身体性, 言葉・言語, 書籍 Jun Nakajima 身体性, 言葉・言語, 書籍 Jun Nakajima

「伝え授けることむづかしき也」(野口晴哉)。- 野口晴哉の「遺稿」の余白を読む。

「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。...Read On.


「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。

整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。

二人の共通点は、自然としての「身体」への真摯なまなざしである。

 

養老孟司は80歳を迎え、著書『遺言』(新潮新書、2017年)を世に放ったばかりである。

『遺言』についてはまた取り上げたい本だけれど、最近、野口晴哉の文章のなかに、「我は去る也」という≪遺稿≫があるのを知った。

実を言うと、その≪遺稿≫が収められている著作『碧巌ところどころ』は読んでいたのだけれど、その著書の最後に置かれている≪遺稿≫を、ぼくは読むことなくやりすごしていたのだ。

野口晴哉の≪遺稿≫に目を向けさせてくれたのは、松岡正剛による野口晴哉『整体入門』の書評である。

松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」のなかに、野口の著作の書評があり、ぼくは松岡正剛に教えられたわけだ。

 

野口晴哉の遺稿は、昭和51年に書かれた。

野口晴哉がこの世を去った年だ。

「我は去る也」と書く野口晴哉が、実際にこの世を去ることを予感していたかは、ここの文章からはわからない。

「箱根に移る」と書かれているから、「我は去る」先は、ひとまず箱根であった。

世を去ることにしろ、箱根に移るにしろ、野口晴哉は「伝え授けることのむづかしさ」を深く深く感じながら、この遺稿を書いている。

 

 我は去る也 誰にも会うこと無し
 …
 我は去る也 心伝え 技授け 今や残す可き何も無し
 伝え授けることむづかしき也 我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也 我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也 所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり

野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社

 

伝え授けること、またそれを止めることの比喩として、野口は「空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也」とも書いている。

伝え授けることのむづかしさは、空中に文字を画くようなもの、あるいは空中への放言のようなものだと、語られている。

あの野口晴哉でさえ、というか、野口晴哉だからこそ一層に、そのように深いところで感じていたのかもしれないと、ぼくは遺稿の「余白」を読む。

 

松岡正剛は、なぜ「我は去る也」と書いたのかをかんがえながら、野口のような独創の持ち主のまわりには多くの人たちがあつまりながらも、多くは野口を生かそうとは思わず、野口はそこに疲れ、失望したのだろうという考えにいきつく。

松岡正剛はそこでギアを変え、しかし野口晴哉が残した整体は、逆に後世に着実に広まっていったことに着目している。

松岡正剛は次のように書いている。

 

 なぜ野口の意志をこえて広まったのか。野口が主題ではなく、思想ではなく、方法を開発したからなのである。野口は「方法の魂」を残したのだ。野口自身はその方法を早くに開発していたから、そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、いつだって勝手なものなのだ。

松岡正剛「野口晴哉 整体入門」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」より

 

松岡正剛の解釈に教えられながらも、ぼくは、ぼくだって勝手なものかもしれないとも思う。

ぼくは野口晴哉の「思い」から入って、「方法」は後回しだ。

そのような思いを抱きながら、野口晴哉の「我は去る也」が、ぼくの心にとどまって、去ろうとしない。

 

人間に、人間の身体に真摯に向き合ってきた野口晴哉と養老孟司。

野口晴哉の「遺稿」と養老孟司の「遺言」。

二人の巨人に、ぼくは真摯に向き合うだけだ。

「我は授けしと思えど 何も会得せざる」と、野口晴哉が空中に放言されようとも。
 

遺稿と共に、野口晴哉の次の言葉が、ぼくの心に鳴り響いている。
 

溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある

野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
 

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「風」のように、あるいは「風」として動くこと。- 野口晴哉の思想の通奏低音としての<風>。

整体の創始者と言われる故・野口晴哉。野口晴哉の思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。...Read On.


整体の創始者と言われる故・野口晴哉。

野口晴哉思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。

『大絃小絃』(全生社)という著作(エッセイ集)の表紙に、「太古の始めから風は吹いていた…」ではじまる、「風」と題された詩的な手書きの文章が掲げられている。

この文章は、中国の仏教書である『碧巖録』と向き合った著作『碧巌ところどころ』に編集されている、「風」という一群の論考のひとつとしても収められている。

その一群の論考には、近代医術の宗祖であるヒポクラテスのこと、能の芸術論などと共に、「風」と題されるもう一つの文章が最後に置かれている。

 

先づ動くことだ
形無くも 動けば形あるものを動かし 動かされている形あるものを
見て 動いているものを 感ずるに至る
動きを感ずれば共感していよいよ動き 天地にある穴 皆声を発す
竹も戸板も水も 音をたてて動くことを後援する 土も舞い 木も
飛ぶ 家もゆらぐ 電線まで音を出して共感する
ーー天地一つの風に包まる

先づ動くことだ
隣のものを動かすことだ
隣が動かなければ先隣りを動かすことだ
それが動かなければ 次々と 動くものを多くしてゆく
裡に動いてゆくものの消滅しない限り 動きは無限に大きくなって
ゆく これが風だ
誰の裡にも風を起こす力はある
動かないものを見て 動かせないと思ってはいけない 裡に動くも
のあれば 必ず外に現われ 現れたものは 必ず動きを発する
 自分自身 動き出すことが その第一歩だ

野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)

 

「風」ということで表象されることに魅かれるぼくは、野口晴哉のこの文章に触発される。

人は変わることができるか/人は変われるか、組織を変えることはできるか/組織は変われるか、社会を変えることはできるか/社会は変われるか。

ぼくたちは、日々の生活をしながら、仕事をしながら、人との関係の網のなかで生きながら、そのように自問する。

それらの問いは、ぼくのなかでも、国際協力・国際支援の場を通じて、また人事労務という場を通じて、いつもこだましてきた。

 

体を知り尽くした野口晴哉は、「誰の裡にも風を起こす力はある」と、書いている。

それは、意志とか意識などよりも手前のところで、ぼくたちの身体に流れる力、あるいは身体という力と向き合いつづけてきた野口晴哉からわきあがってくる言葉だ。

野口晴哉は、風を超える<風>、つまり<動き>に敏感な、整体の実践者であり思想家であった。

「誰の裡にも…ある」力を起こすために、「先づ動くことだ」と、野口晴哉はくりかえし伝えている。

それも、「自分自身動き出すこと」が第一歩だと、最後にも同じメッセージを異なる言葉で加えている。

ぼくたちの周りの、家族や友人、組織、コミュニティなどに、「風」が吹いていないのであれば、やはり「自分自身動き出すこと」からはじめることである。

風を起こす内的な力を起こし、風を味方につけるのだ。

「動かないものを見て、動かせないと思ってはいけない。裡に動くものあれば必ず外に現われ、現れたものは必ず動きを発する」と、野口晴哉の身体を通じた深い知恵は、ぼくたちに教えてくれている。

風のように動き、風として動くこと。

野口晴哉の言葉が、いつものように、あの存在の力をもって、ぼくに迫ってくる。

「先づ動くことだ」
 

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「潤一(コペル君)」(『漫画 君たちはどう生きるか』)が、この世界に溶けていってしまいそうな気がするとき。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。…物語の中で、潤一(コペル君)が、おじさんが近所に引越してきたばかりのころ、おじさんと銀座のデパートに行く場面がある。...Read On.


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。

1900年代前半(原作の出版は1937年)の日本の東京を舞台に、主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さん(おじさん)が、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

 

物語の中で、潤一(コペル君)が、おじさんが近所に引越してきたばかりのころ、おじさんと銀座のデパートに行く場面がある。

化学に興味をもったばかりの潤一は「分子」という不思議さを通して、デパートの屋上から人通りを見る。

潤一は、そのデパートの屋上で、次のような「気の遠くなってしまいそうなへんな気持ち」を感じることになる。

 

デパートの屋上で僕は……
自分がこの世界に溶けていってしまいそうな気がして
ほんとはちょっぴり恐かった。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

「分子」の不思議さを通して、目に見えているものはなんだって、どんどん拡大して見ていくと、いずれ「分子」にたどりつくという学びが、潤一の想像力をかきたてたのだと、文脈からはひとまず読める。

しかし、その感覚は、ぼくたちがときに、感じる感覚でもある。

大人になって忙しくしていると、なかなかそのようなことを思う瞬間は訪れないかもしれないけれど、子どもたちは「この世界の不思議さ」に幾度も、<じぶんというもの>の解体の契機に出会うものだと思う。

潤一のこの気持ちと感覚にみちびかれてゆくように、ぼくはこの作品世界の中にひきこまれていったように感じる。

 

この気持ちと感覚は、ぼくに「宮沢賢治」のことを思い出させた。

『君たちはどう生きるか』の原作者である吉野源三郎が児童文学者であったように、宮沢賢治も童話作家でった。

潤一が化学・科学の世界に魅かれたように、宮沢賢治も、例えば、アインシュタインの相対性理論を学んでいたという。

その宮沢賢治が永眠についたのが1933年であったから、それからまもなくして、『君たちはどう生きるか』の原作が出版されている。

 

宮沢賢治は、<じぶんというもの(現象)>に、きわめて敏感な人であったことを、社会学者の見田宗介は著作(『宮沢賢治』岩波書店)の中で書いている。

宮沢賢治の研究者である天沢退二郎が、賢治の作品『小岩井農場』の分析の中で、賢治がもつ<雨のオブセッション(強迫観念)>を指摘ていることにふれながら、見田宗介は、<雨>のもつ両義性(「…くらくおそろしく、まことをたのしくあかるいのだ」)に、<自我>の両義性をみている。

<自我>がぼくたちを「守る」ためにくりだす「恐い気持ち・感覚」がある一方で、<自我>から解き放たれるときに感じる「たのしくあかるい」感覚があることを、ぼくたちは知っている。

潤一(コペル君)は、この<自我>の両義性を、あの銀座のデパートの屋上で経験することになる。

このような自我の本質にふれる機会をも、『君たちはどう生きるか』という作品は、ぼくたちに与えてくれている。

「生きる」ということにおける、さまざまな本質がいっぱいにちりばめられているのが、この作品だ。

この作品に限らず、児童文学の名作たちは、大人になったぼくに、ほんとうに多くのことを教えてくれる。

そして、「自分がこの世界に溶けていってしまいそうな経験たち」の記憶が、かすかに、ぼくの中でよみがえってくる気配を、ぼくは感じることになるのだ。
 

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『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)。- 生き方の指南ではなく、「どう生きるか」の問い。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一、マガジンハウス刊)は、1937年に発刊された名作を、漫画化した作品。...Read On.


