吉本隆明の「声」に、耳をすます。- ほぼ日「吉本隆明の183講演」の、はるかな宇宙。
糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)のアーカイブに、「吉本隆明の183講演」という、心躍らせる講演アーカイブがある。
糸井重里主宰の「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)のアーカイブに、「吉本隆明の183講演」という、心躍らせる講演アーカイブがある。
「1960年代から2008年の「芸術言語論」に至るまでの思想家の吉本隆明さんの講演をできるかぎり集めてデジタルアーカイブ化したもの」(ほぼ日「吉本隆明さんの講演について」)である。
思想家・詩人・文芸批評家の吉本隆明(1924年~2012年)は今の大学生の世代にはあまり知られておらず、また読まれていないと推測するけれど、思想家として多くの人たちに影響を与えてきた「巨人」である。
ちなみに、作家のよしもとばななは、吉本隆明の次女である。
ぼくは20年以上前に、大学に在籍していた折、社会学者の見田宗介、作家の辺見庸などを読んでいて、「吉本隆明」の名を知るようになった。
吉本隆明の著作も『共同幻想論』や『心的現象論序説』や『宮沢賢治』などを手にとってはみるのだけれど、吉本隆明の世界の深淵に、ただ立ち尽くすだけであった。
だから、これらの著作を今また手にとっては、その深淵をのぞきこんでいる。
「吉本隆明の183講演」のアーカイブの存在は、ぼくの心を躍らせた。
あの吉本隆明の講演が、183本もある。
分数の総計では、21746分にもなるという。
いくつかの講演のトピックをあげると、「フロイトおよびユングの人間把握の問題点」「宮沢賢治の世界」「現代詩の思想」「ドストエフスキーのアジア」「日本資本主義のすがた」「都市を語る」「ぼくの見た東京」「文学論」「恋愛について」「家族の問題とはどういうことか」「私と生涯学習」「社会現象としての宗教」「「生きること」について」「現代をどう生きるか」などなど、心踊るものばかりだ。
ひとつの講演のために論文を書くほどに労力をついやしていたこともあったという(そのことはぼくに、経済学者アマルティア・センの講演を思い起こさせる)。
iPhoneの「Podcasts」でも聞けるようになっているから、ぼくたちはいつでも、この巨人の「声」に耳をすますことができる。
ざっと講演リストに目をやり、最近のぼくの関心事である「物語」というキーワードがぼくをとめ、A162「物語について」(1994年)という講演を、ぼくは再生する。
吉本隆明の、あの(当初は想像しなかった)太い声が語りはじめる。
その「声」は、自信にみちあふれたような太い声ではなく、ゆらぎのなかを、一歩一歩たしかめるようにあゆむ声である。
その「声」は、人を(少なくともぼくを)ひきつけるものである。
その声は、次のように語り出す。
今日は「物語について」ということで、何をお話ししようかと思って、僕自身の物語についての考え方というか考察があるので、それをお話しすればいいかなと思ったんですが、たまたま出たばかりの『新潮』という雑誌に村上春樹と心理学者の河合さんの対談が載っていて、その対談が「現代の物語とは何か」という内容になっています。ちょうどこの人の『ねじまき鳥クロニクル』がベストセラーになっていて、自作の解説みたいなこともしていますから、これは入り口にはちょうどいいんじゃないかと思うので、そこから入っていきたいと思います。
テキスト「物語について」『吉本隆明の183講演』
ぼくはその語りを聴きながら、ある「偶然」にびっくりしてしまう。
「村上春樹と河合隼雄」に関するブログを書いたすぐ後に、吉本隆明の「物語について」という講演を再生して、まったく予測もしていなかったところに、「村上春樹と河合隼雄」が冒頭で登場する。
ぼくはその「偶然」におどろかされながら、吉本隆明の「村上春樹論」は読んだことも、聴いたこともなかったなぁと思いながら、興味深く、吉本隆明の「思想の声」に聴き入った。
また、吉本隆明自身の「僕自身の物語についての考え方というか考察」はやはり深い世界にぼくをなげこむのである。
183の講演、21746分の声とその声の「行間」から、ぼくはどんなことをまなぶのだろうかと、吉本隆明の思想の深淵をやはり感じながら、ぼくは静かに、耳をすませている。
「…先生」と呼んでしまう人。- 村上春樹にとっての「河合先生」(河合隼雄氏)のことから。
ここ香港で話される「…先生(sin sang)」は、成人男性に対する呼び名だから、ぼくはときに「先生(sin sang)」と呼びかけられたりするのだけれど、ここでは日本の「先生」のことを書いている。
ここ香港で話される「…先生(sin sang)」は、成人男性に対する呼び名だから、ぼくはときに「先生(sin sang)」と呼びかけられたりするのだけれど、ここでは日本の「先生」のことを書いている。
学校を卒業してしまうと、普段の生活のなかでは、特定の仕事にかかわる場合をのぞいて、「先生」と呼ぶ人はあまりいないように思う。
そのことがよいことなのか、わるいことなのか、それは人それぞれであろう。
ぼくにとっては、まず、社会学者の見田宗介「先生」の存在が大きい。
別に普段お会いするわけでもなく、カルチャーセンターの講義を一度だけ聴講したことがあるだけなのだけれど、やはり、「見田宗介先生」である。
文章を書いているときは、「先生」を外すことが多いけれど、心のなかでは「見田宗介先生」である。
しかし、見田宗介先生のペンネームである「真木悠介」となると、事情は微妙に異なってくるかもしれない。
真木悠介氏としての見田宗介先生にお会いするのであればどうだろうかと、ぼくはかんがえてしまう。
小説家の村上春樹にとっては、自身も「先生」づけで呼ばれることはないし、また「先生」づけで呼ぶ人はいないけれど、今は亡き、心理学者・心理療法家の河合隼雄氏だけは、なぜか「河合先生」と呼んでしまうのだという(村上春樹「「河合先生」と「河合隼雄」」『雑文集』新潮社)。
とくに、河合隼雄氏の学生でもないし、彼のクライアントでもないし、尊敬はしているけれど「人生の師」でもない河合隼雄氏を呼ぶときに、対面していなくても、「河合先生がね…」というように、「河合先生」と呼んでしまう。
そこには「何か理由がある」はずだと思ってみると、周りの人たちの多くが「河合先生」と呼んでいて、だいたい8(「河合先生」)対2(「河合さん」)の割合のように感じられるというのだ。
こうして、村上春樹は「理由」をじぶんなりにいろいろとかんがえていく。
…いろいろと僕なりに考えてみたのだけど(小説家というのは暇だから、いろんなことをわりにしつこく考える)、考えているうちにだんだん、要するに河合隼雄氏は、半ば意図的に「河合先生」という衣を身にまとおうとしているのではあるまいか、という気がしてきた。…要するに「かわい先生」と呼ばれることを、ごく自然ににこにこと受け入れることによって、自分を「河合先生」と「河合隼雄」とにうまい具合に分離し、使い分けているわけではないだろうか。もしそうだとしたら、さすが心理療法の専門家だけのことはあるなと思う。…
村上春樹「「河合先生」と「河合隼雄」」『雑文集』新潮社
村上春樹がこの文章に続いて書いているとおり、そんなことは簡単にできることではない芸当である。
でも、村上春樹が河合隼雄と個人的に話をしていると、「河合隼雄」と「河合先生」のモードが入れ替わることがあったという。
たまにお目にかかって個人的に話をしていると、目の前で河合隼雄氏と河合先生のモードがすっと入れ替わったりすることがある。というか、こちらの目から見ていると、そういう風に感じられることがある。まるで風の方向で、森の中の木漏れ日がその印象を変えたりするのと同じように、顔つきがわずかに変化する。目の光り具合や、声のトーンがほんの少しだけ変化する。とはいっても、それで具体的に何かが変わるということではない。…
村上春樹「「河合先生」と「河合隼雄」」『雑文集』新潮社
このように察知する村上春樹の感覚と考えは、とても興味深い。
見田宗介先生についても、「見田宗介」名においては、大学の教員としての衣を身にまとっているところがある。
真木悠介名で書かれる著作たちは、世に容れられることを一切期待しないものである。
河合隼雄氏にとっては「心理(療法)」を軸にするモード変化であるように、見田宗介氏にとっては「社会」(世間)を軸にするモード変化のようにも見える。
いずれにしても、河合隼雄氏はぼくにとっても「河合隼雄先生」であり、見田宗介氏は「見田宗介先生」である。
ぼくが尊敬してやまない「先生」たちだ。
村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「空間(異国)」編:ヨーロッパでの3年。
小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。
小説家の村上春樹の著作『遠い太鼓』(講談社文庫)。
1986年から1989年にかけて、村上春樹がヨーロッパに住んだときのエッセイ(記録)である。
「四十歳」に特別な予感をいだきながら、「遠い太鼓」に呼ばれるようにして、村上春樹(夫妻)は、三十七歳でヨーロッパに旅立った。
「四十歳」への予感ということと共に、ぼくの関心をよんだのは、この長い旅が、村上春樹にとって「初めての海外暮らし」であったことである。
村上春樹は、夫妻が置かれる「立場」がとても「中途半端」であったことを書いている。
「観光的旅行者」でもなく、かといって「恒久的生活者」でもない。
さらに、会社や団体などにも属しておらず、あえて言えば「常駐的旅行者」であったという。
本拠地をローマとしながらも、気に入った場所があれば「台所のついたアパートメント」を借りて何ヶ月か滞在し、それからまた次の場所に移っていく。
その生活の様子や出来事が、まるでそれらが物語のように、語られている。
物語のように描かれる世界、筆致と文体とリズム、視点や視角はとても魅力的である。
村上春樹は、そのような生活を「孤立した異国の生活」というように語っている。
その(自ら望んだ)孤立のなかで、村上春樹はただただ小説を書きつづけ、この3年間に、長編小説としては『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げることになる。
『ノルウェイの森』はギリシャで書き始められ、シシリーで書き継がれ、ローマで完成したようだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』は、ローマで大半が書かれ、ロンドンで完成されたという。
このようにして、これらの長編小説には「異国の影」がしみついているのだと、村上春樹自身が感じるものとして、できあがったのだ。
村上春樹は、これらの作品は、仮に日本に住み続けていたとしても、時間はかかってもいずれは同じようなものが書かれたであろうと、振り返っている。
…僕にとって『ノルウィイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』は、結果的には書かれるべくして書かれた小説である。でももし日本で書かれていたとしたら、このふたつの作品は今あるものとはかなり違った色彩を帯びていたのではないかという気がする。はっきり言えば、僕はこれほど垂直的に深く「入って」いかなかっただろう。良くも悪くも。
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
ヨーロッパでの孤立した生活のなかで、誰にも邪魔されずに、ひたすら小説を書く。
「なんだかまるで深い井戸の底に机を置いて小説を書いている」ようであったと、小説を書いている自分を、村上春樹は客観視する。
深い井戸の底に、垂直に深く「入って」いくことのできる<環境>を、ヨーロッパでの生活が準備し、そこで村上春樹の作品が生成する。
…結局のところ、僕はそういう世界に入りたがっていたのだと思う。異質な文化に取り囲まれ、孤立した生活の中で、掘れるところまで自分の足元を掘ってみたかった(あるいは入っていけるところまでどんどん入っていきたかった)のだろう。たしかにそういう渇望はあった。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
さらに、後年になって、村上春樹は、ヨーロッパという異質な文化の環境で、「三年かけてこの本を書いたことによってなんとなく体得したもの」として、「複合的な目」を挙げている。
外国に行くとたしかに「世界は広いんだ」という思いをあらたにします。でもそれと同時に「文京区だって(あるいは焼津市だって、旭川市だって)広いんだ」という視点もちゃんとあるわけです。僕はこのどちらも視点としては正しいと思います。そしてこのようなミクロとマクロの視点が一人の人間の中に同時に存在してこそ、より正確でより豊かな世界観を抱くことが可能になるはずだと思うのです。
村上春樹「文庫本のためのあとがき」『遠い太鼓』講談社文庫
この文章を、村上春樹は、ヨーロッパの次に住むことになった海外、アメリカで書いている。
ときおり、もし村上春樹が海外に住まず、日本で小説を書き続けていたら、彼の小説がどのようになっていただろうかと、ぼくは勝手にかんがえてしまう。
村上春樹が言うように、日本にいても書かれたのかもしれないけれど、『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』以後の長編小説の深い世界を思うとき、ぼくはやはりかんがえてしまうのだ。
