五輪真弓『心の友』に交響する東ティモールの大地と人びと。- シンプルで素朴な世界にひびく音楽。
香港のぼくが住んでいるところの界隈は、数日前の台風によって木々たちが倒され、台風が去って2日経ってからも、通路が木や枝にさえぎられている。...Read On.
香港のぼくが住んでいるところの界隈は、数日前の台風によって木々たちが倒され、台風が去って2日経ってからも、通路が木や枝にさえぎられている。
少し遠くに足を運ぶと、公園のベンチの支えが折れていたり、その他施設も被害を受けているのが目に入ってくる。
そんな風景にも、太陽は何事もなかったように強い陽射しをおくり、青い空がうすい雲をたなびかせて、彼方までひろがっている。
そして、また次の台風が近づいている。
ぼくは、五輪真弓の『心の友』が聴きたくなり、曲をさがして、再生ボタンをおす。
『心の友』のメロディーと歌詞が紡ぐ音の響きが、心身の奥の方に届く。
五輪真弓の『心の友』という曲を知ったのは、東ティモールに住むようになってからであった。
1980年代にインドネシアで『心の友』がヒットし、インドネシア領であった東ティモールにも、曲が流れていたのだという。
なぜ、インドネシアで、五輪真弓の『心の友』がヒットしたのかはそれほどわかっていない。
『心の友』は、五輪真弓のアルバム『潮騒』(1982年)に、アルバムの曲のひとつとして収められている。
当時インドネシアのラジオ関係者が五輪真弓の日本でのコンサートに行き、そこで購入した『潮騒』をインドネシアのラジオで流したことで人気を博したことがきっかけと言われる(参照:wikipedia 五輪真弓)。
ぼくが東ティモールに住んでいた2004年、隣国のインドネシアのスマトラ島沖で大地震が起きた。
ぼくの所属していたNGOは、時間をおかずにチームを送り、緊急支援にあたった。
被災者を支えるために、五輪真弓はインドネシアの歌手デロンと共に歌う「Kokoro no tomo」を収録し、世に放つことになる。
東ティモールでは、一緒にはたらいていた東ティモール人スタッフたちも、それからコーヒー生産者の仲間たちも、『心の友』を知っていた。
より正確には、「知っている」ということ以上に、そこに感情や思いが重ねられているのを感じる。
独立前は、インドネシア占領下にあった東ティモール。
それでも、インドネシアと東ティモールの間にある「大きな垣根」を超えるようにして、あるいはすりぬけるようにして、音楽は人びとの心の中に届いていた。
『心の友』は、それぞれに、字義通りサバイバルの環境に生きなければならない人たちの表面にはりめぐらされた「盾の殻」をつきぬけて、つかの間、シンプルで素朴な人たちのほんらいの姿を浮き上がらせる契機となったように、ぼくには思える。
ぼくは、東ティモールで、ギターで『心の友』のコードを弾きながら、日本語の歌詞を口ずさむ。
この歌とメロディーが、はるか昔から、この土地で育まれてきたような、そんな錯覚を覚える。
社会学者の大澤真幸は、人間の特徴として「大勢が一緒に笑うこと」があり、笑いは共感のメカニズムとして機能することに着目し、笑いが進むと音楽になると考えていると語っている(『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社)。
笑いが進むと、音楽になる。
音楽の背後には、対人関係があると、大澤真幸は考えている。
シンプルで素朴な人たちの「共感」が、シンプルな曲である「心の友」を素地に、東ティモールの大地の上で交響したのかもしれない。
「…愛はいつもララバイ、旅に疲れた時、ただ心の友と、私を呼んで…」とサビが歌われる『心の友』の最初は、こう歌いだされる。
あなたから苦しみを奪えたその時
私にも生きてゆく勇気が湧いてくる…
五輪真弓『心の友』
長い旅路の中で自身の苦しみに砕かれながらも、他者の苦しみに気を配り、満面の笑顔を投げかけたであろう東ティモールの人たち。
その笑顔は他者の苦しみを幾分か和らげ、そして「私にも生きてゆく勇気」を与えてゆくなかで、日々立ち上がってきたであろうと、東ティモールの人たちと3年半ほど一緒に暮らしたぼくは思う。
「音楽」と共に世界を生きてゆくこと。- 時間と空間を超えてゆく音色と躍動。
世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。...Read On.