『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一、マガジンハウス刊)は、1937年に発刊された名作を、漫画化した作品。

発売から2ヶ月強で、50万部ほどの売れ行きを見せているという。

主人公である本田潤一(コペル君)と叔父さんが、人生のテーマ(世界、人間、いじめ、貧困など)に真摯に向き合いながら、物語が展開していく作品だ。

ぼくは原作を読んだことがなく、この漫画をひもとくことで、この作品世界に初めて入っていくことになった。

漫画化された作品は、マンガと共に、手紙という形式の「文章」とのコラボレーションにより、立体的な作品世界をつくりだしている。


吉野源三郎が、タイトルを「君たちはどう生きるか」と質問型にしたことに、この作品における思想のひとつが顕現している。

近所に引越してきたおじさんに、コペル君は、学校で起きた出来事について相談をする場面がある。

おじさんは、次のように、コペル君に応答する。

 

つまり、そんなときどうすればいいのか……
おじさんに聞きたいってことかい?
そりゃあ、コペル君
決まってるじゃないか
自分で考えるんだ。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

生きる道ゆきで出会う本質的な出来事は、「答え」のない、出来事だ。

ただし、そこに「自分なりの答え」を見つけてゆくことに、おじさんはコペル君を導いてゆく。

そして、導きながら(一緒に考え、よりそいながら)、おじさんも人生の道をきりひらいていく。

コペル君とおじさんという<関係性>を見ながら、世代的に<横のつながり>で占められる現代の若者たちの姿が、ぼくの脳裏に浮かぶ。

コペル君が化学の「分子」を考えながら気づくように、世界は「つながっている」のだけれど、グローバル化する世界での現代的な関係性は逆に「狭い関係性」へと人を押しこめてしまうようなところがある。

 

名著たるゆえんが、言葉ひとつひとつ、あるいは物語の中に、いっぱいにひそんでいる。

潤一(コペル君)の亡き父が残した言葉は、ぼくの中でこだまする。

 

私は……
潤一に
立派になってほしいと思っています……
人間として立派なものに……

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

現代であれば、「幸せになってほしい」と、願うのかもしれない。

幸せではなく、「人間として立派なもの」にという願いは、「幸せ」だけに狭まれない、より大きな空間であるように、ぼくには見える。

このように、物語を構成するひとつひとつの出来事に、多くの物語が詰まっている。

 

言葉の「使われ方」の前でも、ぼくは立ち止まる。

一昔前の作品だからか、言い回しは少し現代とは異なるところがある。

おじさんはコペル君宛の文章で、次のような箇所がある。

 

…それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。

『漫画 君たちはどう生きるか』(原作:吉野源三郎、漫画:羽賀翔一)マガジンハウス

 

「心の目、心の耳を開ける」ではなく、<心の目、心の耳が開ける>である。

ただ時代の言葉の違いかもしれないけれど、ぼくにとっては、この「を」と「が」の違いはとても大きいものだと感じられる。

名著は、いろいろな「読み方」ができる。

 

ベストセラーは、その作品の力であるとともに、ひとつの社会現象である。

今回は相当にこだわってきた企画が背後にあるようだが、社会現象ということにおいては、作品が読者を獲得するのではなく、読者たちが作品をつかみとるものだ。

硬質なタイトルである「君たちはどう生きるか」という言葉による問いが、読者たちの何に響いたのだろうかと、ぼくは考えてやまない。

この本は、無限にひろがってゆく<問い>を、ぼくたちの中に蒔く。

漫画と文章の素敵なコラボレーションの中でも、<吉野源三郎>が投げかける言葉と問いが、通奏低音のごとく作品にひびいている。

 君たちは、どう生きるのか、と。 

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野口晴哉著『体癖』。- 野口晴哉という巨人の仕事に惹かれながら。

整体の創始者といわれる故野口晴哉(1911年、東京生まれ)のことをはじめて知ったのは、どこからであったか、今でははっきりと思い出せない。...Read On.


整体の創始者といわれる故野口晴哉(1911年、東京生まれ)のことをはじめて知ったのは、どこからであったか、今でははっきりと思い出せない。

見田宗介の著作群を一気に読んでいるときに、見田宗介がふれる「野口晴哉」を知ったのだろうと、おぼろげに思うのだけれど、ちくま文庫に文庫化されている野口晴哉のいくつかの著作を通じてかもしれない。

いずれにしろ、20歳を超えたあたりで、ぼくは野口晴哉のことを知った。

ちくま文庫から出されている野口晴哉の著作のひとつに『風邪の効用』というタイトルの本があり、ぼくはその本を読みながら、「視点の転回」を体験することになった。

それは、ぼくが唯一その著作の内容として覚えていることでもあるのだけれど、野口晴哉によると、「風邪」というのは<体の祭り>なのだということである(正確な言い回しはまったく覚えていないので、あくまでもぼくの解釈もはいりこんでいる)。

ぼくが生まれた静岡県浜松市は「浜松祭り」という祭りが毎年あり、ぼくは「祭りの効用」を身体でかんじとっていたから、風邪が<体の祭り>であるという考え方は、すんなりとぼくの中に収まったようだ。

風邪が「悪いもの」と思っていたから、必ずしもそうではないことを知って、ぼくの視点はひろがりをえることになった。

その視点は、真木悠介(=見田宗介)の名著『自我の起原』(岩波書店)を読んでいるときに(本と「格闘」しているときに)、ぼくたちの身体は<共生のエコシステム>なんだと知って、さらにぼくの中に、すとーんと落ちたものだ。

 

それから時をだいぶ経て、見田宗介の『定本 見田宗介著作集X:春風万里』に収録されている「野口晴哉」に関する論考を読んだときに、ぼくはすっかりと、野口晴哉の世界(また見田宗介による読解)に惹きこまれてしまった。

ぼくはこのとき、香港に居住をうつしていたけれど、日本から野口晴哉の著作をいくつかとりよせた。

その中の一冊に、野口晴哉『治療の書』(全生社)がある。

野口晴哉の「治療生活三十年の私の信念の書」である。

天才的な治療家であった野口晴哉は三十年の治療生活に専心した後に、治療を捨て「整体」を創始していくことになるが、この書は、治療三十年に終止符を打つ書であった。

ぼくは香港で人事労務コンサルティングの仕事をしていて、ちょうど「予防」的な施策に思考をめぐらせていたから、専門の垣根をこえて、ぼくは野口晴哉から学んだ。

今でも、『治療の書』は、圧倒的な存在感をもって、ぼくの横にある。

 

見田宗介の『定本 見田宗介著作集X:春風万里』の論考(講義録)で、野口晴哉を導きの糸に、美術画に描かれている人物の「身体」を読み解くという、きわめて興味深い話を展開している。

その身体の読み解きの「基礎」は、野口晴哉の「体癖論」である。

野口晴哉の著作の中に『体癖』(ちくま文庫)という著作がある。

それによると、体癖論は、個人の身体運動がそれぞれに固有の「偏り運動」に支えられていることを中心にそえる考え方だ。

その「偏り運動」は、固有の運動焦点の感受性が過敏であることから生まれるものだという。

「偏り」は体全体の動きに関わり、偏りがどのように連動しながら体全体の動きとなるかが焦点のひとつとなる。

そもそもなぜこの「体癖研究」を行なっていたのかということについて、野口晴哉は、次のように書いている。

 

 私は半身不随の人が火事でビックリして逃げ出したのを見たことがあります。人間は攻撃とか防御とかには全力を発揮しなければなりませんから、全力発揮のための特殊運動が行われるのは当然ですが、もっと日常的なことで、例えばある人はチップを貰えるかもしれないということから運動能力が発揮され、また別の人は探偵小説なら徹夜で読みつづけても辛くないというように、全力が発揮できる方向が各人それぞれにあるのです。こういう自発的な運動能力発揮の方向は、偶然生ずるのではなく、一定の習性があり、一連に連動する方向があるのです。各個人異なった自発的な一連の動きを解くために体癖研究を行なっているのであって、運動の研究に欲求とか感情とか闘志とか利害などを持ち出さねばならぬ理由もここにあるのです。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

「全力が発揮できる方向が各人それぞれにある」ということ(=自発的な運動能力発揮の方向)は、現代風に言い換えると「モチベーション」である。

モチベーションを、体癖から解いてゆくという仕事である。

「自発的な運動」ということについては、野口晴哉の、次のような言葉を引いておきたい。

 

 健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。

野口晴哉『体癖』ちくま文庫

 

体癖研究の対象とする「自発的な運動能力発揮」は、したがって、「健康に至る」仕方でもあるのだ。

全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ること。

自発的に動くこと。

野口晴哉という巨人を前に、ぼくは姿勢を正しながら、ただ耳をかたむけ、「はい」と、心の中で威勢よく返事をするだけだ。
 

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「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。- 真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』。

10代から20代にかけての「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。「若い人に贈る一冊」(日本語)を、ぼくが選ぶとしたら、ぼくは迷わず、真木悠介の名著『気流の鳴る音』を手にとる。...Read On.

🤳 by Jun Nakajima


10代から20代にかけての「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。

「若い人に贈る一冊」(日本語)を、ぼくが選ぶとしたら、ぼくは迷わず、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫、あるいは、岩波書店『真木悠介著作集 I』)を手にとる。

ぼくの生きる空間にはいつも手に届くところに、真木悠介の名著『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)がある。

20年以上前に、東京の大学に通っていたときに、ぼくはこの本に出会った。

「世界の見え方」が、言葉通り、まさに入れ替わってゆくような感覚を覚えたことを、ぼくは今でも覚えている。

ぼくは新宿駅の埼京線乗り場へと続く階段を昇りながら、目の前の見晴らしがまったく変わっていくような感覚を得たのだ。

もともとの本は、今から40年も前の1977年に出版されたものだ。

その思想は40年を経た今でもまったく古くならず、むしろ、今だからこそ活きてくるような本質に溢れている。

 

ぼくはいつものように『気流の鳴る音』を手に取る。

東京にいたときはもちろんのこと、西アフリカのシエラレオネにいたときも、東ティモールにいたときも、それからここ香港でも、いつもそうしてきたように、ぼくは『気流の鳴る音』を手に取る。

そうして、普段とは違う頁をひらき、気に導かれるように、今回は第一章の最初の導入部を読む。

真木悠介が、序章でふれたカルロス・カスタネダの一連の著作を読み取る作業を開始していく導入部である。

 

 序章でふれたカルロス・カスタネダの四部作は、ドン・ファンとドン・ヘナロという二人のメキシコ・インディオをとおして、おどろくべき明晰さと目もくらむような美しさの世界にわれわれをみちびいてゆく。つぎにこのシリーズをよもう。しかし目的はあくまでも、これらのフィールド・ノートから文化人類学上の知識をえたりすることではなく、われわれの生き方を構想し、解き放ってゆく機縁として、これらインディオの世界と出会うことにある。

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

この導入につづく主題の説明は、はじめて読んだときには、まったくわからなかったところだ。

 

…くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる本書の文体は、翼をひろげて悠然と天空を旋回する印象を私に与える。その旋回する主題の空間の子午線と卯酉線(ぼうゆうせん)とは、私のイメージの中でつぎの二つの軸から成っている。一つはいわば、「世界」からの超越と内在、あるいは彼岸化と此岸化の軸。一つはいわば<世界>からの超越と内在、あるいは主体化と融即化の軸。…
 「世界」と<世界>のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、<世界>そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、<世界>の中のあらゆる項目をとりこむことができる。夜露が満天の星を宿すように、「世界」は<世界>のすべてを映す。球面のどこまでいっても涯がなく、しかもとじられているように、「世界」も涯がない。それは「世界」が唯一の<世界>だからではなく、「世界」が日常生活の中で、自己完結しているからである。

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

真木悠介は、「くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる」と書いている。

ここではそれは、カルロス・カスタネダの文体のことなのだけれど、それはまた「生きるという旅路」において、いくどもたちもどってくるような主題である。

ぼくは、「翼をひろげて悠然と天空を旋回」しながら、いくどもいくども、この主題にたちもどっては『気流の鳴る音』の本をひらく。

あるいは、『気流の鳴る音』をひらいて、読んでいる内に、この主題にたちもどっていることに気づくという具合だ。

 

この「いくどもいくどもたちもどる」思想ということは、真木悠介が本書で目指していることそのものであることを、ぼくたちは「あとがき」で知ることになる。

 

 ここで追求しようとしたことは、思想のひとつのスタイルを確立することだった。生活のうちに内化し、しかしけっして溶解してしまうのではなく、生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけるような具体的な生成力をもった骨髄としての思想、生きられたイメージをとおして論理を展開する思想。それは解放のためのたたかいは必ずそれ自体として解放でなければならない、という、以前の仕事の結論と呼応するものだ。…

真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫

 

ぼくが言えることは、『気流の鳴る音』に出会ってから20年以上が経過してゆく中で、それは確かに、ぼくの「生活のうちに内化」し、また「生き方にたえずあらたな霊感を与えつづけ」てきたこと。

まさに「具体的な生成力をもった骨髄の思想」である。

思想とは、生き方のことだ。

 

『気流の鳴る音』を手に取り、ぼくは第一章の導入を読み始める。

「くりかえしいっそうの高みにおいておなじ主題にたちもどってくる…」という文章の流れに心身をかさねながら、ぼくはいつになく、納得してしまう。

ぼくはまたおなじ主題にもどってきている。

でもまったくおなじ戻り方ではなく、きっと、いっそうの高みにおいて。

ぼくの生き方の中で、なにかが生成しながら。

 

そのことを考えていたときに、ぼくは思ったのだ。

「若い人に贈る一冊」として選ぶのなら、ぼくはやはり真木悠介の名著『気流の鳴る音』を選ぶ、と。

『気流の鳴る音』は、決して、若い人たちに「有効な方法」を伝えるのでもないし、生き方の「回答」を与えるものでもない。

それは、世界の感性たちの中で生成してゆく力の源泉となる<種子としての言葉たち>だ。

だから今も決して古びることのない、この本が、ぼくが選ぶ一冊である。

 

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萩本欽一著『ダメなときほど「言葉」を磨こう』。- どこまでも「素敵な言葉」を追い求めて。

著作『ダメなときほど運はたまる』に続く、コメディアンの萩本欽一の著作『ダメなときほど「言葉」を磨こう』(集英社新書)は、どこまでも「素敵な言葉」を追い求めてゆく人の、まっすぐな本である。...Read On.