そしてときおり、ぼくはじぶんのこともかんがえてしまう。
もし、ぼくが、海外に暮らさずに、日本で暮らし続けていたとしたら、と。
無意味な問いと想像なのかもしれないけれど、「四十歳の分水嶺」に村上春樹が予感していたように、「それは何かを取り、何かをあとに置いていくこと」という「精神的な組み替え」が、生きることの<空間の分水嶺>において生じたであろうところに、ぼくの思考と想像をつれていくようにも、思われるのだ。
村上春樹の「遠い太鼓」に呼ばれた旅。- 「時間(年齢)」編:四十歳という分水嶺。
村上春樹の「エッセイ」は、「小説」に負けず劣らず、魅力的な文体とリズムで書かれている。
村上春樹の「エッセイ」は、「小説」に負けず劣らず、魅力的な文体とリズムで書かれている。
人によっては、小説よりもエッセイに惹かれる人たちもいる。
数々のエッセイのなかで好きな作品のひとつに、『遠い太鼓』(講談社文庫)というエッセイ集がある。
村上春樹が、1986年から3年間にわたりヨーロッパに住んでいたときの「エッセイ」である。
どこからか聞こえる「遠い太鼓」の音色に導かれるように旅立ち、ヨーロッパに住んでいたときの語りである。
文庫版で500頁を超えるこの作品の、ぼくにとっての「魅力性」の源泉は、村上春樹という人間が「生成」していくところに書かれた作品であったというところにあるように思う。
それは、とりわけ、二つのきっかけにおいてである。
- 村上春樹の「四十歳」
- 村上春樹の「初めての海外暮らし」
一つ目は、生きるということの「時間」という契機であり、二つ目は、生きるということの「空間」という契機である。
人は、(ひとまず/さしあたり)「時間と空間」のなかを生きている。
村上春樹にとって、この長い旅の契機のひとつは「四十歳」ということがあったという。
三十七歳で、村上春樹はこのヨーロッパへの長い旅にでる。
四十歳というのは、我々の人生にとってかなり重要な意味を持つ節目なのではなかろうかと、僕は昔から(といっても三十を過ぎてからだけれど)ずっと考えていた。とくに何か実際的な根拠があってそう思ったわけではない。あるいはまた四十を迎えるということが、具体的にどういうことなのか、前もって予測がついていたわけでもない。でも僕はこう思っていた。四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み替えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。…
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫
そのような「予感」が、三十半ばの村上春樹のなかでふくらんでいき、「精神的な組み替え」が行われてしまう前に、「あるひとつの時期に達成されるべき何か」をしておきたかったこと、村上春樹は書いている。
なお、「四十歳」ということは、三十歳で『風の歌を聴け』によって群像新人文学賞を受賞した村上春樹が、「受賞の言葉」でも語っていた時間感覚でもあった。
…フィッツジェラルドの「他人と違う何かを語りたければ、他人と違った言葉で語れ」という文句だけが僕の頼りだったけれど、そんなことが簡単に出来るわけはない。四十歳になれば少しはましなものが書けるさ、と思い続けながら書いた。今でもそう思っている。…
村上春樹「四十歳になれば」『雑文集』新潮社
『遠い太鼓』を初めて読んだのは、ぼくが三十代の頃(正確に三十代のいつかは覚えていない)であった。
ぼくの根拠のない「予感」も、四十歳というものをひとつの分水嶺のように捉えていたから、そこに親和性のようなものを感じたことを覚えている。
ぼくも四十歳を超えてみて、「精神的な組み替え」が行われたかどうか、そこで何かをとり何かをあとに置いてきたのかをかんがえてみる。
他方で、「四十歳」という分水嶺の「妥当性」のようなこともかんがえてしまう。
人間の身体を生物学的にみたときの変化ということがある一方で、「世代」(三十代、四十代、五十代…)というものが現代世界における「共同幻想」ではないかという思いももたげてくる。
さらには、「100歳時代」の到来のなかで、これまでの四十歳とこれからの四十歳は、生きるプロセスの意味合いを大きく変えてきている。
そのようないろいろな思いとかんがえが交錯するなかで、村上春樹の『遠い太鼓』の世界に、ふたたびふれている。
村上春樹は、このヨーロッパでの3年間で、小説としては『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書いた。
村上春樹の「予感」は、『ノルウェイの森』として結実していくことになったわけだ。
ぼくは、四十歳を超えて、やはり、大きな一歩、これまでと異なる一歩を踏み出すことにした。
「四十歳」という分水嶺の妥当性はともかくも、その分水嶺は「物語」として生きてきているように、ぼくは思う。
その物語を描ききれるかどうか、その物語を生ききることができるかどうか…。
村上春樹の『遠い太鼓』のエッセイは、ヨーロッパに住むことの日常の細部それぞれが物語とリズムに充ちている。
そのように日常を生きることのうちに、村上春樹の文章の魅力は生成されている。
「風のことを考えよう」(村上春樹)。- 「風」に吹かれ、惹かれ、かんがえてみる。
村上春樹のデビューから2010年の未発表の文章が収められた『雑文集』(新潮社、2011年)を読み返していたら、「風のことを考えよう」という、以前読んだときにはあまり気に留めなかった短い文章に、目が留まった。
村上春樹のデビューから2010年の未発表の文章が収められた『雑文集』(新潮社、2011年)を読み返していたら、「風のことを考えよう」という、以前読んだときにはあまり気に留めなかった短い文章に、目が留まった。
村上春樹のデビュー作品である『風の歌を聴け』の「風」のイメージに共鳴したということでは特にない(「風」という視点で村上春樹の作品を読み解いていくことはきっとおもしろいだろうけれど)。
「現代人はなぜ風を求めているのか」(見田宗介『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫)という問題意識と、なぜ「ぼくは」風に惹かれているのか、ということの問題意識の重なりのなかで、村上春樹の感性がどのように「風」をとらえているのかが、気になったのだ。
「風のことを考えよう」というフレーズは、トルーマン・カポーティの短編小説「最後の扉を閉めろ」という作品にあるという。
「そして彼は枕に頭を押しつけ、両手で耳を覆い、こう思った。何でもないことだけを考えよう。風のことを考えよう、と」
最後の“think of nothing things, think of wind”という文章が、僕はとても好きだった。…
そんなわけで、何かつらいことや悲しいことがあるたびに、僕はいつもその一節を自動的に思い起こすことになった。…そして目を閉じ、心を閉ざし、風のことだけを考えた。いろんな場所を吹く風を。いろんな温度の、いろんな匂いの風を。それはたしかに、役立ったと思う。
村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年
「運び去っていくもの」としての風、あるいは「運んできてくれるもの」としての風があるとすれば、ここでは、つらいことや悲しいことを運び去ってくれる<風>が、想像力のなかでよびおこされているように見える。
しかし、村上春樹の「風」は、トルーマン・カポーティの「風」ー何でもないことーとは、微妙にズレているようにも見える。
村上春樹の「風」は、何でもないことに連想される風ではなく、「いろんな風」であり、いわば豊饒な風である。
自然の豊饒さに彩られた風。
「太古の始めから、風は吹いていた」と野口晴哉が感じるときの風と重なる風のようにも、ぼくには見える。
ぼくにとって、世界のいろいろなところで、「風」に吹かれた記憶がながれている。
ニュージーランドに住んでいたときは、北島でも南島でも、ぼくは海岸線や道や山を「歩く旅」のなかで、風に吹かれていた。
西アフリカのシエラレオネにおける「緊急支援」においては、ぼくが所属した団体名に「風」があったように、風のように支援を展開していた。
東ティモールの山間地で、「気流」にさらされながら、コーヒー農園をみわたしていた。
ここ香港では、海から吹いてくる風にさらされて、生きている。
「風」になぜぼくは惹かれるのだろうか、しいては、現代人はなぜ「風」を求めるのか。
村上春樹の(世界における)経験のなかでは、ギリシャの小さな島に滞在していたときの風が、風の記憶として色濃くむすびついている(ちなみに、ギリシャに滞在していたときの話は、村上春樹のエッセイ集『遠い太鼓』講談社文庫、に出てくる)。
日々、風とともに生きる場所であったようだ。
…風がひとつのたましいのようなものを持つ場所だったのかもしれない。ほんとうに、風のほかにはほとんど何もないような、静かな小さな島だったから。それとも、そこにいるあいだ、僕はたまたま風のことを深く考える時期に入っていたのかもしれない。
風について考えるというのは、誰にでもできるわけではないし、いつでもどこでもできるわけではない。人がほんとうに風について考えられるのは、人生の中のほんの一時期のことなのだ。そういう気がする。
村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年
村上春樹は、人には「風のことを深く考える時期」があると書き、また、ほんとうに風についてかんがえられるのは、「人生のほんの一時期のこと」だと書いている。
1986年から3年間、村上春樹は日本を離れ、ヨーロッパに住む。
この長い旅を駆り立てた理由のひとつは、40歳になろうとしていたことであったという(前掲『遠い太鼓』講談社文庫)。
そして、ギリシャで、村上春樹は『ノルウェイの森』を書きはじめている。
村上春樹が深くかんがえていた「風」をぼくはかんがえ、記憶のなかに吹いている「風」と重ねあわせてみる。
たしかに、人が本当に風についてかんがえられるのは人生のほんの一時期なのかもしれないという思いが、思考の海を、風のようによこぎっていく。
「物語の善きサイクル」(村上春樹)。- 希望や喜びをもつ語り手であること。
「Life as Stories」(物語としての生)というテーマでいろいろとかんがえ、他の人たちがどんなことをかんがえ書いている(いた)のかを探り、発せられる言葉にこころを沁みわたらせる。
「Life as Stories」(物語としての生)というテーマでいろいろとかんがえ、他の人たちがどんなことをかんがえ書いている(いた)のかを探り、発せられる言葉にこころを沁みわたらせる。
そしてそこに「可能性」をみいだす。
頭でかんがえてきただけではなく、物語などという言葉をふっとばしてしまうような「現実」のただなかでかんがえ、それでもやはり「物語の力」を、その可能性とその方法をぼくはひたすら追い求める。
作品が出たらすぐに買って読む作家(たくさんいるわけではないけれど)のひとりに、小説家の村上春樹がいる。
生きることと物語を直接に語った箇所は今のぼくの記憶にはないけれど(そのような視点で村上春樹を読んでこなかったけれど)、村上春樹は「物語の力」を、「小説」ということに託して、いろいろなところで語っている。
物語の「善きサイクル」とよびながら、村上春樹は次のように書いている。
作家が物語を創り出し、その物語がフィードバックして、作家により深いコミットメントを要求する。そのようなプロセスを通過することによって作家は成長し、固有の物語をより深め、発展させていく可能性を手にする。…想像力と勤勉さという昔ながらの燃料さえ切らさなければ、この歴史的な内燃機関は忠実にそのサイクルを維持し、我々の車両は前方に向かって滑らかに…進行し続けるのではあるまいか。僕はそのような物語の「善きサイクル」の機能を信じて、小説を書き続けている。
村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年
村上春樹の熱心な読者であればすぐに思い出すであろう「モンゴルのホテルでの奇妙な出来事」が、ここでは具体的な例としてとりあげられている。
「物語を創るー物語が(創り手に)フィードバックするー深いコミットメントを要求する」という基本プロセスのうちに成長があり、可能性や希望がうまれてゆく。
このように語られる「物語の善きサイクル」は、狭義の「物語」だけでなく、生きることの<物語>も、サイクルの型は同じであるように、ぼくはかんがえる。
そのサイクルの型が「善きサイクル」となるか否かは、もうひとつ別のことである。
「想像力と勤勉さという昔ながらの燃料」、とりわけ「想像力」ということの燃料さえ切らさなければ、生きることのサイクルは(じぶんにとって)「善きサイクル」へと進行してゆくものだと、思う。
その意味において、人はだれもが「小説家」であり、生きることの<物語>をつくっている。
村上春樹はこの文章(「物語の善きサイクル」)の最後に、じぶんは「楽天的に過ぎるかもしれない」と、一歩立ちどまって、その歩みの意味をたしかめている。
…しかしもしそのような希望がなかったなら、小説家であることの意味や喜びはいったいどこにあるだろう?そして希望や喜びを持たない語り手が、我々を囲む厳しい寒さや飢えに対して、恐怖や絶望に対して、たき火の前でどうやって説得力を持ちうるだろう?
