「高品質コーヒー」で、「幸せ」をつなげる。- 東ティモールのコーヒープロジェクトに賭けられた「思い」。

ぼくは2003年から2007年まで東ティモールに住み、国際NGOの駐在員として、コーヒーのプロジェクトにかかわってきた。...Read On.

ぼくは2003年から2007年まで
東ティモールに住み、国際NGOの
駐在員として、コーヒーの
プロジェクトにかかわってきた。

そのプロジェクトで賭けられた
ものは、「コーヒーの品質」で
あった。

そこに賭けられた「思い」など
を、ここでは書こうと思う。

コーヒーの「美味しさ」は、
都会に住む人たちにとっては、
・コーヒー豆の焙煎(具合)
・飲み方(カプチーノ、ラテ等)
・トッピング
・カフェの雰囲気
などかもしれない。

しかし、そもそものところでは
「コーヒー豆」そのものの品質が、
決め手でもある。

豆の品質が悪くても、
焙煎の仕方、ミルク、トッピング、
カフェの雰囲気などで、ある程度、
品質はカバーされてしまう。

香港で飲むコーヒーは、
そのような状況に置かれている。
最近でこそ、少しづつ豆の品質に
こだわりが出てきているところも
あるが、まだまだだ。
香港のコーヒー事情については
以前ブログで概要を書いた。

それは例えば料理とも同じである。
素材の品質の低さは、味付けや盛り
付けなどによって、ある程度まで
カバーされてしまう。

あらゆる料理は素材が大切である
ことと同じに、コーヒー豆そのもの
の「品質」が美味しさをつくる。


ぼくが東ティモールに住み、
国際NGOの
駐在員として関わった
コーヒーのプロジェクトは、

「コーヒーの品質」、
そしてその先
にある「幸せ」に賭け
られたプロジェクトであった。

 

1)背景

インドネシアからの独立を果たした
東ティモール。
天然資源を除くと、輸出品としては
コーヒーが大半を占めるほどであっ
た。
ただし、精製され輸出されるコーヒ
ーの品質は低く、比較的低い価格で
売られていく。

良質のアラビカ種がより自然に残っ
ているけれども、
世界で50カ国以上がコーヒー生産
をしている中で、
「品質も価格も低い」コーヒーは
競争力がない。

これを「転回」させるのは、
「コーヒーの高品質化」である。
もともと良質なのだから、
「東ティモールコーヒー」として
世界でも戦っていける。

でも、そのためには、
「やること」がたくさんある。

 

2)「品質を上げる」ために。

「品質を上げる」ために、大きく
二つのことを行った。

①「コーヒー精製」(および輸出
までのプロセス)を、コーヒー生産
者たちが独自に行うこと。

②「コーヒー精製技術」を上げる
こと。

①は、それまで、コーヒー生産者
たちは、主に「コーヒーのチェリー」
(コーヒーの木から採取したばかり
の果肉がついた状態のもの)を
業者に販売していた。
つまり、独自に精製をせず、その日
に採取したチェリーを袋につめて
その状態で売っていたのだ。

そこで起きる問題は大きく2つある。

第一に、
販売された(業者が買い取った)
チェリーの中に、未完熟のものや、
熟しすぎたものが混じってしまって
いた。

第二に、
買い取った業者はそのチェリーを
機械が設置された精製所に運び、
果肉をとり、豆を乾燥させると
いった精製プロセスにかけていく。
しかし、往々にして、そのプロセス
の管理が行き届いておらず、品質が
下がってしまう。

それから、②「コーヒー精製技術」
については、すでにコーヒーの一部
を独自に精製して他業者に売っていた
コーヒー生産者もいたが、技術力およ
び精製する機材の不足などが問題で、
結果として品質の低いコーヒーになっ
てしまっていた。

だから、これら①と②を実践すること
で、品質を上げ、東ティモールコーヒ
ーのブランド力もあがり、そして
何よりも、高く売れたコーヒーは、
コーヒー生産者たちにより大きな収入
をもたらしてくれる。

2003年当時の東ティモールの一人
当たりGDPは、年間で見て、400US
ドル台であったから、何としてでも
「道」を見つけたいところであった。

 

3)「幸せ」をつなげること

プロジェクトにかかわった人たち
皆が、ほんとうに注力した。
コーヒー生産者たち、サポートをした
NGOチーム、コーヒー専門家の方々、
などなど。

皆が、品質に賭け、その先にある
「幸せ」を確かに信じていた
(また徐々に信じていった)のだと、
ぼくは思う

コーヒーの品質を通じて、
そこでは「幸せ」がつなげられて
いったのだ。

「美味しいコーヒーを飲む幸せ」と
「コーヒーが高い価格で売れる幸せ」。

途上国の「貧しい人たち」を助ける
ために、ということで飲むコーヒーで
はなく、ほんとうに美味しいコーヒー
を飲む幸せ。

高品質のコーヒーを誇りをもって
つくり、高い価格で売ることができ、
収入が増え、生活改善につながる幸せ。

それは、「自己犠牲」ではない仕方で、
関係をつくっていくこと。
また、ビジネス的に言えば、
「Win-Win」の関係を築くことであった。

別の見方では、
「消費者と生産者」との関係(の豊かさ)
をつくると同時に、
「先進国と途上国」との関係(の豊かさ)
をつくる、ことであった。
たとえ、それが世界的には、とても小さな
規模での実践であったとしても。

