香港で、香港を「拠点」に旧友と再会する。- 変わりゆくアジア、人とのつながり、空間の自由度。
香港で、15年ぶりに、旧友と再会する。大学院で勉学に励んでいる時に、縁あって出会った留学生の方々の内のひとりだ。...Read On.
香港で、15年ぶりに、旧友と再会する。
大学院で勉学に励んでいる時に、縁あって出会った留学生の方々の内のひとりだ。
アジアに住んでいて、香港に休暇でご家族と来るとのことで、日本ではなく香港での再会となった。
再会を楽しむと共に、感じることがある。
第一に、「変わりゆくアジア」を感じること。
アジア(アジア以外もそうだけれど、実感として一層感じることとして)は確実に変わってきている。
「成長・発展」ということを、同じときに、同じキャンパスで学んできた友人とその国の成長・発展が、変わりゆくアジアの像と重ねって、今のぼくには見える。
また、「香港」という、人が行き交う交差点にいることも手伝ってか、アジアの人たちの行き来がますます増え、物理的にも心理的にも「近く」なってきていることを感じる。
友人に最後に会ったのが15年ほど前であったけれど、その15年は、とても大きかったのだと思う。
第二に、「人のつながり」が、より自由につくってゆくことができること。
このグローバルな世界が、インターネットを通じて、一瞬でつながってしまうことは、「ドラマ」的な側面をなくしてしまうこともあるけれど、もっと自由な関係性をつくり、維持し、発展させてゆくことの土台であることである。
インターネットでつながることが、今回のような再会を可能なものとしてくれたことは確かで、この15年の変化は、人と人との関係性を、幾層にも重層化してきたことを、やはり感じる。
そのことはあたりまえのこととして感じられることかもしれないけれど、感じている以上に、ぼくたちの生きることの諸相を変えてゆくものであることを、あらためて認識した。
それから第三に、再会は、いずれかの母国ではなく、「どこでも」起こるということ。
海外の友人たちから「これから日本に行くんだけど」とか「今日本にいるんだけど」とメッセージが入るたびに、「香港にいる」ことを伝える。
うまく機会があわないわけだけれど、逆に、いずれかの母国ではなく、「香港を拠点」に、小さな同窓会をひらくことができる。
香港に遊びにくる人たちもいれば、逆に、香港を拠点に、こちらから訪れることもできる。
現実の「空間」も、自由度を増している。
昨日の満月の夜の後は、少し雲が増えて、雲がちょうど月のあたりを覆う。
月が雲に覆われながら、香港のビクトリア湾とビル群は、「Symphony of Lights」と名づけられる、毎晩20時からのイルミネーションの光たちに彩られる。
ビクトリア湾をのぞむ、九龍島の南端にあるプロムナードは、イルミネーションをみる人たちでいっぱいだ。
しばらく見ていなかったけれど、久しぶりに見ると、新鮮に眼に映る。
観光で来る人たちの「眼」を通して、生活している香港は、いつもとは違った様相を見せる。
近い内に、今度は、ぼくが友人を訪れる番だ。
そこに「遠さ」は感じない。
ただ、「行くことを決める」だけで、物語がはじまる世界に、ぼくたちはいる。
立秋に、「月明かり」に照らされながら。- <根の存在>としての月と共に生きてきた世界。
月明かりが、香港の海面を照らしている。明日8月8日が満月で、月の光が一層増して、地球とそこに住む人と自然を照らす。...Read On.
月明かりが、香港の海面を照らしている。
明日8月8日が満月を迎えることもあって、月の光が一層増し、地球とそこに住む人と自然を照らす。
香港の夜の郊外を照らし出す街灯や建物の光をつきぬけるように、凛とした光が部屋の中にも差し込んでくる。
差し込む光は淡いようでいて、しかし光の中には芯がある。
ここ香港にいても、月明かりは、ぼくのなかの「何か」を照らしてくれるような気がする。
小学校の頃、ぼくは望遠鏡をもちだして、月や火星、木星を見ることが好きだった。
望遠鏡のレンズの限度もあり、よく見えるのは月だった。
レンズを通して、月の表面のクレーターが見える。
手が届きそうなくらいに、ぼくの眼の前にクレーターがいっぱいにひろがっている。
そこに「うさぎ」はいなくても、それ以上に想像がかきたてられ、ずっと見ていても飽きなかったものだ。
しかし、それから大人になる準備をしてゆくなかで、ぼくはいつしか望遠鏡で夜空や天体を見ることをやめてしまった。
そんなぼくの深いところに、再び「月明かり」が照らされたのは、大学2年を終え休学して行ったニュージーランドでのことであった。
徒歩縦断の旅、山登り、キャンプ場などでの生活のなかで、月と月明かりは、ぼくの夜の過ごし方や動きに影響を与えた。
月明かりがないと夜は夜となり、月明かりが照らすときは、夜はしずかな祭りとなる。
手持ちの懐中電灯を使わずとも身動きをとることができ、「便利」でもあった。
ニュージーランドは南半球に位置し、北半球とは異なる月の姿を見ることも、楽しみのひとつであった。
その内、そのようなリズムと自然の力がぼくのなかに光を点火した。
それから、その後暮らすことになった、西アフリカのシエラレオネ、(ニュージランドと同じ南半球に位置する)東ティモールでも、月明かりは存在感を発揮していた。
シエラレオネでは電気のない町で暮らしていたから、月明かりは、言葉の通り、町を照らしていた。
東ティモールでも、電気が使える時間が限られていたり、電気がない村で過ごしながら、月明かりは山間地のコーヒー農園と村々を照らし出していた。
日本から遠くはなれた土地においても、月明かりはやはりそこにあって、地球とそこに住む人と自然を照らしていた。
空にどこまでもひろがってゆく宇宙空間であったけれど、ぼくにとっては「根」のように感じるものである。
「根をもつことと翼をもつこと」という人の根源的な欲求において、月と月明かりは、翼をひろげてゆくイメージがありながら、しかし、どこにいてもぼくたちを照らし出してくれる<存在>として、ぼくにとっては「根をもつこと」でもある。
ここ香港は、100万ドルの夜景と言われてきた土地柄、「明るさ」に満ちているところである。
しかし、もちろん、香港でも、月はその<存在>の力を放っている。
香港の「明るさ」をつきぬける仕方で、月明かりは香港を照らす。
気がつけば、今日8月7日は「立秋」である。
「中秋節」の足音が聞こえ始める。
ただ、「中秋節」は今年は少しカレンダーの後ろにゆき、10月のはじめである。
香港で、月餅と共にお祝いをする大切な日である。
そこに向けて、月は一層、美しさと存在感を増してゆく。
雲がゆっくり動きながら、隠れていた月が、またあらわれる。
こんなときは、部屋の電気を消して、月明かりに照らされる世界に浸る。
ただ電気を消すだけで、世界が一変するのだ。
こんなにも簡単に、世界は変わる。
「アースデイ」(の消灯キャンペーン)に頼ることなく、そのような呼びかけに肩をおされなくてもいい。
月が出たときに、少しだけでも、電気を消すだけだ。
環境主義・倫理主義でもなんでもなく、ただ月明かりを楽しむために。
明日の満月の日には、そのことをもう少し書こうと思う。
「音楽」と共に世界を生きてゆくこと。- 時間と空間を超えてゆく音色と躍動。
世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。...Read On.
