「問いの、核心にことばが届くということがあるなら…」(真木悠介)。- 書くものにとっての「過剰の幸福」と「奇跡といっていい祝福」。
社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得た...Read On.
社会学者である真木悠介(見田宗介)は、『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)と『自我の起原』(岩波書店、1993年)の二つの仕事を通して、自身が持ち続けてきた「原初の問い」に対して、「透明な見晴らしのきく」ような仕方で、自身の展望を得たことを、『時間の比較社会学』の岩波同時代ライブラリー版(1997年)の「後記」で書いている。
「原初の問い」とは、「永遠の生」を願望としてしまうという問題と、「自分」という唯一かけがいのないものとして現象してしまう理不尽な問題である。
見田宗介の仕事を<初めの炎>として駆動してきた原初の問いは、一貫して追求され、自身が納得のいく仕方で書かれ、その成果が「本」という形で世に放たれる。
「後記」の最後は、次のような、美しい文章でとじられている。
わたし自身にとって納得のできる仕方が、他の人にとって、さまざまな角度と限界をもちながら、いくつもの光源の内の一つとなることができるなら、すでに過剰の幸福である。更に、問題感覚の核を共有することのできる読者が一人あるなら、そしてこのような一つの問いの、核心にことばが届くということがあるなら、それは書くものにとって、奇蹟といっていい祝福である。
真木悠介「同時代ライブラリー版への後記」『時間の比較社会学』(同時代ライブラリー版)(岩波書店、1997年)
この「後記」を読みながら、20年ほど前のぼくは、思わずにはいられなかった。
ぼくのような「読むもの」にとって、ぼくの問題感覚の核に向けてことばが紡がれ、そして問いの核心にことばが届くということは、「奇跡といっていい祝福」である、と。
当時のぼくは、この世界において、ほんとうに光を得たような感覚を得たものだ。
そして、今度は書く側に立って、断片やまとまった文章を書きながら、真木悠介が考えていたことを思う。
他者の問いの、核心にことばが届くということの、「奇跡といっていい祝福」についてである。
ことばが伝わっていくルートには、「さまざまな角度と限界」があるからである。
真木悠介が語るような角度と限界、つまり他者にとっての大切な生きられる問題や経験との差異や深浅などもある。
またそもそも、その本を手に取るか否かという限界性もある。
毎日毎日文章を書きながら、そしてこの度は「本」という形で文章を書いて構成しながら、ぼくの脳裏に、真木悠介のこの「後記」がよぎってくる。
そして、それは、ぼくを励ましてもくれている。
「自分のストーリーだからこそ諦めたくない…」(Kiroro『未来へ』)。- じぶん、ストーリー、そして未来。
音楽グループKiroroの歌「未来へ」の中に、次のような歌詞がある。...Read On.
音楽グループKiroroの歌「未来へ」の中に、次のような歌詞がある。
自分のストーリーだからこそ諦めたくない
不安になると
手を握り 一緒に歩んできた
Kiroro「未来へ」(※Apple Musicに表示される歌詞より)
じぶんの「夢」を追うなかで、空高くにある夢に届かず、不安におしつぶされそうななかで、あきらめまいと、母のことを思い出す。
「自分のストーリー」は、この歌詞の直前におかれる「夢」のことである。
「自分の夢」とは言わずに、「自分のストーリー」である。
1)ストーリーとしての「夢」/夢としての「ストーリー」
「夢」とは、未来におかれる。
正確には、未来は現在の自分の中におかれるのだけれど、それは時間的に「先」にある未来である。
「ストーリー」であるということは、その「未来」に向かう道程も含めて、じぶんの「内面」に描いていくことだ。
その道程は、楽しいことばかりでなく、大変なことも不安も含めて、いろいろなものが道いっぱいに散りばめられている。
今を生きながら、でも未来を見ていく。
未来を見ながら、今を生きていく。
そのようなところに、この歌は、ぼくたちの視野をひろげてくれる。
2)「自分の」ストーリーであること
「ストーリー」は、「自分の」ストーリーである。
ストーリーでは、自分が「主人公」である。
主人公であるということは、狭い意味での「自分中心・自己中心」ということではない。
映画の主人公に対して、(主人公であるということそれ自体として)「あなたは自己中心的だ」などとは、ぼくたちは普通は言わない。
じぶんが主人公であることで、じぶんを生きていくことで、ぼくたちは、他者に何かを届けることができるし、ときには他者を救うことだってできる。
3)ストーリーは「諦めること」はできない
夢としてのストーリーは、諦めることができる。
でも、「ストーリー」そのものは、諦めることができない。
夢を諦めることで、異なった「ストーリー」がやってくるだけだ。
「自分のストーリーだからこそ諦めたくない」と歌われるとき、それは「夢としてのストーリー」を諦めないということである。
夢と夢を持つことで生きることの内実を手放すことなく、そのさまざまな彩りを生きていくことを、じぶんに語りきかせている。
こうして、この歌の中では、いくども、次の歌詞がじぶんに投げかけられている。
ほら 足元を見てごらん
これがあなたの歩む道
ほら 前を見てごらん
あれがあなたの未来…
Kiroro「未来へ」(※Apple Musicに表示される歌詞より)
「自分のストーリー」を生きていくこと。
過去における母の面影と思い出を思い浮かべながら(そして気づきながら)、未来へと、前へと視線を向ける。
それは未来によって今が収奪されるのではなく、未来をもつことで、今が豊かになる生である。
「足元」に歩む道、そして(ぼくの想像だけれど)そこに咲く花々へと視線がうつされながら、創られながら創る「自分のストーリー」は生きる力を宿していくことになる。
養老孟司の印象に強く残った丸山眞男の一節。- 零れ落ちていくものへの哀惜の念。
解剖学者である養老孟司は、都市や社会といったものが「頭」で構築されていく(養老孟司が言う「脳化=社会」が形成される)ときに「こぼれおちてしまうもの」について語るときに、政治学者であった丸山眞男の一説を引いている。...Read On.
解剖学者である養老孟司は、都市や社会といったものが「頭」で構築されていく(養老孟司が言う「脳化=社会」が形成される)過程で「こぼれおちてしまうもの」について語るとき、政治学者であった丸山眞男の一説を引いている。
…丸山眞男の非常に印象に残っている一節があります。「学者というのは現実から物事を掬い取って変えていくので、そのときに自分の指の間から零れた無限の事実について、哀惜の念を持たなければならない」と。…「感性」と言われる感覚もそうです。落としていったピュアなものを措いて、それ以外のものでつくり上げていくので、どうしたっておかしくなってしまう。それを全部拾っているわけにはいかないからそれはよいのですが、丸山眞男の言う通りで、「こぼしたんだよ」という意識だけは持っていてほしいのです。…
養老孟司インタビュー「煮詰まった時代をひらく」『現代思想』2018年1月号
この「丸山眞男の非常に印象に残っている一節」は、学者としての仕事から書くこと・語ることに至るまで、養老孟司にとって物事を視る眼の一部であり、指針のひとつであり、また思想そのものの一部であったように、ぼくには見える。
また、丸山眞男はじぶんの立ち位置から「学者というのは…」と述べているけれど、それは決して学者だけに限られたことではない。
それは「人」に置き換えていってもおかしくない。
丸山眞男のこの一節にぼくは共感すると共に、その視線はぼくの言動に鋭くささっていく。
ぼくがこうして「書く」とき、あるいは「語る」ときに、ぼくの指の間からは「無限の事実」が零れ落ちていってしまう。
何かを「書く」ときに、ぼくはとてもたくさんのことを零していってしまっているように感じる。
でも、そこには「書く」ことの本質があったりする。
あることに焦点をあてて書くことで、見えるものがある。
焦点をはずされた<余白>に「見えないもの」が浮かびあがるように書くこともあるけれど、それでも零れ落ちていくものがある。
だから、養老孟司が念をおして言うように、「こぼしたんだよ」という意識だけはもちつづけていきたいと、ぼくは思う。
「英語で語るということは…」(内田樹)。- 言語を一歩引いて見てみること。
中学生にあがる少し前から英語を勉強しはじめて、その後もぼくにとって「英語」はとても特別なものであったし、あり続けている。...Read On.
