香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港のレストランで、「周囲」がどうしても気になってしまうこと。

香港のレストラン(レストランと言っても、いろいろだけれど、とりあえず)で食べていると、どうしても「周囲」が気になって仕方がないことになる。

香港のレストラン(レストランと言っても、いろいろだけれど、とりあえず)で食べていると、どうしても「周囲」が気になって仕方がないことになる。

誰かと思いっきり話し込んでいれば別だけれど、ふつうに食べていると、周りが気になってしまう。

マインドフルネスの実践で、食べ物と食べることに集中しようと思ってみても、「周囲」の雰囲気や声や音や動きやらが、どうしてもぼくのマインドに侵入してくるのである(というのは逆の言い方で、ぼくのマインドが周りの事物をキャッチしてしまう、というべきだろうが、感覚としては逆の言い方のほうがしっくりくるのだ)。

周囲はスピーディーで、パワフルで、「出来事」に充ちている。

香港独特の「速さ」が独特の雰囲気をつくり、パワフルな声と音が店内にひびき、なにかしらの「出来事」がおきる。

「出来事」は、香港の人たち(ぼくもいまは「香港に住む人」だけれど、なにはともあれ)にとってみれば「なんでもないこと」であるのだろう。

見るからに、余程のことが起きないかぎり、誰も周りを気にしていないようだし、それぞれに食事を楽しんでおられるのだ。

でも、ぼくの視覚や聴覚は、周りが気になる。

人であふれかえる店内、並んでいる人たち、店員さんたちのスピーディーさ、店員さんに要望やクレームを伝える人たちの様子などが、視覚や聴覚などから入ってくる。

それだけでなく、香港に11年以上住みながらも、ぼくはいまだに、香港の人たちがどのメニューをよく注文し、どのように食べるのかなども気にかかるから、失礼のないように、目を向ける。

また、ぼくは東京のレストランなどで働いていた経験があるから、レストランぜんたいを捉えながら、どう動き、どうサービスを提供するのかなどの視点もわりこんでくるから、さらに周囲への関心がかさなってくる。

こんなことで、香港の独特さ、異文化の諸相、レストランのマネジメントなどの状況や視点がぼくのなかで駆動されながら、ますますぼくは、レストランで周囲が気になってしまうのだ。


ところで、他のところに住んでいたときはどうであっただろうかと、ぼくは記憶をほりおこす。

東ティモールのレストランではどうだったか、西アフリカのシエラレオネのレストランではどうだったか。

それぞれの場所でも気になっていたと記憶しているのだが、でも、周囲への「気のとられやすさ」のようなところでは、香港が群を抜いているように、ぼくは感じる。

過去の記憶よりも「いま」の体験の鮮烈さの力が働いているのかもしれないけれど、前述したように、香港では、周囲はスピーディーで、パワフルで、「出来事」に充ちている、ということがあるのだと思う。

それらが総体として、ぼくの視聴覚にうったえてきてやまないのだ。

そんなことで、今日も、香港のレストランでやはり、「周囲」が気になってしまうのであった。

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香港, 身体性 Jun Nakajima 香港, 身体性 Jun Nakajima

香港で、「(家で)冷房を使用しない生活」をしながら。- なるべく自然な風に身体をひたして。

香港は朝晩は少し肌寒くなってきた(とは言っても気温では20度前後)ところですが、ふと、2018年の香港の夏も、ここ過去5年ほどと同様に、家で「冷房・エアコン」を使わずにすごしたことを思いました。


香港は朝晩は少し肌寒くなってきた(とは言っても気温では20度前後)ところですが、ふと、2018年の香港の夏も、ここ過去5年ほどと同様に、家で「冷房・エアコン」を使わずにすごしたことを思いました。

今年の夏も、家では冷房をつけず、扇風機(兼、通風機)だけですごしたことになります。

朝晩は少し肌寒くなっても、お昼頃には25度前後まで気温があがり、陽射しはまだ夏の余韻をのこしているので、扇風機(通風機)は風をよわくして、(街中ではクリスマスの飾りが所々で見られる)11月になっても使っています。


「香港で冷房・エアコンを使用せずに過ごしていること」を香港に住んでいる人たちに伝えると、複雑な表情が返ってきたりします。

その背後には、やはり、とても蒸し暑い香港の気候が横たわっているわけです。

「そんなことしなくても…」というところでしょうか。

ぼくとしてはストイックさを追求しているわけでもないし、このことを自慢するようなことでもないし(「自慢」することなんてなにもないのですが)、ただ、香港のショッピングモールやオフィスや諸々の施設などが年がら年中冷房がふきわたっているため、身体をきづかい、せめて家くらいはできるだけナチュラルにと思ってはじめただけでした。

「環境にやさしく」ということは思わないでもないのですが(将来はもっと自然との共生を突きつめてゆきたいと思いながらも)、いまは扇風機を動かしてますし、とても暑い日は上述のような場所で冷房にあたることもあるので、そのような高尚なことを掲げる気はありません。

あえて言えば、とても蒸し暑い日はやっぱり暑いと感じながら、でもどこかで楽しみながら、冷房・エアコンを使用しない生活をおくっていたのです。

なお、冷房・エアコンを「使用していない」ということは、冷房・エアコンが「ない」ということではありません。

冷房・エアコンは「ある」のであり、その気になれば、スイッチオンすることができます。

そんなわけで、ふと気がつけば、今年の「香港の夏」も、家で冷房・エアコンを使わずに夏をのりきったなぁと、まだ陽射しがつよくふりそそぐ香港で、思ったのでした。


とは言いつつも、注意書きとして追加的に書いておかなければいけないのは、香港のどこでもできることではなくて、ぼくの住んでいるところが、風通しのよくて、比較的静かなところだから、このようなことを選択することができるということです。

どこの都会も似たようなところがあると思いますが、香港の高層マンションが密集していて、車通りがはげしかったりする場所ですと、空気や騒音などの問題があります。

ぼくの住んでいるところの周りは海や緑がひろがっているため、窓をあけひろげて、自然な空気をじゅうぶんに部屋にまねくことができることが、冷房・エアコンを使わない選択肢を準備してくれるものなのです。


より自然な空気のなかで生活していると、やはり、身体がそれに順応していきます。

それと同時に、しかし、冷房・エアコンの環境に対する「慣れ」が減じていくようなところがあるため、上着などを用意して柔軟に対応しようと心がけるのですが、それでも冷房による独特の「冷え」が身体にひびくことがあります。

そのような「結果」や「影響」を(文字通り)体験しながら、いろいろと感じたり、楽しんだり、考えたりしています。

「エアコン」を人間が発明し(たしか、最初に産業用として使われたようなことを、ある作家が語っていた)、それが都会生活のすみずみにまで行き渡りながら、人間は、生活し働くことの、大きな可能性をおしひろげてきました。

「エアコン」がなくなったら、現在の世界の経済活動などは、かなり減速してしまうだろうし、影響ははかりしれないと思うところです。

でも、それが、人間の身体という「内部の自然」と、地球環境という「外部の自然」との臨界線に、さまざまな問題や課題を生成させていることも事実です。

とはいえ、そのようなことのはるか手前のところで、ぼくは、なるべく自然の風にこの身体をひたすことを望んで、家の窓をあけひろげているのです。

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香港と日本の「距離」について。- 普段の日常における「日本の事物」の<溶けこみ具合>から。

香港と日本との「距離」ということを考えることがあります。

香港と日本との「距離」ということを考えることがあります。

「物理的な距離」ということではなく(それは飛行時間で4時間ほどの距離なのだけれど)、あるいは「人と人との距離」のようなことでもなくて、日本の事物が、ここ香港にどの程度に溶けこんでいるのか、という<距離>のことです(物理的な距離と人と人との距離が、いくぶんか、日本の事物の溶けこみ具合に影響してはいるのですが、それはさておき。)。