さらには、
「人と人との関係」、そして
「人と自然の関係」をつくってきた。
自然に近い形でコーヒーの木たちが
実りを与えてくれる環境であった。

それが、使い古された言葉でいえば
「持続可能な(sustainable)」
ということである。
しかし、内実をともなった言葉である。

コーヒーの品質に賭けられた
「持続可能性」は、
ぼくが東ティモールを去った2007年
以降も、プロジェクト・事業の発展を
もたらしてきたとのことである。
今では、首都ディリに「カフェ」を
もつまでになっているという。


早朝に、香港の海岸通りを歩いて
いたら、東ティモール人の元同僚から
メッセージがぼくに届く。
やりとりの末に、
「また東ティモールに来てください」
と、彼はメッセージをぼくに届けて
くれる。
ぼくは将来、再び東ティモールを訪れ
るときのことを想像する。

2007年2月、ぼくが3年半の滞在を
終えて東ティモールを去るとき、
数百人もの村の人たちとスタッフが
集まり、笑顔で、ぼくを送り出して
くれた。

その人たちに、ぼくはどんな姿で、
どんな笑顔で、再び会うことができる
だろうか。
みんなの成長に負けない成長を、
ぼくはしてきただろうか。
そんなことを思いながら、ぼくは
東ティモールに「新たな思い」を馳せる。

 

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東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima 東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima

ソーラーパネルが届ける「光」。- 東ティモールでの「小さなランプ」の記憶。

香港で、海岸線を歩き/走りながら、道の片隅に、ソーラーパネルを見つける。海岸通りの公園に設置された装置の一部が、太陽熱により作動している。...Read On.


香港で、海岸線を歩き/走りながら、
道の片隅に、ソーラーパネルを見つ
ける(*写真)。
海岸通りの公園に設置された装置の
一部が、太陽熱により作動している。

ソーラーパネルは、
ぼくが、西アフリカのシエラレオネ
と東ティモールにいたときのことを
思い出させる。

どちらの国でも、
ぼくが住んでいた当時、
一部の地域しか電気が通っておらず、
また、電気が通っていても時間制限
がかけられていた。
だから事務所等には、電気発動機を
設置していた。

東ティモールのコーヒー生産者たち
が暮らす山間部は、当時、まだ電気
が完全には通っていなかった。

山間部の街の「中心エリア」には、
時間統制(電気がくる時間帯が決めら
れている)により、電気が通っていた。
しかし、街の中心を超えて、村々に
入っていくと、電気が通っていない。
夜は、灯油ランプなどで過ごすことに
なる。

ただし、電気にしろ、灯油ランプに
しろ、それなりのコストがかかる。
コーヒーの品質を上げていくことで
コーヒーをより高い価格で売って
世帯収入を増やすプロジェクトをして
いく中で、世帯支出を考えてしまう。

東ティモールの一人当たりGDPは
当時、400~500米ドル台であったか
と記憶している。
コーヒー生産者たちの収入も見ながら
一年間をやりくりする「困難さ」を
肌身で感じる。

そんな環境に暮らしながら、
太陽熱発電・ソーラーパネルの情報
には、常に、ぼくのアンテナが張られ
ていた。

そんな折、インターネットで、
太陽熱発電の「小さなランプ」を
発見する。
同僚と話しながら、ぼくたちは、
この「小さなランプ」を生活に取り
入れて試すことにした。
もともとの仕様は、玄関口に設置して
おくタイプのもの。
昼に太陽光を取り入れ、暗くなると
自然とランプがつく。
値段もそれほど高いものではない。

東ティモールの昼の照りつける太陽
の下に置いておき、夜はそれを使う。
いったん生活に取り入れてみると、
これほど便利なものはない。
東ティモールのスタッフたちの評判
も高かった。

その後、東ティモールの騒乱があり、
プロジェクトにかかりきりになり、
それからぼくは東ティモールを出る
ことになった。
あのランプが、どうなったかは、
定かではない。

しかし、このような場所での
太陽熱発電の可能性は、
決して小さくはなっていないと、
ぼくは思う。

香港で、インターネットで検索を
していたら、
やはり、「太陽熱発電の可能性」を
追求してきている人たちがいるのを
知った。
国レベルの大きなプロジェクトも
あれば、ぼくたちが追求していた
世帯レベルのプロジェクトもある。