著作『ダメなときほど運はたまる』に続く、コメディアンの萩本欽一の著作『ダメなときほど「言葉」を磨こう』(集英社新書)は、どこまでも「素敵な言葉」を追い求めてゆく人の、まっすぐな本である。

前者の著作で、「どん底のときには大きな運がたまり、反対に、絶頂のときには不運の種がまかれている」という運の法則を語り、「運」と同じくらい大事にしてきたことに「言葉」があると、本書では「言葉」について展開されていく。
 

 人生は言葉の積み重ねです。その都度、どんな言葉を話すかで、終着点も大きく変わると思います。

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書
 

そう語る萩本欽一は、73歳で駒澤大学の仏教学部に入学し、今年75歳で三年生という。

「大学に入学したのは、なぜ」と想像していたら、萩本欽一は、とてもシンプルに、こう書いているのを、見つけた。

 

 今、駒澤大学の仏教学部に通っているのもその延長。仏教学部なら、お釈迦様の素敵な言葉にたくさん出会えるだろうと考えたのです。

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書

 

「その延長」とは、テレビ活動が一段落した44歳のときには、言葉だけでなく学び直しのために河合塾にも入ったこと。

しかし「言葉の大切さ」に気づいたのは、大人になってからだと、萩本欽一は書いている。
 

 「あれ、僕って言葉が足りないや……」
 そう思ったのは、坂上二郎さんと結成したコント55号が軌道に乗って、寝る暇もなく仕事をこなしていたころです。新聞や雑誌のインタビューをたくさん受けるようになって質問に答えようとしても、自分の思いを伝える言葉が見つからない。中学から高校時代にかけて、あまり勉強もしていなかったから、圧倒的に語彙が足りません。

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書

 

萩本欽一の「言葉」をつくってきたのは、学びということもあるけれど、生きていく中で出会う人たちとの「間」に生まれる言葉だ。

出会う人たちは素敵な人たちであることと同時に、萩本欽一との「間」だからこそ、生まれ出るような言葉たちであるように、ぼくは思う。

その「間」、つまり人間関係に敏感であり、「つながり」を大切にしてきた萩本欽一だからこそ、素敵な言葉に祝福されてきたのである。

そのような「祝福の言葉」が、この本にはエピソードと共に、散りばめられている。

 

【目次】
第一章:どんな逆境も言葉の力で切り抜けられる
第二章:子育てこそ言葉が命
第三章:辛い経験が優しい言葉を育む
第四章:仕事がうまくいくかは言葉次第!
第五章:言葉を大切にしない社会には大きな災いがやってくる
第六章:言葉の選び方で人生の終着点は大きく変わる

 

散りばめられているエピソードと、そこで生まれ出た「言葉たち」は、とても素敵だ。

「関係を断ち切るときは『ごめんなさい』、続けたいときは『言い訳』を」と題される項目で、萩本欽一はこう書いている。

 

 「言い訳するんじゃない!」
 日常でよく聞く言葉ですよね。でも、僕は言い訳、大歓迎。言い訳にこそ、人間関係をよくするチャンスがあると思っています。
 ときたま仕事の場で若い子に間違っていることを指摘しようとすると、みんなすぐ「すいません!」とか「ごめんなさい!」と言う。…
…「すいません」とか、「ごめんなさい」と言われると、返す言葉は「じゃあいいよ」とか、「すいませんですむか、バカヤロー」と、こういう言葉になってしまう。つまり、「すいません」「ごめんなさい」は、いち早く関係を断ち切るときに使う言葉じゃないかなと、僕は思っているのです。… 
 僕にとって言い訳とは、あなたとまだずっと会話を続けたい、という意思表示。…

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書

 

どこまでも素敵な言葉と素敵な人間関係を追い求める萩本欽一には、言葉で、「世界の風景」を変えてしまう力があるのだ。

この本の最後の項目に、「七十歳は人生のスタートだった」という話が書かれている。

「だった」と過去形で書かれているのは、萩本欽一にも、七十歳になった折に「ゴール」という言葉が頭をかすめたからである。

それが、大学に入学し三年生になった今、それが間違っていて、「七十歳はスタートだった」と考えるに至ったという。

 

 思考が変わると言葉も変わるのです。七十歳をゴールと考えると、「これからは温泉にでも浸かってゆっくり過ごすか」という言葉が出てくるのに、スタートと考えると「さて、若者と一緒に勉強でもするかな」という言葉になったりします。

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書

 

「ゴール」を「スタート」に変えるという、とても些細なことだけれど、それがどれほど思考を変えてゆくのかを、萩本欽一は経験と共に、ぼくたちに伝えているのだ。

その大学に行く楽しみの一つとして挙げられていることに、ぼくは心を打たれる。

 

…大学に行く楽しみの一つは、年の離れた学友の成長を目の当たりにできることです。不思議なもので、一生懸命勉強する学生はどんどん顔がきれいになっていく。

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書

 

その萩本欽一は本書で「プロフェッショナル」についても触れているので、最後に記しておきたい。

視聴率30%番組を続々とつくりだし、周りの番組を倒していった萩本欽一は、いつかは必ず倒されることを承知し、「倒される前に、自分で自分を倒した」という。

そのように自分からやめることを選択してきた萩本欽一は「プロフェッショナル」について、こう書いている。

 

 NHKの「プロフェッショナル」という番組で、最後に聞くでしょう。「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と。僕がもし聞かれたら、こう言います。
「勝ったときの喜びが短くて、負けたときの悲しみも短い人」って。

萩本欽一『ダメなときほど「言葉」を磨こう』集英社新書
 

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「言葉のお守り」としての(社会で流通する)進化論。- 鶴見俊輔と吉川浩満に教えられて。

吉川浩満の著作『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』は、とてもスリリングな本だ。社会で流通する「進化論」は、ダーウィンの名前のもとに「非ダーウィン的な進化論」である発展的進化論であることを、明晰に語っている。...Read On.


吉川浩満の著作『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』は、とてもスリリングな本だ。

社会で流通する「進化論」は、ダーウィンの名前のもとに「非ダーウィン的な進化論」である発展的進化論であることを、明晰に語っている。

グローバル化の中での価値観の同一性、また「次なる時代」をみすえてゆく中で、この認識は大切であると思い、このことをぼくはブログに書いた。

 

この著作と吉川の文章について、もう少し書いておきたい。

吉川の文章の特徴は、理論の明晰性と共に、さまざまな知性たちがさまざまな仕方(時に興味深い仕方)で、登場してくることだ。

それぞれの登場ごとに、ぼくは好奇心と共にとても気になってしまい、立ち止まっては「登場人物たち」の著作や来歴などを調べるから、なかなか本の先に進んでいかなくなってしまうのだ。

ほんとうに良い本というのは、その本におさまらないような遠心力をかねそなえている。

 

数々の「登場人物」の中で、社会で流通する「進化論」を読み解く際に、吉川は思想家の鶴見俊輔の力をかりている。

鶴見俊輔が1946年に雑誌『思想の科学』に書いた論文「言葉のお守り的使用法について」で展開された言葉の使用法(分類)を使って、進化論への誤解を読み解いていくのだ。

ぼくはこの論文そのものは読んでいないけれども、ここでは、吉川による紹介と読解、それから誤解された進化論への適用から、学んでおきたい。

 

鶴見俊輔は、ぼくたちが使う言葉を、まず大きく二つに分ける。

吉川の説明を参考にまとめると、下記のようになる。

● 主張的な言葉:実験や論理によって真偽を検証できるような内容を述べる場合。真偽を検証できる主張。(例:「あのお店のランチは1000円だ」「二かける二は四である」)

● 表現的な言葉:言葉を使う人のある状態の結果として述べられ、呼びかけられる相手になんらかの影響を及ぼすような役目を果たす場合。感情や要望の表現。(例:「おいっ!」「好きです」)

この二つの言葉の分類をもとにしながら、次のようなケースがあることに注意を向ける。

■ 実質的には表現的(感情や要望の表現)であるのに、かたちだけは主張的(真偽を検証できる主張)に見えるケース

鶴見俊輔は、このような言葉を「ニセ主張的命題」と呼んでいる。

「ニセ主張的命題」の言葉は、その意味内容がはっきりしないままに使われることが多いのだと、鶴見は注意をうながすのだ。

そして、この「ニセ主張的命題」により、「言葉のお守り的使用法」が可能になるという。

鶴見俊輔は、次のように述べている。

 

人がその住んでいる社会の権力者によって正統と認められている価値体系を代表する言葉を、特に自分の社会的・政治的立場をまもるために、自分の上にかぶせたり、自分のする仕事にかぶせたりする。

鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」『思想の科学』創刊号(*吉川浩満の前掲書より引用)

 

吉川浩満は、鶴見のこの考え方を「眼鏡」として、社会で流通する進化論の言葉たちを見渡してみる。

そうすると、テレビやネットや本や雑誌や広告などで語られる「進化論」の言葉は、この「ニセ主張的命題」そのものだと考えられることになる。

 

…それらは見かけ的には主張的な言葉(真偽を検証できる主張)の体裁をとっている。なぜならそれらの言葉は、実験や観察や論理によって真偽を検証できる科学理論(進化論)に由来するものだからだ。でも実際に自らの発言を科学的に検証する者など誰もいない。じゃあなにをしているのかといえば、すでに起こってしまった事象にたいして慨嘆したり、将来にたいして希望的あるいは悲観的な感想を述べたり、商品の優れた点を宣伝したり、自分や他人を鼓舞奨励あるいは意気消沈させるために、こうした言葉を発しているのである。それらは実質的には表現的な言葉(感情や要望の表現)であり、一種の「生活感情の表現」あるいは「人生にたいする態度の表現」(©︎ルドルフ・カルナップ)なのである。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

進化論を「ニセ主張的命題」として使用するのはなぜかと、吉川は続けて書いている。

 

 どうしてそんなことをするのか。鶴見の言葉に沿っていえば、それはもちろん、進化論的世界像がみんなに「正統と認められている価値体系」であるからであり、自然淘汰説がそれを「代表する言葉」であるからであり、それを用いることによって「自分の社会的・政治的立場をまもる」ことができそうに思えるからだ。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

それが「言葉のお守り的使用法」である。

進化論に限らず、ぼくたちはいろいろな場面で、便利に使ってしまっている方法だ。

ここで議論をとめることはせずに、吉川は、さらに奥深くに向けて、言葉を紡いでいる。

それにしても、「言葉のお守り的使用法」という言葉の使われ方は、意識されないままで、実にこわいものである。

「言葉」をあなどってはいけない。

ぼくたちの「世界」は、言葉によってつくられるものでもある。

世界は「言葉のお守り」が至るところに貼られている。

鶴見俊輔と吉川浩満に、ぼくは教えられた。

 

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日常思考による「進化論」にたいする誤解。- 吉川浩満『理不尽な進化ー遺伝子と運のあいだ』

「進化論」というトピックは人をひきつけるものでありながら、専門家ではなく素人にとっては、進化論についてわかっているようでわかっていないような、でも誰でも「知っている」ものだ。...Read On.


