最初の「扉」となった書籍 - "The Success Principles"
自己成長・自己啓発関連の書籍の中で、最初の「扉」となった書籍は
Jack Canfield “The Success Principles”であった。
2007年初頭、休暇を過ごすために東ティモールから来ていた
香港の書店で、ぼくは、たまたま、この書籍を手にする。
ずっしりと厚さと重みのある書籍である。
「成功原則」が67項目にわたり書かれた書籍で、600頁以上もある。
(日本語翻訳版は、項目を絞って出版されている。
読みやすい英語であるから、ぜひ英語でも読んでほしい著作である。)
600頁以上もあるけれど、休暇中のぼくは、シドニーシェルダンの
小説を読むがごとく、時間も忘れてのめりこんでしまった。
「成功原則」は、できるものから、すぐに実行に移した。
東ティモールに戻ってからも、実際にワークショップで使ってみた。
ぼくにとっては、すぐに「結果」が伴うものではなかったけれど、
今の時点から見ると、いろいろな仕方で「結果」が出てきている。
また、書籍は、様々なトレーナーやスピーカーや著者などの情報に
充ちていて、ぼくは、この書籍を「基地」として、様々に探求して
いくことになったのだ。
書籍は、このような「基地」があると、その拡がりをみせていく。
そのような書籍に出会えたことは、奇跡である。
「旧正月」を生きる
香港や中国、その他中華圏では、毎年1月あるいは2月には、旧正月を迎える。
旧暦による正月で、時期は毎年変わる。
2017年は1月28日が旧正月にあたる。
海外に出て、旧正月が生活や仕事の中に入り込んできたのは、
東ティモールでのことであった。
東ティモールでは、中国系インドネシア人がビジネスを展開していた。
例えば、建設用の資材などを扱う店などである。
ぼくたちも、プロジェクト用の資材を調達する必要があり、
しばしば店に足を運んだ。
ただし、旧正月前後は、資材の入荷がストップした。
店の「ボス」である中国系インドネシア人も、休暇を過ごすため
国外に出てしまい、交渉ごとなどが滞ってしまう。
だから、旧正月を見越し、プランを立てる必要があった。
2007年に香港に移住してからは、旧正月は完全に生活の一部となった。
香港では、旧正月に始まる3日間は、法定の休日である。
今でも、香港の方や華人の方から、聞かれる。
「日本は、旧正月は祝うのですか?」
「日本は旧正月は祝いません。1月1日です」と回答をしながら、
時折、ぼくは考え込んでしまう。
日本も明治維新の前は旧正月を祝っていたという。
旧正月を祝っていた日本人は、どのような感覚を持っていたのだろう。
旧正月を祝うことには、すっかり慣れてしまった。
旧正月が明けると、新年が完全に明けたことを感じる。
春の訪れを微かに感じながら、自分の1年プランをレビューし、
ぼくは1年の一歩を進む。
紛争とクラシック音楽
最近はクラシック音楽を聴くようになった。
香港で、クラシック音楽を聴く。
香港には、世界から一流の奏者がやってくる。
規模が小さい香港だけれど、これはよいところだ。
Lang Lang以外であれば、チケットも比較的容易に手にはいる。
それにしても、ぼくにとってのクラシック音楽は、小学生から
10代にかけて退屈極まりない音楽であった。
だから、ぼくは、ロックやパンクロックにはまっていく。
10代は、そのような音楽のバンド活動に熱中していったのだ。
時を経て、ぼくは、海外ではたらくようになる。
最初の赴任地は、西アフリカのシエラレオネ。
赴任した当初2002年は、紛争終結後間もない時期である。
国連が組織する平和維持軍が駐屯する国であった。
シエラレオネでは、紛争の傷跡を見て、心身の深い痛みを
負う人たちと接触し、暮らし、仕事をしていく。