様々な人たちが、様々な仕方で、
考え、知恵を合わせ、支援し、
そして確実に「誰かの世界」を
変えている。

香港の道端のソーラーパネルを
見ながら、ぼくはそんなことを思う。

世界は、必ずしも、争いと報復の
絶えない、場所というわけではない。
世界では、今日も、ある人(たち)
は他者を思い、考えを尽くし、知恵を
出し合ってアイデアをつくり、世界に、
「小さな明かり」を灯し続けている。

それは、太陽のように大きくはない
けれど、確かな「光」を届けている。
そして、ソーラーパワーが自然の力で
あることと同じに、
この「光」は、人間に本来埋め込まれ
ている「自然な力」である。

 

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世界で、「水」との関係性をつくりなおす。- 「日本での当たり前」を乗り越えながら。

日本を出て海外を旅行するときに旅行ガイドなどを開くと、「水に注意すること」が、書かれているのを見つける。日本で当たり前の「水」は、世界では当たり前ではない。...Read On.

 

日本を出て海外を旅行するときに
旅行ガイドなどを開くと、
「水に注意すること」
が、書かれているのを見つける。

日本で当たり前の「水」は、
世界では当たり前ではない。

世界の各地では、次のように
「ない」状況に置かれている。

●「安全」ではない
●「水道」ではない
●「水」がない

ぼくも、世界を旅するようになって
から、また世界に住むようになって
から、このことを実際に体験して
きた。


1)「安全」ではない

ぼくは、大学時代にかけめぐった
アジアの国々で、
この水の経験の洗礼を受けた。

水道水はそのままでは飲めない。
だから、水を購入する。
厄介なのは、「氷」である。
アジアの屋台などで食事をするとき
飲み物に「氷」がついてくる。
昔は飲み物は「冷えていない」こと
が普通であったから、氷をグラスに
入れて、そこに飲み物が注がれる。
でも、氷は、水道水から作られて
いたりするから、結果として、
お腹をこわしたりする。

また、場所によっては、飲めない
だけでなく、口に入れることも危険
である。
だから、歯を磨くときも、
購入してきた水をつかったりした
ものだ。

 

2)「水道」ではない

「水道」は世界ではデフォルトでは
ない。
「水道」がないところがたくさん
ある。

東ティモールのコーヒープロジェクト
が展開されたエルメラ県レテフォホ。

コーヒー精製にも、生活にも水が
欠かせないコーヒー生産者たちは、
「竹」をつなげる形で、いわゆる水道
をつくっている。

竹を垂直に半分にわり、つなげる。
水が湧き出ている高台から竹を伝って
水が届く仕組みだ。

「蛇口をひねれば…」の日本ではない。
 

3)「水」がない

「水」がそもそも身近にない、と
いうこともある。

西アフリカのシエラレオネでは、
コノという地域に住んでいた。
ダイヤモンド産地で有名な場所で
それなりの「街」を形成していた
けれど、当時(2002年)には、
街に水道はなかった。
だから、井戸水をつかっていた。

また、当時はプロジェクトとして
井戸掘削の事業を展開していた。
水のない村で、掘削機で、井戸を
掘っていく事業である。
掘削機が水源にたどりつき、
ポンプをとりつけて無事に水が
汲み上げられる。
村の人たちの笑顔が、いっぱいに
ひろがる。
なんとも言葉にならない、よい
光景である。

ある時、ぼくは完成した井戸の
点検のためある村を訪れた。
村人たちと水が出るのを確認する。
たくさんの村人たちが集まって
いてくれた。
ぼくは、思いも寄らない光景に
一瞬動けなくなってしまった。
村の人たちが皆、地面にひれふす
形で、感謝を伝えてくれたのである。
ぼくは「そんなことしないでくださ
い」というジェスチャーをしたのだ
と思う。
「水の大切さ」と共に、ぼくの中に
深く刻印された光景である。

さらに、「水がない」地点から
「水への感謝」につながる瞬間は、
「宇宙の視点」である。
ぼくは、火星が舞台の映画を観る。
人が火星へ移住することの本を読む。
宇宙を旅する映画を観る。
これらの「宇宙の視点」がぼくたち
に投げかけるのは、「水の奇跡」で
ある。

ただ水が存在するということの
奇跡。
そんな風にして、ぼくは、水への
畏敬の念と感謝の気持ちをオンに
する。

世界に住むようになって、ぼくが
変わったのは、
水をよく飲むようになったことだ。

日本にいたときは、「飲み物=
ソフトドリンク、お茶など」で
あった。
それが、水が、ぼくのなかで完全に
デフォルトとなった。

上記のような「ない」状況を通過し
今のところ落ち着いているのは、
・購入した水を飲む
・常温(あるいは温めて)で飲む
である。

世界のいろいろなところの水を
楽しんでいる。
その土地その土地の水を必ず試す。

人のすごいところは、環境に慣れる
適応性である。
しかし、その反面、適応がゆえに、
「ない状況」を忘れてしまう。

だから、水を飲めること、
水を使えることに、感謝を忘れない
よう、ぼくは心がける。
記憶をたよりに、また今ここの水に
感謝を向けながら。


追伸:
水は購入したから「安全」という
わけでもありません。
そこにはいろいろな要素があります。

売っているペットボトルの水を
購入したら、
リサイクルのペットボトルに
中身をリフィルして売られている
なんてこともあります。
キャップの部分が、再度、接合され
ている跡で見つけたりします。

 

 

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東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima 東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima

東ティモールで、「人口統計(国勢)調査」を受けたときに「困ったこと」

2003年から2007年まで東ティモールに住んでいたとき、ぼくは一度、東ティモール政府の「人口統計調査」(国勢調査)を受けたことがある。...Read On.