「日本の事物」は、中国本土でつくられるメイド・イン・チャイナなども含めて、ゆるやかな事物としておきます。

そんなふうにして、ぼくを中心として半径数キロ内に範囲を照準すると、「日本の事物」がいっぱいにあふれています。

このことは香港に10年以上住んでいると「ふつう」のことになってしまったのですが、少しでも客観的に見れば、やはり「ふつう」のことではないように思うわけです。


近くのショッピングモールに向かい、コンビニエンスストアに入ると、そこはすでに「日本の事物」であふれているのがわかります。

日本の「お菓子類」、それから日本の一部「雑誌」(ファッション雑誌)も、若干値段は高くなりますが、そこで難なく手に入れることができます。

お菓子類は、ポテトチップスやチョコレート、ポッキー、のど飴などなど、ありとあらゆるものが並んでいます。

インスタントラーメン類もあって、とりわけ香港では欠かすことのできない出前一丁が並んでいます。

そのような商品と共に、日本の漫画などの「キャラクター」が目に入ってきます。

場所や時期によりますが、ドラえもん、キティちゃん、ちびまる子ちゃんなどなど、代わる代わる、キャラクターたちが店舗や商品を彩ることになります。

この様相が、一軒のコンビニエンスストアのなかにひろがっています。


コンビニエンスストアを出て歩いてゆくと、日系の「パン屋」さんがあります。

日本に住んでいたころに食べていたパン、さらには子供のころに食べていたようなパンまで、揃っています。

店舗によってはケーキもあり、ケーキが日本直送であったりします。


ショッピングモールを歩くと、「お菓子屋」さんがあります。

お菓子が店内所狭しと並んでいるのですが、日本のポテトチップスやチョコレート、駄菓子、さらにはインスタントラーメンやレトルトカレーなどの食材でいっぱいです。

駄菓子は、あの「うまい棒」だってあるから、はじめて見ると、やはりびっくりします。


それから、大きなスーパーマーケットに行くと、お菓子や上記の食材などに加えて、日本からの野菜やフルーツが並んでいます。

いちごやりんごもあるし、今なら柿だってあります。

ぼくの生まれ故郷である「浜松」や「静岡」のものも、ごくごくふつうに並んでいるのは、うれしいのと同時に、やはり不思議な気持ちがします。

野菜やフルーツに加えて、さらに、卵や納豆、ヨーグルトやチーズ、日本のお米、うどんなど、一通り揃っています。

このあたりの品揃えは、この10年ほどでより充実してきたようにも思います。

念のため、これらのスーパーマーケットは、日系のスーパーマーケットではなく、香港系のスーパーマーケットです。

いやはやどなたが買うんだろう、と思って、レジの前で並んでいると、日本の卵を手にしている方が目の前にいらっしゃったこともありました。


スーパーマーケットを出て、歩くと、今度は、日系のレストランが現れます。

以前別のブログで書きましたが、例えば、吉野家があり、いつも人でいっぱいです。

日系ではなくても、日本食、例えば、お寿司屋さんなどがあって、こちらも、いつも人がいっぱい並んでいます。

香港のフードチェーンのお店に入っても、そこに、日本のカレーやとんかつやらの日本食が、メニューに堂々とポジションを獲得しているのを見たりすることもできます。


それから、日系のヘアカット専門店、クリーニング店なども視界にはいってくることになります。

香港系のドラッグストア(薬局)に立ち寄ると、日本のブランドの製品が、あれもこれもと、あちこちに並んでいるのを見ます。

衣類だって、ユニクロにはじまり、さまざまなものが徒歩圏内で、辿りつくことができます。

こんなふうに、延々と、「日本の事物」が、香港の日常のなかに溶けこんでいます。

街を行き来する自動車や工事現場の重機、エレベータやエスカレーターなどの施設、エアコンなどの電化製品などを含めていけば、さらに、香港における「日本の事物」のマップは、密度とひろがりをみせることになりますが、ひとまず、この辺でとめておきます。


思い起こせば、ぼくがほかに住んだ国々、ニュージーランドでも、西アフリカのシエラレオネでも、東ティモールでも、「日本の事物」は、もちろん、それほど日常に溶けこんでいません。

「それほど…」というのは、これらの場所では、日本の自動車や重機や電化製品などは見られるからです。

でも、「香港における日常生活」の視野から見渡すと、上で長々と書いたような、食べ物や日用品などが、これらの場所では、すっぽりと抜け落ちることになります(東ティモールの(数少ない)スーパーマーケットにも、なんと「納豆」があったのですが、それは冷凍された納豆でした)。

この「すっぽり」度が、そのまま、香港における「日本の事物」の溶けこみ具合であり、その溶けこみ具合のはるかなひろがりと深さを、感じざるをえないことになります。


だから何?、と言われるかもしれませんが、この「溶けこみ具合」は、香港で実際に生活してゆくなかでしか、見えてこないことだから、書いています。

貿易にかんする統計値を見ているだけでは、あるいは旅行や出張で訪れてコンビニエンスストアなどを訪れるだけでは、一部しかわからないのではないかと思うのです。

だから、10年以上を香港に住んできて、その溶けこみ具合の一端を書いておこうと思ったわけです。

でも、書きはじめて思ったのですが、日々の生活においてなんとなく知っている/感じている以上に、日本の事物が香港に日常に溶けこんでいて、それは列挙しきれないほどであるのです。

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香港で、お粥を買いにでかけて遭遇する「小さなドラマ」の連続。- 出来事は向こうからやってくる(?)。

香港のとあるフードチェーンのお店に出かけてゆき、そこでお粥を注文します。

香港のとあるフードチェーンのお店に出かけてゆき、そこでお粥を注文します。

これまでに幾度か、行くたびに「小さなドラマ」が起こるので、今日はそのお話です。


その前に「お粥」についてですが、日本ではお粥は調子が悪かったりするときに食べるものですが、ここ香港ではお粥は日常の食事のなかに溶け込んでいます。

「麺と粥」の双方をメニューに組み込んでいるレストラン・食堂が、香港のいたるところにあって、なかにはだいぶ昔からたたずまいを変えずにきているお店も見られます。

「麺」も「粥」も、それらをベースとし、さまざまな具やトッピングをほどこすことによって、メニューに掲載される数は一気にひろがりをみせることになります。

お粥では、肉類を選んだとして、ひき肉もあれば、レバーなど内臓系もあれば、肉団子もあればと、かなりのひろがりをみせるわけです。

それらが、日常の食事の選択肢として、香港の街のなかに不可欠的に存在しています。


そんな選択肢を、ときにぼくは選びとります。

「ときに」は、「それほどお腹は空いていないけれど、食べないのもよくないし、食べるなら温かいもの」と思うときだったりします。

そうして、とあるフードチェーンのお店まで出かけていって、お粥をテイクアウトで注文するわけです。

入り口の壁にあるメニューから選んで、そこでまず注文し、お金を払います。

それから、レシート兼引換券をもらい、そこに記された番号がよびだされるまで待ちます(テイクアウトでなければ、カウンターにならんでオーダーが出てくるのを待つか、あるいは時間がかかるオーダーであればやはり番号がよびだされるまで待ちます)。


注文したお粥ができるまで、少し時間がかかるのは、もちろんプロセスがあるからです。

何時間も煮こんである白粥は大釜のなかで、ひきつづき絶えることなく、ふつふつと音をたてているのですが(この白粥の煮こみ具合が半端なく、お米の原型をとどめないほどに「とろとろ」となる)、注文が入ると、必要な量の白粥が小さな鍋にうつされ、そこで各種の具と一緒になって、さらに火が加えられることになります。

火が充分にとおると、器にいれられ、そのうえにネギやらなんやらのトッピングがされて、できあがります。


そんなこんなで、いつも、ぼくはお粥を注文し、手に食券を片手に、ときにお粥が準備されるのを眺めながら待ち、そして出来あがると店員さんにテイクアウト用につつんでもらって、家に持ち帰ります。

ある小さなドラマは、「仕方ないなぁ」ではじまりました。

家に帰って、とりわけるときに、注文したものと違う「具」が入っているのを見つけたのでした。

今さらお店にもどるのもたいへんなので、そのままいただきました(どこかの誰かはもしかしたら、ぼくが注文したお粥を食べているのだろうと思いながら)。


小さなドラマは続きます。

やはり「それほどお腹は空いていないけれど、食べないのもよくないし、食べるなら温かいもの」と思って、お店に出かけてゆき、前とは異なるお粥を注文しました。

お粥が出来あがって、店員さんがテイクアウト用につつもうとしてくれているときに、ある女性がぼくの近くにやってきて、お粥が載ったトレーを指差しながら、なにかしゃべりはじめました。

よくわからないままにぼくは自分の番号通りにお粥をうけとったのだと説明したのですが、どうやら、彼女のお粥が、ぼくのトレーに間違って載せられているのだということで、ぼくは中身がよくわからないままに、彼女のトレーのお粥ととりかえたのでした。

お礼を伝えて家への帰路で、それにしても容器の中身がほとんど見えないのにどのように見分けたのだろうと思ったのでしたが、家に着いてとりわけるとき、彼女が正しかったことを再確認しました。


このお店では小さなドラマが続くなぁと思っていたら、小さなドラマはまた続くのでした。

別のお粥をテイクアウトで注文して、いつものように、出来あがるのを待ちながら、引換券をふと確認していたら、どうやら、テイクアウト用に注文が通っていないことに気づいたのでした。

気づいたときにカウンターにあがってくる番号を確認すると、ぼくのお粥は出来あがっていて、また他の料理がまもなく出来あがるところで、ぼくはカウンターごしに、「これはテイクアウトで頼んだのです」と急いで伝え、なんとかテイクアウト用の容器に入れ替えてもらうことができました。

夕食時で店内は混乱ぎみのなか、店員さんたちも余裕がなくなって(見たところ)機嫌を損ねはじめていたところでもあり、ぼくは笑顔でお礼を伝えたのでした。


これら「小さなドラマ」は、要は店員さんが「お粥を置き間違った」だけだったりするのですが、立て続けに3回続き、少し考えてしまうわけです。

そんなことを考えていて、20歳前後のころ、アジアを旅しているとき、「出来事は向こうからやってくる」ように感じたことを、ぼくは思い出します。

ふつうに旅をしていても、なにかが起きたりして、旅の日々が「小さなドラマ」に彩られるわけです(いろいろな色合いで彩られるのですが)。

日本にいるときは、ふつうに暮らしていて、ふつうに日々がすぎてゆくなかで、アジアの旅の「小さなドラマ」は向こう側からやってくるように、ぼくは感じたのでした。

今でこそ「ふつう」のなかにもさまざまな色彩があって、その色彩の現れ方はそれを経験する側の「見方」や「経験の仕方」によってくるのだと思うのですが、それでも、アジアの旅をふりかえったとき、普段とは異なる仕方で、いろいろな人や異文化との接点において「小さなドラマ」がむしろあっち側からやってきたように感じるのです。

