香港科学館「Eternal Life: 古代エジプト展」を観て。- 「永遠の生」を希求すること。

香港にある香港科学館で、古代エジプト展「Eternal Life: Exploring Ancient Egypt」を観る。香港が中国に返還されてから20周年を迎えることを記念するイベントのひとつである。...Read On.

香港にある香港科学館で、古代エジプト展「Eternal Life: Exploring Ancient Egypt」を観る。
香港が中国に返還されてから20周年を迎えることを記念するイベントのひとつである。

展示場は、学校の社会見学で訪れている団体、家族、若者など、展示場は平日の午前でも、人であふれかえっている。

特別に開設された展示場では、大英博物館から、6体のミイラを中心に約200点がもちこまれ、展示されている。6体のミイラは、3,000年から1,800年前の時代を生きた個人たち(既婚女性、吟唱者、祭司、歌手、子供、若者)である。

CTスキャンなどの先端技術による病理学的見解、装飾品、壁画、食べ物など、展示物は多岐にわたっている。

それら展示物を見ながら、訪れる人たちは何を感じ、何に思いをはせ、何を考えているのだろう。

ぼくは以前、ロンドンの大英博物館で、これらのいくつかには出会っていたかもしれない。
でも、今考えてやまないのは、この「Eternal Life」、永遠の生という主題である。

 

1)「永遠の生」を希求すること

暗がりの展示場に足を踏み入れながら、ぼくは、「永遠の生」を希求したであろう人たちの、その生に思いをよせる。

ここの6人の人たちはどのような生をおくっていたのだろうか。
ミイラをつくり、それを見守り、その文化を支える社会はどのようなものであったのか。
人は何を恐れていたのか。
人はほんとうは何を希求していたのか。
永遠の生を希求する人たちの生は、何に支えられていたのか。

疑問と思考が、絶え間なく、ぼくにやってくる。
展示場を去ってからも、思考は古代エジプトの人たちによせられる。

古代エジプト展をみてから後に、社会学者・真木悠介の名著『時間の比較社会学』をひらく。

真木悠介は、「死の恐怖」というものを、まっすぐに見つめながら、こう書いている。
 

死の恐怖からの解放…われわれはこの精神の病にたいして、文明の数千年間、謝った処方を下してきたように思われる。まずそれを実在的に征服する試みとしての、不死の霊薬の探索やミイラ保存の技法といった技術的な解決の試行。第二にそれを幻想的に征服する試みとしての、肉体は有限であるが「魂」は永遠であるといった宗教的な解決の試行。そして第三に、それを論理的に征服する試みとしての、時間の非実在性の論証といった哲学的な解決の試行。…

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
 

真木悠介は、文明の数千年を見渡しながら「誤った処方」とする、
●技術的な解決の試行
●宗教的な解決の試行
●哲学的な解決の試行
をのりこえていく方向性を、次のように、書く。

 

…われわれがこの文明の病から、どのような幻想も自己欺瞞もなしに解放されうるとすれば、それはこのように、抽象化された時間の無限性という観念からふりかえって、この現在の生をむなしいと感覚してしまう、固有の時間意識の存立の構造をつきとめることをとおして、これをのりこえてゆく仕方でしかありえない。

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店
 

このような「序章」ではじまる『時間の比較社会学』の世界に、こうして、ぼくはまた惹き寄せられてしまうのだ。
 

2)「軸の時代」(ヤスパース)と古代エジプト

人間が希求してやまない「抽象化された時間の無限性」の生成期として、見田宗介(真木悠介はペンネーム)は、カール・ヤスパースが「軸の時代」(枢軸時代)と呼ぶ時代を重ねる。

カール・ヤスパースは、著書『歴史の起源と目標』のなかで、この「軸の時代」という、歴史の素描を展開している。

ヤスパースは、紀元前800年から200年の間を「軸の時代」と呼んだ。

その時期に、キリスト教の基層となるユダヤ教、仏教、儒教のような世界宗教、古代ギリシアの「哲学」などが、一斉に生まれた。

それは、香港の展示場で展示されている、古代エジプトのミイラがつくられていた時期と重なる。

この「軸の時代」の社会的文脈として、見田宗介は、貨幣経済の成立と浸透、交易経済の成熟、都市化、共同体から外部に向かう生活世界などを見ている。


…貨幣経済と社会の都市化と共同体からの離脱と生活世界の<無限>化は、<近代>の本質そのものに他ならないから、<軸の時代>とは、「近代」の遠い起原、あるいは近代に至る一つの巨大な文明の衝迫の起動の時代に他ならなかった。

見田宗介「高原の見晴らしを切開くこと」『現代思想』Vol.42-16
 

そして、現代は、この<無限>が、再度<有限>に出会う時代である。
「巨大な文明」の岐路にある。

ヤスパースと見田宗介の「思考の交差点」(「軸の時代」と「無限性」)から、ぼくたちは、古代エジプトの人たちが希求した「永遠の生」をどのように見ることができるか。

古代エジプトの人たちが切実に希求した「永遠の生」とその根底にある「無限への希求」の行き着く先(あるいは転回)の時代に、ぼくたちは今、こうしておかれている。

人間が生きることのできる空間(とそれが産出する資源、環境)と時間は「有限」である。
 

グローバリゼーションとは、無限に拡大しつづける一つの文明が、最終の有限性と出会う場所である。

見田宗介「高原の見晴らしを切開くこと」『現代思想』Vol.42-16
 

3)「Homo Deus」(ユバル・ノア・ハラリ)と「不死」

しかし、人類の「永遠の生への希求」は、その「無限性」を、捨てていない(あるいは捨てることができない)。

ユバル・ノア・ハラリは著書『Homo Deus』で、人類が「次に見据えるプロジェクト」として、3つを挙げている。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

人類は、無限が有限に出会う現代という時代において、「不死」(永遠の生)を、霊薬やミイラではない「技術的な解決の試行」の方向性に、突き進めていく道をも選ぶ。

古代エジプトで日常に見られたであろう「飢饉」や「戦争」を解決してきた人類は、しかし、「不死」の希求を捨てていない。

ぼくたちは、このような時代の只中に、おかれている。


ところで、ピラミッド=ミイラと考えがちだけれど、ミイラは裕福な者であれば作ることができたという。

しかし、真木悠介の名著『気流の鳴る音』の「序」の最後に置かれる、ピラミッドの話が思い起こされる。

真木悠介は、エジプトではなく、マヤのピラミッド(そしてその周りにどこまでも広がるジャングル)を目にしながら、次のような想念を書きとめている。
 

…ピラミッドとはある種の疎外の表現ではなかったかという想念が頭をかすめる。幸福な部族はピラミッドなど作らなかったのではないか。テキーラの作られないときにマゲイの花は咲くように、巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれないと思う。…

真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
 

この文章を、自分の心に映しながら、ぼくも同じような想念を抱く。

そして、自分の中に、「ピラミッド(のようなもの)を希求する気持ち」と「ピラミッド(のようなもの)など希求しない気持ち」の二つが、共にあることを確認する。

それは、まるで、「生の充実を『誤った処方』で追い求める自分」と「生の充実を心に感じている自分」とが、せめぎあっているかのようである。

その「せめぎあい」の落ち着かなさを、ぼくは、古代エジプト展の展示物の存在に囲まれながら、感じていたのかもしれない。
 

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社会学者「見田宗介=真木悠介」先生の応答に、15年以上触発されつづける。-「理論・理念」と「現実・経験」の間で。

社会学者「見田宗介=真木悠介』先生による、朝日カルチャーセンターの「講義」で、ぼくは、見田宗介先生に質問をさせていただいた。見田宗介先生の応答が、15年以上経過した今も、ぼくを触発し続けている。...Read On.

社会学者「見田宗介=真木悠介』先生
による、朝日カルチャーセンターの
「講義」(2001年3月24日)
で、
ぼくは、たくさんのことを学び、

そして、さらに見田宗介先生に質問を
させていただいた。
見田宗介先生の応答が、15年以上経過
した今も、ぼくを触発し続けている。

講義「宮沢賢治:存在の祭りの中へ」
で、見田宗介先生は、
日本の1960年代から2000年に至る
「社会の変遷」について語った。

日本の社会は、次の変遷を遂げてきた。

・共同体(Gm=「ゲマインシャフト」)

・近代市民社会
 (Gs=「ゲゼルシャフト」)

・今後は「XXXXX」?
 *コンセプトは「共同体の彼方」
  (GmのかなたのGm)

日本の「共同体」が解体され、
「近代市民社会」が創成される。
そして、自由と孤独を獲得した個人・
社会が、次なる「共同体の彼方の共同体」
をつくりだしていく。
(後年、見田宗介先生は、
『定本 見田宗介著作集VI 
生と死と愛と孤独の社会学』
岩波書店、
などで、論考をまとめている。)

講義が一通り終わったところで、
質問をする時間がもうけられた。

ぼくは当時、「質問すること」を
自分に課していたと記憶している。
そうすることで、ぼくの集中と問題意識
が高まるからだ。

ぼくの質問は大枠はこのようなもので
あった。

 

「社会は、近代市民社会の段階を、
必ず通過しなければならないか?」

 

ぼくの質問の背景には、
日本(の社会)の発展と重なる形で、
「発展途上国の社会」が存在していた。

大学院で、発展途上国の発展・成長、
そして国際協力を学ぶ中で、
発展途上国が日本と同様な「経路」を
進んでいかなければならないのか、
について、ぼくは考えてきていたからだ。

「近代化」による共同体の解体は、
自由をもたらしてきたと同時に、
限りない弊害を社会にもたらしてもきた。

そこで、ぼくはこのような「質問」を
見田宗介先生に投げさせていただいたのだ。

見田宗介先生は、しばしの間、思考され、
それから、概ね次のような応答をされた。

 

「Yesと同時にNo。
先進国の経験に学ぶことで通過しないと
いうことも理論的にはありうるが、
現実としては理念ではなく経験として
通過する必要がある。」


見田宗介先生が思考される「沈思」に、
ぼくは緊張と畏れと興味を覚える。
そして、見田宗介先生の真摯な応答を、
全身を耳にして聞く。

見田宗介先生の「応答」は、
ぼくの「実践の場」で絶えず姿を現して
くることになる。

その後、ぼくは、大学院を修了し、
西アフリカのシエラレオネと東ティモ
ールの「社会」で、国際NGOの一員と
して、現実と実践の場に置かれる。

内戦が長きに渡り続いた両国で、
紛争後の社会という、圧倒的な現実の
中に、ぼくは投げ込まれる。

理論や理念などが拡散して消えてしま
うような現実の中である。
それでも、というより、だからこそ、
ぼくは理論や理念を大切にしてきた
ところがある。

シエラレオネ、東ティモールでも、
ぼくは見田宗介=真木悠介先生の本を、
いつでも横に置き、時折本を開いた。
「大切なこと」を忘れないように。

見田宗介先生の応答にあった、
「理論的には…」
というくだりが、ぼくにはついて回った。

社会も、それから個人も、
頭ではわかっていたとしても、
(程度の差はありつつも)やはり「経験」
を通過することが必要なのではないかと
時を重なる中で思うようになっていった。

しかし、それと同時に、
「理論・理念」と「現実・経験」の間で、
思考し、苦慮し、失敗を繰り返しながら
精一杯やっていくことの大切さを、
ぼくは学んできたのだと思う。

その「間」における、
行ったり来たりの繰り返しの中で、
生きてくるものがあるのだということ。

そして、これからも、
「理論・理念」と「現実・経験」、
この「間」での生を、ぼくは引き受けて
いこうと思う。

 

それにしても、
見田宗介=真木悠介先生に、
次回お会いする機会があるとしたら、
ぼくは「どんな質問」をさせていただこう
かと、思考の翼をはばたかせている。

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「高品質コーヒー」で、「幸せ」をつなげる。- 東ティモールのコーヒープロジェクトに賭けられた「思い」。

ぼくは2003年から2007年まで東ティモールに住み、国際NGOの駐在員として、コーヒーのプロジェクトにかかわってきた。...Read On.