世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。
この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。
1)ぼくと「音楽」
浜松という土地(「音楽のまち」。今は「音楽の都」を目指しているという)に生まれたことも影響してか、ぼくは小さいころから「音楽」と暮らしてきた。
ヤマハの音楽教室に通ってピアノをひく。
小学校の音楽会で、ピアノで伴奏をする。
中学のときには、バンドを組み、ロックやパンクの世界にひきこまれ、エレキギターをひく。
高校では、軽音楽部に所属してバンドを組み、ロックやオールディーズといったジャンルで、歌を歌い、ドラムをたたく。
大学では、バンド活動はしなかったけれど、ビートルズやオールディーズにはまり、東京の中古レコード店などをまわる。
「音楽」が、常に、ぼくと共にあった。
「共に」ということ以上に、生きていくうえでのひとつの軸であったし、生きるということの内実でもあった。
それは、ぼくの生きることの、なくてはならない土台と地層を形成し、その後の生活のなかで、ぼくを確かに支えてくれることになる。
2)地理と音楽
日本の外に出たときも/出てからも、音楽はぼくと共にあり、それは一層大切なものとなった。
大学2年を終え、ワーキングホリデー制度でニュージーランドに渡るとき、ぼくは「バックパッカー」と呼ばれる小型のギターを持って行った。
オークランドに住んでいるときは、日本食レストランのアルバイトが休みの日など、オークランドのメインストリートに座り、ギターを片手に歌った。
路上で一度歌ってみたかったのだ。
「Nothing’s gonna change my world…」(ビートルズの曲「Across the Universe」の一節)と歌いながら、通りがかりの人たちは、アジア人の若者に不思議なまなざしを向けていた。
オークランドを離れ、ニュージーランド徒歩縦断を目指したときも、ギターはぼくと共にあった。
歩きながらギターはひけないけれど、ひとり歩きながら、よく歌を口ずさんだものだ。
また、キャンプ場や路上でテントを立てては、ラジオの音楽番組に、耳をすませていた。
徒歩縦断がかなわず、トランピングにかえることになり、山を歩き、山小屋でそっとギターを奏でたりした。
その音色が、他国から来ていた人の心にしみいることもあった。
仕事をするようになって、赴任した西アフリカのシエラレオネ。
アフリカの人たちはダンスが好きだ。
ダンスを軸に、伝統的なアフリカ音楽、そして現代的なダンス音楽が流れる。
隣国リベリアから流入していた難民の人たちのための難民キャンプでは、伝統的なアフリカ音楽にあわせて、子供たちも大人たちも踊る。
シエラレオネの人たちも、コミュニティで踊る。
また、仕事のための移動はオフロード続きで過酷であったけれど、車のドライバーは、音楽のカセットテープを用意してくれて、音楽を流してくれる。
セリーヌ・ディオンの歌声に、疲れと悲しみ(の堆積)がやわらぐ。
紛争という「傷」がいったんは忘れられ、ひびわれた「世界」の断片が、ダンスと音楽のなかで、つながる。
次の赴任地、東ティモール。
アフリカとは異なり、音楽の色調は、ギターを片手にメロディアスな歌、といったところだ。
東ティモールの人たち誰もが知っている、五輪真弓の曲『心の友』。
ギターを片手に、ぼくはコードを鳴らせて、東ティモールの人たちと歌う。
コーヒー生産者の子供たちとは、ギターの音色にあわせて、いっしょに国家を歌う。
コーヒー生産者たちの組合グループには、ギターを寄贈して、コミュニティ活動の促進を手助けする。
東ティモールも、音楽と共にあった。
香港にうつってからは、もっぱら、音楽をきく方にまわる。
ポップ、ロック、クラシック、ワールド・ミュージックなど、さまざまな一流の音楽を、ライブできく。
世界という「地理」、日本の外に生きることの「空間」をひろげながら、しかし、ぼくの土台・地層としての「音楽」はぼくを支える。
大変なときに、ぼくは音楽に支えられる。
それから、音楽は、世界の人たちとの「つながり」を、地理(空間)を超えて創出してゆく。
ぼくの自分という「内なる世界」と、地球という「外なる世界」でのつながりを、音楽が支えてきてくれた。
3)歴史と音楽
「地理」(空間)だけではない。
「歴史」(時間)をも、音楽は超えてゆく。
ぼくの「過去の記憶」(おそらく、ぼくだけでなく多くの人の「記憶」)は、音楽と共にある。
ニュージーランドの記憶も、シエラレオネの記憶も、東ティモールの記憶も、音楽がうめこまれている。
また、クラシック音楽をきくなかで、ぼくは、ぼく個人の記憶ではなく、そのなかに「歴史の記憶」がうめこまれているように聞こえることがある。
そして、音楽は、「未来」への希望の音色でもある。
映画『戦場のピアニスト』のピアノの音色が「希望の音色」であったように、人をひきつけてやまない音楽は、人の「深い地層」におりてゆき、そこに光を点火する。
音楽は、ただ生きることの歓喜という「基層」にうめこまれた光の芯である。
このように、歴史と地理、時間と空間を超えてゆく音楽に、ぼくは支えられ、そして多くのことを教えらてきた。
村上春樹が語るように、文章を書くときに大切なことは「リズム」であることを、ぼくも音楽から学んだ。
仕事も、同様に、リズムと躍動感が大切である。
リズムと躍動感は、生きることと同義でもある。
生きていくうえで「何かがおかしくなる」ときは、きまって、リズムがおかしくなるときだ。
だから、ぼくは、「Add Some Music To Your Day」というビーチボーイズの歌のように、自分の生に「音楽」の音色と躍動を注ぎつづけていきたい。
ビーチボーイズはこの曲で「太陽の下で皆が自分の日に音楽を加えれば、世界はひとつになることができる…」と歌っている。
「世界がひとつ」になるかどうかはわからないけれど、世界のさまざまな場所で、世界のさまざまな人たちがそれぞれの仕方で、音楽を通じて、生きることの歓びという地層におりてゆくことで、肯定的なものが語られ創りだされることを願いながら、ぼくは音楽の音色と躍動を自分の生にそそぎたい。
浦久俊彦著『138億年の音楽史』。- 「音楽とは何か」という問いを奏でる。
浦久俊彦著『138億年の音楽史』(講談社現代新書)に、深く触発される。...Read On.