そして、香港での、なんでもない日々に、ただお粥を買いに行くということだけのなかに「小さなドラマ」がやってくることを、ぼくは経験しています(うがってみれば、ぼくがそのような現実をひきつけているだけなのだとも言えるのですが、まぁ、なにはともあれ、さすがに3回続くと、考えてしまうのです)。

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香港のスターフェリーに乗る「わずか何分」の世界。- 「素晴らしいクルージングのように思えた」(沢木耕太郎)。

作家の沢木耕太郎は、その著書シリーズで有名な『深夜特急』(新潮社)の旅で、まずはじめに「香港」へと飛ぶ。

作家の沢木耕太郎は、その著書シリーズで有名な『深夜特急』(新潮社)の旅で、まずはじめに「香港」へと飛ぶ。

「深夜特急」の旅から、おそらく35年ほど経過してから、沢木耕太郎はその旅をふりかえりながら、「香港」の日々についてつぎのように書いている。


香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。…自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)


今でこそ、いわゆる食堂や屋台は(場所によっては)減り、ショッピングモールなどのレストランは決して「安い」とは言えないけれども、沢木光太郎が「素晴らしいクルージング」のように思えた「フェリー」は、いくつかのルートが閉鎖になりつつも、今でも香港島と九龍をつないでいる。

香港島の「セントラル」や「ワン・チャイ」から九龍の「チム・サー・チョイ」へ、あるいはその逆の航路で、フェリーは、香港に住む人たち(また観光で来ている人たち)を日々乗せて、航行している。

この「スター・フェリー」は、その歴史をさかのぼると、1888年にまで時計の針をもどすことになるのだという。

その後、香港島と九龍のあいだに位置するビクトリア湾をつなぐルートに、電車と車道(トンネル)が加わったあとも、フェリーは人々を乗せ、またそうありながら、「香港」を香港らしく彩っているのだ。

フェリーの片道料金は、週日/週末、上甲板/下甲板などによって異なっているけれど、たとえば週日の大人一人の料金は2.7香港ドル(約40円)である。

わずかな時間だけだけれど、この料金で乗るフェリーは、沢木耕太郎が語るように、「素晴らしいクルージング」だと思うこともできるのだ。

ぼくは香港に住みながら、スターフェリーに幾度も幾度も乗り、乗るたびにとても爽快で、「香港にいるんだ」というのを感じ、「素晴らしいクルージング」なんだと思うことだってできるのである。


沢木耕太郎がこのような「感覚」を抱いていたことを読みながら、ぼくは、真木悠介(社会学者の見田宗介)が著書のなかで引用するマルクスのことばを、ぼくは思い起こす。

真木悠介は、名著『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)のなかで、『経済学・哲学草稿』におけるマルクスのつぎの箇所に着目している。


「世界にたいする人間的な関わりはすべて、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛する、こと、要するに人間の個性のすべての器官は、対象的な世界の獲得 Aneignung なのだ。」「私的な所有はわれわれをひどく愚かにし、一面的にしてしまったので、われわれが対象を所有 haben するときにはじめて、対象はわれわれのものであるというふうになっている。」マルクスはこのように書く。…

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)


「人間の個性のすべての器官は、対象的な世界の獲得 Aneignung なのだ」という明晰な理解と実践は、徹底的にひらかれた「所有」(=対象的な世界の獲得 Aneignung)ともいうべきものである(あのマルクスが、そもそもこんなふうに考えていたのか、と目を見開かせるような考え方である)。

沢木耕太郎が、香港でフェリーに乗るとき、フェリーも、周りにひろがる香港の風景も、ビクトリア湾も、もちろん、沢木耕太郎の(私的な)「所有 haben」の対象ではない。

そんなことは、指摘するまでもなく、あたりまえのことだ。

けれども、大切なことは、それでも、沢木耕太郎にとっては、フェリーも、香港の風景も、ビクトリア湾も、徹底的にひらかれた「所有」として、つまり<対象的な世界の獲得 Aneignung>として、個性の器官すべてによって獲得(所有)されたものなのだ。


沢木耕太郎が駆使したのは、ただ「見る、聞く、嗅ぐ、感じる、思考する、直観する、感じとる、意欲する、活動する」という、人間に備わった器官であった。

旅という、解き放たれた世界のなかで、ふだんとは異なる仕方で、沢木耕太郎は周りの人や世界との関わりをつくってゆくということのなかに、このような鮮烈な感覚を「ひらいた」のだ。

ぼくはそう思う。

そして、もちろん、香港のスターフェリーだけでなく、ぼくたちは、日々、ぼくたちの周りにひろがる「世界」とのかかわりのなかで、「人間の個性のすべての器官」を駆使して、「対象的な世界の獲得 Aneignung 」をすることができる。

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沢木耕太郎『深夜特急』の旅のはじまりとしての「香港」。- 沢木耕太郎にとっての<香港>。

作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。


作家・沢木耕太郎の作品に、『深夜特急』(新潮社)という紀行小説がある。

日本をはなれ「世界を旅する」人たちの多くにとって、バイブル的な本として位置づけられていた本である。

26歳の沢木耕太郎がインドのデリーから乗合バスをのりついでロンドンをめざすユーラシア大陸の旅をもとに書かれている。

大学時代、ぼくのアジアへの旅にも、この『深夜特急』の旅は影響を少なからず与えていたものだ(また、旅先で、さまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を生きる人たちに出会い、あるいはさまざまなかたちの「深夜特急」的な旅を否定する人たちに出会った)。

くわしくは小説に書かれているけれど、沢木耕太郎の旅は、いまぼくが住んでいる、ここ「香港」からはじまることになった。

後年、沢木耕太郎は、『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社)という著書のなかで、「香港」という、旅のはじまりについて、つぎのように振り返っている。

 このユーラシアへの旅には、いくつもの思いがけない幸運が訪れてくれたが、その最初にして最大のものは、第一歩が香港だったということである。

 それはやがて書くことになる紀行文にもあるとおり、本当に訳のわからないまま、九龍にある連れ込み宿風のホテルに長期滞在することから始まった。

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

この「九龍にある連れ込み宿風のホテル」は、その後、バックパッカーの宿として有名になった「重慶大厦」(チョンキン・マンション)である(この建物のなかに幾多もの宿がひしめきあっている)。

「重慶大厦」は、改装され、その外観を新たにしたが、今も健在である。

1995年にはじめて香港を訪れたぼくが目指したのも「重慶大厦」で、そのときの香港・広州・ベトナムの旅のはじまりと終わりに、ぼくは「重慶大厦」のなかの宿を拠点として、香港の街を歩いたのであった。

沢木耕太郎は、当時の香港の旅について、つぎのように書いている。

 香港は本当に毎日が祭りのように楽しかった。無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気がこもっていた。その熱気に私もあおられ、昂揚した気分で日々を送ることができた。食堂や屋台の食べ物はおいしいし、なによりも安い。わずか何分か乗るだけのフェリーが素晴らしいクルージングのように思えた。しかも、筆談によって、あるていど互いの気持ちが通じ合える。自分で旅の仕方を発見し、楽しむことができれば、無限の可能性のあるところだった。
 のちになって理解することになるのだが、香港から東南アジアを経てインドに入っていくというのは、異国というものに順応していくのに理想的なルートだったかもしれない。…

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

沢木耕太郎の「旅」、それは1970年代の旅で、それから40年ちかく経過してもなお、ここ「香港」は、「無数の人が狭いところに集まって押しくらまんじゅうをしているような熱気」がこもっている(ながく香港に住んでみると、この「熱気」に耐えられなくなるときもあるけれど、やはりこの「熱気」が香港の動力なのだ)。

都市化の進展で、ショッピングモールが増えるなどして食事事情は変貌をとげてきたと思うのだけれど(そして値段は「安い」とは言えなくなってしまった)、それでも、ヴィクトリア湾をつなぐフェリーは「素晴らしいクルージング」だと楽しむことはいまもできるし、香港に10年以上住んでみても、「素晴らしいクルージング」だとぼくは感じることができる。

ところで、沢木耕太郎は、「香港をはじまり」とするルートを、<順化>という視点において理想的だったかもしれないとふりかえっている。

「旅」ということであれば(もちろん「旅」になにを求めるかにもよるけれど)、香港をそのように位置づけることもできるだろう(「住む」となったときは、人によっては「逆」かもしれない。香港の「便利さ」を胸に、たとえば東南アジアやインドに移り住むというルートがよいかどうかには、いろいろと留保があるだろう)。

