成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

変遷する世界で「Family Mission Statement」をつくるというリーダーシップ。- Stephen R. Covey「7つの習慣」の家族への適用。

「7つの習慣」で知られる著作(『The 7 Habits of Highly Effective People』)をこの世に遺したスティーブン・コヴィー(Stephen R. Covey)は、「家族」のためにできることとして、また「家族」という集団においてリーダーシップを発揮する仕方として、「Family Mission Statement(家族のミッションステートメント)」をつくることを挙げている。

「7つの習慣」で知られる著作(『The 7 Habits of Highly Effective People』)をこの世に遺したスティーブン・コヴィー(Stephen R. Covey)は、「家族」のためにできることとして、また「家族」という集団においてリーダーシップを発揮する仕方として、「Family Mission Statement(家族のミッションステートメント)」をつくることを挙げている。

 

…If you were to ask me: “What is the one thing I could do that would have the greatest impact for good on my family?” I would simply answer: Work with your entire family to develop a family mission statement. …The single most important and far-reaching leadership activity that you will ever do in your family is to develop a family mission statement.
(…「私ができる一つのこととは何ですか?」と私が問われたら、私はシンプルに次のように応えるだろう。「家族全員と共に家族のミッションステートメントをつくること」であると。…家族においてあなたが行う、最も重要で広範囲にまで影響をおよぼすリーダーシップの活動のひとつは、家族のミッションステートメントをつくることである。)

Stephen R. Covey『How to Develop Your Family Mission Statement』Grand Harbor Press, 2013(※日本語訳はブログ著者)

 

「Family Mission Statement(家族のミッションステートメント)」は、「7つの習慣」における第二の習慣「Begin with the End in Mind(終わりを思い描くことから始める)」をベースにした、ミッションステートメントの家族への適用である。

家族の共通の目的やビジョンを「Family Mission Statement」として定めることで、家族をリードしてゆく。

ミッションステートメントの他にも呼び方はいろいろあるけれど、コヴィーが言うように「呼び方」が大切なわけではなく、家族のメンバーそれぞれが、家族とは何か、また家族運営のための価値観について、明確にしながらつくりあげていくことの共同の努力のうちに重要性が織りこまれている。

コヴィーは、ステートメントの内容と同様に、ステートメントをつくる過程の大切さを強調している。

 

「世界」の諸相が根本的な変遷をとげてきているなかで、個人はもとより、「家族」の置かれているところも、ますますチャレンジングな様相を呈している。

「家族」というものに託された価値観が、ある程度、社会のなかに共通の了解があった時代は過去のものとなっている。

そのようなところで「家族」を生きていくことは、チャレンジングでありながら、また、大きなチャンスでもある。

「家族」というものを、より自由な仕方でつくりあげてゆくことができる。

その際、「目指すべきところ」があることで、家族における生に方向を与え、世界の大きな変遷のなかでもその方向性に生きることの指針となり、また生きることの過程を豊饒なものとしていくことができる。

迷ったときに、道から大きく逸れてしまったときに、ミッションステートメントに戻ることができる。

 

なお、例として、コヴィー家族の「Family Mission Statement」は、以下の通りである。

 

 Our mission statement reads like this:
 The mission of our family is to create a nurturing place of faith, order, truth, love, happiness, and relaxation and to provide opportunity for each individual to become responsibly independent and effectively interdependent in order to serve worthy purposes in society.
(われわれのミッションステートメントは以下の通りである。
 われわれ家族のミッションは、信仰、秩序、真実、愛、幸福、くつろぎを育む場所をつくること、また社会における価値ある目的を果たすために、それぞれが責任をもって自立し、効果的に相互依存する個人となる機会を提供することである。)

Stephen R. Covey『How to Develop Your Family Mission Statement』Grand Harbor Press, 2013(※日本語訳はブログ著者)

 

コヴィーの家族らしく、「7つの習慣」の全体像が、家族のミッションステートメントにまで組み込まれている。

よいミッションステートメントとして、コヴィーは4つのポイントを挙げている(※前掲書を参照)。

  1. 永久的なもの(timeless)
  2. 目的(目的地)と手段(目的地につく方法)双方にふれること
  3. 人生のすべての役割にふれること(家族生活の基本的な活動のすべてにふれること)
  4. 4つの性質(身体=生活すること、心=愛すること、マインド=学ぶこと、精神=レガシーを遺すこと)のすべてにふれること

つくる際にはこれらのポイントなどを参照していくことができるが、でも完璧なものをつくろうとするのではなく、まずはつくりはじめること。

その過程において、家族のメンバーそれぞれが、いろいろと考えたり、いろいろと見たり、いろいろと理解したりすることができる。

 有効性を疑う前に、まずはやってみることである。 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

じぶんの「前提とする人間像・個人像」に気づくこと。- 「理論」に深く深くわけいって学んだこと。

経済学でも政治学でもなんでもよいのだけれど、「理論」というものに深く深く入ってゆくときに、ぶつかる課題は、理論構築において「前提にしている人間像・個人像」である。

経済学でも政治学でもなんでもよいのだけれど、「理論」というものに深く深く入ってゆくときに、ぶつかる課題は、理論構築において「前提にしている人間像・個人像」である。

学問に限らず、個人や組織などでの人と人とのコミュニケーションにおいて「ズレ」が生じてくることの原因のひとつに、語る個人たちそれぞれが「前提にしている人間像・個人像」がある。

ぼくは、かつて、経済学者アマルティア・センの「理論」に深くわけいりながら、そのことを学んだ。

 

ひとつには、「経済学」が想定してきた人(行為者)である。

経済学は、自己の帰結状態から得られる私的利益の最大化を目標として合理的に行動する人間を前提にして、理論構築される。

近代の学問では、このような想定のうえで理論は積み上げられていくことから、いったん人間をそのように前提にして理論構築することは決して間違いではない。

けれど、いつしか、その「前提としている個人」が所与のものとなり、見えなくなり、構築された理論が「当たり前のこと」のように語られていってしまう。

アマルティア・センは、「合理的な愚か者」という論考において、経済学が前提とするこの「前提」に目を向け、人が、経済活動において、倫理観や道徳的な価値における選択をすることもある視点を導入して、内在的に経済学をひらいていくことになる。

 

また、アマルティア・センの理論が想定している「個人」は、自律・自律した「強い個人」であるという批判が寄せられていたことも、理論が「前提としている人間像・個人像」をかんがえさせられる。

理論が前提とし得る、「弱い個人」と「強い個人」という視点である。

詳細には入らないけれど、AさんとBさんがコミュニケーションをとるときに、Aさんは「弱い個人」を前提に話をすすめ、Bさんは「強い個人」を前提に話をすすめているのであれば、そこに会話のズレが出ることは、容易に想定できる。

 

このような、そもそもの「前提」としている人間像・個人像は、構築される理論や世界像などの全体を、違ったものにしていってしまう。

繰り返しになるけれど、このことは学問の世界だけにかかわることではなく、ぼくたちの日々の生活の隅々にまでかかわってくる。

そして、世界はますます多様化しており、「個人」を狭く捉えることはますます実態とそぐわなくなってきている。

このような世界において、まずできることは、じぶんが「前提」にしている人間像・個人像に気づくことであるように、ぼくは思う。

日々のいろいろな体験を通して、気づいていくことからである。

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身体性, 成長・成熟 Jun Nakajima 身体性, 成長・成熟 Jun Nakajima

身体の記憶として残っている「黙考」。- 小さいころに、学校で教わっていたこと。

ぼくが小さかった頃、学校(小学校か中学校かと記憶が定かではないけれど中学校のように思う)で「黙考」という時間が日課のひとつとして、(おそらく)毎日とられていた。

ぼくが小さかった頃、学校(小学校か中学校かと記憶が定かではないけれど中学校のように思う)で「黙考」という時間が日課のひとつとして、(おそらく)毎日とられていた。

「黙考」とは、字のごとく、「黙って考える」ことである。

確か、給食による昼食、お昼休み、掃除の時間が終わって、午後のクラスに入る直前だったと思うけれど、1分ほどの時間、目を閉じて「黙って考える」時間が、やってくる。

ぼくの記憶では、黙考の時間は、スピーカーから何らかの音色が流れていたように思う。

放送が入り、席に着席し、目を閉じ、音色にあわせて「黙考」する。

普通の公立の学校で、そんな具合に、「黙考」のための時間がとられていた。

 

当時は「何も考えない」というように指示を受けていたようにも、ぼくは記憶している。

けれども、「何も考えない」ということは、やってみるとわかるけれど、至難の技である。

美術家の横尾忠則は、かつて「坐禅」の世界にどっぶりと入っていた時期に、浜松市(ぼくの生まれ故郷である)の竜泉寺での「坐禅修行」の体験を、次のように書いている。

 

…「何も考えない」ことに徹しようとする。ところが何も考えないということは不可能なのである。意識がある限りぼくの心は動く。心が動くことは当たり前である。
 この心の動きがぼくの本姓なのだ。生きているから心が動いているのであると、また自分にいいきかせる。

横尾忠則『わが坐禅修行記』角川文庫、2002年(原著:1978年)

 

横尾忠則は当時30歳頃の体験であったのとは異なり、ぼくは自我意識の形成途上のような成長段階であったけれど、ぼくも、横尾忠則と同じように、「何も考えない」ことはできずに、ただ心の動きを感じ、心の落ち着きの方へと方向性を変えていた。

 

それにしても、毎日の日課のうち、この「黙考」を、ぼくは身体で覚えている。

多くのことを覚えていないなかで、しかし、「黙考」のことは覚えている。

当時は目的なんかは考えずに、ただ、学校の日課にしたがっていただけのことであるけれど、30年ほど経過しても、まだ覚えているから、不思議なものである。

 

