音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima

「音楽ストリーミング」の時代のなかで。- 香港でその「移行期」を通過しながら。

ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。

先日(2018年12月18日)に、ここ香港のHMVの店舗が清算手続きに入ったとのニュースが入り、実際にHMVの店舗が閉じられているのを目にして、後もどりすることのない時代の流れを感じる。CDやDVDなどに代わり、Apple MusicやSpotifyなどの「音楽ストリーミング」サービスが主流となる。

香港のHMVは25年ほど前に香港に登場し、音楽シーンの中心的役割の一端を担ってきた。ぼくが香港に来た2007年、HMVには多くの人たちが出入りしていた。

当時は、映画などはDVDだけでなく、VCDもあって、HMV内にもVCDコーナーが設置されていた。音楽CDの品揃えは香港内ではやはり群を抜いていたから、ぼくは時間を見つけては、銅鑼灣(Causeway Bay)、中環(Central)、九龍湾(Kowloon Bay)のHMVに立ち寄ったものだ。

驚いたのは、日本で購入するよりもリーズナブルな価格でCDもDVDも購入できたこと。そんなこともあって、結構いろいろなCDとDVDを香港のHMVで手に入れた。当時よく聴くようになっていたクラシック音楽をはじめ、香港の生活のなかで縁の深かったビーチボーイズ(特に、名盤「ペット・サウンズ」)など、ぼくの香港生活においてなくてはならない「音楽」は、その多くをぼくは香港HMVで手に入れたのであった。

香港で、CDとコンサートがひとつの「セット」のような仕方で、ぼくは音楽を楽しんできたと、10年以上の香港生活をふりかえってみて思う。

ノルウェイのピアニストであるLeif Ove Andsnesが弾く「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850を、その息づかいが身体にしみこむまでCDで聴いていたところ、彼がマーラー室内管弦楽団とともに香港にやってきた。ピアノを弾きながら指揮をするという興味深い形式のなか、とても親密で繊細な音楽を、この身体で聴くことができた。

ビーチボーイズも50周年記念のコンサートツアーで香港にやってきた。ブライアン・ウィルソンの存在感とともに、休憩を挟んで3時間におよぶパワフルなステージを堪能できた。

Coldplayも、ぼくは香港に住みながら初めてその音楽に触れ、そして、香港のコンサート会場で、一体感につつまれるあの音楽を楽しむことができた。


でも、このような時間的経過のなかで、音楽が提供される「形式」は、深い変遷のなかにあったのだ。iPodのなかに収められる音楽の曲たちは、いつからかiPhoneなどのスマートフォンのなかに移住してゆく。CDからiTunesを通してiPodに収められた音楽の曲たちは、いまでは、Apple Musicのような「音楽ストリーミング」サービスによって、いつでも、どこでも、ぼくたちの手元と耳に届くようになった。

さらにぼくが生きてきた40年余りの時系列のなかに音楽媒体を見渡すと、レコードとカセット、CD(またMD)、それからデジタルへと、音楽媒体は目まぐるしい変遷をとげてきたことを思う。これらの変遷が、たった40年近くのあいだに、一気に進んだのだ。そんな特別な時代に、ぼくは生きている。

カセットテープは10代の頃、重宝した。その当時のだれもがしていたように、じぶんなりの曲構成で、オリジナルのカセットテープを作成したりしていた。1996年にニュージーランドにいるときは、なぜかカセットテープがよく売られていて、CDに比べ安価だったから、ぼくはカセットテープと共に生活していた。

レコードはレコードがコレクターアイテムとして扱われるようになってからも、ぼくはときどき聴いていた。東京の街で、ビートルズのレコード盤を手に入れ、そこに、1960年代の音を聴いた。

それからCDも、東京の街をいろいろと歩きまわりながら手に入れた。香港に移ってからも、香港HMVで、それは続いたのであった。


この10年をふりかえって、CDやDVD離れの傾向のなか、香港HMVもずいぶんと、いろいろな手立てを立てて、存続を企図してきていた。ヘッドフォンなどの機器類、レコードのレア品、本や雑誌、グッズ、レストラン併設など、幅を広げてきていた。でも、確実に、出入りする人は減っていた。

その減少と入れ替わるようにして出現してきた「音楽ストリーミング」、またNetflixのような「映像ストリーミング」。これらの時代の到来は明らかであったし、だれもが実感していることではある。でも、実際に、店舗が閉じられるということになってみて、この時代の変遷がいっそう、実感をともなって感じられる。


必然の流れでありながら、やはり寂しくも感じる。でもよい面だって、ある。ストリーミングという形式は、CDやDVDのような「マテリアル・物質」に依存することなく、現代社会の抱える環境・資源問題から、より自由な仕方で(環境への負担を軽減し、資源収奪的な要素が減った形で)、音楽や映像を共有することができるということでもある。

そして、あたりまえのことだけれど、「音楽」を聴くことができないわけではないし、「音楽」が聴かれなくなったというわけではない。「音楽」はなくならない。東京の街や香港の街を歩きながら、聴きたかった音楽、あるいは予期もしない音楽に出会うという楽しみはなくなったけれど、音楽との「出会い」そのものがなくなるわけではない。

「音楽ストリーミング」という何千万曲もの音楽を収めた音楽ライブラリーの宇宙が、手元に存在している。その宇宙の入り口が、手元にあるのだ。音楽を聴く者としては、それは夢のような世界だ。

もちろん、音楽産業(音楽を作ったり販売したり配信したりする側)としては、異なる見方がいろいろあるだろう。

この文章を書きながら、だいぶ前(数年前)に手に入れた著作『How Music Got Free: The End of An Industry, The Turn of The Century, And The Patient Zero of Piracy』by Stephen Witt(Viking, 2015)のこと、その本をまだほとんど読んでいないことを思い出した。(ぼくにとって)この本を読むタイミングが熟したのかもしれない。

詳細を確認
香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港の「エスカレーター」の利用のこと。- 日本と香港の「片側空けのマナー」から。

日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む。

日本のJR東日本が(JR東日本はもちろん日本だけれど、ぼくは香港で書いているので「日本の」という形容詞を付ける)、東京駅で「エスカレーター歩行対策」を試行していることを、ネットのニュースで読む(乗りものニュース「危険なマナー『片側空け』は変わるか エスカレーター「歩かないで!」東京駅で対策)。

急いでいる人のためにエスカレーターの右側を空けることが、東京や東京周辺で「マナー」となっているなかで、エスカレーターの「片側空け」というマナーを変えようというのだ(この「マナー」がはたして、日本のどのくらいの地域に及んでいるかはぼくは知らないけれど)。こうして、エスカレーターでは歩かないこと、手すりにつかまること、左右2列で乗ることなどが、推奨されている。

消費者庁にデータも掲載されていて、東京消防庁管内では2013年までの3年間で、なんと、3865人がエスカレーターでの事故(ほとんどが点灯・転落)で救急搬送されているという。数値で見ると、問題がよりいっそう深刻さの容貌を見せる。

歩行対策によってエスカレーターを歩く人は減ったようだけれど、「意識を切り替えてもらう」ことの難しさを、JR東日本の担当者の方は語っている。

ニュースを読みながら、ここ香港での状況が、ぼくの頭のなかで交差してくる。

香港の「エスカレーターの状況」をかんたんに述べておくと、3つのことが挙げられる。


● エスカレーターの「スピードが速い」

● エスカレーターの「片側空け」は香港でもマナーとなっている(つまり、急いでいる人は片側を歩く)

● (東京と逆で)「左側」を空ける(つまり、急いでいる人は左側を歩く)


香港に長く住んできた今となっては慣れてしまったけれど、香港のエスカレーターの「スピード」は、圧倒的に速い。場所によっても(またメーカーによっても)異なるけれど、日本の1.5倍~2倍の速さはあるのではないかと思う。日本のエスカレーターに慣れていたぼくにとって、最初の頃、少し怖いくらいの速さであった。

でも「慣れ」というものはすごいもので、香港のエスカレーターの速さに慣れてしまうと、今度は日本のエスカレーターの遅さにイライラしてしまったこともある。とにもかくにも、香港のエスカレーターは速い。


その速いエスカレーターであっても、香港の「速さ」をカバーしきれないようで、「片側空け」は香港でもマナーとなっている。そして上述のように、東京とは逆で、「左側」を空ける。日本に戻ったときに、ぼくはつい「左側」を空けてしまうこともあったし、逆に、香港に戻ってきて、つい「右側」を空けてしまうこともあった。

はたして、左側や右側を覚えているのは、意識なのか、身体なのか、あるいはそのあわいのような心身なのか。

いずれにしろ、速いスピードで動くエスカレーターの、空いた片側を、急いでいる人は、また空いた片側に押し出された人は、歩くことになる。下りのときは、歩くというよりも、早歩きとなるといったほうが正確である。

ぼくも以前は、急いでいるときや列ができているときは空いている片側を歩いたし、今でも、人がいっぱいのときは、空いている片側を歩いたりする。空いているときなどは歩かないし、また歩くときにも、せめて、手すりに手をかけながら歩くようにはしている。

さらに、香港では、しばしばエスカレーターが不調を起こし、ショッピングモールなどのエスカレーターでは、2列(上がりと下り)のエスカレーターの一方を止めて修理にかかり、もう一方のエスカレーターも止めて「歩く」ために開放する。つまり、止まったエスカレーターを、上がる人と下る人が共有するのだ。段差があるから、上がるのは大変だし、下るのは気をつけなければならない。この状況が結構頻繁に発生することになる。


香港と日本との共通性としてくくりだすのであれば(もちろん個人差は多分にあるし一概には言えることではないことは承知のうえで言えば)、「急ぐ」ということが挙げられる。けれども、その内実は、香港では「速さ」、日本では「時間の正確性」というところに重心を置いた「急ぐ」である。

そんなことをぼくは考える。

それにしても、エスカレーターの利用の仕方を、啓蒙的に(たとえばポスターなどのメッセージで)変えることは、やはりむずかしい。

香港のエスカレーターを利用しながら、ぼくの意識と利用の仕方が少しなりとも変化をしてきたのは、じぶんをあるいは周りをより客観的に見る、ということによってであった。

エスカレーターの空いている片側を歩くことでどれだけの「時間」を短縮できるか、ということを実感したり、あるいは観察してみると、使うエネルギーの割にはそれほどの短縮効果がないことを、ぼくはあるときに客観的に考えた。あるいは、状況を見ながら、やはり2列でエスカレーターを利用したほうが、総体的にはエスカレーターの運搬能力は高いことがわかる。

ときには、「エスカレーターの利用の仕方」ということを超えたところ、じぶんの生きかたを見直してゆく過程で、たとえば心に「余裕」をもちたいと思ったこともあった。駅では、階段を使うことで少しでも身体を使おうと心がけることもある。そのような経験のなかで、ぼくの意識や行動は多少なりとも変わってきたように、ぼくは思う。

「エスカレーターの利用」の意識を変えるためには、「エスカレーターの利用」を超えたところに意識や行動が向かうことが、ぼくにとっては有効であったのだ。それは大きく言えば、生きかたを変えてゆくことでもある。

詳細を確認
成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

じぶんにとって「適切」な方法をみつけること。-「すべき」「あらねばならない」を「方法のひとつ」として捉える。

年末年始ともなると、いろいろな「…すべき」「…あらねばならない」「…したほうがよい」などの言説が、周りやメディアなどで語られ、伝えられる。

年末年始ともなると、いろいろな「…すべき」「…あらねばならない」「…したほうがよい」などの言説が、周りやメディアなどで語られ、伝えられる。

年末には掃除をしなければならない、年末には一年を振り返らなければならない、年始には先一年の抱負や計画を持たなければならない、最後が肝心(だから…すべき)あるいは最初が肝心(だから…すべき)、などなど。

もちろん、集団(家族や組織やコミュニティなど)で生きているなかでは、年末に掃除をしたり、一年を一緒に振り返ったり、あるいは計画を立てたりする。それは大事なことであったりする。このような所作は、ある種の「共同体の知恵」として機能してきたような部分があると、ぼくは思う。

けれども、個人ということにおいては、自由に、じぶんにとって「適切な」やりかた・ありかたに開かれてよいのだと思う。

これだって「…のほうがよい」という言い方だけれども、AとBのどちらかがよい、というのではなく、AもBもよい、という言い方である。選択を迫る言い方ではなく、選択をひろげる言い方である。