「進化論」というトピックは人をひきつけるものでありながら、専門家ではなく素人にとっては、進化論についてわかっているようでわかっていないような、でも誰でも「知っている」ものだ。

人はふつう、生物の進化を「生き残り」の観点から見るのにたいして、逆に「絶滅」の観点から生物の進化をとらえかえすのが、吉川浩満の著作『理不尽な進化論』(朝日出版社)である。

この「絶滅」の観点は、これまで地球上に出現した生物種の内、99.9%が絶滅してきたという事実から考えれば、確かに説得力がある。

著者の吉川浩満に着想を与えた二冊の本は、動物行動学者リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』と、真木悠介『自我の起原』であったという。

ちなみに、ぼくに「進化論」の世界をひらいてくれたのも、吉川にとってと同じく、真木悠介『自我の起原」である。

この二冊にみちびかれるように進化論の世界にはまるなかで、古生物学者デイヴィッド・ラウプの著書『大絶滅』に出会い、「絶滅」の観点を得て、すべての「ピース」が揃ったのだと、吉川は書いている。

そのように吉川の中で生成した本書は、専門書でもなく学術書でもなく、一般の読書人に向けられている。

進化論を解説したり評価したりすることよりも、「進化論と私たちの関係について考察すること」を本書は主目的としている。
 

【目次】

序章 :進化論の時代
第一章:絶滅のシナリオ
第二章:適者生存とはなにか
第三章:ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか
終章 :理不尽にたいする態度

 

第一章で「絶滅のシナリオ」を語り、第二章で素人の進化論にたいする誤解を理解し、第三章で今度は専門家間の紛糾へと移行し、終章へと向かう。

この展開は、本書の主要な主張に沿う形式でもある。

第一章の「絶滅のシナリオ」を振り返りながら、吉川は次のように書いている。

 

 本書の主要な主張のひとつは…素人が見ないことにしているものと専門家が争っているものとは、じつは同じものー進化の理不尽さーなのではないかというものだ。…絶滅にかんする事実と考察こそが、こうした視点を与えてくれるはずだ。… 
 私たち素人がめんどくさいから無視している進化の理不尽さは、専門家のあいだではめんどくさいからこそ争点になりうる。私たち素人が理不尽からの逃走を行なっているのだとすれば、専門家たちが行なっているのは理不尽をめぐる闘争なのだ。ふつう、素人と専門家が共通の課題をもつことはないし、その必要もないと私は思う。しかし、進化の理不尽さをどうするのかという一点において、両者は共通の課題をもちうるのである。この理不尽さこそ、進化論が私たちに喚起する魅惑と混乱の源泉だと私は考えている。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

「理不尽からの逃走」としての素人の誤解は第二章で論じられ、そして「理不尽をめぐる闘争」としての専門家の紛糾が第三章であつかわれる。

素人の誤解という「理不尽からの逃走」の展開は、とてもスリリングだ。

この「理不尽さ」にあてられるのが第一章の「絶滅なシナリオ」だ。

結論的には、「理不尽な絶滅シナリオ」という観点で、生物の進化をみることである。

吉川はこのシナリオをひとことにして、「遺伝子を競うゲームの支配が運によってもたらされるシナリオ」と書いている。

 

「理不尽な絶滅シナリオ」は、前出の古生物学者デイヴィッド・ラウプの理論である。

ラウプは「絶滅の筋道」として三つのシナリオに分類できるとして論を展開していく。

  1. 弾幕の戦場(field of bullets):無差別爆撃のように、犠牲者はランダムに決まってしまう。運のみが生死の分かれ目。
  2. 公正なゲーム(fair game):ほかの種との生存闘争の結果として絶滅。
  3. 理不尽な絶滅(wanton extinction):上記1と2の組み合わせ的シナリオ。

「理不尽な絶滅」は、要約的には「ある種の生物が生き残りやすいという意味ではランダムではなく選択的だが、通常の生息環境によりよく適応しているから生き残りやすいというわけではないような絶滅」であるとされる。

ラウプも吉川も、この3つ目のシナリオを選びとる。

天体衝突による恐竜の絶滅は、天体衝突により「遺伝子を競うゲームの土俵自体が変わったこと」という不運、それから「たまたまもたらされた衝突の冬が、たまたま自分にとって徹底的に不利な環境であった」という不運という二重の不運に見舞われたことになる。

素人であるぼくたちは、どうしても2の「公正なゲーム」を進化論に連想しがちだが、「理不尽な絶滅シナリオ」はその遺伝子的ゲームに加えさらに運をもちこむのだ。

 

この「理不尽な絶滅シナリオ」を確かめながら、本書は「理不尽からの逃走」である素人の誤解について、明晰な論理を展開する第二章へとつながってゆく。

ぼくたちは、進化論といえばダーウィンをあげ、自然淘汰説を語る。

吉川は丹念にひもとき、明晰な論理展開で、議論をときほぐしながら次のように書いている。

 

…自然淘汰説を言葉のお守りとして用いる社会通念の正体はなんなのか。それは、発展法則にもとづいた定向進化を唱える、発展的進化論の現代版である。私たちはそれをダーウィンの思想だと思っているが、じつはそれはダーウィン以前に誕生し、ダーウィン以外の人物によって唱えられた、社会ラマルキズムないしはスペンサー主義と呼ばれるのがふさわしい代物なのである。

吉川浩満『理不尽な進化論』朝日出版社

 

リチャード・ドーキンスの分類によると、これまでに考案された進化理論は3つに分類されるという。

  1. ラマルキズム
  2. 自然神学
  3. ダーウィニズム

専門家たちは「3.ダーウィニズム」を採用しながら、しかし社会通念は「1.ラマルキズム」という発展的進化論を信じている。

1も2も「目的論的思考」に合致する考え方で偶発性の入り込む余地がない一方で、3のダーウィニズムは自然の「偶発性」をとりこむ理論だ。

このようにダーウィンの進化論はまったく新しい進化論であり、社会通念として誤解されている。

社会では、ダーウィンの名のもとで、「非ダーウィン的な進化論」が通念として普及しているということになる。

吉川はこの誤解の背景や議論や理論や言葉などを、第二章で丁寧に、丹念に、そして明晰に論じている。

 

ぼくはそれらひとつひとつに、思考と好奇心が触発されてやまない。

ぼくが大学院以降専門にしてきた「途上国の開発学」との関連からも、論じるべきところはいろいろにある。

「発展的進化論」的な思考が、発展段階論などの思考に生きていたりする。

また、「次なる時代」に向かう過渡期において、今一度、「進化」ということを考えさせられることもある。

社会通念として、社会という土俵での「公正なゲーム」があまり疑われずに信じられてきた中で、しかし、現在の「土俵自体の変化」はその考え方自体にも変遷をもたらしてきているように、ぼくには感じられる。

自然科学と社会科学の接点から見えてくるようなことがある。

 

それにしても、ぼくも含めて、多くの人が「進化論」という世界にひかれている。

吉川浩満は「序章:進化論の時代」の最初を、次のように書き出している。

「私たちは進化論が大好きである」と。

そう、ぼくたちは進化論が大好きなのだ。
 

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ときにぼくたちは、導かれるようにして、本にたどりつく。- Homer "The Odyssey" (ホメロス『オデュッセイア』)。

ホメロス(Homer)の『オデュッセイア』("The Odyssey" )について知ったのはいつのことだったか、正確には思い出せない。...Read On.

ホメロス(Homer)の『オデュッセイア』("The Odyssey" )について知ったのはいつのことだったか、正確には思い出せない。

古代ギリシアの吟遊詩人であるホメロス(その人物については多数の説)により伝承されたとされる叙事詩『オデュッセイア』。

トロヤ戦争の終結後、英雄オデュッセウスが帰還途中に漂泊する冒険譚である。

高校生のときに「世界史」の授業で、山川出版社の教科書を読みながら、そこにホメロスと『オデュッセイア』に出会っていたとは思うのだけれど、どちらかと言うと、それは試験用に覚える文字の羅列で、ぼくの想像力は遠くまで飛翔していかなかった。

あるいは、中学生か高校生の時分に、ぼくが読んだ数少ない本にシュリーマン著『古代への情熱』(岩波文庫)がある。

シュリーマンの「夢を追い求める冒険」は、『オデュッセイア』を含むギリシアの物語に彩られていたから、そこでホメロスはぼくの中に、ひとつの徴(しるし)をきざんだのかもしれない。

小さい頃から「古代」にぼくは興味をもっていたけれど、「日々の役に立つ」とは考えることができず、日々の忙しさの中で、「古代への情熱」を忘れていってしまったようだ。

 

ここ数年、その「古代への情熱」が、いくつもの経路をたどりながら浮上してきて、その過程で、導かれるように、ぼくの前にホメロスが「現れて」きた。

古典的作品などにふれていると、それらの作品のどこかに、ホメロスや『オデュッセイア』の響きが聴こえてくる。

シュリーマン著の『古代への情熱』を再度読んでいると、シュリーマンがトロヤの遺跡をさがす道のりで、ホメロスや『オデュッセイア』がどれほど彼の「物語」にうめこまれているのかを感じることができる。

ボルヘスによるハーヴァード大学ノートン詩学講義の記録である『詩という仕事について』(岩波文庫)において、最初に掲載されている講義「詩という謎」の中で、ボルヘスはホメロスにふれている。

ボルヘスは、「物語り」と題する講義で、『オデュッセイア』の物語りについて、「二通りの読み方」を語っている。

 

…われわれがそこに見るのは、一つになった二つの物語です。われわれは、それを帰郷の物語として読むことも、冒険譚として読むこともできる。恐らく、これまでに書かれた、あるいは歌われた、それは最良の物語でしょう。

ボルヘス『詩という仕事について』岩波文庫

 

大澤真幸は、著作『<世界史>の哲学:古代篇』(講談社)の第1章「普遍性をめぐる問い」の最初に、「ホメーロスの魅力という謎」について書いている。

さらに、大澤は「歴史の概念」を考えてゆくなかで、ハンナ・アーレントが「歴史叙述の起源」を、ホメロスに遡っていることにふれている(『憎悪と愛の哲学』角川書店)。

ぼくの生の道ゆきにおいて、ホメロスがその「姿」を現しはじめていたところに、伝記作家のウォルター・アイザックソン(Water Isaacson)が、若者たちに薦める本の一冊として『オデュッセイア』を真っ先に挙げているインタビューを聴く。

このことが直接的な契機となり、ぼくはこの本をいよいよ手に取ることにした。

ウォルター・アイザックソンはまた、『オデュッセイア』は翻訳者によってそれぞれに独特の世界が創りだされていること、その点で「Robert Fagles」の訳書がお薦めであることを述べている。

 

日本語で読もうかと最初は思いつつ、ぼくはウォルター・アイザックソンをぼくのガイドとしながら、Robert Fagles訳のHomer『The Odyssey』(Penguin Classics)を読むことにした。

原典に近いのは日本語よりも英語だから、そのリズムをより近い形で残しているのではないかと思った。

また、今後、世界のどこかで、誰かと、この本について語るときのことを想像しながら、英語がよいのではと思ったのだ。

この作品は電子書籍よりも、紙の書籍で読みたいと思い、香港にある誠品書店に立ち寄ってみたところ、たまたまRobert Fagles訳のHomer『The Odyssey』が書棚に並んでいる。

ぼくは導かれてきたように、その本を手に取った。

時間をみつけては、時間をかけて、ゆっくりとぼくは読んでいる。

第24歌まであり、第1歌の最初をなんどもくりかえしながら読んでいる。

世界の、歴史の知性たちが、この本に惹かれ続けてきたことが、感覚として、ぼくは「わかる」ような気がしはじめている。

 

ぼくにとっては、ある程度、生きることの経験をしてきた後に、この書を開くことになった。

この文章を書きながら、ぼくはこんなことを思う。

近代・現代という時代における、社会のすみずみまで貫徹する「合理性」の只中で、多くの人は「生きることの意味」を問う。

社会において合理性が貫徹してゆく中で、情報テクノロジーを中心とした歴史的な時代の転換点に入り、人は「人間とは?」を問う。

その問いへの完全な答えはないけれども、人は問わざるを得ない。

ユバル・ノア・ハラリの著作『Sapiens』と『Homo Deus』は、「人間とは?」という問いへの思考だ。

Homerの『The Odyssey』は、この二つ目の問いにひらかれた作品ではないか、というのが、ぼくのひとつの仮説である。

 

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246年前の10月に、ゲーテが考えていたこと。- 「若きウェルテル」の言葉を借りて。

1771年10月20日。今から246年前の10月20日。この日付が付された書簡で、ウェルテルはシャルロッテに宛てて、次のように文章を書き出している。...Read On.