中学生にあがる少し前から英語を勉強しはじめて、その後もぼくにとって「英語」はとても特別なものであったし、あり続けている。
そして、「英語」という世界から、英語を鏡のようにして「日本語」を眺め、日本語の奥行きの深さを感じたりもする。
この、英語と日本語の「間」の空間が大切である。
日本語だけで考え、聞き、話すというのとは異なるところに、英語はぼくをつれていってくれる。
「論理・ロジック」を正面から意識して論文におとしはじめたのが、ぼくが初めて本格的に「英語の論文」を書いたときであったことは、偶然ではない。
思想家の内田樹が、「英語で語るということは…」について、とても整然に、イメージの豊かな仕方でまとめている。
英語で語るということは、英語話者たちの思考のマナーや生き方を承認し、それを受け容れるということなのです。
逆から言うと、日本語で思考したり表現したりするということは、日本語話者に固有の思考パターン、日本人の「種族の思想」を受け容れるということです。
そういうふうにして、自分が「個性」だと思っていたものの多くが、ある共同体の中で体質的に形成されてしまった一つの「フレームワーク」にすぎない、と気がつくわけです。
じゃあ、自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められいるのか、そこからどうやって脱出できるのか、というふうに問いを立てるところから、はじめて反省的な思考の運動は始まります。
「私はどんなふうに感じ、判断することを制度的に強いられているのか」、これを問うのが要するに「思考する」ということです。
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川書店
言語は、コミュニケーションの手段であり、異文化という環境においては、その手段性はさまざまな場面で喫緊性をもって立ち現れる。
旅行におけるシンプルな会話であったり、日常会話などの次元では、手段としてのコミュニケーションはその役割をいかんなく発揮する。
しかし、人と人とのかかわりにおける深い次元に入っていこうとすると、いろいろとすれ違いや勘違いなどが起こってくる。
そんなところから、ぼくたちは閉じ込められた「フレームワーク」を思考しはじめるのである。
ぼくにとって「英語」が特別なものとしてあり続けてきた理由のひとつは、この「フレームワーク」を客観視しやすくしてくれる、つまり思考することの視点をあらゆるところにつくってくれるからであると、ぼくは思う。
子供として成長していくなかで、日本語という「言葉」は、ぼくを「守るフレームワーク」として、ぼくを形成していく。
しかし、いつしか、ぼくはその「(ぼくを守る)フレームワーク」の閉じ込められている息苦しさを感じる。
そんなときに現れた「英語」という異なる言葉は、異なる「フレームワーク」を提示してくれる。
「ここではないどこかへ」という焦燥で、身体は海外に飛び立つ。
ぼくの「身体」はさまざまなことを感じ、考える。
しかし、頭の中は「日本語のフレームワーク」が作動し、日本的なマナーと生き方の視点から、物事を解釈していく。
そのような異文化という環境で、「自分はいったいどんなフレームワークの中に閉じ込められいるのか、そこからどうやって脱出できるのか」(内田樹)と問いを立てはじめる。
ぼくの「思考」の旅がはじまり、その旅は今も続いている。
言葉の<交換>にみる、仕事と人間性の本質。- それ自体歓びであるコミュニケーション。
仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。...Read On.
仕事をしていくうえで、コミュニケーションが上手くいく/上手くいかない、という次元の問題や悩みについて、よく取り上げられる。
何かを一緒に成し遂げていくうえで、コミュニケーションはとても大切である。
しかも、成し遂げなければいけない時間の幅が、どんどん短縮されてきている中で、効率的なコミュニケーションも求められる。
効果的かつ効率的なコミュニケーションの技を磨いていくことに、ますます焦点はあてられていく。
そのことを理解しつつ、「上手くいく/上手くいかない」という次元から下へ降りていきながら、手段としてのコミュニケーションではなく、それ自体が歓びであるようなコミュニケーションのことを実感しておくことが、ぼくたちが他者と共に仕事をしていくうえでは肝心なことである。
思想家の内田樹は、著書『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)のなかで、ドストエフスキーの『死の家の記憶』に出てくる究極の拷問という話を取り上げて、歓びとしてのコミュニケーションに光をあてている。
ドストエフスキーの『死の家の記憶』に究極の拷問という話があります。それは「無意味な労働」のことです。半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていく。その繰り返しのような仕事に人間は耐えられません。
しかし、同じような労働であっても、そこに他者との「やりとり」さえあれば人間は生きてゆけます。たとえ、穴を掘って埋めるだけというような作業でも、人がいて、一緒にチーム組んで、プロセスの合理化とか、省力化とかについて、あれこれ議論したり、工夫したりしながらやれば、そのような工夫そのもののうちに人間はやり甲斐を見出すことができます。…
仕事の話で人々が忘れがちなのは、このことです。
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』角川文庫
このことに触れたうえで、内田樹は、人間が仕事に求めていることは、究極的には「コミュニケーション」であるとしている。
仕事としてやったことに他者からの応答、ポジティブな反応がある。
このような「やりとり」が人間性の本質であり、それが満たされることで、人間は満足を得ていく。
この「やりとり」を、内田樹は<交換>として取り出し、物々交換、お金の交換、言葉の交換(ただ相手が言ったことを繰り返すだけの言葉の交換含め)と展開している。
人間は交換が好きであるということへの視点である。
内田樹が触れている三浦雅士の「三浦説」は面白い。
三浦説によると、むかし、山の民と海の民は収穫物が余ったから物を交換したのではなく、交換したかったから、交換するのが愉しかったから、たくさんの収穫物を収穫したという。
そうして、分業、階級、国家が生まれたという、「ふつうの考え方」の逆さの考え方だ。
ますます加速し、ますますのダイバーシティの環境のなかで、コミュニケーションの困難さにぶつかっていると、つい忘れがちになってしまう、<歓びとしてのコミュニケーション(言葉のやりとり・交換)>を、ときには思い出し、実感したい。
そこへの暖かな視点があるだけでも、コミュニケーションが上手くいかないときの「捉え方」も、いくぶんか変わってくるように、ぼくは思う。
コミュニケーションが上手くいったときは、ひとつの祝福である。
多くのことが「手段」におしこめられていく世界にあって、「それ自体として歓び」である世界へ、いろいろなことをひらいていくこと。
時代は、確実にその方向性に向かっている、とぼくは思う。
「よい入門書」はどのような入門書か。- 内田樹の書く「まえがき」はいつも素敵に文章を奏でる。
思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。...Read On.
思想家・武道家である内田樹の書く「まえがき」は、いつも素敵に文章を奏でる。
本文も「わかりやすい」(でもだからこそ深い)言葉で、鋭い切れ味の論理と独特のリズムを持って書かれているけれど、ぼくはいつもいつも「まえがき」の奏でる音楽に聴きいってしまう。
著書『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を読もうとして、「構造主義」という思想にはいっていこうとしていたら、その「まえがき」につかまってしまったのだ。
「まえがき」で、内田樹は、この本が「入門者のために書かれた解説書」であることを語る。
そこから、「よい入門書」に関する考えが、やはり入門的に、書かれている。
…「よい入門書」は、「私たちが知らないこと」から出発します。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
「専門家のために書かれた解説書」が「知っていること」を積み上げ式で積み上げてゆくのに対し、入門書は「知らないこと」から問いを始める。
それは、内田樹も言うように、ラディカルな(根源的な)問いにならざるをえない。
入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい「」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」と、内田樹は繰り返し述べている。
例として挙げられていることで言えば、真にラディカルな「医学の入門書」があるとしたら、「人はなぜ死ぬか」という問いから始まるだろうと。
「死ぬことの意味」や「老いることの必要性」の根源的な考察などなど。
そんな入門書には会ったこともないし、会ってみたいと思う。
医学ではなく、ぼくが大学院で「(途上国の)開発学」を土俵としていたとき、方法論にしびれをきらしたぼくは、修士論文で、「開発とは何か」と、人や社会の発展と開発という根源的な問いに一気に下降していってしまった。
すぐに「現場」で使えるものではなかったけれど、そのときの考察はその後のぼくの「現場」での活動はもとより、今でもぼくの思考の土壌となっている。
そのようなぼくの資質もあってか、ぼくも「よい入門書」が好きである。
そして、内田樹の奏でる<入門の音楽>を聴きながら、ぼくは重要な問いの下にアンダーラインを引き続けるのだ。
「構造主義」などという思想はじぶんとは関係ないと思うだろうけれど、そう思う前に、この<入門の音楽>を聴いてみるのもひとつだ。
専門家だけでなく、ぼくたちのような普通の人たちの思考も、「構造主義の思考」の中でかけめぐっていると言われたら、どうだろうか。
留学生である夏目漱石のイギリスでの苦悩と「変身」。-「嚢(ふくろ)を突き破る錐(キリ)」を追い求めて。
夏目漱石の『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。...Read On.