年末に掃除をしてもよいし、しなくてもよい。年末に一年を振り返ってもよいし、振り返らなくてもよい。年始に抱負や計画を立ててもよいし、立てなくてもよい。


これらの「言葉」だけをひろってみると、ここで問われているのは、「時間・タイミング」と「行動」である。

「時間・タイミング」ということでは、ぼくは「いつだっていい」と思う。「年末年始にする」ということは、「年末年始以外ではしない」ともなりかねない。

掃除であれば、「いつも」である。じぶんにあったタイミングで、掃除(整理整頓)をする。じぶんとの対話のなかで、あるいは実感のなかで、なにか行き詰まってしまっているようなとき、なにかうまくいかないとき、なにかやる気がおきないときなど、周りを整理整頓してみる。といった具合に。

「行動」ということでは、じぶんの「うごきかた」でいい。たとえば、計画を立てるのが合う人もいれば、逆にその場・その時に物事をきりひらいてゆくのが合う人もいる。このように「人によって」という見方もあるし、同じ人であっても、時期によって、計画を立てるのがいいときもあれば、物事をその場・その時できりひらくのがいいときもある。

大切なのは、「じぶんの方法」を、試行錯誤しながら、見つけてゆくことである。試行錯誤なしで、すぐに見つかるかもしれない。でも、方法は変わらなくても、じぶんが変わってゆくこともある。「じぶん」も、「方法」も変わってゆく。絶対的な方法なんてことも、ない。「じぶん」という存在とありかた、じぶんの内面と外面で起きていること(と双方の連関)、これらへのまなざしが肝要なのだ。


だから、「すべき」「あらねばならない」という言葉で語られることは、「方法のひとつ」のオプションとして捉える。それが「いい・わるい」という反射的反応、あるいは「じぶんもそうすべき」という盲目の順応やプレッシャーで捉えるのではなく、あくまでも、方法のひとつとして、距離をおいて捉える。

そのうえで、方法のひとつとして、試行錯誤してみる。「それはないでしょ」という方法のなかに、じぶんにとって「最適」な方法が眠っているかもしれない。ぼくも、ひきつづき(これからもずっと)、試行錯誤と楽しい「気づき」のプロセスのなかにいる。

詳細を確認
成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima 成長・成熟, 書籍 Jun Nakajima

勝手に立てていた「見切り」の看板をはずす。- 電子書籍の「脚注(footnote)」の操作性の体験から。

たとえば『古事記」のような作品を電子書籍で読むことを、ずいぶんと長いあいだ、じぶんの「オプション」から外していた。


たとえば『古事記」のような作品を電子書籍で読むことを、ずいぶんと長いあいだ、じぶんの「オプション」から外していた。

古典作品だから紙の書籍でじっくり読みたいと思っていたのではなく、「脚注」が読みにくいのではないかと思っていたからだ。

はじめて読むときは脚注のついている箇所を読み飛ばしてゆくというのもひとつの方法だけれども、やはりいろいろと知らないことがあるし、また脚注に大切なこと(核心的なこと)が書かれていることもあるから、脚注は、いつも見るわけでなくとも、いつでも見れるようにしておきたいと、ぼくは思っている。

なかには、脚注に飛ぶ必要のないようにつくられている本もある。たとえば岩波文庫版の『論語』は、それぞれの言行録ごとに、原文・読み下し・現代語訳・簡単な注が記載されていて、わざわざ本のうしろの脚注に飛ぶ必要はないように工夫がほどこされている。とはいえ、言行録のそれぞれが「短い文章」だからできる工夫でもあるので、すべての本をそうするわけにはいかない。


でも、『古事記』をきっちりと読みたくなって、岩波文庫版の『古事記』を電子書籍で購入したら、ずいぶん長いあいだ、オプションではないと思っていた「見切り」は、ぼくの勝手な「見切り」であったことがわかる。

本文を読んでいて、脚注に飛びたいときは脚注をクリックすると脚注に飛ぶ。そうして脚注をふたたびクリックすると、その脚注が付されている本文の場所に戻ってくるのだ。

紙の本で読んでいるときよりも、容易だ。紙の本で読んでいるときは、脚注のページにしおりなどをさして、脚注のたびにそのページを開いていたけれど、そのプロセスがクリックで済んでしまう。

これは便利で、脚注の多い本も電子書籍でまったく問題ないというか、電子書籍のほうがよい部分もあるなと思っていたら、ふと、脚注に飛ぶのではなく、脚注をクリックするとページ下かどこかに脚注が現れるとさらによいなあと感じる。

そう感じながら、「あれ、アマゾンの電子書籍はどうだったかな」と思い、たしか脚注の多かったEdward Saidの著作『Orientalism』を開いて、脚注をたしかめる。そうしたら、なんと、脚注(Footnote)の番号をクリックすると、脚注がそのページの下に、くりだすようにして現れるのであった。さらに、そこから、巻末の脚注に飛ぶこともできる。

だいぶ前から、このような機能に変わっていたのだろうけれど、ぼくの理解と利用は、この「だいぶ前」で止まってしまっていたのだ。


電子書籍の「脚注」にかぎらず、ぼくたちは、生きているなかで、ものごとを、なんらかのタイミングで「見切る」ということをしてしまうことがある。これはこんなものかと見切って、そこに「見切り」の看板をじぶんで立ててしまう。

でも、あたりまえのことだけれど、人や社会は、時間とともに変わってゆく。「見切り」の看板を勝手に立てて、その後、その看板の背後の景色も内実もずいぶんと変わったのにもかかわらず、そこに立ち入ろうとしないのは、じぶんの思い込みのせいだったりする。

とりわけ、情報技術関連においては、「これはだめだな」という機能なりが、月や年が変わったら、だめではなくなったりする。

だから、ぼくたちが生きているあいだには「見切る」こともあるし、それが個人の生において大切なことであることもあるけれど、ひとまず「暫定的見切り」くらいにして、オープンな姿勢を保持しておきたい。

3D的な視線を超えて、4D、つまり3Dに時間軸を加える視線を身に付けたい。

詳細を確認
成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「人はなぜ塔をたてるのか」(辺見庸)。- 塔・タワーやピラミッドや巨大な遺跡の「表現」。

人はなぜ塔をたてるのか。辺見庸が2008年から2011年に書いた連載をひとつの本にした著書『水の透視画法』(集英社文庫、2013年)のなかに収められている短い文章のタイトル(「人はなぜ塔をたてるのか その身、低くあれ」)だ。

人はなぜ塔をたてるのか。

辺見庸が2008年から2011年に書いた連載をひとつの本にした著書『水の透視画法』(集英社文庫、2013年)のなかに収められている短い文章のタイトル(「人はなぜ塔をたてるのか その身、低くあれ」)だ。

もちろん、文章のタイトルでなくとも、だれもが問うことのできる、あるいはだれもが問うかもしれない問いだ。

実際に、この文章のなかでは、いくつかの病を経て身体を不自由にしつつある辺見庸にマッサージをほどこす中年のマッサージ師が、施術の途中に、この問いを辺見庸に問いかけるともなく、発した問いである。

マッサージ師の彼の話題は、いつもだしぬけだという。


「人ってどうしてばかたかい塔をたてがるんでしょうかね……」…「たかい塔を見ると、人はみんなのぼりたがるんですよね。わたしもそう。なんでですかね……」

辺見庸『水の透視画法』(集英社文庫、2013年)


彼の「問い」と彼がのぼった塔の名前(エッフェル塔、東京タワー、台北101、ドバイの塔など)を耳にしながら、辺見庸は返事をせず、しかし、これまでにのぼった塔の数を、じぶんでもかぞえてみる。

読みながら、ぼくもこれまでにのぼった塔を思いだしてみる。東京タワー、マカオのタワー、それからクアラルンプールのツイン・タワー……。そう思いだしながら、ぼくはあまりのぼっていないことに気づく。

ここ香港の「Sky100」も行ったことはない。台北101はその下まで行って、結局上に上がらなかった。と思いながら、香港の高層ビルは、どこも、まるで「塔」のようだとも思う。「塔」にのぼらなくても、そうとは明確に意識しないまでも、ぼくは、いつも「塔」にのぼっているのかもしれないと思ったりもする。


辺見庸のマッサージをつづける彼は、言葉をつづける。「人って見上げたり見おろしたりが好きなんですかね……」と。そして、「低くちゃあどうしていけないんですかね」というつぶやきを、辺見庸はなぜか<低くあれ>と、じぶんの耳では聞いたように感じる。さらに、「人はなぜ塔をたてるのか」というタイトルを見た時にぼくがどこかで想像していたように、辺見庸も「バベルの塔」を思い浮かべる。

「人はなぜ塔をたてるのか」の「なぜ」には直接的に応答することなく、施術も、それから、この短い文章も閉じられる。辺見庸がなぜか聞いた<低くあれ>のこたえをのこして。

「人はなぜ塔をたてるのか」という問いから、<低くあれ>のこたえのあいだは大きな断絶のように見えるけれども、バベルの塔の寓意の深さとも共振する、辺見庸の思念と思想と想像が、問いと(一見すると飛躍した)こたえを架橋している。


ところで「塔」ではないけれども、真木悠介はマヤ族の残した「ピラミッド」にのぼり、どこまでもひろがる樹海と、樹海から突出する他のピラミッドを目にしながら、「ピラミッド」について、つぎのように記している。


…視界のつづくかぎり、ほぼ同じ高さの緑のジャングルの地をおおう中を、ピラミッドだけが突出している。それが人間に視界を与える。ピラミッドとはある種の疎外の表現ではなかったかという想念が頭をかすめる。幸福な部族はピラミッドなど作らなかったのではないか。テキーラの作られないときにマゲイの花は咲くように、巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれないと思う。
 ピラミッドでなく、容赦のない文明の土砂のかなたに埋もれた感性や理性の次元を、発掘することができるだろうか。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房、1977年)


ピラミッドを、ある種の「達成」のように見るのではなく、反対に「疎外の表現」であったのではないかと、真木悠介の想念がとらえる。

辺見庸の上記の文章がぼくをとらえたのは、ぼくの心のなかに、真木悠介の、この「想念」が刻まれていたからだ。

辺見庸の<低くあれ>のこたえと、真木悠介の<巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれない>という想念は、文体も色調もまったく異なるけれど、二つの視線は重なるものだ。

真木悠介の想念はあくまでも想念であり、それが「正しい」という確証はどこにも示されていない。けれども、この箇所を読みながら、そしていろいろな遺跡をこれまで見てきたぼくの記憶をほりおこしながら、ぼくも同じように感じはじめるのであった。

ピラミッドや塔、また巨大な遺跡はある種の疎外の表現ではなかったか。幸福な部族はピラミッドのようなものは作らなかったのではないか。巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれない、と。

詳細を確認
「見田宗介=真木悠介」 Jun Nakajima 「見田宗介=真木悠介」 Jun Nakajima

「果肉を一層鮮烈にかじること」(見田宗介=真木悠介)。- 「世界」の味わいかた。

真木悠介(社会学者の見田宗介の筆名)の、とてもうつくしい著書『旅のノートから』(岩波書店、1994年)に、つぎのようなエピソードがおかれている。

真木悠介(社会学者の見田宗介の筆名)の、とてもうつくしい著書『旅のノートから』(岩波書店、1994年)に、つぎのようなエピソードがおかれている。


 金の卵を生むニワトリがいました。そのニワトリのもち主は、こんなにたくさんの金の卵を生みつづけるのだから、その「本体」はどんなに巨きな金の塊だろうと思ってそのニワトリをしめてみると、ふつうのニワトリの肉の塊があるだけでした。

真木悠介『旅のノートから』(岩波書店、1994年)


「合理的精神」のもち主である現代人であるぼくたちは、金の卵を生むニワトリなんていないこと、あるいはそんなニワトリがいてもその「本体」が金の塊などではないことを「知って」いる。

この話の表層をすくいとるだけであるのならば、読み手は、このニワトリのもち主の「非合理的な愚かさ」を読みとるだけだ。でも、ぼくたちは生きていくなかで、このニワトリのもち主と同様の「過ち」を、いろいろな状況でおかしてしまっているかもしれない。

ニワトリのもち主は、ここで、どのような「過ち」をおかしてしまったのだろうか。


べつの名著『宮沢賢治ー存在の祭りの中へ』(岩波書店、1984年)の「あとがき」のなかで、見田宗介は、この本を、どのように書き、どのように読んでもらいたいか、について触れている。


 この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。…
 …この書物を踏み石として、読者がそれぞれ、直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の、果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それでいいと思う。

見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へ』(岩波書店、1984年)


宮沢賢治と宮沢賢治の作品をとおして「自我」という問題、<わたくし>という現象を考察した著書は、その考察の論理とともに、宮沢賢治の作品を充分すぎるほどに引用して、賢治の作品という「果肉」をかじるように仕上げられている。

でも、ともすると、ぼくたちは「宮沢賢治の作品の芯や種」にどこまでも近接しようとする。あれだけの作品を書き上げる「宮沢賢治」を、宮沢賢治の作品と思想の深さときらめきにおののく者たちは、解き明かしてみたくなる。