2003年から2007年まで
東ティモールに住んでいたとき、
ぼくは一度、東ティモール政府の「人口
統計調査」(国勢調査)を受けたことが
ある。
(香港でも調査を受けたことがあります。)

東ティモールで「人口統計調査」を
受けた日本人は、あまりいないと思うけれど。

詳細は覚えていないのだけれど、
ぼくの記憶には、首都ディリの事務所
の風景、それから調査用の小さな用紙
のイメージが今も残っている。

記憶に残っている理由の一つは、
人口統計調査を受けた際に困ったから
である。

この「困ったときの感情」が、まるで
スマートフォンで写真を撮るとき
のように、その風景を、カシャ、と
切り取ったようだ。

でも、「困ったこと」は、ぼくにとって
は大切な学びであった。

「困ったこと」とは、調査用の用紙に
あった設問である。

それは、自身の「宗教」を選択する設問
であった。

ぼくは、特定の宗教をもたないため、
選択に困った。

それまで、東ティモールを含め、海外に
いると、
「あなたの宗教は何ですか?」
と聞かれることがあった。
そのときは、アニミズムとか、
「自然」だとか、で応答していた。

ただし、今回は、用紙の選択肢の中に
そんな選択肢はなかったのだ。
(ちなみに、東ティモールはほとんど
の人たちが「カトリック」である。
ポルトガルの影響である。)

ぼくは、この設問項目と選択肢に
とまどったことを、今でも覚えている。

最終的には、ぼくは、選択肢にあった
「仏教」を選択した。

とまどった本当の理由は、
「宗教がないと人と認められない」と
いう感覚をもったからだった。

日本に住んでいると、「宗教」には
さまざまな「偏見」がともなっている。
でも、西アフリカのシエラレオネでも、
東ティモールでも、宗教は、日々の
生活に根ざしている。

ぼくも、そんな人たちを尊重して、
教会の大切なイベントに参加したりした。
イスラムの祈りの時間を尊重して、
待機したりした。
宗教が、宗教として存在する磁場があった。

だからといって、ぼくは、特定の宗教を
もつことはしない。
でも、世界に暮らしながら、もっと宗教の
ことを理解しようと、学び続けている。

「宗教社会学」という扉からの学びは
知的興奮に満ちたものだ。
社会学者の大澤真幸や橋爪大三郎の著作
から学んでいる。
二人が登場する対談の著作『ふしぎな
キリスト教』だとか、『ゆかいな仏教』は
学びでいっぱいだ。

そして、社会学者の真木悠介(見田宗介)
の名著『自我の起原 愛とエゴイズムの
動物社会学』。
その著作の補論は、宮沢賢治を読み解き
ながら、「自我の地平線」と真木がいう
「性現象と宗教現象」について展開されて
いる。

「宗教」を理解することは、人間や文化、
そして文明までを理解する手がかりとなる。
それは、ぼく自身を理解することでもある。

 

追伸:
東ティモールにいたときに、もうひとつ
戸惑ったことは、
「結婚することで一人前」とみなされる
社会であったことだ。
でも、東ティモールに長くいると、
その感覚が身にしみてわかっていった。
「家族」っていいなと心より感じさせて
くれた。

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「良い人」と「悪い人」を考える冒険 - シエラレオネ・東ティモールで考えたことを、香港の晴れた日に考える。

世界のいろいろな国・地域で、いろいろな国・地域の出身の人たちと話をしていて、「良い人」と「悪い人」の話になることがある。...Read On.

世界のいろいろな国・地域で、いろいろ
な国・地域の出身の人たちと話をして
いて、「良い人」と「悪い人」の話に
なることがある。

国境を越えての会話というコンテクスト
も作用し、
「良い人」と「悪い人」は世界どこにも
いる、という話になっていく。
だから、「悪い人」には気をつけよう、
という地点に会話が落ちついていく。

この視点は、一面では「正しい」けれど
ぼくはいつも気持ちがさわぐ。

より正確には、
人は誰しも(「例外」はどこでもあるが)
良い人にもなるし、悪い人にもなりうる
と、ぼくは思う。

映画「Star Wars」のダース・ベイダー
は「悪い人」だけれど、暗黒面のフォー
スに屈っする前は「良い人」であった。
また、悪い人でありながら、内奥には
「良い人」を抑えこんでいたりする。