世界で生きてきたなかで、ぼくにとって「音楽」は、空気と同じように、大切なものである。
この「世界」で生きてゆくために、「音楽」がぼくにとってどのようにあったのかを、書こうと思う。
1)ぼくと「音楽」
浜松という土地(「音楽のまち」。今は「音楽の都」を目指しているという)に生まれたことも影響してか、ぼくは小さいころから「音楽」と暮らしてきた。
ヤマハの音楽教室に通ってピアノをひく。
小学校の音楽会で、ピアノで伴奏をする。
中学のときには、バンドを組み、ロックやパンクの世界にひきこまれ、エレキギターをひく。
高校では、軽音楽部に所属してバンドを組み、ロックやオールディーズといったジャンルで、歌を歌い、ドラムをたたく。
大学では、バンド活動はしなかったけれど、ビートルズやオールディーズにはまり、東京の中古レコード店などをまわる。
「音楽」が、常に、ぼくと共にあった。
「共に」ということ以上に、生きていくうえでのひとつの軸であったし、生きるということの内実でもあった。
それは、ぼくの生きることの、なくてはならない土台と地層を形成し、その後の生活のなかで、ぼくを確かに支えてくれることになる。
2)地理と音楽
日本の外に出たときも/出てからも、音楽はぼくと共にあり、それは一層大切なものとなった。
大学2年を終え、ワーキングホリデー制度でニュージーランドに渡るとき、ぼくは「バックパッカー」と呼ばれる小型のギターを持って行った。
オークランドに住んでいるときは、日本食レストランのアルバイトが休みの日など、オークランドのメインストリートに座り、ギターを片手に歌った。
路上で一度歌ってみたかったのだ。
「Nothing’s gonna change my world…」(ビートルズの曲「Across the Universe」の一節)と歌いながら、通りがかりの人たちは、アジア人の若者に不思議なまなざしを向けていた。
オークランドを離れ、ニュージーランド徒歩縦断を目指したときも、ギターはぼくと共にあった。
歩きながらギターはひけないけれど、ひとり歩きながら、よく歌を口ずさんだものだ。
また、キャンプ場や路上でテントを立てては、ラジオの音楽番組に、耳をすませていた。
徒歩縦断がかなわず、トランピングにかえることになり、山を歩き、山小屋でそっとギターを奏でたりした。
その音色が、他国から来ていた人の心にしみいることもあった。
仕事をするようになって、赴任した西アフリカのシエラレオネ。
アフリカの人たちはダンスが好きだ。
ダンスを軸に、伝統的なアフリカ音楽、そして現代的なダンス音楽が流れる。
隣国リベリアから流入していた難民の人たちのための難民キャンプでは、伝統的なアフリカ音楽にあわせて、子供たちも大人たちも踊る。
シエラレオネの人たちも、コミュニティで踊る。
また、仕事のための移動はオフロード続きで過酷であったけれど、車のドライバーは、音楽のカセットテープを用意してくれて、音楽を流してくれる。
セリーヌ・ディオンの歌声に、疲れと悲しみ(の堆積)がやわらぐ。
紛争という「傷」がいったんは忘れられ、ひびわれた「世界」の断片が、ダンスと音楽のなかで、つながる。
次の赴任地、東ティモール。
アフリカとは異なり、音楽の色調は、ギターを片手にメロディアスな歌、といったところだ。
東ティモールの人たち誰もが知っている、五輪真弓の曲『心の友』。
ギターを片手に、ぼくはコードを鳴らせて、東ティモールの人たちと歌う。
コーヒー生産者の子供たちとは、ギターの音色にあわせて、いっしょに国家を歌う。
コーヒー生産者たちの組合グループには、ギターを寄贈して、コミュニティ活動の促進を手助けする。
東ティモールも、音楽と共にあった。
香港にうつってからは、もっぱら、音楽をきく方にまわる。
ポップ、ロック、クラシック、ワールド・ミュージックなど、さまざまな一流の音楽を、ライブできく。
世界という「地理」、日本の外に生きることの「空間」をひろげながら、しかし、ぼくの土台・地層としての「音楽」はぼくを支える。
大変なときに、ぼくは音楽に支えられる。
それから、音楽は、世界の人たちとの「つながり」を、地理(空間)を超えて創出してゆく。
ぼくの自分という「内なる世界」と、地球という「外なる世界」でのつながりを、音楽が支えてきてくれた。
3)歴史と音楽
「地理」(空間)だけではない。
「歴史」(時間)をも、音楽は超えてゆく。
ぼくの「過去の記憶」(おそらく、ぼくだけでなく多くの人の「記憶」)は、音楽と共にある。
ニュージーランドの記憶も、シエラレオネの記憶も、東ティモールの記憶も、音楽がうめこまれている。
また、クラシック音楽をきくなかで、ぼくは、ぼく個人の記憶ではなく、そのなかに「歴史の記憶」がうめこまれているように聞こえることがある。
そして、音楽は、「未来」への希望の音色でもある。
映画『戦場のピアニスト』のピアノの音色が「希望の音色」であったように、人をひきつけてやまない音楽は、人の「深い地層」におりてゆき、そこに光を点火する。
音楽は、ただ生きることの歓喜という「基層」にうめこまれた光の芯である。
このように、歴史と地理、時間と空間を超えてゆく音楽に、ぼくは支えられ、そして多くのことを教えらてきた。
村上春樹が語るように、文章を書くときに大切なことは「リズム」であることを、ぼくも音楽から学んだ。
仕事も、同様に、リズムと躍動感が大切である。
リズムと躍動感は、生きることと同義でもある。
生きていくうえで「何かがおかしくなる」ときは、きまって、リズムがおかしくなるときだ。
だから、ぼくは、「Add Some Music To Your Day」というビーチボーイズの歌のように、自分の生に「音楽」の音色と躍動を注ぎつづけていきたい。
ビーチボーイズはこの曲で「太陽の下で皆が自分の日に音楽を加えれば、世界はひとつになることができる…」と歌っている。
「世界がひとつ」になるかどうかはわからないけれど、世界のさまざまな場所で、世界のさまざまな人たちがそれぞれの仕方で、音楽を通じて、生きることの歓びという地層におりてゆくことで、肯定的なものが語られ創りだされることを願いながら、ぼくは音楽の音色と躍動を自分の生にそそぎたい。
香港で、約30年前の「アグネス・チャン」が語る言葉に、ぼくは耳をすます。- 社会の力学と「虚構の時代」の生き方。
社会学者・見田宗介の1985年の「論壇時評」を読み返していて、「アグネス・チャン」について語られる箇所に眼がとまる。...Read On.
