「生きるリアリティの崩壊と再生」(見田宗介)。- <生きるリアリティ>という、現代の若者たちが求める共通の<地層>から。

社会学者の見田宗介が、2010年8月に福岡のユネスコ協会で行った講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」の最後を、次のように終えている。...Read On.


社会学者の見田宗介が、2010年8月に福岡のユネスコ協会で行った講演「現代社会はどこに向かうかー生きるリアリティの崩壊と再生ー」の最後を、次のように終えている。

 

…ボランティアに限らなくてもいいですけれども、実際に自分が役に立つようなことならばやりたいと思っている青年と、リストカットをする、あるいは無差別殺人をする青年というのは同じものを求めているわけです。つまり、それは生きることのリアリティを求めている。そこが大事だと思います。今の日本の若い人たちはいわば同じものを求めているわけですが、求め方が違っているのです。日本の若い人たちが自分の体を傷つける、あるいは人を傷つける、あるいは人を殺そうとする、そういうものとは違った仕方で、生きるリアリティを求める方法を見つけ出すことができれば、そこでもう一つ新しい時代が開けてくる可能性があるだろうと、そういうふうに思うわけです。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』弦書房、2012年

 

ここで並列されている若者たちは、例えば、次のような若者たちである。

● ボランティア的・支援的な活動を入れた海外ツアーに意欲的に参加する若者たち

● リストカット、つまり手首を切る自傷者(例えば、卒業するまで死なないとして自死した「南条あや」)

● 無差別殺人をする青年(例えば、秋葉原事件の加藤智大)

「冷静な頭脳と暖かい心」で、1960年から日本の若者たちをみてきた見田宗介は、一般的にまた表層的にはまったく「別」として語られる若者たちが求めていることの「深い地層」を、ぼくたちに示してくれている。

別の著作で、見田宗介は、「南条あや」と「加藤智大」について、より詳細に見ている。

南条あやのように、少女たちの孤独が「自分に向かって」内攻するときにリストカットといった「自傷者」になり、リストカットをする少女たちの孤独が「外に向かって」爆発するときに「無差別殺傷」にはしった青年がいる。

南条あやが書き残した文章からは「生きていることのリアリティの確認儀式」のような感覚が語られ、また加藤智大は自分が「誰からも必要とされない存在」の中で犯行にでる。

そのような「感覚」の<深い地層>は、ボランティアなどで海外ツアーに赴く若者たちと、<求めるもの>において通底している。

 

1990年代に、アジアへの旅行にいわば「リアリティ」を求めていたぼくも、この<深い地層>において、これらの若者たちと同じものを求めてきたのだと思う。

南条あやとぼくは、ほぼ同時代人である。

ぼくは、「違った仕方」で、生きることのリアリティを求める方法を見つけただけだ。

その「方法」の鮮烈さに惹かれ、ぼくは当時、「旅によって人は変われるか?」という問題意識を手にし、見田宗介の理論と言葉に助けられながら、生きてきた。

一歩の歩みを間違っていれば、リストカットや殺人あるいは他の形で「リアリティの不在」が爆発したかもしれないという想像力を起点にすることで、現代の若者や現代という時代を考えてゆくことができる。

他者の問題ではなく、ぼく(たち)の問題である。

 

質疑応答で、やはりこの「リアリティの崩壊」の問題に触れられる中で、「なぜ昔はリアリティを求めようとしなかったのか」という質問に、見田宗介は次のように応答している。

 

…周囲との関係がリアルであればそれでいいわけで、もともと人間というのは昔からずっとそういう存在なのですから。現代だけがちょっと変わった状況で、人との関係が非常に薄いというか、情報を媒介にした関係というのがでてきた。…ケータイなどでメル友が何百人もいるという形で、いま友達をつくることも簡単になっていますが、おそらくそこで出来た友達というのはやはりリアリティがないんですね。…ケータイだけでつきあった人というのはものすごく友達を欲しがりますよ。ちょうどお腹すいた人が、本当は胃袋にたんぱく質が入らないとお腹は満たされないのだけれども、清涼飲料水とかコーラとかを飲むと一時ちょっと気が休まる。でもやっぱり飲んでも飲んでも空腹は収まらないですね。そんな感じが今の若い人にある。…

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー≪生きるリアリティの崩壊と再生≫ー』弦書房、2012年

 

リアリティの「再生」の方法のひとつとして、見田宗介は「人から必要とされること」を、アメリカの心理学者であったエリクソンの言葉を引用しながら、提示している。

エリクソンの言葉に、「mature man need to be needed」という言葉がある。

「成熟した人間は必要とされることを必要とする」ということである。

そこに、周囲との関係のリアリティが再生されていく「解決の出口」を、見田宗介はみている。

 

冒頭の「ボランティア的・支援的な活動を入れた海外ツアーに意欲的に参加する若者たち」ではないけれど、ぼくは東ティモールにいるとき、日本の「悩める」若者たちには東ティモールに来ることで、何らかの「解決の糸口」が見つかるのではないかと、本気で思っていた。

そんな東ティモールと西アフリカのシエラレオネという「生きるリアリティ」を強烈に押し出してしまうような社会(しかし、生きるための「ニーズ」の問題などに悩まされる社会)、それから、東京や香港という最先端の「先進」社会を生きてきた、ぼくのこの15年。

「新しい時代が開ける」ために、ぼくにできることをしようと思う。

「生きることのリアリティ」に、本気で立ち向かってきた一人として。

 

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技について、「説明できないといけない」(イチロー)。- 身体と頭脳の交響と共演。この世界で次元を上げていくために。

米国メジャーリーグで活躍する野球選手イチローが、「説明できないといけない」ということを、北野武との対談における「理論」に関するトピックの中で語っている。...Read On.


米国メジャーリーグで活躍する野球選手イチローが、「説明できないといけない」ということを、北野武との対談における「理論」に関するトピックの中で語っている。

「説明できないといけない」のは、イチローが挙げる例で言えば、「ヒットを打ったときに、なぜそのヒットになったのか」ということの説明である。

興味を引くのは、イチローが説明ができるようになったのは、1999年以降のことであったということ。

当時はイチローは日本のプロ野球で活躍しているときで、すでに5年連続で首位打者であったけれども、その時点ではまだ説明ができなかったという。

それまで、ただただ「身体」で打っていたイチロー。

そのイチローが1999年以降に「理論」を自分自身で見つけ、2000年にアメリカの大リーグにうつる。

身体だけで打っていたら大リーグでの活躍はなかったかもしれない。

「頭脳」を使うことは、もう一段も二段も上の次元で活躍できる土台を、イチローに用意した。

 

このことが教えてくれるのは、第一に、「理論」の大切さである。

「理論」という言葉が重たければ、イチローの言うように、「説明できること」である。

身体で動くだけであれば、あるところで「天井」にぶつかってしまう。

「天井」をやぶって、一段も二段も上にいきたいのであれば、それは大切なことだ。

イチローは、この話の中で、さらに面白いことを言っている。

イチローにつくコーチは人それぞれに違うことを言ってくる。

それらにいちいちしたがっていたら、打てなくなってしまうという趣旨のことである。

「説明できること」により、いろいろに異なるアドバイスや指導の中であっても、「自分軸」をきっちりと持つことができたということだ。

 

第二に、技を使う職業において、説明できなくても「結果」が出ていればよい、ということにはならない。

イチローも、北野武も、若い頃は「ヒットを打てているからいいじゃないか」、「(コントを見に)お客さんが来ているからいいじゃないか」と思っていた。

そのような彼らが、技も、活躍も、それらの次元を上げていくときに、説明できること(=理論)を確実に味方につけていったのだ。

 

第三に、上記の二つのことは、日本を離れ「世界」に出ていくときには、さらに説明できることの意義を深めていったであろうことである。

日本という舞台でうまくいっていたことが、世界の舞台ではうまくいかなかったりする。

いろいろに異なる状況や事情があり、自分の「周囲」の声もいろいろだ。

そのような中で、説明できることを「軸」に、自分をつくり、そしてときに自分をのりこえていくことができる。

それは自分に固執するということではなく、オープンさ・柔軟さを兼ね備えた自分軸だ。

だから、冒頭で述べた通り、イチローが「説明できるようになった時期」と「大リーグ入りの時期」とがほぼ重なったことは、無関係ではない。

 

それにしても、本質的な生き方をしている人たちの会話は、気がつくと、生きることの本質に一気に射程を広げる。

イチローと北野武の、この「理論」の会話も、対談の冒頭近くに1分ほどで語られた内容だ。

ぼくは、聞き逃さないように、あるいは語られる言葉の地層に流れるエッセンスに、一所懸命に耳をすます。

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「悩むことのできるものだけが…」の一行。- 「悩む」作家の辺見庸を救った一行から。

共同通信社の勤務から作家となった辺見庸の作品を、ぼくは大学時代に、よく読んだ。...Read On.


共同通信社の勤務から作家となった辺見庸の作品を、ぼくは大学時代に、よく読んだ。

きっかけとなった本は『もの食う人びと』(1994年)であった。

通信社では北京特派員やハノイ支局長をつとめ、「現実を直視」してきた辺見庸が、バングラディシュや旧ユーゴやソマリアやチェルノブイリなどで、人びとは今何を食べて、何を考えているかを探っていったノンフィクションである。

辺見庸の文章は現実を直視しながら地に足をつけ、言葉のリアリティを求めている。

当時アジアなどを旅していたぼくに響く文体であった。

1998年頃だったか、ぼくは東京で、辺見庸の講演を聞きにいく機会を得た。

彼は、小さな大学ノートをひらき、壇上でそれを見ながら、言葉をさぐりあてるように語っていた。

その姿に触発され、ぼくも大学ノートを買い、日々や本のメモを手で書くようになったことを覚えている。

 

大学を卒業したぼくが世界を飛び回っている間に、辺見庸は身体を幾度となく病み、故郷の宮城県石巻は震災にのまれた。

そんな辺見庸の作品を、また少しづつ読んでいる。

ぼくが世界に出ているこの15年間ほどの間、辺見庸は何を考えてきたのか。

『水の透視画法』(集英社文庫、2013年)の中に収められている、「アジサイと回想」と題されたエッセイがぼくの心にしみこむ。

アジサイのイメージには程遠く、副題は「生きるに値する条件」とつけられている。

辺見庸が、「お粥につかったみたいに」むしむしとする日に、図書館に足を運び、そこでの出来事を書いている。

本を借りて一部を複写しにいく辺見庸は、二階のコピー機の場所で、コピー機を使用している若い男女に出会う。

若い男が文庫本を食い入るように読んでは、ページを選んで、拡大コピーをとっている。

彼は辺見庸が待っているのに気づき、まだコピーが10枚ほどあるため、「先になさいますか。」と辺見庸に声をかける。

その時に、書名が見える。

『将来の哲学の根本命題 他二篇』。

 

 絶句した。…この世から消えたとばかり思っていた本が街の図書館にあり、しかも若者に閲覧されている。百万分の一ほどの確率かもしれない。だからこそ仰天した。一冊の本が千人の人との出逢いよりも自分を変えることがある。…あの本はそんな一冊であった。

辺見庸『水の透視画法』集英社文庫

 

辺見庸は近くのソファに座って待ちながら、必死で記憶をたぐる。

 