気がつけば、現代においては、米国を中心としてメディテーションやマインドフルネスが見直され、仕事の合間、個人の日課、米国の学校教育などにもりこまれている。

異なる文化に生きる人たちがじぶんたちとは異なる文化の事象に光をあてる。

その光に逆照射されるようにして、ぼくはじぶんの生きてきた文化を見かえしてみる。

そしてぼくも、仕事の合間に、あるいはふとしたときに「黙考」を、今でも、生活にとりいれている。

そのような体験・経験をもとに、以前であればまったく目にも入ってこなかったような著作『わが坐禅修行記』を手にして、そこに聴こえてくる横尾忠則の息づかいに耳を澄ましたりしている。

 

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柳田国男の「生の基底」のような旅(真木悠介)。- 旅人の気もちと視力につらぬかれる生。

民俗学者の宮本常一のノート「野帖」が、研究のための旅も、シンポジウムでの対話も、読書も、宮本常一にとって旅のようなものとしてあったことを、シンポジウムなどで隣席となった社会学者の真木悠介は、<旅の方法としての学問>というように書いている。

民俗学者の宮本常一のノート「野帖」が、研究のための旅も、シンポジウムでの対話も、読書も、宮本常一にとって旅のようなものとしてあったことを、シンポジウムなどで隣席となった社会学者の真木悠介は、<旅の方法としての学問>というように書いている(真木悠介『旅のノートから』岩波書店)。

また、真木悠介は、官僚さらに民俗学者であった柳田国男にとっての「旅」も、同じ方向性においてとりだしている。

 

 柳田国男が晩年に朝日新聞社に招かれた時、年に2ヶ月は旅行をするために休暇をほしいという条件を出して、「客員」という形式にしてもらったという。旅はそれほど、柳田の学問だけでなく生の基底のようなものであった。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店

 

真木悠介は、柳田国男の名著『遠野物語』に付された折口信夫の「解説」にふれ、「…まして二十年前、若い感激に心をうるまして、旅人は、道の草にも挨拶したい気もちを抱いて過ぎたことであらう」と、遠野を歩いていた柳田をおもいうかべる折口信夫共々、生の基底のようなもとして「旅」というものがあった二人の呼応する生を見ている。

宮本常一にとって読書も「旅のかたち」であったと真木悠介が言うのと同じく、柳田国男にとっても読書も「旅のかたち」のようなものとしてあった。

柳田国男は「読むこと」について、次のように書いている。

 

 本を読むということは、大抵の場合には冒険である。それだから又冒険の魅力がある。…

柳田国男『書物を愛する道』青空文庫

 

柳田国男、折口信夫、宮本常一という、日本の民俗学を牽引してきた知者たちの生の基底に「旅」を見てきた真木悠介は、このようにして、自身の「旅」を、生きることの基底のようなものとしている。

1973年、30代半ばで初めての海外としてインドを旅した真木悠介は、その後も、インド、メキシコ、アメリカ、ヨーロッパなど、海外への旅を続ける。

著書『旅のノートから』(岩波書店、1994年)という美しい書物には、1973年のインドから、1991年のスペインにいたるまで、真木悠介の旅の軌跡を見ることができる(真木悠介は、1978年に、ぼくが今いる、香港に来ている。「香港」をどのように見たかについてはどこにも書かれておらず、直接お伺いしたいと、ぼくは思う)。

真木悠介にとっての「旅」は、彼の著作の内容や文体へ影響してきたと言えるし、また学問のあいだの境界や学問という世界をとびこえてしまう生き方と伴奏してきたようなところがある。

真木悠介(見田宗介)の方法である「比較社会学」の「比較」は、海外のそれぞれの文化や社会のあいだの「比較」という空間を行き来する視点を用意しながら、それはさらに「近代と前近代」などというように、異なる時間を行き来する<比較>をも方法として獲得してゆく。

これらの方法論は、はじめから、そして意図的に、「生き方」の発掘をめざしている。

ぼくは、「生の基底」のような旅に、強くひかれる。

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民俗学者・宮本常一の「ノート」。- <旅の方法としての学問>(真木悠介)。

勉強ができる人やビジネスで活躍している人の「ノート術」や「メモの取り方」などが書籍化されたり、インタビューなどの記事で取り上げられたりする。

勉強ができる人やビジネスで活躍している人の「ノート術」や「メモの取り方」などが書籍化されたり、インタビューなどの記事で取り上げられたりする。

このようなライフハック的な方法はおもしろいものである。

さらに気になったりするのが、いわば「深い仕事」をしてきた人たちの、その「ノート」である。

例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートは公開されていて興味深いものである。

 

社会学者の真木悠介は、名前の姓が近いことから、シンポジウムなどで隣席となる民俗学者の宮本常一の「ノート」の話を書いている(真木悠介『旅のノートから』岩波書店)。

ノートには「野帖」と太い字で書かれていて、旅先で出会われたことを書き込んでいるという。

真木悠介は文化人類学の「field note」と同じようなもので、「野帖」はこの英語の日本語訳であったかもしれないと思ったりする。

民俗学を深めていった宮本常一の、<学問の方法としての旅>が、そのなかにつめられている。

真木悠介は、シンポジウムをともにしながら、そこに<旅の方法としての学問>という見方、そしてそのような生き方を提示している。

 

 宮本常一氏の「野帖」には、国際的なシンポジウムの報告もまた旅の記憶と同じ筆致で記入されていた。ベトナムの小さい村々に夜がどのような仕方でやって来るか。等々。宮本氏にとって、シンポジウムの対話も旅であり、読書もまた旅のかたちであったはずだ。
 …<旅の方法としての学問>というものもある。学問は旅の一形態である。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店, 1994年

 

「野帖」は、学問(民俗学)のための旅の記録に限らず、そのような狭い世界をつきやぶるようにして、「生きるということの旅」の記録として、宮本常一にとってあった。

 

思えば、アジアやニュージーランドの「旅」を通じて、ぼくがようやく「生きる」ということ、そして「学ぶ」ということに正面か立ち向かっていったとき、ぼくの「ノート」は、すべてが「同じ筆致」で記載されていた。

香港やベトナムなどの旅先で書いた日記、国際的なシンポジウム(経済学者アマルティア・センなど)を聞きにいったときのメモ、ときおりの日記、読書からの抜粋などが、ひとつのノートにおさめられていた。

学ぶことも、読書も、日々の考えや悩みも、それらが「生きるということの旅のノート」ともいうべきノートにつまっている。

 

そのようにしてノートに書きつけていたのは昔のことで、最近は、もっぱら、スマートフォンやパソコンにノートしている。

手書きのよさは捨てきれないから、電子ペン(Apple Pencil)をときおり使うなどしている。

生きるうえでの「マテリアル」はなるべくスリム化したいと思いながらそうしているけれど、一方で「生きるということの旅のノート」を、ボールペンで書きつけていきたいという欲望も捨てきれずにいて、ときおり、ボールペンを手に、メモを書いたりしている。
 

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「『じぶん』という秩序がこわれる」旅。- 雑誌「旅行人」編集長・蔵前仁一の「旅」。

バックパッカー向けの雑誌「旅行人」(2011年12月に休刊し、2017年に1号だけ復刊)の編集長を務めてきた蔵前仁一。

バックパッカー向けの雑誌「旅行人」(2011年12月に休刊し、2017年に1号だけ復刊)の編集長を務めてきた蔵前仁一。

海外旅行にまったく興味のなかった蔵前仁一は、フリーのイラストレーターとグラフィック・デザイナーとして社会に出ることになる(蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎)。

その後、東京での生活に疲れ、仕事に疲れ、海外旅行にでも行こうとなったとき、同僚の「インドはおもしろい」という言葉に導かれるようにして、1982年にインドへの旅に出る。

 

2週間のインドの旅が、蔵前仁一の人生をまったく違うものに変えることになる。

散々な目にあってインドから日本に戻ってきた蔵前の頭のなかは、気がつけばインドのことが立ち上がる。

「インド病」と蔵前仁一の友人が指摘するように、彼は、インドに魂をもっていかれてしまった。

インド病を治すためには「インドに戻ること」という助言に動かされるように、蔵前仁一はインドに戻ることを決め、今度はいつ戻るか決めない長い旅にでる。

仕事を整理し、グラフィック・デザイナーとイラストレーターの仕事を休業し、賃貸マンションを引き払い、旅に出る。

 

蔵前仁一は最初の目的地を「中国」とし、ビザをとるために、最初に(今ぼくがこの文章を書いている)香港に飛んだ。

1983年9月11日のことであった。

成田空港から飛び立ったエア・インディア103便は、四時間半のフライトで、当時の啓徳空港に着陸し、そこから最終的に1年を超える旅がはじまる。

 

1985年3月に蔵前仁一は、初めての長い旅を終えて日本に帰国。

次の旅を考える一方で、これまでのような仕事の仕方を変えたく思い、手元にあった「タイの島で描いたインドの絵日記」をもとに出版の道をさぐる。

これが、蔵前仁一の最初の著作『ゴーゴー・インド』(凱風社)となった。

そこから、他の著作を出したり、ミニコミ誌を出したり、最終的に「旅行人」の出版社設立にまでいたる。

しかし、イメージしていたことをだいたい実現し、体力も続かなくなった蔵前仁一は、バックパッカーが減っているといわれるインターネット時代のなかで、そろそろ潮時と見た雑誌「旅行人」の休刊を決め、2011年12月に、雑誌「旅行人」は休刊となった。

 

そのような蔵前仁一は、「旅の不思議な作用」ということを、自身の旅の経験をふりかえりながら、つぎのように語っている。

 