ぼくは2003年から2007年まで
東ティモールに住み、国際NGOの
駐在員として、コーヒーの
プロジェクトにかかわってきた。

そのプロジェクトで賭けられた
ものは、「コーヒーの品質」で
あった。

そこに賭けられた「思い」など
を、ここでは書こうと思う。

コーヒーの「美味しさ」は、
都会に住む人たちにとっては、
・コーヒー豆の焙煎(具合)
・飲み方(カプチーノ、ラテ等)
・トッピング
・カフェの雰囲気
などかもしれない。

しかし、そもそものところでは
「コーヒー豆」そのものの品質が、
決め手でもある。

豆の品質が悪くても、
焙煎の仕方、ミルク、トッピング、
カフェの雰囲気などで、ある程度、
品質はカバーされてしまう。

香港で飲むコーヒーは、
そのような状況に置かれている。
最近でこそ、少しづつ豆の品質に
こだわりが出てきているところも
あるが、まだまだだ。
香港のコーヒー事情については
以前ブログで概要を書いた。

それは例えば料理とも同じである。
素材の品質の低さは、味付けや盛り
付けなどによって、ある程度まで
カバーされてしまう。

あらゆる料理は素材が大切である
ことと同じに、コーヒー豆そのもの
の「品質」が美味しさをつくる。


ぼくが東ティモールに住み、
国際NGOの
駐在員として関わった
コーヒーのプロジェクトは、

「コーヒーの品質」、
そしてその先
にある「幸せ」に賭け
られたプロジェクトであった。

 

1)背景

インドネシアからの独立を果たした
東ティモール。
天然資源を除くと、輸出品としては
コーヒーが大半を占めるほどであっ
た。
ただし、精製され輸出されるコーヒ
ーの品質は低く、比較的低い価格で
売られていく。

良質のアラビカ種がより自然に残っ
ているけれども、
世界で50カ国以上がコーヒー生産
をしている中で、
「品質も価格も低い」コーヒーは
競争力がない。

これを「転回」させるのは、
「コーヒーの高品質化」である。
もともと良質なのだから、
「東ティモールコーヒー」として
世界でも戦っていける。

でも、そのためには、
「やること」がたくさんある。

 

2)「品質を上げる」ために。

「品質を上げる」ために、大きく
二つのことを行った。

①「コーヒー精製」(および輸出
までのプロセス)を、コーヒー生産
者たちが独自に行うこと。

②「コーヒー精製技術」を上げる
こと。

①は、それまで、コーヒー生産者
たちは、主に「コーヒーのチェリー」
(コーヒーの木から採取したばかり
の果肉がついた状態のもの)を
業者に販売していた。
つまり、独自に精製をせず、その日
に採取したチェリーを袋につめて
その状態で売っていたのだ。

そこで起きる問題は大きく2つある。

第一に、
販売された(業者が買い取った)
チェリーの中に、未完熟のものや、
熟しすぎたものが混じってしまって
いた。

第二に、
買い取った業者はそのチェリーを
機械が設置された精製所に運び、
果肉をとり、豆を乾燥させると
いった精製プロセスにかけていく。
しかし、往々にして、そのプロセス
の管理が行き届いておらず、品質が
下がってしまう。

それから、②「コーヒー精製技術」
については、すでにコーヒーの一部
を独自に精製して他業者に売っていた
コーヒー生産者もいたが、技術力およ
び精製する機材の不足などが問題で、
結果として品質の低いコーヒーになっ
てしまっていた。

だから、これら①と②を実践すること
で、品質を上げ、東ティモールコーヒ
ーのブランド力もあがり、そして
何よりも、高く売れたコーヒーは、
コーヒー生産者たちにより大きな収入
をもたらしてくれる。

2003年当時の東ティモールの一人
当たりGDPは、年間で見て、400US
ドル台であったから、何としてでも
「道」を見つけたいところであった。

 

3)「幸せ」をつなげること

プロジェクトにかかわった人たち
皆が、ほんとうに注力した。
コーヒー生産者たち、サポートをした
NGOチーム、コーヒー専門家の方々、
などなど。

皆が、品質に賭け、その先にある
「幸せ」を確かに信じていた
(また徐々に信じていった)のだと、
ぼくは思う

コーヒーの品質を通じて、
そこでは「幸せ」がつなげられて
いったのだ。

「美味しいコーヒーを飲む幸せ」と
「コーヒーが高い価格で売れる幸せ」。

途上国の「貧しい人たち」を助ける
ために、ということで飲むコーヒーで
はなく、ほんとうに美味しいコーヒー
を飲む幸せ。

高品質のコーヒーを誇りをもって
つくり、高い価格で売ることができ、
収入が増え、生活改善につながる幸せ。

それは、「自己犠牲」ではない仕方で、
関係をつくっていくこと。
また、ビジネス的に言えば、
「Win-Win」の関係を築くことであった。

別の見方では、
「消費者と生産者」との関係(の豊かさ)
をつくると同時に、
「先進国と途上国」との関係(の豊かさ)
をつくる、ことであった。
たとえ、それが世界的には、とても小さな
規模での実践であったとしても。

さらには、
「人と人との関係」、そして
「人と自然の関係」をつくってきた。
自然に近い形でコーヒーの木たちが
実りを与えてくれる環境であった。

それが、使い古された言葉でいえば
「持続可能な(sustainable)」
ということである。
しかし、内実をともなった言葉である。

コーヒーの品質に賭けられた
「持続可能性」は、
ぼくが東ティモールを去った2007年
以降も、プロジェクト・事業の発展を
もたらしてきたとのことである。
今では、首都ディリに「カフェ」を
もつまでになっているという。


早朝に、香港の海岸通りを歩いて
いたら、東ティモール人の元同僚から
メッセージがぼくに届く。
やりとりの末に、
「また東ティモールに来てください」
と、彼はメッセージをぼくに届けて
くれる。
ぼくは将来、再び東ティモールを訪れ
るときのことを想像する。

2007年2月、ぼくが3年半の滞在を
終えて東ティモールを去るとき、
数百人もの村の人たちとスタッフが
集まり、笑顔で、ぼくを送り出して
くれた。

その人たちに、ぼくはどんな姿で、
どんな笑顔で、再び会うことができる
だろうか。
みんなの成長に負けない成長を、
ぼくはしてきただろうか。
そんなことを思いながら、ぼくは
東ティモールに「新たな思い」を馳せる。

 

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「どういう人たちと関わりたいか」。- 世界中に増殖する火種となる「新鮮な問いの交響する小さな集まり」(見田宗介)

社会学者「見田宗介=真木悠介』先生による、朝日カルチャーセンターの「講義」(2001年3月24日)は、その内容においても、そのスタイルにしても、ぼくを捉えてやまなかった。...Read On.

社会学者「見田宗介=真木悠介』先生
による、朝日カルチャーセンターの
「講義」(2001年3月24日)は、
その内容においても、そのスタイルに
しても、ぼくを捉えてやまなかった。
ブログ「社会学者「見田宗介=真木
悠介」先生の講義で学んだこと。」

この「講義」が行われた2ヶ月程後に
見田宗介は、著書『宮沢賢治』が
岩波書店「岩波現代文庫」に入ること
になり、そこに、
「現代文庫版あとがき」を書いている。

「宮沢賢治」という作家、また、
著書『宮沢賢治』について書かれた、
1頁程の短い文章は、とても美しい。


宮沢賢治、という作家は、この作家の
ことを好きな人たちが四人か五人集ま
ると、一晩中でも、楽しい会話をして
つきることがない、と、屋久島に住ん
でいる詩人、山尾三省さんが言った。
わたしもそのとおりだと思う。
…この本も、読む人になにかの「解決」
をもたらす以上に、より多くの新しい
「問い」を触発することができると
よいと、そしてこのような新鮮な問い
の交響する楽しい小さい集まりが、
世界中に増殖する火種のひとつとなる
ことができるとよいと、思いながら
書いた。

見田宗介「現代文庫版あとがき」
『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』
岩波書店(岩波現代文庫)

 

上述のとおり、この「あとがき」は、
ぼくが聴講した講義の日から2ヶ月
ほど経った2001年5月に、書きとめ
られている。
そのことに、ぼくは、この文章を
書きながら、あっと、気づいた。

この「気づき」は、
昨日ぼくがブログで書いた、
「見田宗介=真木悠介」先生の講義
で学んだこと(の内の二つ)に、
そのまま照応するものであった。

 

1)交響圏

朝日カルチャーセンターの「講義」
のタイトルは、著作と同じく、
「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」
と題されていた。