社会学者・見田宗介の1985年の「論壇時評」を読み返していて、「アグネス・チャン」について語られる箇所に眼がとまる。
アグネス・チャンが香港に生まれ今は日本にいて、ぼくは日本に生まれ今は香港にいるということも、気になる理由のひとつとしてある。
しかし、焦点は、アグネス・チャンの語る「言葉」であり、そこから見えることである。
アグネス・チャンの言葉でありながら、ぼくは、たくさんの「アグネス・チャン」がいただろうし、今もいるだろう、と思うところで、書きたいと思ったのだ。
「論壇時評」として、その元となったのは、雑誌『広告批評』(1985年3月号)における特集「女はなにを考えているか」であった。
アグネス・チャンは日本に来てスターになって、プロダクションから、きついことは言うな、はっきり意見を言うな、みんなに好かれねば困るからと言われる(同誌)。…
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
アグネス・チャンが日本で活動を始めたのは1970年前半のことである。
「きついことは言うな、はっきり意見を言うな」という指示には、いくつかのことが交差しているように見える。
ひとつには、「スター」という立場に置かれたことからくる、「みんなに好かれねば」という圧力である。
彼女に限らない人たちに向けられた圧力としての言葉であり、圧力としての言葉であった(である)。
このことが一つある。
そして、二つ目には、河合隼雄が「母性社会日本の病理」として日本社会を分析したように、「母性原理」が優位にはたらく日本社会の力学が交差してくる。
それは、母性原理のもとで「みんなが平等」という力学のなか、スターに限らず、社会の内部に身をおく人たちに向けられる。
また、香港を出身とする人物ということが、「日本社会」を逆照射する仕方で、照明をあてる。
「きついこと」「はっきりした意見」を生きることの作法とする「香港」という社会、そしてそこに生きる人たち(たくさんの「アグネス・チャン」)。
コミュニケーションの仕方のすれ違いがいっぱいにあっただろうと、香港に住むぼくは思う。
香港で仕事をすることになった日本の人たちのなかには、日本とは(コミュニケーションの仕方において)「逆転」する社会に生きる困難さにぶつかることがある。
例えば、「きついこと」や「はっきりした意見」を言われることで、戸惑いの気持ちを覚える。
あるいは、「はっきりした意見」や考えを伝えないことから、言いたいことがまったく伝わらない。
日々、このようなすれ違いが、あらゆるところで起きている。
それから、三つ目には、この論壇時評を書く見田宗介の念頭にあった、「虚構の時代」という時代性である。
アグネス・チャンは、(1985年に)このように語っている。
…「でも、いまは全然そうは思わない。百人に一人だって、自分のこと応援してくれるんだったらたいしたものですよね。はっきり言ったほうが応援しやすいと思う。あいまいな時代って、これから消えるような気がするんだけど。」
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
この発言がなされたときから30年以上が経過した現時点においては、「百人に一人の応援」の方向に時代は一方向にて進んできているけれど、「あいまいな時代」も消えずに残っている。
その二つの力線が、コミュニティや社会のあり方として、ときに平行し、ときに拮抗し、ときに相互に相入れずに存在している。
そして、「虚構の時代」は、その時代幅を長くしながら、今も延命している(例えば、「サブプライム」の問題の本質は、虚構の上に虚構をかさねていったものの瓦解である)。
「虚構の時代」への向き合い方ということでは、見田宗介は、つづけて、このように書いている。
…スターだからというのではなく、スターでさえというべきだろう。時代に作られる存在であることから、時代に対してまっすぐに立つ人間であることへの、ひとりの青年の自己解放の軌跡をそこにみることができる。
虚構にたいしてこのように同じく敏感でありながら、「私ね、真剣なんです。イヤぐらい真面目ですよ」というアグネスは、この特集の他の先端的な女たちとは、べつの方向に出口を求めているように思える。「新しい曲も、シンプルで前向きなラブ・ソング。いま、ようやくやろうとしてることが、全部同じ方向に向いてきたんです。」という彼女は、虚構をつきつめて逆手にとって自己を表現するというよりも、虚構のない世界をシンプルに希求している。クラシックなのだ。クラシックということは古いということではなく、時代をこえたものに根づこうとしていることだ。
見田宗介『白いお城と花咲く野原』(朝日新聞社)
ぼくは、「虚構をみずからの存在の技法」とするのではなく、虚構のかなたにある虚構のない世界を希求している。
時代をこえたものに根づくことを、生きている。
しかし、時代の「力学」の移行期において、また「虚構の時代」がつづくなかで、まだまだ壁にぶつかっては立ち上がることの連続である。
途上国で感じる「懐かしさ」という感覚を掘り下げて。- シエラレオネで、東ティモールで。
いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。...Read On.