宮沢賢治の「金の卵」のような作品に心をまったくうばわれて、金の卵のような作品を生む「宮沢賢治」の「本体」はどんなに巨きな秘密をひめているのか。まるで、「ニワトリのもち主」のように、人は、その本体の「中心」に向かって、本体を解体しようとし、また解体してしまう。

でも、どこまで中心をほりおこそうとしても、そこには、ただ「芯と種」があるだけで、おいしいりんごの「果肉」のようなものは見つからない。

だから、「果肉」にこそ思想はみちているのである。

そして、そのことは、宮沢賢治などの作家の作品だけでなく、「世界自体」の構造でもある。「あらゆる中心的なものの構造」(真木悠介)の機制である。

世界自体の「果肉を一層鮮烈にかじること」。それは、この「世界」の味わいかたである。

ぼくはこのことを、ぼくの経験にもとづく深い納得感を感じながら、真木悠介先生から学んだ。

詳細を確認
香港, 海外・異文化 Jun Nakajima 香港, 海外・異文化 Jun Nakajima

海外をつなぐ「ビデオ通話」のこと。- 手紙とポストカードのノルタルジアとともに。

1990年代に、アジアを旅したり、ニュージーランドに住んでいたりしたときには、まだ、ビデオ通話はなかった(方法はあったかもしれないけれど一般的ではなかった)。もちろん国際電話はできたのだけれど、それなりにお金もかかるし、余程の急ぎの件がなければ国際電話はしなかった。

1990年代に、アジアを旅したり、ニュージーランドに住んでいたりしたときには、まだ、ビデオ通話はなかった(方法はあったかもしれないけれど一般的ではなかった)。もちろん国際電話はできたのだけれど、それなりにお金もかかるし、余程の急ぎの件がなければ国際電話はしなかった。

だから、ふつうのときであれば、旅先から、あるいはニュージーランドの住まいから、ぼくは「手紙」や「ポストカード」を手書きで書き、また家族や友人たちのなかには手紙やポストカードを送ってくれる人たちもいた。あるいは、東京に住んでいると、ときおり、海外を旅している友人たちからのポストカードが届いた。

相手のことを思いながら書き、手紙やポストカードのなかに相手を感じる。それはとても「しあわせ」なときであったと、ぼくは思う。

そのような、日本と海外の距離(感)、あるいは親しい人たちとの距離(感)が、海外を旅したり海外に住んだりすることを、いっそう「特別なこと」のように感じさせたのであった。


2000年代になって、情報通信技術の発展によって、インスタント・メッセージやビデオ通話などが一般的になってきて、この「距離・距離感」が一変した。

「インターネット環境」が整っていれば、世界のどこにいても、この「距離・距離感」を一気に縮めて、いつでも誰かとメッセージをやりとりしたり、通話することができるようになった。ぼくが2000年代半ば頃に西アフリカのシエラレオネや東ティモールに住んでいたときは、さすがにネット環境が整っておらず、実際の距離も、そして距離感も「遠く」に感じたものであったけれど、それでもインターネットがある環境ではすぐさま「つながる」ことができた。

2010年代は、スマートフォンの普及もあって、この「つながり」が、いつでも、どこでも容易になった。

いまぼくは、ここ香港でこうして文章を書いているけれど、こうしていながら、世界各地へ/から、メッセージや通話でいつでも「つながる」ことができる。手紙やポストカードを書き、あるいは受け取っていた時代が、それほど遠くない過去であるのにもかかわらず、はるか遠くの過去のように感じられるのである。

この「つながり」は、ほんとうにすごいことだし、ありがたいことだし、よろこばしいことである。けれども、手紙とポストカードの時代を、ぼくは懐かしみながら、あの「感覚」が失われつつあることが残念であるようにも思う。

もちろん、今だって、手紙やポストカードを届けることができるし、そうすることでいつもとは違った気持ちをのせることができるのだけれども、それでも、いつでも容易につながることのできる状況がいつも手元にあることを思うと、1990年代のときとは「違う」という感覚がぼくのなかで湧き起こる。


それでも、そのような少し残念のような気持ちをふきとばすような光景に、ぼくはここ香港で、出会う。

香港には、35万人を超える「Domestic Helper」(つまり、住み込みのヘルパーの方々)がいて、ほとんどがフィリピンとインドネシアから来ている人たちだ(香港政府の特別なスキームで香港に滞在している)。香港の人口が740万人ほどであることを考えると、35万人という人数のすごさを感じる。実際にも、マンションでも、通りでも、ショッピングモールでも、どこでも、ヘルパーの方々にすれ違い、この香港で共に共生しているのだ(香港に来るまで、ぼくはこの状況を知らなかった)。

そんな彼女たちが、通りを歩きながら、とてもうれしそうな表情をみせている。そして、すれ違うようなとき、ぼくは気づくことになる。彼女たちは、スマートフォンのビデオ通話で、おそらく、ふるさとの家族やパートナーやボーイフレンドや友人たちと通話をしているのだということ。

こちらが見ようとしなくても、どうしてもそのような光景が目に入ってしまうのだ。でも、ぼくを捉えるのは、彼女たちの笑顔だ。

そんなとき、ビデオ通話があること、ビデオ通話がいつもできるような環境であることを、ぼくはほんとうにすばらしいことだと思うのである。手紙やポストカードへの、ぼくの小さなノスタルジアなど、一気に吹き飛ばしてしまう笑顔なのだ。

詳細を確認
成長・成熟 Jun Nakajima 成長・成熟 Jun Nakajima

「あたりまえのことというのが曲者なんだよ」(コペル君の叔父さん)。- 縮減された感性をとりもどす。

『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)の主人公コペル君(本田潤一)の精神的成長を支えた叔父さん(お母さんの弟)は、コペル君と彼の友人たち(水谷君と北見君)に、つぎのように語りかける。

『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)の主人公コペル君(本田潤一)の精神的成長を支えた叔父さん(お母さんの弟)は、コペル君と彼の友人たち(水谷君と北見君)に、つぎのように語りかける。


 だからねえ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者(くせもの)なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね。こいつは、物理学に限ったことじゃあないけど……

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1982年)


「物理学」が出てくるのは、ちょうど「ニュートン」の話の文脈のなかで、叔父さんが語っているからである。ニュートンが、林檎が落ちるのを見て万有引力を思いついたのは「どうしてか」という、実のところ深い問いをめぐる会話である。

「林檎が落ちるのを見て万有引力を思いついた」ということは誰もが知るところでありながら、林檎が落ちることが、どうやって、「思いつき」に展開していったのかは、あまり考えられていないところだ。「林檎が落ちる」というあたりまえのことを、あたりまえで終わらせず、「どこまでも追っかけて考えてゆく」ことを通して大きなアイデアにぶつかったんだと、叔父さんはニュートンのことを語りながら、上のようなことばを、コペル君たちに伝えている。

「あたりまえのこと」を、「あたりまえでないもの」として視る視線。演劇の分野では、かつて、ブレヒトが「異化効果」と呼んだ方法。見田宗介が比較社会学の方法の核心としてとりだす「自明性の罠からの解放」。などなど。


それにしても、「あたりまえのこと」は、叔父さんが語るように、確かに「曲者(くせもの)」である。

時代につくられる「土俵」のうえでは「あたりまえのこと」は所与のものとしてあり、その「土俵」(ゲーム盤)で繰り広げられる「ゲーム」に、ぼくたちは投げ込まれている。

ぼくたちは、その「ゲーム」の仕方に集中する。たとえば、「情報」をどれだけ効率よく「処理」するのか(学校の試験で効率よく間違いなく「正解」を導き出す)、というように。

まれに「あたりまえのこと」を問うことをしようとすると、たとえば、「意味のないこと・無駄なこと」とか、「(将来やお金をかせぐことには)役に立たないこと」という注意書きの書かれた「看板」を、目の前につきつけられる。

「あたりまえのこと」をそれ以上問わず、あらかじめつくられた「土俵」のうえで生きてくるなかで、あたりまえを問う感性を縮減し、土俵のうえでのゲームに満足しない者たちは、いつしかこの世界のいろいろな色合いを捨てながら「なにもかもつまらない」という地点にたどりついたりする。

このようにして、人は、「あたりまえのこと」を問うことをしなくなってゆく。

「Mister Rogers’ Neighborhood」というアメリカ教育番組のホストであった故Fred Rogers(フレッド・ロジャース)は、現代社会が(狭義での)「information(情報)」ばかりに気をとられ、「wonder(おどろき」、つまりなんでもないことを不思議に思う感性を失ってしまっているのだと、警鐘を鳴らした。


「だからねえ、あたりまえのことというのが曲者(くせもの)なんだよ」と語る、コペル君の叔父さんの声が聞こえてくる。

叔父さんは、つづける。「わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかるんだね」、と。

「もうわかり切ったことだなんて、言っていられないようなこと」の地点は、ぼくたちの「成功」を保証するものではない。ニュートンのように(ニュートンほどまでとはいかなくても)「大きなアイデア」にぶつかれば、激動の現代社会のなかで、なんらかの「成功」を手にいれることができるかもしれない。

けれども、「わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆく」感性には、この「世界」が異なった仕方で開示される。そこから、はてしない「想像と思考」が生成し、あたりまえのこと・なんでもないことのなかに、不思議と楽しさと奇蹟を見出す。

詳細を確認
香港, 成長・成熟 Jun Nakajima 香港, 成長・成熟 Jun Nakajima

香港で、「香港のもの」と「香港ではないもの」を求めて。- 「ここというところへ」と「ここではないどこかへ」。

香港にいるのだから「香港のもの」を楽しみたい。どこにいても見たり聞いたりできるものではなく、香港だからこそ、見ることができるもの。

香港にいるのだから「香港のもの」を楽しみたい。どこにいても見たり聞いたりできるものではなく、香港だからこそ、見ることができるもの。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)で開催されている2018年クリスマス企画「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」では、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景が、ミニチュアで再現されている。香港で「消えゆく記憶」を、香港の二人のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、ミニチュア作品というメディアにのせる。

展示されている6つの作品は、とても精巧にできていて、とても親密だ。そんなことを、ブログ「香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。」に書いた。

<クリスマス+香港>の組み合わせに「香港」をより親密に見ることができる。クリスマスという「時間」を先にしてそのように書いたけれど、それは、むしろ、<香港+クリスマス>と言ったほうが正確である。「香港」という空間のなかに、クリスマスシーズンという時間の風景が加味されている。

いずれにしろ、「香港の風景」を前面に出しながら、ぼくは「香港のもの」を楽しむことができる。


けれども、「香港のもの」を楽しみたいという欲求とともに、「香港ではないもの」を楽しみたいという欲求も、ぼくのなかにはある。せっかく香港にいるのだから「香港のもの」を楽しむ、ということとともに、香港にいるけれど、あるいは香港にいるからこそ、「香港ではないもの」へと気持ちが向かう。

香港は「国際都市」と言われてきたように、そこには世界のものが何でもある。「日本のもの」もあらゆるところにある。そのような環境のなかで、香港式の食事を提供するレストランは、たとえば、「香港の」という形容詞を、店舗名やメニューに入れなければならなかったりする(※なお、「香港式」とはなんぞや、という議論が別途ではいろいろありうるのだけれど)。

このことは別に香港だけに限ることではなく、東京にいても、そこは世界のいろいろなものであふれている。

そのような場所で、「ここというところへ」向かう欲求と「ここではないどこかへ」向かう欲求が、ともに、じぶんのなかに存在することになる。東京にいたときは「ここではないどこかへ」という欲求がぼくのなかで強かったのだけれど、そののちに住むことになった、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そして香港と、どこにいても、これら二つの方向に向かう欲求が、ぼくのなかで共存してきたのだということができる。

それはやはり「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ」(真木悠介)ということだろうかと、これら二つの欲求を感じるとき、ぼくはじぶんの感覚を確かめるのであった。


また、こんな見方もある。

社会学者の見田宗介(見田宗介)がとりあげている、ドイツの劇作家・詩人・演出家であったベルトルト・ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)はつぎのように語る。


<むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました>

見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)※その後『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)に所収


「幻想の相互投射性」。そう、見田宗介は読みとる。「白いお城」か「花咲く野原」の、いずれかが魅力的なのではなく、いずれもが魅力的であり、人に幻想を抱かせるほどにメルヘン的である。「<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理」(見田宗介)。世界の「あり方」のことである。

あるところに住みながら、ぼくたちは「ここではないどこか」を夢見る。でも、やがて、そこへ住むことになり、今度は「あるところ」を夢見る。

生まれ故郷の浜松を離れ、東京・埼玉、ニュージーランド、シエラレオネ(西アフリカ)、東ティモール、香港に住んできた過程で、ぼくは「根をもつことと翼をもつこと」の根源的な欲求を感じ、そして、「<白いお城>と<花咲く野原>の、相対性原理」を実感する。