…たしか本にはこう書いてあるはずだ。初見後四十数年間、それだけははっきりとおぼえている。「悩むことのできるものだけが、生存するに値する」。これまで何万回反すうしたことか。正直、その一行に救われたこともある。悩むことのない存在は「存在のない存在」なのだ、ということも記されていたと思う。二人はあのくだりにこころをひかれるだろうか。

辺見庸『水の透視画法』集英社文庫

 

悩むことのできるものだけが、生存するに値する。

辺見庸は、かつて、19世紀のドイツの哲学者フォイエルバッハの、この一行に救われている。

虚構に流されることなく、リアリティの地下茎に向かって垂直に降りていく辺見庸の思考と語りを考えると、ぼくはそのことが自然にわかるような気がした。

 

この本を読みながら、他方で、作家の中谷彰宏の著作『悩まない人の63の習慣』(きずな出版)を読む。

現代に「悩む人たち」などに向けて、悩まないための「行動」や考え方が、鮮やかに提示されている。

この本を読みながら、現代の「悩み」は、人それぞれにとっては深刻であるけれど、それはひどく狭いところに押し込められた「悩み」のように感じる。

悩む必要のない「悩み」。

考え方を変えることでなくなる「悩み」。

行動することで解消される「悩み」。

成長していくことで質を変えていく「悩み」。

「悩み」と一言で言ってもいろいろとあって、それは重層的に理解し、解きほぐしながら日々を生きていくことが大切だと、ぼくは自身の悩みに向き合いながら思う。

 

しかし、それで「悩み」がなくなるわけではないし、完全になくなることがよいわけではない。

それでも残るような「悩み」は、フォイエルバッハの一言が示すように、「生存するに値する」源泉としての<悩み>として、生きるという経験を支えている。

悩むことのできるものだけが、生存するに値する。

大学時代にも辺見庸の作品を読みながら次から次へと読まなければいけない本が増えていったことと同じに、今回も、辺見庸からの「課題図書」がまた一冊増えた。
 

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「テクノロジー=拡大された感覚器」と「視覚や聴覚の退化」。- teamLabの圧倒的なデジタルアートを見ながら考えていたこと。

「teamLab」と呼ばれる、「デジタル社会の様々な分野のスペシャリストから構成されるウルトラテクノロジスト集団」がある。...Read On.


「teamLab」と呼ばれる、「デジタル社会の様々な分野のスペシャリストから構成されるウルトラテクノロジスト集団」がある。

様々な分野のスペシャルストとは、プログラマ、エンジニア、CGアニメーター、絵師、数学者、建築家、ウェブデザイナー、グラフィックデザイナー、編集者などのスペシャリストである。

アート・サイエンス・テクノロジー・クリエイティビティの境界を曖昧にしながら活動しているという。

グローバル展開をし、活動は世界におよんでいる。

とても興味深い「集団」つくりであり、「活動」である。

 

自然と一体化するデジタルアートは、圧巻である。

現在は、日本の佐賀、武雄にて「かみさまがすまう森のアート展」と名付けられたエキシビションを開催しているという。


Webリンク:
- teamLab ホームページ
 
teamLab
「かみさまがすまう森のアート展」
 

ホームページ上の動画でも、「動画」という限定性の中で、その一部を見ることができる。

その限定性の中においても、デジタルアートの繊細さと迫力、創造性が伝わってくる。

作品は、「増殖する声明の巨石」「かみさまの御前なる岩に憑依する滝」「岩割もみじと円相」「忘却の岩群」「岩壁の空書 連続する生命」「小舟と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング」などと、想像をわきたてる名前がつけられている。

自然の岩などにデジタルアートが重ねられることで、<自然を見る眼>を体験することができる。

自然の中に、人はこのようにして、<見えないものを見る>ことができる。

見えないものを独特の仕方で視覚化することで、それはぼくたちの自然の見方をひろげてくれる。

 

テクノロジーは、人間の「拡大された感覚器」(真木悠介)である(※メディア学のマクルーハンの理論を下敷きにしている)。

視覚も聴覚も、テクノロジーは、それら器官の機能を拡張・拡大させることで、人の生活を便利にしていく。

テレビや携帯電話によって、人は、遠くのものを見たり聞いたりすることができる。

今言われている「IoT」(Internet of Things)などの本質は、人間の「拡大された器官」である。

これからの時代、この拡張・拡大が、さらに加速していくことになる。

teamLabのデジタルアートは、デジタルアートという仕方で、想像力を視覚化していく。

新たな「世界」が、確実に、開かれつつある。

 

「拡大された感覚器」をもつ文明化された人間は、他方で、文明の発展のプロセスで、原生的な人類がもっていたという信じられないほどの視覚や聴覚などを喪っていく。

テレビや携帯電話、さらには次々に発明されていく「拡大された感覚器」があるから、それ自体どうということはない。

しかし、社会学者の真木悠介は、次のような見方を、ぼくたちに提示している。

 

 …けれどもこのような視野や聴覚の退化ということを、われわれをとりまく自然や宇宙にたいして、あるいは人間相互にたいして、われわれが喪ってきた多くの感覚の、氷山の一角かもしれないと考えてみることもできる。
 たとえばランダムに散乱する星の群れから、天空いっぱいにくっきりと構造化された星座と、その彩なす物語とを展開する古代の人びとの感性と理性は、どのような明晰さの諸次元をもっていたのか。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)

 

ぼくたちはさまざまなテクノロジーに助けられ、支えられ、楽しく生きているけれど、しかし、他方で、「退化してしまった視野や聴覚」で、自然や宇宙や人に、対している。

 

 自然とか宇宙のうごきにたいする感応の深さやゆたかさが(それに対応して存在する客観的世界のゆたかさー道具や道や集落や都市のありようと共に)そのいくつかの質的な次元において喪われたとき、きりつめられ貧困化された感性と理性とは、それなりで自己充足的な明瞭さの空間を張って安住し、通常は喪われた諸次元について思いをはせることもない。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)

 

このことは、例えば、「くさい空間」に人は慣れると、そのくささを感じなくなってしまうような経験として、想像することができる。

ぼくの「退化してしまった視野や聴覚」のこと、この「退化してしまった視野や聴覚」を通じて見る自然や宇宙それから人との関係の次元を、ぼくは考えてしまう。

teamLabがつくるようなデジタルアートは、このような「退化してしまった視野」を、クリエイティブな仕方で思い出させてくれる。

人の創造性や想像性が無限の空間をひらいていくことを感じさせる。

しかし、アートは、それ自体では、退化した感覚器官を解き放つことはできない。

このことは、teamLabの責任ではもちろんなく、ぼくたち自身になげられたボールだ。

これからの時代、テクノロジーがさらに加速しながら進化をとげていくときに、そのベネフィットを享受していくとともに、ぼくたちはこの「退化してしまった視野や聴覚」を、別の方法で解き放っていくことで、ぼくたち人間にあらかじめ仕掛けられている感性や理性も味方にしていくことができる。

この方向性において、ぼくたちは、近代・現代の果実を得ながら、自然や人との豊饒な関係性を取り戻していくことができる。

 

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アートは何のため?ツールとしてのアート。- Alain de Botton/John Armstrong著『Art as Therapy』に惹かれて。

「Art for art’s sake(芸術のための芸術)」ということが言われることがある。...Read On.


「Art for art’s sake(芸術のための芸術)」ということが言われることがある。

芸術が「何かのため」という姿勢を切り捨て、芸術はいかなる実用的な機能からも自由であるということである。

それが「真実であるか否か」ということはさておき、それでも、アート(芸術)は、確かにぼくたちに「何か」を与えてくれるように思う。

近代・現代という時代の磁場が、ぼくたちをして「何かのため」へと、様々なもの・ことを手段化させていく思考と実践に引き寄せているのかもしれないと思ったりもする。

しかし、アートを鑑賞する際に、アートそのものに素晴らしさを感じる背後に、素晴らしいと思わせる原因・理由があるのだとも感じる。

 

Alain de BottonとJohn Armstrongは、とても美しい著書『Art as Therapy』(Phaidon, 2013)において、「ツールとしてのアート」の側面を正面から見据えている。

感情的知性の発展に寄与するグローバル組織「The School of Life」の共同創業者のひとりである作家のAlain de Botton、それから哲学者John Armstrongの共著である。

美しい絵画や写真が掲載され、詩的な文章で綴られている『Art as Therapy』。

本書では、「ツールとしてのアート」という視点で、「アートの7つの機能」が展開されている。

  1. Remembering(思い出すこと) 
  2. Hope(希望)
  3. Sorrow(悲しみ)
  4. Rebalancing(バランスを取り戻すこと)
  5. Self-Understanding(自己理解)
  6. Growth(成長)
  7. Appreciation(感謝)


それぞれのもう少し詳細については、下記のようになる。
 

1.記憶の悪さの矯正手段:アートは、経験の果実を、記憶しやすいもの、また再生可能なものとする。

2.希望の提供者:アートは、ものごとを、楽しく元気づけるような視野におさめる。…

3.尊厳のある悲しみの源泉:アートは、よい生活における正統な場所にある悲しみを思い出させる…。

4.バランスをとるエージェント・媒介:アートは、普通でない明瞭さで、良い質のエッセンスをエンコード(記号化)する…。

5.自己理解へのガイド:アートは、私たちにとって中心的で重要だが、言葉にするのがむずかしいことを確認する手助けとなる。…

6.経験の拡張へのガイド:アートは、他者の経験の極めて洗練された蓄積である…。

7.再度鋭敏化させるためのツール:アートは、私たちの殻をはぎとり、私たちの周りのものにたいする、甘やかされ習慣化された無視という地点から私たちを助け出す。…

Alain de Botton/John Armstrong『Art as Therapy』(Phaidon, 2013)
(*日本語訳はブログ著者)

 

本書では、これらひとつひとつの機能について、掲載されたアートを素材に、アートの仔細を「味わい」ながら、理解していくことになる。

詩的な英語で仔細に語られることで、アートの楽しみ方を、ぼくは学ぶことができる。

「機能」は、アートに言葉を与えることで味気ないものにするのではなく、反対に、アートをより味のあるものとし、確かに「機能」が発揮されていることを感じさせる。

「Art as Therapy」、セラピーとしてのアートの意味合いが、身体にしみてくる。

 

この美しい著作『Art as Therapy』が語る「アートの7つの機能」は、人それぞれにたいする効能・機能を、抽象度を上げ抽出して語っている。

これらに加えて、ぼくの関心事項にひきつけて加えるとすれば、「アート」は、「世界言語」のひとつとしても機能する。

音楽が世界をつなぐコミュニケーションのひとつであるように、絵画や彫刻などのアートも、世界をつなげることができる。

厳密には(政治経済社会の複雑な経路を通過することで)その逆もありうるけれど、肯定的にとらえていけば、アートは世界をつなげていく。

世界の各地の人たちが、遠く離れたアートを知り、興味をもち、それらについて世界の人たちと会話をくりだす。

その「機能」は、直接的にぼくたち自身のセラピーとなるわけではないけれど、人と人とをつなげていく「機能」として、つながりを回復する。

そのような「機能」としても、ぼくは、アートを学んでおきたいと思う。

 

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総論, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 成長・成熟 Jun Nakajima

「Luckily, I am a botanist.」(マーク・ワトニー)。- 映画『The Martian』に見る「生きる力」の源泉。

「Luckily, I am a botanist.」。映画『The Martian』で、一人だけ火星に取り残された宇宙飛行士マーク・ワトニー(マット・デイモン)が、生き残りにかける決心の後に、気づき、自分に語った言葉だ。...Read On.