その「テーマ設定の背景」は、
見田宗介先生が講義の冒頭で語った。

「『テーマ』(what)ではなく
『どういう人たちと関わってみたいか』
(with whom)ということ。」


「どういう人たちと関わりたいか」
ということ。

この「岩波現代文庫版あとがき」は、
このことに応えているように、ぼくに
は見える。

それは、
「新鮮な問いの交響する小さな集まり」
である。

朝日カルチャーセンターでの講義
での「小さな集まり」も、
そのような集まりの一つであった。

このような「交響する小さな集まり」
が、見田宗介が大澤真幸との対談で
語ったような「幸福のユニット」で
ある。

そしてそれは、これまでの「革命」
とはまったく異なるような、未来の、
「名づけられない革命」を切り開く
主体である。
(「名づけられない革命」について
は、見田宗介『社会学入門ー人間と
社会の未来』岩波新書、を参照。)

 

2)夢中・熱中

見田宗介は「その時々に自分が熱中
している研究を、そのままストレート
に講義でもゼミでもぶつけ」ることで
他者たちを、深いところで、触発して
きた。

そのことがそのまま、
2001年の前半の出来事にあてはまる。
2001年前半に自分が熱中していた
ことを、そのまま、
講義でも「現代文庫版あとがき」でも、
ストレートに語りかけていたという
ことである。

この夢中さ・熱中さは「触発する力」
を静かに、でも確かに、発揮してきた。
少なくとも、ぼくの中には「火種」が
灯された。

この「現代文庫版あとがき」の美しい
文章は、その「短い言葉」だけでも、
他者の中に「問い」を触発するもので
ある。

ぼくの視点と感覚からは、
この「現代文庫版あとがき」における
「宮沢賢治」は、そのまま
「見田宗介=真木悠介」に置き換える
ことができる。

「見田宗介=真木悠介」という社会
学者は、この学者のことを好きな人
たちが四人か五人集まると、一晩中
でも、楽しい会話をしてつきること
がない。云々。

このような「幸福のユニット」の
交響する集まりと歓びが、
著作と講義名の副題に付された、
「存在の祭りの中へ」ということの
内実のひとつである。

 

追伸:
今回のブログは、当初、
講義でぼくが見田宗介先生にさせて
いただいた「質問」について書く予定
でした。

ところが、「岩波現代文庫版あとがき」
をたまたま読んでいたら、
そこに付された「日付」に目が留まった
わけです。

朝日カルチャーセンターでの講義と
同時期であったことの「気づき」は
新鮮な驚きと「新鮮な問い」を、
ぼくに与えてくれました。

 

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「ひとり旅」と「二人・集団の旅」とは。- <横にいる他者>(真木悠介)が開く視界と世界。

香港にそれなりに長く住んでいると、そこの風景が「当たり前」になってくる。...Read On.

 

香港にそれなりに長く住んでいると、
そこの風景が「当たり前」になって
くる。

車道の標識に「ミッキーマウスの
影絵」(香港ディズニーランドに
通じる道路を示す標識)があっても
何とも思わない。

「標識にミッキーマウスがいるんだ」

と、香港に遊びに来た家族や友人に
言われてはじめて、当たり前のもの
が当たり前ではなくなったりする。

標識のミッキーマウスが、
「不思議さ」を帯びて、目の前に
風景として立ち上がってくる。

香港に住んでいて、
香港の外から香港に来た
家族や友人などの「他者の眼」が
ぼくに「新鮮な眼」を与えてくれる。

日本で、海外の人と一緒に行動した
ときも、同じような場面に、
ぼくたちは出会うことになる。

日本に着いたばかりの留学生と共に、
東京や横浜の街を歩きながら、
ぼくは幾度となく、「新鮮な眼」で
これまでなんとも思っていなかった
場面に出会ってきた。

社会学者の真木悠介は、
「方法としての旅」と題する文章
(『旅のノートから』岩波書店)で
ぼくの眼をさらに豊かにしてくれる
世界の視方を教えてくれた。

「ひとり旅」にこだわってきた真木
悠介が、「二人・集団の旅」の豊饒
さを見直していく経験と思考のプロ
セスを綴る、感動的な文章だ。

真木悠介の思考は、いきなり、
垂直に深いところへ降りていく。

 

二人の旅、集団の旅の構造は、
人間にとって<他者>というものの
意味を、根底からとらえかえす原型
となりうる。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

真木悠介は、哲学者等が語る「他者」’
が、「私」と向かい合う形(他者が
私を見て、私が他者を見る)でとらえ
られていることに、目をつける。

それに対し、真木は<横にいる他者>
の視点を鮮烈に提示している。


…「同行二人」ということは、私が
二組の目をもって遍路することである。
集団の旅において私は、たくさんの目
をもって見、たくさんの皮膚をもって
感覚し、たくさんの欲望をもって行動
する。そして世界は、その目と皮膚と
欲望の多様性に応じて、重層する奥行
きをもって現前し、開示される。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

「ミッキーマウスの影絵」が標識に
あるのを見ることができたのは、
ぼくが他者の眼を「私の眼」として
影絵を見たからである。

同じように、
日本で海外の人たちの見るもの、
感覚するもの、欲しいものなどを
通じて、ぼくはぼく一人では見ること
がなかったであろう仕方で、日本を見、
日本を感覚し、日本を味わってきた。

真木悠介の「方法としての旅」には、
ぼくたちの日々の充実感や驚き、
それから幸せというものの内実が、
端的に、示されている。
真木悠介は上記に続けて、次のような
美しい文章を書いている。


関係のゆたかさが生のゆたかさの内実
をなすというのは、他者が彼とか彼女
として経験されたり、<汝>として
出会われたりすることとともに、
さらにいっそう根本的には、他者が
私の視覚であり、私の感受と必要と
欲望の奥行きを形成するからである。
他者は三人称であり、二人称であり、
そして一人称である。

真木悠介『旅のノートから』岩波書店
 

「横にいる他者」が去った後にも、
その余韻が、ぼくの中に静かに残り、
香港の風景は、いつもと少し違った
風景を、ぼくに見せてくれる。

そして、そのような経験や感覚は、
日常から離れていくような「旅」だけ
で感じるものではなく、
日常という<旅>の中でともにする
<横にいる他者>たちによっても、
ぼくの世界は豊饒化されているという
ことを感じる。

世界で出逢ってきた他者たち。
日本で、アジア各地で、ニュージー
ランドで、シエラレオネで、東ティモ
ールで、香港でぼくの<横にいた/
いる他者>たちが、ぼくの世界の内実
を、ゆたかにしてきてくれた。

「生きること」のゆたかさが、
そこに、いっぱいにつまっている。

 

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「お金・時間・自分」という問題系をつきつめて。- 真木悠介が照準する「みんなの問題」。

真木悠介が、追い求めてきた問題系は、お金、時間、自分(自我)という、ぼくたちが生きていく中で必ず直面していく問題系である。...Read On.


「真木悠介」は、社会学者である
見田宗介のペンネームである。

見田宗介は、「ペンネームは家出」で
あると、評論家の加藤典洋との対談で
語っている。
(『現代思想』2016年1月臨時増刊号、
青土社)

ペンネームを使うことで、
・締め切りがなく書きたいものを書く
・過去のイメージに縛られないで書く
ことができる、という。

その真木悠介が取り組んできた仕事は、
近代・現代に生きる誰もが直面する
問題に照準している。

 

1)真木悠介が照準する問題系

真木悠介が、追い求めてきた問題系は、
・お金
・時間
・自分(自我)
という、ぼくたちが生きていく中で
必ず直面していく問題系である。
直面する仕方は人それぞれである。

真木悠介は、これらの問題系に対して
それぞれ、次の著作を書いている。

●『現代社会の存立構造』(1977年)
●『時間の比較社会学』(1981年)
●『自我の起原』(1993年)

これら真木悠介の著作群を読んだから
といって、お金が増えるわけではないし、
時間が有効活用できるわけではないし、
また、エゴが解決するわけではない。

それは言ってみれば、著作、
『あなたの人生の意味 先人に学ぶ
「惜しまれる生き方」』(The Road
to Character)で、デイヴィッド・
ブルックス(David Brooks)がいう
ところの、
「履歴書向きの美徳」(履歴書に書ける
経歴)を磨くものではない。

むしろ、デイヴィッドが言う、
「追悼文向きの美徳」(葬儀で偲ばれる
故人の人柄)を磨いていくような著作群
である。

「履歴書向きの美徳」も、ぼくたちが
日々生きていく中では大切である。
ぼくたちの日々の「悩み」は、
これら3つの問題系に溢れていて、
ぼくたちは日々、それらに立ち向かって
(あるいは手放して)いく必要がある。

しかし、お金を一生懸命にかせぎ、
時間を徹底的に有効活用し、そして
「自分」の壁を表面的に乗り越えても、
それでも「生きにくさ」が残る(ことが
ある)。
どんなに自分ががんばっても、社会の
大きな壁にぶつかってしまうような
ところが存在している。

真木悠介は、「お金・時間・自分」の
問題を、「じぶんの問題」として
真摯に引き受けることで、だからこそ、
「みんなの問題」を引き受けてもいる。
「お金・時間・自分」という問題系は
真木悠介の生を貫き、
また、近代・現代に生きる人を貫く
生きられる問題系である。

 

2)『現代社会の存立構造』から。

ペンネームの真木悠介名で書かれ、
1977年に出された、
『現代社会の存立構造』は、
大澤真幸が総括するように、
「近代社会の、総体としての構造と
仕組みを、根本から理論化している」
書物である。

2011年から2013年にかけて、
見田宗介=真木悠介の『定本著作集』が
編まれた際には、しかし、
『現代社会の存立構造』は著作集から
外された。

「外した理由」を、加藤典洋との対談で
真木悠介は述べている。


『現代社会の存立構造』は読もうと
思ってくれた方はわかるように、
非常に抽象的で難解で面白くない。
つまり、誰にも読んでもらわなくても
いいから自分のノートみたいなものと
して…書いた。
…『存立構造』については、近代市民
社会の存立の構造みたいなものが
明確にできるという感じがあった。
…ただ、難しい議論だし、誰にも
読まれないだろうと。だから『定本』
から外しました。

『現代思想』2016年1月臨時増刊号、
青土社

 

それを見た社会学者の大澤真幸は、
それではいけないということで、
復刻版を、自身の解題を付して
出版している。

『現代社会の存立構造』は、
マルクスの『資本論』をベースとして、
しかし『資本論』に付着した政治性を
完全に切り離して、議論を進めている。

非常に難解だけれども、
この著作は、眼を見開かせる内容で
いっぱいである。
経済形態(商品、資本、合理化、
資本制世界の形成など)について、
普段、ぼくたちがその中に置かれ
ながら、でもその「前提」を問おうと
しないところに降り立っていく、
著作である。

そして、その議論は、
「時間」の問題に引き継がれていく。
著作『時間の比較社会学』は、
「時計化された生」を生きる
ぼくたちの生の成り立ちを明晰に
解明していく。