詳細を確認
香港, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima 香港, 音楽・美術・芸術 Jun Nakajima

香港で、香港の風景の「ミニチュア作品」を見ながら。-「1980年代+クリスマス+香港」の世界へ。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。

香港の繁華街、Causeway Bay(銅鑼灣)にあるTimes Square(時代廣場)の2018年クリスマス企画のひとつ、「Exquisite Christmas at Times Square(時代廣場 微妙聖誕)」。

この企画では、香港のミニチュア・アーティスト(Tony Lai氏とMaggie Chan氏)が、1980年代におけるクリスマスシーズンの香港の風景を、ミニチュアで再現し創り上げている。1980年代のクリスマスの時期に、アミューズメント・パークで楽しむ人たち、映画を楽しむ人たち、食事を楽しむ人たちなど、6つの風景がミニチュアで創られているのだ。そのなかのひとつは、アーティストが33名の生徒さんたちと一緒に創った労作でもあるという。

とても精巧に創られていて、1980年代の香港を知らないのにもかかわらず、その当時の風景がイメージとして浮かび上がってくるかのようだ。その精巧さは、展示場の年配の警備員の方が、当時はこのようだったんだ、というようなことを、展示を見に来ている人に熱心に説明したくなるほどである(実際に警備員の方は熱心に説明されていたようである)。

Times Squareの入り口に設置された特別展示会場での展示であり、小さな場所の、小さな展示(展示物自体が「ミニチュア」)なのですが、<クリスマス+香港の風景>の組み合わせによって、「香港のもの」(作者も、対象も)を見ることができて、ぼくはうれしく思ったのであった(なお、「香港の風景」と言えば、Times Squareの中にある「LEGO」の店舗にはレゴのブロックで創られた香港の風景があって、とても精巧精密にできていて圧巻である)。


<クリスマス+香港の風景>をミニチュア作品のなかに見ていたのだけれど、気にかかったのは「1980年代」の風景であったということ。

ミニチュアを直接に見ているときは、その精巧な世界にひきこまれていて不思議には思わなかったのだけれど、あとになって、ふと思うのであった。なぜ「1980年代」なのだろう、と。30年以上もまえの「香港の風景」が、どうして呼びだされたのだろうか、湧き上がってきたのだろうか、ということを、ぼくは考えてしまったわけである。

この企画の広告にも記載されているように、あるいはアーティストのTony Lai氏とMaggie Chan氏にかんする記事にあるように、それは香港のよき時代の記憶/失われた記憶へとつれもどしてくれるメディア、あるいは「乗り物」としてのミニチュア作品であるのかもしれないけれど、はたして、そのような記憶に登録されている「香港」というものはどのような「香港」であったのだろうか。めざましい経済発展を成し遂げてきた1980年代以後の香港が手に入れたものは何で、失ったものは何であったのか。

ぼくにはそのことはわからない。想像はできるけれど、ぼくの直接の経験がベースになっているわけではない。

ぼくが生きてきた「日本」の経験に即しながら、しいて言えば、「平成」の時代から振りかえる「昭和」の風景かもしれないと、ぼくは思ってみたりする。イメージとしては、いわゆる、「レトロ」なイメージである。

昭和の時代のレトロな風景に向かう心情(レトロな風景と、そのような風景に息づく人間模様や風情や心境など)が、1980年代の香港の風景に向かう心情と、どこか重なっているかもしれないと思ったりするのだ。実際に、ミニチュア作品のなかに見られる、街頭の「屋台」などが、そのような見方を少しは裏づけているかもしれない。

でも、記憶というものは、過去の記憶を「純化」してゆく作用ももっている。記憶は、当時の風景からいろいろなものを捨象していって、美しい風景へといくぶんか「純化」してゆくのだ。それは「間違った記憶」ということもできるかもしれないけれど(そして記憶は多分にして「再構成された/再解釈された記憶」であるのだけれど)、ぼくは、そのなかには「真実」も含まれるのだと思う。

そのようにして記憶として純化されながらも、確かにそこにあった「真実」とは何であったのだろうか。その「真実」は、いまとなっては失われてしまった(あるいは失われてしまったかのようにみえる)のだろうか。また、それと同時に、何かを手にしてきたのであれば、それは何であったのだろうか。

さらに、それらは、深いところで、「ぼく」の経験や感覚とつながっているだろうか。つながっているとしたら、どのようにつながっているのだろうか。

ミニチュアではなく、窓の外に見える香港の高層ビルの明かりを見ながら、ぼくはそのような問いを明かりに向けて投げかける。

詳細を確認
宇宙・地球 Jun Nakajima 宇宙・地球 Jun Nakajima

火星の「音」を聴く。- NASA探査機「InSight」がとらえた「風の音」。

先月(2018年11月)の末に、火星に見事に着陸した、NASAの探査機「InSight」(インサイト)。

12月1日、着陸後に探査機「InSight」からひろげられたソーラーパネルを吹き抜ける風による振動を、探査機が探知したようだ。

はじめて聴くことのできる、火星の「音」(Sounds of Mars)。耳で直接に聴く音ではないにしろ、はじめて聴く、火星の「風の音」。

火星の「音」(Sounds of Mars)、「風の音」という文字を目にしながら、ぼくはふと、とてもシンプルなことに気づく。確かに、火星はこれまで、目で<見る>対象であった。探査機がとらえた火星の表情を目で見る(たとえば、探査機「Curiosity」がとらえた火星の地表をきれいな画像で見ることができる)。思えば、<聴く>ということはなかった。


その、火星の「音」を<聴く>という体験を、今回NASAは<共有>してくれている。つまり、一般公開し、ぼくたちは、火星の「風の音」(振動)を聴くことができるのだ。

ここでは、YouTubeへのリンクを貼っておきたい(下記をクリックするとYouTubeにとびます)。


「Sounds of Mars: NASA’s InSight Senses Martian Wind」(by NASA Jet Propulsion Laboratory)


動画を再生する前には「ヘッドホン」を装着しておくことを、おすすめする。NASAは、音のピッチによって3つのバージョンを用意してくれていて、最初のバージョンは、ヘッドフォンがないと聞こえないくらい低いピッチであるからだ。そしてなによりも、より親密に、火星の「風の音」を聴くために。


火星の「風の音」に耳を澄ませていると、想像の世界の扉がひらかれてゆく。この音がなんの音か知らされないままに聴いたとしたら、ただのなんでもない風の音だと思うだろう。けれども、そこに、火星の「風の音」ということが加わると、やはり想像の世界がひらかれる。

想像の世界は、<聴く>ということのなかに、いっそうひろがってゆく。<見る>ということ以上に。

それでも、<見る>ということも加えてみるのも、ひとつの方法である。探査機「Curiosity」がとらえた火星の地表の「パノラマ」は圧巻である。夜空に赤く光る、火星という赤い惑星の地表を、とても鮮明に、ぼくたちは見ることができるのだ。

YouTubeにアップロードされている「Namib Dune(ナミブ砂丘)の360度ビュー」へのリンクを、ここでは挙げておきたい。


「NASA’s Curiosity Mars Rover at Namib Dune (360 view)」(by NASA Jet Propulsion Laboratory)


そこから、もう少しビューをひろげて見ると、いっそう、火星の風景を、ぼくたちは目にすることができる。探査機「Curiosity」の旅路などの解説(英語)も加えられているが、火星の地表の「眺望」(scenic overlook)として、つぎも圧巻である。


「Curiosity at Martian Scenic Overlook」(by NASA Jet Propulsion Laboratory)


この探査機の名前(「Curiosity」)のごとく、NASAのJPLの研究者たちだけでなく、ぼくたちの「好奇心」をどこまでも駆り立ててやまない画像たちである。その好奇心に導かれながら、ぼくたちは、想像の翼をいっぱいにはばたかせることができる。


ところで、宇宙における「音」について、「世界は音」というコンセプトに触れている、社会学者・見田宗介の言葉を以前紹介した。

社会学者の見田宗介は、古代インドのコンセプトであり、ジャズの大御所ベーレント(Joachim-Ernst Berent)の著作のタイトル『世界は音ーナーダ・ブラフマー』(人文書院)にもなったコンセプトに触れながら、つぎのように書いている。


…わたしたちが、じっさいに音を聴くことができるのは、空気や水、大地などという、濃密で敏感な分子たちのひしめきの中だけである。<宇宙は音>というイメージは、わたしたちの意識を宇宙に解き放つとともに、また幾層もの<音>の呼び交わす、奇跡のように祝福された小さな惑星の、限定された空間と時間の内部に呼び戻しもする。

見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)


火星という環境の「分子たちのひしめき」のなかで記録され、そしてこの青い小さな惑星で<聴く>ことのできる、火星の「風の音」。

どこまでも好奇心をかきたてる音でありながら、他方で、この地球の「風の音」へと、呼び戻しもする。「奇跡のように祝福された小さな惑星」の自然が奏でる音たち(また、水があり木がありという風景)が、いっそう鮮烈に、ぼくの意識へとのぼってくる。

火星の「風の音」を聴きながら、そこに重層するように、地球の「風の音」を聴く。この耳に直接にとどく「風の音」を感じる。

詳細を確認
音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima 音楽・美術・芸術, 香港 Jun Nakajima

観客の女の子の「声」がつくったミュージカル。- 香港で鑑賞したミュージカル『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)。

香港の湾仔に位置する「The Hong Kong Academy for Performing Arts」(香港演芸学院)のシアターでは、毎年ミュージカル公演がある。2019年1月には『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)が開幕する。

香港の湾仔に位置する「The Hong Kong Academy for Performing Arts」(香港演芸学院)のシアターでは、毎年ミュージカル公演がある。2019年1月には『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)が開幕する。

『Mamma Mia!』(マンマ・ミーア!)は、ABBAのヒット曲によって構成されるミュージカル。2008年には映画化(メリル・ストリープなどが出演)もされ、今年2018年には映画第二作目『Mamma Mia! Here We Go Again』が上映されている。

だいぶ前(5年以上前だと思う)、香港の『Mamma Mia!』ミュージカル公演を観に行ったことがあって、そのときの「観客の女の子が発した声」が、いまでも、ぼくのなかに鮮やかにのこっている。


シアターに鳴り響いた「女の子の声」にたどりつくために、『Mamma Mia!』の「あらすじ」に、かんたんに触れておかなければならない。なぜならば、「女の子の声」が響きわたったのは、上演の最後のほうであったからである。

『Mamma Mia!』は、ギリシャの島の小さなホテルを舞台に、そのホテルの経営者である母親ドナと娘ソフィ、さらにソフィの父親かもしれない男性3名が加わって展開してゆく物語。

婚約者スカイと結婚する準備をすすめているソフィは、結婚式では父親にバージンロードを一緒に歩いほしいと願うが、父親が誰だかわからない。ソフィは母親ドナの日記の記述から父親の候補者3名を見つけだし、ドナに内緒で結婚式に招く。内一人が父親かもしれない3名の男性、サム、ビル、ハリーが島にやってくることになって、美しいギリシャの島で、ドラマが繰り広げられてゆくのだ。

そんなこんなで話は進展し、いろいろなドラマを通過しながら、最後のところで、男性の一人がドナにプロポーズをすることになる。こうして、男性がプロポーズの言葉をドナに投げかけるのだ。

「Would you marry me?」

たぶん、だいたいこのようなシンプルなプロポーズの言葉であったと記憶している。

このころには、ぼくを含め、観客の人たちは「物語の世界」にかんぜんに没入していて、息をひそめているように静かであったと思う。

と書いたところで、もうおわかりかもしれない。

このときの息をのむような静けさの空気を割ったのは、ドナではなく、観客の小さい女の子の「声」であった。

「I do!!!」

小さい女の子の声で「かわいい」声なのだけれど、凛としていて、とても澄んだ、確信に満ちた声が、会場をつらぬいたのであった。「つらぬいた」と書いたが、女の子が座っているであろう会場のちょうど真ん中あたりの席から、空気をつらぬいて、言葉が舞台で演じている出演者に<届けられる>のがわかるような声であった。タイミングも、かんぺきなタイミングであった。

舞台の上ですすむドラマにかんぜんに入りこんでいた会場は、どっと、笑いと歓声とで湧いた。

この雰囲気のなかを、ふたたび舞台の上にドラマをもどす出演者の方々のプロフェッショナリティもさすがであったけれど、女の子の「声」がいっそう<ドラマ>をつくったのであった。