1771年10月20日。

今から246年前の10月20日。

この日付が付された書簡で、ウェルテルはシャルロッテに宛てて、次のように文章を書き出している。

 

…運命はぼくに苛酷な試練を課そうとするらしい。しかし元気を出そう。気を軽く持っていればどんな場合も切り抜けられる。…まったくちょっとでもいいからぼくがもっと気軽な人間だったら、ぼくはこの世の中で一番果報者なんだろうがね。…ぼくは自分の力と自分の才能に絶望している…。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫

 

よく知られているように、この小説はゲーテの実体験をもとに書かれ、1774年に刊行されている。

主人公ウェルテルの言葉を通じて、ゲーテが語っている。

「近代」という時代の創世記に書かれ、ゲーテというひとりの近代的自我の言葉は、現代においても心に響いてくる。

苛酷な試練の前で気楽になれず、自分の力と才能に絶望する。

現代において、毎日、世界のいたるところで、さまざまな人たちの脳裏でつぶやかれることだ。

「気を軽く持つ」という仕方を語る書籍やトークは、現代日本で、多くの人たちの心をとらえている(ぼくが日本に住んでいるときからその流れが始まっていた)。

しかし、ウェルテルと同じように、「もっと気楽な人間だったら…」と思ったりする。

 

「自分の力と自分の才能に絶望する」ウェルテルが、そこから切り抜けるために思いついた方法として、「気楽になること」に加えて、次のような方法が語られる。

 

 辛抱が第一だ、辛抱していさえすれば万事が好転するだろう…。われわれは万事をわれわれ自身に比較し、われわれを万事に比較するようにできているから、幸不幸はわれわれが自分と比較する対象いかんによって定まるわけだ。だから孤独が一番危険なのだ。ぼくらの想像力は…われわれ以外のものは全部われわれよりすばらしく見え、誰もわれわれよりは完全なのだというふうに考えがちだ…。ぼくたちはよくこう思う、ぼくらにはいろいろなものが欠けている。そうしてまさにぼくらに欠けているものは他人が持っているように見える。そればかりかぼくらは他人にぼくらの持っているものまで与えて、もう一つおまけに一種の理想的な気楽さまで与える。こうして幸福な人というものが完成するわけだが、実はそれはぼくら自身の創作なんだ。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫

 

「ぼくら自身の創作なんだ」と、ウェルテルは、自我がえがく幻想を明確に認識している。

それにしても、この言葉がこの現代で語られたとしても、まったく違和感がない。

自分と他者との比較の内に「自分」を定め、欠けているものばかりを見てしまう。

ウェルテルがこの書簡を書いてから246年が経過した今も、人びとはこの「幻想」からなかなか逃れることができない。

あるいは、比較から逃れられた人たちも、生きる道ゆきの中で、幾度となく、同じような経験に直面してきている。

「若きウェルテルの悩み」は「誰もの悩み」である。

 

この「自身の創作」から抜け出すことの方法をいろいろと考えながら、246年前にウェルテルがたどり着いた<地点>に、ぼくはひかれる。

 

 これに反してぼくらがどんなに弱くても、どんなに骨が折れても、まっしぐらに進んで行くときは、ぼくらの進み方がのろのろとジグザグであったって、帆や櫂(かい)を使って進む他人よりも先に行けることがあ、と実によく思う。ーそうしてーほかの人たちと並んで進むか、あるいはさらに一歩を先んずるときにこそ本当の自己感情が生まれるのだ。

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』新潮文庫

 

まっしぐらに進んで行くこと。

ウェルテルは、つまりゲーテは、「まっしぐらに進んで行くこと」に、のりこえてゆく方途を見出している。

どんなに弱くても、どんなに骨が折れても、あるいはのろのろとジグザグに進んだとしても、である。

246年前にゲーテが考えていたこと・感じていたことは、今のぼくたちに「伝わるもの」をもっている。

いろいろな本を読めば読むほどに、ゲーテに限らず、ぼくは「古典作品」にひかれていく。

古典作品の中でも、さらに古典へと誘われていく。

古典作品は、ぼくたちが、現代という時代を「まっしぐらに進んで行く」ためのガイドである。

この時代にたいして<垂直に立ち>ながら、まっしぐらに、ぼくは進んでいきたい。

進み方がのろのろしていても、ジグザグであっても…。

そして、気を軽くもって。

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西野亮廣著『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』。- 時代に垂直に立ちながら、<鳴らすファンファーレ>。

「無料公開を批判する人間に未来はない」。職業としての「芸人」という枠におさまらず、生き方としての<芸人>へと生をひらいてきた西野亮廣が…。...Read On.

「無料公開を批判する人間に未来はない」。

職業としての「芸人」という枠におさまらず、生き方としての<芸人>へと生をひらいてきた西野亮廣が、ビジネス書として世に放つ2冊目の著書『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』(幻冬舎)の一節(一説)の冒頭に置かれた言葉である。

この著作を読みながら、この言葉を見ながら、ぼくの中で浮かんだ言葉は、こんな言葉だ。

『革命のファンファーレ』(西野亮廣)に感覚として納得いかない人たちに未来はない。

著作の内容すべてが「正しい」とかいうことではなく、この著作に感覚として納得いかない人たちは、(そのままでは)<未来>をひらいてゆくことはできないのではないか、ということ。

時間的な「未来」はそれでも、一応はやってはくるけれど。

 

本書は、西野亮廣がブログで書くように、西野の<活動のベストアルバム>となっている。

活動のアルバムでは、「行動にいたる道筋」が語られ、「行動のプロセス」が語られ、「行動の結果と学び」が語られる。

前著『魔法のコンパス~道なき道の歩き方~』で語られたことも「おさらい」として触れられている。

「おさらい」だけれど、その語り口と言葉の鋭さがさらに増したように、ぼくには見える。

絵本『えんとつ町のプペル』のこと、クラウドファンディングのこと、無料公開のこと、著作『魔法のコンパス』のこと、「しるし書店」のこと、「おとぎ出版」のこと、さらには本書『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』そのもののことまで、<活動のベストアルバム>はあますことなく、活動(行動)の「全貌」を伝えている。

副題にある「現代のお金と広告」という視点を軸として語るけれど、西野亮廣の生き方のように、それはその「枠」におさまりきらないひろがりをもっている。

 

西野亮廣の<芸人>としての生き方は、とてもストレートだ。

<時代に垂直に立つ>ことで、疑問をもち、よく考え、行動に確実におとしてゆく。

考え方も、とてもストレートだ。。

 

 モノを売るということは、人の動きを読むということだ。
 現代でモノを売るなら、当然、現代人の動きを読まなければならない。

  ・どこで寝泊まりしているか?
  ・何にお金を使っているか?
  ・1日のスケジュールはどうなっているか?
  ・1日に何時間スマホを見ているか?
  ・どこでスマホを見ているか?
  ・スマホを使う際、親指はどの方向に動かしているか?目はどの方向に動かしているか?

西野亮廣『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』幻冬舎

 

「買う人」の靴に足を入れてみて考えるということ、でも人が時に忘れてしまうことを、ストレートに考えている。

ストレートでありながら、「スマホを使う際の指の使い方」に至るまで考え抜いていくように思考はひろがり、また思考は深く降りていく。

その思考と行動を支えるのは、例えば、次のような「意思」である。

 

 感情に支配されず、常識に支配されず、時代の変化を冷静に見極め、受け止め、常に半歩だけ先回りをすることが大切だ。
 船底に穴が空き、沈んでいく船の、“まだマシな部屋”を探してはいけない。…

西野亮廣『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』幻冬舎

 

<時代に垂直に立つ>ために、西野亮廣は「三重の戦略」を立てている。

第一に、西野本人が本書で明記しているように、「環境」をつくること。

自分の仕事を守るために「嘘をつかざるをえない環境」にいることが問題となりうることから、「嘘をつかなくても良い環境」をつくることである。

本書では、テレビを収入源にしているタレントに触れて、テレビ以外の収入が安定していないと意見しづらいことを例として挙げていたりする。

西野は、このことを、「意思決定の舵は『脳』ではなく、『環境』が握っている」と言葉にしている。

本書の副題にある「お金と広告」は、この「環境」をつくるための手段でもある。

 

第二に、行動により体験として積み上げること。

行動を通した言葉には説得力がついてくる。

例えば、本書で「広告戦略」を語る西野亮廣は、絵本『えんとつ町のプペル』の発売から一年間、「サイン本」の発送のために朝4時に起きて、サインをして郵送することを、毎日行ってきたこと(その数2万冊のサイン本の手作業発送)を、「語ること」の土台としていることを、本書の最後に述べている。

 

第三に、行動による「結果」を出してゆくこと。

「常識」にしばられる人たちを解き放つのは、常識を超える「結果」だ。

そのことを充分に認識しながら、「結果」をきっちりと出すことにたいして、気持ちも行動も徹底している。

常識に「屈しないだけの裏付けを持て」と、西野は言葉を紡ぐ。

 

このように戦略(そして戦術)をうちながら<時代に垂直に立つ>西野亮廣は、「常識」を疑い、考え、「行動(とその実績)」を武器に、「未来」をきりひらいている。

時代の大きな変わり目の「ギャップ」の間で、「未来」に足を踏み込みながら、踏み込もうとしている人たちへの橋渡しもしている。

社会学の理論には、文化は社会構造に遅れるというものがあり、それは「価値観の遅滞」(見田宗介)とも言うことができる。

つまり、「価値観の遅滞」の現代の中で、西野亮廣の活動・行動は、新たな社会構造をつくってゆく推進力でありながら、価値観の遅滞とのギャップを埋める役割を果たしているのだ。

 

さらに「常に半歩だけ」という西野の考えと行動は、意識しているか否かにかかわらず、さらに先の「未来」にもつながる線をもっている。

例えば、冒頭にかかげた言葉に関わるトピック。

「インターネットが何を生んで、何を破壊したか」と自身に問いかけながら、西野亮廣は「インターネットによる物理的制約の破壊による『あるとあらゆるものの無料化』」を見ている。

そこに至る思考の経路として、「土地と土地代」のことを挙げ、土地に土地代が発生する「理由」を考察している。

 

 それは、土地に“限り”があるからだ。
 地球の土地にも“限り”があり、交通の便が良い都市部の土地にも“限り”がある。
 土地には“限り”があり、限りのある土地に対して人が溢れてしまっているので、結果、僕らは土地を奪い合うことになる。
 その瞬間に「お金」が発生する。
 …奪い合いがなければ、お金は発生しようがない。
 そんな無限の土地があるだろうか?
 ある。インターネットの世界だ。…

西野亮廣『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』幻冬舎

 

「お金」はそれ自体、「無限」を創出するものだ。

しかし、その極地としての現代社会は、その旅路の果てに、「環境・エネルギー資源」という“限り”に直面している。

その“限り”を乗り越えてゆく方向のひとつは、人間が<無限>にひらいていゆくことのできる「情報空間」であるインターネットの世界だ。

西野亮廣の思考と行動は、「環境・エネルギー資源」という地球の物理的制約を超えて、人間の想像力や楽しさの「情報空間」という<無限の空間>に、生きることの内実を解き放ってゆく可能性をひめているように、ぼくには見える。

 

「行動すること」を中心にそえながら、そこに至る道筋は「常識を疑い考えること」にはじまり、行動は「望む未来に至る方向性」へとひっぱる重力をもっている。

これらを支えているのは、<生き方としての芸人>の生き方であり、「仕事になるまで遊べ」(西野亮廣)という生き方のスタイルである。

「あとがき」において、「キミの革命のファンファーレを鳴らすのは、キミしかいない」と、西野は語りかける。

「革命」は、これまでの歴史が語るような「革命」ではなく、まずは「キミの革命」である。

自分の人生の革命である。

「革命のファンファーレ」は聞くもののではなく、<鳴らす>ものとして書かれている。

革命のファンファーレを鳴らす「キミ」が世界のいたるところに出現することで、<交響するファンファーレ>の音が聞こえ、「新たな未来」への流れをつくってゆく。

 

西野亮廣は、今もこうしているときに「次の行動」を起こしている。

考えて、それを必ず行動に落とす。

サッカーの試合で、ひとつのプレーの流れにおいて、「最後は(ゴールに向けて)シュートで終わろう」とでもいうように。

 

僕はまもなくこの本を書き終える。
そして直後に、次の行動を起こす。
キミはまもなくこの本を読み終える。
さあ、何をする?

西野亮廣『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』幻冬舎


さあ、何をする?

じぶんの革命のファンファーレを<鳴らす>ために。

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大澤真幸著『憎悪と愛の哲学』。- 生ける社会学者たちの思考に点火される消えない火。

「本書の狙いは、生ける社会学者たちの思考に、消えない火を点すことにある」。大澤真幸が、著書『憎悪と愛の哲学』(角川書店)の「まえがき」の最後におく言葉だ。...Read On.