「Luckily, I am a botanist.」(「運よく、ぼくは植物学者だ。」)

映画『The Martian』(邦題『オデッセイ』、リドリー・スコット監督)で、一人だけ火星に取り残された宇宙飛行士マーク・ワトニー(マット・デイモン)が、生き残りにかける決心の後に、気づき、自分に語った言葉だ。

この言葉には、生きるということの力の源泉と可能性が現れている。

 

映画は、火星への有人探査の風景から幕が開ける。

赤い大地で、マーク・ワトニーを含む探査チームが探査を続けている中に、巨大な砂嵐が襲ってくる。

巨大な砂嵐により火星探査の任務は中止され、クルーたちは火星から宇宙空間へ退避するため、砂嵐の中、ロケットに向かう。

この退避中に、砂嵐の強風によって折れたアンテナがマークに直撃し、マークはかなたへと飛ばされる。

マークは死んだものと判断され、時間の猶予のない他のクルーたちは火星から離陸してしまう。

砂嵐が去った火星で、マークは意識を取り戻すことになる。

そこから、マーク・ワトニーが生き残りに向けたドラマがはじまっていく。

次の火星への有人ミッションは4年後。

火星に残されたのは、探査用に設営された仮設キャンプと31日分の食料。

飛び立ったクルーたちのヘルメス号にも、NASAにも連絡が取れないという状況。

これは、「問題解決」の究極の試練だ。

 

冒頭の言葉は、この究極の問題解決の入り口において、マーク・ワトニーが「希望」をきりひらいていく言葉だ。

「Luckily, I am a botanist.」(「運よく、ぼくは植物学者だ。」)

生きるということの力の源泉と可能性の言葉。

希望をひらく「助走」は、この絶望的な状況でも「運がいい」と考えていることである。

その「助走」がありつつ気づきを得たマークは、第一に、「植物」を専門としているということ。

つまり、それが「栽培」という道をひらいていくことである。

このことは、ぼくに、古生物学者デイヴィット・ラウプの進化論にでてくる「理不尽な絶滅」の理論を思い起こさせる。

進化論を「絶滅」から考え抜いてきたラウプが、ゲームのルールがまったく変わってしまうような地球の出来事において生き延びてきた生物たちは、「前のゲーム」でたまたま発達させていた性質を、「変わってしまったゲームのルール」の場でたまたま生かすことで「適応」してきたということを説いた説だ。

「火星に取り残される」というゲームのルールがまったく変わってしまった中で、「植物学者」であることは、「適応」のためには相当に有利に働くはずだ。

これが、一つ目のこと。

それから、二つ目に、「植物」という「生き物と共に生きてきたこと」である。

マーク・ワトニーは、火星で、栽培による「芽」を見つける。

そこで、彼は、この「芽」に触れながら、「芽」に向かって、「Hey there」と声をかける。

一つ目の「栽培」ということが、人の「物質的な拠り所」を築くものであるならば、二つ目の「芽」は、人の「精神的な拠り所」を築くものである。

マーク・ワトニーの他に「誰」もいない不毛の火星で、「芽」は、同じ生きるものとしての「精神」を分かちあうものであったはずである。

遠藤周作の著作『深い河』に出てくる風景の中に、ぼくは同様のことを感じたように思う。

もちろん、マーク・ワトニーが、生き残りに向けて「味方」としていく力は、仲間であったり、音楽であったり、さまざまだ。

しかし、「植物学者」ということの源泉である「植物」がもつ<共生の論理>(食べ物を与えてくれる存在であり、共に地球で生きるという存在)が、マーク・ワトニーに生きる力を与えていくのだ。

 

それは、宇宙がつくりだした奇跡の芸術作品としての「地球」を照らし出す光でもある。

マーク・ワトニーが、「地球の叡智」を駆使して生き残りに立ち向かったように、ぼくたちは日々を「地球の叡智」できりひらいていくことができる。

不毛の火星に「地球の叡智」を花開かせていくよりは、この地球で「地球の叡智」によりたくさんの花を咲かせる方が、はるかに容易であることを、この映画は見せてくれている。

マークの言葉を反芻しながら、ぼくは、「運よく、ぼくは……だ」の「…」をどの言葉で埋めることができるだろうか、と自分に問いをなげる。
 

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「世界を変えるための、コピー2枚」。- 人間の欲求としての「充実感」の6つの条件(福島正伸)。

こんな会社がある。朝、社員が出社すると、こんな会話がなされる。社員:「世界を変えに来ましたー!」...Read On.


こんな会社がある。

朝、社員が出社すると、こんな会話がなされる。

社員:「世界を変えに来ましたー!」
社長:「君が来るのを待っていた。世界を変えるために、コピーを2枚とってくれ!」
社員:「いいんですか、世界を変えても。…社長、世界を変えてしまいました。コピーを2枚とっちゃいました。」
社長:「よくやってくれたー!」

株式会社アントレプレナーセンターの、実際の風景だ。

代表取締役の福島正伸が、音声を通じて、このような話をリスナーに届けている。

「人間の欲求」と題された音声で、福島正伸『真経営学 音声全集:第4巻』の中に収められている。

福島正伸の「経営学」のエッセンスが厳選され、語られている。

この音声全集は、「社会復帰は、もうできない」というガン宣告を受けた福島正伸が、今後声も出すこともできないかもしれない、仕事ができなくなるかもしれない、命を落とすかもしれない中で、3日間かけて収録された全集である。

咽頭がんであったため、声を出し続ければガンが進行する可能性がある中での録音である。

その後、治療法を見つけ出し、奇跡的に復帰した福島正伸が、復帰後にこの音声全集のCDを1000セット発売し、ぼくはその時にこの音声全集を手にし、まさしく命を吹き込まれたこの音声全集に耳を澄ませた。

この「真経営学」は、昨年に書籍化されている。

ふと、ぼくはふたたび聞きたくなって、「人間の欲求」という音声の再生ボタンを押した。

 

「人間の欲求」について、福島正伸は、正反対の欲求としての二つの欲求を挙げている。

● 安楽の欲求(無意識でいると易きに流れるなど)

● 充実感を得たい(生きがいなど)

無意識でいると、ついつい楽をしたくなるのが人間だけれど、それではつまらなくなってしまうのも人間。

充実感を得たいという欲求だ。

「充実感」について、福島正伸はさらに、次のように定義している。

● 毎日味わっている充実感=「生きがい」

● 大きな充実感=「感動」

この「充実感を得る」ための六つの条件として、福島正伸は次のものを挙げている。

1.明確な目標があること(行動をするために)
2.困難を伴う(できるかどうかわからない状態にあること。結果が保証されていないこと)
3.努力
4.それをあきらめないこと(結果が見えない中で努力を継続する時間)
5.自発性(自分がやりたいと思ってやっているか。最終的に自分の意志でやっていること)
6.仲間・協力・支援(喜びは他人と分けると2倍になる。悲しみは半分になる)

この全体像と内実に、ぼくは共感する。

最近のぼくの関心に引っかかったのは、一つ目の「明確な目標」ということである。

その文脈で語られたのが、冒頭の「世界を変えるためのコピー」の話である。

仕事は何気なくやらないこと。一つ一つの仕事に意味を見つけ、一つ一つの仕事で社会に貢献していくこと。そうして、充実感を得ていくこと。仕事は、限界まで楽しんでやっていくこと。

福島正伸の言葉は、語る。

「明確な目標」ということでは、この「明確であること」を強調する。

例えば、どんな気持ちで、どんな表情で、どんな言葉を使って挨拶をするか、そんな明確なイメージをもって会社をつくること。

明るい職場だったら、こんな笑顔があり、こんな言葉が交わされ、こんな行動が起きるということを、明確にしておくことである。

福島正伸は、「小説」にするとわかりやすいとしている。

現に福島正伸の著作『理想の会社』では、小説の「物語」として、理想の会社を描いたという。

小説、小説のように物語で語ることで、すごくわかりやすくなる。

目標とか夢、社風、今日使う言葉まで、できるかぎり描ききることを、福島正伸は語る。

実現は、その先にやってくる。

福島正伸は、この「充実感」は、一度体験されると繰り返されることを、最後に語っている。

そこでは、人は自分で考えて行動していくようになるのだ。

 

<物語の力>ということを、ぼくはずっと、考えてきている。

「物語」には、福島正伸が語る「人間の条件」が埋め込まれている。

映画は、2時間ほどで、その軌跡をぼくたちに擬似体験させる装置だ。

主人公はテーマ・夢・目標を持ち、困難の中を努力でかけぬけていく。

なんども困難がやってきては、しかしあきらめずに、自分が選んだ人生を、仲間たちと乗り越えていくことで、感動(=大きな充実感)を得る。

同じような「流れ」であっても、人は普通、映画を見飽きるということはない。

この「物語」の原型は、太古から、神話という形で語られてきてもいる。

そして、<物語の力>は、ぼくたちの生きることにおいても、仕事場においても、人との関係性においても、ほんとうに大きな力となる。

「世界を変えるためのコピー」は、物語の力の一端だ。

人も組織も、まだまだ、福島正伸の言うように、目標や夢を描ききれていない。

「できない」「ダメだ」と言う前に、ぼくたちにはやることが山ほどある。

愚痴が出る出番はない。

まだ、全然試しきれてもいないのだから。
 

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総論, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 成長・成熟 Jun Nakajima

「TED Talks」の中でひとつを選ぶとすれば。- Benjamin Zanderの言葉と物語、そして肯定の力。

「TED」(Technology Entertainment Design)は、「ideas worth spreading」の精神のもと、TED Conferenceなど、さまざまな事業を展開している。...Read On.