それにしても、あのような透きとおるような「声」を聴いたのは、これまでにそれほど多くはないと、ぼくは思う。

「子ども」とは、じぶんと他者、またじぶんの「からだ」と「こころ」が未分化であったり、曖昧であったりする存在でもある。

そのように曖昧な輪郭の<境界線>が物語のなかでくずれて、意識することなく、あの女の子の身体が、あのような透きとおる声を発したのだと、ぼくは考える。


いつもミュージカルを観にいくわけではないし、たくさん観てきたわけでもないけれど、ここ香港で観たミュージカル『Mamma Mia!』は、ぼくにとって、もっとも印象に残っているミュージカルである。

舞台の上での演技やダンスや歌もとてもよかったのだけれど、それを観ていた観客の人たちのつくりだす雰囲気、そしてそんななかから奇跡のように放たれた、小さな女の子の「声」。

いまでも、あのときのことを思い出すと、ぼくの心は暖かくなる。

詳細を確認
海外・異文化 Jun Nakajima 海外・異文化 Jun Nakajima

時代や時間の区切り方。- 西暦と元号の併用、あるいは旧暦の並存について。

思想家・武道家の内田樹が、ブログ『内田樹の研究室』で、「元号について」(2018年12月7日)という、興味深い文章を書いている。ここでいう「元号」は、もちろん、日本の新しい元号(2019年5月1日)を照準している。

思想家・武道家の内田樹が、サイト『内田樹の研究室』で、「元号について」(2018年12月7日)という、興味深い文章を載せている。ここでいう「元号」は、もちろん、日本の新しい元号(2019年5月1日)を照準している。

朝日新聞から受けた「元号について」の取材を契機として、以前雑誌に書かれた文書に加筆された文章が、ここに掲載されている。

「いまの時代、元号なんて必要なのか?」という問いに対する、内田樹の応答だ。結論的には、「時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい」というのが、内田樹の立つところである。

確かに、西暦と元号の「併用」はややこしいし、「2019年」には平成と新元号元年の生まれが混在するし、あるいはいろいろなシステムや書類などの諸々もいっそうややこしそうだけれど、内田樹は、「西暦と元号の併用という「不便」に耐えるぐらいのことはしても罰は当たるまい」という立場にたつのだ。


私は西暦と元号の併用という「不便」に耐えるぐらいのことはしても罰は当たるまいという立場である。世の中には「話を簡単にすること」を端的に「よいこと」だと考える人が多いが、私はそれには与さない。「簡単にするにはあまりに複雑な話」も世の中にはある。それについては「複雑なものは複雑なまま取り扱う」という技術が必要である。…

内田樹「元号について」(2018年12月7日)、Webサイト『内田樹の研究室』


ぼくも、基本的に同意である。ぼくが思うのは、「統一」するのがどうしても必要なものもあるけれど、<多様性>を保持することが肝要であることだ。見田宗介が書いたように、世界は、「標準語」(言語もそうだけれど、言語以外のことも)ではなく、<共通語>をもっていくことが課題である。「標準」は世界をつまらなくさせるし、あるいはもともと多様な人たちを抑圧してしまうこともある。「多様性」は、世界をおもしろくする。


内田樹の語るところも、もう少し見ておこう。


元号を廃して、西暦に統一しようというような極端なことを言う人がいるが、私はそれには与さない。時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい。そういう区切りがあると、制度文物やライフスタイルやものの考え方が変わるからである。元号くらいで人間が変わるはずはないと思うかもしれないが、これが変わるから不思議である。…

内田樹「元号について」(2018年12月7日)、Webサイト『内田樹の研究室』


内田樹は「明治人」としての父親を例として挙げながら、その「不思議さ」(じぶんの脳内幻想としての「模造記憶」)について語っているが、そのあたりは内田樹のブログを読んでほしいと思う。

また、日本のように「元号」がない国も、「元号に代わるもの」を持っていることを、内田樹は指摘している。イギリスでは王が交代することで時代が区切られ、アメリカでは「10年(decade)」という時代区分が使われたりしてきた。さらには、そもそも「西暦」も、「イエス・キリストの生年を基準とする紀年法」であり、価値中立的なものでもないことに、内田樹は触れている。


ところで、西暦や元号などの「多様性」を好ましいものとして考えるのは、考えるとともに、この心身に感覚として感じるものがある。それは、時代という大きな区分ではないけれど、「一年」ということの区切り方として、中国の旧暦を生きてきた実感が、ぼくのなかにあるように思うのだ。

東ティモールに住んでいたとき、華人の人たちは旧暦にあわせて自国に帰国してしまい、その時期を考慮してプロジェクトを進行させる必要があったりして、ややこしかった経験がぼくにはある。あるいは、日本の元号も、今は何年と聞かれたら、ぼくはすぐに応えられない。

そんなぼくが、ここ香港で、10年以上暮らしながら、西暦と旧暦が「並存」する世界をじっくりと生きてきて、なんだか、異なることはいいことだと感じてきたのである(もちろん、並存によって「ややこしい」こともある。香港の労働法の規定にも影響していたりする)。

西暦と旧暦が「並存」する世界に生きてきて、逆に、世界や社会がひとつの「時代的/時間的な枠組み」のなかに入ってしまったら、それは逆にこわいことだと思いはじめたのだ。

「異文化」という言葉には「ややこしさ」の感覚がどこか含まれているようにも感じるが(そしてぼくも実際に、さまざまな「ややこしさ」に悩まされてきたのではあるけれど)、<異なり>があるからこそ、いろいろなものやことが<視える>こともあるし、可能性もひらかれるし、やはりおもしろいのだと、ぼくは思うのだ。

詳細を確認
書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima 書籍, 成長・成熟 Jun Nakajima

本(テクスト)と読み手の相互的なかかわりあいのなかで。- シュリーマン『古代への情熱』を読んだ「昔」と「今」のあいだ。

だいぶ昔に読んだ本で、また読みたくなるような本。そして読みたくなって、その本をふたたび手に入れて、読んでゆく。ぼくにとってのそんな本の一冊に、シュリーマン『古代への情熱ーシュリーマン自伝』村田数之亮訳(岩波文庫、1954年)がある。

だいぶ昔に読んだ本で、また読みたくなるような本。そして読みたくなって、その本をふたたび手に入れて、読んでゆく。ぼくにとってのそんな本の一冊に、シュリーマン『古代への情熱ーシュリーマン自伝』村田数之亮訳(岩波文庫、1954年)がある。

ぼくが最初に『古代への情熱』を手にとったのは、おそらく、10代のころの学校の夏休みかなにかの折に、「読書感想文」用の図書としてであった。当時は学校の授業をのぞいてはほとんど「本」を読まず、読書感想文用の図書リストのなかから、なんとか、少しは読みたいと思う一冊をと思いながら、「古代への情熱」という名前に魅かれて、ぼくはシュリーマンの『古代への情熱』を手にとったのだと記憶している。

小さいころから、「ここではない、どこか」を時間的に、あるいは空間的に思いっきりひきのばしたようなものが好きであった。時間的に(過去のほうへ)ひきのばせば、それはたとえば「古代」になるし、空間的にひきのばせば、それはたとえば「宇宙」になる。だから、「古代」ということばにも、どこか魅かれるのであった。

なお、すてきな名前のタイトルだけれども、「古代への情熱」というタイトルは、原著の書名ではない。本書はシュリーマンの「自叙伝」の訳であるのだけれど、それはもともと著書『イリオス』(1881年)に収められていた文章であり、自叙伝的な文章は「少年時代と商人時代」の章にあたる。

「少年時代と商人時代」の章はそれほど長くないが、今回、この章を読んでいて、ぼくはとても楽しく読むことができたし、また、シュリーマンはこんなことを言っていたんだ、こんなふうに行動していたんだという「発見」を、ぼくはいくつもすることになった。そのような「発見」にたちどまっては、ぼくは深く考えさせられることもあったのだ。


それにしても、40歳をすぎたころから、ぼくはなぜか、「読書感想文」用の図書としてずっと前に読んだ本を読みたくなり、ぼくはそのような本をじっさいに手にとっては、読んでみるのだ。シュリーマンの『古代への情熱』もその一冊であり、そのほか、ヘルマン・ヘッセの本だったりする。

そのような「状況」が、ぼくと昔に読んだ本たちの<あいだ>に生まれつつあるとき、思想家・武道家の内田樹の書く文章のなかで「テクストと読み手の相互的なかかわりあい」について書かれたことばが、ぼくの、この状況と経験にひびいてくるのであった。

内田樹は、「自称弟子」として慕う「師」である哲学者レヴィナスの発することばのなかから、「テクストと読み手の相互的なかかわりあい」にかんする箇所を引用している。

レヴィナスは、つぎのように述べている。


 私たち現代人もしばしばこう言わないだろうか。「こんな状況になったせいで、パスカルのあのことばの意味がやっと分かった」とか、「モンテーニュのあのことばの意味が分かった」とか。偉大なテクストが偉大であるのは、まさしくテクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの深層を逆に照らし出すという相互作用のゆえではないだろうか(QLT,p89)。

内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)※「QLT」は、レヴィナス『タルムード四講話』内田樹訳(国文社、1987年)


「人は「事実や経験」への出会いによって、いろいろな本やテクストが「分かる」ようになる」と人は思うだろうが、レヴィナスは、その「前段階」として、「事実や経験」への出会いのまえに、「テクストとの出会いと導き」があるのではないかと述べている。そのように、テクストと読み手の<相互作用>をとらえている。

もう少しわかりやすくするために、このレヴィナスのことばの引用につづいて書かれる、内田樹の事例も挙げておこう。


…夏目漱石を少年期に読んだときと、中年になってから読んだときとでは、テクストの表情は一変する。私たちは同じテクストにまったく別の相貌があることを知る。そして、もし私たちが「大人」になったせいで漱石のテクストを読めるようになったのだとしたら、その成熟には、少年期に漱石を読んだ経験がすでに関与しているのである。

内田樹『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』(文春文庫)


この事例は、シュリーマン『古代への情熱』というテクストとぼくとの<相互作用>と重なるように、ぼくはこの箇所を読みながら思ったのだ。今回30年ちかくぶりに『古代への情熱』を読みながら、ぼくはそこに「まったく別の相貌」があることを知る。いろいろな「発見」を、ぼくはするのだ。でも、そのことは、この30年ちかくの「経験と成熟」だけでなく、10代にシュリーマンを読んだ経験が「すでに関与している」というのだ。

そんなことを考えていたら、「そんなこと」もあるだろうなと、ぼくは思うのであった。シュリーマンだけでなく、ヘルマン・ヘッセの「テクスト」をいっそうの深みにおいて読むことのできる経験においても、あの当時の「テクストとの出会いと導き」があったのだということもである。「そんなこと」もあるのだ。

そんなふうにして、「テクストと読み手」の<相互作用>を、じぶんが生きてきた時間のなかに見出してゆくのもおもしろいと思う。「本」というのは、だからいっそうに深いものだとぼくは思い、また、じぶんを変えてしまうような「本との出会い」はとても幸福なことだとも思う。

と、書きながら、一見すると、明確にじぶんを変えるような本でなくとも、本と出会い、その本を手にとって、ページをひらくとき、そこにはその後の人生の道ゆきをつくってゆくのような<相互作用>がはじまっているのだとも、思ったりするのである。

詳細を確認
「見田宗介=真木悠介」, 書籍 Jun Nakajima 「見田宗介=真木悠介」, 書籍 Jun Nakajima

「書物の現在」(真木悠介)。- 真木悠介にとっての「書物」。『気流の鳴る音』の電子書籍化の折に。

1977年に世界に放たれた、真木悠介(社会学者である見田宗介の筆名)の名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房、1977年)。

1977年に世界に放たれた、真木悠介(社会学者である見田宗介の筆名)の名著『気流の鳴る音 交響するコミューン』(筑摩書房、1977年)。

この本の「ちくま学芸文庫」版の背表紙には、この本の紹介として、つぎのように書かれている。


「知者は<心のある道>を選ぶ。どんな道にせよ、知者は心のある道を旅する。」アメリカ原住民と諸大陸の民衆たちの、呼応する知の明晰と感性の豊饒と出会うことを通して、「近代」のあとの世界と生き方を構想する翼としての、<比較社会学>のモチーフとコンセプトを確立する。

真木悠介『気流の鳴る音』≪ちくま学芸文庫版、2003年≫


『気流の鳴る音』については、ぼくもこれまでにいろいろなブログで書いてきた。主題的に書いたブログとしては、たとえば、つぎのようなブログがある。


「「分類不能の書」との出会い。- 真木悠介『気流の鳴る音』のどこまでもひろがる魅力。」(2018年11月21日)

「生きかたにかんする「必読書」の一冊。- 真木悠介『気流の鳴る音』という必読書。」(2018年10月25日)

「「若い人に贈る一冊」を選ぶとしたら。- 真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』。」(2017年11月4日)