ぼくは、2003年、内戦終結直後の
シエラレオネに、難民(国内避難民)の
緊急支援のため派遣された。

戦争の「傷跡」が、なまなましく、
ひろがっていた。
人の身体の傷はもちろんのこと、
人の心の傷は、心の原型をくずすところ
まで深いものであった。

落ち着きとある程度の秩序を取り戻して
いたシエラレオネだが、
いつ何が起こるかはわからない。
万全の安全対策で、気が張る生活が
つづいた。

そんな環境に身をおきながら、
ぼくは、時々、自分の内奥にひろがる
「暗い湖」を見ていた。
もし、この地で、秩序が壊れ、内戦に
突入したら。
戦いの只中におかれ、戦闘員として
生きのびていかなければならないと
したら。
ぼくは正気ではいられない
だろうという感覚がわきあがる。
「良い人」でいられる自信が「暗い湖」
の底にきえてしまった。

今(当時)は、国連の元で活動する
部隊のもとで、ひとまず「安全な環境・
秩序」が、つくられている。
だから、緊急支援を担う「良い人」で
いられる。

東ティモールにいたとき、
2006年、この「安全な環境・秩序」
が、くずれかかった。
首相は事態を収取できず、他国の軍隊
の出動を要請した。

オーストラリア軍がすぐに出動となり
空港に軍隊が配備されたりと、
秩序の回復が早急になされた。

東ティモールでは、独立以前の、
独立闘争の残酷で過酷な話を、
聞いていた。

そんな話を聞くたびに、ぼくは、
ぼくがその状況に置かれたら、どの
ように振るまうだろう、と考えずには
いられなかった。

このような経験を経て、ぼくは、
人は誰しもが良い人にもなるし、
悪い人にもなることを、実感値として
つみあげてきた。

だから、人として、また社会として
できることは、すくなくとも、
人が「悪い人」にならないような
環境をつくりだしていくことだ。

大川正彦が著書『正義』のなかで、
ジューディス・シュクラーの「恐怖
の自由主義」(<恐怖からの自由>
を軸にすえる自由主義)をとりあげ
ている。

この言葉と議論を、シエラレオネで、
東ティモールで、ぼくは、自問して
いた。

歴史学者ユバル・ノア・ハラリは
人間(サピエンス)が乗り越えて
きた問題・課題のひとつとして、
「戦争」を挙げている。

<恐怖からの自由>を用意する素地
が、社会にはできたのだ。

世界で、今も続いている「恐怖」の
現実の中で、しかし、希望は開かれて
いるはずだ。

ぼくたちは、誰しもが「悪い人」に
なりえてしまうことを身に引き受け、
そこから希望を開いていくという、
人それぞれの「責任」(response - 
ability=応答可能性)を、この時代の
「過渡期」で担っている。

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「ささやかなしあわせ」- 東ティモールできく坂本九

今年2017年1月に、
今は亡き歌手・坂本九氏の年賀状が
悲劇の死から16年を経て長女に届く
という「奇跡」が起きた。

ニュースによると、
1985年に開かれた筑波万博にて
坂本九氏が未来の長女に宛てた
直筆の年賀状だったという。
亡くなる4ヶ月前に投函され、
それが、今、届く。

ぼくは、坂本九の名曲『見上げて
ごらん夜の星を』の美しいメロディー
を思い出す。

東ティモールで仕事をしていた
10年程前。
ぼくは、一時帰国していた日本の
成田空港で、歌手・平井堅の
このカバー曲が収められている
CDアルバムを購入した。

当時は、インターネットがまだ
今ほどは発達していなかった。
デジタルダウンロードや
YouTubeなどで、海外どこに
いても音楽が楽しめるような
状況ではなかった。
だから日本に一時帰国したときに、
好きな音楽をCDで購入していた。

成田空港で、ぼくは、
『見上げてごらん夜の星を』を
どうしてもききたくなったのだ。

海外できく日本の曲は、
日本できくのとは、違う響きを
ぼくたちに届けてくれる。
東ティモールに再び戻り、
ぼくは、この曲をきいていた。

あっ、とぼくは気づく。

この曲は、ぼくが小学校6年生の
ときに、音楽会で歌った曲である。
記憶に強く残っている曲である。

あっと気づいたのは、
この曲の「歌い方」で、ぼくは
間違っていたということである。


見上げてごらん夜の星を
小さな星の小さな光が
ささやかな幸せをうたってる

坂本九『見上げてごらん夜の星を』


平井堅のアルバムでは、
当時の技術を駆使して、坂本九と
平井堅のデュエットをつくりだして
いる。

この曲の一音一音に耳をすませていたら、
坂本九が歌う「ささやかな幸せを」の
「な」が、とてもやさしく、音を抜く
ような感じで、発声されていることに
気づいたのである。