「TED」(Technology Entertainment Design)は、「ideas worth spreading」の精神のもと、TED Conferenceなど、さまざまな事業を展開している。

最初の形は1984年にさかのぼり、2006年に「TED Talks」として無料動画配信がはじまることで世の中に広まることになった。

TEDの講演会では、さまざまな分野の、さまざまな人たちが「ideas」を世界に伝えている。

「TED Talks」は、TEDの講演からキュレートされた動画が配信され、質の高いプレゼンテーションを見ることができる。

サブダイトルも充実し、日本語を含む各国語のサブタイトル付きで、見ることができる。

 

TEDは、「TED Talks」の初期から、ぼくの学びの場のひとつとなっている。

そこには、大きく分けると、ぼくにとって3つのことがある。

  1. 肯定の力
  2. 言葉/プレゼンテーション
  3. 物語

 

まずは、TEDの動画を見るたびに、世界が<肯定の力>で照らされる。

世界には、志を高く持ち、よりよい世界へ向かうための力となる人たちであふれていることを感じる。

講演のトピック・分野はさまざまだから、一層、その「広がり」を感じることになる。

 

この<肯定の力>が、短い時間で区切られた「プレゼンテーション」の中に凝縮されることになる。

TEDを世界的に広げていく原動力となったプレゼンテーション形式。

ぼくたちは、「プレゼンテーションの方法・仕方」という視点において、TEDを素材に学ぶことができる。

ぼくも、講師の立場から、TEDのプレゼンテーションから学んでいく。

この10年、TEDのプレゼンテーションに関する書籍も多数出版されており、学ぶべきことに事欠かない。

「プレゼンテーション」は短い時間の中に凝縮されるため、そこで語られる「言葉」も厳選されていく。

<言葉の力>というものを、世界がふたたび取り戻していく流れのひとつともなっている。

 

<言葉の力>は、そこで語られる「物語」によって生かされていく。

講演者は、プレゼンテーションの中に、<物語の力>を注入していくことになる。

物語には講演者の思いや情熱が流れ、語りにリズムが生まれ、まさしく躍動していく。

すばらしい講演は、これらが一体となっている。

 

ほんとうにたくさんの「TED Talks」の講演の中で、見たのは一部であるという限定性を付けた上だけれど、ぼくがたったひとつの講演を選ぶとすれば、それは次の講演である。
 

「Benjamin Zander: The transformative power of classical music」
(*リンクはこちら)

 

クラシック音楽の指揮者Benjamin Zanderによって2008年に行われた講演は、今でも、見るたびにぼくに感動を与えてくれ、ぼくを触発し、学びを提供してくれると共に、すばらしいプレゼンテーションの原型のようなものとして、ぼくの中にある。

プレゼンテーションスキルということで言えば、プレゼンテーションに関する書籍である、Nancy Duarte『Resonate: Present Visual Stories that Transform Audiences』(Wiley)の中で、Benjamin Zanderのこの講演が素材として取り上げられている。

観客とのエンゲージメントもすばらしいものがあるし、プレゼンテーションという形での<物語>は、その中に笑いや悲しさや感動などのすべての要素がある。

講演はピアノを使いながらすすみ、動画を通じても、講演の親密さが伝わってくる。

この<物語>を通じて、観る者は、クラシック音楽の「内的な音楽」にとりこまれ、その世界はいつしか自分の人生の「内的な音楽」にまで射程を伸ばしていく。

音楽のコードに言葉をのせながら、Benjamin Zanderはこのことを成し遂げる。

 

Benjamin Zanderは、講演の終わりの方で、「指揮者」は、オーケストラの中で「音を出さない」ということに、45歳で気づいたことの話を伝えている。

「音は出さない」けれど、人の可能性を引き出すのが指揮者である自分の役目だと。

その気づきが、Benjamin Zanderの生の方向性を決定づけてゆく。

そんなBenjamin Zanderの「成功の定義」は、シンプルだと、彼は言う。

成功の定義は「It’s about how many shining eyes I have around me.」だと言う。

自分の周りにどれだけの人たちの目が輝いているのか。

「shining eyes(目が輝くこと)」。

ぼくが、西アフリカのシエラレオネで、東ティモールで香港で、目指してきたことと、それは重なる。

だから、Benjamin Zanderの言葉と情熱に動かされて、「目が輝くこと」を、ぼくは自分の「個人ミッション」の中に取り入れることにした。

目が輝くという<肯定の力>と共に、今日の一日を、ぼくは生きる。
 

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海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

「体育座り」を止めること。- 海外の環境が助けてくれる「unlearning」のプロセス。

日本の国外(海外)にいると、自分が習ってきたこと、学んできたこと、身につけてきたことが、「相対化」されやすくなる。

🤳 by Jun Nakajima


日本の国外(海外)にいると、自分が習ってきたこと、学んできたこと、身につけてきたことが、「相対化」されやすくなる。

日本にいても、意識を高くもって行動していれば、自分を「相対化」することはできるけれど、海外に生活していると、普段の生活の中で、「あれ、こうはしないんだな」といった場面がやってきやすくなる。

「床に座る座り方」も、そのような場面のひとつだったりする。

日本にいて、ぼくが小学校のときから「普通」の座り方としてきた「体育座り(体操座り、三角座りなど)」は、海外ではやはり見ない。

少なくとも、ぼくが目にした記憶はない。

 

日本の姿勢治療家である仲野孝明は、ブログで「体育座りは、今すぐ止めなさい!!」と警鐘をならしている。

仲野孝明の教えを、『座り方を変えれば、身体の疲れがイッキに取れる!』(Gakken)や『長く健康でいたければ、「背伸び」をしなさい』(サンマーク出版)といった著書、それから仲野孝明のポッドキャスト『成功する姿勢力』から、ぼくは学んでいる。

その感覚を信頼する治療家のひとりだ。

仲野は、診察に来た20歳の女性の「数々の不調の原因」をつきとめていくなかで、彼女が好んできた「体育座り」に原因のひとつを見つける。

体育座りをすると、確かに、腰の部分から背中が曲がってしまう。

彼女は、正しい姿勢をしていくことで、不調から解き放たれていったという。

 

「体育座り」の起源は明瞭ではないけれど、仲野は、wikipediaに掲載されている情報、1965年(昭和40年)に『集団行動指導のてびき』として学校教育に入ったのが初めてであることに触れている。

なぜ導入されたのかも不明瞭だが、長時間立っていることで貧血を起こす子供たちの状況に対処するため、とも言われている。

日本独自の座り方であるということだ。

冒頭で述べた通り、海外に生活していて、体育座りは目にしない。

そもそも「床に座る」ということ自体、日本では普通だけれど、海外ではそれほど普通ではない。

西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それから香港と生活をしてきたなかで、ぼくは普段床に座ることはない。

椅子やソファーやベッドに座る。

そのような日本と異なる生活様式の中で、「あれ、こうはしないんだな」というつぶやきを、ぼくの内面ですることになる。

よい習慣であればよいのだけれど、体育座りのような「悪い動きや習慣」であると問題だ。

そして「悪い仕方」を、ぼくたちは盲目に習い、盲目に継続してしまっていたりする。

そのために、習ってきたこと・学んできたことを、一度、意識的に取り除くというプロセスを経る。

「unlearning」のプロセスだ。

Mark Bonchek (Shift Think)が書くように、学ぶことのより深い問題は、learningではなく、むしろunlearningにある。

unlearningを終えて/と同時に、新しい仕方を、意識的に、心身にインストールしていく。

 

海外の生活が15年を超えた今も、このプロセスを起動させる機会がしばしばある。

「座り方」は、まるでアップデートされるOSにいつしか対応できなくなるアプリのように削除され、新しいアプリをダウンロードする。

それほど簡単であればよいのだけれど、人の「習慣」は、削除のボタンを押しても押しても、なかなか削除されない。

海外という環境は、相対化の力と異なる環境の力を発揮して、いくぶんか、このプロセスを助けてくれる。

人と人との<間身体>的な影響と共に、環境に埋め込まれた様式の影響が、ぼくたちに作用する。

床に座る機会を与えないようにして。

ぼくの心身にインストールされている「アプリ」の整理と取り替えの必要性を、ぼくはしみじみと感じている。

 

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「思えば危うし(思即危)」(見田宗介)。- 「明るく安全な世代」における学びと思考。

社会学者の見田宗介が2000年代初頭に書いた「思想の眩暈ー青光赤光白光黒光」という論考を読みながら、ぼくは勝手に「叱咤激励」される。...Read On.


社会学者の見田宗介が2000年代初頭に書いた「思想の眩暈ー青光赤光白光黒光」という論考を読みながら、ぼくは勝手に「叱咤激励」される。

1990年代から2000年代初頭にかけての大学生たちを眼にしながら、「思想の危険」(『群像』発表時の当初のタイトル)ということについて書いた文章だ。

ぼくも同じ時代に大学生であったから、ある意味において、ぼくも「当事者のひとり」とも言うことができる。

結論的な段落で、見田宗介は、「思えば危うし」(思即危)と書いている。

そこに至る論考の道筋を追いながら、「思えば危うし」を見ていくことにする。

 

論考の出発点は、孔子の一節である。

 

「学んで思わざれば即ち罔し(くらし)。思うて学ばざれば即ち殆し(あやうし)。」(孔子)

 

孔子の言説には小さい頃から基本的に反発を感じてきた中で、この一節だけは納得するものであったと、見田宗介は言う。

そして、大学での仕事という経験が、この一節に重なっていく。

 

 大学の仕事をするようになって、この断片への共感は一層確実なものとなるように思えた。いくらよく勉強をしていても、自分の頭で考えない奴は全然ダメである。けれども反対に、いくら自己流に「考えて」いても先行の理論をきちんと押さえていない奴も、「大発見」等と称して的外れの議論をとうとうと展開したりする。学んで思わざるの徒も困るが、思いて学ばざるの徒も困ったものだ、と。

見田宗介「思想の眩暈ー青光赤光白光黒光」『定本 見田宗介著作集X』岩波書店

 

しかし、当時の状況は、見田宗介の納得を「震撼せしめる事態」として起こった。

当時の大学生たちは、どちらのタイプにも当てはまらず、「学んで」いないし、「思うて」いるようにも見えない。

孔子の言葉を応用して言うと「暗く、しかも危うい」ということだけれど、当時の学生たちは、暗くはなく「明るく」、また危うくはなく「安全」である、と。

他方、1970年前後の大学生たちは、「危うい」学生たちばかりであったけれど、充分にまた過剰に「思うて」もいて、はるかに多く「学んで」もいたという印象を、見田宗介は経験の記憶から引き出している。

見田宗介は、こう述べている。

 

 少なくとも二〇世紀後半の日本において興亡する諸世代を見わたしてみた限りでは、危険な世代の青年たちほどよく学び、また多く思考していた。安全な世代の青年たちほど一般に余り学ばず、また思考していない。
 …論理的に整理してみるならば、よく思考する青年は学ばなくても危うく、学んでもまた危ういということになる。考えていない学生は、学ばなくても学んでも危うくはないということになる。つまり、「危うい」ということは人間が「思う」ということ、「考える」ということの結果なのである。

見田宗介「思想の眩暈ー青光赤光白光黒光」『定本 見田宗介著作集X』岩波書店

 

そうして、見田宗介は、「思えば危うし」(思即危。)と端的に記すことになる。

そんな見田宗介はと言うと、2000年頃に『危険な思想家』という本を書かないかと話がもちかけられたが、「じぶんが危険な思想家だからという理由」で、当時は断ったという。

 

この論考を読みながら、ぼくもその粒である「明るく安全な世代」の学びと思考ということを考える。

試験勉強・受験勉強という「勉強ではない勉強」にすっかりと思考の芽をそぎとられてきたぼくの学びと思考。

しかし、芽がつぎとられても「思考の根」は生きてきた。

ぼくの「思考の根」は、アジアへの旅、ニュージーランドでの生活、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、香港などを経ながら、学ぶことと思考することの芽をいっぱいに地上に出している。

空間を移動しながら、しかし実質において「時間」を移動しているような現実にも出会いながら、さらには次なる時代がひらかれようとしていく中で、ぼくの思考の芽は育ってきた。

でも、「危うい」というところまで果たして思考できているだろうか、学べているだろうか、という想念がどうしても浮かんでくる。

「危険な世代」の青年たちのこと、「危険な世代」の青年の学びと思考の真剣さと真摯さを思ってしまう。

「思えば危うし」という真実の前に、ぼくは自分のことを「危うし」と言えるだろうかと疑念をいだく。

『危険な思想家』という本を書くことの依頼が来たら、ぼくは引き受けてしまうだろう。

だから、ぼくは「思想の眩暈」という文章を前に、自分で勝手に、自分を「叱咤激励」している。

ぼくの内面に存在する「危険な思想家」である見田宗介というぼくの「師」が、真剣で真摯な眼差しを、ぼくにおくっている。


追伸:
昨日取り上げた「ブルース・リー」(李小龍)は、「危険な時代」における「思えば危うし」の人物であっただろうと、ぼくは思う。

 

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香港, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港で、ブルース・リー(李小龍)の「生の物語」に触れる。- 「直筆の文字」に、ブルース・リーを視る。

香港文化博物館では、2013年7月20日から2018年7月20日の5年にわたって、ブルース・リー展『Bruce Lee: Kung Fu・Art・Life』が開催されている。...Read On.