そのような生活をおくっていくなかで、いつからか、ぼくは
クラシック音楽を聴くようになっていた。
そもそも、クラシック音楽が生まれた時代は、
戦争や紛争が絶えない時代でもあった。
クラシック音楽の美しい調べには、痛みや悲しみが
埋め込まれているのだ。
クラシック音楽を聴きながら、ぼくは、音楽がつくられた時代の
人たちのことを思う。
そして、この現代において戦争や紛争に翻弄されてきた人たちの
痛みや悲しみを感じ、祈りと微かに光る希望を抱く。
「偏見」からの出口
「〇〇人」とか、「貧困」とか、人は「カテゴリー」を使いながら生きている。
でも、それらカテゴリーには、時代の「偏見」や世間の「偏見」が染みついている。
メディアの情報や他人が口にしていた情報が積もる。
それら「偏見」は、想像の中で肥大する。
肥大した「偏見」は、いつしか「偏見」の衣をぬぎさる。
「当然のこと」として、ぼくたちの思考に住みつくのだ。
「偏見」からの出口のひとつは、「固有名詞」との出会いだ。
「〇〇人」であれば、「〇〇人である」人と直接に出会っていくこと。
一緒に話をしたり、行動を共にしていくことである。
東ティモールにいるとき、ぼくは、「ポルトガル人」に対して「偏見」的なものを抱いていた(東ティモールは、昔はポルトガル領であった)。
でも、あるとき、実際に「ポルトガル人」の方と共に休日を過ごすことがあった。
その際に、ポルトガル人の「カテゴリー」が消えていく感覚をぼくはもった。
カテゴリーではなく、個人になったのだ。
「カテゴリー」は、生きていく上で有用である。
「考える」ことは、「物事を分ける」ことである。
カテゴリー化することである。
そのことで、人類が得たものは、はてしなく大きい。
他方で、失ってきたもの、弊害をもってきたものも大きい。
だから、「偏見」からの出口は、「固有名詞」との出会いである。
そして、他者からは、ぼくも「固有名詞」である。
ぼくが、他者の偏見に対して「出口を照らすこと」もできる。
「世界を生ききる」上で、大切なスタンスである。
「自分の旅」を急ぎすぎない
人は、時に(あるいはしばしば)、旅路を急ぎたくなる。
メタファーとしての「人生の旅」でも、人は「成功」を急ぐ。
これが欲しい、あれが欲しい。今、欲しい。出来る限り早く欲しい。
あのようになりたい。今、なりたい。
誰しもが、自身の経験の内に、そのような衝動をもっている。
「実際の旅」でも、例えば、トレッキングやハイキングで、
目的地への早い「到着」(「成功」!)を衝動する。
トレッキングで思い出すのは、ニュージーランドでの経験である。
大学を休学して滞在していたニュージーランド。
ぼくは、そこで、トレッキングをしていた。
数日かけてまわるコースである。
政府に管理される山小屋から山小屋に移動していく。
数時間で移動できる場合もあれば、
場所によっては、午前に出て夕方近くまでかかることもある。
ぼくは、朝早く山小屋を出発する。
冬が終わり、しかし、まだ山頂には雪が見える光景である。
そのなか、ぼくはトレッキングコースを急ぐ。
5時間もかからない内、お昼過ぎには、ぼくは次の山小屋に到着する。
そこでゆっくりしていると、夕方くらいに、一人のトレッカーが到着する。
1日かけての到着である。
なぜこんなに遅い時間に到着なのだろう。
スウェーデンから休暇で来ているという彼女。
ぼくは、彼女から、その後も忘れられない言葉を贈られる。
「ジュン、あなたは道中何を見てきたの?」
彼女は、道の脇に咲く花や草木を、心から堪能してきたのだ。
ぼくは、返す言葉がなかった。
人生の道中を急ぎすぎていると気付いたとき、
ぼくは、彼女から教わった、とても大切なことを思い出す。
そして、自分に問いかける。
「ジュン、君はそんなに急いでどこに行くんだ?