浦久俊彦著『138億年の音楽史』(講談社現代新書)に、深く触発される。
この書のモチーフは、「音楽とは何か」ということに対する真摯な問いである。
浦久俊彦にとって「これからの一生をたったこれだけに費やしても悔いはない」と言う根源的な問いが、この書の通奏低音として鳴り響いている。
実際に書かれているのは、「音楽から見た世界ではなく、世界から見た音楽、世界にとっての音楽、そして世界としての音楽」である。
ジャズやクラシックやロックなどの「音楽」だけに思考を狭めるのではなく、世界のあらゆる<音楽>のことである。
だから、もちろん、「音楽」のジャンルも関係ない。
CDの棚の「B」に、ビートルズとベートーヴェンが並んでいるようなところに行ってみたいという浦久だが、ジャンルを信じず、音楽があまりにも「芸」になりすぎた時代のなかで、狭い檻に閉じ込められた「音楽」を、ひろい<音楽の時空間>に解き放つのが、本書である。
本書の音楽は、はじめに「音」があった、という「ビッグバンの音」からはじまる。
目次を見ても、その特異性は際立つ。
【目次】
はじめに
第一章 宇宙という音楽
第二章 神という音楽
第三章 政治という音楽
第四章 権力という音楽
第五章 感情という音楽
第六章 理性という音楽
第七章 芸術という音楽
第八章 大衆という音楽
第九章 自然という音楽
第十章 人間という音楽
おわりに
参考文献
浦久俊彦は、作家・文化芸術プロデューサーであり、パリで音楽学・歴史社会学・哲学を学んでいる。
本書も、彼の真摯な姿勢と問いに支えられながら、自由に、<音楽>が語られている。
浦久俊彦が、「音楽とは何か」にどのように答えているかの全体と詳細は、実際に読んで確認してほしい。
ぼくとしては、その「答え」よりは(それも大切だけれど)、浦久俊彦がこの「広大な問い」に向かう文章とそのリズム、行間、さらには新書としては多い「参考文献リスト」に触発される。
個別に出てくる知見も、まだぼくのなかで、ダイジェストしきれていない。
そして何よりも、「音楽とは何か」という問いが奏でる響きに惹かれる。
「答え」よりも、その「問い」が導き手として開かれる世界が、もっと大切なのだ。
ところで、古代インドには「世界は音である」という世界観がある。
このような宇宙は波動であり音でできているという考え方は、素粒子物理学の「スーパーストリング理論」が科学的な論を展開しているという。
この理論のエッセンスは、世界中のあらゆる物質は粒子ではなく「振動体」であること。
つまり、この理論によると、世界は音でできている。
ぼくは「世界は音である」という考え方と感覚に惹かれる。
そんな風に、音や音楽を感じていたい。
本書では、これだけに限らず、まさに138億年を感じさせる音楽が奏でられている。
浦久俊彦は、本書の「はじめに」の最後のところで、「音楽とは何か」についての、彼なりの考え方をこう書いている。
ぼくは、こう考える。音楽とは、音に「かたち」を与えるものだ、と。あえて解説はしない。どうか読み進めるうえで、このことばを頭の片隅に留めておいていただきたい。もしかすると、この本を読み終えたとき、まるでジグソーパズルの最後のピースがピタッと収まるように感じられるかもしれない。…
浦久俊彦著『138億年の音楽史』(講談社現代新書)
音楽とは、音に「かたち」を与えるもの。
これは本書への「誘い」の言葉であるけれども、それは、ぼくたちの生きる世界で音と音楽が奏でられる時空間への「誘い」の言葉でもある。
だから、頭の片隅に留めておきたい。
音に「かたち」を与えるものが音楽だ、と。
「Lose myself」に「肯定性の道しるべ」をみる。- レディオヘッド、チクセントミハイ、真木悠介、宮沢賢治。
ロックバンドのレディオヘッド(Radiohead)のアルバム『OK Computer』が名盤として時代をつくった1997年から20年が経過した。...Read On.