いわゆる「途上国」と呼ばれる国をおとずれた人たちが、しばしば現場の感想として口にするのは、「懐かしい感じがする」という感覚だ。
ゆったりとした環境、人懐っこい笑顔などに囲まれながら、「懐かしさ」を感じる。
ぼくも、同じような「感じ」を持ちながら、しかし、この感覚は「懐かしさ」なのだろうか、ということを、西アフリカのシエラレオネと東ティモールという「途上国」に4年ほど住みながら、自問してきた。
経済統計やメディアなどにおいては、シエラレオネは「世界でもっとも寿命が短い国」であり、東ティモールはアジアのなかでも「最貧国」と言われたりする。
ぼくは、西アフリカのシエラレオネには、2002年後半から2003年の前半まで、東ティモールには2003年後半から2007年の初頭まで、滞在していた。
そのような「現場」で考える。
そして、今も考えたりする(だから、こうして書いている)。
このような些細な問いがなぜ大切かということは、ひとつには、ただの「直感」であるけれど、もうひとつには、そこに「つながり」をつくるヒントが隠されているように思ったからだ。
また、「懐かしさ」という、いわば「過去」への視線が、途上国から先進国へという直線的な発展論の見方を内包しているようでもあったから、それにたいして疑問ももっていた。
東ティモールから次の香港に移ってから10年が経ち、その歳月のなかでも、ぼくが抱いてきた「感覚」や「考え」を、丁寧に掘り下げることをしてきた。
シエラレオネや東ティモールを去ってから考えるということは、ひとつには現場では「余裕」がなかったことと、そして外から見ることで客観視できるからということでもある。
さて、「懐かしさ」の感覚は、表層においては、何かの「昔っぽい」イメージ(ほんものであれ、映像であれ)が浮かびあがることにおいて、確かに感じるのかもしれない。
ぼくも以前、アジアへの旅のなかで、そんなイメージがわきあがったことを覚えている。
しかし、ぼくは、その感覚の言葉は、必ずしも正確ではないように感じてきた。
掘り下げてみると、その感覚は、人だれしもがもつ「ただ生きることということの歓び」が裸形で現れる感覚であるように思う。
「懐かしさ」は、風景にたいしての「昔っぽさ」というよりは、自分のなかに眠ったような状態にある「ただ生きることの歓び」というシンプルな感覚が深い層より裸出してくるということだ。
都会の喧騒や情報が氾濫する環境や生活で、ホコリが覆ってしまっていた地層が、(一般化はできないけれど)「途上国」の風景、それからそこに生きる人びとの笑顔によって、ホコリが取り払われる。
懐かしさは、そんな生きる歓びの原風景へとつながる感覚なのではないか。
もちろん、世界のどこにいても、人びとは厳しい生活のなかに置かれていたりするけれど(途上国における「貧しい」ということはまた別に書きたい)、そんなことも(ひとときのあいだ)突き抜けて感覚される、ただ生きるということの歓びの地層である。
これからの未来を構想することを考えているときに、人や社会はどこへ「着地」していくのかという問題意識のなかで、社会学者の見田宗介の明晰な言葉を追っていて、「生きることが一切の価値の基礎」という言葉に、ぼくの感覚が着地した。
…生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。…
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごとき歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。歓喜と欲望は、必要よりも、本原的なものである。
見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)
具体論ではないけれど、いわゆる「先進国」と「途上国」の「つながり」を考えるとき、この「歓びの生地」に、人も社会も着地をしていくことが大切であるということを思う。
あるいは、少なくとも、そこを意識しながら、交流や支援などのつながりをつくっていくことが大切である。
シエラレオネで、東ティモールで、ぼくは、「必要」なものを支援しながらも、この「ただ生きることの歓び」の地層を忘れないように、人びとや環境に接してきた。
現場で日々おきる困難と、そこに渦巻く様々な感情と向き合い、ときには必死に闘いながら。
そして、今、そのような「感覚の地層」に、人がときおり途上国に感じる「懐かしさ」がつながっているのではないかということ、それからその「感覚の地層」こそが、人と社会が次の時代に向かう「着地点」であるのではないかということを、ぼくは考えている。
日本人や日本社会を客観視していくために。- 河合隼雄著『母性社会日本の病理』に学ぶこと。
ぼくの信頼する心理学者である(今は亡き)河合隼雄の仕事のひとつ、『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)は、その最初の形は1976年に執筆され、20年ほどの年月を経て文庫版となった。...Read On.
ぼくの信頼する心理学者である(今は亡き)河合隼雄の仕事のひとつ、『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)は、その最初の形は1976年に執筆され、20年ほどの年月を経て文庫版となった。
そして、それからさらに20年ほどの年月を経て、ぼくはこの著作を手に取る。
文庫本用の序文を河合は書いているが、その後の河合隼雄の「考えの発展の基礎」となったという、数々のエッセイがまとめられている。
1965年にスイスのユング研究所から帰国してから、心理療法の臨床経験のなかで、河合隼雄は日本人の特性について考えをめぐらし、ようやく形となるまでに10年ほどを要したという。
その「成果」として書かれた文章たちが、この『母性社会日本の病理』には収められており、今の時代にも(あるいは今の時代だからこそ)、ぼくたちのなかに、限りないほどの思考の芽を点火してくれる。
ぼく個人のことで言えば、海外で仕事をしてきながら、「日本人の特性」ということについて考えざるをえない状況に置かれてきた。
だから、少しまとめておきたいと思う。
タイトルにあるように、思考の手がかりとして、河合隼雄は「父性原理」と「母性原理」という考え方、その二つの原理の相克を立てている。
父性原理と母性原理のバランスの取り方により、社会や文化の特性がつくりだされていくという考え方の上に、河合は分析をくわえている。
父性原理と母性原理は、前掲書における河合隼雄の記述をもとにまとめると、次のようなものだ。
●父性原理:「切断する」機能。すべてのものを切断し分割する(例:主体と客体、善と悪、上と下)。(子供をその)能力や個性に応じて類別(「よい子だけがわが子」)。
●母性原理:「包含する」機能。良きにつけ悪しきにつけ包む込み、そこではすべてのものが絶対的な平等をもつ。(子供をその)個性や能力とは関係なく、「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いとする(「わが子はすべてよい子」)。
それぞれにおいて、「肯定的な面」と「否定的な面」があり、例えば、次のようなこととされている。
●父性原理:肯定的な面は、強いものをつくりあげてゆく建設的なところ。否定的な面は、切断の力が強すぎて破壊に至る。
●母性原理:肯定的な面は、生み育てるもの。否定的な面は、呑みこみ、しがみつき、死に至らしめるもの。
この二つの対立原理が、道徳や宗教、法律などの根本において、融合しながら、どちらかが優位に立ち、どちらかが抑圧されていると、河合は語っている。
その上で、日本社会は、「母性優位の心性」をもつとされる。
河合隼雄は、さらに思考の軸として、「場の倫理」(母性原理に基づく倫理観)と「個の倫理」(父性原理に基づく倫理観)を、論考のなかにひきいれている。
前者は、「場」の平衡状態の維持に高い倫理性を与え、後者は、個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値をおく。
河合は、その上で、「現代日本の社会情勢の多くの混乱」の原因を、これらの倫理観の相克のなかの状況に見定めている。
現代日本の社会情勢の多くの混乱は、…父性的な倫理観と母性的な倫理観の相克の中で、一般の人々がそのいずれに準拠してよいか判断が下せぬこと、また、混乱の原因を他に求めるために問題の本質が見失われることによるところが大きいと考えられる。