とはいえ、これも人それぞれであり、場所への適応の仕方それ自体が、その人を特徴づけるものである。

ともあれ、沢木耕太郎の「深夜特急」の旅においては、この<順化>が、とても幸福な仕方で機能したということは、沢木耕太郎自身が明確に意識をしているところだ。

香港が、<順化>ということにおいて機能したことに加えて、沢木耕太郎は、ここ香港で獲得したものに大きな意義・意味を与えているようだ。

 香港で旅の第一歩を踏み出したことは、「順化」だけでなく、その後の旅にとって決定的な意味を持ったと思われる。香港に滞在しているうちに私の旅のスタイルがほぼ決まることになったのだ。…

沢木耕太郎『旅する力 深夜特急ノート』(新潮社、2008年)

そうして挙げられているのが、たとえば、「記録」であり、「街歩き」である。

「記録」においては、日本から持っていった大学ノートの書き方を、左頁に「その日の行程と使った金の詳細」、右頁に「心覚え風の単語やメモや断章」を書くことを、香港に到着した一日目に決めたのだという。

また、「街歩き」では、「ガイドブックなし」という方法を香港で適応し、そののちもこの方法で街を歩くことで、新鮮な驚きを獲得しつづけたのだと、沢木耕太郎は書いている。

こんなふうに、沢木耕太郎は、ここ香港で、順化の最初の一歩、記録の方法、街歩きの方法という、旅における<大切なもの・こと>を手にしたのであった。

しかし、このように言葉として抽象的に取り出してしまうと、これらの獲得は必ずしも「香港」である必要はないものであるように見えてくるのだけれども、旅というものは、そんな抽象性を、旅を生きる具体性のなかに融解してゆくことがあり、26歳の沢木耕太郎にとっては、香港での滞在が決定的な意味をもつものであったのだろう。

それは、ぼくにとっての最初の旅が1994年の上海(上海から西安、そして北京・天津)であったこと、そしてその旅がいくぶんなりとも、ぼくの旅のスタイルを決定したものであることからも、実感として感じとることができるのである。

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香港で、テレサ・テンの曲「香港〜Hong Kong〜」「香港の夜」を聴く。- その「場」で聴く曲の響き。

歌手テレサ・テン(1953-1995)の歌のなかには、「香港」の語を曲タイトルに含む曲が二曲あることを、Apple Musicでテレサ・テンのページなどを眺めていて気づく。

🤳 by Jun Nakajima

 

歌手テレサ・テン(1953-1995)の歌のなかには、「香港」の語を曲タイトルに含む曲が二曲あることを、Apple Musicでテレサ・テンのページなどを眺めていて気づく。

「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」。

せっかく、ぼくは今香港にいるのだしと、ここ香港で、テレサ・テンの歌う香港の響きに耳を傾けてみる。


ぼくにとってテレサ・テンはひと世代前の歌手であったし、またぼくはテレサ・テンの熱心なファンでもない。

それでも、彼女の歌声の響きはとても印象的であったから機会があれば聴いたし、また、アジアではいまだにテレサ・テンは聴かれていたりするようで(たとえば香港のCD・DVD店の店頭では、テレサ・テンのアルバムが置かれていて、テレサ・テンの慎ましい笑顔が街灯に投げかけられている)、ときおり聴いたりするのである。

そんなぼくが、彼女の曲のなかに、「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」を見つけたときは、あのテレサ・テンが「香港」をどのように歌い、どのような思いを込めていたのだろうかと想像するとともに、1980年代後半の曲(「香港~Hong Kong~」)が今の香港でどのように響くのだろうかという好奇心がわきあがってくるのであった。

石川さゆりの歌う「津軽海峡冬景色」という曲はやはり津軽海峡で聴いてみたいと思うのと同じように、「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」も香港で聴いてみたくなる。

ちなみに、「津軽海峡冬景色」という曲と「香港~Hong Kong~」という曲の共通点は、「場所」をタイトルに付しているということにとどまらず、いずれの曲も作曲家が三木たかしであるということに、ぼくは不思議な驚きを感じるのであるけれど、そのことを書くうえでは「二つのこと」もあわせて書いておかねければと思う。


一つのこととは、「日本」のことである。

台湾出身のテレサ・テンは1970年代初頭にすでに香港でもレコードを出し、アジア圏で注目されながら、1974年、21歳のときに日本デビューを果たしたという(参照:Wikipedia)。

ぼくにとっての「テレサ・テン」も日本での活躍のイメージがほとんどだったのだけれど、「香港の夜」の曲をApple Musicで見つけたときは、「香港之夜」というように中国語版であったから、ぼくの先入観として中国語の歌であり、日本で作詞・作曲されたということに思い至らなかったということがある。

「アジアの歌姫」と呼ばれるように、テレサ・テンはアジア圏での圧倒的な人気を博しながら、しかし歌手生活においても、ヒット曲の形成においても、日本の影響は大きい。

「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」という曲たちが日本人の手で作られていたこと。

不思議な思いにとらわれるけれども、テレサ・テンが「テレサ・テン」になっていく軌跡をかんがえれば、別にありえないことではない。


二つのことのもう一つは、「演歌歌謡曲」ということである。

1974年、アイドル路線のデビュー曲は失敗に終わる。

そこで「アイドル歌謡曲」から「演歌歌謡曲」への路線変更をなしとげることで、テレサ・テンは日本での強固な足場を獲得していったということである。

その後パスポート問題を乗り越えて、1980年代に再来日デビューし、「作詞・荒木とよひさ/作曲・三木たかし」のコンビで、1980年代半ばにテレサ・テンに提供された曲、「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」が大ヒットにつながってゆく。

その延長線上、つまり「作詞・荒木とよひさ/作曲・三木たかし」のコンビによる、テレサ・テンに提供された曲として、「香港~Hong Kong~」という曲はあった(なお、「香港の夜」は別の日本人による作詞・作曲)、ということになる。


という、二つのこと(日本の影響、演歌歌謡曲路線)を前提にすれば、「津軽海峡冬景色」と「香港~Hong Kong~」がともに三木たかしの作曲であることは、たとえばまったく知らない二人の人たちが実は双子であったというほどの意外性をもっているわけではないだろう。

むしろ、ぼくが<地名>ということからたまたま「津軽海峡冬景色」を連想して、たまたま調べたら、それが「三木たかし」を介して「香港~Hong Kong~」に繋がったということの偶然性に、つまりぼくの「たまたま」の発見にぼくがぼく自身で驚いただけである(ぼくはまったく驚いてしまったのだけれど)。


とにもかくにも、そのような「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」という曲を、ぼくは、ここ香港で、(津軽海峡を冬に訪れたら「津軽海峡冬景色」を聴いてみたくなるのと同じような仕方で)聴くのである。

でも、聴きながら思うのは、「今の」香港に風景とすれ違ってゆく音の風景である。

それは、「今の」ということの前に、もともとが「香港」でつくられた曲ではないからかもしれない。

あるいは、それはただ、「演歌歌謡曲」だからなのかもしれない。

1990年代の東京で、ぼくは演歌歌謡曲が東京の街の風景にあうとは思わなかったし、歌詞も曲調も、時代のすれ違いのようなものを示していた。

「今の」香港とのすれ違いがあるとするならば、1980年代後半などの風景にはしみこんでいったのだろうかと、ぼくはかんがえてしまう。

ぼくが香港をはじめて訪れたのは1995年。

体験ベースとしては、そのときの「香港」の体験を掘り起こすことになるのだけれど、もしかしたら、当時の風景の方が「合っていた」のだと、ぼくは感覚する。

でも、ひるがえって、それはぼくの主観にすぎないのではないかとも思ってしまう。

「今の」香港の風景に、テレサ・テンの曲と歌声を重ね合わせる人たちは、たくさんいるはずだ。

それは「過去の思い出のフィルター」を通してなしとげられることだろうけれど、それでも、「今の」香港の風景に重ね、そこに「何か」とても大切なものを見るのだろう。


香港に来られたら、あるいは香港に住まれたら、テレサ・テンの「香港~Hong Kong~」と「香港の夜」を、風景に照らしながら、聴いてみてはいかがだろうか。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、ソフトドリンクの「氷」の考察。- 「氷なし」への対応の異なりから。

香港で、冷たいソフトドリンクをオーダーして、「氷」を入れないようにお願いする。

香港で、冷たいソフトドリンクをオーダーして、「氷」を入れないようにお願いする。

氷を入れなくても充分に冷たいし、いつからか「冷たい」飲み物をあまり飲まなくなったということもある。

だから、「氷を入れないこと」は、ぼくにとっては、いつものことだ。


香港に来てから、冷たい飲み物で「氷を入れない」選択をしたときに驚いたのは、氷を除いても、グラスやカップいっぱいに飲み物が注がれることであった。

日本に住んでいたときは、氷を入れない場合でも、基本的に「同じ量」の飲み物が注がれるだけであって、そうすると、見た目においてグラスやカップの3割ほど、飲み物の「水位」が下がってしまう。

人間(あるいはぼくだけ?)の心情で、なんとなく損をしたような気分になるし、個人的には見た目が美しくないと思ってしまう。

そのような「対応」が、ぼくの経験のなかでデフォルトになっていたから、香港に来たとき、氷がなくてもグラスやカップいっぱいに注がれて提供される飲み物に驚かされ、思い切りのよさのような気持ちを抱いたものであった。