村上春樹「物語の善きサイクル」『雑文集』新潮社、2011年
このことも、そのまま、生きることそのものに向けられる。
個人の生においても、そして、家族、チームや組織、コミュニティなどにおいても、この文章のメッセージはつらぬいていく力をもっている。
そして、どんな人たちも、その心の奥底には、希望をはぐくむ歓びの経験の記憶をもって生きている。
「カキフライ理論」(村上春樹)にうなってしまう。-「りんごの果肉(理論)」(見田宗介より)に繋げて。
村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。
🤳 by Jun Nakajima
村上春樹・柴田元幸の著作『翻訳夜話』(文藝春秋)を読み返していて、村上春樹の、あの有名な「カキフライ理論」をみつける。
知らない方向けに、まずは「カキフライ理論」について、である。
村上春樹のところにきた質問のなかに、こんな質問があった。
「入社試験で原稿用紙三枚なら三枚ぐらいで自分について書きなさい」という試験問題があって、「そんなもの、原稿用紙三枚ぐらいで書けるわけない。村上さんだったら、どうしますか」という質問である。
村上春樹の「カキフライ理論」はここで登場する。
…そういうとき、僕はいつも言うんだけど、「カキフライについて書きなさい」と。自分について書きなさいと言われたとき、自分について書くと煮つまっちゃうんですよ。煮つまって、そのままフリーズしかねない。だから、そういうときはカキフライについて書くんですよ。好きなものなら何でもいいんだけどね、コロッケでもメンチカツでも何でもいいんだけど…
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)
この「アドバイス」の素晴らしさに、ぼくはうなってしまう。
村上春樹は、丁寧にポイントを伝えている。
…僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。一番必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くことには大事なことだと思うんですよね。
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文藝春秋)
村上春樹が書くように、自分とカキフライの間の「距離」が自分を語る。
その「距離」から生み出される「物語」が、自分を語るということ。
それにしても、「カキフライ理論」という命名と方法の妙に、ぼくは幾度もうなってしまう。
理由の一つ目は、誰でもがわかる名前であること。
理由の二つ目としては、忘れられない命名であること。
それから、三つ目として、やはり「カキフライ」であること。
「べつにカキフライじゃなくてもいいんだけど」と言う村上だが、ぼくは、やはりこれはコロッケでもメンチカツでもなくて、「カキフライ」ではなくてはならなかったのではないかと思う。
この理論を特別なものとするのは、あるいは村上春樹の理論とするには、やはり「カキフライ」でなくてはならなかったのではないかと思うのだ。
「カキフライ理論」を知ってから、「カキフライ」について原稿用紙三枚ぐらいで書こうとは思って、でもまだ書けていない。
その代わりに、旅を書き、シエラレオネや東ティモールを書き、コーヒーを書いては麺を書いたりしている。
ここで終わってしまっては「別の視点」はなくなってしまうので、「りんごの果肉理論」につなげておこう。
「りんごの果肉理論」は、そのような言葉はないけれど、発想そのものは社会学者の見田宗介からである。
見田宗介は「自分について」ではないけれど、「宮沢賢治について」を、本一冊(『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店)かけて書いている。
(カキフライ理論の発祥のもとになった「自分」ということにつながるのだけれど)<自我>という問題を追い求める、この著書の「あとがき」で、見田宗介はこんなことを書いている。
この本の中で、論理を追うということだけのためにはいくらか充分すぎる引用をあえてしたのは、宮沢賢治の作品を、おいしいりんごをかじるようにかじりたいと思っているからである。賢治の作品の芯や種よりも、果肉にこそ思想はみちてあるのだ。
見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店
これが、ぼくが勝手になづける「りんごの果肉理論」だ。
世界の「中心的なものの構造」は、語ることが難しく、そして語ることで世界の面白さを脱色してしまう(金の卵を産む卵をどこまでも解体しても、そこには肉の塊があるだけだ)。
「中心」は語るのではなく、それに「陽射された世界を語ること」と、見田宗介(真木悠介)は別のところで書いている。
中心(芯や種)に照らされるのが、<果肉>だ。
りんごの芯や種はかじってもおいしくないけれど、ぼくたちは<果肉>を楽しむことができる。
「カキフライ」は、<果肉>である。
上記の文章につづけて、見田宗介はこのように語る。
そしてこのような様式と方法自体が、<自我>をとおして<自我>のかなたへ向かうということ、存在の地の部分への感度を獲得することという、この仕事の固有の主題と呼応するものであることはいうまでもない。
…この書物を踏み石として、読者がそれぞれ、直接に宮沢賢治の作品自体の、そしてまた世界自体の、果肉を一層鮮烈にかじることへの契機となることができれば、それでいいと思う。
見田宗介『宮沢賢治ー存在の祭りの中へー』岩波書店
村上春樹が言うように、「自分」を書くことはどこかで煮つまってしまう。
見田宗介が言うように、「りんごの芯や種」をどこまでも解体し分解しても、果肉のおいしさはみつからない。
カキフライが、りんごの果肉が、この世界の<おいしさ>なのだ。
ぼくたちはただ、それらの<おいしさ>を楽しみ、豊饒に生きてゆくことへと生を解き放つこと。
このように、カキフライ理論は、じつは、深みと可能性をもった理論である。
それにしても、「カキフライ」について書こうとすると、つい「生カキ」が頭に浮かんで、ぼくのなかでは「カキ理論」になってしまう。
「フライ」の部分が取り去られてしまう。
だからっていうわけではないけれど、上述のように、「カキフライ」についてはまだ書いていない。
でも、「カキフライ」を題名にして、カキフライではなく「カキ」について書くことが、「ぼく」自身について書くことなんだろうなと、今書いていて、ぼくは気づく。
カキフライも、カキも、深い。
世界は<おいしさ>に充ちている。
香港にふりそそぐ雨に触発されて思うこと。- 「雨の楽しみ方」への想像力の獲得。
香港では、夏至にむかって、雨が降ってはやみ、やんでは降る。今年初の台風を迎えた後も、雨が香港に、ふりそそいでいる。...Read On.
香港では、夏至にむかって、雨が降ってはやみ、やんでは降る。
今年初の台風を迎えた後も、雨が香港に、ふりそそいでいる。
香港での過ごし方においては、住む場所と行く場所にとっては、雨も台風も、「避けること」ができる。
香港は、多くの建物が「屋根」でつながっているからである。
例えば、住んでいるマンション、フラットなどから、電車(MTR)の駅までつながっている。
駅の真上にマンションが位置していると、エレベーターで下におりると、すぐに駅だ。
それから、電車に乗って、目的地の駅でおりる。
その駅から、そのまま通路でつながっている仕事場やショッピングモールなどに向かう。
さらに、ショッピングモールから他のショッピングモールが、通路でつながっていたりする。
便利さと効率さが追求されている。
香港ならではの都市開発のかたちである。
養老孟司の言葉を借りれば、「脳化=社会」の徹底されたかたちでもあるように、ぼくには見える。
都市とは、「脳」がつくりあげた人工物である。
その本質は「人間のコントロール」をすみずみまで徹底させることにある。
だから、雨などの自然を含め、コントロールできないものを排除し、あるいはコントロール下におけるようなかたちをつくる。
香港の都市は、その中心部を「屋内通路」でつなげることで、自然をコントロール下におく。
脳化=社会では、自然は疎外される。
雨は、「悪い天気」である。
しかし、子供たちは、そんなことお構いなしに、「悪い天気」をのりこえてしまう。
ぼくは、繰り返し、子供たちの、この「のりこえ」に遭遇する。
(「脳化=社会」と「子供たちによる乗り越え」については、別のブログにも同じ視点で書いた。)
雨がふりそそぐなか、ぼくは、マンションを出て、他の棟の前を駅に向かって歩いていく。
アーケードや屋根があるから、傘をささなくても、雨をしのぐことができる。
そのうち、香港の3歳から5歳くらいの子供たちが、ぼくの視界にはいってくる。
子供たちは、レインコートを身にまとい、レインブーツをはいて、みずから、雨のなかにのりだしていく。
その眼は、雨をふらす空を見上げ、きらきらとした輝きをともしている。
雨に濡れないように、という大人たちの言葉と制止をはねのけて、雨のなかに幸せのかたちをつかむ。
子供たちは「脳化=社会」からはみでていく「自然」である。
ぼくたちは、大人になるにつれて、理性のなかで雨を疎外し、楽しみのひとつをなくしていく。
ぼくは子供に「負けたな」という思いがあるものの、やはり、極力、雨を避けようとする。
村上春樹の旅行記のなかで書かれる「悪い季節」の過ごし方が、ぼくの心象風景に、しずかに横たわっている。
村上春樹は「ウィスキーの匂いのする小さな旅の本」をつくるために、スコットランドのアイラ島におりたつ(旅自体は2000年よりも前のことだ)。
アイラ島はシングルモルト・ウィスキーの聖地である。
ただし、アイラ島は、夏の数ヶ月をのぞくと、気候は魅力的ではないという。
冬はとにかく雨がふり、風は強く、とにかく寒い。
それでも、この「悪い季節」にわざわざ辺鄙なアイラ島に来る人たちは少なくないという。
…彼らはひとりで島にやってきて、何週間か小さなコテージを借り、誰に邪魔されることもなくしずかに本を読む。暖炉によい香りのする泥炭(ピート)をくべ、小さな音でヴィヴァルディーのテープをかける。上等なウィスキーとグラスをひとつテーブルの上に載せ、電話の線を抜いてしまう。文字を追うのに疲れると、ときおり本を閉じて膝に起き、顔をあげて、暗い窓の外の、波や雨や風の音に耳を澄ませる。つまり悪い季節をそのまま受け入れて楽しんでしまう。こういうのはいかにも英国人的な人生の楽しみ方なのかもしれない。…
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫
雨がふりそそぐと、(天気が悪いなあという内なる声のひとつを制止して)ぼくはまず「感謝」をする。
香港の海に、香港の大地にふりそそいでいる雨に感謝する。
それから、世界のいろいろなところのことを思う。
東ティモールのコーヒーの木々にふりそそぐ雨を想像し、コーヒーの花が見事に咲くとよいと思う。
西アフリカのシエラレオネの井戸に、雨の水が、長い時間をかけて、地層に濾過されながらたまっていくとよいと思う。
感謝をしてから、ときに、「英国人的な人生の楽しみ方」にならう。
コテージも暖炉もないけれど、本をしずかに読む。
文字を追うのに疲れると、顔をあげて、窓の外にひろがる海と小さな森に目をやり、雨や風の音、鳥の声に耳を澄ませる。
子供たちのように雨のなかにとびだしていくことはしないけれど、ぼくにも「想像力」はある。
楽しみ方のかたちは、想像の彼方にまで、ひろがっていくはずだ。
そして、この想像の彼方に、「近代・現代」のあとにくる時代を準備する<萌芽>があるのだということ。
雨をふらす地球の有限性のなかに、想像力という無限の力が、いっぱいに解き放たれるのだということ。
香港にふりそそぐ雨にのって、ぼくの想像は、さまざまなイメージと思考を、ぼくの<内面の地層>にふりそそいでいる。
ことばの限界・限定性を前にして。- 「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(村上春樹)という願い。
言語・ことばを伝えること、そしてそれが相手に届くこと。ぼくたちはつくづく願う、「ことばが届きますように」と。...Read On.