ロックバンドのレディオヘッド(Radiohead)のアルバム『OK Computer』が名盤として時代をつくった1997年から20年が経過した。
レディオヘッドは20周年を迎えた2017年、『OK Computer OKNOTOK』というアルバムを世におくりだした。
1997年の『OK Computer』のリマスター版、曲のシングル盤に収められた曲、それから未発表曲と、23曲を収録している。
未発表曲の「I Promise」は素敵な曲だ。
ボーカルのトム・ヨークは、この曲を、オリジナルの『OK Computer』に収録しなかった理由は、「われわれはその曲が十分によいとは思わなかったから…」と語っている。
ぼくは、個人的には、アルバム『OK Computer』はそれ自体でひとつの完結性・完全性をつくっていたから、他の曲が十分によくても、その完全性をくずしてしまうことが理由ではなかったかと、勝手に思っている。
少なくとも、ぼくは『OK Computer』というアルバムのひとつの宇宙が好きだし、それと同時に、未発表曲の「I Promise」も好きだ。
それはそれとして、「lose myself」ということを、レディオヘッドを出発点にして、その可能性を書こうと思う。
1)レディオヘッドの曲「Karma Police」における「lose myself」
レディオヘッドの名盤『OK Computer』には、「Karma Police」(カーマ・ポリス)という変わった名前の曲が収められている。
「カーマ・ポリス、この男を逮捕してくれ」と始まる歌詞は、少し気だるい曲調と共に、決して明るいものではない。
歌詞の意味も、語られる以上のことは、不明瞭だ。
そのような曲「Karma Police」は、最後の方で転調し、トム・ヨークはこんな風に叫ぶ。
For a minute there
I lost myself, I lost myself
For a minute there
I lost myself, I lost myself
Radiohead “Karma Police” 『OK Computer』
オリジナル版が出た1990年代後半、ぼくは、この「lost myself」が気になっていた。
「lost oneself」は、辞書(※下記は英辞郎)で引くと、概ね3つの日本語訳となる。
- 自分を見失う
- 道に迷う
- 夢中になる、没頭する
トム・ヨークが「Karma Police」を歌うとき、それは1の意味と感情で歌われているのだろうけれど、ぼくには少し違うように聞こえたのだ。
先取りしておけば、第一に、「自分を見失う」ことの先に開かれる可能性ということ、そして第二に、「夢中になる」という意味合いである。
日本語訳の1と2は否定的な意味合いであるのに対して、3は反対に肯定的な意味合いをもっている。
2)「夢中になる」ー フロー状態(チクセントミハイ)
昨今、創造性やピークパフォーマンスが注目されるなか、心理学で「フロー」と言われる精神状態とその条件が見直されている。
もともと、心理学者のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)が提唱した概念である。
簡潔に言えば、人が完全に集中し、活動にのめりこんでいるような状態のことを言う。
まさに、「夢中になる」状態のことである。
自分というものを忘れて(失って)、集中する体験である。
チクセントミハイは、1990年に、フローを体系的にまとめて著作を出した。
それが、最近の創造性・クリエイティビティなどが注目されるなかで、よく言及されるようになっている。
Steven Kotlerの著作『The Rise of Superman: Decoding the science of Ultimate Human Performance』や『Stealing Fire: How Silicon Valley, the Navy SEALs, and Maverick Scientists Are Revolutionizing the Way We Live and Work』などは、チクセントミハイの「フロー」を現在的な文脈で追っている。
いずれにしても、「自分を見失う」という経験が、ここでは、肯定性に転回されている。
3)エクスタシー論(見田宗介=真木悠介)
社会学者の見田宗介=真木悠介は、著書『自我の起原』の「7.誘惑の磁場」という章の中で、「Ecstacy」について次のように書いている。
…われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
Ecstacyは、個の「魂」が、〔あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が、〕このように個の身体の外部にさまよい出るということ、脱・個体化されてあるということである。…
真木悠介『自我の起原』岩波書店
「生の歓喜」は、「自己」とよばれる経験の核の部分が、個の身体の外部にさまよい出るという経験である。
つまり、いかほどか、自分が自分でなくなるような経験である。
見田宗介=真木悠介は、このことに、生物学という地点から、辿りついている。
4)<にんげんがこわれるとき>(宮沢賢治)
見田宗介は、このような「自我の解体」ということを、宮沢賢治の詩にみている。
宮沢賢治『小岩井農場』のなかに、ふしぎな言葉がでてくる。
幻想が向ふから迫ってくるときは
もうにんげんの壊れるときだ。
宮沢賢治『小岩井農場』
「にんげんのこわれるとき」という経験は、自分をなくす経験である。
しかし、その「自我の解体」は、肯定性により転回されている。
見田宗介は、宮沢賢治の『青森挽歌』の詩に、この詩人の「肯定的な転回」をひろいだしている。
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつまでもまもつてばかりゐてはいけない
宮沢賢治『青森挽歌』
「いつまでもまもってばかりいてはいけない」と、宮沢賢治は書いている。
自衛のために「自己」を保つぼくたちだけれど、いつでも、そうであっては広い<世界>にでていくことはできない。
「lose myself」は、ひとつの方法である。
体験のなかに、夢中になって没入していくことで、体験を体験として感じとることができる。
このように、「lose myself」は、「夢中になる」という仕方で、肯定性を身に帯びることができる。
他方、ぼくたちは、生きるという経験のなかで、「lose myself」という痛い経験にさらされることもある。
自分を見失い、道に迷い、ぼくたちは途方にくれる。
自分が自分ではないように感じ、心を痛め、脱力感にみまわれ、身体に異常をみる。
しかし、それは、必ずしも、ぼくたちを否定性の世界に導くものではなく、それは「肯定性の道しるべ」でもある。
「lose myself」の行く末に、これまでとは異なる「myself」をつくりだすこともできる。
その地点から振り返ってみると、これまでの「myself」がとても小さい檻に閉じ込められていたことを知ることになる。
宮沢賢治の声がきこえる。
…いつまでもまもってばかりいてはいけない。
村上春樹に教わる「クラシック音楽を聴く喜び」。- ピアニストLeif Ove Andsnesの音楽を体験として。
ぼくが、クラシック音楽を聴くようになったのは、日本の外で、仕事をするようになってからだ。正確には歓びをもってクラシック音楽を聴くようになったことである。...Read On.