夏目漱石『私の個人主義』に最初に目を通したのは、確か、大学か大学院で勉強していた20代前半のことであったと思う。
夏目漱石の書くものにぼくは深く惹かれていたわけではない。
中学や高校での教科書や読書感想文用の図書として取り上げられる夏目漱石であったけれど、どうにも、深く入っていくことができずにいた。
ただ、おそらく、「個人主義」という言葉にひかれて、手にとったのだと思う。
当時のぼくは、個人と共同体、自由主義と共同体主義などのトピックに、正面からぶつかっていた時期であったからだ。
でも、『私の個人主義』もあまりぼくの心身に合わず、読んだ内容はほぼ覚えていないような状況であった。
20年程が経過して再び『私の個人主義』を手にとろうと思ったのは、ある論考を読んでいて、「留学生の夏目漱石」に焦点をあてた箇所に惹かれたからである。
『現代思想』誌(青土社)の2016年9月号(特集:精神医療の新時代)における、酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」という論考のなかである。
精神病理学を専門とする著者が、「大学において留学生の相談・診療業務」をするなかで、留学生などにみられる「適応の困難さ」について論じている。
論考の展開のなかで、「留学生漱石」に光をあて、イギリス(ロンドン)に留学した夏目漱石が、ロンドンの生活に「不適応」を起こしていたことに目をつける。
イギリス留学に行くずっと以前から「不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至るところに潜んでいるようで堪まらない」(夏目漱石、『私の個人主義』青空文庫)感覚を漱石は持ち続けていた。
「私はこの世に生れた以上何かしなければならん」(前掲書)と思いつつ、思いつかないといった、状態である。
漱石は、この状態を、「あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出る事のできない人のような気持ち」と語り、「一本の錐(キリ)さえあればどこか一箇所突き破って見せるのだ」(前掲書)というように、焦り抜いていたという。
不安を抱いたまま、漱石はイギリスのロンドンに渡ることになる。
…この嚢を突き破る錐は倫敦(ロンドン)中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
本を読んでもうまくいかない。
本を読む意味さえも失うなかで、夏目漱石はひとつの「気づき」を得る。
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う道はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で…そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
夏目漱石がそうして行き着いたのが「自己本位」ということである。
「自己本位」という言葉を手に入れた漱石は、文学に限らず、科学的研究や哲学的思索にふける。
「自己本位」が道を照らしたのだ。
そのとき、留学してから、一年以上が経過していた。
漱石はこう語っている。
…外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
漱石のロンドン「不適応状態」に焦点をあてた酒井崇は、「嚢を突き破る錐」は何であったのだろうと問う。
…英国へ留学して一年間、いわば不適応状態にあった漱石を変えたものは何であったのだろうか。…たんに英文学に見切りをつけて、関心を文学そのものへ移したということだけのことでは決してない。「概念を根本的に自分で作り上げ」ようとしたこと、周囲から神経衰弱と言われるほどまでに「思考」したことが錐となったのではないだろうか。
酒井崇「適応することと潜勢力としての思考」『現代思想』(青土社)2016年9月号(特集:精神医療の新時代)
夏目漱石が「私の個人主義」の講演を行なったのは1914年(大正3年)11月25日。
漱石が他界する2年前の講演で、そのとき漱石は47歳であった。
イギリス留学の年から14年が経過していた。
ぼくも幾分、霧の中をくぐり抜けてきた漱石と同じような経験を通過してきた。
そのためなのか、漱石の言葉をかみしめる素地が少しはできたのかもしれない。
久しぶりに読む『私の個人主義』のなかに興味のつきない語りを見つけ、それらがぼくに迫ってくるように感じられる。
なお、「個人主義」という言葉だけでは、ミスリーディングになりやすい。
だから、「私の個人主義」というように「私の」がつけられているように思う。
夏目漱石は、この講演で聴衆に向けて、次のような、熱を帯びた言葉を投げかけている。
…もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。…もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。ーもっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。
夏目漱石『私の個人主義』青空文庫
「掘当てるところまで行ったらよろしかろう」と、漱石は語る。
それにしても、留学生の漱石に会ってみたくなった。
「うら」(うらなう)を考える。- 「世界のあり方」の比較社会学(見田宗介)を頼りに。
新年ということで、日本では「おみくじ」などを引いたりしている様子をここ香港で見聞きしながら、「おみくじ」や「うらない」のようなものへの、ぼくの関わり方を考える。...Read On.
新年ということで、日本では「おみくじ」などを引いたりしている様子をここ香港で見聞きしながら、「おみくじ」や「うらない」のようなものへの、ぼくの関わり方を考える。
ぼくにとっては、(今ではまずやらないけれど)「おみくじ」や「うらない」で書かれたことや言われることは、ぼくの心身と対話するときのツールである。
書かれたことや言われることで「気になること」は、じぶんの心身に何か「身に覚え」があることであると、ぼくは考える。
つまり、じぶんのなかで、問題であったり課題であったりすることだ。
そこから、じぶんが感じたり考えたりする問題や課題をつきつめていく。
逆に「気にならないこと」は、特に気にしない。
気づきのためのツールである。
社会学者の見田宗介は、「世界のあり方」の比較社会学という視点で、原始人たちが感覚していた「世界のあり方」について書いている。
アメリカ・インディアンのホピ族の言語…では「時間」というコンセプトではなく、近代文明を形成してきた諸文化の言語のように「過去/現在/未来」という基本的な「時制」もなくて、その代わりに「顕在態」(manifested)と「潜在態」(unmanifested)という二つの態様が、「世界のあり方」の基本のわくぐみを作っています。
見田宗介『社会学入門:人間と社会の未来』岩波新書
近代人が使う言葉との対比をまとめると、次のようになる。
●「過去」「現在」=「顕在態」(過去のものは、この世界に「蓄積している」と感じられる)
●「未来」=「潜在態」(ホピの人たちは「心中にあるもの」と言う)
見田宗介は別の著作で次のように書いている。
…アメリカ原住民のホピ族などの文法も、未来をあらわす形式と心象をあらわす形式が同じである。「うら」(うらなう)ということばに標本されるように、上代日本人の世界の感覚ともそれは呼応している。ほんとうは、will、shallという、英語の未来をあらわす仕方が心意をあらわす語によってしかされないように、時間の次元が心象の次元であるということは、ヨーロッパ文化自身の古層にも普遍する直感であった。
見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫
これらに先立つ仕事(『時間の比較社会学』岩波書店)で、見田宗介(真木悠介)は、近代社会の「直線的な時間」とは異なり、原始共同体社会の時間感覚は「反復的な時間」であったことを、述べている。
顕在態と潜在態の反復、また、別の言い方をすれば、「おもての世界」(顕現している世界)と「うらの世界」(潜在している世界)の反復である。
原始社会や原始人たちの抱いていた「世界のあり方」の感覚だ。
文化のこれらの基底的な感覚と、「おみくじ」や「うらない」をしていた人たちの感覚がどのように交差していたのかは、わからない。
けれども、近代人がおみくじやうらないをしたときに「見る仕方」とは異なっていただろうと、推測する。
見田宗介が明晰に語っているように、原始人たちの感覚は、未来と心象がおなじ形式の言葉として使われる感覚に支えられている。
心象は「現在」、未来は「(現在ではない)未来」として、直線的な時間の内に感覚するのが近代人である。
そんなことを考えながら、原始人の人たちは、「うらない」のうちに、じぶんや事象の「心象」を見ていたのだろうと、ぼくは想像力をむけてみる。
「近代人」がついそうしてしまうような、起こるだろう未来の予測ではない仕方で、心象を見る。
しかし、近代人は「未来」という考え方を獲得し、世界をきりひらいてきた。
「未来」を信じ、構想し、行動していくところに、これからの「人と社会」の行く末は賭けられている。
「時の力を生かすこと」(野口晴哉)。- 技術を修めた者に向けられた言葉。
「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」(真木悠介)を獲得したことは、人類の発展において、決定的に重要なことであった。...Read On.