道の脇では、いっぱいの花々や草木が、君に微笑んでいるのに。」
世界を変える?(理論編)
「世界を変える」ではなく、世界が変わっていく。
「~すべき」「~あるべき」という肩肘張った説法ではなく、また様々な形で発現する「暴力」という仕方でもなく、世界が変わっていく。
「生き方の魅力性」(見田宗介)という魅力的な仕方で、世界が拓かれていく。
魅力的な生き方に、人が変わっていく。
ある人が変わることで、人と人との「関係性」も変わっていく。
人と人との「関係性」は、「社会」である。
「社会」の連鎖が、「世界」である。
「生き方の魅力性」と「生き方の魅力性」が、相乗的に、拡がっていく。
そんな生き方ができる時代にぼくたちはいる。
東ティモールでの「バックミュージック」
人生には「バックミュージック」が流れている。
あの風景、あの場面、あの状況に、バックミュージックが流れている。
東ティモールに住んでいたとき、二つの音楽が、ぼくのバックミュージックであった。
一つは、五輪真弓の「心の友」である。
インドネシアでも大ヒットしたこの曲は、東ティモールでも人々の心を捉えていた。
なぜか、この曲は、東ティモールという土地にしみこんでいく。
そして、もう一つは、ブライアン・アダムスの音楽である。
2005年前後、ぼくは、東ティモールで、ブライアン・アダムスの音楽をいろいろな場面で聞いていた。
信号もない首都のディリ。夜はわずかに光る街灯。その風景の中で、ブライアン・アダムスが、バラードを歌う歌声は、心情の深くに響くメロディーを届けていた。
音楽は、その場所にいるときにも増して、その土地を離れ耳にするときに、ぼくたちの心情をさらっていく。
音楽は、時間も、そして空間も超えていく。
2017年1月。ブライアンが、香港のステージで、「(Everything I Do) I Do It For You」を歌うのを聴きながら、ぼくの心情は「あの世界」に運ばれていく。
シエラレオネと言葉
2002年から2003年にかけて、ぼくは、西アフリカのシエラレオネで仕事をしていた。
シエラレオネで仕事をしているとき、ぼくは、感じていること・思っていること・考えていることを「言葉化」することが、ひどくつらくなってしまった。
仕事をこなしていくこと、現実に対応していくことで精一杯であったこともある。
ひどく混乱してしまったこともある。
仕事が終わると、ぼくは事務所(兼住居)の前に椅子を持ち出し、考え事にふける日々が続いた。
「現実」の中で、言葉を失ってしまった。
「現実」に圧倒されてしまった。
シエラレオネには延べ1年近く滞在することになったのだけれども、ぼくは、言葉を紡ぎ出すことができなかった。
人は、時として、自分の言葉を凌駕するような現実に出会う。
自分の言語空間がつくりかえられていく経験をする。
破壊と創造。
社会学者の見田宗介が、バタイユの言葉を転換して述べるように、「創られながら創ること」。
何かを創ってきたというよりは、創られてきたという感覚の方が大きい。
シエラレオネでの仕事から、10年以上が経過して、ぼくはようやく「自分の言葉」をつむぎだしていく素地ができた。
ぼくは、今こうして、言葉をつむいでいる。
写真家との出会い - シエラレオネにて
2003年にシエラレオネで仕事をしていたとき、ある写真家の方に出会った。
写真家の彼は、岩波書店の戦争シリーズのなかの1巻を創作するために、西アフリカのシエラレオネとリベリアに取材に来るという。ひどく忙しい日々がつづいていたけれど、同世代の彼の取材に、ぼくは出来る限りの協力を提供した。
彼と過ごす内に、彼がパレスチナで片目を喪失したこと、彼の父親は自殺されたことなどを知ることになった。そんな彼が、戦争の途方もない傷痕を負ったシエラレオネの人々と、笑顔で陽気に戯れている姿を見ていると、彼自身の痛みや哀しさが、シエラレオネの人々の痛みや哀しさと、底のほうで共振しているように、ぼくには見えた。
その彼が、当時内戦が続くリベリアに旅立っていった。首都モンロビアはまだ銃撃戦がつづいている危険地帯。一歩間違えば、確実に生命を落とす空間。シエラレオネのスタッフたちを含め、皆が心配していた。
その後、彼から連絡もないまま、ぼくは日本で休暇を過ごすことになる。その移動のため、シエラレオネの首都フリータウンの空港にいたぼくは、そこで偶然にも、彼に再会した。懐かしい声が遠くから聞こえ、ぼくは驚嘆と共に安堵したことを覚えている。彼も、リベリアでの取材を終え、日本に帰国する途上であった。