このような香港での「対応」は、しかし、なにもぼくの「心情」を読み取ってなどというものではなく、おそらく、コスト的なところが大きい。

香港で、氷の入った冷たい飲み物(Cold)を頼む時は、通常、暖かい飲み物(Hot)よりも、価格が高くなる(例えば「+3香港ドル」)。

つまり、「氷」は高いということになる。

そのような事情だから、氷を入れずに、飲み物それ自体を増やすことになっても、むしろコスト安になる(のだろう。あくまでも推測として)。

こうして、氷を除くこと(「走冰」)をお願いしても、グラスやカップには、飲み物がいっぱいに注がれる。


ところで、いわゆる途上国などでは、事情はさらに異なってくる。

「氷」自体の安全性、つまり氷をつくるための「水」の安全性の問題が出てくる。

だから、氷は普通は使わないし、氷が出てきても取り除いたり、あるいは大丈夫かどうかを見定める。


20年ほど前にベトナムを旅していたときは、道端の店でビールを頼んだら、常温の缶ビールと氷が詰まったグラスが出された。

そのような経験をしているうちに、常温のビールも「ありうる」(つまり、飲める)のだということを、ぼくは体得した。

また、西アフリカのシエラレオネ、東ティモールに暮らしていたときも、基本的に「氷」は口にしなかったように思う。


このように、飲み物の「氷」から、いろいろな「世界」が見えてくる。

「氷なし」を頼んだら、グラスやカップの「水位」が下がって飲み物が出されるのは、必ずしも「あたりまえ」ではないことを、体験として知ることができる。

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香港で、「月餅 moon cake」を食べながら。- この機会に「月餅」をいまいちど考える。

ここ香港は、「中秋節の翌日」が祝日である。

ここ香港は、「中秋節の翌日」が祝日である。

中秋節の夜は、家族が集まり一緒に食事をとったり、子供たちが提灯を手に公園などにくりだす。

小さな子供たちはいつもならば家にいる夜の時間帯に、外に出て、その「非日常」の世界を楽しむ。

夜遅くになるからなのか、翌日、つまり中秋節の翌日の朝は、比較的、しずかな時間がながれるのだが、今年も、しずかで穏やかな雰囲気であった。

中秋節の風習として「月餅 moon cake」を食べる。

今年は香港の友人から月餅をありがたくいただいたので、中秋節に月餅を楽しんだ。

昨年のブログでは、「香港で、(食べずに)「月餅」を楽しむ方法。- 月餅の種類と売られ方に惹きよせられて。」を書いた。

食べる/食べないにかかわらず、香港に暮らすなかで、「月餅」の風景は興味深いものだ。

その月餅の、「種類」と「売られ方」だけを観察していても、いろいろな発見があって、面白い。

昨年のブログでは、「種類」と「売られ方」について、つぎのようにまとめた。

ーーーーーーーーーーー

まずは、月餅の「種類」である。

大きくは、甘系と塩系がある。

そこから、それぞれに数え切れないほどに、中身のバリエーションができていく。

中身のバリエーションも、ただ具を変えていくということにとどまらずに、例えば、下記のような広がりをつくっている。

● ブランド志向:ブランド名が刻印された月餅

● 健康志向:例えば「低糖」、保存料調整などの月餅

● モダン:アイス月餅、ドリアン入りの月餅など

● 月餅の「形」をしたスイーツ:月餅の形をした「チョコレート」など

● 月餅の「入れ物」の原型だけを残したもの:容器が月餅で中身は他のお菓子など

● 製造場所:「香港製造」に刻印が押された月餅

● その他

この10年を見てきても、香港における月餅のバリエーションの広がりには驚かされる。

月餅の「種類」に加えて、「売られ方」にも、いつも惹きつけられてしまう。

例えば、次のようなところである。

● 販売時期:いつ頃から売られ、いつ頃にピークを迎えるかなど

● ディスカウント(早割):早割価格が設定されていたりする

● ディスカウント(量):「何箱購入で、何箱フリー」的なディスカウント

● ディスカウント(その他):中秋節後のディスカウントなど

● 個別売り/箱売り:ひとつで購入できるか、箱での購入かなど

● 販売場所:店頭だけでなく、特設場所など

● その他

クーポンなどもあって、売られ方のバリエーションも広がりをもっている。

これらに加えて、プロモーションの仕方なども観察しながら、その売られ方に香港の凄さを見ることができる。

ーーーーーーーーーーー

2018年も、老舗の月餅から、日系のパン屋さん・ケーキ屋さんの月餅に至るまで、さまざまな「月餅」(それに類似したもの含む)が、香港の街やスーパーマーケットやショッピングモールの店頭を彩っていた。

若い世代などは「伝統的な」月餅に関心を示さない人たちもいるだろうし、だから月餅の「形」をした「スイーツ」などへひろがりを見せてきたところではあるのだけれども、それでも、<月餅という文化>の力強さのようなものを感じてやまない。

<月餅という文化>は、食べ物としての「月餅」のことだけではなく、ギフトとしての月餅、そこに託された人と人とのつながりなどを含めた文化のことである。

毎年毎年くりかえされ、つみかさなるなかで、文化の地層がつくられてゆく。

そこには、あたりまえだけれど、歴史があり、人それぞれの記憶や思いが、目には見えない仕方で積層している。

そのようなことを考えながら、昨晩は雲と雨で見えなかった「月」が、今晩は見えるだろうかと、雲に覆われた、香港の夜空を窓越しに見上げる。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、(12回目の)「中秋節」を迎える。- 子供たちの声と笑顔が台風のあとの夜を照らす。

香港で、12回目の「中秋節」の日を迎える。

香港で、12回目の「中秋節」の日を迎える。

真夏の只中、店頭で「月餅 moon cake」が見られるようになり、また外に多くのとんぼたちを見るようになってから、あっという間に「中秋節」の日がやってくる。

中秋節は、伝統的に、旧正月、冬至と並び、香港の人たちにとって、とても大切な日である。

現代社会のなかにあって、いくぶんか、その内実の変容を経験しながらも、伝統と慣習の「灯」を灯し続けている。

中秋節の当日は香港の祝日ではないけれど(「中秋節の翌日」が休みになる)、たとえば、企業は慣習上、夕方や午後などに社員が「早帰り」できるようにしたりすることもある。

家族で一緒に食事をとり、家族は子供たちをつれて、夜の公園などにくりだす。

子供たちは、手に、いろいろにデザインされ、彩られた「提灯」(電池式など)をもち、闇夜を照らす。


そのような様子を見ながら、昨年2017年は、11回目の中秋節として、ブログ(「香港で、(11回目の)中秋節の夜を迎えながら。- 公園にくりだす子供たちの笑顔にみる「月明かり」。」)を書いた。

2018年も、公園にくりだす子供たちの笑顔が、まるで「月明かり」のようにかがやきに充ちているのを見ることができる。


今年の中秋節を迎えるなかで感じる「違い」は、1週間ほど前、香港の南を通り過ぎていった大型「台風」の影響である。

台風後の香港の「復旧」は、(場所や立場などによって、いろいろな意見があるだろうけれども)基本的にとても迅速であった。

ぼくの住まいのマンションも、その施設や敷地内の至るところに、台風による「被害」の痕跡が残っているし、いまだ復旧途中であったりする。

復旧の時間の経過のなかに、あのすさまじい「台風」の、そのすさまじさを実感させられるのである。

台風「前」に取りつけられていた、中秋節の飾りたちのいくつかは、結局、中秋節の当日になっても戻ってくることはなかった。

そのような風景と雰囲気が、いくぶんか、ただよっているように感じるのだ。

外が明るいうちに感じていたそのような風景と雰囲気であったが、夜、外に出てみて、それはぼくの「感覚」にすぎなかったのかもしれないと、思い直した。

台風に影響を受けた風景と雰囲気を溶解するように、子供たちの声と笑顔が、提灯の光とともに、雲に隠れる月に代わって、闇夜を照らしだしているのであった。

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香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima 香港, 宇宙・地球 Jun Nakajima

香港で、台風のあとに「自然」のことをすこし書く。- 「人間と自然」の「と」について。

「自然」は、人間にとって、大別すると(ざっくりと分けると)、ふたつの現れ方をする。

「自然」は、人間にとって、大別すると(ざっくりと分けると)、ふたつの現れ方をする。

ひとつは、この度(9月16日)の香港の「台風」などのような「自然災害」や乗り越えられるべき障害として対峙する現れ方であり、もうひとつは、ビーチやハイキングや森林浴などのように歓びの源泉となるような現れ方である。

「台風」は自然そのものの論理のなかで「悪気なしに」生まれてくるものであるけれど、人間にとっては、脅威であり、敵である。

今回台風の影響で住まいに隣接する道路が閉鎖され、その説明の張り紙に「Due to the typhoon attack…」と書かれているのを見て、つまり台風の「攻撃」という表現に「人間と自然」、より厳密には「人間・対・自然」という図式が前提されているのを、ぼくは感じたのであった(※でもさらに興味深いことは、中国語表記ではattackではなく「影響」となっていること)。