「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」(真木悠介)を獲得したことは、人類の発展において、決定的に重要なことであった。
それは、お金やメディアなどの、人と人を媒介するものと、構造を同じにしている。
時間は、一年があり、半年があり、四半期があり、また月・週・日がある。
時計は、1時間、1分、1秒を告げている。
年末年始というタイミングには、ぼくたちは「時間」をより明確に意識する。
「2018年という時間」を、世界ぜんたいで共にお祝いをするという、つなげる力としての「時間」。
ぼくたち個人にとっても、「時間」をうまく味方につけることで、ぼくたちの生は豊かになる。
「時間」について考えながら、整体の創始者といわれる野口晴哉のエッセイを読んでいたら、「時の力」という短い文章に魅かれる。
時間が刻一刻とすぎていく様から、野口は書き始めている。
いつの間にか夏になり、秋になり、冬になる。
時というものは少しも休まない。…
この一瞬にも、永遠に連なる一瞬が消えている。
生くるはもとより、死ぬも病むも、また人を導くも、ともに生活するにも、この時の力を軽視してはいけない。
軽視する人は少ないが、忘れている人は多い。…
野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年
野口晴哉は「時の力」について、それを軽視している人や忘れている人に思い出させるように書いている。
生くることの全体に向けられながら、やがて、自身のよってたつ養生や治療を含めた「技術を修めた者」に向けて、言葉が集注され投げかけることになる。
時の力を生かすことを考えることが、技術を修めた者には何よりも必要だ。
世の中には芽生えた稲の伸びが遅いと、手でそれを引っ張って伸ばすような養生や治療が行われている。
野口晴哉『大絃小絃』全生社、1996年
野口晴哉の語る<時の力>は、明確に計測し見ることのできる「時間」ではなく、自然的な流れとしての<時>に触れている。
養生や治療に限らず、「技術を修めた者」にひびく言葉だ。
軽視もしないし、忘れもしない<時の力>だけれど、「市民社会の存立の媒体としての物象化された時間」の圧力と要請は、日々、ぼくたちにのしかかってくるものだ。
野口がこの文章を書いた数十年前に比較し、この「時間」の圧力と要請はいっそう強さを増している。
世界の人たちをつなげる「時間」と個人の生をひらいていく「時間」を味方につけつつ、どのようにしてこの<時の力>をも、生きることの実践としていくことができるのか。
その「方法」について野口はこのエッセイでは書いていないけれど、それはぼくたち一人一人に投げかけられた問いであり、ぼくたちの想像力が試されるところである。
思考や行動が狭く型づけられているなかで、どのようにしてこの想像力の翼を獲得していくことができるのかが課題である。
人はだれもが「物語」を生きる。- どのような「物語」を描き、どのように生きるか。
人であるということは、「物語」をもっているということでもある。人は、だれもが、「物語」を生きている。...Read On.
人であるということは、「物語」をもっているということでもある。
人は、だれもが、「物語」を生きている。
そして、人は、その生において、「物語性」の外部に出ることはない。
どのような「物語」を生きていくか、ということに、ぼくたちの生の本質はある。
すでに「物語・物語性」は、人や組織や社会において、いっそう重要なものとして取り上げられる場面が増えてきている。
ぼくもいろいろと文献などをさぐっている。
『The Storytelling Animal: How Stories Make Us Human』(Jonathan Gottschall著, Mariner Books)という面白いタイトルの本がある。
「物語を語る動物」としての人を、生物学、心理学、脳科学の知見から読み解いていく試みである。
また、橋本陽介『物語論:基礎と応用』(講談社)においては、フランス構造主義の物語論を中心に「物語」が中心にそえられている。
心理学者からの「ライフストーリー論」としては、Dan P. McAdamsの理論展開に、ぼくは耳をかたむけている。
河合隼雄の「物語論」も、心理学・臨床心理などさまざまな視点にきりこみ、深い議論を展開している。
「年末年始」という時期には、人や組織や社会の「物語」の一端が語られるときでもある。
「振り返り」という、ひとつの物語。
「目標」という、ひとつの物語。
「予想・予測」という、これも物語。
世界は「物語」に充ちている。
ぼくたちは、忙しさや困難さのただなかで、「点(dot)」に集注する。
ときには、一歩も二歩も後ろにさがってみて、スティーブ・ジョブズが語ったように「connecting dots」をしてみる。
そこに、これまで生きてきた・働いてきた・学んできたことの「物語」が見えてくることがある。
物語は、困難や挑戦、失敗などに「意味・意義」をふきこんでくれる。
そしてそのような間隙から、「新しい物語」の息吹が聞こえ、萌芽を見るかもしれない。
これらの「物語」を、どのように描き、どのように生きていくかという問いを、ぼくたちの生の全体はぼくたちに日々問いかけている。
「書くこと」のすすめ。- 「じぶんと向き合う」という仕方で書く。
2017年の振り返りをしたり、2018年の目標を立てる時期に、「書くこと」ということを考える。...Read On.
2017年の振り返りをしたり、2018年の目標を立てる時期に(振り返りも目標もこの時期である必要はまったくないけれどもひとまず)、「書くこと」ということを考える。
じぶんと向き合いながら「書くこと」の意味や効用はやはり大きい。
人の「内面」という視点で、「書くこと」を見てゆくと、ひとつの切り取り方として「3つの側面」がある。
それらは相互に「重なり」を有している。
- 内面の思考や感情を「外部」に出すこと
- 内面の思考や感情の「整理」
- 内面における「気づき」を取り出すこと・浮上すること
第一に、内面の考えや感情を「外部」に出すということがある。
書くことで、じぶんの内面にある思考や感情を「外部」にうつしていく。
じぶんの思考や感情を見つめ直すことにも有効である。
外部に出すということは「見える化」することである。
目で見ることでより客観視し、見つめ直すことがより容易になる。
そうすることで、第二に、思考や感情が「整理」されていく。
赤羽雄二の著作『世界一シンプルなこころの整理法』にあるように、例えばA4一枚に、言葉を書いていくことで、「こころの整理」がなされる。
David Allenの有名な『Getting Things Done』も、この効用に目をつけて、「頭の中」にあるものを一度すべて書き出すことをすすめている。
その副題にある言葉「Stress-Free」にあるように、ストレスを軽減する効用もある。
第三に、そのような過程で、「気づき」が得られる。
明確でなかったことに気づくこともあれば、ふーっと浮上してくるように「現れる」こともある。
気づかなかった「思考や感情のつながり」が、目に見えるようになったりする。
「わかる」という経験は、いろいろな思考や言葉が「つながる」経験である。
また、整理された「すきま」に、新しい思考がはいってくることもある。
ただ書けばよいというわけではないけれど、でもただ書くところからスタートしてもよい。
SNS的な書き方に終始すると他者の「評価」を求めるような書き方にもなってしまうことがあるから、「じぶんと向き合う」仕方で、書いていく。
書かれた文章は、何かの「はじまり」でもある。
人は、構築主義的に、文章を(つまり思考を)構築していく。
そのプロセスでは、さまざまな「他者」の思考や感情や経験が参照されたり、使われたり、吟味されたりする。
「じぶんと向き合う」書き方とは、「じぶんがつくられる」ような経験である。
じぶんを「創られながら創る」というプロセスに投じていくことになる。
書くことのプロセスのなかで、「(他者に)つくられる」という経験をしながら、ぼくたちはじぶんをのりこえてゆく。
言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」(養老孟司)。- ヒトと社会の底流にながれる「同じ」という意識の機能。
養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。...Read On.