『気流の鳴る音』は、ぼくの深いところにまで、影響を与えつづけてきた本である。影響されたのは、きっと、ぼくだけではないと思う(影響された本として『気流の鳴る音』がとりあげられているのをときどき読む)。

この『気流の鳴る音』は『真木悠介著作集第Ⅰ巻』(岩波書店)としても出版されているが、その「ちくま学芸文庫」版が、電子書籍として、世に放たれる(BookWalkerでは2018年12月7日)。

この名著が、いよいよ「電子書籍」となる。時代の変遷を感じるとともに、真木悠介先生はどのように思っておられるのか、と想像してしまう。というのも、真木悠介は「書物」に特別な思いをよせているからだ。

ちなみに、見田宗介の著作の電子書籍は、ぼくの知るかぎり、現在(2018年12月6日現在)のところ、『現代社会の理論』『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(いずれも、岩波新書)、『まなざしの地獄』(河出書房新社)、大澤真幸との共著『二千年紀の社会と思想』(atプラス叢書)がある。このうち、『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)は、2018年に電子書籍化され、内容の一部が更新されている。

このように、見田宗介の著作はすでに「電子書籍」があり、その意味で『気流の鳴る音』の電子書籍化は「初めて」のことではないけれど、第一に、真木悠介名での著作(世に容れられることを一切期待しない著作)の電子書籍化は「初めて」であり、また第二に、この、1977年の名著の電子書籍化には、よろこばしい気持ちとふくざつな気持ちが、ぼくのなかで混合しているのだ。


「書物」のことについて、真木悠介は、他の名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)が1997年に「岩波同時代ライブラリー」に入ったときの「同時代ライブラリー版への後記」で、つぎのように書いている。


…わたしは初版の本としての装幀を強く愛しているので、この形で読者の手にされたいという願望もあった。けれども書物は、刊行された以上、ある種公共の存在としての規格を与えられてしまうものだから、著者の個人の思い入れのようなものは禁じて、実際上の読者の好便ということを優先することとした。このような著者の心意を感受して下さったライブラリー版の編集者、加賀谷祥子さんの尽力とセンスのおかげで、新しい版はまた、別の美しいものとすることができた。

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年→岩波同時代ライブラリー版、1997年)


『気流の鳴る音』も、「初版の本としての装幀」を、真木悠介は強く愛していたかもしれない。2003年に「ちくま学芸文庫」版になったときも、おなじようなことを考えていたのかもしれない。けれども「公共の存在」としての刊行された書物の規格から「個人の思い入れ」を禁じている側面も、おなじように、あった/あるのかもしれない。

でも、電子書籍化は「装幀が変わる」ということとは異なる面を有し(表紙は画像としておなじであるが、形式がそもそも異なる)、真木悠介がどのように考えているのか、直接、先生に尋ねてみたくなる。

『現代社会の理論』で、「情報化・消費化社会」ということの「情報」と「消費」のコンセプトを徹底的に考察してきたことから、それらの考察からも一貫した論理で、「おもしろい」視点を伺うことができるのではないかと、ぼくは勝手に想像している(なお、『現代社会の理論』ではつぎのように書かれている。「…<情報>のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。」)。


ぼくにとっては、『気流の鳴る音』は、「筑摩書房」版の最初の版のかたち(この版で、ぼくの「世界」の見え方がほんとうに変わった)、あるいは「ちくま学芸文庫」版のかたち(この版とともに、ぼくは現実の世界、アフリカもアジアも生きてきた)として、これまでの20年ほどをともに生きてきたから、さらにそこには個人の思い入れがある。だから、そのようなかたちで、これからも、この生をともにしたいと思う。

けれども、電子書籍はこれからますます主流になってゆくとぼくは思うし、また環境・資源問題をまえに、本を含め「ペーパーレス化」は大切なことだとも思う。さらに、見田宗介の書くように、「…<情報>のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。」という地平をいっそう見定めていきたいと思う。


ところで、上述の文章のすぐあとに、括弧をして、真木悠介はつぎのように書きたしている。


…(書物は、その存在自体によって、手にする者に直接的な幸福をあたえるものでなければならないとわたしは考えている。それが書物の現在である。)

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年→岩波同時代ライブラリー版、1997年)


「書物の現在」。「時間」を徹底的に考察してきたこの著書とも共振する仕方で、真木悠介は「書物」を語っている。それは、書物がなにか将来の「利益」になるとか以前に、この<今、ここ>において「直接的な幸福」をあたえるものであること。ぼくも、心から、そう思う。それは、電子書籍であっても、おなじである。

詳細を確認
香港 Jun Nakajima 香港 Jun Nakajima

香港で、ふたたび「人口」に焦点をあてる。- 『2017年香港家庭計画知識、態度及び実行調査』結果を見ながら。

ブログ(2017年9月12日)「香港で、「香港人口予測」(2017年-2066年)から考える。- 個人・組織・社会の「構想」へ。」で、香港政府が発表した『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)をもとに、香港の人口予測について、巨視的な視点をふまえて少しのことを書いた。

ブログ(2017年9月12日)「香港で、「香港人口予測」(2017年-2066年)から考える。- 個人・組織・社会の「構想」へ。」で、香港政府が発表した『Hong Kong Population Projections 2017-2066』(香港人口予測 2017年-2066年)をもとに、香港の人口予測について、巨視的な視点をふまえて少しのことを書いた。

香港の人口ということに別の角度から光をあてるものとして、香港家庭計画指導会(The Family Planning Association of Hong Kong)が2018年12月4日に『Family Planning Knowledge, Attitude and Practice in Hong Kong Survey 2017』(2017年香港家庭計画知識、態度及び実行調査)(報告書は中国語のみ)を発表した。

この調査は、1967年に開始され、五年に一回の頻度で、香港で行われてきたもので、15歳から49歳の既婚・同居の女性とパートナーを対象としてきたものだ。2017年8月から2018年6月にかけて行われた今回の調査は第11回目の調査となり、1,514名の女性と1,059名のパートナーから回答を得たという(※前傾の「調査報告書」より)。


この調査報告書の結果について触れていたメディアのひとつ、SCMP(South China Morning Post)が大きく取り上げていたポイントは、香港の女性の15%ほど(正確には14.6%)が子供が欲しいかどうか(子供が欲しいか/さらなる子供が欲しいか)について「未決定」であるということ、この数値がここ30年来で最も高い数値であることである。ちなみに、前回の2012年度調査では、この「未決定」の回答は10.1%であった。

この数値はこの質問の全体(また他の質問、さらには他年度の結果)を含めて理解する必要があるが、この質問の他の回答は、「子供が欲しい/さらなる子供が欲しい:15.3%」(2012年度調査では20.2%)、「子供が欲しくない/さらなる子供が欲しくない:67.4%」(2012年度は63.8%)、「わからない:2.7%」(2012年度は5.5%)である(※なお、2012年度以前との数値比較も見ておくこと必要がある。「子供が欲しくない」の数値はそれ以前は結構高い数値を示していたなど)。

理由としては、SCMPでも焦点があてられているとおり、「経済的負担」が大きいことが挙げられている。経済的負担は香港に限らない要因のひとつだけれど、やはり直接的に聞いたりすることである。

ここでは、何かの「結論」をみちびくのではなく、社会の<微視的な視点>において、そのような傾向が出てきているということにとどめておきたい。また、このような<微視的な視点>については、この調査結果に限らず、香港の日常で、直接的にあるいはさまざまな媒体を通じ、さまざまな「個別の事情」を聞いたり、読んだりすることができるものもある。


ぼく自身の関心としては、<微視的な視点>とともに、<巨視的な視点>とをあわせながら、人と社会の動向を捉えてゆくことである。ここでの<巨視的な視点>の理論的基礎は、人口の動態を巨視的な目で見る「S字曲線」、あるいは生物学でいう「ロジスティックス曲線」(また「修正ロジスティックス曲線」)である。「S字」というのは、「S」がちょうど右に傾くように、人口の動態を描くことができる、つまり時間の経過とともに(人口爆発期のあとに)減少傾向に転じてゆくのである。

「S字曲線」という現象を現代社会の理論の基礎として最初においたのは、『孤独な群衆』(1950年)のリースマンであったと、社会学者の見田宗介は書いている(『社会学入門』岩波新書、2006年)。「S字曲線」の理論にかんするリースマンの限界のひとつは、明確な統計的数値を提示できなかったことがひとつであったが、「現実」はというと、リースマンの著作から20年後くらい(1970年代)から、アメリカ、ヨーロッパ、日本、韓国など、高度産業化をとげた社会で、人口増加率の減少が実現されてきていると、見田は指摘している。

見田宗介は、さらにつぎのように書いている。


 地球人口の全体を見ると、21世紀初頭の現在、未だ近代の「人口爆発」の初期あるいは中期の段階、あるいはそれ以前の段階にある地域も多いから、その全体を合成してできる曲線は、今もなお高度成長期中であるように見える。けれどもいっそう注意深く見ると、その「傾斜角」、つまり増加の率そのものは、あの1970年という時期を境に、明確な減少を開始している…。地球の人口増加率が年率二%をこえていたのは、1962年から71年のちょうど10年間だけである。
 つまり地球を総体として考えてみたばあいにも、この1970年前後という「熱い時代」を変曲点として、人間の爆発的な繁殖という奇跡のような一時期は、すでにその終息に向かう局面に入っていると考えていい。

見田宗介『社会学入門』(岩波新書、2006年)※なお一部年数表記を変更


このように、とても大きな<巨視的な視点>から見ると、このような傾向が見てとれるのであり、日本はもちろんのこと、ここ香港も、地球全体の歴史的な局面のなかで、状況を分析してゆく必要があると思う。

はじめのところで見た『2017年香港家庭計画知識、態度及び実行調査』結果は、そのような人口の動態における、<微視的な視点>のさまざまな局面や傾向の一端を示すものであるかもしれない。「経済的負担」は現実問題として大きな要因であるけれど、それだけに限るものではないし、もう少し広い視野で見るべきものと、ぼくは考える。

詳細を確認
身体性, 野口晴哉 Jun Nakajima 身体性, 野口晴哉 Jun Nakajima

「食べ過ぎの心理」について。- 「体を知り尽くしていた」野口晴哉の視点。

「食べ過ぎの心理」と聞くと、ついつい、知りたくなってしまう。ぼくはとくに「食べ過ぎ」をすることはないのだけれども、それでも、やはり知りたくなる。とりわけ、あの野口晴哉先生が語る「食べ過ぎの心理」となれば、なおさらのことだ。

「食べ過ぎの心理」と聞くと、ついつい、知りたくなってしまう。ぼくはとくに「食べ過ぎ」をすることはないのだけれども、それでも、やはり知りたくなる。とりわけ、あの野口晴哉先生が語る「食べ過ぎの心理」となれば、なおさらのことだ。

整体指導や体癖研究などを通じて体を知りつくしていた野口晴哉(1911-1976)が、専門外である「教育」について、整体協会における講座で語ってきたことの記録が、野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)としてまとめられている。

この本のなかの「性格形成の時期」という章の一節(第四節)に、「食べ過ぎの心理ー乳児期の欠乏と潜在意識の方向」という文章がおかれている。

そのぜんたいと詳細は、この本を読んでほしいが、ここではいくつかのポイントにしぼって、書いておきたい。


他の著作を含め、野口晴哉は「体への信頼」ということを大切なこととして提示しているが、その視点がここでも貫かれ、<体は食べすぎることはできない>と述べている。


 眼が覚めたら起床し、腹が空いたら食べ、眠くなったら眠るというように、体の要求によって体を使ってゆくことを考えねばならない。体を信頼しないということを前提にした行動は、よいはずのことでも、力が発揮されないために逆になるということも少なくない。第一に体は食べ過ぎるなどということはできない。…

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年


もちろん、ここで語られる条件、「体の要求にしたがって」ということが肝要である。現代は、野口晴哉がこのことを語っていた時代にもまして、この条件を満たしてゆくことがむずかしいときだ。どうしても「頭」ばっかりが大きくなってしまい、上記の文章の直前に野口が書いているように、体のことに気を使い「食べ過ぎはしないか、働き過ぎはしないか、眠りが足らないのではないか」と意識でばかり考え過ぎなのである。そんなこんなだと、体が本来の力を発揮できないのだと、野口は書いている。

ともあれ、この条件を認識したうえで、それでも実際には食べ過ぎでお腹を壊す人たちなどを見ながら、野口晴哉は「人間の体の要求を超えてまだ要求があるのだろうか」と問いを立てながら、「食べ過ぎの心理」へと分け入っていくことになる。

そこで持ち出されるのが、この章「性格形成の時期」の論理展開の骨格をなしている「生後十三ヵ月間の問題」である。この時期が大切であること理由のひとつは、赤ちゃんが自分の意志を言葉によって表すことのできないこの時期に「潜在意識に与えた歪みは、大人になっても、意識以前の心の方向として働き続けるから」である。