言語・ことばを伝えること、そしてそれが相手に届くこと。
ぼくたちはつくづく願う、「ことばが届きますように」と。
歴史は、人類が言語・ことばによって、「人間社会」をつくり、「文明社会」を拓いてきたことを語る。
しかし、歴史はまた、言語・ことばの信頼性を崩してきた時代の存在を、ぼくたちに伝える。
日々、ぼくたちは、言語・ことばを、相手に伝えても伝えても届かないことのフラストレーションと悔恨を、なんどもなんども飲み下す。
このような生のなかで、ぼくたちのとることのできる「道」は、二つである。
- フラストレーションと悔恨のなかに身をうずめ、ことばへの信頼をなくし、ことばの限界の内だけに生きていくこと。
- ことばの限界を理解しつつ、それでもことばの力を信じ、相手にことばが届くように工夫を重ねていくこと。(「メタ言語性=言語性の限界を知る言語性」ということを、別のブログで書いた。)
二つ目の道をとるためには、「ことばの力を信じること」の、経験の土台が必要である。
そして、経験の濃度の違いこそあれ、だれもが、ことばがほんとうに届く経験、あるいはことばを超えて届くような経験をもっているはずである。
村上春樹は、旅のなかで出会ったウィスキーの味と、その味を支えている人たちの姿を見聞きした感動を、ことばにうつしかえていく。
その「ウィスキーの匂いのする小さな旅の本」を書きながら、村上春樹はしみじみと思う。
「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」と。
もし僕らのことばがウィスキーであったなら、もちろん、これほど苦労することもなかったはずだ。僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。…
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫
素敵な写真で彩られた、このとても美しい本は、ウィスキーの味と人びととの交歓という「感動」が、写真と文章からにじみでている。
しかし、村上春樹は、「ことばの限定性」を前にして、次のように語る。
…残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面(しらふ)のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らはー少なくとも僕はということだけれどーいつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』新潮文庫
村上春樹は、このようにして、「ことばの限定性」を前に、それはそれとして、しかしそれを乗り越えていく。
第一に、「ことばの限定性」を理解すること。
第二に、「僕らのことばがウィスキーであったなら」と、願うこと。
第三に、願いを「ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある」という自分の経験にかえること。
そして、この経験たちを「ことばの力」を灯す炎として、絶えず燃やしつづけていくこと。
ぼくたちは、ことばの限定性のなかで、しかし「ことばの力」を信じ、ことばがウィスキーになることを夢見、工夫を重ねていく。そうして、ときに夢は現実化される。
それにしても、もし、ことばがいつも完全に、完璧に、相手に伝わり、届いたら、と考えてしまう。
仕事や家庭や社会における、日々のミスコミュニケーション・誤解の連続のなかで、ついつい、そのような「願い」が頭をもたげる。
でも、そのような世界は、やはり「つまらない」のではないかと、思い直す。
そのような世界は、争いもないけれど、また感動もない世界である。
不完全性のなかに、完璧ではないなかに、アートがうまれ、詩がうまれ、恋文がうまれる。
そのようなことばや、ことばにならないことばの伝達の繰り返しの中で、ぼくらの「ことばがウィスキーになること」がある。
だから、ぼくは、「ことばの力」を信じ、こうして日々、せっせと、時間という名の「ぼくの命」を文章にそそぎこんでいる。
結婚と「井戸掘り」。- ぼくが(想像上で)「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく。
日本の国外(海外)にそれなりに長くいると、逆に「日本」を考えてしまうようなところがある。ホームシックなどとは違う。...Read On.
日本の国外(海外)にそれなりに長くいると、逆に「日本」を考えてしまうようなところがある。
ホームシックなどとは違う。
海外にいると、日本の社会の中で「着なければならない」ような「衣」をぬぐことができる。
しかし、その「衣」をぬぐことで、いっそう、その内にある「日本的なもの」が日々の生活のなかであらわれてくる。
最近、ふと、河合隼雄氏の著作を読もうと思って、いくつか書籍を手に入れ、ページをめくっている。
心理学者であり、亡くなられる前には、文化庁長官も務められた河合隼雄氏。
河合隼雄氏は、ぼくが、ぼくの「思考の部屋」(頭の中)で、「(海外から)日本を考える会議」を開くときのメンバーである。
毎回ではないけれど、時に、参加していただく。
その他のメンバーは、例えば、社会学者の見田宗介氏、哲学者・武闘家の内田樹氏などである。
時に、村上春樹氏にも来ていただく。
ぼくの頭の中だからできる、「ドリームメンバーたちによる会議」だ。
今回、日本、日本の社会、日本の組織などを考えている折に、河合隼雄氏を「思考の部屋」にお呼びしたわけだ。
そうしたら、思いっきり「脱線」して、河合隼雄による「結婚・結婚生活」の定義に、惹かれてしまった。
そのトピックは、海外を旅し、海外にそれなりに長く住む中で共にしてきた本のひとつで、取り上げられていたトピックだ。
その本は、下記の本である。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
河合隼雄と村上春樹はアメリカに滞在していたときに出会った。
その二人の「のんびりとした語り(対談)」をまとめた本である。
対談は1995年。
日本では、阪神大震災やオウム事件が起きた年だ。
村上春樹は、小説『ねじまき鳥クロニクル』を完成させたところであった。
のんびりとした語りとはいえ、どのページも、立ち止まって、深く深く、考えさせられる。
"結婚と「井戸掘り」"と題される箇所は、一文字一文字に、立ち止まってしまう。
ぼくの知るかぎり、村上春樹が「結婚・結婚生活」について正面から語ることはあまりない。
心理療法に長年かかわってきた河合隼雄の、懐の大きさと、人間へのまなざしの暖かさを前にして、村上春樹は「おたずねしてみたかったんですけれど、」と、「夫婦」(の相互治療的な意味)について尋ねている。
『ねじまき鳥クロニクル』で、ようやく「夫婦」を書くことができるようになったばかりであったこともある。
その作品、また村上春樹が作品のなかでよく使う「井戸掘り」のたとえに触れながら、河合隼雄は、次のように応えている。
(河合)ぼくはあれは夫婦のことを描いているすごい作品だ、というふうに読んでいますよ。
ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
「苦しむための結婚」に触れて、村上春樹は、後日、注記を付している。
(村上)…河合先生の定義は、すごく新鮮で面白かったです。ただ、そういうふうにすっきり言われるとみんな困っちゃいますけどね。
僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠落を埋め合うためのものじゃないかというふうにぼんやりと考えていました。でも最近になって…それはちょっと違うのかなと考えるようになりました。…
結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。…そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいかと、このごろになってふと思うようになっています。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
なお、河合隼雄は、対談で、「夫婦というのは『こんなおもろいことないんじゃないか』」ということも言っていることを、注記でも、繰り返しのべている。
のんびりとした対談は、日本のことも含め、あらゆるトピックにおよび、言葉の鋭さが随所に光っている。
河合隼雄は、この本のタイトルとは逆に、「河合隼雄が村上春樹に会いにいきたい」気持ちであったことを、「後書き」で書いている。
ぼくにとっては、「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく、である。
その後、河合隼雄は2007年に他界。
村上春樹は、結婚生活をつづけ、作品を書き続けている。
『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の妻がいなくなってしまう。
20年以上を経て書かれた村上作品『騎士団長殺し』(2017年、新潮社)も、「夫婦」のことを描いている作品である。
『騎士団長殺し』においても、妻が結婚生活を終えたいときりだす。
ただし、小説は、「もう一度結婚生活をやり直すことになった」と「私」が過去をふりかえるところからはじまる。
村上春樹は、作家・川上未映子の質問に応える形で、「最初に結論」をおいたことを、はじめから企図していたことを語っている。(『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子訊く/村上春樹語る』新潮社)
結婚生活という「冷厳な相互マッピングの作業」のなかで、自分の欠落を自分で確認し、自分で埋めていくしかない、と語った村上春樹が、20年を経て、結婚生活をもう一度やり直す物語『騎士団長殺し』を書く。
河合隼雄がもし生きていて、『騎士団長殺し』を読んだら、なんと語っただろうか。
『村上春樹、もう一度河合隼雄に会いにいく(2017年)』なんて本があったら、どんな本になっただろうか。
河合隼雄の声がきこえてくる。
結婚は苦しむためのもんや。
たいへんだけれど、「井戸」を掘らなければならない。
でも、こんなおもろいことないやろ。。。
どんな髭剃りにも「生き方」が詰まっている。- 「どんな髭剃りにも哲学がある」(モーム)に倣って。
「どんな髭剃りにも哲学がある」。と、サマセット・モームが書いているのを、村上春樹の著作でだいぶ前に知った。...Read On.