養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。
分類の仕様のない本であるけれど、「人間」にむけられた深い洞察に、思考の芽を点火させられる。
本それ自体については、また別途書きたいと思う。
養老孟司の思考の照準のひとつが、「同じ」ということにあてられる。
第3章は「ヒトはなぜイコールを理解したのか」と題され、「当たり前」の覆いを取り、思考をそそいでいる。
この思考のプロセスがスリリングであるが、「結論」だけを、ここの箇所から取り出しておく。
…動物もヒトも同じように意識を持っている。ただしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。
養老孟司『遺言』新潮新書、2017年
「同じ」という機能が言葉を生み出したと、養老孟司はいう。
通常、ふつうにかんがえても、このつながりはよくわからない。
「意識と感覚の衝突」という項目でプラトン(養老孟司はプラトンのことを「史上最初の唯脳論者」と呼ぶ)にまでさかのぼりながら、「乱暴なこと」と認識しながら、次のように、「言葉」について語る。
…いうというのは、言葉を使うことであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。マス・メディアが発達するのも、ネットが流行するのも、結局はそれであろう。グーグルの根本もそれである。われわれはひたすら「ネッ、同じだろ」を繰り返す。なぜなら言葉が通じるということは、同じことを思っているということだからである。動物はたぶんそんな変なことはしていないのである。
養老孟司『遺言』新潮新書、2017年
言葉は現実を裏切る、などとよくいわれる。
言葉は物事を「言い尽くせない」のは本来は通常のことであり、人間は「同じ」という意識の機能、その産出物である「言葉」で、言い尽くせないものを名付け、「同じ」ものとして集団で認識していく。
養老孟司の思考はさらに「科学」的にきりこんでゆき、「同じ」はどこから来たか、と問うていく。
脳の構造と機能にその起源をもとめていき、ヒトの脳の「大脳新皮質」の進化に目をつける。
ヒトの脳の特徴は大脳皮質(特に新皮質)が肥大化したことにあるという。
情報処理の機能である。
視覚の一次中枢から聴覚の一次中枢までを、皮質という二次元の膜の中で追ってみよう。視覚、聴覚の情報処理が一次、二次、三次中枢というふうに、皮質という膜を波のように広がっていくとすると、どこかで視覚と聴覚の情報処理がぶつかってしまうはずである。そこに言葉が発生する。
なぜか。言葉は視覚的でも聴覚的でも、「まったく同じ」だからである。というより、ヒトはそれを「同じにしようとする」。…
つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。
養老孟司『遺言』新潮新書、2017年
この意味において、言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」である。
言葉というものの「強さ」と同時に、言葉がよってたつところの基盤の「危うさ」を思わせる。
「考えるということ」は「分けること」でもあると、ぼくはかんがえる。
あるものを、論理で分けながら、綿密に「分」析していく。
養老孟司の思考をここに注入するとするのであれば、「同じ」という土台の基盤において、できるかぎり「違い」において分けていく、ということであろうか。
別の「同じ」という機能の言葉を使って。
それは、この本の主題のひとつ、「科学とは?」ということとも繋がってくるということに、この文章を書きながら、ぼくは気づく。
物語の中の「夢」と物語全体としての<夢>。- 「life is but a dream. dream is, but, a life.」(真木悠介)。
真木悠介(社会学者の見田宗介)の豊饒な生の日々にリフレインしていた詞。「life is but a dream. dream is, but, a life」真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年...Read On.
真木悠介(社会学者の見田宗介)の豊饒な生の日々にリフレインしていた詞。
「life is but a dream. dream is, but, a life」
真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年
「インドの舟人ゴータマ・シッダルタの歌う歌を、イギリスの古い漕ぎ歌にのせて勝手に訳したもの」(前傾書)であると、真木悠介は書いている。
「人生はただの夢、しかし夢こそが人生である」というこの詞は、ぼくの「ことばにできないことば」を言葉にしてくれた。
生きることの全体が、ここに言い尽くされている。
ここでふれられている「夢」を理解するためには、「夢」を二層化する必要がある。
- 目標・ゴールを大きくした「夢」
- 生きること全体の物語としての<夢>
「夢はなんですか?」という問いのように、通常に語られる「夢」は、この1番目の「夢」である。
真木悠介のすてきな詞は、この2番目の<夢>を照準している。
これら二つを別の言い方で言えば、タイトルに掲げたような言い方になる。
- 物語の中の「夢」
- 物語全体としての<夢>
ここでは仮に、「物語」を<一冊の本>としてかんがえてみる。
つまり、ぼくたちの生の全体、一生が<一冊の本>である。
「物語の中の「夢」」とは、一冊の本の主人公である「私」が、本の中で、物語が展開してゆくなかで抱く「夢」である。
他方、「物語全体としての<夢>」とは、一冊の本そのものである。
「人生はただの夢、しかし夢こそが人生である」という詞は、ぼくたちの生が、ただ夜見るような「夢」(=幻想)のようにはかないものだけれど、このひとつの物語である<一冊の本>としての<夢>(=幻想)こそが、人生であることを、シンプルさを極めた仕方で語っている。
ぼくたちは、この<一冊の本>の外部に出ることはできない。
真木悠介は、見田宗介名で書いた別の文章のなかで、このことを明晰に語っている。
…だれも幻想の外に立つことはできない。物語批判は物語の否定ではない。人間は物語の外部に立つことはないからである。どのような物語を生きるかということだけを、わたしたちは選ぶ。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
この意味においては、人はだれしもが、夢見る人 dreamer なのだ。
「しかし夢こそが人生である」ことを明晰に理解することは、「どのような物語を生きるかということ」の選択の方へ、人をおしだしてゆくのである。
こうして、人は物語の内部で、豊饒な物語を(つくられながら)つくっていく。
直感的に魅かれ、生の道ゆきを照らし出す「詩」。- 真木悠介(見田宗介)がくりかえし引用するナワトルの哲学詩から。
社会学者の真木悠介(見田宗介)がくりかえし引用する、ナワトル族の哲学詩がある。...Read On.