「本書の狙いは、生ける社会学者たちの思考に、消えない火を点すことにある」

社会学者の大澤真幸が、著書『憎悪と愛の哲学』(角川書店)の「まえがき」の最後におく言葉だ。

「生ける社会学者たち」とは、いわゆる「社会学者」だけのことではない。

人は誰もが、民族社会学者(フォーク・ソシオロジスト)、つまり生ける社会学者たちである、と大澤真幸は本書を書き始めている。

<他者の両義性>(歓びの源泉としての他者と苦しみの源泉としての他者)に向き合いながら、大澤真幸はこう書いている。

 

…もし、他者たちとともにいるということを主題とする思考を、広く社会学と定義するならば、人間にとっては、生きることと社会学することはほぼ重なっている。「社会学 sociology」という語が発明されるよりもずっと前から、人間は社会学者である。…
 だが、民族社会学者であろうが、専門の社会学者であろうが、その人の社会学的な思考と想像力の深さを規定する鍵的な要素がある。それは<概念>である。自分たち自身の行動や経験について考えるということは、<概念>を発明し、また<概念>に命を吹き込むことである。
 思考は行動に対していつも遅れている。…<概念>は、行動の全体に対して、思考がどれだけ明晰にその意味を把握できたかを示している。

大澤真幸『憎悪と愛の哲学』角川書店

 

本書は、NPO「東京自由大学」で、大澤真幸が「社会学の新概念」というタイトルで行った連続講義の内の二つの講義録である。

二つの講義で論じた概念は、<神 God>と<愛 love/憎悪 hate>である。

 

【目次】
第1章 資本主義の神から無神論の神へ
  1.「私はシャルリ(=ゾンビ・カトリック)」
  2.資本主義の神
  3.神の気まぐれ
  4.もう一人の神の(非)存在

第2章 憎悪としての愛
  1.三発目の原爆
  2.原爆の火花
  3.さまざまな歴史概念
  4.憎悪の業

 

<神 God>と聞いて気持ちと感心が引いてしまう前に述べておきたいのは、大澤真幸が第1章の講義で示すのは、最も世俗的なものと思われている「資本主義」が、宗教現象であり、神の存在を無意識に前提にしているということだ。

 

大澤真幸は、精神分析のラカン派の人たちの間で以前流行したという、ある精神病者をめぐるジョークを取り上げている。

およそ、このような話だ。

ある精神病者が、「自分は穀物の粒である」という妄想にとりつかれていて、病院に入院していたという。

入院で、ようやく、自分は穀物の粒ではなく人間であることを認識し、退院にいたった。

しかし退院してすぐに、彼は血相をかえて病院にもどってきてしまう。

病院の外に鶏がいて、「私は鶏に食べられてしまうかもしれない」と思い、もどってきたと言う。

医師は、自分が穀物の粒ではないと納得したはずだと尋ねると、彼はこう答えたという。

「もちろん、私はそのことをわかっている。だが、鶏はわかっているのでしょうか?」と。

 

ぼくたちは、そんなばかげたことを、というように、この「妄想」を笑うことができないことを、大澤真幸は日本人にとっての「空気」と「世間」という事例を挙げながら明晰に展開していく。

日本人は、「私はそのことをわかっている。だが、鶏は…」という妄想の<形式>を、例えば「空気を読む」ことの中に、同じように生きている。

「私は~をわかっている。しかし『空気A』はわかっていない」という判断の形式だ。

「空気」はそのまま、「私は違う。しかし世間は…」というように「世間」にうつしかえることができる。

「私はわかっている。だが空気(世間)は…」という判断・行動の形式を、ぼくたちは日常にさまざまに見ることができる。

日本の「働き方改革」なども、「私はわかっている。だが…」とつぶやく、同じ形式の内にあるように、ぼくには見える。

「空気」や「世間」そのものは神ではないけれど、大澤真幸が語るのは、その形式において、「空気」や「世間」は「神」(神なるもの。彼は広義に「第三の審級」という独自の概念を提示している)へとつながる線をもっているということである。

大澤真幸は、このような<形式>から、理路整然と、資本主義において同様なことが起こっていることを示している。

大澤真幸の「仮説」は、資本主義的な行動形式を規定しているものが、今であっても、プロテスタントの神(マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)である、というものだ。

「自分は神の存在を信じていないけれど、神の方はどうなのか」と、上述の精神病者と同じように、人は信じているという自覚がないままで、信者と同じように行動しているということである。

非プロテスタンティズム系の社会は、地球の「空気」を読んで、グローバル資本主義の「空気」を読んで行動する。

日本人・日本社会は、地球の「空気」を読むことで、非西洋圏の中でも突出して資本主義への適応が早かったと、大澤真幸は言う。

大澤真幸は、著作の中で、さらにすすめて、「資本主義の宗教的次元」を明晰に語っていき、資本主義社会を徹底的に相対化してゆくために、ほんとうの<無神論>へ向かうための方途を示し、第1章を閉じている。

第2章は、ここでは立ち入らないけれど、「汝の敵を愛する人を憎みなさい」というキリストの言明を起点にし、「敵を愛しなさい」という言明の反対「愛する人を憎みなさい」という言明を併せながら、最も深く愛することが同時に憎むことでもあるということを、さまざまな事例をとりあげながら、深く考えている。

 

ここで取り上げたポイントは、この著書の数々の深い洞察のなかの、ほんの一部である。

本書は、大澤真幸の他の著作・文章・思考たちの、ひとつの結晶のようなものとして、ある。

そして、深く明晰な思考は、大澤真幸がいだく「長期のテーマ」(一生のテーマ)に、確実に歩みをよせているように、ぼくには見える(大澤は著作『考えるということ』の中で、考えることのテーマを、短期・中期・長期に分けている)。

大澤真幸にとっての切実な問いに向かう思考に沿う仕方で、ぼくたちはいつしか、切実な問いを共有し、その世界にひきこまれる。

冒頭で挙げた本書の目的、「生ける社会学者たちの思考に、消えない火を点すこと」にあるように、本書はそのようにして、ぼくの中に「消えない火」を点火してくれる。

この目的は、大澤真幸の社会学の師である見田宗介の「書くこと」の<精神>をひきついだものだ。

本当によい本は、何かの解決をもたらすこと以上に、読み手の思考に火を点火する。

本書を読み始めてすぐに点火された「消えない火」は、大澤真幸が参照し紹介する数々の文献への興味をぼくに植えつけ、思考の深さと明晰へといざなってくれる。

現代社会を徹底的に相対化し、きたる時代を準備するために、<ほんとうの無神論>へとつづく光のありかを示し、その道筋の四方に飛び散る光のかけらを、ぼくたちの歩みの前につくりながら。

 

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異国における思いがけない、日本語書籍との出会い(再会)。- 旅先で、赴任先で、異国の生活の中で。

まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。...Read On.


まだそれほど「昔」ではない時代、電子書籍が普及していなかった(確か)8年程前まで、異国で「出会う」日本語書籍は、特別なものであった。

バックパッカーでアジアを旅しているときに目にした、安宿に残された日本語書籍。

赴任先で、同僚が残していった日本語書籍や出張者が差し入れで持ってきてくれた日本語書籍や日本語雑誌。

異国で、日本語書籍を販売している書店で、限定された書籍の中で出会う日本語書籍。

世の中に無数にある日本語の本の中から、偶然に、それらの本に出会う。

インターネットが普及していない時代であったから、さらに、それは特別なものとして感じられた。

 

今の時代は、インターネットが普及し、電子書籍が普及し、どこにいても、大体どんな書籍も、クリックボタンを押すだけで手にいれることができる。

また、ハードコピーの書籍も、オンラインで購入して、日本からアジアの近いところであれば数日で到着してしまう。

この状況が切り拓いてきた、あるいは切り拓いてゆく「世界」から、ぼくたちはほんとうに多くの恩恵を受けることができる。

でも心のどこかで、不便であった「昔」を懐かしく思い、便利さにたいして逆につまらなさのようなことを感じることがある。

 

だからといって、「昔」に戻るわけではないけれど、あのような「特別さ」を今後感じることはないだろうと思っていたところで、ちょっとしたことだけれど、あの特別な気持ちを呼び覚ますような出来事にでくわすことになった。

先日、作家の辺見庸のことをブログに書いた。

辺見庸の文章に出会ったのは大学時代であった。

辺見庸を「知る」ようになったのは、食から世界の辺境にまでくいこんでゆくノンフィクションの著作『もの食う人びと』であった。

この著作に出会ったのは、アジアへの一人旅をはじめた時期であったから、なおさら、ぼくの深いところに届いた。

ぼくが世界に仕事と生活の場をうつしてから、ぼくは辺見庸の作品から何故か遠ざかっていた。

ところが、ここ数年、また彼の作品世界に足を踏み入れていた。

ブログではそんなことを書いた。

 

その「声」がどこかで届くように、ぼくは「小さな出来事」に出くわす。

ここ香港で、「小さなリーディング・ルーム」の棚で、著作『もの食う人びと』に再会したのだ。

中国語の本が並ぶ中で、二冊だけ、日本語の本が並んでいる。

その内の一冊が、『もの食う人びと』であった。

まさかの再会であった。

確率論で言えば、その確率は果てしなくゼロに近いだろう。

日本人が寄贈したのかもしれないけれど、それでも、無限にある日本語書籍の中で、この一冊が確かにそこにたたずんでいたのだ。

ぼくは、その「確かさ」を確かめるように、『もの食う人びと』を手に取る。

ページを開き、本の最初に綴じられたカラー写真を確かめる。

確かに、そこには、『もの食う人びと』があった。

これを読んだ人は、ここ香港で、この本をどのように読んだのだろうか、と想像する。

なぜこの本を選び、人生のどのような旅路で、ここ香港で、どのようにこの本を読み、何を考えていたのか。

20年以上を経て再会する『もの食う人びと』の本に、日本を離れ、あるいは日本語が当たり前にある空間を離れたときに感じるちょっとした不安の中で、たまたま出会う日本語書籍に感じた、あの「特別な気持ち」がぼくの中で呼び覚まされる。

取るに足らない、ちょっとした出来事だけれど、ぼくにとっては大切なものを再び拾うような出来事であった。

それにしても、なぜ『もの食う人びと』が、ぼくの目の前に、あのような形で再び姿を現したのだろうか。

それも、ここ香港で。

 

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「悩むことのできるものだけが…」の一行。- 「悩む」作家の辺見庸を救った一行から。

共同通信社の勤務から作家となった辺見庸の作品を、ぼくは大学時代に、よく読んだ。...Read On.