「どんな髭剃りにも哲学がある」。
と、サマセット・モームが書いている
のを、村上春樹の著作でだいぶ前に
知った。
村上春樹は、
著作『走ることについて語るときに
僕の語ること』の「前書き」で、
モームのこの言葉に触れている。
サマセット・モームは「どんな髭剃り
にも哲学がある」と書いている。
どんなにつまらないことでも、
日々続けていれば、そこには何かしら
の觀照のようなものが生まれるという
ことなのだろう。僕もモーム氏の説に
心から賛同したい。だから…
村上春樹『走ることについて語るとき
に僕の語ること』(文藝春秋)
「だから…」と、村上春樹は、
作家として、またランナーとして、
「走ることについて書くこと」は
道にはずれた行為ではないと、
文章をつむいでいく。
サマセット・モームの作品を読んだ
覚えは、確か『月と六ペンス』である。
友人にすすめられて(確か海外にいる
ときに、東ティモールかどこかで)
読んで、ひどく感心してしまった記憶が
ある。
だからかどうかはよくわからないけれど、
村上春樹のこの文章は、
香港に来た2007年頃に読んでから10年
経った今も、ぼくの記憶に残っている。
この言葉の「原文」が、どのようなもの
で、どのような状況で述べられたかは
まだ目にしてはいない。
モームの著作『The Razor’s Edge』に
出てくるとの情報が検索で出てくるが
ぼくの眼で確認はできていない。
でも、この言葉は、ぼくの「内面」で、
次のように「変奏」が加えられる形で、
ぼくの生きていく道の「道しるべ」の
ようなものとして在る。
「どんな髭剃りにも『生き方』が
詰まっている」
「髭剃り」という行為には、実に、
いろいろなもの・ことが詰まっている。
例えば、
髭剃りの道具はT字カミソリか電動か。
髭剃りのプロセスはどうか。
髭剃りはどうやって学んだのか
髭剃りにかける時間はどのくらいか。
髭剃りをしながら、何を考えているか。
髭剃りのシェービングクリームは、
どんなものを、どのように使っているか。
などなど。
リストはまだまだ続いていく。
そして、ぼくはここ数年で、気づき、
心底納得するのである。
どんな髭剃りにも「生き方」が詰まって
いるということを。
そして、ぼくは反省することになる。
これまでの髭剃りを。
でも、それは、もう一段掘り起こすと、
反省すべきは「髭剃り」という行為の
仕方に加えて、そこに込められた、
生きる姿勢であったりする。
そこの次元では、「髭剃り」を超えて、
ぼくの他の行為に込められた「生き方」
と「生きる姿勢」のようなものが見えて
きて、反省することになる。
モームが言うように、
それは「哲学」でもよいのだけれど、
ぼくにとっては、やはり「生き方」が
詰まっていると言う方が、しっくりくる。
こうして、ぼくは、
毎朝の「髭剃り」に、気持ちを込め、
プロセスを組み替え、「新しい姿勢」に
入れ替えていく。
野球選手のイチローが、
打順を待ちながら、次のバッター・ボッ
クスで「儀式」を通過していくように、
ぼくも一日の「バッター・ボックス」に
立つために、髭剃りの「儀式」を通過し
ていく。
そこに、すべてが詰まっていると信じる
かのように。
モームに倣って、「髭剃り」の言葉を
持ち出したけれど、
そこには、日々暮らしていく中での、
些細なことがすべて代入できる。
どんな「◯◯◯」にも生き方が
詰まっている。
そして、それらは忙しい日々の中で、
「習慣」のベールのもとに、ぼくたち
からは見えにくくなっている。
だから「習慣のベール」を少しずつ
剥がす中で見えてきたりするのだ。
追伸:
Charles Duhigg著
『The Power of Habit』
のペーパーバック版を頂戴した。
Audibleのオーディオで持っていた
けれど、しっかりと聞けていなかっ
たので、最初から読み直しです。
シンプルに、習慣の力は相当に
強力であることを感じる、一行一行
です。
村上春樹に教わる「クラシック音楽を聴く喜び」。- ピアニストLeif Ove Andsnesの音楽を体験として。
ぼくが、クラシック音楽を聴くようになったのは、日本の外で、仕事をするようになってからだ。正確には歓びをもってクラシック音楽を聴くようになったことである。...Read On.
ぼくが、クラシック音楽を聴くように
なったのは、日本の外で、仕事をする
ようになってからだ。
正確には歓びをもってクラシック音楽
を聴くようになったことである。
西アフリカのシエラレオネでの仕事を
していた頃が、ぼくの記憶と感覚の中
では、ひとつの「分水嶺」のような
時期であった。
紛争が終結したばかりのシエラレオネ
での経験と、ぼくがクラシック音楽を
聴くようになったことは、
決して、ばらばらに起こったことでは
ないと、ぼくは思っている。
(ブログ「紛争とクラシック音楽」)
クラシック音楽の美しい調べの深い
地層には、人の悲しみや心の痛みが
堆積している。
シエラレオネで、紛争の傷跡を身体で
感じ、東ティモールの銃撃戦の只中に
身を置いた後に、ぼくは香港に移って
きた。
香港で、村上春樹著『意味がなければ
スイングはない』(文藝春秋)を読む。
村上春樹が、音楽のことを「腰を据え
てじっくり書い」た本である。
ジャズ、クラシック、ロックとジャンル
を超えて、主に取り上げられた人物は
次の通りである。
・シダー・ウオルトン
・ブライアン・ウィルソン
・シューベルト
・スタン・ゲッツ
・ブルース・スプリングスティーン
・ゼルキンとルービンシュタイン
・ウィントン・マルサリス
・スガシカオ
・フランシス・プーランク
・ウディー・ガスリー
とりわけ、ぼくに響いたのは、
なぜか、シューベルトであった。
シューベルトについて語られた章だけ、
「作品名」がタイトルにつけられていた。
「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850
シューベルトのピアノ・ソナタの中で、
村上春樹が「長いあいだ個人的にもっと
も愛好している作品」(前掲書)である。
…自慢するのではないが、このソナタは
とりわけ長く、けっこう退屈で、形式的
にもまとまりがなく、技術的な聴かせど
ころもほとんど見当たらない。いくつか
の構造的欠陥さえ見受けられる。…
村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)
ぼくはなぜか、(聴いてもいないのに)
この作品に惹かれた。
村上は、この曲を演奏するピアニストを
15名リストアップする。
そして、「現代の演奏」の中から素晴ら
しい演奏として、
ノルウェイのピアニストである、
Leif Ove Andsnesを挙げている。
村上の「迷いなしのお勧め」である。
ぼくは、まるで先生にしたがうように、
LeifのCDを購入し、彼の演奏を聴く。
村上がそうしたように、他の演奏家の
演奏ともできるかぎり比べながら。
でも、最後にはLeifの演奏に戻ってくる
のであった。
その後は、Leif Ove Andsnesのピアノ
ソナタD850を、ぼくはよく聴くように
なった。
疲れた日の夜遅くに、
あるいは空気が凛とする早朝に。
その内に、ぼくは、香港で
クラシック音楽を生演奏で聴く楽しみ
を見つけた。
一流の演奏家が香港を訪れるのだ。
日本に比べ、おそらく、チケットも
手にいれやすい。
2015年、香港。
ぼくは、Leif Ove Andsnesの演奏を
直接に聴く。
マーラー室内管弦楽団と共に演奏する
ベートーヴェンのピアノ協奏曲。
Leif Ove Andsnesは、
通常指揮者が立つ場所にピアノを置き、
管弦楽団の方向に向かって指揮をとり、
そして聴衆に背中と指の柔らかさを
見せながら、しなやかにピアノを演奏する。
自由で、親密な空気が流れてくる。
この「形式」にも驚かされたが、
Leifとマーラー室内管弦楽団がつくる
音楽に、ぼくは、文字通り、心を奪わ
れてしまった。
こんなに美しく、心の深いところまで
届くクラシック音楽を、ぼくは、それ
までの人生で聴いたことがなかった。
そして、その後も、まだ聴いていない。
この体験は、ぼくの心の中に、
暖かい記憶として静かに残っている。
村上春樹は、次のように、語っている。
思うのだけれど、クラシック音楽を
聴く喜びのひとつは、自分なりの
いくつかの名曲を持ち、自分なりの
何人かの名演奏家を持つことにある
のではないだろうか。それは場合に
よっては、世間の評価とは合致しない
かもしれない。でもそのような
「自分だけの引き出し」を持つことに
よって、その人の音楽世界は独自の
広がりを持ち、深みを持つように
なっていくはずだ。…
村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)
ぼくは、このことを、村上春樹から
教わった。
押し付けがましさのかけらも感じず、
まったく自発的に。
Leif Ove Andsnesの演奏する
シューベルトの「ピアノ・ソナタ
第十七番ニ長調」D850から、
Leif Ove Andsnesが香港で魅せて
くれたマーラー室内管弦楽団との
奇跡的な演奏へと続いていく、
「個人的体験」を通じて。
…僕らは結局のところ、血肉ある
個人的記憶を燃料として、世界を
生きている。もし記憶のぬくもり
というものがなかったとしたら、
…我々の人生はおそらく、耐え難
いまでに寒々しいものになって
いるはずだ。だからこそおそらく
僕らは恋をするのだし、ときと
して、まるで恋をするように音楽
を聴くのだ。
村上春樹
『意味がなければスイングはない』
(文藝春秋)
ぼくは、納得してしまうのである。
個人的体験の記憶のぬくもりを
燃料として、ぼくは、この世界で
生きていることを。
腹が立ったときに、村上春樹(の本)に相談すると想像してみたら。
まったく想像のこととして。腹が立ったとき、作家の村上春樹に「村上さん、腹が立って仕方がないんですよ」と、相談をもちかけたとする。...Read On.