社会学者の真木悠介(見田宗介)がくりかえし引用する、ナワトル族の哲学詩がある。
直近では、2016年に書かれた論考「走れメロス」において、冒頭に引用されていた。
さらに、その論考をもとになされた大澤真幸との対談でも触れられている(見田宗介・大澤真幸『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社、2017年)。
最初に著作のなかで引用されたのは、おそらく(違っていたら別途書きます)、真木悠介の素敵な著作『旅のノートから』(岩波書店、1994年)である。
真木悠介の「生のワーク」として書かれた30片くらいのノートのひとつに、「天と地と海を」という一片がある。
そのページに、このナワトル族の哲学詩と、イカム族の諺が縦横に並べられている。
[ナワトル族の哲学詩から]
われわれの生のゆくえはだれも知らない。
ひとは未完のままに去る。
そのために私は泣き
私はなげく。
けれどもこの世ではこの世の花で私は友情を織る。
大地の上にはー花と歌。
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)
この(おそらく)最初に取り上げられた形から、20年以上を経て(見田宗介名で)書かれた論考「走れメロスー思考の方法論について」では、真木悠介にとって<ほんとうに大切な問題>の光があてられることで、次の部分だけが取り上げられている。
われわれの生のゆくえはだれも知らない。人は未完のままに去る。
けれどこの世ではこの世の花で友情を織る。
ー大地の上には花と歌
ナワトル族の哲学詩から
見田宗介「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号
「比較社会学」という方法で「人間の解放」を追い求めてきた真木悠介が、当初は直感的に魅かれた詩であるように、ぼくは推察する。
「どのようにしたら歓びに充ちた生を生きることができるか」という純化された問いに導かれるように、真木悠介は人や社会における「相乗性」の契機を軸のひとつとして、理論を構築してきた。
人や社会の「相克性」をみないわけではない。
真木悠介(見田宗介)自身が述べるように、『現代社会の理論』(岩波新書)や『社会学入門』(岩波新書)においても、相克性ということが明晰にとりあげられている。
それでも、人の生や社会を解き放つ契機として「相乗性」を正面からみすえているのだ。
この「相乗性」ということにおいて、ナワトルの詩は、直感的に魅かれた詩でありながら、真木悠介(見田宗介)のその後の論考の道を照らしてきたものでもある。
冒頭に掲げたナワトルの詩は、人間がこの世に生きるということの意味を究極支えるに足るものとして、第I水準または第II水準と第Ⅲ水準とにおける無償化された相乗性、無償化された肯定性ー花と友情ーを想起している。
共同体も市民社会も生命世界も、本来は集列性である。相克あるいは無関心である。この地からその部分と
して、最初は方法としての相乗性 instrumental reciprocityが立ち現れる。そのあるものは効用のループをこえて無償化し、純粋な情熱と歓びの源泉となる。
…それは派生的、部分的なものであるままで、それ自体派生的、部分的な存在であるわれわれの生きることの根拠を構成する力をもつ関係となる。
見田宗介「走れメロスー思考の方法論について」『現代思想』2016年9月号
ここでいう「第I水準または第II水準と第Ⅲ水準」は、真木悠介(見田宗介)が提示する「現代人間の五層構造」の水準である。
第0水準の「生命性」を土台に、人間性、文明性、近代性、現代性の五層である。
真木悠介(見田宗介)が丁寧に述べているように、派生的・部分的な契機にすぎない「相乗性」は、それでも確かに生きることの根拠を構成する力をもつ関係となって、ぼくたちの生きることを支えている。
ナワトルの詩は、そこに一編の光をさしこんでいる。
ひるがえってぼくは「真木悠介にとってのナワトルの詩」のような「詩」をもっているだろうか、とかんがえてしまう。
ぼくにとっては、このナワトルの詩が最初に置かれた、真木悠介の著作『旅のノートから』の冒頭に置かれた一編に、いつも戻ってくるように思われる。
「life is but a dream, dream is, but, a life」(真木悠介)
「ほんとう」という言葉からはじまる旅路:「ほんとうの」と「ほんとうに」。- 竹田青嗣、宮沢賢治、そして見田宗介。
ぼくたちは、日々の会話や書くもののなかで、「ほんとう」という言葉を使う。小さい頃から、ぼくは、よくこの言葉を使っていたと思う。...Read On.
ぼくたちは、日々の会話や書くもののなかで、「ほんとう」という言葉を使う。
小さい頃から、ぼくは、よくこの言葉を使っていたと思う。
「ほんとう」の反対は「うそ」というような対置をされると、ぼくたちは他者の言うことを信じていないように聞こえてしまう。
でも、ぼくの感覚では、「ほんとうーうそ」というシンプルな対置だけにおさまらない構図のなかで、その言葉が発せられてきたことを感じていた。
そのことを正面から見つめようとしたのは、やはり、社会学者の見田宗介の著作に触発されてきたところが大きい。
見田宗介の仕事のなかで、「ほんとう」ということを論じている対象としては、哲学者である竹田青嗣と、そして宮沢賢治が挙げられる。
音楽家の井上陽水論を展開した竹田青嗣の著作『陽水の快楽』(ちくま文庫)で、見田宗介は鮮烈な「解説」を書いていて、その解説が書かれる前の「前身」的な解説として、論壇時評に次のように書いている。
竹田の文章が要所で放つ「ほんとうに」という副詞は、書くことの外部からくる息づかいのように、彼の論理の展開の、生きられる明証性のようなものを主張している。宮沢賢治は「ほんとうの」しあわせとか考えとか世界を求めた。竹田の断念は、<真実>を方法の場所に、形容詞でなく副詞の場所にまでしずめている。
見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫
見田宗介は、「ほんとう」ということで示されるものを、「ほんとうの」という形容詞、それから「ほんとうに」という副詞というように切断線を引いて、かんがえている。
「ほんとう」という言葉に表象される心象は、ぼくの個人史だけに固有のものではなく、それが時代の困難さをあらわしていることを、ぼくはここにみる。
竹田青嗣の展開する陽水論と見田宗介の鮮烈な読みとりについては、以前にもブログで触れたけれど、またいずれ書きたいと思う。
むしろ、ぼくをひきつけてやまないのは、「ほんとうの」という形容詞である。
見田宗介が吉本隆明の著作『宮沢賢治』に応答するように書いた文章、「性現象と宗教現象ー自我の地平線」は、いっそうの深みにおいて、宮沢賢治が追い求めた「ほんとうのもの」をスリリングに論じている。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を素材に、主人公ジョバンニと宮沢賢治を重ね合わせながら、見田宗介(真木悠介)は性と宗教を明晰に論じている。
銀河鉄道に乗るジョバンニは、その旅路で乗客たちに出会うけれど、乗客たちは途中で降りていってしまう。
それでもジョバンニはどこでも降りない。銀河鉄道のそれぞれの乗客たちが、それぞれの「ほんとうの神」「ほんとうの天上」の存在するところで降りてしまうのに、いちばんおしまいまで旅をつづけるジョバンニは、地上におりてくる。
ひとつの宗教を信じることは、いつか行く旅のどこかに、自分を迎え入れてくれる降車駅をあらかじめ予約しておくことだ。ジョバンニの切符には行く先がない。ただ「どこまでも行ける切符」だ。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
法華経の人であった宮沢賢治を読みときながら、見田宗介は宮沢賢治が<歩きつづけた方向性>を、次のように書いている。
性が何度も人を裏切るものであることと同じに、宗教もまた、何度でも人を裏切る。宗教に裏切られる毎に、賢治の資質は、宗教を否定する方向にでなく、<ほんとうの>宗教を求めるという方向に賢治を向かわせた。
人が<ほんとうのもの>を求めるということをどこかでやめてしまう仕方は、二つある。宗教の駅と、反宗教の駅だ。宗教の駅は、<ほんとうのもの>はここにあるのだ、これ以上求めることはないのだという仕方で人をその場所に降ろす。反宗教の駅は、<ほんとうのもの>はどこにもないのだ、そんなものを求めることはないのだという仕方で降ろす。賢治が択んだのは、そのどちらでもないような仕方で歩き続けることだったと思う。
真木悠介『自我の起原』岩波書店
宮沢賢治が択んだ「第三の道」のように、見田宗介もまた「どこまでも行ける切符」を手に、<ほんとうのもの>を求めつづけ、「反時代の精神たち」に言葉を届けてきた。
見田宗介が措定してきた「虚構の時代」のなか、「時代の商品としての言説の様々な意匠の向こう」(真木悠介)めがけて、「ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たち」に、上記の論考を含む、「分類の仕様のない書物」の言葉たちは放たれる。
「ほんとう」という言葉からはじまったぼくの旅路は、こうして、新たな旅路が目の前に、どこまでもどこまでも、ひろがっている。
月あかりからもらってきた「おはなし」。- 香港で、満月の月あかりに照らされて考える、「非意識」からやって来た宮沢賢治作品の普遍性。
宮沢賢治のことをかんがえながら、ちょうど月が満月になるタイミングが重なって、ぼくの中では、だれもが知るところの『注文の多い料理店』の序に書かれた文章が浮かんでくる。...Read On.