「ささやか」ということは、
軽やかで、肩に力をいれないイメージ
であるのに、
ぼくは、逆に重たいイメージで、力を
込めて歌ってしまっていたのである。

もしかしたら、ぼくは、「ささやかな
幸せ」を、肩肘はって追い求めてきた
のではないかと、その矛盾に目を
向けさせられたのだ。

ただ、坂本九も、曲の最後のフレーズで
この歌詞を歌うところでは、
この「な」に、力を込めて発声している。

「ささやかな幸せ」が手に入らない
もどかしさが、この最後のフレーズに
凝縮されてはじけたように、ぼくには
聞こえる。

東ティモールで、
東ティモールのコーヒー生産者たちと
「しあわせ」をつくっていく。

そのなかで、ぼくは、
坂本九のこの美しい歌に、大切な
気づきをもらった。
そんなことを思い出す。

16年を経て長女に届いた、奇跡の
年賀状は、長女・大島花子氏に、
感動とともに、どのような「気づき」
を与えたのだろうか。

その奇跡の年賀状をつたえるニュース
は、ぼくに、東ティモールできいた
『見上げてごらん夜の星を』と
そのときの気づきを思い起こさせて
くれた。

ここ香港できく『見上げてごらん
夜の星を』も、ぼくの心奥の深くに
響いていく。

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テトゥン語で生きる ー 東ティモールにて。

東ティモールでは、テトゥン語(Tetum, Tetun)で
生きてきた。

「テトゥン語で生きる」とは、文字通り、テトゥン語が
できないと、会話ができないということ。
英語が通じない。

首都ディリであれば、英語でも生きていくことができる。
ただし、首都ディリを離れると、テトゥン語あるいは
インドネシア語(あるいはその地方の言語)ができないと
生活が困難である。

仕事場は、首都ディリとコーヒー生産地のレテフォホ。
レテフォホに行く時は当初「通訳」をお願いしていた。
ただし、毎回というわけにはいかない。
いつしか、必要性にかられ、ぼくは、テトゥン語を
覚えていった。

これまでに学んできた英語と中国語とは異なり、
最初から「話す」「聞く」から始めた。
そして、後に、文法や単語の綴りを学ぶ。
日本での言語教育と逆の方法。
文字というより音で学ぶ。日々の会話で学ぶ。

その内、日常会話はもとより、スタッフとの会議、
コーヒー生産者との会議、さらには農業省での
プレゼンテーションもテトゥン語でできるようになった。

この言語習得経験は、学ぶことが多かった。

  1. どんな言語でも学ぶことができるという感覚
  2. 「必要性」という環境設定の有効性
  3. 「音」から学ぶことの有効性

世界で約80万人が話すというテトゥン語。

「テトゥン語ができるようになったとしても
80万人しか喋れないからなあ」

当初はそう思っていた。

しかし、テトゥン語で生きていくことから多くを
学んだ。
そして、東ティモールの人たちと生きていくことが
できた。

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「手を振る女性」が伝えたかったこと ー 東ティモール騒乱から。

2006年のある日の午後、ぼくは、ディリにある
事務所から車で5分程離れたところにある住居へと
急いでいた。

スタッフが運転する車両の助手席に座り、
誰もいない通りを見ながら、状況を分析していた。
首都ディリの治安が悪くなってきている状況である。

通りには誰もいない。車両もまったく見られない。
静けさが漂い、ぼくたちの車両の音だけが響く。

ディリの繁華街の入り口にさしかかったところで、
ぼくたちは、通りで女性二人が手を振っていることに
気づいた。
どうやら、ぼくたちに向かって、手に振っている。

ぼくたちは、仕事に関係のない人たちは
車両に載せないことになっている。
だから、「何だろう」と思いながらも、先を
急ぐことにする。

そこの交差点を左に曲がれば、すぐに住まいに
到着するが、一方通行であるため、迂回しなければ
ならない。

車両は迂回して、先ほどの地点からすぐのところにある
住まいのコンパウンド前で止まる。

ぼくは車両の後部座席から荷物を取り出し、
スタッフに気をつけるように言葉を残して、
コンパウンド内に入る。

コンパウンド内に入った途端に、後ろで銃声が鳴り響く。
一発の銃声ではなく、連続的な銃声である。

住まいに入ると、テレビでは、BBCが
首都ディリの緊急事態を報道している。
目の前の通りでの銃撃戦のことを報道している。

スタッフは大丈夫だろうか、と心配になる。
車両だから、走り抜けてくれているだろう。

「手を振る女性たち」は大丈夫だろうか。
何が起こっているかの状況もわからず
助けの手を差し伸べることもできなかった。

その後、幸いにも、「一般人」が死亡したケースは
報道されなかった。
でも、時に、ぼくは、手を振る女性たちが
差し向けた「眼」を思い出す。

そして、その「眼」は、東ティモールを超えて、
紛争地域などで助けを求める人たちの眼に重なって
ぼくには見えるのだ。

世界の各地で、人々は、手を振っている。

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緊急事態の「全体像」は後にならないとわからない ー 東ティモール騒乱から