香港文化博物館では、2013年7月20日から2018年7月20日の5年にわたって、ブルース・リー展『Bruce Lee: Kung Fu・Art・Life』が開催されている。

ブルース・リー(Bruce Lee、李小龍)は、言わずと知れた、武道家であり映画俳優である。

香港に住んでいてブルース・リーを普段身近に感じることはあまりないけれど、香港と言えばブルース・リーとも見られ、香港の顔でもある。

1940年にサンフランシスコで生まれたブルース・リーは、香港で育った。

それから、18歳でアメリカに渡り、勉学と武道に傾倒していくことになる。

その後アクションスターとなったブルース・リーは、1973年に32歳の若さで他界したが、今でも、多くの人たちを魅了してやまない。

 

ブルース・リー展『Bruce Lee: Kung Fu・Art・Life』では、600点以上もの展示物を陳列し、ブルース・リーの人生の軌跡を追っている。

ブルース・リーが着た「黄色いトラック・スーツ」、ブルース・リーが使ったヌンチャク、数々の写真などなど、ブルース・リーのファンにとってはたまらない展示となっている。

また、ブルース・リーのファンでなくとも、そこに、人を魅了してやまない人物が生きてきた人生の軌跡と魅力を見ることができる。

ブルース・リーという「ひとりの生」の物語が、そこで語られている。

 

渡米したブルース・リーが「哲学」を学んでいたことなど、ぼくはまったく知らなかったから、それだけでもぼくの興味を引くものであった。

アクションスターというイメージからは程遠い哲学ということに、しかし、ブルース・リーという人物を重ね合わせながら、それもわかるような気もした。

そして、ぼくが興味を持ったのは、ブルース・リーの「直筆の文字」であった。

「直筆の文字」に、ぼくは魅かれる。

そこに、その人の生が浮かびあがるような気がする。

同博物館の展示『八代帝居:故宮養心殿文物展』(2017年6月29日ー10月15日展示)においても、ぼくは中国の清代の乾隆皇帝が手書きで書いた文字に魅かれる。

手書きの文字を心の中でなぞりながら、そこに、その人の気持ちを読みとる。

ブルース・リーの几帳面な文字は、ブルース・リーの人となりを物語っている。

 

手書きの文字の中で特に興味を引いたもののひとつは、彼の「武術トレーニング」のメモだ。

メモには、詳細に、トレーニングの仕方が記載されている。

毎日決められたスケジュールにしたがって、たんたんとトレーニングを積んでいくブルース・リーの姿が見えるようだ。

この積み重ねが「ブルース・リー」をつくってゆく。

それから、武術を教えるために(確か)スイスに出張していたブルース・リーが、リンダ夫人に宛てた手紙に、ぼくは魅かれる。

そこには、「ナイトクラブなどには興味なく、リンダのことを考えている」旨が書かれている。

ブルース・リーのリンダ夫人への「配慮」に、ぼくは学ばされる。

それが、「直筆の文字」だからか、気持ちが伝わってくるようだ。

ぼくは、「直筆の文字」とその行間に、ブルース・リーの姿と心情を感じる。

 

ところで、ブルース・リーの令嬢である「シャノン・リー」が、現在「Bruce Lee Family Company」を運営していて、Podcast『Bruce Lee Poscast』(英語)を世界に向けて届けている。

Podcastは、ブルース・リーの生と哲学からの学びを届けている。

53話(2017年7月6日発信)は、「Meaning of Life」(人生の意味)と題されている。

ブルース・リーは、人生の意味について、「The meaning of life is that is to be lived.」と述べていたという。

シャノン・リーは、こう付け加えている。

 

What he means by this is that life is meant to be engaged with, present in, taking action toward; it is not to be conceptualised or only thought about, but actually participated in.
(この言葉で彼が言おうとしていることは、人生というのは、関わるものであり、そこに在るものであり、それに向かって行動をするものである。人生は、概念化されるものではないし、またただ考えるものでもなく、実際に参加するものである。)

Podcast『Bruce Lee Poscast』「Meaning of Life」

 

また、ブルース・リーは、「water(水)」(の流れ)を人生のメタファーとしていたことに触れ、さらにこう付け加えている。

 

Living exists when life through us - unhampered in its flow….
(人生がその流れを妨げられずにわたしたちを通過するとき、生きることは在る。)

Podcast『Bruce Lee Poscast』「Meaning of Life」

 

ブルース・リーは、哲学を学んできたことからも推測されるように、けっして考えなかったわけではないし、誰よりも考え、学ぶことを生きてきたはずだ。

しかし、ブルース・リーは、人生を生きるというより、<生きるということに生きてきた>ということである。

人生というものがあってそれを生きるのではなく、水のように流れる生そのものに内在して生きてきたということだ。

そして、シャノンが繰り返し述べているように、その流れのなかで、学び続け成長していくことを、ブルース・リーは生きた。

展示にあった「直筆の文字」も、そのようなブルース・リーの一面を確実に語っているように、ぼくには見えた。

人生「を」生きるのではなく、人生をぼくたちに「通過」させること。

そのときに、人生は、ぼくたちが思いもしなかった仕方で、ぼくたちの前に現れるのかもしれない。

ブルース・リーの生がそうであったように。
 

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「理論」と「実践」を、<理論「と」実践>にして生きること。- 真木悠介の硬質な言葉に共感しながら。

理論と実践ということは、「理論」と「実践」というように、しばしば、それぞれが分けられて語られる。...Read On.


理論と実践ということは、「理論」と「実践」というように、しばしば、それぞれが分けられて語られる。

理論派は実践派を批判し、実践派は理論派を批判する。

近現代の社会における「分業」は、例えば、「理論」を学者にたくし、「実践」をビジネスパーソンにたくしてきた。

学問の内部においても「分業」はすすみ、それらは「専門性」としてたちあがることで世界をひらいてきたと共に、いつしか、自身を「狭い世界の理論」におしこめてしまう。

ビジネスの内部においても「分業」はすすみ、それらは「専門」や「担当」としてたちあがることで効率を高めてきたと共に、いつしか、自身を「狭い世界の実践」におしこめてしまう。

「分業」がきりひらいてきた世界を肯定的に享受しながら、しかし、「狭い世界」を別の次元に向けてきりひらいていくことが、これからの課題である。

理論と実践ということで言えば、それぞれの間にある「と」というつながりを取り戻しながら、理論と実践の間の緊張感と相乗的な発展をクリエイティブにつくっていくことが大切になってくる。

「理論」も「実践」もそれぞれに大切であり、そして双方を有機的につなげて、いわば<理論「と」実践>としていくことである。


 

社会学者の真木悠介は、硬質な「理論」を展開する著書『現代社会の存立構造』(1977年)の「結」において、「理論と実践」について、次のように書いている。

 

 生の実践においては、つかのまの対話が人間の歴史を包含し、瞬間が宇宙を包含するという構造に私は賭けたい。しかし理論というものは、まさしくこのような生の全一性からの、方法的な自己疎外として、総体性をめざす実践が必然的にとらざるをえない迂回の契機として存立する。

真木悠介『現代社会の存立構造』筑摩書房

 

このように、「生の実践」において、真木悠介は、「理論」を「方法的な自己疎外として…必然的にとらざるをえない迂回の契機」としている。

なお、誤解のないように付け加えておくと、真木悠介(=見田宗介)は、他のところで、「人生のぜんたいが論じるよりも、するものだ」と書いている。

 

…わたしは…人生のぜんたいが「論じるよりも、するものだ」と考えている。論を大切にしないということではない。千倍もさらに大切なものがあるだけだ。…「思想を実践する」といった倒錯した生き方をしたくないと思う。…

見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫

 

徹底した理論家・思想家でもある真木悠介(=見田宗介)は、しかし、「方法的な自己疎外」として、「迂回の契機」として、理論という仕方で根柢的に考えるということを大切にしている。

そのことについて、真木悠介は「迂回の契機としての理論」ということを述べた後につづけて、次のように語っている。

 

…なるほどこのような理論のもつ自己疎外化的な構造に即時的に内在するのが近代理性の地平ではあるが、今この地平をやみくもに否定するために、即自的実践の地平にたいして屹立する理論の次元をただちに解消してしまい、理論と「実践」のはらむ緊張をたんに無矛盾化し無構造化してしまうならば、実践は情況のめくるめく推転のうちにただちに足をすくわれてしまうであろう。また理論化的営為というものを、みじかい回路で「実践」と短絡させることをあせるならば、「理論」はたんなる実用的スローガンまたは空疎な文明論に解体し、真に総体的・根柢的な実践の根拠とはなりえぬであろう。

真木悠介『現代社会の存立構造』筑摩書房

 

肯定的に言い直せば、次の二つのことが大切である。

●理論と実践のはらむ緊張の中に生きること

●「真に相対的・根柢的な実践の根拠」となるまで理論化を行うこと

現代のいろいろな場面において、この二つのことが生きられていない現場を、ぼくは目にすることになる/直面することになる。

生きることの日々の忙しさの中で、「迂回の契機」を見つけることができずに(見つけるという「選択」をせずに)、実践にうちこみ、明け暮れて、いつしか「懐疑」だけが募っていく。

あるいは、理論化的営為という迂回の契機が、「迂回」ではなくなり、いつしか「中心」になってしまい、生のバランスを欠いてしまう。

あるいは、理論化的営為を、「みじかい回路で実践と短絡させる」ことで、実践が、世界をきりひらくことなく、時代の流れに流されていく。

 

だから、ぼくは、「理論」を学びながら、考えながら、つくりながら、「実践」のことを念頭においている。

「実践」をしながら、現実の中に埋もれてはそこから起き上がり「理論」へとつなげることを考える。

「理論」と「実践」の間にある「と」の緊張感を生きながら、「と」の矛盾に生きながら、<理論「と」実践>へと、実践しながら、問題解決の次元をあげていくことをあきらめない。

真木悠介が『現代社会の存立構造』を書いた1970年代に比べても、今、そしてこれからの時代においては、「と」が、緊張と矛盾を、想像以上に大きくしている/していく。

<理論「と」実践>という「装置」を自分に埋め込むことで、ぼくは「成長」ということの実質を生きている/いく。

 

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「プロフェッショナル」を追い求めてきて。- 「プロフェッショナル」と「アマチュア」の違い。

「プロフェッショナル」であること、またあり続けること。そもそもプロフェッショナルであることとは何であるか。...Read On.