まったく想像のこととして。
腹が立ったとき、作家の村上春樹に
「村上さん、腹が立って仕方がない
んですよ」
と、相談をもちかけたとする。
村上春樹は、どのように応えて
くれるだろうか。
例えば、こんな具合である。
僕はいつもより少しだけ長い距離を
走ることにことにしている。いつも
より長い距離を走ることによって、
そのぶん自分を肉体的に消耗させる。
そして自分が能力に限りのある、
弱い人間だということをあらためて
認識する。いちばん底の部分でフィ
ジカルに認識する。そしていつも
より長い距離を走ったぶん、結果的
には自分の肉体を、ほんのわずかで
はあるけれど強化したことになる。
腹が立ったらそのぶん自分にあたれ
ばいい。悔しい思いをしたらその
ぶん自分を磨けばいい。そう考えて
生きてきた。…
村上春樹『走ることについて語る
ときに僕の語ること』(文芸春秋)
村上春樹は、そう言った後で、
こんな風に終わりに付け加えるだろう。
「そういう性格が誰かに好かれる
とは考えていない」し、
走ることを勧めるわけでもないし、
これはあくまでも、僕個人のこと
だけれど、と。
ぼくたちは、例えば、
このようにして、村上春樹を
相談相手にすることができる。
読書は、そんなふうに、
擬似相談の場でもあったりする。
さらには、村上春樹が、
頭の中に住みついていくことも
ある。
そして、頭の中に住みついている
他の人たちと話したりする。
頭の中での、擬似会議の場となっ
たりする。
村上春樹は、自身で述べている
ように、「頭の中で純粋な理論
や理屈を組み立てて生きていく
タイプ」ではない(前掲書)。
村上春樹は「身体に現実的な
負荷を与え、筋肉にうめき声を
(ある場合には悲鳴を)上げさ
せることによって、理解度の
目盛りを具体的に高めていって、
ようやく「腑に落ちる」タイプ」
である(前掲書)。
どちらかというと、頭の中で、
理論を組み立てていくタイプで
あるぼくは、「村上さん」に
読書を通じて相談している。
そんな「村上さん」が、
あくまでも個人的なことだけれ
どね、と言いつつ、
ぼくに、本の中で、語りかけて
くれるのは、それだけで、
気が晴れたりする。
あくまでも、身体にねざした
地に根の張った言葉が、
ぼくに響いてくる。
その響きの中で、
ぼくもニュージーランドを、
北から南に徒歩で歩いたときに
「自分を肉体的に消耗させ」た
ことを思い出す。
ぼくは、あのとき、
特に何か特定のもの・ことに
腹を立てていたのではないと
思う。
少なくとも記憶にも、ジャー
ナルにも残っていない。
でも、あのとき、
ぼくは「何か特定できないもの」
に対して、言葉にもならない、
怒りのようなものを感じていた
のかもしれない。
だから、今から思い返すと、
「肉体をとことん消耗させた」
ニュージーランドの経験を境と
して、ぼくの生き方は、
「転回」をし始めたように、
思えてくる。
20年以上が経過して、
歩いてきた道を振り返ることで
はじめて見えてきた風景である。
追伸:
村上春樹『走ることについて語る
ときに僕の語ること』(文芸春秋)
は、2007年の出版でした。
ぼくが、香港に来た年。
この本は、ぼくが香港で生きて
いく上で、影響を与えてきました。
2007年から4年後の2011年。
ぼくは、香港マラソンを完走し、
はじめてフルマラソンを走りきり
ました。
この本の最後で、村上春樹は
自分の墓碑銘に刻みたい言葉を
こう書いています。
村上春樹
作家(そしてランナー)
1949-20**
少なくとも最後まで歩かなかった
ぼくも「最後まで歩かなかった」
という生き方をしたいと思います。
でもちょっとは歩くと思いますが。
少なくとも、香港マラソンでは、
最後まで歩かなかった。
とは言えます。
ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」。- 転回、コミットメント、物語の力。
「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」(とブライアン・ウィルソン)ということを書いた。そうしたら、それでは、ぼくにとっての「シエラレオネと村上春樹」はどうなんだろうと、思ったのだ。...Read On.
「ぼくにとっての『香港と村上春樹』」
(とブライアン・ウィルソン)という
ことを書いた。
そうしたら、それでは、ぼくにとって
の「シエラレオネと村上春樹」は
どうなんだろうと、思ったのだ。
ぼくにとっての、
まったく個人的な経験としての、
「シエラレオネと村上春樹」。
シエラレオネと村上春樹が、直截的
につながっているわけではないけれど、
ぼくを通じて、この二つは確かに
つながっている。
でも、直感的に、やはり「何か」が
あるように、ぼくには感じられる。
だから、書いておこうと思う。
ぼくが国際NGOの職員として
シエラレオネに行っていたのは
2002年から2003年にかけての
ことであった。
シエラレオネは2002年のはじめに
10年以上にわたった内戦が終結した
ばかりであった。
また、隣国リベリアでも内戦が続き、
リベリアからシエラレオネへは
難民が流入していた。
2002年、ぼくは東京で黄熱病の予防
接種を受け、上司と共に、ロンドンを
経由してシエラレオネの首都フリー
タウンに入った。
最初は短期出張であった。
難民キャンプの運営プロジェクトの
補佐である。
ぼくは、東京と同じ地球の、同じ
時代の、ただ飛行機で着いてしまう
場所で、まったく違った現実の中に
いた。
最初の短期出張は3か月ほど続いた
だろうか。
ぼくは、シエラレオネの短期出張
から日本にもどり、そのとき、
村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』
を読むことになる。
ぼくは、小説『海辺のカフカ』の
登場人物に、
また、そのときの村上春樹に、
「肯定性への転回」を読みとっていた。
『海辺のカフカ』では、
主人公の少年がヒッチハイクで四国
への旅を続ける場面がある。
その旅で、主人公は、あるトラックの
運転手に出会う。
朝食を食べる場面で、運転手の口から
「関係性」ということが語られる。
「関係性ということが実はとても
大切なことじゃないか」といった風に。
村上春樹の初期の作品が、社会からの
「デタッチメント」を色調としてきた
のに対し、ここでは「関係性」への
コミットメント的なことが物語として
語られている。
旅に出ていた主人公の少年は、
最後には「家に帰り、学校に戻ること」
を決める。
この物語の展開のなかには、
とても大切な「転回」がひそんでいる。
少年は、「非現実的世界」において、
この「転回」を生き、現実的な世界に
戻っていく。
どんな人も現実的な世界のなかで
暮らしているけれど、
生きることの様々な場面で、
非現実的な世界、非日常の世界に
接触し、新たな力を獲得して、
現実的な世界に戻ってくる。
『海辺のカフカ』の少年もそうだし、
『銀河鉄道の夜』のジョバンニもそう
であったし、
宮崎駿の作品に登場する主人公たちも
そうである。
村瀬学は、日本の戦後歌謡を追うなか
で、歌詞に「丘」(字義通りの「丘」
もあれば、象徴的な「丘」もある)
が多いことに気づく。
例えば、人は現実に疲れ果てたとき、
丘をのぼり、そこで生きる力を得て、
坂を駆け下り、現実の世界に戻って
いく。
(なお、『銀河鉄道の夜』のジョバン
ニも、その銀河鉄道の夢をみたのは、
丘の上であった。)
そんなことを、シエラレオネから
戻ってきた日本で、ぼくは村上春樹
の『海辺のカフカ』を読みながら
考えていた。
シエラレオネに仕事で行くことに
なったことは、そもそも、ぼくが
国際協力・国際支援の分野に
コミットすることを決めたことに
遡る。
ぼくにとっての「丘へのぼって、
生きる力を得て、駆け下りてくる」
という「転回」は、1996年に、
ワーキングホリデーでニュージー
ランドへ行ったことである。
それは、そのときには、まったく
わからなかったけれど。
ぼくのなかで「デタッチメント」
から、「コミットメント」へと
転回したときである。
今、思い返すと。
そのコミットメントの延長で、
ぼくは国際協力を専門として学び、
国際NGOに職を得て、
西アフリカのシエラレオネに
辿りついたわけだ。
そのタイミングで、
ぼくは村上春樹の『海辺のカフカ』
を読む。
内戦の傷跡が深く残るシエラレオネ
から戻ってきたなかで。
ぼくは、シエラレオネの日々に、
積極的に、自分のために文章を書く
ことがほとんどできなかった。
仕事に深く没頭していたことも
あったけれども、
現実に圧倒されて、自分のなかに
言葉がなかった。
そんななかでも、「物語を読む」
ということは、ぼくを癒すことで
もあった。
ぼくの内面では、「物語」が
ぼくを暗い次元に投げ込むことを
防いでいたのだと、今は思う。
当時はそんなことを考える余裕は
なかったけれど。
ぼくにとって、
シエラレオネと村上春樹は、
こんなふうにつながってきた。
あくまでも、ぼくにとっての
個人的な体験にすぎないけれど。
また、それは一見すると、
まったく関係がないものごとの
つながりである。
でも、実は、どこかで、何かで
つながっているように、ぼくは
感じている。
そして、
(広い意味での)「物語」は、
世界を変える力をもつと、
ぼくは思う。
それが、シエラレオネの現場で
あろうと、村上春樹の読者が
生きている世界であろうと。
だから、力強い「物語」を
つくっていかなければならない。
ほんとうの「リーダー」は、
そんな「物語」を語ることの
できる人たちである。
すぐには成果はないかもしれない
けれど、人に未来をみせる・感じ
させる「物語」を、である。
「未来」という言葉が、消え失せ
ていってしまうような世界で。
追伸:
シエラレオネにも持って行った
村上春樹の本は、
『もし僕らのことばがウィスキー
であったなら』(新潮文庫)
でした。
シエラレオネにロンドン経由で
行っていて、この紀行本の舞台で
あるスコットランドが近く感じら
れたこともあるかもしれません。
ただ、ひどく疲れた日に、
この本をひらいて、村上春樹の
言葉のリズムに身をまかせると、
気持ちが楽になったのです。
だから、
東ティモールに移っても、
この本はぼくと共にありました。
そして、
香港に移っても、
この本はぼくと共にあります。
ぼくにとっての「香港と村上春樹とブライアン・ウィルソン(ビーチボーイズ)」。- 名曲「God Only Knows」に彩られて。
人も、本も、音楽も、たまたまの偶然によって、すてきに出会うこともあるけれど、ときに「すてきな出会いに導いてくれる人」に出会うという偶然に、ぼくたちは出会うことがある。...Read On.
人も、本も、音楽も、
たまたまの偶然によって、
すてきに出会うこともあるけれど、
ときに「すてきな出会いに導いて
くれる人」に出会うという偶然に、
ぼくたちは出会うことがある。
ぼくにとって、作家の村上春樹は、
「すてきな出会いに導いてくれる人」
である。
ちなみに、村上春樹は、ぼくにとって
- 「物語」を語ってくれる人
- 「生き方」を指南してくれる人
- 音楽や本へと導いてくれる人
である。
今回は、3番目、音楽への出会いを
導いてくれたことの話である。
ぼくが香港に移ってきた2007年の末
のこと。
村上春樹は、和田誠と共に、
『村上ソングズ』(中央公論新社)
という著作を出版した。
本書では、29曲が取り上げられ、
村上春樹が英語歌詞の翻訳と解説を、
和田誠が絵を描く形で、つくられて
いる(内2曲は和田誠が解説)。
29曲の内2曲をのぞいて、すべて
村上春樹が選んだ曲たちである。
その一曲目に、
「1965年に発表されたビーチボー
イズの伝説のアルバム『ペット・
サウンズ』に収められたとびっきり
美しい曲」(村上春樹)である、
「God Only Knows」
(「神さましか知らない」)が
とりあげられている。
ビーチボーイズのリーダー、
ブライアン・ウィルソンが作曲した
名曲である。
…God only knows what I’d be
without you.