生後13ヵ月以内の乳児の栄養とその与え方(質や量まで)、いくつかの状況事例などを概観しながら、この時期に、赤ちゃんの「体の要求によって食べるという自然の性質」のままに育ててゆくことで、大きくなっても食べ過ぎるということがないようになるのだと、野口晴哉は語っている。だから、たとえば、親が時間を定めて無理に食べさせるような仕方は弊害を生んでいく。

そのような事例が挙げられながら、とにもかくにも、いろいろな理由によって、食べ物の満ち足りない時期が何回かあると、赤ちゃんの潜在意識の方向が「体の要求によって食べるという自然の性質」からはなれていき、「満ち足りない時期」に備えるようになるのだという。こうして食べ物が与えられたときに「ともかく食べておく」という不備に備えた食べ方が形成されていくのだが、このことは逆に見れば、赤ちゃんの潜在意識に「欠乏」が刻印されることになるのだ。


…赤ちゃんの時代からその潜在意識の中にそういう欠乏を教えないことである。食べ物はお腹が空けば自然に与えられるというような、絶えず赤ちゃんに快い状況で、産まれてから十三ヵ月間を育てると、あまり意地の汚い子供にはならなくなると思うし、大人になってもそう食べ過ぎや飲み過ぎをやらなくなってゆくだろうと思う。
 みんな「食べ過ぎた、食べ過ぎた」と言うけれども、それはお腹の壊れるまで、ともかく詰め込んでいないと不安だったという、そういう不安をいつも抱えていた意気地のない気持ち、惨めな心の反映なのである。…

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年


体のことを知り尽くしていた野口晴哉が「食べ過ぎの心理」を<欠乏感>に見出したことに、ぼくは学びとともに、深い納得感を得る。体のことを知り尽くしていても「心」は知らないんじゃないかという声が出るかもしれないが、そうではない。体のことを知り尽くしていたからこそ見出される「心」なのだ。つまり、冒頭に書いたように、<体は食べすぎることはできない>ということを知っているからこそ、そこを基礎として<欠乏感>という不安にたどりついたのであった。


「食べ過ぎの心理ー乳児期の欠乏と潜在意識の方向」の節を、野口晴哉はつぎのように閉じている。


 今日のように何でも潤沢にある世の中になっても、そういう気性が残るのは、逆にいえば潜在意識内の欠乏を埋めようとする絶え間ない動きで、そういうものが仕事の上に、何とかもう一つやってやろうというようになるのだと思うので、或る意味の欠乏は子供の向上心をつくる上に悪いとはいえないけれども、食べ過ぎるようになるまでに欠乏に追いやることは考えものだと思う。しかし食べ過ぎということは本当はないはずで、あり得ないのである。それなのにあるということは、それは体の自然の現象ではなくて、潜在意識教育の結果、親が子供の体を歪めてしまったためである。

野口晴哉『潜在意識教育』全生社、1966年


「潜在意識内の欠乏を埋めようとする絶え間ない動き」は、食べ過ぎることに限らず、さまざまな分野・領域にまでひろがっている現象であるように、ぼくは思う。野口晴哉が書くように、「或る意味の欠乏」は向上心とつながるのであろうが、欠乏感と向上心の組み合わせは、とても気をつけなければならない。このような「欠乏感」を、世界の「豊饒さ」への感知へと置き換えながら、ぼくたちの「体」への信頼を含め、人生や世界を信頼してゆくことのなかに、ぼくたちは「世界」の違う風景を見るのだ。

詳細を確認
「見田宗介=真木悠介」, 書籍 Jun Nakajima 「見田宗介=真木悠介」, 書籍 Jun Nakajima

「2018年の一冊」を選ぶ。- 2018年に「世界に放たれた」書物。

2018年も12月に入って、ここ香港もそろそろ冷えこんでくると思いきや、ここ数日は日中25度くらいまで気温が上がり、汗ばむような気候だ。来週はだいぶ気温が下がるようで、「香港の冬」の雰囲気がよりいっそう感じられるかもしれない。

2018年も12月に入って、ここ香港もそろそろ冷えこんでくると思いきや、ここ数日は日中25度くらいまで気温が上がり、汗ばむような気候だ。来週はだいぶ気温が下がるようで、「香港の冬」の雰囲気がよりいっそう感じられるかもしれない。

ところで、年の瀬が近くなって、「2018年の本」というような切り口で、読んでおきたい本などが取り上げられるようになってきた。

だから、ぼくも「2018年の本」といった切り口でブログを書こうと思っていたら、密接に関連する二つの問題にぶつかることになってしまった。

一つ目の問題は、「2018年」のように年の取り扱い方であり、もう一つの問題は、「2018年に……本」の「…」に入れる言葉である。

「2018年」としぼったとき、2018年に「出版された」本を対象とするのか、2018年という時勢に「読んでおきたい」本であれば古典を持ち出してもよいのか、という問題である。

それと同時にぶつかった問題は、「おすすめの本」のようなものとして、たとえば「2018年に読んでおきたい本」とテーマをしぼるとすると、それほど時間的に「喫緊な本」というものがあるだろうか、と考えてしまったことである。

「2018年」とはどのような年であったのか、ということをつきつめて把握しなければ、「2018年」において「喫緊な本」は明確に見えないのかもしれないと思いつつも、他方で、2018年にぼくが読んできた本の多くは、これまで以上に「古典的な本」であったことを、ぼくは思い起こすのである。

ぼくの個人史的な流れのなかでそのような本が「必要」とされたときだったことと共に、やはり「今」は、過去から未来への時間軸をよりながく描くことで、現在と未来が見えてくるのだと考えているのでもあり、「古典」や時間軸をながくとった書物が、生きてゆくうえで大きな力となってくれるのだ。

そんな時代だからこそ、現在、本の置かれている状況も、世界の現在と未来を反映するように、今読むべき「喫緊な本」と、世界の大きな転換期だからこその「古典的な本」や「時間的な視界の広い本」とに、大きく分かれているようにも見える(もちろん、本によっては、あるいは読み手によっては、これら二つの流れがひとつになるように交差してくる本もあるだろうが、ひとまずここでは分けて考えておく)。

そんなことをかんがえながら、ひとまず「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの本」としようと思う。「2018年」を残しながら、この年に出版された本とし、そして「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの本」に、ここでは「一冊」という限定を加えることにする。

「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの一冊」は、見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)。

「現代社会」(そして未来の社会)を捉えるこの書物は、2018年に出版された本でありながら、これからもながいあいだ読み継がれてゆく書物であるだろう。「現代社会」を三千年の流れのなかにおさめ、これからの少なくとも100年かかるだろう変革を視界におさめているからだ。

ブログ「見田宗介著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』。- <肯定性>に充ちた「100年の革命」を描く。」(2018年7月11日)で、そのあたりの一端をつぎのように書いた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

見田宗介の新著『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書、2018年)は、肯定性に充ちた書である。

ぼくたちの生きる「現代社会」の立ち位置を、人間の歴史のなかで明晰に太い線でマッピングし、また「どこに向かうか」ということを、すでにこの世界で見て取れる現実にも光をあてながら、しかし「歴史の曲がり角」としての視野を提示する。

ここではそれぞれの「内容」には入っていかないけれども(ブログで随時、ふれてゆくことになると思う)、このすてきな本のぜんたいを感覚しながら、まずはじめの所感のようなものとして、ここに書いておきたいと思う。

見田宗介による「岩波新書」としては、これで三冊目となり、ほぼ10年に一冊で出されてきたこれら三冊は、この三冊目をもってして、いわば「三部作」のようなものとして完結したようにも見ることができる。

三冊目を含め、これまでの「新書」は、つぎのとおりである。

●『現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来』岩波新書、1996年

●『社会学入門ー人間と社会の未来』2006年

●『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』2018年

『現代社会の理論』で「現代社会」の光の巨大と闇の巨大をひとつの理論としておさめ、『社会学入門』ではさらに広い歴史的な視野のなかに「現代社会」とその未来を位置付け、それから『現代社会はどこに向かうか』で「軸の時代」(カール・ヤスパース)の概念を援用しながら、未来にひろがる<永続する幸福な安定平衡の高原>としての社会を見据える。

見田宗介は、かつてカール・ヤスパースが書いた、上述の「軸の時代」という概念を念頭に、人間の社会における「歴史の二つの曲がり角」を太い線として描き出す。

ここは、見田宗介自身の言葉で、「歴史の二つの曲がり角」の「課題」をおさえておきたい。

 第一の曲がり角において人間は、生きる世界の無限という真実の前に戦慄し、この世界の無限性を生きる思想を追求し、600年をかけてこの思想を確立して来た。現代の人間が直面するのは、環境的にも資源的にも、人間の生きる世界の有限性という真実であり、この世界の有限性を生きる思想を確立するという課題である。
 この第二の曲がり角に立つ現代社会は、どのような方向に向かうのだろうか。そして人間の精神は、どのような方向に向かうのだろうか。わたしたちはこの曲がり角と、そのあとの時代の見晴らしを、どのように積極的に開くことができるだろうか。本書はこの問いに対する、正面からの応答の骨格である。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

この「第一の曲がり角」とは、紀元前古代ギリシャで哲学が生まれ、仏教やキリスト教の基となる古代ユダヤ教が展開された時代の「曲がり角」である。

見田宗介が書いているように、いろいろな思想が一気に開かれた背景には、「貨幣経済」と「都市の勃興」ということがある。

そのような社会で、それまで「共同体」という有限な世界に生きていた人たちが、歴史のなかではじめて、<無限>の世界を目の当たりにすることになる。

そのときから今日におけるまでの二千数百年、これら「貨幣経済」と「都市の原理」が徹底的に浸透し、<近代>という時代がつくりだされてきた、という認識に見田宗介は立っている。

そして、現代社会は、グローバリゼーションの果てに、世界・地球の<有限>という、「第二の曲がり角」に立っているというわけだ。

この「第二の曲がり角」において、社会の向かう方向性、それからこのあとにくる時代の見晴らしをどのように開くのかという問いに対する応答が、この本である。

「あとがき」で、この本は「一つの新しい時代を告げるアンソロジー」と見田宗介は書いているけれど、「目次」を読んでいるだけで楽しくなってくる「アンソロジー」だ。

【目次】

序章 現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと
一章 脱高度成長期の精神変容ー近代の「矛盾」の解凍
二章 ヨーロッパとアメリカの青年の変化
三章 ダニエルの問いの円環ー歴史の二つの曲がり角
四章 生きるリアリティの解体と再生
五章 ロジスティック曲線について
六章 高原の見晴らしを切り開くこと
補章 世界を変える二つの方法

なお、序章から四章はこれまで発表されてきた論考に手がくわえられたもので、五章から補章がこの新書のための書き下ろしである。

社会学者「見田宗介」の著作群ぜんたいを、世間に受け容れられなくてもよいとして書かれてきた「真木悠介」名での著作群ともあわせて見渡すなかでは、この本は、見田宗介=真木悠介の著作群のなかでもユニークなもののように見える。

それは、これまで書かれてきたことが、この本において、いろいろな音が交響するように混じり合っていることである。

たとえば、近代社会・現代社会の矛盾や相克をあつかう社会学的な分析と論考において、人の幸福や欲望の相乗性などの論考が正面からとりいれられ、融合され、論じられている。

もちろん、これまでの著作群も、このような社会の「ハードな側面」と人の「ソフトな側面」がともに視野に入れられながら、書かれてきてはいたのだけれど、この本においては、<高原の見晴らしを切り開く>ということのなかで、ともに正面から論じられ、美しい仕方で交響し、人と社会の肯定性が鳴り響いている。

このことを支えているのは、いつにも増して加えられている「補」や「補章」(一章・二章・六章に「補」の文章が書き添えられ、また「補章」が加えられている)である。

そのうちの「補章」、「世界を変える二つの方法」は、補章でありながら、ぼくたちの思考、そして心をうつ。

その最後の節は「連鎖反応という力。一華開いて世界起こる」と題され、新しい時代の見晴らしを切り開くための<解放の連鎖反応>の「一つの純粋に論理的な思考実験」について、書かれている。

 一人の人間が、1年間をかけて一人だけ、ほんとうに深く共感する友人を得ることができたとしよう。次の一年をかけて、また一人だけ、生き方において深く共感し、共歓する友人を得たとする。このようにして10年をかけて、10だけの、小さいすてきな集団か関係のネットワークがつくられる。新しい時代の「胚芽」のようなものである。次の10年にはこの10人の一人一人が、同じようにして、10人ずつの友人を得る。20年をかけてやっと100人の、解放された生き方のネットワークがつくられる。ずいぶんゆっくりとした、しかし着実な変革である。同じような<触発的解放の連鎖>がつづくとすれば、30年で1000人、40年で一万人、50年で10万人、…100年で100億人となり、世界の人類の総数を超えることになる。
 …肝要なことは速さではなく、一人が一人をという、変革の深さであり、あともどりすることのない、変革の真実性である。自由と魅力性による解放だけが、あともどりすることのない変革であるからである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