 あれは自分の中の秩序の崩壊だったと僕は思っている。
 インドに行くまで、僕は自分なりの秩序をたもって生きてきた。自分の常識の中で判断し、行動していた。…
 それがインドで壊れて、激しい混乱を来したのだ。…
 そこで僕は、世界には絶対に正しいことなどないことを知る。…
 …
 自分もまた変わる。旅に出る前の自分と、旅のあとの自分は同じではない。そして、世界も常に変わり続けている。…だから、旅人は二度と同じ場所へ帰ることはできない。それはまるで長い宇宙飛行から帰ってきた宇宙飛行士と同じであり、浦島太郎のようなものだ。それが、旅の不思議な作用だと思う。

蔵前仁一『あの日、僕は旅に出た』幻冬舎

 

旅での体験が、じぶんの「世界」に闖入してくる。

蔵前仁一にとっては、それらが、「自分の中の秩序」を壊すことになる。

彼は、その深い経験を、また「旅の不思議な作用」を、じぶんを変えてゆく肯定的な力とすることができた。

 

「旅で人は変わるか?」と問うことができる。

ぼくは、旅で、人は変わることもできるし、変わらないこともできると、思う。

蔵前仁一にとっては、そしてぼくにとっては、旅で、じぶんが変わってゆく経験をしたということだけだ。

そして、それは、「自分の中の秩序がこわれる経験」である。

その解体と生成のプロセスで、じぶんが<創られるながら創る>という経験である。
 

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40歳からのトンネルを抜けて。- 「40歳へのメッセージ」(糸井重里)と「試練は、ごほうび」(宮沢りえ)。

年齢・年代による生き方というもの、とくにぼくが置かれている40代の/からの生き方をかんがえてみたりする。


年齢・年代による生き方というもの、とくにぼくが置かれている40代の/からの生き方をかんがえてみたりする。

いろいろな書籍や雑誌が、年代別のテーマをあつかったりしているし、村上春樹も四十歳をひとつの「分水嶺」として作品を完成させていった。

ときに、年代別で見ることは、人びとの共同幻想ではないかと思ったりもする。

あるいは、心理学者エリクソンの有名な「発達段階論」のようなものが思い起こされる。

心理学者といえば、ユングの言う「人生の午後」ということも気になってくる。

しかし、時代は「100歳時代」に突入し、40歳の「立ち位置」も生きることのなかでは変わってきている。

また、ナマコ研究者の本川達雄『人間にとって寿命とはなにか』(角川新書)の帯に書かれた、「42歳を過ぎたら体は保証期限切れ」というコピーに、42歳のぼくはつい反応してしまう。

ともあれ、年齢・年代論は、人間であること(生物・動物としての人間、社会存在としての人間、文化に生きる人間など)の諸相が、いろいろな場面で、いろいろな仕方で、語られているのだと思う。

 

糸井重里は、「AERA x ほぼ日刊イトイ新聞」の企画(40歳の特集)において、「ぼくの話が40歳の誰かに届けばって」思いながら、言葉を紡いでいる。

AERAに掲載された糸井重里の「40歳へのメッセージ」は、糸井重里のあの文体で、長くはないけれど、そこに込められたもののとてつもなく大きなものを感じさせる言葉たちを、「40歳の誰か」に届けている。

きりとってしまうと、何かがうすまってしまうので全文を読むのがよいけれど、ここでは一部をきりとる。

 

ぼくにとって40歳は25年前。
暗いトンネルに入ったみたいで
つらかったのを覚えている。
絶対戻りたくない、というくらいにね。

40歳を迎えるとき、多くの人は
仕事でも自分の力量を発揮できて、
周囲にもなくてはならないと思われる存在になっていて、
いままでと同じコンパスで描く円の中にいる限りは、
万能感にあふれている。

でも、40歳を超えた途端、
「今までの円の中だけにいる」ことができなくなる。

糸井重里「40歳は、惑う。」『ほぼ日刊イトイ新聞』

 

「今までの円の中だけにいる」ことができなくなる。

その「理由」について、ここでは糸井重里はなにも触れていない。

「理由」は人それぞれであるし、何かやむにやまれないものが現象する仕方も、人それぞれであろう。

理由はともあれ、糸井重里は、別のコンパスで描いた円の中に入っていかなければならず、そこでは役に立たない存在だと突きつけられるのだと、自身の「暗いトンネル」の経験の記憶に降りながら、その暗い深い場所から言葉を取り出している。

彼自身もコピーライターとしての万能感がくずれていき、仕事だけでなく、夫婦関係や子育て、親の介護や自分の病気などでも大変な時期にさしかかっていく。

 

糸井重里は、このようななかでもがきながら、「ゼロになること」を意識するように心がけたという。

仕事においても、あるいは趣味においても。

そうして歩んできて10年後、つまり50歳のときにつながっていく。

それが、「ほぼ日刊イトイ新聞」として結実していくことになる。

 

現在の日本の40歳は「団塊ジュニア世代」。

団塊の世代である糸井重里は、「「食いっぱぐれることがない時代」を生きていることをもっと利用したほうがいい」(前掲リンク)と、団塊ジュニア世代にアドバイスする。

暗いトンネルをぬけてきた糸井重里は、トンネルをぬけながら「その先に何があるのか」を教えてほしかったという。

そうして、言葉たちを届ける。

言葉たちは、40歳の糸井重里に向けられた言葉であることで、そこに大きな重力を宿している。

その重力に引かれるようにして、ぼくは糸井重里の言葉に耳をすます。

シンプルな言葉たち、しかしそこに語られない言葉たちの総体の声に、耳をかたむける。

 

ところで、この特集で、糸井重里は、宮沢りえと対談をしている(「試練という栄養ー宮沢りえさんにとっての40歳」)。

男の厄年である40歳にふれる糸井重里に対して、宮沢りえは、最近よく言っていることとして、「試練は、ごほうび」であると語っている(上記の「第2回:試練は、ごほうび」)。

苦難は経験したくないもしれないけれど、苦しみや悲しみを経験して知っている人のほうが、豊かな人であると思うと、宮沢りえは糸井重里に向かって言葉を伝える。

「試練は、ごほうび」。

糸井重里は、この言葉に反応して、ポンと手をたたいたのと同じく、ぼくは、心のなかでポンと手をたたいた。

「試練は、ごほうび」。

とても素敵な表現だし(書き言葉として「試練は」の後に「、」が入るリズムもいい)、そう言える生き方は魅力的だと、ぼくは思う。
 

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「考える」ことの本質について。- 論理思考、言葉(ロゴス)、分けること。

「考える」とは、その本質において「(物事を)分けること」というふうに、ぼくはかんがえる。


「考える」とは、その本質において「(物事を)分けること」というふうに、ぼくはかんがえる。

「分けること」とは、物事を論理的に分けていくことである。

だから、この見方においては、「論理的に考える」という言い方は便宜的なものであって、本質的には、「考える」ことのなかにすでに「論理」が含まれている。

 

津田久資は著作『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)で、「考える」ということを、ビジネスにおいて「競合に勝つ」という視点・焦点において、「学ぶ」ことから切り離しながら、次のように定義している。

● 学ぶ=既存のフレームワークに当てはめて答えを導く
● 考える=自分でつくったフレームワークから答えを導く

「思考力で競合に勝つ」という視点をつきつめてゆくなかで、「勝つ」ということを、「思考の成果、つまり発想(アイデア)において相手よりも優位に立つこと」とし、そこから発想において「負ける」ということのパターンとして、論理的に3つ挙げている(前掲書)。

<発想における敗北の3つのパターン>

① 自分も発想していたが、競合のほうが実行が早かった
② 自分も発想し得たが、競合のほうが発想が早かった
③ 自分にはまず発想し得ないくらい、競合の発想が優れていた


これらを言い換えて、津田は次のように簡素化する。

① 実行面の敗北
② 惜敗(「しまった」)
③ 完敗(「まいった」)

 

そのうえで、90%以上の敗北は②の「しまった」にあるとし(人は同レベルの「戦場」に集まる傾向を背景としている)、その処方箋として「論理思考」を立てる。

 

「論理思考力」をつきつめてゆくなかで、津田久資は「考える」こと、またそれを構成する「言葉」の本質にきりこんで、次のように本質を取り出している。

● 「考える」とは「書く」である
● 「言葉」とは「境界線」である

津田が指摘しているとおり、「論理(logic)」の語源は、「ロゴス(logos)」=言葉であり、言葉はその本質にして「論理」的なのである。

そのことを、津田は、「言葉」とは「境界線」であると表現している。

言葉は機能(「境界線」)として、対象を切り分けるのである。

切り分ける機能として、それは「考える」ということを本質として内包していることになると、ぼくはかんがえる。

 

「考える」とは「書く」であると、津田久資が述べていることに興味をおぼえ、ぼくは立ち止まる。

 

 人が考えているかどうかを決めるのは、その人が書いているかどうかである。
 アイデアを引き出すとは、アイデアを書き出すことにほかならない。少なくとも大多数の人にとってはそうである。…
 本当に何かを考えたときには、そのプロセスや最終的なアウトプットについて、何かしら必ず書いているはずである。逆に言うと、それがない限り「考えていた」とは言えないのである。

津田久資『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのかー論理思考のシンプルな本質』(ダイヤモンド社)

 

例として、ダイエーの故・中内功がとんでもないメモ魔であったこと、エジソンの生涯3500冊のノートなどが挙げられ、逆に「少数派の例外」として「小説の最後の1行が決まるまで、ペンを執らない」作家の三島由紀夫が取り上げられている。

「書く」ことは、視覚化することでもある。

人間の文明が「視覚」を発展の原動力としながら、「視覚」文明をつくりあげてきたということを、ぼくは重ね合わせながら、かんがえてみる。

文明の発展の構造と駆動はぼくのなかでまだ漠として繋ぎあわさっていないけれど、「書く」ことで世界がひらかれてきたことは、「書く」ことの力を思えば、経験上わかるように思う。
 

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村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「空間(異国)」編:ヨーロッパでの3年。