ぼくが、クラシック音楽を聴くように
なったのは、日本の外で、仕事をする
ようになってからだ。
正確には歓びをもってクラシック音楽
を聴くようになったことである。
西アフリカのシエラレオネでの仕事を
していた頃が、ぼくの記憶と感覚の中
では、ひとつの「分水嶺」のような
時期であった。
紛争が終結したばかりのシエラレオネ
での経験と、ぼくがクラシック音楽を
聴くようになったことは、
決して、ばらばらに起こったことでは
ないと、ぼくは思っている。
(ブログ「紛争とクラシック音楽」)
クラシック音楽の美しい調べの深い
地層には、人の悲しみや心の痛みが
堆積している。
シエラレオネで、紛争の傷跡を身体で
感じ、東ティモールの銃撃戦の只中に
身を置いた後に、ぼくは香港に移って
きた。
香港で、村上春樹著『意味がなければ
スイングはない』(文藝春秋)を読む。
村上春樹が、音楽のことを「腰を据え
てじっくり書い」た本である。
ジャズ、クラシック、ロックとジャンル
を超えて、主に取り上げられた人物は
次の通りである。
・シダー・ウオルトン
・ブライアン・ウィルソン
・シューベルト
・スタン・ゲッツ
・ブルース・スプリングスティーン
・ゼルキンとルービンシュタイン
・ウィントン・マルサリス
・スガシカオ
・フランシス・プーランク
・ウディー・ガスリー
とりわけ、ぼくに響いたのは、
なぜか、シューベルトであった。
シューベルトについて語られた章だけ、
「作品名」がタイトルにつけられていた。
「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850
シューベルトのピアノ・ソナタの中で、
村上春樹が「長いあいだ個人的にもっと
も愛好している作品」(前掲書)である。
…自慢するのではないが、このソナタは
とりわけ長く、けっこう退屈で、形式的
にもまとまりがなく、技術的な聴かせど
ころもほとんど見当たらない。いくつか
の構造的欠陥さえ見受けられる。…
村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)
ぼくはなぜか、(聴いてもいないのに)
この作品に惹かれた。
村上は、この曲を演奏するピアニストを
15名リストアップする。
そして、「現代の演奏」の中から素晴ら
しい演奏として、
ノルウェイのピアニストである、
Leif Ove Andsnesを挙げている。
村上の「迷いなしのお勧め」である。
ぼくは、まるで先生にしたがうように、
LeifのCDを購入し、彼の演奏を聴く。
村上がそうしたように、他の演奏家の
演奏ともできるかぎり比べながら。
でも、最後にはLeifの演奏に戻ってくる
のであった。
その後は、Leif Ove Andsnesのピアノ
ソナタD850を、ぼくはよく聴くように
なった。
疲れた日の夜遅くに、
あるいは空気が凛とする早朝に。
その内に、ぼくは、香港で
クラシック音楽を生演奏で聴く楽しみ
を見つけた。
一流の演奏家が香港を訪れるのだ。
日本に比べ、おそらく、チケットも
手にいれやすい。
2015年、香港。
ぼくは、Leif Ove Andsnesの演奏を
直接に聴く。
マーラー室内管弦楽団と共に演奏する
ベートーヴェンのピアノ協奏曲。
Leif Ove Andsnesは、
通常指揮者が立つ場所にピアノを置き、
管弦楽団の方向に向かって指揮をとり、
そして聴衆に背中と指の柔らかさを
見せながら、しなやかにピアノを演奏する。
自由で、親密な空気が流れてくる。
この「形式」にも驚かされたが、
Leifとマーラー室内管弦楽団がつくる
音楽に、ぼくは、文字通り、心を奪わ
れてしまった。
こんなに美しく、心の深いところまで
届くクラシック音楽を、ぼくは、それ
までの人生で聴いたことがなかった。
そして、その後も、まだ聴いていない。
この体験は、ぼくの心の中に、
暖かい記憶として静かに残っている。
村上春樹は、次のように、語っている。
思うのだけれど、クラシック音楽を
聴く喜びのひとつは、自分なりの
いくつかの名曲を持ち、自分なりの
何人かの名演奏家を持つことにある
のではないだろうか。それは場合に
よっては、世間の評価とは合致しない
かもしれない。でもそのような
「自分だけの引き出し」を持つことに
よって、その人の音楽世界は独自の
広がりを持ち、深みを持つように
なっていくはずだ。…
村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)
ぼくは、このことを、村上春樹から
教わった。
押し付けがましさのかけらも感じず、
まったく自発的に。
Leif Ove Andsnesの演奏する
シューベルトの「ピアノ・ソナタ
第十七番ニ長調」D850から、
Leif Ove Andsnesが香港で魅せて
くれたマーラー室内管弦楽団との
奇跡的な演奏へと続いていく、
「個人的体験」を通じて。
…僕らは結局のところ、血肉ある
個人的記憶を燃料として、世界を
生きている。もし記憶のぬくもり
というものがなかったとしたら、
…我々の人生はおそらく、耐え難
いまでに寒々しいものになって
いるはずだ。だからこそおそらく
僕らは恋をするのだし、ときと
して、まるで恋をするように音楽
を聴くのだ。
村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)
ぼくは、納得してしまうのである。
個人的体験の記憶のぬくもりを
燃料として、ぼくは、この世界で
生きていることを。
ぼくにとっての「香港と村上春樹とブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズ)」。- 名曲「God Only Knows」に彩られて。
人も、本も、音楽も、たまたまの偶然によって、すてきに出会うこともあるけれど、ときに「すてきな出会いに導いてくれる人」に出会うという偶然に、ぼくたちは出会うことがある。...Read On.