共同通信社の勤務から作家となった辺見庸の作品を、ぼくは大学時代に、よく読んだ。

きっかけとなった本は『もの食う人びと』(1994年)であった。

通信社では北京特派員やハノイ支局長をつとめ、「現実を直視」してきた辺見庸が、バングラディシュや旧ユーゴやソマリアやチェルノブイリなどで、人びとは今何を食べて、何を考えているかを探っていったノンフィクションである。

辺見庸の文章は現実を直視しながら地に足をつけ、言葉のリアリティを求めている。

当時アジアなどを旅していたぼくに響く文体であった。

1998年頃だったか、ぼくは東京で、辺見庸の講演を聞きにいく機会を得た。

彼は、小さな大学ノートをひらき、壇上でそれを見ながら、言葉をさぐりあてるように語っていた。

その姿に触発され、ぼくも大学ノートを買い、日々や本のメモを手で書くようになったことを覚えている。

 

大学を卒業したぼくが世界を飛び回っている間に、辺見庸は身体を幾度となく病み、故郷の宮城県石巻は震災にのまれた。

そんな辺見庸の作品を、また少しづつ読んでいる。

ぼくが世界に出ているこの15年間ほどの間、辺見庸は何を考えてきたのか。

『水の透視画法』(集英社文庫、2013年)の中に収められている、「アジサイと回想」と題されたエッセイがぼくの心にしみこむ。

アジサイのイメージには程遠く、副題は「生きるに値する条件」とつけられている。

辺見庸が、「お粥につかったみたいに」むしむしとする日に、図書館に足を運び、そこでの出来事を書いている。

本を借りて一部を複写しにいく辺見庸は、二階のコピー機の場所で、コピー機を使用している若い男女に出会う。

若い男が文庫本を食い入るように読んでは、ページを選んで、拡大コピーをとっている。

彼は辺見庸が待っているのに気づき、まだコピーが10枚ほどあるため、「先になさいますか。」と辺見庸に声をかける。

その時に、書名が見える。

『将来の哲学の根本命題 他二篇』。

 

 絶句した。…この世から消えたとばかり思っていた本が街の図書館にあり、しかも若者に閲覧されている。百万分の一ほどの確率かもしれない。だからこそ仰天した。一冊の本が千人の人との出逢いよりも自分を変えることがある。…あの本はそんな一冊であった。

辺見庸『水の透視画法』集英社文庫

 

辺見庸は近くのソファに座って待ちながら、必死で記憶をたぐる。

 

…たしか本にはこう書いてあるはずだ。初見後四十数年間、それだけははっきりとおぼえている。「悩むことのできるものだけが、生存するに値する」。これまで何万回反すうしたことか。正直、その一行に救われたこともある。悩むことのない存在は「存在のない存在」なのだ、ということも記されていたと思う。二人はあのくだりにこころをひかれるだろうか。

辺見庸『水の透視画法』集英社文庫

 

悩むことのできるものだけが、生存するに値する。

辺見庸は、かつて、19世紀のドイツの哲学者フォイエルバッハの、この一行に救われている。

虚構に流されることなく、リアリティの地下茎に向かって垂直に降りていく辺見庸の思考と語りを考えると、ぼくはそのことが自然にわかるような気がした。

 

この本を読みながら、他方で、作家の中谷彰宏の著作『悩まない人の63の習慣』(きずな出版)を読む。

現代に「悩む人たち」などに向けて、悩まないための「行動」や考え方が、鮮やかに提示されている。

この本を読みながら、現代の「悩み」は、人それぞれにとっては深刻であるけれど、それはひどく狭いところに押し込められた「悩み」のように感じる。

悩む必要のない「悩み」。

考え方を変えることでなくなる「悩み」。

行動することで解消される「悩み」。

成長していくことで質を変えていく「悩み」。

「悩み」と一言で言ってもいろいろとあって、それは重層的に理解し、解きほぐしながら日々を生きていくことが大切だと、ぼくは自身の悩みに向き合いながら思う。

 

しかし、それで「悩み」がなくなるわけではないし、完全になくなることがよいわけではない。

それでも残るような「悩み」は、フォイエルバッハの一言が示すように、「生存するに値する」源泉としての<悩み>として、生きるという経験を支えている。

悩むことのできるものだけが、生存するに値する。

大学時代にも辺見庸の作品を読みながら次から次へと読まなければいけない本が増えていったことと同じに、今回も、辺見庸からの「課題図書」がまた一冊増えた。
 

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アートは何のため?ツールとしてのアート。- Alain de Botton/John Armstrong著『Art as Therapy』に惹かれて。

「Art for art’s sake(芸術のための芸術)」ということが言われることがある。...Read On.


「Art for art’s sake(芸術のための芸術)」ということが言われることがある。

芸術が「何かのため」という姿勢を切り捨て、芸術はいかなる実用的な機能からも自由であるということである。

それが「真実であるか否か」ということはさておき、それでも、アート(芸術)は、確かにぼくたちに「何か」を与えてくれるように思う。

近代・現代という時代の磁場が、ぼくたちをして「何かのため」へと、様々なもの・ことを手段化させていく思考と実践に引き寄せているのかもしれないと思ったりもする。

しかし、アートを鑑賞する際に、アートそのものに素晴らしさを感じる背後に、素晴らしいと思わせる原因・理由があるのだとも感じる。

 

Alain de BottonとJohn Armstrongは、とても美しい著書『Art as Therapy』(Phaidon, 2013)において、「ツールとしてのアート」の側面を正面から見据えている。

感情的知性の発展に寄与するグローバル組織「The School of Life」の共同創業者のひとりである作家のAlain de Botton、それから哲学者John Armstrongの共著である。

美しい絵画や写真が掲載され、詩的な文章で綴られている『Art as Therapy』。

本書では、「ツールとしてのアート」という視点で、「アートの7つの機能」が展開されている。

  1. Remembering(思い出すこと) 
  2. Hope(希望)
  3. Sorrow(悲しみ)
  4. Rebalancing(バランスを取り戻すこと)
  5. Self-Understanding(自己理解)
  6. Growth(成長)
  7. Appreciation(感謝)


それぞれのもう少し詳細については、下記のようになる。
 

1.記憶の悪さの矯正手段:アートは、経験の果実を、記憶しやすいもの、また再生可能なものとする。

2.希望の提供者:アートは、ものごとを、楽しく元気づけるような視野におさめる。…

3.尊厳のある悲しみの源泉:アートは、よい生活における正統な場所にある悲しみを思い出させる…。

4.バランスをとるエージェント・媒介:アートは、普通でない明瞭さで、良い質のエッセンスをエンコード(記号化)する…。

5.自己理解へのガイド:アートは、私たちにとって中心的で重要だが、言葉にするのがむずかしいことを確認する手助けとなる。…

6.経験の拡張へのガイド:アートは、他者の経験の極めて洗練された蓄積である…。

7.再度鋭敏化させるためのツール:アートは、私たちの殻をはぎとり、私たちの周りのものにたいする、甘やかされ習慣化された無視という地点から私たちを助け出す。…

Alain de Botton/John Armstrong『Art as Therapy』(Phaidon, 2013)
(*日本語訳はブログ著者)

 

本書では、これらひとつひとつの機能について、掲載されたアートを素材に、アートの仔細を「味わい」ながら、理解していくことになる。

詩的な英語で仔細に語られることで、アートの楽しみ方を、ぼくは学ぶことができる。

「機能」は、アートに言葉を与えることで味気ないものにするのではなく、反対に、アートをより味のあるものとし、確かに「機能」が発揮されていることを感じさせる。

「Art as Therapy」、セラピーとしてのアートの意味合いが、身体にしみてくる。

 

この美しい著作『Art as Therapy』が語る「アートの7つの機能」は、人それぞれにたいする効能・機能を、抽象度を上げ抽出して語っている。

これらに加えて、ぼくの関心事項にひきつけて加えるとすれば、「アート」は、「世界言語」のひとつとしても機能する。

音楽が世界をつなぐコミュニケーションのひとつであるように、絵画や彫刻などのアートも、世界をつなげることができる。

厳密には(政治経済社会の複雑な経路を通過することで)その逆もありうるけれど、肯定的にとらえていけば、アートは世界をつなげていく。

世界の各地の人たちが、遠く離れたアートを知り、興味をもち、それらについて世界の人たちと会話をくりだす。

その「機能」は、直接的にぼくたち自身のセラピーとなるわけではないけれど、人と人とをつなげていく「機能」として、つながりを回復する。

そのような「機能」としても、ぼくは、アートを学んでおきたいと思う。

 

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「火星」を起点に、現実として宇宙を視野に。- Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』。

ぼくの構想のひとつである「時間と空間の『人と社会』学/「生き方」学」(仮名)。その「空間」の座標軸は、ひとまずは「グローバルへの広がり」を視野に入れながら、しかし、その先には「宇宙空間への広がり」を見据えている。...Read On.


ぼくの構想のひとつである「時間と空間の『人と社会』学/「生き方」学」(仮名)。

その「空間」の座標軸は、ひとまずは「グローバルへの広がり」を視野に入れながら、しかし、その先には「宇宙空間への広がり」を見据えている。

「そんなに大きな話を」という声に対しては、SpaceX社のElon Muskは「火星移住計画」を着実に進めているし、2030年代前半頃の実現見通しも言われている。

「仮説」や「妄想」は、確実に「現実」に向かっている。

 

その「現実性」を感じさせてくれた書籍のひとつに、Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』(TED Books, 2015)がある。

『私たちはいかに火星に住むのか』。

この書名は、二重の意味において「正しい」。

第一に、どのように火星に「到達」するかではなく、「住む」のかということについて書かれていること。

第二に、「どのように」住むのか、という具体性において書かれていること。

この二重の意味が、人が火星に降り立つ日が「目前」であることを伝えている。

 

【Contents(目次)】

Epigraph
Introduction: The Dream
Chapter 1:  Das Marsprojekt
Chapter 2:  The Great Private Space Race
Chapter 3:  Rockets Are Tricky
Chapter 4:  Big Questions
Chapter 5:  The Economics of Mars
Chapter 6:  Living on Mars
Chapter 7:  Making Mars in Earth’s Image
Chapter 8:  The Next Gold Rush
Chapter 9:  The Final Frontier
Imagining Life on Mars

 

「The Dream」と題されるイントロダクションは、「予測的な物語」で始まる。

 

A Prediction: 
In the year 2027, two sleek spacecraft dubbed Raptor 1 and Raptor 2 finally make it to Mars, slipping into orbit after a gruelling 243-day voyage. As Raptor 1 descends to the sufface, an estimated 50 percent of all the people on Earth are watching the event, some on huge outdoor LCD screens…

ひとつの予測:
2027年、流線型の宇宙船Raptor 1とRaptor 2が、いよいよ火星に到達する。宇宙船は243日の旅ののちに、火星の軌道にはいっていく。Raptor 1が火星の地表に向かっておりていくところ、地球の50%にあたる人びとがこのイベントを見ている。屋外のLCD巨大スクリーンで見ている人たちもいる。…

Stephen L. Petranek著『How We'll Live on Mars』(TED Books, 2015)
(※日本語訳はブログ著者)

 

それは、現実に見ているような錯覚を、ぼくに与える。

映画『The Martian』(オデッセイ)の風景が、ぼくの記憶の中で重なる。

このようなイントロダクションに始まり、Stephenは、火星への有人飛行と移住が技術的に可能であることなどを、具体性の中で語る。

Stephenは、Elon Muskが移住計画の全体の妥当性について、「環境的な障害」ではなく、「基本コストの課題」として見ていることに、注意を向ける。

火星移住は、火星における空気、放射線、水などの問題・課題よりも、コストが課題だということだ。

もちろん空気や水などといった、人間の生きる条件ともなる環境要因は大切である。

しかし、この本においても、それらの問題・課題を、具体性の次元において(一般読者向けに)語っている。

火星移住のシナリオが具体性の中で語られ、最初で述べたように、いかに火星に到達するかということではなく、焦点はどのように住むのかという方向に重力をもつ。

読み終えると、火星移住が現実のものとして感じられるから不思議だ。

 

そして、ぼくが驚いたのは、「Chapter 8: The Next Gold Rush(次なるゴールド・ラッシュ)」という章で展開されている内容だ。

それは、火星の「その先」にあるものだ。

火星と木星の間にある小惑星帯には、鉱石資源がある。

NASAによると、その価値は「今日の地球のすべての人が1000億ドルを持っていること」と同等だろうと言われる。

資源問題という「グローバリゼーション」の行きつく現問題を(範囲はわからないけれど)解決する方途を、宇宙資源がひらいていく可能性がある。

そして、グローバル企業はすでにその「ビジネス」に参入している。

地球と小惑星帯の間に位置する火星は、この方途における「基地」のような役目を果たす可能性があるのだ。

それは先のことかもしれないけれど、実はそれほど遠くない未来の話だ。

準備は進められていて、実際の小惑星における鉱石発掘の試験などは2020年代前半頃ということも、この書は触れている。

地球という「有限の空間」、グローバリゼーションというプロジェクトの行き止まりの空間が、その先に「無限の宇宙空間」をきりひらいていくその仕方と、人と社会への影響を、ぼくは追っている。

宇宙を視野に入れることは、すでに現実問題として、ぼくたちの前に立ち現れている。

 

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世界に生きてゆくなかで心構えとしての「野生の思考」。- レヴィ=ストロース著『野生の思考』に教えられて。

自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。...Read On.