それから、真木悠介は、
「時間」につづく仕事として、
「自我論・関係論」を明確に意識し、
10年以上をかけて『自我の起原』を
完成させる。

真木悠介は、『自我の起原』の
「あとがき」で、自身の問いが純化
され、つきつめられていく方向を
こう表現する。


人間という形をとって生きている
年月の間、どのように生きたら
ほんとうに歓びに充ちた現在を
生きることができるか。
他者やあらゆるものたちと歓びを
共振して生きることができるか。
そういう単純な直接的な問いだけ
にこの仕事は照準している。…

真木悠介『自我の起原』(岩波書店)
 

お金、時間、自分(自我と関係)に
関する真木悠介の著作群は、
「ほんとうの歓び」をつきつめる
直接的な問いに応答する著作群である。
(それぞれの著作については、別途、
どこかで主題にしてみたい。)

その思索の一つの発端として、
『現代社会の存立構造』はあった。

 

3)「時代」の変わり目に。

そして、「時代」の変わり目に、
ぼくたちは直面している。

前出のデイヴィッド・ブルックスは、
「人生」という単位で「美徳」を語る。

経済を語るメディアは、景気・不景気、
あるいは産業構造変化として、数年から
数十年単位で、時代を語る。

真木悠介は、現代の諸相に見られる
ことも視野に入れながら、
人間の起原・社会の起原にまで降り
立ち、人間と社会の「未来」を語る。

カール・ヤスパースの言う「軸の時代」
というコンセプトにヒントを得て、
「現代」を新しい視野におさめる。
ヤスパースが「軸の時代」と名付けた
文明の始動期に、世界の思想・哲学・
宗教等が生まれ、世界の「無限性」に
立ち向かったことに、真木は眼をつけ
る。
そして今、世界は、世界の「有限性」
の前に立たされ、新たな思想とシステ
ムを要請している。

見方によっては、ぼくたちは、
二千年を超える時代の「変曲点」に
位置している。

ぼくたちが日々直面する、
「お金、時間、自分」という諸相は、
時代が変曲する局面にて、極限し、
先鋭化する。

世界の金融危機、経済活動と時間の
関連性と諸問題、それから、壊れる
「自我」など、
世界の「無限性」はその極限の地点
で、様々な問題を先鋭的に創出して
きている。

その中から、それらを乗り越えて
いこうとする様々な「試み」が
出てきている。

「お金」をとってみても、
ローカルカレンシーから、ベーシック
インカム、そしてビットコインなど、
「試み」が繰り返されている。

そして、この「変曲する局面」には、
「お金・時間・自分(他者との関係)」
を根本において理解しておくことが
大切であると考える。
「履歴書向きの美徳」だけでは、
やはり足りないのだ。

人生という単位で
「追悼文向きの美徳」を追求し、
数年から数十年という単位で
「パラダイム変化」を志向し、
数百年から二千年単位で
「思想・システムの構想」の冒険
に加わることが求められるのだ。

真木悠介(見田宗介)が照準して
きた仕事は、このようにして、
「みんなの問題系」である。

ここでいう「みんな」とは、
今現在生きている「みんな」だけ
ではなく、過去から未来にまで
照準する「みんな」であると、
ぼくは思う。

お金・時間・自分、という問題を、
生きられる問題として、真摯に
徹底的に引き受けてきた真木悠介の
仕事は、これからの「未来」の道と、
それを支える思想とシステムを構想
する際に、際限のないインスピレー
ションを、ぼくたちに与えてくれる。


 

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社会構想, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

「マーケティングとは?」にどう応答するか?。- セス・ゴーディン(Seth Godin)の「語り」に震える。

「マーケティングとは?」という問いかけに、ぼくたちはどのように応答することができるだろうか。...Read On.


「マーケティング」という言葉には、
時代につくられた意味が詰め込まれて
いる。

「マーケティングとは?」という問い
かけに、ぼくたちはどのように応答
することができるだろうか。

世界的なマーケッターである
Seth Godin(セス・ゴーディン)は、
James Altucherによるインタビュー
の中で、彼の以前の著書『Tribes』
に触れながら、このように語る。

 

…『Tribes』が言っているのは、
こういうことなのです。
誰もが立ち上がり、リードすること
ができる今となって、
つまり、誰もがメディアチャネルを
持つことができ、誰もが繋がりを
つくることができる中で、
あなたは(人々を/トライブを)
リードすることを選択しますか?
そして、もしあなたがリードすると
したら、誰を、あなたはリードしま
すか?
どのように、あなたがリードする
人々を繋げていきますか?
それが、マーケティングなのです。
でも、それが生きること(life)
でもあるのです。

Podcast: The James Altucher Show
Ep. 194: Seth Godin

 

ぼくは、Sethがこのように語る
のを聴きながら、身体が震えた。

マーケティングという言葉の表層
の意味合いが、Seth Godinの語り
をたよりに、一気にコアの部分に
到達したような感覚である。

だから、何度もこの文章を見て、
幾度もインタビューのこの部分を
聴く。

ぼくの思考と心に、
この「語り」をしずかに通過させる。

Seth Godinの著書『Tribes』
(邦訳:『トライブ - 新しい“組織”
の未来形』)は、Sethの2008年の
仕事である。

原書に付された副題は、日本語の
邦訳とはまったくことなり、
「WE NEED YOU TO LEAD US」
である。

それは、あなたへの、ぼくへの、
「呼びかけ」である。

『Tribes』から5年程を経過して、
Sethはとても素敵な書籍を、
オンラインでのオーダーだけで、
そしてハードカバーのみで、世に
放った。

その書籍のタイトルも、
あなたへの、ぼくへの「呼びかけ」
である。

『WHAT TO DO WHEN IT’S
YOUR TURN』
(「あなたの順番がきたときに
すべきこと」)

副題は、このように加えられる。

[and it’s always your turn]

そう、「そして、いつも、あなた
の番だよ」と。

Sethは、これらの仕事を通じて、
人々をリードし、つなげている。
「マーケティング」している。

そして、これが「生きる」という
ことであるところに、Sethの生は
賭けられている。

 

追伸:
Seth Godinの『Tribes』は、
ぼくにとって「ずっと気になって
いたけれど読まずにいた本」の一冊
でした。
ぼくは、早速、原書をキンドルで
手に入れました。

発刊から10年近く経って、ようやく
ぼくが追いついたようです。
でも、10年もかかってしまった。
そして、Sethは、さらに、
「はるか、その先」に行っている。


 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

言葉が言葉としての力を取り戻していくことに向かって。

小説家だから「社会的発言」をしなくてもよい、とは考えていない村上春樹は、この世界の状況の中で、
「社会的発言」の方法を模索していることに触れている。...Read On.


作家・村上春樹は、
川上未映子によるインタビューの中で、
デビュー当初に、社会的発言をして
こなかった理由として、
学生運動の時期に「言葉が消耗されて
無駄に終わってしまったことへの怒り」
を語っている。

小説家だから「社会的発言」をしなく
てもよい、とは考えていない村上春樹
は、この世界の状況の中で、
「社会的発言」の方法を模索している
ことに触れている。

 

…かつてよく言われたような、「街に
出て行動しろ、通りに出て叫べ」と
いうようなものではなく、じゃあどう
いった方法をとればいいのかを、模索
しているところです。メッセージが
いちばんうまく届くような言葉の選び
方、場所の作り方を見つけていきたい
というのが、今の率直な僕の気持ちで
す。

『みみずくは黄昏に飛びたつー
川上未映子訊く/村上春樹語るー』
(新潮社)

 

この「模索」は、言葉が言葉としての
力を失ってきた世界では、容易では
ない。

そして、深くほりさげられた思想も
どこかで「通俗化」されてしまうよう
な磁場の中に、ぼくたちはいる。

社会学者・見田宗介は、このように
ひとつの論考を書き始めている。

 

どんな思想も、通俗化という運命を
逃れることができない。制度として
の「仏教」とか「キリスト教」、
通俗の語彙としての「プラトニック
・ラブ」とか「エピキュリアン」、
公式化された「マルクス主義」とか
「フロイト主義」…。…これらの
ものは、…第一義的には、それぞれ
の社会現象である。…それぞれの
思想者の名前を呼びよせ、ある特定
の方向に一面化し、単純化し、平板
化することを愛好し、必要とさえす
る力は、時代時代の社会の構造の力
学の内に根拠をもっている。思想が
大衆をつかむのではなく、大衆が
思想をつかむのである。

「声と耳 現代文化の理論への助走」
『岩波講座 現代社会学:現代社会
の社会学①』

 

ひとつの思想を、その深みにおりて
読み、理解することがなされないま
まに、それは「通俗化」されていく。
社会的発言は、社会の力学に絡め
取られてしまう。

このような力学を敏感に察知する
村上春樹は、より直接な社会的発言
を、なかなか出せずにきている。

ただし、村上春樹がいくつかの受賞
式という、世界の注目が集まりやす
い場で、社会的なメッセージを、
受賞スピーチに、丁寧にのせる形で
行ってきたことが、みてとれる。
「通俗化」の網を、すりぬけるよう
な言葉が、丁寧に選びとられている。

それでも、社会の力学は強力である。
言葉が言葉としての力を取り戻して
いくためには、この「社会の力学」
を組み替えていくことが、方法の
ひとつである。

社会とは「関係」のことである。
関係がくずれている社会には、
言葉はただくずれていくだけである。
関係の深さが言葉の「真実さ」を
つくり、あるいは逆に支えられる。

ただし、「社会」といっても、
それは見ることもできない。

ぼくたちが、その関係性をつくり
あるいは取り戻していく起点は、
「交響圏」「親密圏」などと言われる
圏域からである。

家族であり、友人であり、親密な
集まりである。
これらの関係を日々、豊饒に生きて
いくこと。

そのことが、言葉が言葉としての力を
取り戻す土壌を、つくっていくのだと
ぼくは思う。

 

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

「ぼくは、ブログを、あと何回書けるだろうか?」- 「有限性」を味方につける。

「ブログを毎日書く」ということそれ自体は、楽しさと共に、それなりに大変なことであることを経験している。...Read On.