人も、本も、音楽も、
たまたまの偶然によって、
すてきに出会うこともあるけれど、
ときに「すてきな出会いに導いて
くれる人」に出会うという偶然に、
ぼくたちは出会うことがある。
ぼくにとって、作家の村上春樹は、
「すてきな出会いに導いてくれる人」
である。
ちなみに、村上春樹は、ぼくにとって
- 「物語」を語ってくれる人
- 「生き方」を指南してくれる人
- 音楽や本へと導いてくれる人
である。
今回は、3番目、音楽への出会いを
導いてくれたことの話である。
ぼくが香港に移ってきた2007年の末
のこと。
村上春樹は、和田誠と共に、
『村上ソングズ』(中央公論新社)
という著作を出版した。
本書では、29曲が取り上げられ、
村上春樹が英語歌詞の翻訳と解説を、
和田誠が絵を描く形で、つくられて
いる(内2曲は和田誠が解説)。
29曲の内2曲をのぞいて、すべて
村上春樹が選んだ曲たちである。
その一曲目に、
「1965年に発表されたビーチボー
イズの伝説のアルバム『ペット・
サウンズ』に収められたとびっきり
美しい曲」(村上春樹)である、
「God Only Knows」
(「神さましか知らない」)が
とりあげられている。
ビーチボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンが作曲した
名曲である。
…God only knows what I’d be
without you.
…君のいない僕の人生がどんなもの
か、それは神さましか知らない。
「God Only Knows」
村上春樹が「いっそ『完璧な音楽』
と断言してしまいた」くなる音楽で
あり、
ビートルズのポール・マッカートニ
ーが「実に実に偉大な曲だ」と言う
名曲である。
ぼくは、村上春樹の翻訳と解説を
読みながら、この曲のメロディーと
コーラスに想いを馳せていた。
当時は、今のように、Apple Music
ですぐに検索して聴くなんてことが
できなかった。
だから、香港のCauseway Bayにある
HMVに行って、ビーチボーイズの
名盤『ペット・サウンズ」を購入する
しかなかった。
昔(1950年から1960年代)の音楽が
好きなぼくは、以前にも、もちろん
『ペット・サウンズ』は聴いていた
けれど、この曲は覚えていなかった。
二十代前半くらいまでは、村上春樹が
ビーチボーイズを語るときによく話題
に挙げるビートルズを、ぼくはよく
聴いていたこともある。
さて、名盤『ペット・サウンズ』をCD
で購入して、聴く。
「God Only Knows」は、すてきなメロ
ディと言葉の響きを届けながら、ぼく
から、なつかしさの感情もひきだす。
ちょっと調べていると、
映画『Love Actually』の最後のシーン
で流れていた曲だとわかる。
クリスマス後の空港で、人が再会して
いくシーンである。
「空港での再会」は、海外をとびまわ
っていたぼくにとって、とても印象的
なシーンであったから、ぼくはよく
覚えていた。
香港で生活をしていたぼくにとって、
名曲「God Only Knows」は、
なぜか、心に響いた。
それからも、ブライアン・ウィルソン
のCD・DVDで、ブライアンがこの曲
を歌うのを聴いていた。
香港に生活を移し、30代を生きるぼく
には、ビートルズよりも、ビーチボーイ
ズ(ブライアン・ウィルソン)の方が、
心に響いていた。
村上春樹は2007年の『村上ソングズ』
に引き続き、2008年に、
ジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』
の翻訳書(新潮社)を出版した。
時は過ぎ、2012年8月、
ビーチボーイズが結成50周年を迎えて
再結成しての世界ツアーを敢行。
香港にもやってきたのである。
ブライアン・ウィルソンの苦悩の個人史
などから再結成の世界ツアーはないと
思っていたから、驚きと歓びでいっぱい
であった。
ブライアン・ウィルソンも70歳を迎え、
他のメンバーも高齢である。
コンサートは休憩を途中はさんで、
第一部と第二部の3時間におよんだこと
に、ぼくはさらに驚かされることになった。
この香港公演で、
ブライアン・ウィルソンは、
名曲「God Only Knows」を、
ぼくたちに、聴かせてくれた。
彼の歌声に耳をすませながら、
ぼくはなぜか、目に涙がたまったことを
覚えている。
それから3年が経過した2015年。
ブライアン・ウィルソンの半生を描いた
映画「Love & Mercy」が上映された。
ぼくは、映画館に足をはこび、
ブライアン・ウィルソンの苦悩の半生を
観る。
ぼくにとっては、ぼくの内面の深いとこ
ろに届く映画であった。
そして、2016年、ビーチボーイズは、
再度、香港公演にやってきたけれど
(HK Philとの共演)、
今度はブライアン・ウィルソン抜きの
メンバー構成であった。
ブライアン・ウィルソンは、個人で
世界公演に出ていたのだ。
ビーチボーイズの香港公演は
これまたすばらしいものであったけれ
ど、ブライアンのいない公演は寂しい
ものでもあった。
同年、ブライアン・ウィルソンは、