小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。

小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。

1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。

「四十歳」に特別な予感をいだきながら、「遠い太鼓」に呼ばれるようにして、村上春樹(夫妻)は、三十七歳でヨーロッパに旅立った。

「四十歳」への予感ということと共に、ぼくの関心をよんだのは、この長い旅が、村上春樹にとって「初めての海外暮らし」であったことである。

 

村上春樹は、夫妻が置かれる「立場」がとても「中途半端」であったことを書いている。

「観光的旅行者」でもなく、かといって「恒久的生活者」でもない。

さらに、会社や団体などにも属しておらず、あえて言えば「常駐的旅行者」であったという。

本拠地をローマとしながらも、気に入った場所があれば「台所のついたアパートメント」を借りて何ヶ月か滞在し、それからまた次の場所に移っていく。

その生活の様子や出来事が、まるでそれらが物語のように、語られている。

物語のように描かれる世界、筆致と文体とリズム、視点や視角はとても魅力的である。

 

村上春樹は、そのような生活を「孤立した異国の生活」というように語っている。

その(自ら望んだ)孤立のなかで、村上春樹はただただ小説を書きつづけ、この3年間に、長編小説としては『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げることになる。

『ノルウェイの森』はギリシャで書き始められ、シシリーで書き継がれ、ローマで完成したようだ。

『ダンス・ダンス・ダンス』は、ローマで大半が書かれ、ロンドンで完成されたという。

このようにして、これらの長編小説には「異国の影」がしみついているのだと、村上春樹自身が感じるものとして、できあがったのだ。

 

村上春樹は、これらの作品は、仮に日本に住み続けていたとしても、時間はかかってもいずれは同じようなものが書かれたであろうと、振り返っている。

 

…僕にとって『ノルウィイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』は、結果的には書かれるべくして書かれた小説である。でももし日本で書かれていたとしたら、このふたつの作品は今あるものとはかなり違った色彩を帯びていたのではないかという気がする。はっきり言えば、僕はこれほど垂直的に深く「入って」いかなかっただろう。良くも悪くも。

村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫

 

ヨーロッパでの孤立した生活のなかで、誰にも邪魔されずに、ひたすら小説を書く。

「なんだかまるで深い井戸の底に机を置いて小説を書いている」ようであったと、小説を書いている自分を、村上春樹は客観視する。

深い井戸の底に、垂直に深く「入って」いくことのできる<環境>を、ヨーロッパでの生活が準備し、そこで村上春樹の作品が生成する。

 

…結局のところ、僕はそういう世界に入りたがっていたのだと思う。異質な文化に取り囲まれ、孤立した生活の中で、掘れるところまで自分の足元を掘ってみたかった(あるいは入っていけるところまでどんどん入っていきたかった)のだろう。たしかにそういう渇望はあった。…

村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫

 

さらに、後年になって、村上春樹は、ヨーロッパという異質な文化の環境で、「三年かけてこの本を書いたことによってなんとなく体得したもの」として、「複合的な目」を挙げている。

 

 外国に行くとたしかに「世界は広いんだ」という思いをあらたにします。でもそれと同時に「文京区だって(あるいは焼津市だって、旭川市だって)広いんだ」という視点もちゃんとあるわけです。僕はこのどちらも視点としては正しいと思います。そしてこのようなミクロとマクロの視点が一人の人間の中に同時に存在してこそ、より正確でより豊かな世界観を抱くことが可能になるはずだと思うのです。

村上春樹「文庫本のためのあとがき」『遠い太鼓』講談社文庫

 

この文章を、村上春樹は、ヨーロッパの次に住むことになった海外、アメリカで書いている。

 

ときおり、もし村上春樹が海外に住まず、日本で小説を書き続けていたら、彼の小説がどのようになっていただろうかと、ぼくは勝手にかんがえてしまう。

村上春樹が言うように、日本にいても書かれたのかもしれないけれど、『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』以後の長編小説の深い世界を思うとき、ぼくはやはりかんがえてしまうのだ。

そしてときおり、ぼくはじぶんのこともかんがえてしまう。

もし、ぼくが、海外に暮らさずに、日本で暮らし続けていたとしたら、と。

無意味な問いと想像なのかもしれないけれど、「四十歳の分水嶺」に村上春樹が予感していたように、「それは何かを取り、何かをあとに置いていくこと」という「精神的な組み替え」が、生きることの<空間の分水嶺>において生じたであろうところに、ぼくの思考と想像をつれていくようにも、思われるのだ。

 

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村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「時間(年齢)」編:四十歳という分水嶺。

村上春樹の「エッセイ」は、「小説」に負けず劣らず、魅力的な文体とリズムで書かれている。

村上春樹の「エッセイ」は、「小説」に負けず劣らず、魅力的な文体とリズムで書かれている。

人によっては、小説よりもエッセイに惹かれる人たちもいる。

数々のエッセイのなかで好きな作品のひとつに、『遠い太鼓』(講談社文庫)というエッセイ集がある。

村上春樹が、1986年から3年間にわたりヨーロッパに住んでいたときの「エッセイ」である。

どこからか聞こえる「遠い太鼓」の音色に導かれるように旅立ち、ヨーロッパに住んでいたときの語りである。

 

文庫版で500頁を超えるこの作品の、ぼくにとっての「魅力性」の源泉は、村上春樹という人間が「生成」していくところに書かれた作品であったというところにあるように思う。

それは、とりわけ、二つのきっかけにおいてである。

  1. 村上春樹の「四十歳」
  2. 村上春樹の「初めての海外暮らし」

一つ目は、生きるということの「時間」という契機であり、二つ目は、生きるということの「空間」という契機である。

人は、(ひとまず/さしあたり)「時間と空間」のなかを生きている。

村上春樹にとって、この長い旅の契機のひとつは「四十歳」ということがあったという。

三十七歳で、村上春樹はこのヨーロッパへの長い旅にでる。

 

 四十歳というのは、我々の人生にとってかなり重要な意味を持つ節目なのではなかろうかと、僕は昔から(といっても三十を過ぎてからだけれど)ずっと考えていた。とくに何か実際的な根拠があってそう思ったわけではない。あるいはまた四十を迎えるということが、具体的にどういうことなのか、前もって予測がついていたわけでもない。でも僕はこう思っていた。四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み替えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。…

村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫

 

そのような「予感」が、三十半ばの村上春樹のなかでふくらんでいき、「精神的な組み替え」が行われてしまう前に、「あるひとつの時期に達成されるべき何か」をしておきたかったこと、村上春樹は書いている。

なお、「四十歳」ということは、三十歳で『風の歌を聴け』によって群像新人文学賞を受賞した村上春樹が、「受賞の言葉」でも語っていた時間感覚でもあった。

 

…フィッツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」という文句だけが僕の頼りだったけれど、そんなことが簡単に出来るわけはない。四十歳になれば少しはましなものが書けるさ、と思い続けながら書いた。今でもそう思っている。…

村上春樹「四十歳になれば」『雑文集』新潮社

 

『遠い太鼓』を初めて読んだのは、ぼくが三十代の頃(正確に三十代のいつかは覚えていない)であった。

ぼくの根拠のない「予感」も、四十歳というものをひとつの分水嶺のように捉えていたから、そこに親和性のようなものを感じたことを覚えている。

 

ぼくも四十歳を超えてみて、「精神的な組み替え」が行われたかどうか、そこで何かをとり何かをあとに置いてきたのかをかんがえてみる。

他方で、「四十歳」という分水嶺の「妥当性」のようなこともかんがえてしまう。

人間の身体を生物学的にみたときの変化ということがある一方で、「世代」(三十代、四十代、五十代…)というものが現代世界における「共同幻想」ではないかという思いももたげてくる。

さらには、「100歳時代」の到来のなかで、これまでの四十歳とこれからの四十歳は、生きるプロセスの意味合いを大きく変えてきている。

そのようないろいろな思いとかんがえが交錯するなかで、村上春樹の『遠い太鼓』の世界に、ふたたびふれている。

村上春樹は、このヨーロッパでの3年間で、小説としては『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書いた。

村上春樹の「予感」は、『ノルウェイの森』として結実していくことになったわけだ。

 

ぼくは、四十歳を超えて、やはり、大きな一歩、これまでと異なる一歩を踏み出すことにした。

「四十歳」という分水嶺の妥当性はともかくも、その分水嶺は「物語」として生きてきているように、ぼくは思う。

その物語を描ききれるかどうか、その物語を生ききることができるかどうか…。

村上春樹の『遠い太鼓』のエッセイは、ヨーロッパに住むことの日常の細部それぞれが物語とリズムに充ちている。

そのように日常を生きることのうちに、村上春樹の文章の魅力は生成されている。
 

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村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

「風のことを考えよう」(村上春樹)。- 「風」に吹かれ、惹かれ、かんがえてみる。

村上春樹のデビューから2010年の未発表の文章が収められた『雑文集』(新潮社、2011年)を読み返していたら、「風のことを考えよう」という、以前読んだときにはあまり気に留めなかった短い文章に、目が留まった。


村上春樹のデビューから2010年の未発表の文章が収められた『雑文集』(新潮社、2011年)を読み返していたら、「風のことを考えよう」という、以前読んだときにはあまり気に留めなかった短い文章に、目が留まった。

村上春樹のデビュー作品である『風の歌を聴け』の「風」のイメージに共鳴したということでは特にない(「風」という視点で村上春樹の作品を読み解いていくことはきっとおもしろいだろうけれど)。

「現代人はなぜ風を求めているのか」(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)という問題意識と、なぜ「ぼくは」風に惹かれているのか、ということの問題意識の重なりのなかで、村上春樹の感性がどのように「風」をとらえているのかが、気になったのだ。

 

「風のことを考えよう」というフレーズは、トルーマン・カポーティの短編小説「最後の扉を閉めろ」という作品にあるという。

 