「ブログを毎日書く」ということそれ
自体は、楽しさと共に、それなりに
大変なことであることを経験している。

ブログを毎日書くことの「筋肉」が
まだできあがっていないこともある
けれど、少しづつ「筋肉」をつけて
きていても、それなりに、大変だなあ
と感じる。

ほんとうに書きたいことを書いても、
大変である。
ほんとうに書きたいことだから、
大変であるとも言えるけれど。

その「大変だなあ」と感じたときを
言葉にすると、
「1年間に365回も書いて、
撮った写真と共にアップロードする
のかあ」
という感じである。

そんなことを考え感じながら、
走るためにジムに向かっている最中
に、ぼくの言葉が、字義通り、逆転
したのだ。

「ぼくは、ブログを今後も毎日書いて
いくとして、生きている間に、あと
何回書けるだろうか?」と。

ブログを書く「仮定」として、
・毎日書くこと
・100歳~120歳まで書き続けること
とした場合、ざっくり計算して
「あと2万から3万回」であった。

これが多いか多くないかは、
人それぞれの感覚の仕方だけれど、
少なくとも、ぼくにとっては「少ない」
という感覚であった。
「あと、2万回から3万回しかない」
という感覚である。

上で書いた「仮定」は、
このぼくの感覚を「てこ」にして
次のように強化された。
・(やはり)毎日書こう
・(やはり)100歳~120歳まで、
 この世に生がある限り、書こう

昨年から日本でもベストセラーに
なっているという著書『LIFE SHIFT
ライフ・シフト)』にあるように、
ぼくたちは人生100年時代に突入して
いる。

歴史学者Yuval Harariの言うような
人類の次の課題である「不死」へは、
ぼくが生きている間は技術が届かない
だろう。
(ただし、他方で、身体だけを変えて
「蘇らせるような」技術開発は進んで
いるようだ。この先10年~20年で
それなりの開発成果がでるかもしれな
い。)

だから、最近、世界最年長者(生まれ
が19世紀)の方が他界されたとのニュ
ースがあったように、120歳ほどまで
が現状では寿命の可能帯であろう。
(19世紀の方が亡くなられたのは、
ぼくはとても残念に感じた。そして、
その方は「世界」をどのように見て
感じていたのか、と思う。)

不死の願いはぼくには(今のところ)
ないけれど、生を生ききるという
観点からは、ぼくは健康に長生きする
をことを願い、そのために行動したい。
ぼくたちは「生かされている」のでも
あるから(毎日、食という形で、大切
な「命」をいただいて生きている)。

というわけで、ぼくは生きている限り
は、書くことができる限りは、毎日、
書いていきたい、と思う。

人生を「終わり」から見て、行動や
イベントを「数値化」したときに、
ぼくたちは、そこで「有限」に出会う。

・人生でご飯を食べられるのは「*回」
・人生で大切な人とお正月を迎えられるのは「*回」
・人生で読める本は毎日1冊読んでも「*冊」
・人生で・・・は「*回」
等々。

この「有限性」の感覚は、ときに、
人生を虚しいと感じさせることもある。
しかし、この「有限性」は、その有限
な1回1回を愛おしいものとして、
感覚することもできる。
人生の「有限性」が生を豊饒化する。

世界で、いろいろな人たちに出会って
きた。
ニュージーランドで、西アフリカの
シエラレオネで、東ティモールで、
ここ香港で。
ある人(たち)との「出会い」は
無限であるように感じても、それは
有限である。
世界がいくらSNSでつながっても、
一緒に過ごす時間は有限である。
でも、だからこそ、出会いを愛おしく
感じることができる。

これからの人類の課題(であると共に
ぼく自身の研究と生き方の課題)の
ひとつは、「有限性/無限性」のテー
マである。

「有限性」を味方につけるのだ。

でも、そこには、きっと、
「無限な『何か』」が内包されている
と、ぼくは思う。

 

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「人工知能=AI、VR、IoT, ロボティクスなど」の動向を追う方法。- 水平方向と垂直方向に構える。

人工知能=AI、VR、IoT、ロボティクスなどが、次の「時代」をつくっている。...Read On.


人工知能=AI、VR、IoT、ロボティクス
などが、次の「時代」をつくっている。

人工知能が人間の能力を超えるとされる
シンギュラリティを2045年に迎える、
など、議論も、メディアでの情報発信も、
実際の研究開発も、盛んに行われている。
また、実際の運用も、話題になりやすい
ことから、話題にならないことにかけて、
広がってきている。

しかし、「個人」に引き寄せることでは、
まだまだ、多くの人が、「見物」「期待
と関心」「とまどい」などのレスポンス
に留まっているような状況である。
いずれにしろ「新しい時代」はつくられ
ている。

雑誌「Wired」の創刊編集長の経歴の
あるケヴィン・ケリーが言うように、
「Embrace the future」
が、大切な心構えとなる。
これらの「新しい流れ」に抗して闘うの
ではなく、「未来を積極的に受け入れて
いく」ことである。

ぼくも、同じスタンスである。
これらの「新しい流れ」の議論は、
・「光の巨大」
・「闇の巨大」
に分かれやすい。

新しい技術がもたらす世界の輝かしさ
のみだけを喧伝する「光」の議論と、
そのような世界の危険・リスクに終始
してしまう「闇」の議論との分裂である。

そうではなく、
双方を含め「Embrace the future」の
心構えと行動で、
ぼくたちは、新しい時代に関わっていく
ことができる。

だから、そのためにも、動向を追って
いく必要がある。
方法は、その方向性において、二つに
分けられる。

  1. 「水平方向」への方法
  2. 「垂直方向」への方法

これらについて、下記にて簡単に説明
を加えておきたい。

 

(1)「水平方向」への方法

水平方向は
例えば、情報源である「メディア」を
水平に広げていくことである。

センセーショナルに情報が発信される
日々の「ニュース」だけでなく、
落ち着いて考察された「書籍」などに
広げる。

「書籍」をとっても、最新動向を取り
上げるものから、「基礎」や「フレー
ムワーク・見方」を固めるためのもの
もある。

初心者としては、日々のセンセーショ
ナルなニュースに興味をもちつつ、
しかし、基礎的な書籍で、基礎固めを
しておくことが大切である。
基礎がないままに、ニュースやブログ
などの情報に触れることには、
「積極的に建設的に未来を受け入れて
いく」上では、不十分である。

さらに大切なのは、
「文字」だけでなく、
「映像」にも広げていくことである。

YouTubeなどの映像を見てみる。
例えば、USCICT(University of
South California Institute for
Creative Technologies)が、
YouTubeに動画をアップロードして
いる。
バーチャルな心理カウンセリングなど
の進展を見ることができたりする。 

「映像」がぼくたちに与えてくれる
ものは、思っている以上に大きい。
聞いた話としてではなく「現実性」
として眼前する。

「分野」も水平方向に広げていきたい。
 

(2)「垂直方向」への方法

ここでの「垂直方向」は、時間軸で
ある。
(なお、垂直方向は「深さ」という
見方もできる。)

「今」はもちろんのこと、
過去と未来に広がる「通時性」の中で
ものごとを見て、考えていく。

過去の歴史から、ありうる未来まで、
思考の広がりを広げていく。

未来の見方も、いろいろにある。
先述のケヴィン・ケリーの著作
『The Inevitable』(邦題:
<インターネット>の次に来るもの 
未来を決める12の法則)なども、
参考になる。

水平方向と垂直方向に展開される
メディアと思考の経験の中で、
「Embrace the future」
を、ぼくたちは形にしていくことが
できる。

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「未来」を考える拠り所。- 加藤典洋著『人類が永遠に続くのではないとしたら』と向き合って。

文芸評論家の加藤典洋が、日本の「3・11の原発事故」をきっかけに、「私の中で変わった何か」に
言葉を与えた著書、『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)。...Read On.

文芸評論家の加藤典洋が、日本の
「3・11の原発事故」をきっかけ
に、「私の中で変わった何か」に
言葉を与えた著書、
『人類が永遠に続くのではないと
したら』(新潮社、2014年)。

実はまだ、この文章を書きながらも、
この著書と真剣に向き合っている。
400頁におよぶ書籍の折り返し地点
が見えてきたくらいのところに、
ぼくはいる。

向き合っている途中だけれど、
いくつか書いておきたい。

(1)『現代社会の理論』への応答

加藤典洋の『人類が永遠に続くので
はないとしたら』(新潮社)は、
大分前に手に入れていたけれど、
ずっと読めずにいた書籍である。

読めなかった理由のひとつは、
この書で展開される「執念の考察」
(橋爪大三郎)と真剣に向き合わうこと
を、ぼくに要請したからである。
ぼくの側に、その準備ができていなかった。

そもそも、この書籍を手にとったのは
この著書が、社会学者の見田宗介の
名著『現代社会の理論』への応答と
展開を主軸とする論考であったからで
ある。

タイトル『人類が永遠に続くのではない
としたら』が、見田宗介への応答を
告げるものである。

ちなみに、20年ほど前に書いたぼくの
修士論文も、見田宗介の『現代社会の
理論』に刺激を受け、「人類が永遠に
続くのではないこと」を引き受ける形で、
経済社会の発展(また途上国の開発)の
問題を論じた。

見田宗介は、現代社会がそのシステムの
魅力性と共に、「外部の臨界」で、
環境・資源、貧困などの「外部問題」に
直面していることを指摘する。
地球は「有限性」の中におかれている。
この乗り越えの未来社会構想を、
「光の巨大」と「闇の巨大」を、ともに
見はるかす一貫した理論のうちにおさめた
ことに、見田の著書の意義はある。

「光の巨大」と「闇の巨大」の理論の分裂
は、加藤典洋が「近代二分論」と呼ぶ状況
である。
「ゆたかな社会」を高らかに喧伝する
「(光の)近代論」と、
「成長の限界」を
説く「(闇の)近代論」が、まじわること
なく、分裂してきた状況がある。

闇の巨大を説く近代論(『成長の限界』
や『沈黙の春』など)は、環境問題や
資源枯渇の問題などを眼前にみせる。
「心のやさしい」学生などは、
自分の生き方に「罪的な気持ち」を
抱いてしまう。
指摘の「正しさ」と共に、この近代論
が説く何かに、ぼくは、感覚として
「居心地の悪さ」を感じてきた。

見田宗介は、「全体理論」として、
「光」と「闇」を統合する視点を提示
している。

加藤典洋は、3・11後の状況の中で、
1996年に発刊された『現代社会の理論』
の「重要さ」を指摘すると共に、深く、
そして一歩先に進めていく視点と共に、
彼の著書で展開している。

この箇所だけでも、加藤の書籍から学ぶ
べきところだらけだ。

 