…現在の日本は「長」と名のつくものの受難の時代であるとさえいうことができる。つまり、長たるものが自信をもって準拠すべき枠組みをもたぬために、「下からのツキアゲ」に対して対処する方法が分からず、困惑してしまうのである。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
さらに「組織」の視点において、「場の平衡状態を保つ方策」としての「成員の順序づけ」をとりあげ、文化人類学者である中根千枝の有名な「タテ社会」の人間関係と関連づける。
河合隼雄は、ここで大切な指摘をしている。
…「タテ社会」という用語を、権力による上からの支配構造のような意味で用いる…これはまったく誤解である。
タテ社会においては、下位のものは上位のものの意見に従わなければならない。しかも、それは下位の成員の個人的欲求や、合理的判断を抑える形でなされるので、下位のものはそれを権力者による抑圧と取りがちである。ところが、上位のものは場全体の平衡状態の維持という責任上、そのような決定を下していることが多く、彼自身でさえ自分の欲求を抑えなければならぬことが多いのである。
このため…日本では全員が被害者意識に苦しむことになる。…実のところは、日本ではすべてのものが場の力の被害者なのである。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
「場の倫理」をのりこえようとして飛び出す人たちも、そこに「日本的な場」をつくってしまうことから、「場」は集団の凝集性を強めてしまい、さらに「場の倫理」がつよくなる。
このような状況のなかで、日本人は母性原理からなかなか抜け出せず、父性原理に基づく自我を確立することを困難としているという。
なお、河合隼雄は、父性原理が優位であるのがよいとか、母性原理が優位であるのがよいとかを述べているわけではない。
スティーブン・コヴィーの最後の著書(『The 3rd Alternative』)のように、「第三の道」を開く方途を、河合隼雄はまなざしている。
河合隼雄の分析と視線、そして明晰な記述は、海外の日系企業が直面する問題や課題とも交差してくる。
例えば、こんなふうに、語る。
グレートマザー的な絶対平等感を基礎として、それに「永遠の少年」の上昇傾向が加わるとき、日本人のすべてが能力差の存在を無視し、無限の可能性を信じて上にあがろうとする。ここに日本のタテ社会の構造ができあがってくるのである。
…父性原理に基づく社会は、西洋の近代社会のように、上昇を許すけれど、そこには「資格」に対する強い制度をもち、能力差、個人差の存在を前提としている。このため、欧米の社会においては、各人は自分の能力の程度を知り、自らの責任においてその地位を獲得してゆかなければならない。この厳しさは日本人にはおそらく、なかなか理解できないものであろう。
河合隼雄『母性社会日本の病理』(講談社学術文庫)
河合隼雄がこの文章を書いたのは、冒頭で述べたとおり、1976年のことであるが、問題や課題の現象面で言えば、それから40年後の今も、同様の状況を至るところに見ることができる。
日本社会の「外」に身をおき、そして「外」における日本社会をみつめて考えながら、河合隼雄の生きられた問い(留学、ユング研究所などの海外を生きてきた河合隼雄が切実に抱いた「問い」)とその探索の過程で得たこれらの文章は、グローバル化した今の時代だからこそ、丁寧に読まれる必要があると、ぼくは思う。
そうすることで、今すぐここに「解決」をもたらすものではないけれど、文化や社会の間の「差異のロジック」を深いところで理解し、自身を客観視し、そこから自身の「生きられた問い」を発していくための堅固な土台つくりとなる。
その堅固な土台は、いっときの「解決」をもたらす以上に、より豊饒な「人と人との関係」をつくるための思考と実践の源泉となるような足場である。
香港で、台風上陸のなか、「リスク管理」を考える。- 不安と(何事もない)安堵のメンタリティ。
香港の東の端に、台風が上陸した。ちょうどこの文章を書き始めた頃に、台風は、香港の北の上空を移動している。...Read On.
香港の東の端に、台風が上陸した。
ちょうどこの文章を書き始めた頃に、台風は、香港の北の上空を移動している。
昨日から最も低いレベルの警報(シグナル1)が出ていたが、当初その上の警報(シグナル3)にはならないだろうという状況であった。
それが、夜半にシグナル3が発令され、今朝方の9時20分には警報がシグナル8へと、さらに一段階あがった。
シグナル8になると、例えば、交通機関が乱れたり、店舗が閉まったりと社会的な影響が出る。
今日は日曜日だけれど、平日ともなると、シグナル8号発令により、ビジネスが止まったりして大きな影響がある。
だから、「台風シグナル8」というリスクは、香港に住んでいる人たちの心身を動かす。
ひとつに、社会機能が一時的に止まるかもしれないという状況は、(程度の差はあれ)パニックを人の内面に起動する。
スーパーマーケットやパン屋などには、人が殺到したりする。
台風のシグナル8がでている時間は、1日未満である。
半日ほどで通常はシグナル3へとダウングレードされる。
それでも、食材などがスーパーマーケットの棚からなくなっていく。
もちろん、新鮮な食材への影響は、配送などの関係から2日ほど続いたりする。
そのようなことを「差し引いた」としても、人は、必要以上に食材をかいためているように見られる。
ぼくが、予備の食料品として買いためた経験は、2006年の東ティモールでの騒乱の「前夜」からである。
実際に、お米が一時期、スーパーマーケットからなくなるなどの事象が起きた。
東ティモールの「難しさ」は、輸入経路が非常に限定されていること。
だから、万が一のために、スタッフたちの分も含めて、一定期間やっていけるだけのお米を貯蔵したりした。
それは、実際に、後に、役立つことになる。
人の個体の維持という、「生物」としての人間の諸相が起動され、ぼくたちは万が一に備える。
今でも、この諸相はいつでも「起動」できる状態だけれど、台風というリスクにたいしては、ぼくは一歩距離をおいて、冷静に対処する。
ふたつめに、(何事もなかったときに感じる)安堵のメンタリティは、ときに、批判へと転回されることがある。
シグナル8が発令されても、ほとんど台風の影響が見られないようなときもある。
今日も、台風が上陸して(でも北に逸れながら)、風は静止したかのようで、雨だけが時折ふりそそいだ。
そして、(ぼくのいるところでは)何事もなく、シグナル8の台風警報は、発令から4時間後の13時20分に解除された。
ビジネスなどの「大切なこと」にもかかわるから、何事もなかったときは、途端に天気予報への批判になる。
「何事もなかったこと」への視線は、冷たい。
人間の「生物」としての諸相ではなく、自然から離陸した「現代」という人間の諸相が現れるのだろうか。
大事が起こらなかったことへの感謝ではなく、起こらなかったことによる時間・機会喪失のようなものを感覚する。
批判の矛先は、天気予報を管轄する政府機関であったりする。
しかし、実際には、「その地点」にいるぼくたちにはわからなかったりする。
政府機関の「判断」は、香港全体を視野にしていて、香港の一部ではない。
実際には、ぼくのいる「地点」からは見えず、他の場所や地域では被害が出ているかもしれない。
あるいは、少しの「差」が、甚大な被害につながるような状況であったかもしれない。
ぼくたちは、そのような「かもしれない」というリスクを、何事もなかったという時間と地理的な地点で、忘れてしまう。
不安と安堵のメンタリティの「揺らぎ」のなかで思うのは、やはり、リスクへの向き合い方は最終的に「自分自身」次第であるということ。
気象情報はあくまでも「外部情報」として、自分自身の内部にある「リスク管理の管制塔」にインプットをし、そこでリスクにどのように対処・対応するかを自ら決める。
また、日頃から、「リスク管理の管制塔」は、事前準備として予備訓練をし、いつでも起動されるために整備されていないといけない。
とくに、自分が生まれ育ったような「ホーム」ではなく、海外のような「アウェー」の場合はなおさらである。
そして、「不安と安堵のメンタリティの揺らぎ」は、生きてあることへの深い感謝に支えられながら、「予防対策」と「冷静な対応」という人間の知恵として、その形態と内実を変容させていくことで、ぼくたちは、この世界で、よりよく生きていくことができる。
「台風」という言葉がにつかないほどに、木々たちが緑色をたたえながら静かにそびえたち、雲たちが静かに流れ、コンドルが飛んでいる香港の風景を眺めながら、ぼくはそんなことを思う。
「居心地の悪い場所」に身をおくこと。- 「問い」の生まれる場所。
ぼくは、西野亮廣の著作『魔法のコンパスー道なき道の歩き方』を読みながら、さまざまに触発される。...Read On.