緊急事態が起きたときの行動は、
その緊急事態の「中」にいるときには
わからない。

後になって、緊急事態が収まり、
振り返るときになって、ようやく「全体像」が
見える。

「全体像」が見えないからこそ、
その場でどのように対処したらよいか、
どのように対応したらよいか、
の判断は非常に難しい。

「2006年の東ティモール騒乱のとき・・・」
という話をする際、
ぼくは、すでに「振り返る視点」で
その状況を語っている。
全体像を前提にしながら、語っている。

しかし、まさに「そのとき」は、
「東ティモール騒乱」などの「名前」が
つけられる前の状況に置かれていたわけだ。

だから、「そのとき」に対応する際に
大切なことは次のことである。

① 「パニック」にならないこと
② 身の安全を確保すること
③ 可能な限り状況を把握・分析し判断すること

これらのために、日頃から、情報を収集し、
可能な限りでシミュレーションをしておくことが
大切である。

今の時代、誰が、どこで、どんな事態に
遭遇するかは、わからない。

「世界で生ききる」ために、
ぼくたちは、「安全」を「当たり前」とせずに、
準備して、いつでも「起動」できる状態にして
おきたい。

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東ティモール騒乱 ー 東京での一本の電話

2006年、東ティモール騒乱。
独立後平和を取り戻していた東ティモールの街に
また銃声が響く。

ハンドルを失った東ティモール政府は、オーストラリア
政府など、他国に支援を要請。
同日には、他国の軍隊が上陸する。
翌日には、ぼくたちは、インドネシアのジャカルタに
退避。それから、東京に戻ってくる。

他国の軍隊が首都ディリに入ったものの、
情勢は即座にはよくならない。

首都ディリに戻りたい一心のぼくは、
関連機関から許可がおりず、日本で待機する。

夕方、仕事場から家に電車で帰宅途中のぼくに、
一本の電話が入ってきた。
国外からの電話で、緊急事態と思い、
ぼくは、静かな電車の中で、携帯電話に出る。
やはり、東ティモールのスタッフからだった。

「事務所が危ないんです。事務所の備品を退避
させますが、よいですか?」

緊迫した声だった。
首都ディリの事務所の周辺が不安定性を増していた。
事務所の警備員と事務所周辺のコミュニティが、
事務所を守ってくれている。

携帯電話が使えない日本の電車だったが、
ぼくは、静かに、話す。
ぼくは、次の停車駅である板橋駅を待って、
そこで下車することにした。

事情を聞き、ぼくは「ゴー・サイン」を出し
安全第一を伝えて電話を切る。

電話を切ると、板橋駅のプラットフォームの
静けさに包まれる。

東ティモールの首都ディリと東京。
ぼくは、その「間」で、不思議な感覚に捉えられる。

そして、ぼくは思いを、ディリに戻る日に向けて
投げかける。

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最初の「扉」となった書籍 - "The Success Principles"

自己成長・自己啓発関連の書籍の中で、最初の「扉」となった書籍は
Jack Canfield “The Success Principles”であった。

2007年初頭、休暇を過ごすために東ティモールから来ていた
香港の書店で、ぼくは、たまたま、この書籍を手にする。

ずっしりと厚さと重みのある書籍である。
「成功原則」が67項目にわたり書かれた書籍で、600頁以上もある。
(日本語翻訳版は、項目を絞って出版されている。
読みやすい英語であるから、ぜひ英語でも読んでほしい著作である。)

600頁以上もあるけれど、休暇中のぼくは、シドニーシェルダンの
小説を読むがごとく、時間も忘れてのめりこんでしまった。

「成功原則」は、できるものから、すぐに実行に移した。
東ティモールに戻ってからも、実際にワークショップで使ってみた。

ぼくにとっては、すぐに「結果」が伴うものではなかったけれど、
今の時点から見ると、いろいろな仕方で「結果」が出てきている。

また、書籍は、様々なトレーナーやスピーカーや著者などの情報に
充ちていて、ぼくは、この書籍を「基地」として、様々に探求して
いくことになったのだ。

書籍は、このような「基地」があると、その拡がりをみせていく。
そのような書籍に出会えたことは、奇跡である。

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「旧正月」を生きる

香港や中国、その他中華圏では、毎年1月あるいは2月には、旧正月を迎える。
旧暦による正月で、時期は毎年変わる。
2017年は1月28日が旧正月にあたる。

海外に出て、旧正月が生活や仕事の中に入り込んできたのは、
東ティモールでのことであった。

東ティモールでは、中国系インドネシア人がビジネスを展開していた。
例えば、建設用の資材などを扱う店などである。
ぼくたちも、プロジェクト用の資材を調達する必要があり、
しばしば店に足を運んだ。
ただし、旧正月前後は、資材の入荷がストップした。
店の「ボス」である中国系インドネシア人も、休暇を過ごすため
国外に出てしまい、交渉ごとなどが滞ってしまう。