「プロフェッショナル」であること、またあり続けること。

そもそもプロフェッショナルであることとは何であるか。

この問いの後ろには、プロフェッショナルではない、つまり「アマチュア」であることとは何であるかという問いが並走している。

ここで書いていることは、単なる専門性(専門知識・技術)を有する職業ということではない。

ここで書こうとしていることは、広い意味での、プロフェッショナルとしてのあり方のことである。

プロフェッショナルと呼ばれる人たちはどういう人たちなのか。


ぼく自身のことで言えば、生きていくなかで、仕事をするなかで、「プロフェッショナル」であることを、ぼくは追い求めてきた。

「学問」においては、例えば、社会学者の見田宗介先生の著作群から、ぼくは「プロフェッショナル」ということを学んできた。

見田宗介先生の圧倒的な著作が、ぼくの目の前にある。

それらの「成果」、目指すもの・こと、理論、考えること・論理、文章の質・生きている文章、姿勢、研究のプロセスなどが、それらに凝縮されている。

「学問」という垣根を瓦解し、生という領域ににじみでてくる仕事に、ぼくは、言葉にならないほどに深い感銘を受けてきた。

そのような出会いの恩恵も受けて、国際支援のプロをめざし、ぼくは大学院で徹底的に学ぶ。

 

日本に本部をおく国際NGOで働くようになってからは、NGO職員として「プロフェッショナル」ということを、しばしば考えさせられた。

ぼくが働いていた2000年代初期においては、NGOは日本社会の中での認知がまだ十分でない時期であった。

とかく「ボランティア」と思われがちであった。

世界の現場に出ると、プロとしての仕事が期待され、求められる。

緊急支援・国際支援のプロとして、「プロフェッショナル」であることを、専門性という視点でもつきつけられてきた。

紛争後の状況などの現実に対峙しながら、そしてその現実のあまりの大きさ(測ることのできない大きさ)に圧倒されながら、である。

 

香港にうつって、人事労務コンサルタントとして仕事をするようになってから、上司がリスト化する「プロフェッショナルとアマチュアの違い」から学ぶ。

「プロは…する。アマチュアは…する/しない」という対比のなかで、プロフェッショナルのあり方を明確にしていく。

プロフェッショナルの定義を、項目・トピックごとに、より具体性におとしていく作業だ。

リストを見ながら、自分の仕事の仕方を見直すことにもなる。

 

また、香港人のお客様からのメール(英語)の言葉に、ときおり、ぼくは期待され、励まされ、気持ちをまっすぐに整えることになった。

「Thank you for your professional advice.」的な言葉がメールで、ぼくに送られる。

それは、アドバイスを求められる最初に、「前もって(in advance)」で、ぼくに向けられることもあれば、逆に、コンサルテーションが終わる際にいただく「お礼」として述べられることもあった。

この有難い言葉に、ぼくは姿勢を正し、励まされる。

しかし、他方で、その言葉は重くぼくにのしかかってくる。

コンサルタントに求められるレベルは果てしなく、その果てしない地平に、「プロフェッショナル」という言葉が重なったのだ。

ぼくはこのような時期に「野口晴哉とカザルス」に出会う。

野口晴哉の整体とカザルスの音楽。

それらは、果てしない地平の彼方にある<プロフェッショナルを超えるプロフェッショナル>のようなものとして、ある種の「完全性」のようなものとして、ぼくの前に屹立した。

 

そして、昨日、ダニエル・ピンクのメルマガにピックアップされた記事に、再び、「プロフェッショナルとアマチュアの違い」というテーマの前に連れ戻される。

記事のタイトルは、まさしく「The Difference Between Amateurs and Professionals」(アマチュアとプロフェッショナルの違い)。

20ほどの項目にわたり、「アマチュアは…である。プロフェッショナルは…である」のリストが書かれている。

例えば、こんな具合だ。

 

●Amateurs stop when they achieve something. Professionals understand that the initial achievement is just the beginning.
(アマチュアは何かを達成してストップしてしまう。プロフェッショナルは最初の達成は始まりにすぎないことを理解する。)

●Amateurs have a goal. Professionals have a process.
(アマチュアは目標をもつ。プロフェッショナルはプロセスをもつ。)

Farnam Street「The Difference Between Amateurs and Professionals」(※日本語訳はブログ著者:中島)

 

「プロフェッショナルはプロセスをもつ」ということは、ここでは、目標を<習慣化のプロセス>に変換させていくことである。

「習慣の力」を知るプロフェッショナルは、目標をもつだけでなく、それを「習慣」にするために行動していく。

 

このような項目と対比は、さまざまに書くことができる。

この記事は、そのことを指摘した上で、(抽象的に)落とし込んでいくと最終的に二つになることを書いている。

二つとは「Fear(恐れ)」と「Reality(リアリティ・現実)」だ。

記事はこんな風に説明している。

 

Amateurs believe that the world should work the way they want it to. Professionals realize that they have to work with the world as they find it. Amateurs are scared — scared to be vulnerable and honest with themselves. Professionals feel like they are capable of handling almost anything.
(アマチュアは世界が自分たちが望むように動くことを信じる。プロフェッショナルは自分たちが出会う/経験する世界と仕事をしなければいけないことを認識する。アマチュアは脆弱であることや自分自身に正直になることを恐れる。プロフェッショナルはほとんどすべてのことに対処できると感じる。)

Farnam Street「The Difference Between Amateurs and Professionals」(※日本語訳はブログ著者:中島)

 

アマチュアの行動やあり方は「恐れ」から出てくること、この視点はある種の真実を伝えているように、ぼくは思う。

「恐れ」を抱いてはいけないということではなく、また「恐れ」を契機としてはいけないのではなく、「恐れ」を行動やあり方が生まれる源泉としてはならないということ。

仕事をすることでも、人に接することでも、そして生きていくことにおいても、それはとても大切なことである。

この短い記事を読みながら、これまで「プロフェッショナル」を追い求めてきたことを思い出し、これからも「プロフェッショナル」を追い求めてゆくことを自分に言い聞かせる。

たとえ今日「プロフェッショナル」であったとしても、明日「プロフェッショナル」でいられるとは限らないから。

 

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書籍, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

世界に生きてゆくなかで心構えとしての「野生の思考」。- レヴィ=ストロース著『野生の思考』に教えられて。

自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。...Read On.


自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。

いろいろな文化や習俗など、世界でぼくが出会うものを理解しようとする。

「それはおかしい」と口に出てきそうになる言葉をおさえて、一歩立ち止まり、そこに流れている「論理」をつかもうとすること。

相手の考え方ということだけにとどまらず、相手という他者の考え方や行動を規定するようなことの「論理」のレベルにて理解をしようとすることを、ぼくは心がける。

 

そのような姿勢を教えてくれた書のひとつが、人類学者のレヴィ=ストロースの名著『野生の思考』(みすず書房)であった。

15年ほど前に、途上国の開発・発展という問題、南北問題、貧困問題などを追いかけているときに、手に取った。

書名にも冠せられた「野生の思考」とは、「未開と文明とを問わず、すべての人間に開かれている根源的な思考の次元」(『社会学事典』弘文堂)である。

 

『野生の思考』の中で、次の引用にはじまり、このように語られる箇所がある。

 

『科学者は、不確実や挫折には寛容である。そうでなければならないからである。ところが無秩序だけは認めることができなし、また認めてはならないのである。…科学の基本的公準は、自然がそれ自体秩序をもっているということである。」(Simpson)

 われわれが未開思考と呼ぶものの根底には、このような秩序づけの要求が存在する。ただしそれは、まったく同じ程度にあらゆる思考の根底をなすものである。私がこのように言うのは、共通性という角度から接近すれば、われわれにとって異質と思われる思考形態を理解することがより容易になるからである。

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房


「秩序づけの要求」という次元においては、未開思考も文明の思考も、思考形態としては共通している。

「未開」は思考できないのではなく、異質と思われる仕方で思考している。

まったく理解できない「未開の地」であったとしても、そこの社会の中で「秩序づけられた思考形態」がある。

その「思考形態」という「論理」を、つかみだそうとすること。

未開に限らず、異質の文明・文化の世界に中にあっても。

当時、全体を深く読みきれなかった『野生の思考』の中から(それでも)教えられたことのひとつとして、このことが、その後のぼくの「世界で生ききる」ことの姿勢として、ぼくの中に埋め込まれている。

 

このことを、大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)に出てくる、パキスタンの「職業的乞食」と思われる男のエピソードを読んでいて思い出した。

この男は、小銭を施された際に一言も礼を言わない、というところから始まるエピソード。

詳細はここでは書かないけれど、「イスラーム世界」における「秩序(と思考形態)」を理解しなければ、この謎はとけない。

しかし、言えることは、そこにはきっちりと「秩序(と思考形態)」があることだ。

この男は無礼なのではなく、この「秩序」のなかで、心豊かに生きている。

ぼくたちは、その「心の豊かさ」を視るための<視覚>を手にいれなければならない。

そのようなことを考えながら、『野生の思考』のレヴィ=ストロースにまた学ぶ時期がきたのかもしれないと、ぼくは思う。

<じぶんが準備できたとき>に、「師」はあらわれる。

 

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シエラレオネ, 成長・成熟 Jun Nakajima シエラレオネ, 成長・成熟 Jun Nakajima

世界をまっすぐにみることの「気づき」。- W・ユージン・スミス、亀山亮、石牟礼道子の<視覚>。

「気づかせることが唯一の強さだ」。写真家W・ユージン・スミスの言葉を、ぼくは写真家の亀山亮の写真ドキュメンタリーから知り、印象付けられた。...Read On.


「気づかせることが唯一の強さだ」

写真家W・ユージン・スミスの言葉を、ぼくは写真家の亀山亮の写真ドキュメンタリーから知り、印象付けられた。

亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)の「あとがき」に置かれた、亀山亮が大切にする言葉。

 

W・ユージン・スミスの写真は「水俣」の惨状を切り取ったものが、小さい頃のぼくの脳裏にもやきついている。

ユージン・スミスの生い立ちをみていたら(※参照:wikipedia「ユージン・スミス」)、第二次世界大戦でサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として赴き、沖縄で砲弾により負傷していることを知る。

時を経て、「水俣病」の実態を写真におさめ、座り込みにも参加したという。

1972年にチッソ工場に訪問したときには、暴行を受ける事件にまきこまれ、カメラが壊され、そして片目を失明している。


それから30年後の2000年、亀山亮はパレスチナで、イスラエル軍の撃ったゴム皮膜弾が左目に当たり、片目を失明した。

彼は「海外に出た初めの頃」のことを、次のように書いている。
 

 海外に出た初めの頃は、ただひたすら他の世界を見たかった。また日本の鵺のような実体がない場所に、うんざりしていた。いち早く脱出したいと思っていた。自分自身も変えたかった。頭で理解するのではなく肉体で感じたかった。…

亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)

 

ぼくと同年代の亀山亮もぼくも同様の「衝動」を感じながら海外に出て、彼は「写真で何ができるか」を問いながら「写真」に生き、ぼくは「開発とは何か」を問いながら「国際支援」へと生きることの舵をきった。