ぼくは、西野亮廣の著作『魔法のコンパスー道なき道の歩き方』を読みながら、さまざまに触発される。
西野は、日常に「問い」をすくいあげ、問いを裂開し、「答え」を実践的に生きる。
そんなことを、ぼくは抽出して、「存在そのものが『質問』になっている人」(西野亮廣)ということを書いた。
「問題解決」にまつわる大切なことが、いろいろに語られているからである。
「問い」に関して、もうひとつ書いておきたい。
西野亮廣は、「問い」を見つける方法を、次のように書いている。
…人生を賭けるほどの「問い」を見つけるには、居心地の悪い場所に立つ必要がある、というか居心地の悪い場所に立ったほうが「問い」が見つかりやすい。
西野亮廣『魔法のコンパスー道なき道の歩き方』主婦と生活社
「居心地の悪い場所」に身をおくこと。
人は往々にして「居心地の悪い場所」を避けようとするけれど、実はそこに「問い」という財宝がねむっている。
西野は、「やりたいことが見つからない」という相談には、次のように応答する。
僕は、「やりたいことが見つからない」という相談を受けた時には必ず、「僕なら、3キロのダイエットをして、その体重を維持してみるよ」と返すようにしている。…
西野亮廣『魔法のコンパスー道なき道の歩き方』主婦と生活社
「居心地のいい場所」について、西野は、すでに誰かが解決してくれた場所だという。
ぼくも、「居心地の悪い場所」に身を置き続けてきた。
そして、そんな「場所」から、「問い」をひろいつづけ、考えては行動して、うまくいくこともあれば、うまくいかなかったこともある。
ぼくは、「やりたいこと」や「行きたいところ」を透明においつづけていたら、「居心地の悪い場所」に身をおいていた。
東京に住むことを望んで東京にある大学に行き、はては、東京におけるぼくの生活の「居心地の悪さ」になげこまれた。
アジアへの旅を望み、アジアに出てみたら、そこは決して居心地のいい場所とは言い切れないところで、ぼくはたくさんの「問い」を持ち帰った。
そんな「問い」のひとつを透明に追い、途上国への国際支援を仕事として望み、飛び込んだ世界は「居心地の悪さ」でいっぱいであった。
例えば、西アフリカのシエラレオネでは、内戦が終了してまもなく、内戦に翻弄されてきた人たち/内戦に翻弄されている難民の人たち、戦争の傷を身体や精神に負う人たちに囲まれながら、そして社会の不安定さのなかで、ぼくは「問い」の嵐にまきこまれていた。
独立後、平和を保っていた東ティモールでは、2006年、不満が騒乱となり、首都ディリの街中で銃弾が飛ぶ状況に、ぼくは置かれた。
未だに、当時の「問い」に(自分なりに)答えられていない。
こうして、文章にしながら、「問い」のなかに、問いを裂開するような「解決」をさがしている。
西野亮廣なら、そんなぼくにたいして、「天然でボーナスステージに立ってんじゃん」(前掲書)と言うだろう。
ゲームで言えば、「問い」に囲まれるぼくは、確かに「ボーナスステージ」に来ている。
さらに、ぼくは、生きることの次なるステージの最初の迷路のなかで、「居心地の悪い場所」だらけだ。
これが「ボーナスステージ」でないわけがない。
この「ボーナスステージ」で、ぼくはたくさんの「問い」を得ている。
そして、それらの「問い」にひそむ、問いを裂開する拠点に足場を置いて、現代という時代を次の「名づけられない革命」(真木悠介)の時代につなぐという仕事に、ぼくの人生は賭けられている。
「自分の存在全部を支える"好み"」をもつこと(鶴見俊輔)。- この世界で、垂直に立つために。
思想家の鶴見俊輔は、「好み」ということに触れて、「自分の存在全部を支える”好み”を自分が持っているか」ということが大切だと言う。...Read On.