(2)「リスク」の視点

加藤典洋は、見田の理論の「革新さ」を
見抜き、どこまでも深い読解を展開していく。

しかし、加藤が不満に思うただひとつの
ことは、見田の理論では「地球の有限性」
が「外部問題」としてしか捉えられていな
いことである。

加藤は、3・11後の、原発の「保険の
打ち切り」(*保険会社が事故を起こした
原発の運転作業や収集作業の「リスク」を
引き受けられない事態)を見聞きするうち
に、産業資本システムの「有限性」が、
システムの「内部」からも起きている、
という視点をとりいれている。

加藤は、ベック著『リスク社会』の深い
独自の読解を手掛かりに、この「システム
内部からの瓦解」を、見田の理論につなげ
ていく。
(加藤典洋によるベックの読解の鮮烈さ
に、ぼくは深く感銘を受けた。)

ベックの理論は、加藤の言葉を借りれば
「(富の)生産からリスク(の生産)へ」
という視点である。
そして、リスクがバランスを失い、回収
不能なリスクをつくりだしてきてしまって
いる。
つまり、リスクが生産を上回るものになっ
てしまっている。

加藤は、3・11後の原発の保険打ち切り
に、そのことを見た。
この状況は、システムはその「内部」に
システムの「臨界」をつくりだしてきたと
いうことである。

後期近代(現代)は、資本制システムの
「外部」にも「内部」にも包囲されている。
地球の「有限性」に直面している。

見田はこの「有限性」を直視し、
「有限な生と世界を肯定する力を
もつような思想」をうちたてる方向性
へと論を進める。
加藤はこれを引き受け、この書の後半
部分を書いている。
(*これからじっくり読みます。)

 

(3)「未来」を考える拠り所。

ここで、ひとつ取り上げたいのは、
このような「未来」を考える拠り所で
ある。

加藤典洋は、後期近代(現代)を超えて
いく「脱近代論」の二つの方向性を、
地球という「船」が沈んでいくことに
かけて、次のように言っている。

 

…脱近代論の論とはいえ、船が沈まない
ようにしようという論と、これからは
沈みかかった船の上で未来永劫生きて
いくんだという論とでは、当然、大いに
違うだろう。

加藤典洋『人類が永遠に続くのではない
としたら』(新潮社)

 

この二つの違いに対応させる形で、
加藤は
・「リスク近代」という考え方
・「有限性の近代」という考え方
と呼んで、次のように書いている。


「リスク近代」の考え方は、どうすれば
地球という船を沈めないですむだろうか
と、問う。これに対し、「有限性の近代」
の考え方は、どうすれば沈みかねない船
の上で、人はパン(必要)だけでなく、
幸福(歓喜と欲望)をめざす生を送る
ことができるだろうか、ともう一つその
先のことを、問う。

加藤典洋『人類が永遠に続くのではない
としたら』(新潮社)

 

加藤典洋は、「リスク近代」から、
加藤が呼ぶ「有限性の近代」へと論を
すすめていく。
後者は、有限性の中に「無限」をまなざす
考え方である。

「有限性の近代」は、人間とは何か、
などを自問しながら、論じられる。
人は、パン(必要)だけでは「生きる」
ことができない。
「有限性の近代」をひきうけるには、
人間や社会を根底的にとらえなおしていく
ことが大切になってくる。

この捉え直しは、「近代の中」だけでは
なく、近代前、あるいは人類史のような
地点にもさかのぼる捉え直しである。

加藤典洋の視界も、そこまで広がり、
深くきりこんでいる。
見田宗介が拠り所のひとつとする
バタイユの視界も、広く深い。
また、『サピエンス全史』で著名と
なったYuval Noah Harariの視界も
人類史に広がっている。
Yuval Harari著『Homo Deus』は、
ある意味で、「有限性の近代」を
ひきうけていく論考である。

「未来」を考える拠り所は「今」にある
と言われる。
それは、一面では正しいけれど、
「今」だけでは見えないこともある。
(「今」の中に、過去も含まれるという
「言い方」もあるけれど。)
「今」を相対化しつつ、人間や社会
そして自然を今一度、根底的に捉え直す
ときに、ぼくたちはき
ている。

人や家族、組織や社会などについて展開
する理論や議論において、
ぼくはしばしば「違和感」を感じる。
「居心地の悪さ」を感じることがある。

これら「違和感」「居心地の悪さ」は
それら理論・議論が前提としている人や
社会の「あり方」のすれ違いからきて
いたりする。
それは、「リスク近代」を説く者と、
「有限性の近代」をめざす者との対話が
すれちがうであろう状況と、似ている。

「未来」を考える拠り所として、
根底的な思考に降りていくこと。
人間とは、社会とは、近代とは、無限とは。
根底的な思考を、後期近代(現代)は、
要請してやまない。
「沈みかかった船の上で、これから未来
永劫生きていこう」と誓う中で。


ぼくは、見田宗介のいう「有限な生と世界
を肯定する力をもつような思想」をつくり、
そしてその肯定性に生きていくことを、
自身の生涯をかけて引き受けていきたい。

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書籍『<わたし>と<みんな>の社会学』(見田宗介・大澤真幸)に教えられたこと

社会学者の見田宗介と大澤真幸による書籍『<わたし>と<みんな>の社会学』が、2017年3月31日に、世に放たれた。...Read On.

社会学者の見田宗介と大澤真幸による
書籍『<わたし>と<みんな>の社会
学』が、2017年3月31日に、世に放た
れた。

ぼくの尊敬するお二方の対談(「連山
縦走 われわれはどこから来てどこへ
行くのか」)と、
大澤真幸の論文(宮沢賢治『銀河鉄道
の夜』再読)からなる書籍。

「対談」は、リチャード・ドーキンス
などの生物学、動物社会学、幸福と
正義、宮沢賢治、貨幣経済、「軸の
時代」、資本主義の未来までと多岐に
わたりつつも、一言一言が深い思考と
論理に支えられている。

読者の思考の深さによって、見えて
くるものが変わってくる。

この書籍を通じて、教えられたこと
は数限りなくあるけれど、3つに絞る
と次の通りである。

(1)内容:「幸福と正義の二重構造」

対談の内容に入り込むと、際限のない
インスピレーションと尽きない議論の
種が、ひろがっている。

ここでは、最近ぼくが考えていること
とつなげて、一つだけ挙げると、
「幸福と正義の二重構造」がある。

書籍の帯の裏にも抜粋があるけれど、
見田宗介は、このように述べている。


幸福の単位は、コミューン的な小さい
集団の中の<魂の深さ>を大事にして
いくべきです。ただし、何度もいい
ますが、それを大きくしようとしては
いけません。大きな社会では、ドライ
なルールが重要です。幸福のユニット
と正義の範囲は分けて考えるのです。

見田宗介・大澤真幸
『<わたし>と<みんな>の社会学』
(左右社)


見田宗介がこれまで展開してきた、
「交響圏とルール圏」に照応する
ものである。

ぼくにとって面白いのは、
・「幸福と正義」の対置
・「幸福のユニット」という言い方
である。

「言い方」を少し変えただけで、
「角度」を少し変えただけで、
見える論理や感覚がある。

なお、見田宗介が展開してきた
「軸の時代」の議論も、
ぼくを刺激してやまない。


(2)対談の仕方

それから「対談の仕方」である。

議論の「進め方」や、
議論が「深まっていく流れ」に
心が動かされる。

見田宗介の「存在」により、
大澤真幸から本質的な話が
ひきだされていく。

また、「資本主義」の議論では、
見田宗介は大澤真幸に、
「資本主義の定義」を確認しながら
議論のすれ違いがないよう、
丁寧に議論を進めている。

言葉を大切にするお二方の議論に
ひきこまれる。

 

(3)尽きない議論

見田宗介の著書も対談も講義も、
真摯な読者や参加者の中に「思考の
芽」をまく。
そこから、尽きることのない「思考
の芽」である。

見田宗介は、数々の著書の「あとがき」
などで、くりかえし、尽きることの
ない議論のモチーフを投げかけること
を記している。

「こうだ、ああだ」ではなく、
そこから、くりかえし立ち上がる
トピックたちである。

この書籍も、くりかえし立ち上がる
問いを発し、議論を進め、そして
また次の問いが立ち上がる。

この問いと応答の中に、
ぼくたち自身のことはもちろんの
こと、「人と社会の未来」を考える
「思考の芽」がつまっている。



ぼくは、この小さな、でも美しい
書籍に、今後何度も立ち戻ってくる
と思う。

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「良い人」と「悪い人」を考える冒険 - シエラレオネ・東ティモールで考えたことを、香港の晴れた日に考える。

世界のいろいろな国・地域で、いろいろな国・地域の出身の人たちと話をしていて、「良い人」と「悪い人」の話になることがある。...Read On.

世界のいろいろな国・地域で、いろいろ
な国・地域の出身の人たちと話をして
いて、「良い人」と「悪い人」の話に
なることがある。

国境を越えての会話というコンテクスト
も作用し、
「良い人」と「悪い人」は世界どこにも
いる、という話になっていく。
だから、「悪い人」には気をつけよう、
という地点に会話が落ちついていく。

この視点は、一面では「正しい」けれど
ぼくはいつも気持ちがさわぐ。

より正確には、
人は誰しも(「例外」はどこでもあるが)
良い人にもなるし、悪い人にもなりうる
と、ぼくは思う。

映画「Star Wars」のダース・ベイダー
は「悪い人」だけれど、暗黒面のフォー
スに屈っする前は「良い人」であった。
また、悪い人でありながら、内奥には
「良い人」を抑えこんでいたりする。

ぼくは、2003年、内戦終結直後の
シエラレオネに、難民(国内避難民)の
緊急支援のため派遣された。

戦争の「傷跡」が、なまなましく、
ひろがっていた。
人の身体の傷はもちろんのこと、
人の心の傷は、心の原型をくずすところ
まで深いものであった。

落ち着きとある程度の秩序を取り戻して
いたシエラレオネだが、
いつ何が起こるかはわからない。
万全の安全対策で、気が張る生活が
つづいた。

そんな環境に身をおきながら、
ぼくは、時々、自分の内奥にひろがる
「暗い湖」を見ていた。
もし、この地で、秩序が壊れ、内戦に
突入したら。
戦いの只中におかれ、戦闘員として
生きのびていかなければならないと
したら。
ぼくは正気ではいられない
だろうという感覚がわきあがる。
「良い人」でいられる自信が「暗い湖」
の底にきえてしまった。