「そして彼は枕に頭を押しつけ、両手で耳を覆い、こう思った。何でもないことだけを考えよう。風のことを考えよう、と」
 最後の“think of nothing things, think of wind”という文章が、僕はとても好きだった。…
 そんなわけで、何かつらいことや悲しいことがあるたびに、僕はいつもその一節を自動的に思い起こすことになった。…そして目を閉じ、心を閉ざし、風のことだけを考えた。いろんな場所を吹く風を。いろんな温度の、いろんな匂いの風を。それはたしかに、役立ったと思う。

村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年

 

「運び去っていくもの」としての風、あるいは「運んできてくれるもの」としての風があるとすれば、ここでは、つらいことや悲しいことを運び去ってくれる<風>が、想像力のなかでよびおこされているように見える。

しかし、村上春樹の「風」は、トルーマン・カポーティの「風」ー何でもないことーとは、微妙にズレているようにも見える。

村上春樹の「風」は、何でもないことに連想される風ではなく、「いろんな風」であり、いわば豊饒な風である。

自然の豊饒さに彩られた風。

「太古の始めから、風は吹いていた」と野口晴哉が感じるときの風と重なる風のようにも、ぼくには見える。

 

ぼくにとって、世界のいろいろなところで、「風」に吹かれた記憶がながれている。

ニュージーランドに住んでいたときは、北島でも南島でも、ぼくは海岸線や道や山を「歩く旅」のなかで、風に吹かれていた。

西アフリカのシエラレオネにおける「緊急支援」においては、ぼくが所属した団体名に「風」があったように、風のように支援を展開していた。

東ティモールの山間地で、「気流」にさらされながら、コーヒー農園をみわたしていた。

ここ香港では、海から吹いてくる風にさらされて、生きている。

「風」になぜぼくは惹かれるのだろうか、しいては、現代人はなぜ「風」を求めるのか。

 

村上春樹の(世界における)経験のなかでは、ギリシャの小さな島に滞在していたときの風が、風の記憶として色濃くむすびついている(ちなみに、ギリシャに滞在していたときの話は、村上春樹のエッセイ集『遠い太鼓』講談社文庫、に出てくる)。

日々、風とともに生きる場所であったようだ。

 

…風がひとつのたましいのようなものを持つ場所だったのかもしれない。ほんとうに、風のほかにはほとんど何もないような、静かな小さな島だったから。それとも、そこにいるあいだ、僕はたまたま風のことを深く考える時期に入っていたのかもしれない。
 風について考えるというのは、誰にでもできるわけではないし、いつでもどこでもできるわけではない。人がほんとうに風について考えられるのは、人生の中のほんの一時期のことなのだ。そういう気がする。

村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年

 

村上春樹は、人には「風のことを深く考える時期」があると書き、また、ほんとうに風についてかんがえられるのは、「人生のほんの一時期のこと」だと書いている。

1986年から3年間、村上春樹は日本を離れ、ヨーロッパに住む。

この長い旅を駆り立てた理由のひとつは、40歳になろうとしていたことであったという(前掲『遠い太鼓』講談社文庫)。

そして、ギリシャで、村上春樹は『ノルウェイの森』を書きはじめている。

 

村上春樹が深くかんがえていた「風」をぼくはかんがえ、記憶のなかに吹いている「風」と重ねあわせてみる。

たしかに、人が本当に風についてかんがえられるのは人生のほんの一時期なのかもしれないという思いが、思考の海を、風のようによこぎっていく。

 

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村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima 村上春樹, 成長・成熟 Jun Nakajima

「物語の善きサイクル」(村上春樹)。- 希望や喜びをもつ語り手であること。

「Life as Stories」(物語としての生)というテーマでいろいろとかんがえ、他の人たちがどんなことをかんがえ書いている(いた)のかを探り、発せられる言葉にこころを沁みわたらせる。


「Life as Stories」(物語としての生)というテーマでいろいろとかんがえ、他の人たちがどんなことをかんがえ書いている(いた)のかを探り、発せられる言葉にこころを沁みわたらせる。

そしてそこに「可能性」をみいだす。

頭でかんがえてきただけではなく、物語などという言葉をふっとばしてしまうような「現実」のただなかでかんがえ、それでもやはり「物語の力」を、その可能性とその方法をぼくはひたすら追い求める。

 

作品が出たらすぐに買って読む作家(たくさんいるわけではないけれど)のひとりに、小説家の村上春樹がいる。

生きることと物語を直接に語った箇所は今のぼくの記憶にはないけれど(そのような視点で村上春樹を読んでこなかったけれど)、村上春樹は「物語の力」を、「小説」ということに託して、いろいろなところで語っている。

物語の「善きサイクル」とよびながら、村上春樹は次のように書いている。

 

 作家が物語を創り出し、その物語がフィードバックして、作家により深いコミットメントを要求する。そのようなプロセスを通過することによって作家は成長し、固有の物語をより深め、発展させていく可能性を手にする。…想像力と勤勉さという昔ながらの燃料さえ切らさなければ、この歴史的な内燃機関は忠実にそのサイクルを維持し、我々の車両は前方に向かって滑らかに…進行し続けるのではあるまいか。僕はそのような物語の「善きサイクル」の機能を信じて、小説を書き続けている。

村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年

 

村上春樹の熱心な読者であればすぐに思い出すであろう「モンゴルのホテルでの奇妙な出来事」が、ここでは具体的な例としてとりあげられている。

「物語を創るー物語が(創り手に)フィードバックするー深いコミットメントを要求する」という基本プロセスのうちに成長があり、可能性や希望がうまれてゆく。

 

このように語られる「物語の善きサイクル」は、狭義の「物語」だけでなく、生きることの<物語>も、サイクルの型は同じであるように、ぼくはかんがえる。

そのサイクルの型が「善きサイクル」となるか否かは、もうひとつ別のことである。

「想像力と勤勉さという昔ながらの燃料」、とりわけ「想像力」ということの燃料さえ切らさなければ、生きることのサイクルは(じぶんにとって)「善きサイクル」へと進行してゆくものだと、思う。

その意味において、人はだれもが「小説家」であり、生きることの<物語>をつくっている。

 

村上春樹はこの文章(「物語の善きサイクル」)の最後に、じぶんは「楽天的に過ぎるかもしれない」と、一歩立ちどまって、その歩みの意味をたしかめている。

 

…しかしもしそのような希望がなかったなら、小説家であることの意味や喜びはいったいどこにあるだろう?そして希望や喜びを持たない語り手が、我々を囲む厳しい寒さや飢えに対して、恐怖や絶望に対して、たき火の前でどうやって説得力を持ちうるだろう?

村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年

 

このことも、そのまま、生きることそのものに向けられる。

個人の生においても、そして、家族、チームや組織、コミュニティなどにおいても、この文章のメッセージはつらぬいていく力をもっている。

そして、どんな人たちも、その心の奥底には、希望をはぐくむ歓びの経験の記憶をもって生きている。
 

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書籍, 言葉・言語, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 言葉・言語, 成長・成熟 Jun Nakajima

「読まな、損やでぇ」の本から本へ。- 河合隼雄『こころの読書教室』の語りで、心の深みに降りる。

20歳になるまで、ぼくは本という本をほとんどといってよいほど読まなかった。


20歳になるまで、ぼくは本という本をほとんどといってよいほど読まなかった。

経験とじぶんでかんがえることが大切と思っていたのだと思うけれど、今思うと、それこそ浅いかんがえであった。

経験とじぶんでかんがえることに、「本」(他者の書くもの、また語り)が加わることで、経験とかんがえること自体にひろがりと深みがでるのだ。

そんな「本の読み方」と本から学ぶ(本と共に生きる)歓びを、ぼくはいろいろな人たちに学んだ。

 

そのうちの一人、心理学者・心理療法家の河合隼雄は、『こころの読書教室』(新潮文庫、原題『心の扉を開く』)のようなものとして、次のように書いている。

 

 私はできるだけ多くの人に本を読んでもらいたいと思っている。それも、知識のつまみ食いのようではなく、一冊の本を端から端まで読むと、単に何かを「知る」ということ以上の体験ができると思っている。一人の人に正面から接したような感じを受けるのだ。
「情報が大切と言いながら、現代の情報は『情』抜きだから困る」と言ったのは、五木寛之さんである。私もこの考えに賛成だ。人間が「生きている」ということは大変なことである。いろいろな感情がはたらく、そして実のところ、その感情の底では本人も気づいていない、途方もない心の動きがあるのだ。そのような心の表面にある知識のみを「情報」として捉えていたのでは、ほんとうに生きることにはつながって来ない。

河合隼雄『こころの読書教室』新潮文庫

 

インターネットの発展は、日々、はるかに多くの「情報」の創出をうながしている。

情報空間は「知識のつまみ食い」の機会を次から次へと、つくっている。

しかし、「知識のつまみ食い」をくりかえしてもくりかえしても、なにかが抜けてしまっているような感覚におちいる。

河合隼雄が語るように、心の表面の知識を情報として捉えても、「ほんとうに生きること」にはつながっていかないと、ぼくも思う。

 

河合隼雄の読書のひろげ方(アンテナの張り方)は、「尊敬する人、好きな人の推薦」だという。

ぼくもまったく同じ「アンテナの張り方」をしている。

だから、『こころの読書教室』で河合隼雄がすすめる本を読む。

4回の講義録として編集されたこの本では、それぞれの講義ごとに、「まず読んでほしい本」五冊と「もっと読んでみたい人のために」五冊が紹介されている。

河合隼雄の関西弁では「読まな、損やでぇ」の、合計20冊の本たちである。

深層心理学の専門書はなるべく避けられ、小説や児童文学・絵本などがとりあげられている。

講義は、「まず読んでほしい本」で紹介された本を読み解きながらすすめられてゆく。

「話の筋」の、いわゆるネタバレがあるけれども、それだけで「わかった」という表面的な世界ではなく、深い世界へと降りてゆくような本である(「まず読んでほしい本」を読んでからこの本を読むのがよいのだろうけれど、ぼくは先に河合隼雄の講義に耳をすましてしまった)。