真木悠介は、「人間・対・自然」という図式(および「個人・対・社会」という図式)について、つぎのような明晰な文章を書いている。

…<人間・対・自然>という図式も、けっして自然一般を超越する先験的な妥当性をもつものではなく、この図式の妥当する地平それじたいの存立が、ひとつの自然史内在的な過程に他ならない。
 すなわち…自然に外在する「人間」があらかじめて先在していて、彼らが他在としての「自然」とかかわりをもつのではない。人間は…本源的に<自然・内・存在>であるという仕方で、いわば二重に内存在である。
 けれども…物質性の<自然>の胎内から、一個の不遜な自己目的性としての人間=精神が析出し、残余の<自然>を対象化する主体として屹立するときにはじめて、人間としての人間の歴史ははじまり、したがってまた、広義の経済的諸カテゴリー〔生産・所有・等々〕は存立しうる。

真木悠介『現代社会の存立構造』(筑摩書房、1977年 → 復刻版:朝日新聞社、2014年)

つまり、「人間・対・自然」などという図式・考え方が最初からあったのではなく、「一個の不遜な自己目的性としての人間=精神が析出し、残余の<自然>を対象化する主体として屹立するときにはじめて」、それは認識され、その後の人間の歴史のなかで自明のこととなってゆく。

この「文明」は、自然を対象化し、利用し、開発し、支配することで、成り立っている。

だから、この文明、またその文明のもとにつくられる社会システムがおびやかされる状況等において、人間は「自然」を敵視する。

それは、いわば「外部」からやってくる、自然の脅威であり、「人間・対・自然」の構図がより鮮明にうかびあがる。

そのようななかで、「(人間がつくってきた)現代の社会システム・対・自然」の対面が、自然災害においては顕著に意識される。

この対面において、今回の台風による影響・被害から、復旧され、立ち直ってゆく様子を見ながら、ぼくは、この現代の社会システム、つまり資本制システムの圧倒的な力を見てきたようにも、ぼくは思う。


「人間と自然」(あるいは「人間・対・自然」)という書き方(また捉え方)そのものが、「当たり前のこと」ではなく、この文明とそこに構築されてきた社会システム、またそこに生きる人間の生き方(生活の仕方)と双対的にあることを、少しばかり書いてきた。

だからといって、なにかがすぐに変わるわけでもないし、「得」があるわけでもない。

けれども、自然災害のもとで、やはり感じたりかんがえたりすることがあるし、それは人間や社会をふりかえる際にもよいきっかけである。

さらには、「自然との関係性」を見直し、変えざるを得ない時代のなかで、そのひとつのとっかかりであるとぼくは思いながら、その入口のところだけをすこしだけ書いた。

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香港で、他の場所から「気にかけてくれる」声に感謝し、応答しながら。- <つながり>の関係性。

9月16日に接近した台風による香港と人びとの生活への影響は、台風が遠ざかり、「翌日」という名の蓋を開けてみて、その想像以上の大きさを知ることになる。

9月16日に接近した台風による香港と人びとの生活への影響は、台風が遠ざかり、「翌日」という名の蓋を開けてみて、その想像以上の大きさを知ることになる。

木々が倒れ、信号機が壊れ、標識が倒れ、窓やドアが壊れ、小さな小屋が倒壊し、道が破壊され…というように。

そして、道路や施設などの正常な機能に「依存」している社会システムが、たとえば多数の道路の閉鎖、そしてそれに伴う交通の麻痺などによって、通常の機能を充全に発揮できない。

普段どれだけ、これらのインフラや施設などに「依存」して、社会システムが機能しているのかが、ひしひしと感じられる。

「翌日」を超えて、翌々日という今日を迎え、問題と課題の残るなかで、影響の大きさはより切実に迫ってくることになる。

学校は依然として休校となり、道路もまだ多数が閉鎖されており、消防車がマンションの敷地に車両をとめている。

「復旧」は、その段階を経て、その様相と諸問題の諸相を幾分か変遷させながら、すすんでいく。

        *

そんな折、友人たちから、「大丈夫?」のメッセージが届く。

とてもありがたいことである(改めて感謝!)。

先日の日本での自然災害において、香港の友人から「日本のことを気にかけてくれる」声を、香港にいるぼくが受け取った(ブログ「香港で、「日本のことを気にかけてくれる」声に、世界の<つながりの地層>のひとつを視る。」)。

その「声」が、直接的に、その自然災害の被害を被った人たちに送られたわけではないけれども、ぼくは、そこに、世界の<つながりの地層>のひとつを見た。

直接的ではないけれども、<気にかける/気にかけられる>という関係性が、このグローバルな世界であらわれている。

友人たちからのメッセージは、直接的に、ぼくに送られたものでありながら、そこには同時に「香港と香港の人たち」に向けられた声であるように、ぼくは感じる。

このような<気にかける/気にかけられる>という関係性は、情報通信技術の発展によって助長され、またより明示的になる。

海外に出てから約16年になるけれど、その間の情報通信技術の発展によって、「海外にいること」の感覚と方法が、いろいろに変わってきたように思う。

もちろん、これからも劇的に変わってゆくことになるだろう。

そこでは、人と人との<つながり>の関係性が、ものごとを牽引し、方向づけ、感覚と方法にひろがりと深度をつくってゆくように、ぼくは思う。

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香港で、大型の「台風」の過ぎ去ったあとに。- 木々の倒れる小さな森に、鳥たちが戻ってくる。

9月16日に香港の南を通過していった「台風」は中国本土に上陸し、ここ香港では17日の午後になって、台風の「警戒レベル」を最小の「シグナル1」に落とした。


9月16日に香港の南を通過していった「台風」は中国本土に上陸し、ここ香港では17日の午後になって、台風の「警戒レベル」を最小の「シグナル1」に落とした。

今回の台風は、相当な被害を香港にもたらしたようだ。

「ようだ」と書くのは、メディアで伝えられている情報なども含めて書いているからだ。

ぼくはすべてをこの目で見たわけではないけれども、少なくとも、ぼくの住んでいるマンションの敷地と周辺は、あきらかに、これまでの(ここ10年ほどの)台風とは次元の異なる被害をもたらしている。

木々は至るところで幹や枝が折れ、なかには根こそぎ倒れている。

それらが車道をふさぎ、一時的に閉鎖されている。

マンションのロビーのドアガラスなどが壊れたり、その他の施設もそれ自体が倒壊したり表面がはがれおちたりしていて、管理チームが朝から復旧作業に追われている。

16日に香港の天文台(気象庁)が「警告シグナル」を最高度の「シグナル10」に上げてから、結局10時間に渡って、シグナル10が発令されていたことになる。

その間にブログ(「香港で、大型の「台風」を経験しながら。- 「台風」という言葉の檻から出ること。」)を書いていたのだけれど、落ち着くことのできない「時間」であった。

夜になっても、高度の警告シグナルが発令されつづけ、終日家にいることになった。

だから、外がどのようになっているかは、窓から見える風景とメディアが伝える写真と映像などから知るだけであった。

学校が休校となり、倒木などが道路がふさがり香港の至るところで交通のみだれが伝えられる今日17日になり、ようやく、外に出てみて、身近な「被害」の状況と、そこから想像される台風のすさまじさが、ひしひしと伝わってくるのであった。

復旧には相当な時間と労力が要される状況である。


お昼の時間帯になってもいくつかの店舗が閉まっているショッピングモールではしかし、いつもどおりの人の行き来がみられるようになり、そのような人の「流れ」が、まるで<普段の生活空間>をとりもどしてゆく動力であるように、ぼくには見えた。

今は空も海も、それから身体にふれる風も、とても穏やかで、「あの」台風が昨日であったことが信じられないほどだ。

今朝起きて、ようやく「窓」を開けることができ、窓の外から流れ込む新鮮な空気を肌に感じながら、ふと遠くの方で<鳥の鳴く声>が、その凛とした響きがぼくに届いた。

「鳥が戻ってきた」と、ぼくはすぐさま思う。

台風のあいだ、いったいどこに身を寄せていたのだろうかと不思議であった鳥たちが、戻ってきたのだ。

木々が倒れた小さな森に、鳥たちがそれでも戻ってくる。

鳥たちの姿と声が、どこか、ぼくの内面を穏やかに、そして安心させてくれるように、ぼくは感じるのであった。

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香港で、大型の「台風」を経験しながら。- 「台風」という言葉の檻から出ること。

風と豪雨が入り混じり、断続的に轟音を鳴り響かせている。

風と豪雨が入り混じり、断続的に轟音を鳴り響かせている。

窓の外に目をやると、海と森が揺れているのが見え、そのすさまじさをさらに感じる。

9月16日、香港の南の海域を、超大型の「台風」が通過している。

この文章を書いている現在(16日午前)、香港の天文台(気象庁)は台風・熱帯低気圧(Tropical Cyclone)の「警告シグナル」を最大(Hurricane Signal No. 10)にまで上げている。

シグナルが最大を示したのは、天文台の統計によれば、1946年以降で15回、今日で16回目のようだ。

21世紀になってからは、2012年の1回、2017年の1回、そして今回の3回目となる。

だから、ぼくは2007年に香港に来てから、これで3回目の経験となる。

しかし、今回は、これまで以上に「強い」(かなり強い)と感じる。

文章を書きながら、風の轟音がどうしても耳に届いてしまい、タイピングする手が止まってしまう。

また窓の外に目をやると、まさに、ハリケーンのただなかに置かれているような、そのような光景がひろがっている。

雨は四方八方に降り、木の葉なども四方八方、風のなすがままに舞い上がったりしている。

至るところの木々の枝が折れ、道をふさいでいる。

鳥たちはどこに身をひそめているのだろうかと、ふと考えてしまう。

海の水位が上昇し、高波が起こっている。

建設現場では物がいっぱいに散乱している。

すさまじい音が幾度もやってくる。

(中断)

