系に
向かう力線との拮抗する局面として、
未知の未来の社会の形態へと向かう、
巨大な過渡の時代としてとらえておく
ことができる。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)


見田宗介先生はこれに照応する
ように、「現代人間の5層構造」を
図示している。

④現代性
③近代性
②文明性
①人間性
⓪生命性

その上で、大切なものに焦点をあて
るように、ていねいに説明を加えて
いる。

 

人間をその切り離された先端部分
のみにおいて見ることをやめること、
現代の人間の中にこの五つの層が、
さまざまに異なる比重や、顕勢/
潜勢の組み合わせをもって、
<共時的>に生きつづけている
ということを把握しておくことが、
具体的な現代人間のさまざまな事実
を分析し、理解するということの
上でも、また、望ましい未来の方向
を構想するということの上でも、
決定的である。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書)


見田先生は、このことばを、
言い方をかえながら、繰り返すよう
な仕方で、ていねいに添えている。

ぼくたちは、日々、「人間をその
切り離された先端部分のみ」で
みてしまう。

この警鐘を、この書が出版される
数年前に、ぼくは見田先生の講座
で耳にしていた。
そのときは「素描」のような仕方
で論を展開されていた。

ぼくは、その後、西アフリカの
シエラレオネ、東ティモール、
そして香港と移住していくことに
なる。

世界のさまざまな人たちに出会い、
一緒に喜び、一緒に苦闘し、
一緒に悲しみ、ときには互いの
フラストレーションをぶつけあう。
そのなかで、自分の感情から、
一歩距離をおくとき、ぼくは
この「現代人間の五層」を
思い出してきたのだ。

 

見田先生は、この文章につづき、
「名づけられない革命」の
素描的な記述をしている。

Yuval氏の新著『Homo Deus』
の副題「A Brief History of
Tomorrow」にある「明日の
歴史」を、この「名づけられない
革命」に接続することを、
ぼくなりに思い巡らしている。

「名づけられない革命」が
「明日の歴史」を形づくる、
ひらかれた未来を想像しながら。

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書籍, 総論 Jun Nakajima 書籍, 総論 Jun Nakajima

Yuval氏の新著『Homo Deus』を読みながら、ふと気づく。

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』を読む。
副題は「A Brief History of
Tomorrow」。

Yuval氏の前著『Sapiens』
(邦訳は『サピエンス全史』)に
続く、名著である。

著作『Homo Deus』は、
サピエンス(人間)が3つのことを
克服してきたことから始まる。

●飢饉・飢え(famine)
●ペスト(plague)
●戦争(war)

もちろん、飢えや伝染病や戦争が
完全になくなったわけではない。
世界では今も、それらに苦しむ
人がいる。
ぼくも、そのような境遇に置かれた
人たちを、国際協力の形で支援した
ことがある。

ただし、Yuval氏は、これらが
「manageable challenge」に
なったことに焦点をあわせる。

現代は、一部を除き、これら3つが
日々の生活に隣り合わせにあるわけ
ではない。

確かに、人間は、これら3つを
ある意味において克服したのである。

この第1章を読みながら、ぼくは
ふと気づいたのである。

「戦争」は、この「manageable
challenge」に変わっていて、これは
歴史においては大きな意味を持つこと。
ぼくの視野が狭くなっていたこと。

ぼくは「戦争」が幼少期の頃から
嫌いである。
シエラレオネや東ティモールで、
戦争の傷跡も間近に感じてきた。
現場でできることをしてきた。
でも、「人間の歴史」という歴史の
長いスパンの中で見ることができて
いなかった。

「人間の歴史」の中では、
今の時代は「特異な位置」にいる。
このことを、長い時間軸の中で、
考えさせてくれる書籍である。

何かの可能性だけでなく、
何かの「予感」に充ちた書籍である。

ぼくは、自分のなかで、手につかめ
そうな「予感」を感じている。
自分の「何か」につながる予感を。

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「香港」は、語りにくい - 香港を知るための2冊

香港に住んで10年になる。
香港とともに成長してきた。
日々「香港」である。
日々「フィールドワーク」である。
でも「香港」は語りにくい。

その「香港」を知るために、
この2冊は読んでおきたい。

・倉田徹・張彧暋『香港』(岩波新書, 2015年)
・吉川雅之・倉田徹『香港を知るための60章』(明石書店、2016年)

人により、香港を知る「目的」は
さまざまである。

それは、香港で住むため、
香港を研究するため、
香港や香港文化に興味があるため、
であるかもしれない。

いずれにしろ、この2冊は読んで
おきたい。

ぼくは、これら2冊には、
香港で10年ほど生活してから
出会った。

『香港』(岩波新書)の冒頭は、
ぼくの「感覚」を共有する出だしである。

 

「香港は一冊の難解な書だ…。」
この言葉は、…中国政府の香港出先機関
である中央政府駐香港連絡弁公室(中連
弁)の初代主任を務めた姜恩柱が残した
名言である。…
…この台詞は、香港研究を生業とし、
「香港とは何か」を捕捉することを
職業とする筆者(倉田)の頭の中にも、
毎日のように去来する。

倉田徹・張彧暋『香港』(岩波新書)
 

大学で中国語を学んでいた
ときに香港に授業で触れ、
大学在学中に、香港に初めて足を
踏み入れ、
そしてこの10年住んでみて、
それでも、ぼくも感じる。
香港は語りにくい。

そして、その語りにくい香港は、
常に変わっている。
スピードも圧倒的に速い。

いつまで香港にいるかはわからない。
でも、しばらくは、この変動の香港を、
ぼくは見続けていく。

そして、香港を知るためのもう一冊を、
近日中に、世に放ちたい。

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