そして2003年、亀山亮とぼくの人生が、シエラレオネで交差することになったのだ。

彼はその後も、「気づかせることが唯一の強さだ」の生き方をおいもとめるように、メキシコ、アフリカ、沖縄などで写真をとりつづけている。

カメラのピントを合わせるために失明していない右目を使い、もう片方の目で「気づき」への渇望を欲する現実へと<感覚の焦点>を合わせながら。

 

作家の石牟礼道子は「水俣」と共に生きてきた。

その石牟礼道子の目がほとんどみえなくなったころのエピソードを、真木悠介が書いている。

 

 人づてに聞いた話だけれども、石牟礼道子さんの目がほとんどみえなくなったころ、水俣の告発する会のある集会の終わったあとで、若い人たちがワイ歌など歌っていると、石牟礼さんが一人細い声で、童謡かなにかを歌っている。いつともなく他の人たちが歌うのをやめて、その声に聴きいっていると、石牟礼さんがふと、一人ずつ私の方に顔を向けて、いっしょに歌ってくださいと言って、それから順番に一人ずつ、デュエットで歌っていったという。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)

 

このエピソードを聞いたときに感じたことを、「全く私の独断として読んでほしいのだけれど」と断りながら、真木悠介は次のように書いている。

 

…そのとき私には石牟礼さんが、死ということを感覚しておられるように思われて仕方がなかった。自分がもうすぐ死ぬということではなくて、私たちすべて、やがて死すべき者として、ここに今出会っているということのふしぎさ、いとおしさである。

真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)

 

ぼくもときおり、ふとしたときに、「私たちすべて、やがて死すべき者として、ここに今出会っているということのふしぎさ、いとおしさ」としか言いようのないような感覚を覚えることがある。

このような感覚に包まれるとき、人も世界も、いつもとはちがった様相をぼくにみせてくれる。

そのような<視覚>を、闇にまっすぐに対峙してきたW・ユージン・スミス、亀山亮、石牟礼道子が、差し出してくれている。

 

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異なる「時間の流れ」の間隙で、仕事をすること。- 「タイム・トラベラー」として世界で生ききるということ。

それぞれの社会に流れる<時間>、つまり人びとの振る舞いや動き、人と人とのやりとりなどのに感じられる総体としての<時間>は、それぞれの場所で異なって現れる。...Read On.

それぞれの社会に流れる<時間>、つまり人びとの振る舞いや動き、人と人とのやりとりなどに感じられる総体としての<時間>は、それぞれの場所で異なって現れる。

ブログ『異なる「時間の流れ」の中に身をおくこと。- 世界は「いろいろ」に現象する。』(8月16日)にて書いたように、例えば「海外」という異なる社会に身をおいたときに、その社会の「時間の流れ」は、いろいろに感じられる。

それは、ぼくに「感覚としての自由」を与えてくれる。

 

しかし、他方、現実問題として、異なる社会の間で「仕事」をするようなとき、共通の「(時計的な)時間」のもとで、「いろいろに現象する時間感覚」は、フラストレーションの源泉ともなることがある。

1日24時間という「時間」を基準として仕事をしながら、しかし、Aという場所での「時間の流れ」とBという場所での「時間の流れ」が異なる。

それぞれの場所にいる人たちは、自分たちのいる場所の「時間の流れ」を、当たり前のこととして仕事をし、相手側の「時間の流れ」を感じることができないことから、「時間の流れのギャップ」が生じる。

 

ぼくが、東ティモールで仕事をしているときは、よくそんなことを感じた。

「途上国」的な時間の流れ、その流れで人や組織が動くようななかで仕事をしながら、日本とのつながりのなかで「日本的な時間の流れ」が仕事に混入してくる。

それは、具体的な仕事の流れから、自分のマインドセットに至るまで、自分(また組織)の仕事のいろいろなレベルにおいて影響を与える。

「東ティモールという外部環境」のなかでは、その時間の流れにあわせて動いたりしながら、他方で、コンピューターや電話越しに対峙する「日本という外部環境」のなかで、日本的な時間の流れにあわせて動いていく。

そのように、自在に行き来する柔軟さが求められる。

 

また、香港で仕事をしてきて、今度は香港と日本それぞれの時間の流れの相対性のなかに置かれる。

この相対性におけるギャップは、時間はもとより、そこに付随するような仕事の仕方など、重層的に影響を与えることから、フラストレーションがたまる。

香港という、実行・実施におけるスピードの速い社会においては、そこの断面における、日本の(判断・決断や実行の)「遅さ」が浮かびあがってくる。

異なる社会の「間」で仕事をしていくなかで、「(時計的な)時間」の共通尺度のもと、それでもそれぞれの社会に流れる<時間>を自由に行き来することが大切だ。

 

「(時計的な)時間」という共通尺度をもったこと、またその全世界的な浸透ということは、現代のグローバル化の素地を用意したことであり、それはぼくたちの「世界」をひらいてきた。

今こうして、世界で仕事をし、世界を旅し、いろいろな人たちと会ったりコミュニケーションがとれるのも、この「(時計的な)時間」のおかげである。

しかし、それぞれの社会には、それぞれに内的な<時間>が流れている。

そのことは、ときに、ぼくたちに「世界はいろいろに現象する」という<自由な感覚>を与えてくれるけれど、他方で、何か共通のものを一緒に目指すときには<困難な感覚>と現実的な困難の源泉ともなることがある。

グローバルに生きてゆくということは、これらの意味において、「タイム・トラベラー」になるということでもある。

仕事における日々の「タイム・トラベル」は大変だったりするけれど、それでも、「タイム・トラベル」は、総体としては自由の感覚をぼくに与えてくれる。

そして、ひとつの社会の「時間の流れ」ともうひとつの社会の「時間の流れ」という<相対性>のなかで、ぼくたちは「相対化の力」を手に入れることができる。

つまり、ひとつの社会が「絶対的なもの」ではなく、それを相対化してみせることで、社会や組織、それからひとりの人の生き方にいたるまで、「世界をひらいていくこと」の契機としていくことができる。
 

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年長のスポーツ選手たちとその風景に未来を視る。- BBC記事「In pictures: Photographer 'in awe' of older athletes」より。

英国BBCの記事に「In pictures: Photographer 'in awe' of older athletes」という記事が載った。...Read On.


英国BBCの記事に「In pictures: Photographer 'in awe' of older athletes」(※リンクはこちら)という記事が載った。

「In pictures」と題されるように、写真が並べられている。

Alex Rotas氏(68歳)が、写真を60歳で始め、60代を通じて撮ってきた「年長のスポーツ選手たち」の写真の一部だ。

今回は、ロンドンで行われた、年長者たちの競技会の写真が掲載されている。

 

写真からはAlex Rotas氏の写真にかける情熱が伝わってくる。

60歳で写真を始めた彼女は、「年長のスポーツ選手たち」の写真がないことに気づく。

インターネットの検索で「old」をかけてでてくるのは、椅子にしずみこむように座る老人たちであったという。

それから撮り始めた「年長のスポーツ選手たち」の写真からは、<深いもの>が伝わってくる。

60代から90代という年長のスポーツ選手たちは、彼女が語るように、年長者の身体たちが達成できることはにわかに信じがたいほどだ。

大会では、5歳ごとに分けられているようだ。

例えば、70歳から74歳。

記事の最初にかかげられるAngela Copson氏は、70歳から74歳の部で、1万メートル(10キロ)走で、世界新記録の「44分25秒」をうちたてている。

その他の写真では、走り幅跳び、ホーガン投げ、ハードル走などの写真が掲載され、やはり<深いもの>が伝わってくる。

その<深いもの>を、Alex Rotas氏は、涙と畏怖の念が半々だと語る。

 

ぼくも、これらの写真と文章をみながら、深い感動と畏怖の念を抱く。

「年長のスポーツ選手たち」の顔や身体から伝わってくる真剣さ、歓びなどが、写真の画面からあふれでている。

他方で、ぼくは「不思議な感覚」のなかになげこまれる。

その感覚を丁寧にほりおこしていくと、ぼくは「未来の世界」になげこまれていることを感じている。

今でこそ、これらの写真が「稀なもの」として掲載されているけれど、ぼくは未来ではこれが日常になるのではないかと、そしてその「日常」の風景を見ているように感じたのだ。

「人生100年時代」、あるいはそれを少し超える人生110年・120年の風景だ。

 

「世界」は二つの方向性において、ひろがりをつくっている。

ひとつは「グローバルという方向性」であり、もうひとつは「人生100年時代という方向性」である。

つまり、空間のひろがりであり、時間のひろがりである。

ぼくたちの生は、この「時空間のひろがり」のなかで、新たな生き方をひらき、そして新しい見方と考え方と方法を要請している。

 

Alex Rotas氏は、最後に、こんな風に語っている。

 

Everyone has a story and everyone’s story is different.…
(誰もが物語をもっていて、それらは異なっている。)

I love being a beginner.
(私はビギナーであることが大好きなんです。)

BBC「In pictures: Photographer 'in awe' of older athletes」(*左記リンク)

 

70歳に近い彼女は「新しいことを始める」ことに歓びを見出している。

生きることの「時空間のひろがり」のなかで、そこに、ぼくは「未来」の風景を視ている。

 

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「ラバー・ダック・デバッグ(Rubber Duck Debugging)」という方法。- ダニエル・ピンクに習う問題解決の方法。

コンピューター・プログラマーが、プログラミングにおける「問題解決」の方法として、「ラバー・ダック」を使うという。...Read On.

コンピューター・プログラマーが、プログラミングにおける「問題解決」の方法として、「ラバー・ダック」を使うという。

この方法は「ラバー・ダック・デバッグ(Rubber Duck Debugging)」という。

「ラバー・ダック」は、ラバー・ダックである。

ゴムでつくられたアヒルの玩具である。

巨大なラバー・ダックがメディアを騒がすこともあり、いつだったか、ここ香港にも巨大なラバー・ダックが「寄港」していた時期がある。

小型のものは、お風呂に浮かべて遊ぶ、あのラバー・ダックである。

「デバッグ」とは、コンピューター・プログラムにおけるミスを見つけて、修正を施すこと。

だから、言葉通りには、「アヒルの玩具を使ったコンピューター・プログラムの修正」である。

 

さて、どのように、アヒルの玩具を使うのか。

コンピューター・プログラムのコードを、玩具のアヒルに向かって説明するのだという。

コードをラインごとに。

玩具のアヒルに向かって。

この説明のプロセスにおいて、解決策を思いついたりするのだという。

玩具のアヒルである必要はなく、「他者」であればよいようだけれど、プログラミングの著作のひとつが方法を紹介することで、「ラバー・ダック・デバッグ」が知られるようになったようだ。

Wikipediaにおいても、しっかりとページがつくられている(*Wikipedia「Rubber Duck Debugging」。ただし、日本語がない)。

 

ぼくが、この方法を知ったのは、ダニエル・ピンク(Daniel Pink)の動画からだ。

「Pinkcast」と呼ばれるダニエル・ピンクのヒント動画シリーズのなかで、取り上げられたのだ。

その回は「How a Simple Bath Toy Can Solve Your Toughest Problems」(いかにして、シンプルなお風呂の玩具があなたのもっともタフな問題を解決することができるか)と題されている(*動画はこちらから。英語。89秒の動画である)。