数時間が経過して、「あの」すさまじい轟音の波が去っていき、強風がふきあれる程度と轟音の頻度が少し減じたようだ。

まだ、「警告シグナル」は最高度が発せられている。

書くことを「中断」していたけれども、また書き始める。

この状況のなかで思うのは、「台風」という言葉だけで、その内実を判断してしまうのは危険だということ。

それぞれの場所での特有の台風があり、その土地に起こりやすい災害や影響がある。

「香港」という場所の特性があり、そこに到来する台風の特性がある。

さらには、同じ場所にいたって、それは時(とその場所の位置)によって「異なる」こともある(※最近はそのような事象が見られる)。


だから、たとえば日本でじぶんが経験してきた「台風」の記憶だけを頼りに考え、判断し、行動することは危険である。

(外で、強風の轟音がぶりかえしている…)

「りんご」という言葉(哲学的な議論でよく持ち出される「りんご」)は、「りんご」というカテゴリーによって一般化されるけれども、だからといって、それぞれの「りんご」が同じではない。

「台風」も、そのカテゴリー的な名称(と経験)だけで、「わかっている」と思うのは、言葉という人間の「人工物」のなかに閉じ込められているのだ。

(それにしても、この建物という「人工物」の強度もすごいものだ)

海外に出た時には、旅であっても、そこで生活するのであっても、じぶんの経験からつくりあげた「言葉の檻」からも出ることである。

(かなりの強風と雨がふたたび、つづけざまに建物にぶつかっている…)

じぶんから出なくても、異なる「現実」が、ときに向こうからやってくることもあるけれど。

(台風が香港に最も接近しているときだ…被害が最小限におさまるとよいと思う…)

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香港で、「日本のことを気にかけてくれる」声に、世界の<つながりの地層>のひとつを視る。

日本での大雨や台風や地震による被害について、ここ香港の現地ニュースでもその多くがニュースなどで伝えられている。

日本での大雨や台風や地震による被害について、ここ香港の現地ニュースでもその多くがニュースなどで伝えられている。

それだけ、日本と香港のつながりが密であるということでもある。

直接的な/間接的な「影響」が、相互に見られるということである。

香港から観光などで日本に行く人たちも多いから気になるところではあるし、ビジネスなどにも影響することから人によっては必須の情報でもある。

もちろん、直接的に影響がでるような際には、ニュースだけでは情報不足であり、もっと緊密な連絡がなされたりするだろう。

 

でも、ここで、伝えたいことは、とりあえず(あるいは現在のところ)、直接的/間接的に関わらない人たちも、ここ香港で、日本のことを気にかけてくれている、ということである。

友人が、例えば、「いろいろ日本では起きているけれど、大丈夫?」と声をかけてくれる。

友人たちは観光などで日本に行ったことが幾度かあるという「経験」を下敷きにして、あるいは日本人の友人や知り合いがいるという「関係性」を下敷きにして、日本の状況を聞き、気にかけてくれているということはある。

逆をかんがえてみても同じように、行ったことのある場所で何かが起きたとき、あるいは友人や知り合いが住んでいるところで何かが起きたとき、やはり、気にかかったりする。

 

<気にかけるということ>が、直接的に、日本の(あるいは他の場所の)状況を変えたり、支援になるというわけではないけれども、「それでも」、ぼくは、そのことを伝えるために、書いておきたい。

日本にずっと住んでいるときは、そんなことはまったく思いにもおよばなかったから。

日本ではない、世界のどこかで、誰かが、日本のどこかで起きていることで、<気にかけてくれているということ>を、ぼくは日本に住んでいるときは思いもしなかった。

海外の状況が日本のニュースでも報道されるのと同じく、日本の状況が海外のニュースで報道されることは、頭ではわかっている。

けれでも、そのことがより現実味を帯びて経験されるのは、やはりひとつには、海外にいて、日本のことを<気にかけてくれているということ>を直接に知ることが挙げられる。

 

このことは、さしあたりとても「小さなこと」であるし、口に出さなければ伝わらないことである。

けれども、「世界」は、こんなふうにも<つながっている>ということでもある。

互いに、気にかけ、気にかけられるという、そのような<つながりの地層>があるということ。

気にかけるということは、どこの誰というような「固有名詞」がはっきりしない仕方で投げかけられるのかもしれないけれど、「それでも」、そこに住んでいる人たちに向けられていること。

大雨・台風・地震とつづく日本の状況について、ここ香港で、「気にかけてくれる」友人に声をかけられて、ぼくはそんなことを思い、かんがえている。

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書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 書籍, 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

香港で、本と知の「力学の地図」をかんがえる。- 香港の書店の店頭の風景のなかで。

香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。

香港の書店にときおり訪れて、「最近の動向」を追う。

どんな本が読まれて、どんな本が関心を集めているのか。

日本の書籍の「中国語訳」は、ここ香港の書店でも、あらゆるジャンルのものが並んでいる。

大きな書店ではなく、小さな書店でも、日本の書籍の中国語訳を結構見ることができる。

 

また、ここ1、2年のことだろうか、日本の書籍の「英語訳」も、心なしか増えたように感じる。

正確に調査をしたわけではないけれども、香港の書店の店頭に、日本の書籍の英語訳を見つけることができる。

これまで、店頭で目にする日本の書籍の英語訳と言えば、古典的な文学作品や村上春樹の作品であったのだけれども、そのジャンルの幅を少しづつ広げているようだ。

近藤麻理恵の片付けの著作はもちろんのこと、「片付け」や「ミニマリズム・ミニマリスト」系の他の著作も並ぶ。

また、岸見一郎・古賀史健の『嫌われる勇気』の英語版(『Courage to be Disliked』)なども目にすることができるのだ。

 

英語などの著作の日本語訳はつぎからつぎへと出版されているなかで、その逆(日本語の書籍の英語訳)を見たときに、その少なさということがある。

本と知の「力学の地図」のようなものを描くとしたら、そこにはアンバランスがある。

ちょうど読み終えた、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)のような作品が英語に訳されて、日本の外でも読まれるといいなと思ったりする。

けれども、このような著作が英語になるのは、まだいくつものハードルを飛び越えていかないといけなさそうだ。

出版社としては「売れる・売れない」の軸があるし、英語訳(のコストと労力)の問題もある。

 

さらに視野をひろげると、例えば、アジアの著作の日本語訳が多いというわけではなく、そこにもアンバランスがある。

ぼくもアジア圏の著作群を読むことができているかというと、あまり読めていない。

本と知の「力学の地図」が、ある意味で、ゆがんでいる。

飛躍するようだけれども、この「ゆがみ」と、この世界で起きていることの、さまざまな<ゆがみ>は、いろいろな回路を通じてつながっているように、ぼくは思う。

それらは、ぼくのなかの<ゆがみ>でもある。

香港の書店の店頭の風景のなかで、ぼくはそんなことを感じ、かんがえる。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、「ラーメン」の画期的時代を思い起こす。- ポテトチップス「赤丸新味薯片」を見つけて。

「Calbee x 一風堂(IPPUDO HK)」のコラボレーションによるポテトチップス「赤丸新味薯片」。

「Calbee x 一風堂(IPPUDO HK)」のコラボレーションによるポテトチップス「赤丸新味薯片」。

ラーメン店「一風堂」が香港に進出して7周年を記念しての商品だという。

ぼくは、一風堂が香港の尖沙咀(Tsim Sha Tsui)に開店してからもう7年が経過したことを思う。

店頭で目にして、つい、手がのびてしまった。

 

一風堂は香港(また世界)のラーメン市場を大きくひらいた存在であろう。

香港のラーメン市場は、一風堂が成功をおさめてゆくなかで、活況を呈していった。

それまでもラーメン店はあったのだけれども、クオリティを含め、一風堂が状況を変え、その後の香港におけるラーメン店ラッシュへとつながる流れをつくったのだ。

その後、一風堂は他のアジア(そして欧米)に店舗をひろげ、ぼくは訪れた台湾でも、マレーシアでも、店舗を目にしたのであった(台湾では行列であった)。

 

開店当時の一風堂は、行列が続いた。

決して安くはない値段だけれども、行列は絶えることはなかったのだ。

日本とは異なる気候におけるスープづくりは思うようにいかなかったようであるが、それでも、あのレベルの味を海外で食べることができることは大きい成果であったと、ぼくは思う。

開店の前年に、一時帰国したときに銀座で食べた一風堂のラーメンと餃子の味には及ばないけれども、まさしく「画期的」であった。

その後、香港内で店舗数を増やし、現在に至っている。

 