これまで、「世界を変える」という言葉が、どれだけ多くの人たちを魅了し、触発し、行動に向かわせ、そして一定の範囲での成功をおさめさせ、あるいは失敗させてきたことだろうか。

それはひとつの「衝動」でもある。

かつて、「言葉で世界は変わらない、暴力で世界は変わらない」と書いた見田宗介は、そのような「時代」を生き、その歴史を丹念に冷静に見つめ、方法を真摯に求めるなかで、この「変革の真実性」に至る。

書かれているように、これはあくまでも「思考実験」であり、現実はさまざまな阻害要因と加速要因が作用してくる。

また、「第一の曲がり角」では600年の時間を要して、かずかずの思想が確立されてきたのに対し、もし100年かかるとしても早いものだと、見田宗介は書いている。

でも、繰り返しになるけれども、肝要なことは、その「速さ」ではなく、変革の深さであり、自由と魅力性による解放であり、したがって「あともどりすることのない」真実性である。

ぼくが書くブログも、そのような変革の真実性に向けて、投げ放たれてある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こんな一冊である。

まぎれもなく「2018年に出版された本で、ぼくのおすすめの一冊」でありながら、2018年を起点として、これからも読み継がれる書物である。2018年に「世界に放たれた」書物であり、世界のあちらこちらに、未来を準備する世代たちのうちに<思考の芽を点火する>一冊である。

ちなみに、この本の「あとがき」にあるように、この本は今は亡き鶴見俊輔氏に捧げられている。この本のなかで鶴見俊輔やその思想に触れられたわけではないが、見田宗介は「鶴見さんの、素朴なポジティヴなラディカリズムは、一番大切なことをわたしに教えてくれた」と書きながら、本書を鶴見俊輔に捧げている。

その箇所を読みながら、加藤典洋が『戦後入門』(ちくま新書、2015年)を、鶴見俊輔氏に読んでいただきたかったのだ、と書いていたことを、ぼくは思い出す。加藤典洋はだから執筆を急ぎながらも、最後の最後で鶴見俊輔の逝去に遭ったのであった。加藤典洋にとって鶴見俊輔は「私という書き手をつくってくれた人」だという。

これまでに数冊しか読んできていない、鶴見俊輔の著作。

こうして、ぼくの「2019年の読書」のひとつの方向性・目標・楽しみがみつかる。

詳細を確認
海外・異文化, 日本 Jun Nakajima 海外・異文化, 日本 Jun Nakajima

「日本だけ」と言われることを体験・経験のなかに確認しながら。 - 異国での<書き換え>。

日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります


日本をはなれての異国の地における短い旅や異国に住むことを、それなりの長い時間をかけてしてきたなかで、それらの体験・経験がぼくのなかに少しずつ積層しながら、ぼくはときどき思うことになります。

「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」と言われてきたことは、かならずしも「日本だけ…」ということではないということをです。

「日本だけだよ、…」につづく言葉は、よいこともあれば、あまり好ましくないこともあります。

でも、実際の体験や経験のなかで、その風景のなかで、そのように語られていた言葉やイメージが次第にくずれてゆくことになります。

1回や2回ほど目にしたということ以上に、「日常」を生きてゆくなかで、「日本だけだよ、…」の語法が機能しなくなってゆくのです。


もう20年以上前のことになるけれど、ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口からでる水が「飲める」ということに、ぼくは小さな、でも意表をつかれたおどろきを感じたものでした(今はどうなっているかはわかりませんので、飲まれる際にはご確認を。なお、ぼくはそれでも蛇口からの水は沸騰させて飲みましたが)。

オークランドで、ぼくは同年代の人たち(多くはオークランドの大学に通っているニュージーランドの人たち)と一軒家をシェアしていて、ニュージーランドの人たちの暮らしかたを目の当たりにしながら生活をしていました。だから、フラットメートが蛇口からの水が飲んでいるのを見て、蛇口から水を飲めるのは世界で「日本だけ/くらい」と思っていたから、びっくりしたのでした。

飲むことにほかに、食べることでもそのようなことはあります。たとえば、よく言われる「麺をすする」食べ方。「麺をすする」食べ方は、日本人だけ/日本人くらいだと思っていると、ここ香港のレストラン・食堂で、となりの席の人が麺をすするように食べているのを見て、「あれ、違うぞ」と、ぼくはじぶんの認識をよびだして、そこに注をつけたり、あるいは書き換えをしなければならなくなるのです。そんなふうに「書き換え」をしたあとに、韓国のテレビドラマのなかで、麺をすするシーンがあるのを見たりもしました。

さらに、飲むことや食べることに加え、住むこととなると、ぼくはどこかで、住環境が「狭い」のは日本だけだと思っていたのでしたが、香港に住んでみて、日本だけじゃないぞ、と身体で実感することになりました。日本の細やかな技術や製品(たとえば収納用品など)が、香港のような場所に活躍の場をもっているわけです。


もちろん、「日本だけだよ、…」「日本くらいだよ、…」という言い方は、語っているものごとを誇張し強調するための便宜的な言い方かもしれません。ほんとうに「日本だけ」とは思っておらず、ただ圧倒的な少数としての意味合いで「だけ」や「くらい」を使っているということです。

それでも、そのような言い方をふだんからしていると、それがあたかも「現実」のように感じられたり、考えられたりしてしまうように、ぼくは思います。ぼくも生まれてから20年くらいのあいだに、いろいろな言葉や思考を吸収して、思い込みや偏った見方をそれとなしに、じぶんのなかに構築してきてしまったのだと思います。


さらに、これまでの巨大な知性たちが語り、知性たちの延長線上に「日本辺境論」として内田樹先生がえがく、日本・日本人の思考・行動様式も思い起こされます。


私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
 日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません…。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。…

内田樹『日本辺境論』新潮新書


「日本とは…」という日本文化論の<決定版>をもたず、常に同一の主題に繰り返し回帰する。日常のなかで、悩み、じぶんを見つめ直し、他者たちとの距離を確認し、じぶんのあり様をながめる。そのようなあり様が、「日本だけ」や「日本くらい」という語法とも、どこか結びついているように、ぼくには見えます。


いずれにしろ、ぼくは、じぶんの体験・経験のなかで、じぶんのなかの何かをこわしながら、じぶんのなかに何かをつくってきているのだということを、現在進行形の時制で感じています。

詳細を確認
宇宙・地球 Jun Nakajima 宇宙・地球 Jun Nakajima

「世界」の周辺が暗闇だった時代の「感覚」を想像して。- 地球が「地球」でなかったころ。

この「地球」を生きているぼくたちは、この地球が球体であることを「知って」いる(あるいは、ここが「地『球』」であることを知っている)。

この「地球」を生きているぼくたちは、この地球が球体であることを「知って」いる(あるいは、ここが「地『球』」であることを知っている)。

学校でも習ったし、文房具店や百貨店には地球儀がならび、ニュースは「グローバル化」を語り、iPhoneやApple Watchのスクリーンは球体である地球をうつしだしている。

地球のなかにいるとそれが球体であるのかは、飛行機にのっても船にのっても「実感」できないけれど、宇宙飛行士が宇宙で<折り返したときの視線>は、そこに青い惑星の(光の都合で完全ではないが)球体をみることができる。

現代社会を正面からみつめ、肯定的な未来を構想する見田宗介は、「グローバル・システムの危機」の文脈で、つぎのように書いている。

 球はふしぎな幾何学である。無限であり、有限である。球面はどこまでいっても際限はないが、それでもひとつの「閉域」である。
 グローバル・システムとは球のシステムということである。どこまで行っても障壁はないが、それでもひとつの閉域である。これもまた比喩でなく現実の論理である。二十一世紀の今現実に起きていることの構造である。グローバル・システムとは、無限を追求することえをとおして立証してしまった有限性である。それが最終的であるのは、共同体にも国家にも域外はあるが、地球には域外はないからである。

見田宗介『現代社会はどこに向かうかー高原の見晴らしを切り開くこと』岩波新書、2018年

球のふしぎな幾何学(無限であり、有限である)については、人によっては小さいころに考えさせられたことであるかもしれない。それは、あたりまえのことでありながら、しかし、思考や想像を触発するものである。

地球の「球体」をあたりまえのこととして認識しながら、あるいは地球のだいたいどこにどのような大陸や島があってということを想像しながら、ぼくの想像と問いは、「昔の人たち」がどのように、空間(また時間)を感覚し、認識し、想像していたのか、という地平へと向かう。それは、どのような「感じ」であったのか。

写真家の杉本博司の写真集『海景』シリーズのモチーフは、「原始人の見ていた風景を、現代人も同じように見ることは可能か」という自問であったというが、そのモチーフとも共振するように、ぼくの想像と問いはある。

あるいは、極限してゆけば、養老孟司が「ヒトがいない世界」というものをものすごくリアルに考えているということとも通底しているのかもしれない。縄文時代や富士山ができる頃の日本列島の自然を見てみたいのだと、ずっと思っているという気持ちとの共振である。

真木悠介(見田宗介)は、「人間の解放」に照準をあわせながら、近代・現代とは異なる社会と出会うことを方法(「比較社会学」という方法)としている。名著『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年)は、近代・現代とは異なる「時間感覚」をほりおこしてもいる。

今とは異なる「時間感覚/空間感覚」を実感してみたい、体験してみたいという衝動が、ぼくのなかにある。

オーストラリアとニュージーランドの歴史を書いた著作『History of Australia and New Zealand』(1894)で、著者のAlexander Sutherland(1852-1902)とGeorge Sutherland(1855-1905)は、ヨーロッパ人がオーストラリアを「発見」した当時の、「空間認識」から書きはじめている。

To the people who lived four centuries ago in Europe only a very small portion of the earth’s surface was known. 
4世紀前のヨーロッパに住んでいた人たちにとって、地球の表面のほんのわずかな部分しか知られていなかった。

Alexander Sutherland and George Sutherland『History of Australia and New Zealand』(Aberdeen University Press) ※日本語訳はブログ著者

限定されていた「ほんのわずかな部分」とは、地中海世界のすぐ周辺の地域、ヨーロッパ・北アフリカ・アジアの西側の地域であったという。

Round these there was a margin, obscurely and imperfectly described in the reports of merchants; but by far the greater part of the world was utterly unknown. Great realms of darkness stretched all beyond, and closely hemmed in the little circle of light. In these unknown lands our ancestors loved to picture everything that was strange and mysterious. 
これらの場所の周りは、商人たちの報告で、あいまいかつ不完全に述べられる余白であった。しかし、世界の圧倒的に大きな部分はまったく知られていなかったのである。先には大きな暗闇がひろがっていて、明かりの小さな円に密接に取り囲まれている。これらの知られていない土地について、われわれの祖先たちは、奇怪でミステリアスなものとしてすべてを想像することをとても好んだのであった。

Alexander Sutherland and George Sutherland『History of Australia and New Zealand』(Aberdeen University Press) ※日本語訳はブログ著者

もちろん、このあと航海術などの進展にともない、たとえばコロンブスの「発見」などにつながってゆくことになる。

それにしても、ある土地の先が「闇」であるような<地図>をもとに旅をしてゆくことが、どのような「感覚」のなかにあったのか。「オーストラリア」の発見を描写してゆく、Sutherland兄弟の本の「出だし」(旅の出発点)を読みながら、その想像の世界のなかに、読み手はなげこまれることになる。

そのことがたった400年ほど前のことであったのだということも、地球が球体であることをあたりまえのこととして知る現代の人間たち(そして、決心して行こうと思えば、いつだってこの球体をまわることができる人間たち)にとっては、なかなか想像しがたいことだ。

なにか結論や教訓などをひきだすのではなく、ぼくはただ、今とは異なる「時間感覚/空間感覚」を実感してみたい、体験してみたいという衝動について書いている。

それは、ひとつには、ぼくたちが生きている「今」という地点を、歴史的/地理的なマップのなかで「見渡す」ということでもある。ぼくたちが、どのような時代の、どのような所に生きているのかを、より客観的に知ることである。

また、もうひとつには、「今」という地点から、いったん想像的に<外部へ出てみる>ことで、「今」という地点ではなかなか手にいれることができない感覚と視点を手に入れようとする試みでもある。そうすることで、生きかたを想像的に創造する「翼」を手にすることができるかもしれない。

このようであることで、過去へ向かう旅は、現在と未来への旅である。

詳細を確認