ダニエル・ピンクは、プログラマーでもなんでもなく、以前はホワイト・ハウスでの勤務経験もある作家である。

書籍は日本語訳されており、『モチベーション3.0』や『人を動かす、新たな3原則』などがここ最近は出されている。

そのダニエル・ピンクが、「どんな仕事にも適用できる方法」として適用範囲をひろげて、この「ラバー・ダック・デバッグ」の方法を紹介している。

ダニエル・ピンクの経験が重ねられて、「効果」があることが説明される。

ぼくたちは、友人や同僚などに、言葉で説明をしているうちに、相手が一言も話さなくても、じぶんで「答え」を得たりすることがある。

相手として、コンサルタントやコーチということもあるだろう。

その相手が、「玩具のアヒル」である。

 

能動的に説明をするプロセスで、考えが整理されたり、その隙間からヒントが出たり、言葉と感情の照らし合わせをしたり、ぼくたちの「内面」ではいろいろな作業が進行する。

だから、これ自体が新しいことではない。

しかし、相手が玩具のアヒルだということ、実際に使われていること、そして実際に効果が出ていることに、感銘を受ける。

ひとりでもできるし、また「玩具のアヒル」はリラックス効果を発揮するのかもしれない。

 

ぼくは、頭の中で考えたり、書きながら考えを構築していく。

そこで、問題解決の糸口をさぐったりする。

まだ「ラバー・ダック・デバッグ」を本格的には実践していないけれど、当面、試してみようと思う。

でも、「ラバー・ダック」ではなく、代わりのもので。

いや、やはり、多くの人をひきつけてやまない「ラバー・ダック」には、特別なプラスアルファの効果があるのだろうか。

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「カキフライ理論」(村上春樹)にうなってしまう。-「りんごの果肉(理論)」(見田宗介より)に繋げて。

村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。

🤳 by Jun Nakajima

 

村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。

知らない方向けに、まずは「カキフライ理論」について、である。

村上春樹のところにきた質問のなかに、こんな質問があった。

「入社試験で原稿用紙三枚なら三枚ぐらいで自分について書きなさい」という試験問題があって、「そんなもの、原稿用紙三枚ぐらいで書けるわけない。村上さんだったら、どうしますか」という質問である。

村上春樹の「カキフライ理論」はここで登場する。

 

…そういうとき、僕はいつも言うんだけど、「カキフライについて書きなさい」と。自分について書きなさいと言われたとき、自分について書くと煮つまっちゃうんですよ。煮つまって、そのままフリーズしかねない。だから、そういうときはカキフライについて書くんですよ。好きなものなら何でもいいんだけどね、コロッケでもメンチカツでも何でもいいんだけど…

村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)

 

この「アドバイス」の素晴らしさに、ぼくはうなってしまう。

村上春樹は、丁寧にポイントを伝えている。

 

…僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。一番必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くことには大事なことだと思うんですよね。

村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)

 

村上春樹が書くように、自分とカキフライの間の「距離」が自分を語る。

その「距離」から生み出される「物語」が、自分を語るということ。

 

それにしても、「カキフライ理論」という命名と方法の妙に、ぼくは幾度もうなってしまう。

理由の一つ目は、誰でもがわかる名前であること。

理由の二つ目としては、忘れられない命名であること。

それから、三つ目として、やはり「カキフライ」であること。

「べつにカキフライじゃなくてもいいんだけど」と言う村上だが、ぼくは、やはりこれはコロッケでもメンチカツでもなくて、「カキフライ」ではなくてはならなかったのではないかと思う。

この理論を特別なものとするのは、あるいは村上春樹の理論とするには、やはり「カキフライ」でなくてはならなかったのではないかと思うのだ。

 

「カキフライ理論」を知ってから、「カキフライ」について原稿用紙三枚ぐらいで書こうとは思って、でもまだ書けていない。

その代わりに、旅を書き、シエラレオネや東ティモールを書き、コーヒーを書いては麺を書いたりしている。

 

ここで終わってしまっては「別の視点」はなくなってしまうので、「りんごの果肉理論」につなげておこう。

「りんごの果肉理論」は、そのような言葉はないけれど、発想そのものは社会学者の見田宗介からである。

見田宗介は「自分について」ではないけれど、「宮沢賢治について」を、本一冊(『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店)かけて書いている。

(カキフライ理論の発祥のもとになった「自分」ということにつながるのだけれど)<自我>という問題を追い求める、この著書の「あとがき」で、見田宗介はこんなことを書いている。

 

 この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。

見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店

 

これが、ぼくが勝手になづける「りんごの果肉理論」だ。

世界の「中心的なものの構造」は、語ることが難しく、そして語ることで世界の面白さを脱色してしまう(金の卵を産む卵をどこまでも解体しても、そこには肉の塊があるだけだ)。

「中心」は語るのではなく、それに「陽射された世界を語ること」と、見田宗介(真木悠介)は別のところで書いている。

中心(芯や種)に照らされるのが、<果肉>だ。

りんごの芯や種はかじってもおいしくないけれど、ぼくたちは<果肉>を楽しむことができる。

「カキフライ」は、<果肉>である。

 

上記の文章につづけて、見田宗介はこのように語る。


 そしてこのような様式と方法自体が、<自我>をとおして<自我>のかなたへ向かうということ、存在の地の部分への感度を獲得することという、この仕事の固有の主題と呼応するものであることはいうまでもない。
…この書物を踏み石として、読者がそれぞれ、直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の、果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それでいいと思う。

見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店

 

村上春樹が言うように、「自分」を書くことはどこかで煮つまってしまう。

見田宗介が言うように、「りんごの芯や種」をどこまでも解体し分解しても、果肉のおいしさはみつからない。

カキフライが、りんごの果肉が、この世界の<おいしさ>なのだ。

ぼくたちはただ、それらの<おいしさ>を楽しみ、豊饒に生きてゆくことへと生を解き放つこと。

 

このように、カキフライ理論は、じつは、深みと可能性をもった理論である。

それにしても、「カキフライ」について書こうとすると、つい「生カキ」が頭に浮かんで、ぼくのなかでは「カキ理論」になってしまう。

「フライ」の部分が取り去られてしまう。

だからっていうわけではないけれど、上述のように、「カキフライ」についてはまだ書いていない。

でも、「カキフライ」を題名にして、カキフライではなく「カキ」について書くことが、「ぼく」自身について書くことなんだろうなと、今書いていて、ぼくは気づく。

カキフライも、カキも、深い。

世界は<おいしさ>に充ちている。
 

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ぼくの「本の読み方」(学び方)のひとつの例。- Terry Warner著『Oxford Papers』を題材に。

ぼくにとってとても刺激的で興味が尽きないけれど、格闘している書籍。『Oxford Papers』と題された書籍。...Read On.

ぼくにとってとても刺激的で興味が尽きないけれど、格闘している書籍。

『Oxford Papers』と題された書籍。

著者は、哲学者であり、The Arbinger Instituteの創業者であるC. Terry Warner。

The Arbinger Instituteは、アメリカに拠点をおき、個人・組織・企業に研修、コンサルティング、コーチングなどを提供する機関である。

The Arbinger Instituteの名前のもとに出版されたベストセラーに、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』がある。

日本でも、『自分の小さな「箱」から脱出する方法』(大和書房)として出版され、ベストセラーとなり、今でも読者を獲得している。

 

『Oxford Papers』(The Arbinger Institute)は、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』(『自分の小さな「箱」から脱出する方法』)の理論的バックボーンとなった論文集である。

所収されている論稿は、次のような内容だ。

【Contents 目次】

I   Anger and Similar Delusions
II  Locating Agency
III Self-deception as a Vacuous Experience
IV The Social Construction of Basic Misconceptions of Behaviour
V  Irony, Self-deception and Understanding

 

「self-deception(自己欺瞞、自分をだますこと)」の研究に献身してきたC. Terry Warner氏の理論が集められており(Oxfordで準備された文章である)、哲学者・心理学者Ram Harreが評するように、この理論的な仕事は「深く、そして重要」である。

その深さとアカデミックな書式・文体もあり、とても難しく、とっつきにくい内容だ。

その難しさゆえに、もっと「一般的な読者」向けにと書かれたのが、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』(『自分の小さな「箱」から脱出する方法』)である。

でも、この『Leadership and Self-Deception』も、実はとても深い。

これらの深さと複雑さは、「self-deception(自己欺瞞、自分をだますこと)」そのものから来ている。

むしろ、だからこそ、「self-deception(自己欺瞞、自分をだますこと)」が、強固な仕方で、ぼくたちを「箱」のなかに閉じ込めているとも言える。

「箱」は、自分自身が自分自身をだましながらつくる「現実」という名の「世界」だ。

『Leadership and Self-Deception』では、物語仕立てで、チーム・組織における自己欺瞞、家庭における自己欺瞞の話が展開される。

 

邦題の『自分の小さな「箱」から脱出する方法』は、「勘違い」を起こしやすい。

「自分の思考を出て考えよう」的な、浅いイメージを起こしがちだ。

少なくとも、ぼくはそう感じて、長いあいだ、この書籍を読まずにいた。

しかし、読み始めて、その内容とメッセージの重要さと深さを認識し、英語のオリジナルタイトルにある「Leadership and Self-deception」の意味合いがよくわかった。

その「感動」にひかれるままに、数年前に、『Oxford Papers』をThe Arbinger Instituteから取り寄せることになった。

本を開いては1ページ読み、閉じてはまた開くことを、ときおりしながら、この「深さと重要さ」に格闘している。

 

そのような本だから、誰にでもすすめられる本ではない。

でも、『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』(『自分の小さな「箱」から脱出する方法』)はすすめることのできる本だ。

「Takeaway」として要点を簡潔に書きすぎると、間違って、あるいは浅く理解されてしまうので、ここでは書かないけれど、もし心と脳に「ひっかかる」ものを感じたら、ぜひ読むことをおすすめする。

そこでの感動と「知のとびら」の開き方によっては、『Oxford Papers』に導かれるのもひとつだ。

 

この書籍の「活用方法」(効用)が気になる方向けには、英語版の第二版の終わりに書かれているガイドが役に立つ。

書籍が役に立てられてきた5つの領域は次の通りである。

  1. 企業の採用におけるスクリーニングと採用
  2. リーダーシップとチームビルディング
  3. 紛争解決
  4. 説明責任(アカウンタビリティ)の変容
  5. 個人の成長と発展

 

ぼくの「活用の仕方」で言えば、「ぼく自身の実践」と『Leadership and Self-Deception - getting out of the box』と『Oxford Papers』を自由に行き来しながら、考えては実践し、実践しては考えることを繰り返している。

そのような繰り返しのなかで、先日ブログにも書いたDon Miguel Ruiz著『The Four Agreements』のなかにある、「Agreements(約束・契約)」というコンセプトとの交差をみつける。

それから、「あぁ、「繰り返し」と言えば、片岡鶴太郎が「反復」を一生懸命に語っていたなぁ」とも思う。

学びと実践のいろいろが、いろいろに「繋がる」という学びの本質を、ぼくは楽しむ。

「本を読む」ということでは、ぼくは今は「多読型」だ(もちろん、「軸」をつくるためには「深く」読み込むことが大切であることを付け加えておきたい)。

それも「平行多読型」である。

何百冊を平行して読む。

「繋がる」という学びの本質を楽しみながら、実際に「変わること」の確かな拠点とするために。
 

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