思想家の鶴見俊輔は、「好み」ということに触れて、「自分の存在全部を支える”好み”を自分が持っているか」ということが大切だと言う。
最近は「好き・嫌い」ということが、よく(しばしば過剰に)言われているなかで、鶴見俊輔の言葉は、重みをもって、表層的な「好み」に疑問をなげかける。
先日、鶴見俊輔の言葉をひろいだしている中で、「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」という言葉に再会した。
この言葉と、「自分の存在全部を支える”好み”を持つこと」は、一見すると関係ないようで、実は深く関係している。
鶴見俊輔は、こんな風に語っている。
…”好み”を持っていない人は、重心がなくて、世の中にふりまわされてしまいます。”超自我”に対抗して、自分で考える場を作っておくために、”好み”をもつことが必要です。
鶴見俊輔『日常生活の思想』筑摩書房
「超自我」という精神分析用語は「心的装置の下位構造の一つ」のことで、本能的欲求に対する禁止や脅しを行い、自我に罪悪感を生じさせる機能(良心)などを意味する(『社会学事典』弘文堂)。
鶴見は「世の中」と言っているが、それは、ある意味、日本の情況で言えば「世間の目」である。
鶴見俊輔の仕事は、いわゆる「権力」(広い意味での権力)にたいする「抵抗」をひとつのモチーフとしていたから、「考えることの拠点」について敏感な思想家であった。
人は、「大人」になるにつれて、「好み」が脱色され、うすれていく。
正邪、善悪や利害などに身を浸していくことで、いつのまにか、「好み」をなくしてしまう。
ただし、それらは、そのときどきで「変わりやすい」運命にある。
だから、それらの「変わりやすい」基準をもつ世の中に、垂直に立つために、存在全部を支える「好み」をもつことが、大切になる。
「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」ことも、「存在全部を支える好みをもつこと」も、考えることの拠点としてある。
ぼくにとっては、「世の中」の二つの解釈において、この言葉が大切である。
ひとつ目は、「世の中」は、グローバルに生きていくときの「世界」という文脈におきかえることである。
グローバルな世界を旅し、生活し、働き、そして生きていくことにおいて、存在全部を支えるような「好み」が大切だと、ぼくは思う。
日本で生活しているときは、「好み」があいまいであっても、あるいはほとんどなくても、それでもなんとかなってしまうようなところがあった。
日本の国外に出て、海外で生活していくなかで、ぼくは「日本的な感覚」をひきずってしまっていたようなところがある。
それは、「重心」を欠いたような生だ。
ふたつ目としては、「世の中」は、今と、これからの「時代」という文脈におきかえることである。
「時代」は、「存在全部を支える好み」を支えてくれるような時代に突入している。
しかし、時代の激しい変わり目・接ぎ目のなかで、表層的な「好き・嫌い」はあふれているけれど、「存在全部を支える好み」を拠点として次の時代に踏み出している人たちは、相対的には、まだ多くはない。
だから、鶴見俊輔の言葉は、ぼくにつきささってくる。
表層的な「好き・嫌い」があふれることに違和感を覚えながら、「自分の存在全部を支える好み」は、ぼくに言葉を与えてくれる。
「存在全部を支える好み」。
いい言葉である。
そして、ぼくは自分自身にたずねる。
ぼくは、自分の存在全部を支えるような好みを持っているだろうか、と。
香港で、「酷暑警報」(Very Hot Weather Warning)に学んだこと。- 日本の「熱帯夜」との間(はざま)で。
日本のニュースを見ていて、「熱帯夜」という言葉を見つける。東京や関東地方の暑い夏の夜を思い出す。...Read On.
日本のニュースを見ていて、「熱帯夜」という言葉を見つける。
東京や関東地方の暑い夏の夜を思い出す。
「熱帯夜」というのは、気象庁の気象用語では「夜間の最低気温が25度以上のこと」とある。
ただし、統計種目ではないようで、インフォーマル的なものでもある。
「25度以上」というのは、海外に出て連続15年ほどになるぼくの記憶の中にも残っている。
「25度」は、海外に出てから最初の内は、意識的な基準のようなものとして、ぼくの中にあったことは確かだ。
だから、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それから香港と、熱帯や亜熱帯のところに住みながら、最初は、なぜか「25度」と比較してしまうようなところがあった。
でも、そんな「25度」という意識的な基準も、海外に長く住んでいると、うすれていく。
ぼくの身体が、それぞれの環境の場に順応しながら、それなりの完結性を、その場その場でつくっていく。
香港は、今この時期、最低気温が26度とか27度である。
日本の数値基準でいけば、香港では、毎日が熱帯夜になってしまう。
ぼくの身体は恐らく、摂氏でいけば、5度くらい上の幅で、完結性をつくっている。
人間の身体の順応性には、やはり感銘を受ける。
「熱帯夜」という表現は香港には(もちろん)なく、代わりのものではないけれど、香港の気象庁ともいうべき香港天文台からの「天気の警報」がある。
警報により、活動や予防の注意をよびかけるわけだ。
暑さについては、英語で「Very Hot Weather Warning」、中国語で「酷熱天気警告」という警告が発出される。
「Very Hot Weather」とはそのままの表現だけれど、文字を見るととても暑そうだ。
日本語に訳すとすると「酷暑警報」だろうか。
香港天文台のホームページを見ていると、警報には明確な気温は決められていないようだ。
今朝は、早朝7時前に警報が発出され、そのときで27度くらいで、日中は33度くらいまで上がった。
また、暑さとは逆に、寒いときには、「Cold Weather Warning/酷寒天気警告」が発出されるが、それは10度を下がるあたりだ。
大切なことは、海外で生活していくことを、ぼくたちはこのようにして、これまでの(狭い)「世界」を相対化していくことの方法とすることができる。
日本にいるときは、本気では信じていなかったのだろうけれど、「25度」は意識的な基準として、ぼくのなかにずっしりと住んでいたのだ。
これは一例だけれど、そんなことが山ほどある。
海外で15年以上生活しながら、いまだに発見することがあるほどで、ぼくたちのマインドと身体に積み重なる「生活の地層」ともいうべきものは、何層にもわたっている。
「新しい価値観や生き方」と「古い価値観や生き方」が、これまで(の人間の歴史)に類を見ないほどに、重なって並存し、そして相克と相乗を繰り返していく時代にいる中で、ぼくたちはどれだけ順応性と柔軟性を高くもつことができるのかが問われてくる。
それは日本と海外という相対性だけではもちろんないけれど、「生き方の相対化」を生きていく経験は、ぼくたちの強い味方だ。
一度さまよいでた者は、どこまでもさまよいでることができる。
Very Hot Weather Warningが発出されている暑い香港で、そんなことを、ぼくは思う。
「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」(鶴見俊輔)。- 「考える」ということ。
「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」。思想家の鶴見俊輔は、かつて、こんなことを書いた。...Read On.