宮沢賢治のことをかんがえながら、ちょうど月が満月になるタイミングが重なって、ぼくの中では、だれもが知るところの『注文の多い料理店』の序に書かれた文章が浮かんでくる。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたがないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫
今から20年程前に行われた、宮沢賢治をめぐる座談会(「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店)で、見田宗介はとても面白い問題を提起している。
近代的自我という視点において、「近代的自我の表現としての文学、という方向を原的に批判する思想としての賢治作品」として、見田宗介は宮沢賢治の作品をとらえている。
見田 自我の問題でいうと、宮澤賢治の作品というのはフロイトが言うような無意識と同じものではなくて、ユングの言う無意識とも違う。だから精神分析学で言う無意識というより、もう少し非意識みたいな、<意識でないもの>というような感じのところから来るものがあるようにみえる。…作品がどこから来るかというのは、作者の意識から来るというのが一つの典型的な形としてある。もう一つは作者の非意識から来るというのがある。それともう一つは作者以外のところから来る、作者の外部から来るみたいなところがある。…
「可能態としての宮澤賢治」雑誌『文学』岩波書店、1996年
見田宗介は、谷川俊太郎から聞いた、大江健三郎の発言も紹介している。
大江健三郎は谷川俊太郎との会話のなかで、「最初の二つの作品で無意識は全部使い果たした」ということを語ったという。
それ以降の作品は意識で書いている、と。
無意識を使って書かれた作品と文学作品における「普遍性」ともからめながら、宮沢賢治の作品の「普遍性」も、賢治作品が非意識から来ているということと関係しているのではないかと、見田宗介は語っている。
賢治作品は、よく知られているように、アメリカの原住民の人たちが深い共振を示したと言われている。
月あかりからもらってきた「おはなし」は、人と人との境界を、超えてゆく。
宮沢賢治は、冒頭の「序」のなかで、「ほんたうに」という言葉をくりかえしつかっている。
虹や月あかりからもらったとしか言いようがない仕方で、非意識から届けられた「おはなし」は、宮沢賢治が自身にたいしても「ほんたうに」と言うしかないような作品が立ち上がってきたのだろうと、思われる。
『注文の多い料理店』だけでなく、例えば『鹿踊りのはじまり』は「すきとおつた秋の風」から聞いた「おはなし」である。
月あかりは、西アフリカのシエラレオネにいても、東ティモールにいても、それからここ香港にいても、ぼくに光をそそいでくれる。
ぼくたちが心を「ほんたうに」すきとおらせていけば、「おはなし」は聞こえてくるはずだ。
「近代的自我の表現としての文学」に見られるように、近代や都市という「脳化社会」(養老孟司)において意識や意味などにだけ水路づけられた生においては、「おはなし」は容易には聞こえてこないかもしれない。
この文章の最初に置いた「序」は、宮沢賢治の次のような言葉で終わっている。
…わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
宮沢賢治『注文の多い料理店』序、青空文庫
「すきとほつたほんたうのたべもの」が、生をひらく水路をひらいていくための「たべもの」となるかどうかは、宮沢賢治の「ちいさなものがたりの幾きれ」にではなく、ぼくたち自身に賭けられている。
心と身体にせまってくる、相田みつをの言葉たち。- 一時帰国したときに立ち寄った「相田みつを美術館」で。
2010年のとき、ぼくは香港に暮らしていて(今も香港だけれど)、日本に一時帰国することになった。...Read On.
2010年のとき、ぼくは香港に暮らしていて(今も香港だけれど)、日本に一時帰国することになった。
その頃は日本に行く機会は、年に1回ほどであった。
人が生きていく上で直面しなければならないことに、ぼくは相当にまいっていて、「世界の風景」が違ってみえるほどであった。
そんな折に、たまたま東京国際フォーラムの近くを通って、「相田みつを美術館」がひらかれているのを見つけた。
美術館のオープンは2003年11月。
ちょうどぼくが西アフリカのシエラレオネから東ティモールに移って、最初のコーヒー輸出を終えたころということで、ぼくはあまり東京に帰ってくる機会がなく、美術館のオープンは知らなかった。
それまでも「相田みつを」のことは知っていたし、数点の作品を見ただけで魅かれてもいたけれど、通常であれば美術館の行くほどの気持ちは起きなかっただろう。
しかし、2010年のその時は、なぜか、「相田みつを」に魅かれ、空白の時間ができたこともあり、ぼくはひとり、「相田みつを美術館」の空間に入っていった。
ぼくは、そこで出逢う、相田みつをの言葉たち、言葉とその筆使いに圧倒されることになる。
原作の数々の言葉たちが、心と身体にせまってくる。
「詩」という、言葉の地平線にむかって放たれて書かれる言葉たち。
書かれた言葉たちが、深く、身体的なのだ。
ぼくは、言葉ひとつひとつの「筆づかい、筆致」に、心身をかさねあわせていく。
ぐーーっと、言葉たちがちかづいてきては、じぶんのなかで、何かが解凍される。
当時のぼくを、深いところでささえてくれるような、言葉たちであった。
しあわせは
いつも
じぶんの
こころが
きめる
相田みつを(相田みつを美術館)*写真はブログ筆者(美術館で手に入れたもの)
このシンプルな言葉だけでも、ぼくたちに伝わってくるものがあるけれど、筆づかいは「相田みつを」という人をとおして、ぼくたちをさらなる深いところに導いてくれる。
「しあわせ」ということを、相田みつをは、どのように考え、感じていたのだろう。
ここでは「じぶんのこころがきめる」としている。
「じぶん」と「こころが」の筆致が、「しあわせ」に増して、圧倒的にちからづよく書かれ、せまってくる。
相田みつをにとって、「しあわせ」は、二の次だったのではないかと、ぼくには見える。
「しあわせ」を大切にしていないわけではない。
「じぶん」と「こころ」に、徹底的にむきあってきたからこそ、変幻自在の「しあわせ」はこの筆致で書かれたように、思う。
相田みつをの言葉たちと筆づかいを心身で感じながら、ぼくが見ているのは、ぼく自身の「じぶん」と「こころ」でもある。
相田みつをのまなざしは、この言葉たちをみている人たちの「じぶん」と「こころ」にも、向けられている。
相田みつをはそこに立ちながら、ぼくたちに問う。
あなたの「じぶん」と「こころ」はいかがか、と。
「英語」は習ったままにせず、異なる世界への「鍵」として使う。- 「英語のインターネット空間」に入ること。
「英語」は習ったままにしないことである。「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。...Read On.