…君のいない僕の人生がどんなもの
か、それは神さましか知らない。
「God Only Knows」
村上春樹が「いっそ『完璧な音楽』
と断言してしまいた」くなる音楽で
あり、
ビートルズのポール・マッカートニ
ーが「実に実に偉大な曲だ」と言う
名曲である。
ぼくは、村上春樹の翻訳と解説を
読みながら、この曲のメロディーと
コーラスに想いを馳せていた。
当時は、今のように、Apple Music
ですぐに検索して聴くなんてことが
できなかった。
だから、香港のCauseway Bayにある
HMVに行って、ビーチボーイズの
名盤『ペット・サウンズ」を購入する
しかなかった。
昔(1950年から1960年代)の音楽が
好きなぼくは、以前にも、もちろん
『ペット・サウンズ』は聴いていた
けれど、この曲は覚えていなかった。
二十代前半くらいまでは、村上春樹が
ビーチボーイズを語るときによく話題
に挙げるビートルズを、ぼくはよく
聴いていたこともある。
さて、名盤『ペット・サウンズ』をCD
で購入して、聴く。
「God Only Knows」は、すてきなメロ
ディと言葉の響きを届けながら、ぼく
から、なつかしさの感情もひきだす。
ちょっと調べていると、
映画『Love Actually』の最後のシーン
で流れていた曲だとわかる。
クリスマス後の空港で、人が再会して
いくシーンである。
「空港での再会」は、海外をとびまわ
っていたぼくにとって、とても印象的
なシーンであったから、ぼくはよく
覚えていた。
香港で生活をしていたぼくにとって、
名曲「God Only Knows」は、
なぜか、心に響いた。
それからも、ブライアン・ウィルソン
のCD・DVDで、ブライアンがこの曲
を歌うのを聴いていた。
香港に生活を移し、30代を生きるぼく
には、ビートルズよりも、ビーチボーイ
ズ(ブライアン・ウィルソン)の方が、
心に響いていた。
村上春樹は2007年の『村上ソングズ』
に引き続き、2008年に、
ジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』
の翻訳書(新潮社)を出版した。
時は過ぎ、2012年8月、
ビーチボーイズが結成50周年を迎えて
再結成しての世界ツアーを敢行。
香港にもやってきたのである。
ブライアン・ウィルソンの苦悩の個人史
などから再結成の世界ツアーはないと
思っていたから、驚きと歓びでいっぱい
であった。
ブライアン・ウィルソンも70歳を迎え、
他のメンバーも高齢である。
コンサートは休憩を途中はさんで、
第一部と第二部の3時間におよんだこと
に、ぼくはさらに驚かされることになった。
この香港公演で、
ブライアン・ウィルソンは、
名曲「God Only Knows」を、
ぼくたちに、聴かせてくれた。
彼の歌声に耳をすませながら、
ぼくはなぜか、目に涙がたまったことを
覚えている。
それから3年が経過した2015年。
ブライアン・ウィルソンの半生を描いた
映画「Love & Mercy」が上映された。
ぼくは、映画館に足をはこび、
ブライアン・ウィルソンの苦悩の半生を
観る。
ぼくにとっては、ぼくの内面の深いとこ
ろに届く映画であった。
そして、2016年、ビーチボーイズは、
再度、香港公演にやってきたけれど
(HK Philとの共演)、
今度はブライアン・ウィルソン抜きの
メンバー構成であった。
ブライアン・ウィルソンは、個人で
世界公演に出ていたのだ。
ビーチボーイズの香港公演は
これまたすばらしいものであったけれ
ど、ブライアンのいない公演は寂しい
ものでもあった。
同年、ブライアン・ウィルソンは、
半生を綴った自伝を発表している。
そして、この自伝の存在が、
ぼくにブライアン・ウィルソンを
思い出させたのだ。
よくよく観てみると、
ぼくの香港10年は、村上春樹とブライ
アン・ウィルソンに、
「音楽」を通じて彩られた10年でも
あったことに、ぼくは気づいたのだ。
香港
x
村上春樹
x
ブライアン・ウィルソン
ぼくの中で、この組み合わせによる
化学反応がどのように起こったのかは
わからない。
でも、確かに、それはぼくの中で、
香港と村上春樹とブライアン・ウィル
ソンだったのだ。
追伸:
村上春樹がブライアン・ウィルソンに
ついて書いている本は下記です。
●『意味がなければスイングはない』
(文芸春秋)
●『村上ソングズ』(中央公論新社)
●『ペット・サウンズ』(新潮社)
『意味がなければスイングはない』の
中で、ブライアンを取り上げ、
ブライアンの名曲「Love and Mercy」
について文章を書いています。
村上春樹は、ハワイのワイキキで、
ブライアンの歌う「Love and Mercy」
に、胸が熱くなる経験をしています。
映画「Love & Mercy」のタイトルは
この名曲から来ています。
映画の最後に、この曲がながれます。
映画館でぼくは、村上春樹と同じよう
に、その曲と歌声に含まれる切実な
想いに、胸が熱くなりました。
川上未映子・村上春樹著『みみずくは黄昏に飛びたつ』- 「抽斗」を増やしながら生きてゆくこと。
…同じことが「村上春樹」にも言える。人は、村上春樹が大好きな人、村上春樹が好きな人、それらどちらでもない人に分けられる。...Read On.
著作『The World According to Star
Wars』を、著者のCass R. Sunsteinは
このように書き始めている。
ユーモアをこめながら、でも結構真剣に。
「人間は3種類の人に分けられる。
Star Warsが大好きな人、Star Warsが
好きな人、それからそれらどちらでも
ない人。」
同じことが「村上春樹」にも言える。
人は、村上春樹が大好きな人、村上春樹
が好きな人、それらどちらでもない人に
分けられる。
これによると、ぼくは「村上春樹」が
大好きな人、である。
村上春樹の新作『騎士団長殺し』は
文章としても、物語としても、隙のない
作品である。
村上春樹が、
・一人称での語り
・「私」(「僕」ではなく)という主語
で、展開する物語である。
その主人公の「私」は36歳で、肖像画家。
妻に突如去られ、それから友人のはからい
で、小田原郊外の山の上に位置する、アト
リエ付きの家に一人で住むことになる。
肖像ではなく、ほんとうに描きたい絵を
追い求めているが、思ったようにいかない。
肖像画から手をきろうというときに、
謎めいた人から肖像画の依頼が来る。
そこから「物語」が思わぬところへ「私」
をみちびいていく。
出版から2か月しか経っていない2017年
4月末。
作家の川上未映子が村上春樹に訊く形で
インタビューがまとめられた書籍、
『みみずくは黄昏に飛びたつー
川上未映子訊く/村上春樹語るー』
(新潮社)が出版された。
川上未映子が書いているように、
著作『騎士団長殺し』のインタビューが
結果として村上春樹の作品全体に広がる
内容になっている。
【目次】
第一章:優れたパーカッショニストは、一番大事な音は叩かない
第二章:地下二階で起きていること
第三章:眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい
第四章:たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ
「第一章」は、2015年、村上春樹の
『職業としての小説家』の刊行記念で
行われたインタビューである。
文芸誌『MONKEY』に掲載された。
「第二章~第四章」が『騎士団長殺し』
が完成された後に、3日間にわたって
おこなわれたインタビューの記録である。
「作家によるインタビュー」が、通常の
インタビューとは異なる雰囲気と内容を
つくりだしている。
(*村上春樹は、作家同士の「対談」は
あまり好きではない、と語っている。
今回は「インタビュー」という形式で
ある。)
「言葉になりにくいもの/言葉」への
言葉化がいたるところで試みられている。
ここでは、(それらが主題というわけ
ではないけれど)3つだけにしぼって、
書いておきたいと、思う。
(*よい本なので、詳細については、
ぜひ読んでみてください。
『騎士団長殺し』それ自体の部分について
は、ここでは触れません。
物語そのものを、著作で味わってください。
インタビューでは、この新作について
かなりつっこんで話されています。)
(1)「抽斗(ひきだし)」
ぼくたちの「生き方」において、汎用的
に取り出せるところとしては、「作家の
抽斗」がある。
村上春樹は「いつも言うことだけど」と
断った上で、語っている。
作家にとって必要なのは抽斗なんです。
必要なときに必要な抽斗がさっと開いて
くれないと、小説は書けません。
みみずくもそのひとつかもしれない。
…手持ちのキャビネットが小さな人、
あるいは、仕事に追われて抽斗の中身を
詰める時間のない人は、だんだん涸れて
いきますよね。だから僕は何も書かない
時期には、一生懸命、抽斗にものを詰め
ていくことにしています。いったん長編
小説を書き出したらもう総力戦だから、
役に立つものはなんだって使います。
抽斗は一つでも多い方がいい。
『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)
「抽斗」は、この世界で生ききるために
も、必要である。
どれだけ、抽斗ができているか、で、
ぼくたちの生はかわってくる。
例えば、ぼくが経験してきたように、
紛争地の圧倒的な「リアリティー」に
対面したとき。
人や組織の圧倒的な「問題・課題」に
直面しているとき。
ぼくたちもそんな場面では「総力戦」で
ある。
そこでは「抽斗」が大切な役割を果たす。
だから、常日頃から、ぼくたちは「学ぶこ
と」をしておく。
抽斗がいつでもさっと開いてくれるように。
(2)「物語をくぐらせる」プロセス
川上未映子の作家としての関心が、小説と
「近代的自我」の問題にある。
その関心に深く支えられた質問たちが、
村上春樹に矢継ぎ早に投げかけられていく。
言葉化の難しい領域であるけれど、
とてもスリリングなやりとりが展開される。
「物語と自己の関係」について川上未映子
が訊くなかで、村上春樹は語る。
…自我レベル、地上意識レベルでのボイス
の呼応というのはだいたいにおいて浅いも
のです。でも一旦地下に潜って、また出て
きたものっていうのは、一見同じように
見えても、倍音の深さが違うんです。
一回無意識の層をくぐらせて出てきたマテ
リアルは、前とは違うものになっている。
…だから僕が物語、物語と言っている
のは、要するにマテリアルをくぐらせる
作業なんです。
『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)
この表現に、ぼくは「納得する」ことが
できる。
その納得感をもっと詳細に説明せよ、と
言われたら、できないけれど。
(3)言葉の身体性、書き直し
村上春樹の「創作プロセス」は、これまで
もいろいろなところで語られてきた。
このインタビューでも、違う角度をもって
語られる。
この「創作プロセス」は、作家はもとより
「なにかをつくること」に本気でとりくむ
人たちにとっては、自分の経験・体験に
照らして、ヒントとなる「語り」が、
いっぱいに散りばめられている。
僕の書き直しは、自分で言うのもなんだけ
ど、けっこうすごいと思います。
あまり自分のことは自慢したくないけど、
そのことだけは自慢してもいいような気が
する。
『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)
「書き直し」に力をいれるのは、
第一稿での、書くものの「自発性」を
大切にするからである。
そして、書き直しは、「目よりは主に
耳を使う」ことで進んでいく。
ここに、言葉の「身体性」的な、ぼくの
求めているものに照射する「語り」が、
湧き上がっている。
音楽を演奏するみたいな感覚で文章を
書いているところは、たしかにあると
思う。耳で確かめながら文章を書いて
いるというか。
『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子
訊く/村上春樹語るー』(新潮社)
村上春樹は、1960年代の学園闘争の時
に感じていた「表層的な言葉に対する
不信感」を、今でも、感じている。
それへの抵抗の意思が、村上春樹の作品
をつくってきた。
でも、「表層的な言葉」にならないため
の武器は、村上の「文体リズム」にある。
それは、身体で書く文体リズムである。
「音楽から文章の書き方を学んだ」村上
の身体的な文体が、表層的な言葉を超えて
読者に呼応していく。
以上、このインタビューで、訊かれ、
語られているものの、ほんの一部である。
その他、村上春樹は過去の自分の著作
(新作『騎士団長殺し』を含め)の
詳細について、結構「覚えていない」
ところが印象的であったりする。
物語がプロット的ではなく自発的に
つくられ、書き直しで文章をつくりこ
んでいく、という村上の創作プロセス
が深く実感できる、「覚えていない
発言」である。
ぼくは、そんなインタビューを読み
ながら、『騎士団長殺し』をもう一度、
読みたいという衝動がわいてきた。
でも、もう少し、ぼくの側での
「自発性」を待とうと思う。
ほんとうに、読みたくなる瞬間を。
それまで、物語は、ぼくの意識下の
「見えない地層」で、
静かに熟成を続けているであろう。
そして、その間ぼくも、
せっせ、せっせと、
「抽斗」を増やしておこう、
と思っている。
追伸1:
ぼくは、高校時代に初めて村上春樹
の作品に出会いました。
書店で高く積まれた(赤色と緑色の
ハードカバーの)『ノルウェイの森』を
手にとったのです。
でもぼくは、好きになれなかったのです。
『ノルウェイの森』も、村上春樹も。
Cass R. Sunsteinをまねて言えば、
「村上春樹を大好きでも好きでもない人」
に分類されたわけです。
それから、大学院のときに友人にすすめ
られ、また読み始めたのです。
手にとったのは確か、
『世界の終わりとハードボイルド・
ワンダーランド』。
ぼくは、ページを繰る手が止まらなく
なってしまった。
「村上春樹を大好きな人」へと変わって
いったわけです。
このインタビューを心でききながら
ぼくは、ぼく自身の「変化」が
わかったような気がしています。
論理的にも、感覚的にも。
追伸2:
写真は、インタビューの書籍ではなく
『騎士団長殺し』です。
『みみずくは黄昏に飛びたつ』は
電子書籍で楽しみました。
追伸3:
「追伸」が多いですが、
作家・川上未映子の作品は読んだこと
がなくて、早速手に入れました。
川上未映子のインタビューでの
真摯さにひかれ、
ぼくと同年代の彼女の作品を読んで
みたくなったのです。
村上春樹著『翻訳(ほとんど)全仕事』から学ぶ、翻訳・仕事・生き方の作法
村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』(中央公論新社)の主要なコンテンツは、次の二つである。...Read On.