ラーメンの人気は香港で絶えることはなく、おいしいラーメン店はいつも人でいっぱいだ。

25年前にアジアを旅し始めたころ、また17年前に仕事で海外に出始めたころは、このような状況になることは想像もしていなかった。

グローバル化の流れでは「当たり前」のことだろうけれども、実際に海外に住んでいると、なぜか、そういうふうには想像していなかったのだ。

ぼくはそんなことをかんがえながら、ポテトチップス「赤丸新味薯片」を食べる。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、「空気のよごれ」の中でかんがえながら。- そこに未来の「可能性」を見つめる。

ここのところ、香港の空気・大気のよごれが目にもあきらかで、ニュースでもよく取り上げられている。

ここのところ、香港の空気・大気のよごれが目にもあきらかで、ニュースでもよく取り上げられている。

雨風が洗い流してくれることもあるけれど、ときおりやってくる「突然の雨」(ブログ「香港で、「突然の雨」をやりすごしながら。- 降りそそぐ雨のもとで思うこと。」)も、今のところまだ効果はないようだ。

この文章を書いているときも、香港政府環境局のアプリ「HK AQHI 」App(AQHI=Air Quality Health Index)では、香港のほぼ全域にわたって、スケール「10+」(Low1からSerious10、そして10+)を示している。

 

当面できる対策としては、まずは屋外での活動を減らすこと。

 なるべく、ぼくはそうする。 

アドバイスに従うというよりは、じぶんの身体がよく知っているといったほうが適切だ。

部屋では、どの程度効果があるかわからないけれども、空気洗浄機をまわしてみる。

また、空気のよごれは、人の「呼吸」も浅くさせるから、じぶんの「呼吸」にもときおり気を向けながら、身体をととのえる。

 

当面の対策をとりながら、「恒久的な対策」をかんがえてみる。

もちろん、対策はいろいろな「次元」においてかんがえられ、政策レベルなどはここでは立ち入らず、もう少し「恒久」の視野を広げておきたい。

「環境・公害」の問題は、現代社会(とりわけ消費化社会)の問題である。

いわゆる「先進地域」と呼ばれる国々が、環境問題や公害を外部に「域外転移」させる仕方で、ひとまず問題を見えなくさせてゆく側面がある。

香港の空気・大気汚染は中国本土の産業地帯を原因のひとつとしていると言われるけれども、それは産業地帯だけの問題ではなく、そこで作られる製品に支えられている地球全体の問題(またそこに住むひとりひとりの問題)である。

グローバル化はこの「域外転移」の果てに、この地球の球体という<域内>の限界に気づき、その行先の転回を要請されているのが「現代」である。

目に見える「問題」は、そんなことを、より痛切にかんがえさせる契機となる。

 

ぼくは、この「問題」をより深い次元において教えてくれた名著、見田宗介『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー』(岩波新書、1996年)をひらく。

現代社会の「光の巨大/闇の巨大」をともにひとつの視界におさめながら、「情報」と「消費」というコンセプトをラディカルに転回させることで、未来にひらかれる社会を描いている。

その魅力性のひとつは、それが、「情報」と「消費」を制約してゆくのではなく、それらの原義の可能性をひらいてゆく仕方で未来の社会を構想していることである。

目の前にひろがる環境の中で、描かれる「未来の社会」構想を読みながら、その「可能性」を、未来にそして現在の至るところの行動やあり方の「芽」の中に、ぼくは見ている。

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「見田宗介=真木悠介」, 香港 Jun Nakajima 「見田宗介=真木悠介」, 香港 Jun Nakajima

香港で、子供たちに向けられた「早く」の言葉を耳にしながら。- 「早く、早く」の生活速度にかんする真木悠介の考察。

香港でぼくの住んでいるところの界隈は家族が多く、子供たちに向けられた「早くしなさい」という意味の言葉を耳にすることがある。

香港でぼくの住んでいるところの界隈は家族が多く、子供たちに向けられた「早くしなさい」という意味の言葉を耳にすることがある。

そのような言葉におされるように動く子供たちの身体を、ぼくは目にする。

「速さ」「早い」という行動形式に、社会のぜんたいがかけられている香港。

そのすごさに圧倒される一方で、複雑な気持ちもぼくの中では湧いてくる。

 

今ではよく覚えていないけれども、ぼくが小さい頃(1980代頃)も「早く」という言葉が、家庭や学校などの生活空間に満ちていたのかもしれないと思う。

「時間」についてそれを正面から見据えた名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)において、真木悠介は、現代社会における「早く」の時間衝迫に関連して、つぎのように書いている。

 

 ある音楽家の文章によると、下手でも早く弾いた曲と、上手にゆっくり弾いた曲とを聞かせると、母親の「早く、早く」のシャワーの中で育てあげられた現代の日本の子供は、一様に早く弾いた演奏の方を「上手」と言うという。時間衝迫が芸術のスタイルをも規定せずにはおかないことを、われわれはたとえば映画の表現史にみることができる。…

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981年

 

ここで語られる「現代の日本の子供」は、さしあたり著書が書かれた1970代から1980年代の頃を指しているようだけれども、それは「ゆとり世代」などの表層的な区分を超える仕方で、「現代」という時代の子供たちであるとみることができる。

真木悠介は1990年前半に行われた対談においても、「日本の母親が自分の子どもに一日のうちにいちばんたくさん言うことば」として「早く」という言葉があると指摘し、それが、言うほうにも言われるほうにも、「呼吸が浅くなる」という影響をおよぼすだろうことを語っている(真木悠介・鳥山敏子『創られながら創ること 身体のドラマトゥルギー』太郎次郎社)。

真木悠介が「時間」について比較社会学的な考察をしていた当時、ぼくはそこで語られる「現代の日本の子供」のうちのひとりであった。

 

「一定の生活速度は一定の生活の型を要求する」(真木悠介)ように、現代の日本における生活速度の中で「一定の生活の型」を体得していったのだろう。

その「生活の型」を身体に刻みながら、ぼくは、この現代の社会での「速さ」に対して、その流れを泳ぐための「型」を手にしてきた。

けれども、それと同時に、何か大切なものを、いくぶんか忘れてしまったようにも思う。

だから、そのようなことに気づきを得たときから、呼吸をととのえながら、生きるという時間の経験のぜんたいを取り戻そうとしてきたのであり、まだいろいろに試しているところである。

 

こんなことだから、「早く」という言葉のシャワーを聞くと、いろいろとかんがえさせられるのである。

それにしても、「速さ」「早い」にかけられた香港の行動形式・様式には、いつもいつも、おどろかされる。

香港に来る前、西アフリカのシエラレオネ、それから東ティモールに住んでいたことも、そこと香港との「ギャップ」をいっそう体感させた理由であったかもしれない。

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香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、「突然の雨」をやりすごしながら。- 降りそそぐ雨のもとで思うこと。

突然の雨が、香港の空から降ってくる。

突然の雨が、香港の空から降ってくる。

降り始めたと思ったら、すぐさま、雨脚が強くなる。

それにしても、ここ数日にわたって香港の空気を覆っているよごれを、きれいにしてくれそうな雨だ。

雨脚はさらに強くなってきた。

帰宅途中のぼくは、雨傘をもっておらず、ひとまず屋根のあるところをさがして、かけこんだ。

しばらくしても、雨脚は変わらず、いっそう強い風も吹いてくる。

 

どうにかして、濡れずに(あまり濡れずに)建物のなかに入ろうと思考を巡らす。

香港は、建物と建物の「つながり」が便利だ。

日本などとは異なり、建物と建物、建物とマンション、マンションと駅などが、それなりにつながっている。

雨が降っても、つながりがよければ、多くの人たちは雨傘なしで家に着くことができる。

思考を巡らしたけれども、やはり濡れるなと思い、ベンチに腰掛けたまま、様子見をすることにした。

 

それにしても、そんなに「急ぐ」必要はあるのだろうかという想念がわく。

特にその後の予定が入っているわけではない。

香港の強い雨脚は、待っていれば弱くなっていくのだから、ゆっくりと待てばよいのだとも思う。

 

二つのことを思う。

ひとつは、雨を疎外する仕方で「都市・都会」が成立し、自立してきたこと。

雨の度に人が足を止めていたら、この「現代社会」はまわってゆかない。

「脳化社会」(養老孟司)は、人間にコントロールされた環境をつくり、コントロールされた環境に人は生きる。

「自然」はそこでは排除されてゆく。

 

もうひとつは、雨が止むのを待つという時間を無駄な時間だと思ってしまう、「時間」の機制。

雨をゆっくりと楽しもう、というようにはすぐには感じられない。

そんな時間があるのであれば、別の目的に「有効」に使われるべきだという衝迫。

もちろん、今ではスマートフォンがあるから、雨を待ちながら、「待っている」ということさえも気にせずに、「何かをする」という行動に時間を当てることはできる。

それは方法のひとつだけれども、「雨を眺めて楽しむ」という選択肢はそこには入っていない。

降りそそぐ雨を眺めて楽しむ、という選択肢はどこに追いやられてしまったのだろう。

 

突然の雨が降ってきて、雨宿りをしながら、また小雨になって家に帰ってきたときに、そんなことを思う。

ときには、突然の雨に足を止めて、その降りそそぐ雨をゆっくりと楽しむこともあってもいい。

それが何か特別に「有益」なものをもたらせなくても。

ただ、降りそそぐ雨に、心をひたしてゆくだけでよいのだと思う。

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