「英語」は習ったままにしないことである。
「英語を使う」というあたりまえのことなのだけれど、現代は、その「垣根」が一気に低くなった。
使わないことの言い訳ができないほどに、垣根が低い。
ぼくが英語を習い始めた30年程前は、英語を使う環境を自発的に見つけ作っていく必要があった。
「英語を使って話す」ことが必要だと言われたけれど、じぶんの周りを見回したところですぐには見つからない。
そのような環境を見つけていく必要があった。
ぼくは結局のところ、教科書や参考書と向き合い、ときおり洋楽の歌詞の世界に入りこんだ。
でも、今は事情はまったくと言ってよいほど異なる。
「現実の世界」においては、日本にいても、世界いろいろなところからくる人たちに出会うことができる。
そして何よりも、「インターネットの世界」が状況を圧倒的に変えてしまった。
そんなことは言われなくても誰もが思うところだが、ぼくは繰り返し、そのことを書いておきたい。
「インターネットの世界」に誰もがつながりながら、しかし、多くの人たちはそのヴァーチャルな世界の一部にしか訪れていない、ふれていない。
「日本語のインターネット世界」に閉じこもってしまうのだ。
英語検索によってインターネット世界をひらくだけでも、視界は一気にひらける。
東浩紀が、著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)の中で、検索の言語を変えてみるだけで異なる世界がひろがることにふれている。
検索ワードを日本語だけに限定すると、検索エンジンは「日本語のインターネット世界」に人を案内する。
それを他の言語に変えると、そこにはまったくといってよいほどに異なるインターネット世界がひろがっている。
それも、どこか遠くにあるのではなく、すぐそこに、ひろがっている。
「検索ワード」はどのような検索ワードをタイプするかで検索のパフォーマンスに影響するという意味で、検索ワードの選び方はスキルのひとつだけれど、そこで「言語を変える」ということも身につけたいところだ。
英語によるインターネットの世界は圧倒的な「空間」であるけれど、検索などで訪れるだけでなく、もう一歩すすんでおきたいところだ。
楽しむだけでなく、インターネットがどのように使われているのかを見ておくことが、もう一歩である。
例えば、無料の「ニュースレター」でよいので、配信登録をしてみる。
配信登録で使われる英語は初歩的なものだ。
ニュースレターがどのような内容で、どのように送られてくるのか、どのくらいの頻度で、どのタイミングに配信されるかなど、学ぶべきところばかりだ。
マーケティングオートメーションなどの仕組みなども、興味深い。
いろいろな実践や試みが、圧倒的に早いスピードで展開されているのだ。
このような学びが、今では、手元の携帯電話だけでできてしまう。
「英語」は習ったままにしないこと。
それは、異なる世界、「英語のインターネット空間」という、果てしないひろい世界への「鍵」である。
いずれは、翻訳アプリや翻訳機能の進歩により、言語を習わなくてももっとシームレスに入っていける空間がひらけていくけれど、今ここに「鍵」があるのだから、使わない手はない。
「リーダーはむつかしいぞ」(野口三千三)。- 見田宗介の「リーダー」論。
人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。...Read On.
人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。
ぼくが知るところ、それほどは、直接的に語られていない。
見田宗介がどのように「リーダー」を語るのかは興味深いところだ。
個人的に「リーダー」というものを見直しているなかで、そんなことを思う。
そのような折に、一息ついて見田宗介の著作集(『見田宗介著作集X』岩波書店)を手にとり、「春風万里ー野口晴哉ノート」という論考(講演)の文章を、ぼくは読む。
どんなにつかれているときでも、見田宗介(真木悠介)の文章を読んでいると、心身がときほぐされていく。
論考の最初の章は「春風万里ー技を修めて技を用いず」と題され、整体の創始者と言われる野口晴哉の『治療の書』という、「分類不能の書」にふれている。
その中で、見田宗介はエピソードのひとつを語っている。
東演という劇団の演出家が亡くなり、若い俳優の相沢治夫が劇団をひきつぐことになったときの、激励のパーティーでの話である。
パーティに出席していた野口三千三(「野口体操」の創始者。野口晴哉・野口整体とは別である)が、相沢治夫をそばに呼んで、次のようにささやくのを、見田宗介は隣席で耳にする。
「リーダーはむつかしいぞ。利口でだめ。馬鹿でだめ。中途半端はもっとだめ」
見田宗介は、「指導者となるべき人間の器を問う観察として、鋭く的確な表現」と、この論考(講演)の時点でも考えていることを伝えている。
見田宗介の「リーダー」論があるとすれば、とりあげられる言葉だ。
野口三千三の言葉は、見田宗介が言うように、的確でありながら、人を迷わせる。
利口はだめ、馬鹿はだめ、その中間もだめであるならば、リーダーはどのようであるのがよいのか、と。
見田宗介は、ここで論考のテーマである野口晴哉にもどる。
『治療の書』の冒頭に近い所に、このような一節がある。
技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。
技を修めて、技を技として振うのが利口の道である。技をはじめから修めないのが馬鹿の道である。技を修めて技を用いずという道は利口でも馬鹿でもないが、その中間ということでもない。人はこのような仕方で、利口とか馬鹿とかいう地平を越えて出ることができる。
見田宗介『見田宗介著作集X』岩波書店
野口三千三の言葉、野口晴哉の「技」にかんする到達点(通過点)、見田宗介による読み解きは、ぼくの中に思考の芽を点火する。
「技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。」
ぼくの中の思考の大海に、ぼくは言葉を投ずる。
しかし、観念だけの大海ではなく、体験や経験と重ね合う思考の大海だ。
野口晴哉や野口三千三や見田宗介といった「身体」から人や社会を考える、ほんとうの思想家たちと(ぼくの中で)議論を交わしながら。
「伝え授けることむづかしき也」(野口晴哉)。- 野口晴哉の「遺稿」の余白を読む。
「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。...Read On.
「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。
整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。
二人の共通点は、自然としての「身体」への真摯なまなざしである。
養老孟司は80歳を迎え、著書『遺言』(新潮新書、2017年)を世に放ったばかりである。
『遺言』についてはまた取り上げたい本だけれど、最近、野口晴哉の文章のなかに、「我は去る也」という≪遺稿≫があるのを知った。
実を言うと、その≪遺稿≫が収められている著作『碧巌ところどころ』は読んでいたのだけれど、その著書の最後に置かれている≪遺稿≫を、ぼくは読むことなくやりすごしていたのだ。
野口晴哉の≪遺稿≫に目を向けさせてくれたのは、松岡正剛による野口晴哉『整体入門』の書評である。
松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」のなかに、野口の著作の書評があり、ぼくは松岡正剛に教えられたわけだ。
野口晴哉の遺稿は、昭和51年に書かれた。
野口晴哉がこの世を去った年だ。
「我は去る也」と書く野口晴哉が、実際にこの世を去ることを予感していたかは、ここの文章からはわからない。
「箱根に移る」と書かれているから、「我は去る」先は、ひとまず箱根であった。
世を去ることにしろ、箱根に移るにしろ、野口晴哉は「伝え授けることのむづかしさ」を深く深く感じながら、この遺稿を書いている。
我は去る也 誰にも会うこと無し
…
我は去る也 心伝え 技授け 今や残す可き何も無し
伝え授けることむづかしき也 我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也 我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也 所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
伝え授けること、またそれを止めることの比喩として、野口は「空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也」とも書いている。
伝え授けることのむづかしさは、空中に文字を画くようなもの、あるいは空中への放言のようなものだと、語られている。
あの野口晴哉でさえ、というか、野口晴哉だからこそ一層に、そのように深いところで感じていたのかもしれないと、ぼくは遺稿の「余白」を読む。
松岡正剛は、なぜ「我は去る也」と書いたのかをかんがえながら、野口のような独創の持ち主のまわりには多くの人たちがあつまりながらも、多くは野口を生かそうとは思わず、野口はそこに疲れ、失望したのだろうという考えにいきつく。
松岡正剛はそこでギアを変え、しかし野口晴哉が残した整体は、逆に後世に着実に広まっていったことに着目している。
松岡正剛は次のように書いている。
なぜ野口の意志をこえて広まったのか。野口が主題ではなく、思想ではなく、方法を開発したからなのである。野口は「方法の魂」を残したのだ。野口自身はその方法を早くに開発していたから、そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、いつだって勝手なものなのだ。
松岡正剛「野口晴哉 整体入門」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」より
松岡正剛の解釈に教えられながらも、ぼくは、ぼくだって勝手なものかもしれないとも思う。
ぼくは野口晴哉の「思い」から入って、「方法」は後回しだ。
そのような思いを抱きながら、野口晴哉の「我は去る也」が、ぼくの心にとどまって、去ろうとしない。
人間に、人間の身体に真摯に向き合ってきた野口晴哉と養老孟司。
野口晴哉の「遺稿」と養老孟司の「遺言」。
二人の巨人に、ぼくは真摯に向き合うだけだ。
「我は授けしと思えど 何も会得せざる」と、野口晴哉が空中に放言されようとも。
遺稿と共に、野口晴哉の次の言葉が、ぼくの心に鳴り響いている。
溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社