半生を綴った自伝を発表している。
そして、この自伝の存在が、
ぼくにブライアン・ウィルソンを
思い出させたのだ。
よくよく観てみると、
ぼくの香港10年は、村上春樹とブライ
アン・ウィルソンに、
「音楽」を通じて彩られた10年でも
あったことに、ぼくは気づいたのだ。
香港
x
村上春樹
x
ブライアン・ウィルソン
ぼくの中で、この組み合わせによる
化学反応がどのように起こったのかは
わからない。
でも、確かに、それはぼくの中で、
香港と村上春樹とブライアン・ウィル
ソンだったのだ。
追伸:
村上春樹がブライアン・ウィルソンに
ついて書いている本は下記です。
●『意味がなければスイングはない』
(文芸春秋)
●『村上ソングズ』(中央公論新社)
●『ペット・サウンズ』(新潮社)
『意味がなければスイングはない』の
中で、ブライアンを取り上げ、
ブライアンの名曲「Love and Mercy」
について文章を書いています。
村上春樹は、ハワイのワイキキで、
ブライアンの歌う「Love and Mercy」
に、胸が熱くなる経験をしています。
映画「Love & Mercy」のタイトルは
この名曲から来ています。
映画の最後に、この曲がながれます。
映画館でぼくは、村上春樹と同じよう
に、その曲と歌声に含まれる切実な
想いに、胸が熱くなりました。
あらゆる「技術」に共通するものを追って。- 野口晴哉の整体とカザルスの音楽。
整体の創始者といわれる野口晴哉。野口晴哉の存在を知ったのは、いつだっただろうか。すでに20年以上前になると思う。「自分を変える道ゆき」を探し求めていたときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。...Read On.
整体の創始者といわれる野口晴哉。
野口晴哉の存在を知ったのは、いつだった
だろうか。
すでに20年以上前になると思う。
「自分を変える道ゆき」を探し求めていた
ときに、野口晴哉の存在に、ぼくは出会った。
野口晴哉は1976年に逝去したから、
もちろん、著書等を通じての出会いである。
当時は、ちくま文庫の『風邪の効用』など
にふれたことを、記憶している。
2007年に、ぼくは香港に来て、
人事労務のコンサルティングをしていく
ことになる。
「コンサルティング」という領域は、
学びと経験を深く積んでいけばいくほど、
質が高まっていくようなところがある。
自分のコンサルティングを磨いていく
なかで、香港で、ふとしたことから、
野口晴哉の書籍に「相談」したくなった
ことがあった。
「相談相手」は、野口晴哉の『治療の書」
である。
野口晴哉が「治療」を捨てた書である。
人間を丈夫にするためには「治療」では
駄目だと、野口が「転回」して独自の道を
つくっていくことの、画期的な書である。
ぼくは、この書籍を日本から取り寄せた。
ぼくも、コンサルタントとして、
問題が起きてからの「対処」よりも、
問題の「予防」により力を投じはじめて
いたときであったから、
この書は、ぼくの心に響いた。
『治療の書』と共に、日本から取り寄せた
野口晴哉の書の中に、『大絋小絋』がある。
この書が、ぼくの心をつかんだ。
この書は野口晴哉の草稿から取り出された
エッセイ集である。
このエッセイ集の最後に、
「カザルスの音楽に“この道”をみがいて」
というエッセイが添えられている。
野口晴哉はクラシック音楽を愛していて、
特に「カザルスのバッハ組曲のレコード」
は、空襲による火事のときも持ち出すほど
であったという。
野口は、整体指導にもクラシックのレコー
ドを使用していた。
理由の一つは、
「自分の技術に時として迷いがでるから」
と、野口は書いている。
カザルスは、野口にとって「本物」であっ
た。
自分自身の技術を、この「本物」に負けな
いように磨いていくことを心がけていたと
いう。
野口晴哉はこのように書いている。
人間の体癖を修正したり、個人に適った体
の使い方を指導している私と音楽とは関係
なさそうだが、技術というものには、どん
な技術にも共通しているものがある。
カザルスは完成している。私は未完成であ
る。懸命に技術を磨いたが、五年たっても
十年たってもカザルスが私にのしかかる。
野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
当時、さっそく、ぼくはカザルスのバッハ
の組曲を手にいれて、聴いた。
海外に出るようになって、ぼくはクラシッ
ク音楽を聴くようになっていたが、
カザルスのバッハの組曲の「完成度」は
ぼくにも大きくのしかかってきた。
それからというもの、ぼくは、
このカザルスの音色に、何度も何度も
戻っては、自分の「技術」の未完成に
直面していた。
野口晴哉は、それから、カザルスを聴く
ことの中に、自分の「変化」を聴きとる。
…夢の中でも、カザルスは大きく、私は
小さかった。それが始めてカザルスの
音楽を聴いて以来、二十四年半で、カザ
ルスが私にのしかからなくなった。
野口晴哉『大絋小絋』(全生社)
この文章を書きながら、久しぶりに、
ぼくは、カザルスのバッハの組曲を
聴いている。