だから、旧正月を見越し、プランを立てる必要があった。
2007年に香港に移住してからは、旧正月は完全に生活の一部となった。
香港では、旧正月に始まる3日間は、法定の休日である。

今でも、香港の方や華人の方から、聞かれる。

「日本は、旧正月は祝うのですか?」

「日本は旧正月は祝いません。1月1日です」と回答をしながら、
時折、ぼくは考え込んでしまう。
日本も明治維新の前は旧正月を祝っていたという。
旧正月を祝っていた日本人は、どのような感覚を持っていたのだろう。

旧正月を祝うことには、すっかり慣れてしまった。
旧正月が明けると、新年が完全に明けたことを感じる。

春の訪れを微かに感じながら、自分の1年プランをレビューし、
ぼくは1年の一歩を進む。

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東ティモール, 成長・成熟 Jun Nakajima 東ティモール, 成長・成熟 Jun Nakajima

「偏見」からの出口

「〇〇人」とか、「貧困」とか、人は「カテゴリー」を使いながら生きている。

でも、それらカテゴリーには、時代の「偏見」や世間の「偏見」が染みついている。
メディアの情報や他人が口にしていた情報が積もる。
それら「偏見」は、想像の中で肥大する。
肥大した「偏見」は、いつしか「偏見」の衣をぬぎさる。
「当然のこと」として、ぼくたちの思考に住みつくのだ。

「偏見」からの出口のひとつは、「固有名詞」との出会いだ。
「〇〇人」であれば、「〇〇人である」人と直接に出会っていくこと。
一緒に話をしたり、行動を共にしていくことである。

東ティモールにいるとき、ぼくは、「ポルトガル人」に対して「偏見」的なものを抱いていた(東ティモールは、昔はポルトガル領であった)。

でも、あるとき、実際に「ポルトガル人」の方と共に休日を過ごすことがあった。
その際に、ポルトガル人の「カテゴリー」が消えていく感覚をぼくはもった。
カテゴリーではなく、個人になったのだ。

「カテゴリー」は、生きていく上で有用である。
「考える」ことは、「物事を分ける」ことである。
カテゴリー化することである。
そのことで、人類が得たものは、はてしなく大きい。
他方で、失ってきたもの、弊害をもってきたものも大きい。

だから、「偏見」からの出口は、「固有名詞」との出会いである。
そして、他者からは、ぼくも「固有名詞」である。
ぼくが、他者の偏見に対して「出口を照らすこと」もできる。

「世界を生ききる」上で、大切なスタンスである。

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東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima 東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima

東ティモールでの「バックミュージック」

人生には「バックミュージック」が流れている。
あの風景、あの場面、あの状況に、バックミュージックが流れている。

東ティモールに住んでいたとき、二つの音楽が、ぼくのバックミュージックであった。

一つは、五輪真弓の「心の友」である。
インドネシアでも大ヒットしたこの曲は、東ティモールでも人々の心を捉えていた。
なぜか、この曲は、東ティモールという土地にしみこんでいく。

そして、もう一つは、ブライアン・アダムスの音楽である。
2005年前後、ぼくは、東ティモールで、ブライアン・アダムスの音楽をいろいろな場面で聞いていた。
信号もない首都のディリ。夜はわずかに光る街灯。その風景の中で、ブライアン・アダムスが、バラードを歌う歌声は、心情の深くに響くメロディーを届けていた。

音楽は、その場所にいるときにも増して、その土地を離れ耳にするときに、ぼくたちの心情をさらっていく。
音楽は、時間も、そして空間も超えていく。

2017年1月。ブライアンが、香港のステージで、「(Everything I Do) I Do It For You」を歌うのを聴きながら、ぼくの心情は「あの世界」に運ばれていく。

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東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima 東ティモール, 海外・異文化 Jun Nakajima

紛争と本屋 - 東ティモール騒乱から

2006年、東ティモールでの騒乱から逃れ、インドネシアのジャカルタを経由して東京に戻る。

銃弾が飛ぶ音がぼくの意識に残る。
小さな、はじけるような音がすると、身体がびくっと反応する。

車両から降りて、建物の敷地に入った途端に、後ろで銃撃戦が繰り広げられる。
何時間にも渡って、断続的に、銃撃音が鳴り響く。

銃弾だけでなく、石が投げつけられる怖さから、ひらけた空間が居心地が悪い。
一度、ぼくたちの車両が、走行中に大きな石を投げつけられたことがある。
幸いにも、車窓ではなく、車体にあたった。

戦争は、ぼくを、どこか、荒涼とした心情空間に投げ込む。

東京に戻ったぼくは、気がつくと、渋谷の本屋さんに立ち寄っている。
本屋さんに広がる、様々な想像や物語が、ぼくの荒涼とした心情空間に色彩を与え、そっと癒してくれる。

東京に戻り、そんな日々が続く。
本屋さんで見つける、何でもないタイトルに、心が温まる。

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