今(当時)は、国連の元で活動する
部隊のもとで、ひとまず「安全な環境・
秩序」が、つくられている。
だから、緊急支援を担う「良い人」で
いられる。

東ティモールにいたとき、
2006年、この「安全な環境・秩序」
が、くずれかかった。
首相は事態を収取できず、他国の軍隊
の出動を要請した。

オーストラリア軍がすぐに出動となり
空港に軍隊が配備されたりと、
秩序の回復が早急になされた。

東ティモールでは、独立以前の、
独立闘争の残酷で過酷な話を、
聞いていた。

そんな話を聞くたびに、ぼくは、
ぼくがその状況に置かれたら、どの
ように振るまうだろう、と考えずには
いられなかった。

このような経験を経て、ぼくは、
人は誰しもが良い人にもなるし、
悪い人にもなることを、実感値として
つみあげてきた。

だから、人として、また社会として
できることは、すくなくとも、
人が「悪い人」にならないような
環境をつくりだしていくことだ。

大川正彦が著書『正義』のなかで、
ジューディス・シュクラーの「恐怖
の自由主義」(<恐怖からの自由>
を軸にすえる自由主義)をとりあげ
ている。

この言葉と議論を、シエラレオネで、
東ティモールで、ぼくは、自問して
いた。

歴史学者ユバル・ノア・ハラリは
人間(サピエンス)が乗り越えて
きた問題・課題のひとつとして、
「戦争」を挙げている。

<恐怖からの自由>を用意する素地
が、社会にはできたのだ。

世界で、今も続いている「恐怖」の
現実の中で、しかし、希望は開かれて
いるはずだ。

ぼくたちは、誰しもが「悪い人」に
なりえてしまうことを身に引き受け、
そこから希望を開いていくという、
人それぞれの「責任」(response - 
ability=応答可能性)を、この時代の
「過渡期」で担っている。

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社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

4年たっても、忘れない動画 -「Creativity x Skill x Heart」がつくりだす感動。

YouTubeでは毎日、数限りない動画がアップロードされている。そのYouTubeの中で、見てから4年たっても、忘れない動画がある。... Read More.

YouTubeでは毎日、数限りない動画
がアップロードされている。

そのYouTubeの中で、見てから
4年たっても、忘れない動画がある。

ぼくは、折にふれて、その動画を思い
出す。

Doveの「Real Beauty Sketches」
である。

2013年に動画がアップされ、以来、
短いバージョン(3分)と長いバージョ
ン(6分)をあわせて、7千万以上も
観られている。

【YouTubeリンク】
- Dove: Real Beauty Sketches (6mins)
- Dove: Real Beauty Sketches (3mins)
- 3分バージョンの日本語字幕版

「Real Beauty Sketches」プロジェ
クトの「すごいところ」は、次の3つ
のポイントに集約される。

  1. 「手法」の斬新さ
  2. 才能の「使い道」の転回
  3. セルフ・イメージの解放

手法の斬新さにはじまり、
「犯罪者の似顔絵師としての力」を
「美しさ」を軸に転回させる仕方に
ぼくは心が動かされる。

参加した女性たちのセルフ・イメー
ジ(ここでは狭義の意味)が、
描くという力で、「見える化」され
ていくことにも、ただただ、感動
してしまう。

その「貧しい」セルフ・イメージが
描く力で、瞬間的に、転回される
光景に、言葉がでない。

映像をつたって、それが伝わって
くる。

そして、これら3つが美しい映像で
紡がれ、そこに「物語」を内包して
視聴者に届けられる。

このプロジェクトを観るたびに、
自分のセルフ・イメージに思いを
よせ、そしてぼくもこんな映像が
つくれたらと思う。

「動画」というメディアは、時代を
経るにつれて、その「影響力」を
増してきている。
SNSでも、ホームページでも、
動画はあらゆる場面でとりこまれて
きている。
VRは新しい世界をひらいていく。

「Real Beauty Sketches」は、
人を、あるいは人との関係性
(セルフ・イメージは本質的に関係
性の投影でもある)を、
クリエイティブに、感動的に、
変える力をもつ。

「Creativity x Skill x Heart」
= 感動(と行動)

感動は、きっと、参加者たちの
行動も創出していったはずだ。

ぼくの「個人ミッション」は、
同じ方向性をもっている。
描く力を魅せてくれたGil Zamora氏
に深く感謝である。

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「戦争の反対語は『文明』」から考える - 人類の「未解決」の課題。

「文明に向かって」(Toward civilization)
と題されたSeth Godinのブログ(英語)

は、次のような引用ではじまっている。

 

If war has an opposite, it’s not peace,
it’s civilization. 
(inspired by Ursula LeGuin writings
in 1969)

 

「戦争の反対語があるとすれば、
それは平和ではなく、文明だ。」という
言葉に考えさせられてしまう。

文明を逆戻りするという思想への警鐘
でもあるけれど、ここでは、3段階で
議論の方向性をすすめておきたい。
歴史家Yuval Noah Harariと
社会学者の見田宗介を手がかりに。

 

(1)「サピエンス」の共同性

歴史家のYuval Harariは、われわれ
人類(サピエンス)の特徴は、
他の哺乳類に見られない「大規模に
協力できること」を挙げている。
それを媒介するのが「物語」である。
人類は、物語を媒介に、協力すること
ができる。

「お金という物語」は、文明社会、
近代・現代の人たちの全域に広がって
きたものだ。

ただし「物語」はいろいろにつくられ
それぞれの「共同体」に共有されていく。

「物語」によっては破壊的な物語が
あり、争いや大規模な戦争につながる
こともある。

 

(2)「戦争」の次にくる課題

ただし、Yuval Harariが著書『Homo
Deus』で指摘するように
人類は「飢饉、伝染病、戦争」を
管理可能な課題にまでもってきた。

テロリズムも、問題だけれども、
テロで亡くなる人は、例えば、世界の
「自殺人数」よりも少ない。

Yuval Harariは、人類が次に直面する
課題は、次の3つとしている。

・不死
・幸せ/至福
・「神的な領域」に入ること

この内、戦争への直接的な契機として
「幸せではないこと」がありえる。

だから、この「幸せ」の領域を
人類がつきつめて解決していけば、
戦争はさらに管理可能なものとなる
可能性がある。

「文明」をつきつめていき、「神的
な領域」へ人類をアップグレード
させる工学的アプローチ(生物、
サイボーグ、非有機物)は、そのこと
に大きく貢献するかもしれない。

 

(3)「関係の絶対性」という課題

工学的アプローチで、例えば脳や体内
分泌等をコントロールするなどして
「幸せ」をつくりだす方向性は、
しかし、社会の構造がつくりだす
「関係の絶対性」とその帰結の問題を
残してしまう。

社会学者の見田宗介は、「文明の基本
の思想の原型たち」(巨大な思想、
哲学、宗教など)が解決し残した課題
として、この「関係の絶対性」を挙げて
いる。

「関係の絶対性」とは、
ぼくたち個人の良心や思想などに関係
なく、社会が、客観的な関係として
創出してしまう「絶対的な敵対関係」で
ある。
(ぼくは、小さいころから、この
客観的な敵対関係を「自分の問題」と
して悩み続けてきた。)

貨幣経済などを媒介に、社会は、
客観的に・遠隔的に、他の社会を収奪
している。

見田宗介は「911」を振り返り、
テロリズムの撲滅に対して次のように
展開している。


世界中に逃げ散ってひそむテロリズム
の息の根を止めることができるのは、
アラブと五つの大陸の貧しい民衆だけ
です。
 アラブと五つの大陸の貧しい民衆が
「おまえはいらない」というときに
はじめて、テロリズムはほんとうに
消える。

見田宗介『社会学入門』(岩波書店)
 

「関係の絶対性」は、テロリズムを
つくり、希求し、容認する人たちを
排出していく。
「関係の絶対性」は、テロリズムを
正当化してしまう。

文明を逆戻りするのではなく、文明を
つきつめていくことは、さしあたり
ただしい。
人類は、文明を通じて、3つの課題
(飢饉、伝染病、戦争)を乗り越え
つつある。
しかし、文明の「つきつめる方向性」
と「つきつめ方」を、想像力豊かに
構想していくことがもとめられる。

「文明の思想の原型たち」は、見田
宗介がいうように、「関係の絶対性」
を未解決の問題として残してきた。

だから、この「関係の絶対性」を
転回する思想がもとめられる。
そこで、Yuval Harariが指摘する、
人類の大規模な共同性が、交錯して
くる。
そして共同性をつくる「物語」。
Yuvalがいうように、そこには
大胆な「イマジネーション」が必要だ。

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総論, 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima 総論, 社会構想, 成長・成熟 Jun Nakajima

『包括的な「開発と自由」論」(仮名) - 15年前の「未完」の作業をひきついで。

15年ほど前の2002年1月、ぼくは大学院で修士論文を提出した。タイトルは、『開発と自由~アマルティア・センを導きの糸に~』である。

15年ほど前の2002年1月、
ぼくは大学院で修士論文を提出した。

タイトルは、
『開発と自由~アマルティア・センを導き
の糸に~』である。
経済学者アマルティア・センの研究を題材に、
途上国の開発や発展を「自由」をつくりだす
という視点でとらえなおす試みである。

執筆作業の最後の2週間は、
昼も夜もわからなくなるくらいに
自室で黙々と書いていた。

でも、一つ確かに言えることは、
ぼくは、この修士論文を、書きたくて書いた。
書く必要性があって書いたことである。

大学院の修士課程を修了する必要はあった
けれど、ぼくはそれ以上に、この論文を
書く必要があった。

15年ほどして、その修士論文を読み直す。

気づいたのは、次の通りである。


(1)生き方の基盤づくり

ぼくの生き方の「基盤づくり」となった
ことが、まず挙げられる。

論文完成後の15年にわたる、ぼくの生の
方向性をしめしていてくれたことを、感じる。

納得のいくまで書き上げた文章は、
必ず、ぼくたちの人生を豊饒にしてくれる。

基盤づくりは、大別すると二つの点に
おいてである。

① 内容
② 論文執筆の準備とプロセス

「自由」に関する内容はもとより、
執筆の準備とプロセスである。
その準備とプロセスで得てきたものが、
ぼくの内面の奥に、しずかに積み上げら
れてきたのである。

 

(2)原的には今も変わらない理論

理論は、今読んでも、今の考え方と変わ
っていないことに気づく。

15年の歳月をかけて、ぼくは「経験・体験」
を自身に通して、生きてきた。
それでも、基本の考え方は変わっていない。

ただし、それが「実践」にどこまでうつせ
てきたかは、綿密な分析作業が必要である。
これは、今後のぼくの課題としたい。

しかし他方で、世界は、この15年において
次の時代に向けて大きく変わってきている。

グローバル化は圧倒的なスピードで拡大して
きている

情報技術の進展も、多くの人が予測できて
いなかった。
人工知能は、すでに世界を変えはじめている。
アジアの発展はめざましく、しかし今度は
国単位ではない貧富の差が拡大してきている。