村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)の主要なコンテンツ
は、次の二つである。
●翻訳作品クロニクル 1981-2017
●対談(村上春樹x柴田元幸)
「翻訳作品クロニクル」では、
これまでの翻訳仕事を取り上げ、
ひとつひとつに、解説や背景、
思うところをつづっている。
このひとつずつを読むだけで
「村上春樹の世界」に入ることが
できる。
それだけで、世界は素敵になる。
「対談」は、「翻訳業の師匠役」
(村上春樹)である柴田元幸との
対談である。
これまでも、村上春樹と柴田元幸は
他の本でも翻訳対談を刊行してきた
けれど、今回は「翻訳クロニクル的
な視点」での対談がくりひろげられ、
世界はまた、それだけで素敵になる。
以下では、ぼくにとっての印象的な
学びと気づきから、ほんの少しだけ
をピックアップ。
(1)翻訳の作法について
村上春樹の翻訳により文章が
「村上化」しているという主張に
対して、村上春樹は次のように
語っている。
…僕の色が翻訳に入りすぎていると
主張する人たちもいますが、僕自身
はそうは思わない。僕はどちらかと
いえば、他人の文体に自分の身体を
突っ込んでみる、という体験のほう
に興味があるんです。自分のほうに
作品を引っ張り寄せてくるという
よりは、自分が向こうに入って行っ
て、「ああ、なるほどね、こういう
ふうになっているのか」と納得する。
その世界の内側をじっくりと眺めて
いるととても楽しいし、役に立ちます。
村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)
ぼくは、この感覚がとてもよくわかる。
ぼくが翻訳という作業をしはじめたのは、
とりわけ、大学と大学院でである。
仕事ではなく、「課題」のようなものと
してであったけれど、中国文学の翻訳も
あったし、英語論文の翻訳もあった。
論文では、その著者の「論理」の中に
入りこみ、論理をたどった。
その過程で、言葉の「定義」をひとつ
ひとつ確認して、著者の意図に、身体を
投じた。
その中で「行間」が浮かび上がってきた
りした。
ぼくにとっては、翻訳的作業は、
「自分という殻」を一休みして、一旦
外に出るような行為だ。
翻訳はヤドカリの殻の部分をひと時の
間、交換するような作業だ。
村上春樹の言葉とリズムが、ぼくの
身体に、すーっと、浸透してくるのが
わかる。
(2)仕事の作法について
柴田元幸との対談の中で、村上春樹は
「翻訳仕事の仕方」を語っている。
村上春樹の「仕事の仕方」に学んで
きたぼくとしては、「なるほど」と
うなずくところだ。
「一日の時間配分」を聞かれた村上は、
次のように応答している。
基本的に時間があまっちゃうんですね。
僕はだいたい朝四時頃起きるじゃない
ですか。だから朝のうちに自分の小説
の仕事を済ませちゃうと、あとは時間
があまって……。ジムに行ったり走った
りするのは一、二時間あればオーケー
だから、まだ暇がある。それで、じゃあ
翻訳でもやろうかと思って、ついつい
やっちゃうわけです。…朝のうちは翻訳
はしません。朝は大事な時間なので、
集中して自分の仕事をして、翻訳は午後
の楽しみにとっておきます。
で、日が暮れたら仕事はしない。…
村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)
「午後の楽しみ」の翻訳は、しかし、
2時間ほどで疲れてしまうようである。
村上春樹の圧倒的な質量の翻訳書は、
この「午後の楽しみ」から生まれている。
(3)生き方の作法について
「まえがき」で村上春樹が、翻訳書の
総体を眺めながら振り返る言葉が印象的だ。
ここにこうして集めた僕の翻訳書を
順番に眺めてみると、「ああ、こういう
本によって、こうして自分というものが
形づくられてきたんだな」と実感する
ことになる。
村上春樹『翻訳(ほとんど)全仕事』
(中央公論新社)
翻訳書のひとつひとつも魅力的だ
けれど、翻訳という作業の総体は
「作家・村上春樹」の生き方を
照らし出している。
「作家・村上春樹」は、翻訳という
丹念な作業の積み重ね(そのうちに
は「壊しては作り直す」作業で一杯
だったとぼくは思う)と、自身の
小説執筆という深い「井戸掘り」の
内に、やはり「創られながら創る
こと」(真木悠介)という経験を
生ききってきたのだと、ぼくは思う。
ぼくも、そんな経験を生きていきたい
と、村上春樹の翻訳書と本書を前に、
感じてやまない。
追伸:
翻訳書のすべてを読んだわけでは
ないけれど、
ぼくは『グレート・ギャッツビー』
の翻訳が好きです。
スコット・フィッツジェラルドが
書く「冒頭」もすごいけれど、
村上春樹の翻訳する「冒頭」も
すごいです。
ひどく疲れた日にそっとひらく本 - 言葉の身体性とリズム
ひどく疲れた日に、
ぼくには、そこに帰っていく
ような本がある。
本をそっとひらき、そこで語られる
言葉の海にはいっていく。
1. 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
新作が本日発売された村上春樹氏。
小説だけでなく、「紀行文」も
ぼくたちの奥底に染みいる。
この本は、スコットランドと
アイルランドへのウィスキーの
旅を綴った美しい本である。
スコットランドとアイルランド
の美しい風景、それからウィスキー
の深い香りが漂ってくる。
スコットランドのアイラ島。
村上氏は、現地式をまねて、
生牡蠣にシングルモルトを
とくとくと垂らして、口に運ぶ。
…至福である。
人生とはかくも単純なことで、
かくも美しく輝くものなのだ。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
これを知って、試さずには
いられない。
ぼくも幾度となく、この至福の
時を楽しむ。
この本は、文章だけでなく
村上氏の奥様、陽子さんの
写真が、心の深いところに
響いてくる。
これらの美しい写真が
言葉に表しようのない感情を、
静かに呼び覚ますのである。
ひどく疲れた日に、ぼくは
村上春樹氏のこの本を
そっと開く。
スコットランドを綴る最後に、
ボウモア蒸溜所のマッキュエン氏が
口にする「アイラ的哲学」が
置かれている。
「みんなはアイラ・ウィスキーの
とくべつな味について、あれこれと
分析をする。大麦の質がどうこう、
水の味がどうこう…。でもそれだけ
じゃ、…魅力は解明できない。
いちばん大事なのはね、ムラカミ
さん、…人間なんだ。…人々の
パーソナリティと暮らしぶりが
この味を造りあげている。…
だからどうか、日本に帰ってそう
書いてくれ。…」
というわけで、僕はそのとおり
に書いている。神妙な巫女みたいに。
村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)
ぼくも、その御宣託を受けるように
この言葉を心にしずめて、
この小さな美しい本を閉じる。
2. 見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店)
この本も、美しい本である。
社会学者の見田宗介先生が
宮沢賢治を通じて、自我という問題、
<わたくし>という現象を考える。
宮沢賢治の文章(と生)と見田宗介
の文章(と生)が織りなす、まさに
<存在の祭り>というべき本である。
この本を読んでいると、ぼくの
精神がおちつきを取り戻していく。
村上春樹氏の文章と同じように、
見田宗介先生の文章は、
言葉が生きている。
リズムがあり身体性を感じるのだ。
この『宮沢賢治』は、
宮崎駿の映画のように、
「主人公」が異世界を通過して
肯定的に現実世界に戻ってくる
構成ですすんでいく。
見田先生は宮沢賢治の詩篇「屈折率」
から、宮沢賢治の生涯に思いを
馳せる。
<わたくしはでこぼこ凍ったみち
をふみ/このでこぼこの雪をふみ>
と、くりかえしたしかめている。…
あれから賢治はその生涯を歩きつづ
けて、…このでこぼこの道のほか
には彼方などありはしないのだと
いうことをあきらかに知る。
それは同時に、このでこぼこの道
だけが彼方なのであり、この意地
悪い大きな彫刻の表面に沿って
歩きつづけることではじめて、その
道程の刻みいちめんにマグノリアの
花は咲くのだということでもある。
見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波書店)
宮沢賢治の美しい詩篇と、
見田宗介の美しい文章に触れ、
ぼくも「このでこぼこの道」が
彼方であることを確かめる。
3. 真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
真木悠介先生の life work(生の
ワーク)である『旅のノートから』。
次のような扉の詞が置かれている。
life is but a dream.
dream is, but, a life.
真木悠介『旅のノートから』(岩波書店)
この扉の詞にはじまり、
「18葉だけの写真と30片くらいの
ノート」である。
真木悠介著作集ではなく、原本の
「表紙の写真」は、インドの
コモリン岬で、真木悠介先生が
撮った写真である。
この「コモリン岬」での話については、
後年、見田宗介の名前で出版された
『社会学入門』の中に収められた
「コラム コモリン岬」にてつづられて
いる。
とるに足らない話と言いながら、
とても感動的な話である。
この「ノート」は、真木悠介先生に
とっては、「わたしが生きたという
ことの全体に思い残す何ものもないと、
感じられているもの」であるという。
一葉一葉の写真が、
ひとつひとつの文章が、
一言一言の言葉が、
ぼくの内奥に深く響いていく。
「言葉に癒される経験」である。
繰り返しになるが、
言葉が身体的である。
言葉が生きているのだ。
ひどく疲れた日。
ぼくは、そっと腰をおろし、
これらの本をそっとひらく。
本の世界に、
静かな言葉の海のなかに、
そっとはいっていく。
いつしか、
言葉が言葉ではない世界に
ひきこまれていることを
感じるのだ。