ぼくの中で「変化」はあるだろうかと。
カザルスは依然として、ぼくに、大きく
のしかかってくる。
カザルスの「完成度」が、ぼくの「未完
成度」を照らしている。
そして、それと同時に、ぼくの前に、
野口晴哉という「巨人」が立っている。
野口晴哉の文章が、ぼくにのしかかって
きている。
野口晴哉は、カザルスが自分にのしかから
なくなってからの感想として、
「うれしいが張り合いがなくなった」と、
綴っている。
ぼくは、野口晴哉とカザルス、そして
野口晴哉の存在を教えてくれた見田宗介
という「巨人たち」を前に、
「張り合い」を、自身にめぐらしている。
「ささやかなしあわせ」- 東ティモールできく坂本九
今年2017年1月に、
今は亡き歌手・坂本九氏の年賀状が
悲劇の死から16年を経て長女に届く
という「奇跡」が起きた。
ニュースによると、
1985年に開かれた筑波万博にて
坂本九氏が未来の長女に宛てた
直筆の年賀状だったという。
亡くなる4ヶ月前に投函され、
それが、今、届く。
ぼくは、坂本九の名曲『見上げて
ごらん夜の星を』の美しいメロディー
を思い出す。
東ティモールで仕事をしていた
10年程前。
ぼくは、一時帰国していた日本の
成田空港で、歌手・平井堅の
このカバー曲が収められている
CDアルバムを購入した。
当時は、インターネットがまだ
今ほどは発達していなかった。
デジタルダウンロードや
YouTubeなどで、海外どこに
いても音楽が楽しめるような
状況ではなかった。
だから日本に一時帰国したときに、
好きな音楽をCDで購入していた。
成田空港で、ぼくは、
『見上げてごらん夜の星を』を
どうしてもききたくなったのだ。
海外できく日本の曲は、
日本できくのとは、違う響きを
ぼくたちに届けてくれる。
東ティモールに再び戻り、
ぼくは、この曲をきいていた。
あっ、とぼくは気づく。
この曲は、ぼくが小学校6年生の
ときに、音楽会で歌った曲である。
記憶に強く残っている曲である。
あっと気づいたのは、
この曲の「歌い方」で、ぼくは
間違っていたということである。
見上げてごらん夜の星を
小さな星の小さな光が
ささやかな幸せをうたってる
坂本九『見上げてごらん夜の星を』
平井堅のアルバムでは、
当時の技術を駆使して、坂本九と
平井堅のデュエットをつくりだして
いる。
この曲の一音一音に耳をすませていたら、
坂本九が歌う「ささやかな幸せを」の
「な」が、とてもやさしく、音を抜く
ような感じで、発声されていることに
気づいたのである。
「ささやか」ということは、
軽やかで、肩に力をいれないイメージ
であるのに、
ぼくは、逆に重たいイメージで、力を
込めて歌ってしまっていたのである。
もしかしたら、ぼくは、「ささやかな
幸せ」を、肩肘はって追い求めてきた
のではないかと、その矛盾に目を
向けさせられたのだ。
ただ、坂本九も、曲の最後のフレーズで
この歌詞を歌うところでは、
この「な」に、力を込めて発声している。
「ささやかな幸せ」が手に入らない
もどかしさが、この最後のフレーズに
凝縮されてはじけたように、ぼくには
聞こえる。
東ティモールで、
東ティモールのコーヒー生産者たちと
「しあわせ」をつくっていく。
そのなかで、ぼくは、
坂本九のこの美しい歌に、大切な
気づきをもらった。
そんなことを思い出す。
16年を経て長女に届いた、奇跡の
年賀状は、長女・大島花子氏に、
感動とともに、どのような「気づき」
を与えたのだろうか。
その奇跡の年賀状をつたえるニュース
は、ぼくに、東ティモールできいた
『見上げてごらん夜の星を』と
そのときの気づきを思い起こさせて
くれた。
ここ香港できく『見上げてごらん
夜の星を』も、ぼくの心奥の深くに
響いていく。
紛争とクラシック音楽
最近はクラシック音楽を聴くようになった。
香港で、クラシック音楽を聴く。
香港には、世界から一流の奏者がやってくる。
規模が小さい香港だけれど、これはよいところだ。
Lang Lang以外であれば、チケットも比較的容易に手にはいる。
それにしても、ぼくにとってのクラシック音楽は、小学生から
10代にかけて退屈極まりない音楽であった。
だから、ぼくは、ロックやパンクロックにはまっていく。
10代は、そのような音楽のバンド活動に熱中していったのだ。
時を経て、ぼくは、海外ではたらくようになる。
最初の赴任地は、西アフリカのシエラレオネ。
赴任した当初2002年は、紛争終結後間もない時期である。
国連が組織する平和維持軍が駐屯する国であった。
シエラレオネでは、紛争の傷跡を見て、心身の深い痛みを
負う人たちと接触し、暮らし、仕事をしていく。
そのような生活をおくっていくなかで、いつからか、ぼくは
クラシック音楽を聴くようになっていた。
そもそも、クラシック音楽が生まれた時代は、
戦争や紛争が絶えない時代でもあった。
クラシック音楽の美しい調べには、痛みや悲しみが
埋め込まれているのだ。
クラシック音楽を聴きながら、ぼくは、音楽がつくられた時代の
人たちのことを思う。
そして、この現代において戦争や紛争に翻弄されてきた人たちの
痛みや悲しみを感じ、祈りと微かに光る希望を抱く。