自分には理解できないような状況や考え方、さらには理解できない「世界」を理解しようとする。

いろいろな文化や習俗など、世界でぼくが出会うものを理解しようとする。

「それはおかしい」と口に出てきそうになる言葉をおさえて、一歩立ち止まり、そこに流れている「論理」をつかもうとすること。

相手の考え方ということだけにとどまらず、相手という他者の考え方や行動を規定するようなことの「論理」のレベルにて理解をしようとすることを、ぼくは心がける。

 

そのような姿勢を教えてくれた書のひとつが、人類学者のレヴィ=ストロースの名著『野生の思考』(みすず書房)であった。

15年ほど前に、途上国の開発・発展という問題、南北問題、貧困問題などを追いかけているときに、手に取った。

書名にも冠せられた「野生の思考」とは、「未開と文明とを問わず、すべての人間に開かれている根源的な思考の次元」(『社会学事典』弘文堂)である。

 

『野生の思考』の中で、次の引用にはじまり、このように語られる箇所がある。

 

『科学者は、不確実や挫折には寛容である。そうでなければならないからである。ところが無秩序だけは認めることができなし、また認めてはならないのである。…科学の基本的公準は、自然がそれ自体秩序をもっているということである。」(Simpson)

 われわれが未開思考と呼ぶものの根底には、このような秩序づけの要求が存在する。ただしそれは、まったく同じ程度にあらゆる思考の根底をなすものである。私がこのように言うのは、共通性という角度から接近すれば、われわれにとって異質と思われる思考形態を理解することがより容易になるからである。

レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房


「秩序づけの要求」という次元においては、未開思考も文明の思考も、思考形態としては共通している。

「未開」は思考できないのではなく、異質と思われる仕方で思考している。

まったく理解できない「未開の地」であったとしても、そこの社会の中で「秩序づけられた思考形態」がある。

その「思考形態」という「論理」を、つかみだそうとすること。

未開に限らず、異質の文明・文化の世界に中にあっても。

当時、全体を深く読みきれなかった『野生の思考』の中から(それでも)教えられたことのひとつとして、このことが、その後のぼくの「世界で生ききる」ことの姿勢として、ぼくの中に埋め込まれている。

 

このことを、大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)に出てくる、パキスタンの「職業的乞食」と思われる男のエピソードを読んでいて思い出した。

この男は、小銭を施された際に一言も礼を言わない、というところから始まるエピソード。

詳細はここでは書かないけれど、「イスラーム世界」における「秩序(と思考形態)」を理解しなければ、この謎はとけない。

しかし、言えることは、そこにはきっちりと「秩序(と思考形態)」があることだ。

この男は無礼なのではなく、この「秩序」のなかで、心豊かに生きている。

ぼくたちは、その「心の豊かさ」を視るための<視覚>を手にいれなければならない。

そのようなことを考えながら、『野生の思考』のレヴィ=ストロースにまた学ぶ時期がきたのかもしれないと、ぼくは思う。

<じぶんが準備できたとき>に、「師」はあらわれる。

 

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世界に生きる中では、やはり「宗教」は知っておくこと。- 大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』を読み終えて。

香港の南の海上を台風が通過しているとき、大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)を、ようやく読み終わる。...Read On.


香港の南の海上を台風が通過しているとき、大澤真幸著『<世界史>の哲学:イスラーム篇』(講談社)を、ようやく読み終わる。

思考のひろがりと深さに、まだついていっていない。

しかし、これまで見て学んできた「イスラーム」とは、また違った視点で「イスラーム」を見ることができるようになったことは確かだ。

 

ぼく自身は特定の「宗教」をもたないけれど、世界を旅し、世界に生きてきた中で「宗教」をより身近に感じてきた。

日本の中にいると「宗教」は見えにくい。

その背景についてはここでは書かないけれど、日本の外に出ると、「宗教」は好き嫌いにかかわらず、自分の生活に顔をだしてくる。

少なくとも、日々の生活の「風景の一部」として、やってくる。

記憶のひとつは、アジアへの旅路で聞くことになった、早朝の(大音量で流れる)イスラームの祈りの言葉である。

西アフリカのシエラレオネでは、キリスト教とイスラーム教などが日々の生活にとけこんでいる。

東ティモールにいたときは、カトリック教徒がほとんどで、ぼくもイベントなどには列席することがあった。

世界各地でいろいろな人たちに出会い、宗教はぼくにとって、「ふつう」のこととなった。

ここ香港でも、TsimShaTsuiには大きなモスクがあり、金曜日に脇の道を通ると、イスラーム教徒の人たちとすれちがうことになる。

宗教が、日常の「風景の一部」となる。

ぼくは、「尊重」の念で、それぞれの宗教を信じる人たちと接してきた。

それから、時間をみつけては文献などで学ぶようにしてきた。

歴史として、社会学として、自己啓発として、それから人と社会の「地層」をさぐるために。

 

さて、日本人は、イスラーム教については、ほとんど知らない。

社会学者の大澤真幸は、この著書の「まえがき」で、このように書いている。

 

 日本人は、あまりにもイスラーム教を知らない。私はかつて、「キリスト教について知らない程度」の順位を付けたら、日本人はトップになるだろう、と書いたことがあるが(『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書)、日本人は、イスラーム教についてはもっと知らない。…
 この無知は、しかし、ちょっとした無知、あまりに細かかったり専門的に過ぎるために知らないという類の無知とは違う。現在の地球の人口の、五人に一人くらいは、イスラーム教徒である。これほどたくさんイスラーム教徒がいるのに、重要な国際ニュースの半分近くがイスラームに関係しているというのに、さらにイスラーム教の普及地域と盛んに商取引をしているというのに、イスラーム教についてまったく何もイメージができないのだとすれば、この知識の欠落は、高くつくだろう。…

大澤真幸『<世界史>の哲学:イスラーム篇』講談社

 

大澤真幸は、イスラーム教を専門としているわけでもなく、また中東研究の専門家でもないが、専門家の「盲点」をつきながら、「イスラーム」ということに立ち向かったのが、この書だ。

「イスラーム」を考える論考でありながら、しかし、視点は、縦横に深く広く貫かれている。

イスラームを通じて、大澤真幸の一生をつらぬくテーマのひとつで(あろう)「資本主義」、そして人と社会という「垂直(縦軸)」に深くきりこむ。

また、キリスト教、ユダヤ教、東洋(中国、インド)など、「比較」を方法とし、「水平(横軸)」に広く、しかし深くきりこむ。

『<世界史>の哲学』の思考は、だから、最初から「シリーズ」(古代篇、中世篇、東洋篇、イスラーム篇、近代篇)で組まれている。

『<世界史>の哲学:イスラーム篇』の目次だけを見ても、このことがわかる。

【目次】
第1章:贖罪の論理
第2章:純粋な一神教
第3章:<投資を勧める神>のもとで
第4章:「法の支配」をめぐる奇妙なねじれ
第5章:「法の支配」のアンチノミー
第6章:人間に似た神のあいまいな確信
第7章:預言者と哲学者
第8章:奴隷の軍人
第9章:信仰の外注
第10章:瀆神と商品
第11章:イスラームと反資本主義

章のタイトルを見るだけでも、思考のひろがりを見ることができる。

『<世界史>の哲学』シリーズをつらぬく問題設定は、「西洋の優位」についてである。

なぜ西洋が優位に立ったのか。

「イスラーム」を通じて考えられることのひとつも、なぜ資本主義はイスラームで起きなかったのか(イスラームの方が資本主義に適しているとも言えるのに)。

このような深い思考に入って読み進めているうちに、おそらく、1年くらい経ってしまった。

 

それぞれの宗教には、たくさんの「ふしぎ」がある。

普通に、一般的に考えても、なぜそうなのかわからない。

そのような問題群を議論の入り口にする、社会学者の大澤真幸、橋爪大三郎、それから(一部の著作において)宮台真司による「対談本」は、例えば特定の宗教をもたない者にとって「宗教を学ぶこと」のスタート地点としては、とてもよい本である。

●『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎・大澤真幸(講談社現代新書)
●『ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸(サンガ新書)
●『続・ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸(サンガ新書)

中国の儒教などにふれている次の書籍にもふれておきたい。

●『おどろきの中国』橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司(講談社現代新書)

 

これらの著作は、一般的に考えてしまう「ふしぎ」なトピック群を、縦横無尽に議論の俎上にのせる。

そこから、あらゆる方面に「好奇心」が放射されていく、スリリングな議論を展開している。

そして、よりスリリングなのは、そのような議論にふれ、宗教それから人と社会の見方を獲得してゆくことで「世界の見方」が変わっていくことだ。

まるで、かけている<メガネ>を変えるように。

だから、ぼくは学ばずにはいられない。
 

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書籍, 香港 Jun Nakajima 書籍, 香港 Jun Nakajima

香港で、誠品書店の「ベストセラー」棚を眺めながら、考えること。- 人々の「耳」のありかをみつめて。

台湾の大型書店チェーンである「誠品書店」(Eslite Bookstore)が、香港に第一号店をCauseway Bayに出店してから、すでに4年がたつ。...Read On.


台湾の大型書店チェーンである「誠品書店」(Eslite Bookstore)が、香港に第一号店をCauseway Bayに出店してから、すでに4年がたつ。

その間に、Tsim Sha TsuiとTaikooにも出店し、現在は合計で3店舗。

第一号店が世界でもっとも土地の値段が高いとされる香港のCauseway Bayに出店されたときには、書店が一般的にその規模を縮小させてきている時期であったこと、また香港ではあまり本が読まれないのではないかということなどから、台湾で成功してきた「誠品書店」が、果たして香港でやっていけるのかどうか、ぼくとしても(期待をかけながらも)懐疑的であった。

そんな懐疑もどこへやら、日本人が多く住むTaikooに出店を果たしている。

 

Causeway BayやTaikooの店舗にときおり立ち寄りながら、どんな本が香港で話題を集めているかを確認することが、ぼくの最近の「定点観測」のひとつだ。

「ベストセラー」は、作家や出版社の力量もさることながら、何よりも、大衆の「耳」のありかである。

そこに、人々の生活、人々の生きられる問題や課題が垣間見られる。

 

「誠品書店」のベストセラー棚は、ピックアップの仕方によっていくつかに分かれている。

それぞれ、ランクが1位から10位まであって、並べられている。

日本の書籍で、中国語に訳されたものも多く並んでいる。

台湾で翻訳され、それらが香港でも店頭に並ぶ。

ある一列をざっくりと見ると、日本の書籍が翻訳されて並べられていて、大別すると二つのジャンルに分かれている。

「心理学系」と「片付け系」である。

前者は正当系というより、例えば「人を操る心理学」の漫画版などが上位に来ている。

後者は、例えば「断捨離」の本である。

この二つの系が、ベストセラー系列のひとつにおける1位から10位のランクの多くを占めている。

さっと見ると、通りすぎてしまうか、表層だけで見てしまうようなベストセラーのランクだけれど、ここには、香港の生活における、人々の切実な気持ちが充ちている。

 

それは、香港で生きてゆくための「二つの戦線」における、生きられる問題なのだ。

  1. 職場の人間関係
  2. 住まいの空間

生きていく上での、職場と住まい、あるいは仕事と生活という二つの領域が、書籍のベストセラー・ランキングに垣間見られる。

職場と住まいは、日々の生活の「時間と空間」となる場所であり、瞬間だ。

なかなかうまくいかない職場の人間関係、それから住まいの空間の限定性への悩みなどが、切実な思いをつくり、人々の「耳」となる。

そして、これら二つの領域は、地層を深く掘っていくと、生きることの「二つの側面」を支えていることがわかる。

それらは、社会学者の見田宗介に少しだけ倣って言えば、「仕事」は生きることの「物質的な拠り所」を確保することであり、また「住まい」は生きることの「精神的な拠り所」を確保することである。

ただし、そこには「ねじれ」があり、仕事をする職場という「物質的な拠り所」を支えるところで、「精神的な」人間関係になやむ。

そして、住まいという「精神的な拠り所」を支えるところで、「物質的な」空間の確保になやむ。

いずれにしても、生の「物質的・精神的な拠り所」を、この香港において人々は渇望している。

 

ぼくが見るに、この「二つの戦線」は、ひきつづき、人々が香港で生きてゆく際の感心と渇望、苦悶と喜びなどを規定するような磁場を形づくってゆくと思う。

ただし、ベストセラー棚はこれらだけではないことも付け加えておかなければならない。

世界的な大ベストセラーである、Yuval Norah Harariの『Sapience』と『Homo Deus』は、それらの英語版も中国語版も、長きにわたり棚をうめていたりする。

「誠品書店」のベストセラー棚を「定点観測」しながら、ぼくは、このように、人や社会、それから未来に思いをひろげてゆく。

 

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