飛行機を待つ間、また飛行機の中で、またロンドンの空港で、ぼくは彼の話に耳をかたむける。リベリアの首都モンロビアの街中は依然として戦闘が続き、死体は散乱し、コレラが子供の命を奪っている。フリータウンの空港では、CNNがモンロビアの状況を映し出していた。瞬間、ぼくの身体にはとても冷たいものが貫き、身体が悲しみでいっぱいになった。身体の悲しみはとめどなく湧いてくる。なぜか、シエラレオネの人々の悲哀と憎悪が、ぼくの身体と心にどくどくと浸透してくるのであった。シエラレオネを離れ、ロンドン経由で日本に帰国したぼくは、気づかない内に、身体に多くのものを背負っていた。
「彼」の作品は、その後、雑誌『アエラ』に掲載され、また当初の目的どおり、ひとつの作品となった。
彼が後日送ってくれた、その作品、亀山亮『アフリカ 忘れ去られた戦争』(岩波書店)というフォト・ドキュメンタリーの写真一枚一枚に引き込まれ、ぼくは、身体と心にひどい痛みを感じる。
でも同時に、痛みを知る彼だからこそ、そんな作品ができたのだとも感じる。見るたびに、痛みが身体に伝わってくる写真を見ながら、ぼくはアフリカの戦争とそこに住む人々に思いを馳せる。そして、亮さんの一連の写真に時折織り込まれている、人々の絶望的なまでの「祈り」の写真のように、ぼくも心で絶望的なまでに叫びながら、でも静かに、この世界に光をさがす。
香港における「安心」
香港は「お金」だと言われる。
企業と人との関わりも「お金」が中心である、と言われる。
お金を「汚いもの」と見がちな日本人は、お金での繋がりは「企業に対してロイヤリティがない」と感じる。
香港という「不安定な都市」では、お金は「安心」である。
頼るのは、家族とお金である。
人生の「根」が、そこに在る。
でも、だからこそ、家族とお金だけではない「根」を探し求める人たちもいる。
新しい「コミュニティ」が、どう形成され、どこに向かうのか。
「自己啓発」という領域との出会い
書籍カテゴリーに、「自己啓発」という領域がある。
多くの人たちが、敬遠してしまう領域でもある。
「自己啓発」(英語では、Self-help)という言葉に、文化や環境に規定される特定の負のイメージがすりこまれているからかもしれない。ぼくも、自己啓発という「言い方」には、しっくりこない感覚をもってきた。
2007年2月、束の間の休暇を過ごすために、東ティモールからインドネシアのバリを経由して香港に向かう飛行機の中で、ぼくの考えは変わった。キャセイ航空の音楽プログラムの中に、自己啓発のオーディオブックがあり、ふとしたところから、ぼくはそのプログラムを選び取った。そこで語られる話に、ぼくは聞き入ってしまったのだ。バリから香港に向かう青い空の中で、ぼくの人生は、飛行機と共に旋回していた。
今でも、この変化がどうして起こったのか、ぼくにはわからない。
東ティモール争乱が一段落した後、ぼくの心が「落ち着き」を求めていたからかもしれない。そのオーディオブックは、静かな語りで、ぼくに言葉を届けていた。
次のステージに向かう途上の変化であったのかもしれない。人生のステージが一段上がるような経験をするとき、ぼくたちは、そのような、説明不能な出来事に出会う。
その出来事から、ぼくは、自己啓発の領域で学び、実践し、その限界と可能性を感じてきた。だから、今では、「自己啓発」という言葉にはとらわれない。本質は著者との出会いである。そして、著者を通した自分との対話であり、その対話を生かすのも生かさないのも、自分次第である。でも、出会いがほんとうの「出会い」であれば、それは必ず、ぼくたちの人生を彩ってくれる。
本屋と香港
2016年も、その終わりに近づいていた頃、(当時勤務していた)事務所近くに位置している大型書店が閉鎖された。
それは突然の出来事としてやってきた。
お昼のランチを買いに、ショッピングモールの人混みをかきわけながら、ぼくはその書店の入り口が閉じられていることに気づく。
張り紙をみると「一時的」な閉鎖であるように見受けられる。
でも、その後、一向に店舗が開く様子がないところ、ニュースで、その書店が「完全に」閉鎖されたことを知る。
「本」が読まれなくなってきているなか、あるいは電子書籍が普及していくなか、書店の閉鎖は予期せぬものではないけれど、それはやはりショッキングであった。
ぼくは、人生や仕事で悩んでいるとき、本屋にいく。東ティモールの騒乱から日本へ一時避難していたときもそうだし、ここ香港でも同じである。
人は、インターネット上に広がる「情報」を得る。検索エンジンでキーワードをタイプし、「答え」を求める。ぼくも時にはそうする。得たものも多いけれど、ぼくたちは、そこに、「何か」を失ってしまったように感じる。
紛争と本屋 - 東ティモール騒乱から
2006年、東ティモールでの騒乱から逃れ、インドネシアのジャカルタを経由して東京に戻る。
銃弾が飛ぶ音がぼくの意識に残る。
小さな、はじけるような音がすると、身体がびくっと反応する。