 

「私と“それ”」「心の深み」「内なる異性」「心ーおのれを超えるもの」という講義に、ぐいっとひきこまれてゆくのをぼくは感じ、そしてこの「一冊」を読むことで、やはり河合隼雄という人に正面から接したような感覚がわきあがるのだ。

それはこころの深いところに降りてゆくような対話のようなものである。

河合隼雄はこの本を講義録をもとにしてつくられている理由として、「語りかける言葉の方が、人間の心の扉を開いて下降してゆくのにふさわしいと思われる」(前掲書)と語る。

はっと、ぼくはそこで、河合隼雄の語りにひきこまれていった理由のひとつが紐解かれたようにも思った。
 

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海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima 海外・異文化, 成長・成熟 Jun Nakajima

「距離」をつくり、時間を経ながら「異なる空間たち」と対話すること。- 日本の文学作品に(ようやく)ふれながら。

日本の文学作品を、最近はそれなりに手にとって、読むようになった。

日本の文学作品を、最近はそれなりに手にとって、読むようになった。

20歳を超えるまでは本はほとんど読まなかったけれど、10代から20代の前半くらいにかけて特に日本の文学作品は、ぼくの関心からおよそかけ離れたところにあった。

それから20年、そのほとんどの期間を日本の外で暮らしているうちに、ぼくは、夏目漱石や大江健三郎、また日本の古典的作品に、少しずつふれるようになってきている。

加藤典洋や河合隼雄などの著作における「読解」の角度や深さに、作品の面白さについての手ほどきを受けたことも理由のひとつだと思う。

けれども、やはり海外という「異なる空間」(異文化)で長く暮らすということの影響はとても大きなこととしてあるように、ぼくは思う。

 

日本にいるときは、海外のものに関心をもつ。

日本の外に出ることによって、逆に、日本のものに関心をもつようになる。

いわゆる<幻想の相互投射性>(見田宗介)ともいうべき、日本にいるときは海外にあこがれ、海外にいるときは日本にあこがれるというようなことかもしれない。

ただ、経験として、もう一段掘り起こすと、次のようなことであったようにも思う。

日本の外に出ること、つまり場所という<空間>をかえることで、次のような「効果」があったのではないかとかんがえる。

 

● 埋め込まれていた環境から「じぶん」を引き離すことで、より効果的に、自己相対化ができる

● ネガティブな偏見などから距離をとることで、自明性や偏見からいくぶんか距離をとって、ものごとを見てかんがえることができる

● いろいろな見方・視点を手にいれることで、ものごとを見てかんがえるときに、ひろい視野で見てかんがえることができる

 

「いろいろな見方・視点」を手に入れるなかでは、日本や(西洋にたいする)東洋にかんすることを、例えば「英語」で読むことで、上述のような「効果」の重層効果があったのではないかとも、思う。

文化や言語などにおいて異なる「他者の視点」で日本や東洋が照らされることで、同じものごとも異なる光のもとで見ることができる。

あるいは、日本語の複雑な言い回しなどが、(ひとまず)「わかりやすい言い回し」で語られることで理解(あるいは理解の一部)をたすけてもらうことができる。

 

これらのことは、「日本」からの<距離>(経験の質としての距離)が遠ければ遠いほど、効果は大きい。

その意味において、最初に赴任した西アフリカのシエラレオネでの暮らしと仕事は、やはり、日本からの<距離>が大きかったのだと思う。

その<距離>のはざまで、これまで埋め込まれていた環境の特異性・特殊性がうかびあがってくる。

「異なる空間たち」(異なる環境・文化・言語など)は、自己・自我というものがそれまでに構築してきた、いわば「身体的・精神的なシミュレーション(空間)」の磁場をくるわせ、壊し、問いを投げかける。

そのような経験を積み重ねていくうちに、じぶんのなかでも「対話」がすすみ、相手・他者(他者のいる文化など含む)を知ることと、じぶん(じぶんが生まれた文化など含む)を知ることが深まっていく。

じぶんと距離をつくり(じぶんをより客観的な位置におき)、時間を経ながら、いわば「異なる空間たち」と対話を深める。

そのプロセスで、「日本」や「日本なるもの」を掘り起こし、対話は続いていく。

 

これらを経験するために、もちろん、論理的には、わざわざ「海外」に出なければいけないということでは決してない。

今いるところの「井の中」を下に下に掘っていくことで、じぶんで<距離>をつくり、異なる空間たちと対話をしていくことはできる。

ただし、ぼくに限って言えば、「海外」に出るということが、経験上、必要であったように思う。

ぼくにとっては「井の外」の助けが、必要であったということだけだ。

でも、そのようなこととして、「井の外」は、方法のひとつではある。

「井の外」が助けになるかどうかは、翻ってじぶん次第ではあるけれど、やはり、方法のひとつであると、ぼくは思う。

 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

現代世界における「ハーモニー」という希望。- 「アイデンティティの複数性」(アマルティア・セン)をキーワードに。

「経済発展」ということを、経済成長率だけではなく、もっと広く捉える視点と実践を提供しつづけてきた経済学者アマルティア・セン。

「経済発展」ということを、経済成長率だけではなく、もっと広く捉える視点と実践を提供しつづけてきた経済学者アマルティア・セン。

「冷静な頭脳と暖かい心」をもつ経済学者と語られ、彼の影響は経済学・厚生経済学にかぎらず、哲学や思想にまでおよぶ。

インドに生まれたアマルティア・センは、数々の理論を、その内側に立って論理を徹底することで、新たな地平をひらいてきた。

 

アマルティア・センはノーベル経済学賞を受賞した後にも、しずかな筆致だけれども、論理の透徹した著作を書き続けている。

その一つに『Identity and Violence: The Illusion of Destiny』(W.W. Norton & Company, 2006)という著作がある。

「アイデンティティと暴力」と題され、暴力が広がる世界における「アイデンティ」の狭窄化ともいうべき状況に焦点をあて、人が本来住んでいる世界における「複数のアイデンティティ」へとひらいていくところに、現代世界のハーモニー(調和)の希望を見出している。

 

The hope of harmony in the contemporary world lies to a great extent in a clearer understanding of the pluralities of human identity, and in the appreciation that they cut across each other and work against a sharp separation along one single hardened line of impenetrable division.
(現代世界における調和の希望は、かなりの程度、人間のアイデンティティの複数性に関するより明確な理解と、またそれらが相互に横断し、頑強な分断をつくる硬化したひとつの線に沿って存在するくっきりとした分離に立ち向かうことを認識することの内にある。)

Amartya Sen 『Identity and Violence: The Illusion of Destiny』(W.W. Norton & Company, 2006)(※和訳はブログ著者)

 

特定の、文化、文明、国、宗教などに狭窄されたアイデンティティをたずさえて、人間は争いを繰り返してきた一方で、だれもが、複数のアイデンティティをもちながら生きている。

人はさまざまなグループなどに属している。

センが例としてあげているように、一人の人が、まったく矛盾なく、アメリカ国籍、カリブ人、アフリカに先祖、キリスト教者、リベラル、女性、ベジタリアン、長距離ランナー、歴史学者、教師、小説家、フェミニストなどなどでありうる。

これらのそれぞれがその人にアイデンティティを与えるものであり、特定のどれかひとつがその人のアイデンティティとなるのではない。

実際に世界はますます、多様性を増している。

人びとのそれぞれのアイデンティティということにおいて、それらをある特定の方向性に「統一」していくのではなく、逆に、その多様性・複数性をひらいていくところに「ハーモニー」が生まれるということは、チームや組織やコミュニティをかんがえていくときの、深い問いを提示してもいる。

 

メディア・アーティストなど多彩な顔をもつ落合陽一は、人間の「重層的な生」という視点から、「西洋的な個人」の、(日本における)乗り越えを提案している。

「選挙の投票」ということにおける、西洋個人主義の限界点をみつめつつ、「一番シンプルな答え」として、次のように語っている。

 

「個人」として判断することをやめればいいと僕は考えています。「僕個人にとって誰に投票するのがいいか」ではなく、重層的に「僕らにとって誰に投票すればいいのだろう」「僕の会社にとって、誰に投票するのが得なんだろう」「僕の学校にとって、誰に投票するのが得なんだろう」と考えたらいいのです。個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいいのです。これを技術的に解決する余地が、人工知能による統計的判断や最適化にはあると考えています。…

落合陽一『日本再興戦略』幻冬舎、2018年

 

落合陽一は、西洋個人主義に合わない日本の状況を考えながら、(個人のアイデンティティの複数性ではなく)「自らの属するコミュニティの複数性」という言い方を採用しているけれど、人間の生の重層性とアイデンティの複数性への視点については、アマルティア・センと同型である。

 

ぼくたちは、このような「多様性・複数性」を日々生きているし、そこを起点としながら、いろいろと始めることができる。

精神科医のR・D・レインは「アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのこと」と言ったが、はたしてじぶんの物語・ストーリーは多様性・複数性に充たされているかと、かんがえてみることができる。

じぶんのアイデンティティの複数性に気づき、ひろげ、複数性のそれぞれの生を生きてゆくこと。

それだけでも、じぶんの生も、そして世界のあり方も、「景色」が変わっていくだろうと、ぼくは思う。
 

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

人間関係の「密で少」と「疎で多」。- 「隣近所へのあいさつ程度」からひらかれる生と関係。

人間関係を「深さー広さ」という軸をたててみるときに、精神科医の森川すいめいによる、「その老人の変わった日」(『現代思想』2016年9月号、青土社)というエッセイ(記録)に、いろいろなことをかんがえさせられる。

人間関係を「深さー広さ」という軸をたててみるときに、精神科医の森川すいめいによる、「その老人の変わった日」(『現代思想』2016年9月号、青土社)というエッセイ(記録)に、いろいろなことをかんがえさせられる。