視点を歴史にうつすと、Yuval Harari氏が
いうように、飢餓・伝染病・戦争は、管理
可能な課題に移行をしてきたのが人類である。


そして「現代」は、社会学者の見田宗介が
いうように、「近代」の最終局面にある
<過渡期>としてとらえられる。

次なる局面に、どう移行していけるだろうか。
 

(3)「終章」の存在

修士論文の終章は、ぼくに次の「課題」を
あたえていたことに気づく。

終章は「包括的な『開発と自由』論(仮名)
に向けて」と題されている。

そのようなことを、ぼくはすっかり忘れて
いた。

時を経るうちに、記憶は終章の存在を、
ぼくの無意識に、そっとおさめていたのだ。

村上春樹の著作が、第二部でいったんおわり
続編である第三部がでるかでないのかわから
ないのとは異なり、ぼくは、明確に、次の
課題を記載していたわけだ。

ふと修士論文を見たくなったのは、
もしかしたら、この終章がぼくを呼んでいた
のかもしれない。

ぼくの無意識がなんらかの理由で、
この記憶を意識下におくりだしたのかも
しれない。


人生には、ぼくたちは多くの「未完」を
無意識にしまってあるのかもしれない。

無意識の地層で、ときにゆっくりと眠り、
ときにゆっくりと熟成されていく。

そして、ときに、なんらかの磁場のなかで
それらは意識に浮上してくる。

だから、ぼくは、意識下におくりだされた
この記憶を頼りに、この「終章」を、
なんらかの仕方でひきついでいく方途を
さがしはじめている。

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総論, 社会構想, 書籍 Jun Nakajima 総論, 社会構想, 書籍 Jun Nakajima

Yuval氏の新著『Homo Deus』の視界 - Homo Sapiensの彼方

Yuval Noah Harari氏の新著
『Homo Deus』は「必携の書」である。
「人生の必須書」である。
「世界を視る眼」が変わってしまう書籍
である。

英語版が出版されたばかりである。
400ページを超える大著であり、
日本語訳出版までには時間がかかる
ことが予測される。
(日本語を待たず英語で読んでほしい。)

Yuval氏が新著で展開する
「人類の21世紀プロジェクト」。
人類(humankind)がその困難(飢饉・
伝染病・戦争)を「manageable issue」
として乗り越えつつあるときに、
次にみすえるプロジェクト。

  1. 不死(immortality)
  2. 至福(bliss)
  3. 「Homo Deus」へのアップグレード

3は書のタイトルにもなっている。
「神」なる力(divinity)を獲得していく。
「神」になるわけではなく、
「神的なコントロール」を手にしていく
ことである。

「Homo Deus」へのアップグレードは
3つの道があるという。

  1. 生物工学(biological engineering)
  2. サイボーグ工学 (cyborg engineering)
  3. 非有機物の工学 (engineering of non-organic beings)

論理的な道である。
有機、有機と非有機の組み合わせ、
非有機の道である。

Yuval氏は、未来を「予測」している
のではない。
人類の歴史的な視野と「現在」(現在
すでに起こっていること)から、
副題にあるように「明日の歴史」の
視界をひらいているのである。

Yural氏の視界ははるかに広い。
彼が、この「視界」を獲得できたのは
「Sapiens」という視界をもっていたから
である。
「Homo Sapiens」の彼方に、
「Homo Deus」を視ている。

ぼくも「Homo Deus」の「視界」を
装填しているところだ。
よいとか悪いとかを超える次元において
人類の向かう先、はるか彼方に眼を
こらしながら。

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「見田宗介=真木悠介」の方法 - 本質への/からの視点

社会学者「見田宗介=真木悠介」の文章が
ぼくにとって魅力的な理由のひとつは、
本質的な問いに降りていくことにある。

常に「本質」への視線を投げかけていて、
本質的で、根源的な視点が地下の水脈に
流れている。

著書『気流の鳴る音』では、
「根をもつことと翼をもつこと」という
人間の根源的な欲求を展開していく。

同著には、また、
「彩色の精神と脱色の精神」と題される
文章が記されている。


われわれのまわりには、こういうタイプ
の人間がいる。世の中にたいていのこと
はクダラナイ、ツマラナイ…という顔を
していて、…理性的で、たえず分析し、
還元し、…世界を脱色してしまう。…
また反対に、…なんにでも旺盛な興味を
示し、すぐに面白がり、…どんなつまらぬ
材料からでも豊穣な夢をくりひろげていく。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房)


真木悠介先生は、この「二つの対照的な
精神態度」を、
<脱色の精神>と<彩色の精神>と呼ぶ。

この対照的な精神態度は、
ぼくたちの日々の生活への「見直し」を
せまる。

ぼくは、10代のきりきりとした時期に、
「脱色の精神」にとりつかれていた。
そんなぼくは、海外への旅をきっかけに
「彩色の精神」を取り戻していくことに
なった

また、次のような根源的な視点も
ぼくをとらえて離さない。

見田宗介先生は『社会学入門』(岩波
書店)の中で、「自由な社会」の
骨格構成を試みる。

この社会構想は、発想の二つの様式を
もとに展開される。

それは「他者の両義性」である。


他者は第一に、人間にとって、生きる
ということの意味の感覚と、あらゆる
歓びと感動の源泉である。…
他者は第二に、人間にとって生きる
ということの不幸と制約の、ほとんど
の形態の源泉である。…

見田宗介『社会学入門』(岩波書店)


この他者の両義性をもとに、
「交響圏とルール圏」という社会構想
の骨格を、この「入門」の書で展開
している。
(「入門」はある意味で「到達地点」
でもある)

このように、「見田宗介=真木悠介」
の方法のひとつは、
本質的な問いに降りていくこと、
根源的な地点から思考することである。

日々の生活のなかで、表面的な現実に
疲れたとき、ぼくは、本質的で
根源的な地点に、思考を降ろしていく。

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「頭の中の辞書」を見直す - 外国語の効用

「頭の中の辞書」の見直し、
つまり「自分の世界を書き換える
方法」
を進めていく上で、
「外国語の効用」は極めて大きい。

日本語の言葉や言葉の意味を
一旦「止める」こと。
「言葉を止める」には、
外国語の言葉と文法を「言葉の鏡」
として使っていくことができる。

例えば、「自立」という日本語。
英語の形容詞では「independent」
である。

この「自立」と「independent」
という言葉の「間」にみられる
定義や語感の違いが、ぼくたちに
「考える」ということを迫る。

日本語だけでこの作業をすると、
「言葉に染みついた意味と感覚」
につきまとわれることになる。

言葉の一つ一つには、
社会や時代、自分の生活経験が
あまりにも深く刻まれている。

言葉の意味だけでなく、文法、
言葉が語られる背景や文化に
至るまで、刻まれている。

だから、外国語という「言葉の鏡」
を活用する。

まったく同じものをうつす「鏡」
ではないけれど、この鏡は
大きな力をもっている。


ぼくは「英語」という言葉の鏡を
利用してきた。
英語にどっぷり浸かることで、
ぼくの「頭の中の辞書」を見直して
きた。

そして、それはうまい具合に、
効果を発揮してきたのだ。

それは、時に、
「(身近な)家族のアドバイス」
よりも、
「(距離のある)第三者のアドバイス」
が受け入れやすいのと同じように。

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「頭の中の辞書」を見直す -「世界」を書き換える方法

ぼくたちの頭脳にある言葉や物事の
「定義」は、驚くほどに、思い込みと
間違いに充ちている。

何かの都合で、何かを読んだり聞いたり
していて、自分が思っていたことの
間違いに気づく。

ぼくたちの「世界」は、言葉と言葉の
解釈で構成されるものでもある。
言葉が間違っていると、「世界」は
間違ったパーツでつくられてしまう。

人と人のコミュニケーションは、
ひとつの「世界」とひとつの「世界」
の間のコミュニケーションでもある。
だから、すれ違いや誤解が常である。

だから、時に、「世界」のパーツを
見直すことは、とても大切である。
「自分の頭の中の辞書」の定義を
見直すことである。

見田宗介・栗原彬・田中義久編の
『社会学事典』(弘文堂)は、
「引く事典」だけでなく「読む事典」
でもある。

ひとつひとつの項目に惹かれ、
言葉の世界に引き込まれてしまう。

事典の最初の項目は「愛」である。
これほど、人によって、定義や解釈
が異なる言葉もない。

ぼくの「頭の中の辞書」では
「愛」の項目はこう書かれている。

「愛とは、自分と相手の境界が
ないこと、なくなること」

『社会学事典』ではこのように
定義されている。

 

愛とは、主体が対象と融合すること、
一体化することであり、またそこに
成り立つ関係でもある。愛の対象は
一つの宇宙である。主体は対象に
ひきつけられることによって己れを
消尽しつつ、自らを宇宙へと開き、
直接、無媒介的に宇宙の中にいる。
主体と対象との間にはもはや
隔てるものがなく、愛は「消尽の
共同体」(バタイユ)として
存立する。・・・

『社会学事典』(弘文堂)より


これを読みながら、身体の震えと
共に、一人うなってしまう。
また、たった一つの言葉の、その
拡がりに驚かされる。

「頭の中の辞書」の見直し、つまり
「自分の世界を書き換える方法」は
二つある。

  1. 「辞書」や「事典」で学び、書き換える。
  2. 意識的に「自分なりの言葉」に書き換える。

1の作業だけでも、深い娯しみを
得ることができる。
関心と感心、驚きの連続である。
「インターネット時代」における
「ネット言葉」だけの世界に陥らない
ための方法でもある。

2は、既成の概念を超えていくこと
でもある。
自分の「世界」を積極的につくり
だしていくことである。

「世界を止める」(真木悠介)のは、
最初は「言語性の水準」である。

ただし、それは、身体性、行動、
それから生きること総体(生き方、
人生)に影響を与えていく。

ぼくは、ここ数年、「自立」という
言葉の書き換えをしてきた。
ぼくの「自立」は、狭い定義で、
それが日常の様々なところに
弊害を生んできていたからだ。

だから、「自立とは…」を書き換える。
自立は自分だけで立つのではない。
周りの応援や支えも、自立に含まれる
というふうに。

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