車両から降りて、建物の敷地に入った途端に、後ろで銃撃戦が繰り広げられる。
何時間にも渡って、断続的に、銃撃音が鳴り響く。
銃弾だけでなく、石が投げつけられる怖さから、ひらけた空間が居心地が悪い。
一度、ぼくたちの車両が、走行中に大きな石を投げつけられたことがある。
幸いにも、車窓ではなく、車体にあたった。
戦争は、ぼくを、どこか、荒涼とした心情空間に投げ込む。
東京に戻ったぼくは、気がつくと、渋谷の本屋さんに立ち寄っている。
本屋さんに広がる、様々な想像や物語が、ぼくの荒涼とした心情空間に色彩を与え、そっと癒してくれる。
東京に戻り、そんな日々が続く。
本屋さんで見つける、何でもないタイトルに、心が温まる。
ぼくと「見田宗介=真木悠介」
人生を変えた書籍は?と聞かれるならば、ぼくは迷わず「見田宗介=真木悠介」(社会学者)の著作を挙げる。
時代と社会と人生に対してキリキリとし冷めた感情を抱いていた大学生のとき、ぼくは、真木悠介『気流の鳴る音』に出会う。今となっては、どの著作が最初の出会いであったかは定かではない。だけれど、『気流の鳴る音』を読みながら、ぼくの視界に(字義通り)光がさしていくのを、新宿駅の埼京線プラットフォームに向けて階段を上がりながら感じていたことを、ぼくは20年経った今でも覚えている。
『気流の鳴る音』との出会いからは、「見田宗介=真木悠介」の著作を、片っ端から探して、買い求め、何度も何度も読み返してきた。彼の文章は「難解」である。それは複雑さから「難解」なのではない。思考の深さに初めて降りていくときの「難解さ」である。だから、ぼくは、身体に染み込むまで、著作を読み返した。そこに、きっと、「何か」があると、確信していたから。
大学を卒業し、大学院で「途上国の開発学」を学んでいたときも、そして開発学の実践として紛争地でNGO職員として仕事をしていたときも、ぼくの横には、いつも「見田宗介=真木悠介」の著作があった。
くたくたになって帰宅する日、「見田宗介=真木悠介」の文章は、ぼくの身体を癒してくれる。どんなに疲れている日でも、「見田宗介=真木悠介」の文章世界に、ぼくはそっと入っていくことができる。
「ブログ」を始めるにあたって
「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きていく」ために。
そして、世界の各地で、「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きている」人たちと、相乗的に、生き方の魅力性を形づくっていくために。
そのような思考や行動、その形としてのプロジェクトといったことの「源泉」となるようなことをここに書いていきたい。2017年は、毎日書いていく。
自分に課す(「課す」といっても、ゆるい方向性だけれど)指針は、次のようである。
- 「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きていく」ための文章であること。書くことそれ自体が「歓び」であること。
- 「創られながら創ること」(*後日書きます)をスタンスとすること。
- ブログだけに終わらせるのではなく、行動やプロジェクト等に変容させていくこと。
また、特定の民族・政治・信条・宗教などにかかわりなく、「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きていく」人たちを念頭に書いていく。
領域は、随時形を変えていくけれど、イメージとしては下記のようになる。
・土台と構想:
社会構想。ライフスタイルの変革。「見田宗介=真木悠介」。人・社会と自然。宇宙の視点。等々。
・方法論:
自己啓発。成長。リレーションシップ。起業。書籍。「言葉」や「定義」を変えること。等々。
・行動と実践:
「シエラレオネから東ティモール、そして香港へ」。ニュージーランド。海外(日本の外)での生活。NGO/NPO。人事労務コンサルタント。起業。書籍から学ぶ。等々。
なお、当面は日本語で開始し、後に準備が整い次第、一部は英語でもはじめていく予定である。
香港に居をうつして、ほぼ10年。
香港に来る前は、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール。
そこで、ぼくがやってきたことは、「ほんとうに歓びに充ちた現在を生きる」ことであったように、ぼくは思う。
うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともある。
そのようなことすべて含めての「歓び」である。
これまで出会ってきた人たちを思い起こしながら、そして、これから出会うであろう人たちを想像しながら、ぼくは、この「ブログ」にて、言葉を紡いでいきたい。