 

森川すいめいは、80歳代の女性である田村さん(仮名)が、人間関係の軸を転回させていくことで変わっていった経緯を書いている。

森川の言葉では「自殺希少地域における対話する力を実践し続けた田村さんの変化の記録」である。

田村さんが森川の外来におとずれたときは「こころがめいっぱい」な状態で、夫婦二人暮らしのなか夫を亡くし、これから生き方がわからない状態であったという。

森川は、「悲しみと、絶望と、不安と、自分を責めることば」を田村さんの語りから聴きとる。

その田村さんが、元気に、近所の人たちと「支え支えながら」一人暮らしをするまでに変わっていく。

 

森川すいめいの仕事におけるインスピレーションは、自殺希少地域の研究(岡檀『生き心地の良い町ーこの自殺率の低さには理由がある』講談社)と、それらの地域への実際の「旅」である。

岡の調査で印象深かったものとして「近所づきあいの意識」に関するものがあり、その調査結果はふつうに思われることとは異なっていた。

自殺希少地域では、人と人が助け合い、緊密に・親密に支えあっていると思われがちだが、調査結果は、近所づきあいは「立ち話程度、あいさつ程度の関係」という回答が八割を超えていたという。

逆にそうではない地域では、四割強のひとが互いによく協力し合っていると回答しているという結果だ。

森川はそこから、地域によってこのような人間関係の差が生まれたことを自問し、仮説のひとつとして、「立ち話慣れ、あいさつ慣れをしているか」に目をつけることになる。

 

田村さんの外来がつづくなか、田村さんは「孤立してはいけない」というラジオで森川が話す言葉をてがかりに、「隣近所にあいさつ」をするようになっていったという。

「近所づきあいがほとんどない」から「あいさつ程度」に変わり、田村さんは、そのなかで近所に同じように「孤立している人」たちを知り、支え支える関係が生まれていく。

 

 人間関係が疎で多であることは、ひとが多様であることをからだで感じることになる。いろいろなひとがいると知ることで、何かを決めつけたり狭い世界で思い込んだりしなくてもよくなる。多様さを知り、それを包摂できることは生きやすさの要となる。
 田村さんの近所づきあいは、あいさつ程度、立ち話程度に変わった。
 田村さんは、孤立するひとたちと複数出会うことになった。それは誰かの話が誰かの役に立つことを知ることにもなった。…
 …田村さんは、その気質が変わったわけではなかった。考え方も生き方も変えなくてもよかった。ただ、緊で少な人間関係を、疎で多な人間関係に変えただけだった。…

森川すいめい「その老人の変わった日」『現代思想』2016年11月号、青土社

 

このエッセイ(記録)を読んでいると、「ただ緊で少な人間関係を、疎で多な人間関係に変えただけ」ではなく、行動や思考のなかで田村さんの考え方や生き方も変わっていたのだとぼくには見えるけれど、それはあくまでも「田村さんの物語」であるから、さらに掘り起こしていくところではないかもしれない。

森川の言う「多様さ」ということについて、人がその内面に多様性に充ちた「世界」をつくっていくことの大切さは、言い過ぎることはない。

 

「緊で少な人間関係」は人間社会としては共同体的な関係であり、「疎で多な人間関係」は市民社会的な関係である。

ただし、ここでは単純に「共同体から市民社会へ」ということではなく、共同体が解体し、また市民社会における「核家族」の解体のうえで、さらにどこに精神面を支える人間関係をきずいていくのかという課題とつながっている。

特に若い世代による情報テクノロジーを基盤とするネットワークによる人間関係の構築は、さまざまな試行錯誤のうちにおかれていて、それらの経験は人間関係が技術とシステムだけでどうにかなるものではないことを教えてくれている。

その試行錯誤とは角度を異にしながら、「あいさつ程度・立ち話程度の近所づきあい」は、ひとつの方向性をひらいている。

「あいさつ」とは、その原型において、互いの<存在>に向けられる祝福のようなものとしてあると、ぼくは思う。
 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

子どもが大人に常に教えてくれる3つのこと。- 「wonder」にみちびかれる世界へ。

著書『アルケミスト』で有名な、ブラジル生まれの作家パウロ・コエーリョの別の作品『第五の山』(角川文庫)のなかで、子どもが大人に教えてくれることについて、次のように書かれているところがある。


著書『アルケミスト』で有名な、ブラジル生まれの作家パウロ・コエーリョの別の作品『第五の山』(角川文庫)のなかで、子どもが大人に教えてくれることについて、次のように書かれているところがある。

 

…子供は常に三つのことを大人に教えることができます。理由なしに幸せでいること。何かでいつも忙しいこと。自分の望むことを、全力で要求する方法を知っていることの三つです。

パウロ・コエーリョ『第五の山』角川文庫

 

これらの3つのことは、「大人」という時期をくぐりぬけていく人間をからめとってしまう「罠」の存在を、ぼくたちに教えてくれる。

 

第一に、大人は、なかなか「理由なしで」幸せになることができない。

何かを得ることで、あるいは何かを達成することなどで、人は「幸せ」を感じる。

しかし、やがて、その「幸せ」はフェードアウトし、他の物事を永遠と追い求めていきがちである。

 

第二に、大人も常に「忙しさ」のなかにあるけれど、子どもの生きる忙しさとは異なっている。

子どもは「wonder(驚き、知りたいと思うこと)」に駆動されながら、忙しい。

20世紀後半に「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogersは、かつてインタビューで、現代社会が、「wonder」ではなく、あまりにも「information(情報)」にばかり関心をもってしまっていることへの警鐘をならした。

子どもに正面から向き合ってきたRogersは、「wonder」に充ちた番組をつくってきた。

 

第三に、大人は、「自分の望むこと」をいくぶんかあきらめ、「望むこと」がわからなくなり、あるいは「望むこと」をじぶんの底におしこめる。

また、「望むこと」が明確であっても、いろいろにブロックをかけて、全力で要求(あるいは助けを求めること)をしない。

子どもたちは、それらをすりぬけるようにして、全力で要求をぶつけてくる。

 

これら三つの「教え」は、大人の生き方の様相を相対的に照射するだけでなく、大人が子どもをまなざす際の「視線」のあり方のようなものを教えてくれている。

これら三つの見方・視点をもって子どもに真摯に接するだけでも、子どもに接する仕方の質的な差がでてくるようにも、思われる。

しかし、現代社会は、「子ども」という時期をすでに解体してきているような様相を呈して、現れている。

養老孟司は、80年生きてきたなかで、都市化(脳化=社会化)のなかで「なくなったもの」として、次のものを挙げている。

 

 私が八〇年生きてきて、その間になくなったものは確かにあります。例えば子どもの遊び場がそうです。もう「子どもの遊び場」という表現がなくなりました。なくなり始めた頃には異議申し立てが絶えずあったのですが、「子どもの遊び場がなくなる」なんて今は言いません。なくて当たり前になりました。子どもが子どもとして生きる権利は完全に奪われましたね。
 現在の都市化はそうしたことをほとんど無視するかたちで進んでいます。…

養老孟司「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号

 

子どもたち自身に目を転じても、早くの時期から、「何かを達成・獲得」することのループになげこまれ、「wonder」を解き放つ学びよりも「情報」の海を泳ぐことを余儀なくされ、また、自分の望むこともあるいはそれを全力で要求する力もただ頭ごなしに「抑制」されるような生活に生きているようにも思われる。

大人がこれらを子どもの内にだけでなく、自身の内に解き放つことを通して、「世界」はwonderにみちびかれるひとつの奇跡として現れてくるところに、ただ今と、これからの時代をひらいていくことができる。
 

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成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「二人でも一人で生きていける人、一人でも二人で生きていく人」。- 「自立」から<自立>へ。

「自立」ということはよく考えていくと、なかなか深く、定義はいろいろに可能だ。


「自立」ということはよく考えていくと、なかなか深く、定義はいろいろに可能だ。

「自立」ということにたいする直接の語りではないけれど、心理学者・心理療法家の河合隼雄は、老年期における「一人で生きる」ということにふれながら、何かの本に書いてあったことを引いて、聴衆に語っている。

 

…どう書いてあったかというと、「二人でも、一人で生きていける人でないと駄目だ。一人でも、二人で生きていかないと駄目だ」とありました。
 夫婦でも、一人で生きていけるくらいの力のある者同士が夫婦でいるからうまくいくんです。また、「一人でも二人」というのは、一人でも心の中にもう一人誰かがいるということです。心の中にお父さんが住んでいる人もいるし、お母さんが住んでいる人もいるし、友だちが住んでいる人もいれば、もう一人の自分がいる人もある。…

河合隼雄『こころと人生』創元社

 

「二人でも一人で生きていける人、一人でも二人で生きていく人」ということは、「自立」ということの大切さと、またそのことが「一人であること」(だけ)に間違って転化して捉えられてしまうことの乗り越えを、シンプルに表現している。

別のブログでも取りあげたように、河合隼雄は、まわりと自分の関係性について、人や木や石などのまわりが「私」をやってくれている、というように、絶妙な仕方で表現している。

ふだんの「面白くない」関係だとか、「なにげない」風景との関係だとか、そのようなものをひっくるめて、「私が生きている」ということを支えているのだという視点だ。

河合隼雄はその話につなげながら、次のように語る。

 

…「私が生きているということは、松の木も、石ころも、みんな頑張ってくれているからなんだ」と。そういう感じがすごくわかってくると、一人でも、100人ぐらいで生きているみたいなものです。そんなふうに「一人でも二人」という感じになってくると、今度は逆に、二人で生きていても一人で生きていけるという、そういう感じになります。…

河合隼雄『こころと人生』創元社

 

「一人でも、100人ぐらいで生きている」という感覚、また、それが逆転する仕方で、「一人で生きていける」ことを支えるという、生きることの本質を、とてもわかりやすい言葉におきかえて語っている。

このようにさらっと言っているけれど、河合隼雄は幾度も念をおしているように、このようなじぶんをつくりあげていくためには、努力と工夫が必要であることを付け加えている。

日常に試行錯誤を通過していくであろうし、こんなことはそもそも忘れて日常を過ごすことになってしまうであろうけれど、しかし、このような視点をじぶんのうちにもっておくだけでも、何かの折に、深いところからの「気づき」がおとずれるのだと、ぼくは思う。

「二人でも一人で生きていける人、一人でも二人で生きていく人」という表現は、視点として、じぶんの生き方の「道具箱」におさめておきたい言葉のひとつである。
 

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言葉・言語, 成長・成熟 Jun Nakajima 言葉・言語, 成長・成熟 Jun Nakajima

「みんなで「私」というものをやってくれている」(河合隼雄)。- まわりと自分の関係が見えてくるとき。

「人とのつき合い」における<全体性>とも言うことのできる視点を、著書『こころと人生』(創元社)で河合隼雄は述べている。

「人とのつき合い」における<全体性>とも言うことのできる視点を、著書『こころと人生』(創元社)で河合隼雄は述べている。

河合隼雄が俳句を始めようと句会に参加したら、いろいろな人たちがいろいろに言ってくる。

はじめてにしてはうまい、と言ってくれる人もいれば、いやみを言う人もいる。

俳句とはぜんぜん関係のない話をしてくる人もいる。

悪口を言う人もいて腹が立つこともあるけれどと前置きをしつつ、そうしたことの全体が「私が生きている」ということだとわかってくるということを、河合隼雄は、この文章の元となった講義で、冗談をまじえながら聴衆に語りかけている。

 

…「私が生きている」といっても、一人で生きているわけじゃないですから、この人ともこの人ともみんな関係がある。その中で私が「いい句ができたなぁ」と思って喜んでいるときに、パッと悪口を言ってシュンとさせる人というのは、考えたら「私が生きている」ということにものすごく大事な人なんですね。

河合隼雄『こころと人生』創元社

 

シュンと言ってくれる人がいないと天狗になってしまうこともあるなかで、天狗になりかけたときに、そのような人が現われることで「全体のバランス」のようなものがある、と。

河合隼雄は、生きることで一見「面白くない」体験を、全体性のなかで「面白い」体験に転回する視点を語っている。

 

この話につづいて、「人」だけにかかわらない視野へと、河合隼雄は視線を上昇させていく。

 

…極端にいえば自分の周囲にある草でも、鳥でも、石でも、木でも、みんな自分と関係がある。そして、みんなで「私」というものをつくってくれているというか、「私」というものをやってくれているんじゃないかというふうに、僕はこの頃思います。

河合隼雄『こころと人生』創元社

 

「私」というものをつくるってくれているというか、「私」というものをやってくれている。

「私は他者である」(例えば、良心の声は両親の声)ということが、ここでは徹底されて、「私」というものをやってくれるものとしての「まわり」の全体性が語られる。

この表現の鮮烈さと深さに、ぼくは心の中でうなってしまう。

 

河合隼雄はそのような体験の例として、自分の家に帰るときの「風景」を挙げている。

いつもであれば、どこかの家の松の木が見え、何気なしに通りすぎている風景において、ある日突然に松の木が見えなくなる。

訊いてみると、ある理由で切ってしまったということを知って、残念な気持ちがおしよせてくる。

 

この気持ちは、ぼくも昨年(2017年)、ここ香港で、身にしみて感じていた。

香港にやってきた台風が、一夜にして、これまで悠然と立っていたかのような木々を倒してしまった。

倒れかかった木々は危険だから、取り除かれてしまい、そこには、ぽっかりと空間ができてしまったことに、ぼくは残念な気持ちと寂しさを感じたものだ。

同時に、これまでの何気ない風景に、ぼくは生かされていたということを知ることになった。

最近、残った木々たちはその力強さを取り戻してきているように、ぼくには見えていた折、ぼくは河合隼雄のこの文章に出会った。

河合隼雄は次のように、語っている。

 

…どういうことかというと、その松の木はそれまで、自分の人生を支えるひじょうに大事なものとして存在していたということです。
 そんなふうに、「いろんなものがまわりで自分を支えてくれている」というふうに思えるようになってきたら、普通の社会でいうような意味での「お金が儲かる」とか、「子どもがどこの大学へ行っているか」とか、そんなことだけじゃなくて「私はちゃんと生きています」という感じが、だんだんとしてくると思います。…

河合隼雄『こころと人生』創元社

 

「私」というものをまわりがやってくれている。

そのことを、「私」が失くなってしまい自我がくずれおちていくように感じるのではなく、逆に、「私」を豊饒化しているのだと感じるような<全体性の視力>を、河合隼雄はわかりやすい言葉で、しかし経験を深いところで生きてきた人しか語れない言葉で、語ってくれている。
 

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「存在の海の波頭のように自我がある」(見田宗介)。- 「じぶん」という問題を問いつづけながら。

ぼくが小さい頃から格闘してきた「問題」のひとつとして、「エゴイズム」の問題がある。


ぼくが小さい頃から格闘してきた「問題」のひとつとして、「エゴイズム」の問題がある。

じぶんを守ろうとしてしまうじぶん、しかし逆に、じぶんをどこかおしころしていってしまうじぶん。

ときに、「じぶん」という枠が牢獄のようにも思えて、とても苦しくなってしまう。

ぼくから誰かに積極的にたずねることはしたわけではないけれど、学校の授業も、大人も、誰も、ぼくが納得のいく仕方で語ってはくれなかった。

だから、じぶんの経験をたぐりよせながら、かんがえるのだけれども、今おもえば、思考は「じぶん」の内部でめぐるだけのようであった。

 

時がすぎ、大学を休学してニュージーランドに住み、大学に戻ってから、ぼくは「本」を読むようになった。

その折に出会ったのが、真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)であった。

人類学者カルロス・カスタネダの著作を素材に、おどろくほど明晰な「世界」がそこに描かれていた。

 

メキシコのヤキ族の老人の生きる世界では、<ナワール>と<トナール>というように語られる世界のあり方がある。

<トナール>とは、社会的人間のことであり、いわば言語でつくられtら「世界」である。

他方、<ナワール>は、「<トナール>という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性」であるという(前掲書)。

社会学者の見田宗介(=真木悠介)は、このことの「イメージ」を、小阪修平との対談で、次のように語っている。

 

…あんまり考えなしに、感じだけを乱暴に言うと、ぼくの感じで言うと自然というのは内部だという気がして…。つまり、わたしは自然だという感じかな。…体感としていうと、<私>は自然の波頭のひとつだと。宇宙という海の波立ちのさまざまなかたちとして、個体としての「自我」はあるのだと。
 だから、ぼくにとっては、ことばとか観念のほうが外部という感じになる。
 …
 自我というのは宇宙の海の波みたいなもので、波が自己絶対化して自分自身の形に執着する場合に、明晰な波は自分の運命が数秒間にすぎないことを知っているから虚しいというニヒリズムを感じるわけです。海とたたかう波として近代的自我というのがあるというイメージが、ぼくにはあるんです。

見田宗介『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社、1986年

 

<わたくし>という現われは、大海に忙しなく行き来する「波」のようなものとして感覚されている。

それは、デカルトにはじまる西洋の近代化を支えてきた近代的自我の精神が、ことばとか観念を「内部」としてその外に身体や自然や宇宙を置くのとは、逆転したようなイメージとしてある。

ぼくにとって、このイメージはすーっと納得できるものであったし、ときにやりきれなさを感じてきた「じぶん」をかぎりなく広く捉える視野であった。

見田宗介が名著『宮沢賢治』の第一章の冒頭に、宮沢賢治の有名な詩集『春と修羅』の序、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い証明です」という一節を置いているけれど、そこでも、いわば「海の波」のように、やってきては消えまたやってくるようなイメージが重ねられている。

 

このような、「存在の海の波頭のような自我」について、見田宗介は次のようにも書いている。

 

 存在の海の波頭のように自我があるのだとわたしは思っているのだけれど、海が「主体」で、波としての自我を「外化」したりするわけではない。海はただ存在し、その存在のゆらめきとして波は立ち現われ、光って、消えてゆくだけである。
 波がじぶんのつかのまの形(ルーパ)に執着し絶対化して、海と闘おうとするときに、波は勝手に自分自身を海から<疎外>するだけである。

見田宗介「<透明>と<豊饒>について」『見田宗介ー現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』作品社(見田宗介『定本 見田宗介著作集X』所収)

 

「存在の海の波頭のような自我」のイメージはその後の見田宗介の仕事に光をあたえながら、小阪修平との対談から7年後の1993年に、真木悠介名で名著『自我の起原ー愛とエゴイズムの動物社会学』を書き上げる。

この著作の表紙は「波の写真」であり、裏表紙はしずかな「大海の写真」である。

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の論理のもつれを、さらに徹底させていくことで、「利己/利他」の地平をきりひらく『自我の起原』は、ぼくが小さい頃からなやんできた「じぶん」という問題のありかと、そこにひらかれている可能性(と不可能生)とを、明晰な仕方で提示してくれた。

じぶんがなやんでいることは、世界のどこかで、あるいはこれまでの歴史のなかの世界で、きっとだれかが、正面から立ち向かっていっているものだということを、ぼくは心づよく思ったし、今でもそう思っている。

そこに生きるうえでの「解決」はなくても、知識や知恵としての、あるいは問いとしての「糸口」がある。

生きることの矛盾をひきうけながら、そこをどのように生きていくのかが、ぼくたちのひとりひとりに問われている。

そして、河合隼雄が言うように、その矛盾をひきうける「生き方」に、ぼくたちひとりひとりの<個性>が現れてくるのだと思う。

 

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