「自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見る」。
思想家の鶴見俊輔は、かつて、こんなことを書いた。
「自分」という問題系を正面から考え始めたぼくが、出会った文章だ。
出会ったのは、もう20年ほど前のことだ。
鶴見は、このことをこんな文脈で書いた。
…能率的に先生の言うことをなるべく早く真似してやるという、機械に似せて自分を作りかえるということが、小学校から大学までの一貫した日本の教育の理想なんです。…だが、機械でできないことがあるんです。それは、自分を分割して、今自分のいるところを別の人間の視点から見るということなんです。
鶴見俊輔『日常生活の思想』筑摩書房
ここでは「他者との関係」において、二層あることに注意したい。
- 「教育」という他者
- 「別の人間の視点」という他者
「教育」は、この社会のシステムで「よくやっていく・問題なくやっていく」ために、ぼくたちにインストールされる「他者」だ。
堀江貴文の著書『すべての教育は「洗脳」である』(光文社)では、そのことを「洗脳」と呼んでいる。
子供たちの身体はときに悲鳴をあげながら、しかし、インストールされた「他者」を「自分」として生きていく。
「自分を分割して…」と鶴見が言うとき、それは、もう一段上の「他者」である。
鶴見は、自分を分割しなければ、ほんとうは考えるということができない、という。
自分を分割して、「別の人間の視点」を組み込んでいく。
それは現代では、例えば、一段上の視点から見るという「メタ思考」などとも呼ばれる方法とも呼応する。
千葉雅也著『勉強の哲学-来たるべきバカのために』も、この「自分」ということにセンシティブな本である。
千葉は、「自分は環境のノリに乗っ取られている」や「自分とは、他者によって構築されたものである」という節で、「自分とは?」ということを書いている。
「来たるべきバカのための(深い)勉強」は、言ってみれば「教育などの他者」につくられた自分をこわし、「別の視点の人間」を組み込み、自分で「考えていくこと」である。
「別の人間の視点」は、日本の文化から離れたところでは、さらに鮮烈に組み込まれていくことになると、ぼくは考える。
ぼくは、海外で生活していくなかで、自分を分割しつづけ、別の人間の視点から見ることを、日々行ってきた。
文化などの差異が先鋭化し、「今自分のいるところ」と「別の人間の視点」の距離や角度が、さらに遠く、深く、鋭くなる。
例えば最近日本でよくとりあげられる「日本的な働き方」については、海外で生活し仕事をしてきたぼくにとっては、いつも「別の人間の視点」がぼくをまなざしてきた。
だから、「考えること」が多くなり、そして深くなる。
鶴見の文章と出会ってから、ぼくは、そんな自身の経験を通じて、鶴見が言おうとしていたことを理解している。
社会学者の見田宗介は、「鶴見俊輔」について書くなかで、鶴見と芹沢俊介との対談の発言から、こんなポイントを抽出している。
…鶴見は、「イノセント」からの出発ということで、一人一人が、自分の思想の、世界の見方の、生成してくる根にある経験を、けっして手放してはいけないということを、くり返し強調している。この経験の根のところから、人はだれでも、読むものを自分で選び、自分の「正解」を編み上げてゆくことが出来る…。
見田宗介『定本 見田宗介著作集X』
ぼくも、そう思う。
だから、ぼくは「経験の根」に自覚的に、そこから文章を編み上げていっている。
東ティモールに「肯定性の彩り」を与える。- 学生団体による「Timofee」プロジェクト。
「Timofee」という東ティモールの支援プロジェクトのお話を伺う機会を得た。「国際問題の理解を深め、啓発していくこと」を目的とする、慶應義塾大学公認の学生団体S.A.L.に所属している、真摯な青年からの連絡であった。...Read On.
「Timofee」という東ティモールの支援プロジェクトのお話を伺う機会を得た。
「国際問題の理解を深め、啓発していくこと」を目的とする、慶應義塾大学公認の学生団体S.A.L.に所属している、真摯な青年からの連絡であった。
「Timofee」(由来はTimor + Coffee)とは、ホームページによると、「東ティモールを焦点に当てて活動する学生団体S.A.L.のプロジェクト」。
クラウドファンディングによって、資金を集め、プロジェクトを展開する。
第一弾は2015年から2016年にかけて「フリーマガジン Timofee」の制作・配布(完了)、そして現在、第二弾「スタディツアー」。
企画を立て、今は、クラウドファンディングで資金集めを行なっている(2017年7月14日まで。※リンクはこちら)。
プロジェクト第一弾の「フリーマガジン Timofee」は、日本語版・英語版・テトゥン語で制作し、1000部のテトゥン語版を東ティモールで配布したという。
日本語版は、ホームページ上で、見ることができる(※リンクはこちら)。
写真をふんだんにとりいれ、コラム、漫画などを組み合わせ、デザイン性にもすぐれた雑誌に仕上がっている。
コラムにも書かれているように、東ティモールと聞くと、多くの人は「危険」「紛争」ということをイメージするが、雑誌のデザインと色調はそんなイメージを払拭する。
雑誌は「何もない国」という文章からはじまる。
「何もない国」
旅人はこの国をそう呼ぶ。
何もない国とは、
おそらく目立った所がない国という意味だろう。
…
だが、旅人が気づきにくいだけで、
この国はたくさんの魅力で溢れかえっていた。
それらはどれもこれも鮮やかで見たことのないものばかり。
今はまだ何もないと言われる国、
だったら世界に見せつけてやろうじゃないか。
さあ、東ティモールを彩ろう。
『Timofee』Vol.001 (Spring, 2016)
「さあ、東ティモールを彩ろう」という言葉に導かれながら、写真とコラムが、東ティモールを語っていく。
2003年、ぼくが西アフリアのシエラレオネを後にし、次の赴任地である東ティモールの首都ディリに降り立ったときのことを思い起こす。
空港から事務所に向かう幹線道路から「何もない」街並みを、ぼくは目にする。
夜で暗かったのもあるし、当時は信号もなかったこともあって、その「何もなさ」は想像を超えるものであった。
そして、社会学者・真木悠介の名著『気流の鳴る音』の一節が、ぼくのなかで湧き上がる。
真木悠介は、マヤのピラミッド(そしてその周りにどこまでも広がるジャングル)を目の前にしながら思ったことを、次のように書きとめる。
…ピラミッドとはある種の疎外の表現ではなかったかという想念が頭をかすめる。幸福な部族はピラミッドなど作らなかったのではないか。テキーラの作られないときにマゲイの花は咲くように、巨大な遺跡の作られないところに生の充実はあったかもしれないと思う。…
真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房
首都ディリにはじめておりたってから、その後3年半を、ぼくは東ティモールで過ごす。
ピラミッドのごとく「文明的・都市的」なものはなくても、ぼくは、東ティモールで「生の充実」を生きていくことができた。
東ティモールを去ってから10年経って、自分のなかで立ち上がってくるような風景があったりもする。
雑誌『Timofee』のコラムは繊細な筆致でその一端をつかんでいる。
いろいろと学ばせていただきながら、他方、東ティモールが「世界につながっていること」を、嬉しく思う。
現在、進めているという第二弾「スタディー・ツアー」でも、そんな「世界のつながり」をつくろうとしている。
この企画では、東ティモールの大学生5名を日本に招く。
そして、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町を訪問することで、「ゼロからのまちづくり」と「東ティモールの国づくり」をつなげる。
スタディーツアーの企画を拝見し、雑誌『Timofee』を読み、真摯な一青年のお話を直接に伺いながら、ぼくは、メンバーの方々のコミットメント、行動力、フットワークなどに、感心してしまう。
雑誌『Timofee』が東ティモールを照らす仕方と同じように、活動は「肯定性の彩り」に充ちている。
それは、明るさをたたえている。
ただし、表面的な「明るさ」ではなく、明るさのなかに「輝き」をもっている。
「明るさはあるが輝きのない」現代のさまざまな事象のなかで、肯定性の彩りは、明るさと輝きを共に宿しているように、ぼくには見える。
人生はひとつの(あるいは無数の)プロジェクト。- 国際協力プロジェクトで学んだこと。
人生はプロジェクトである。東ティモールのことを思い出していたら、そんな言葉が、ふと、浮かび上がった。...Read On.
人生はプロジェクトである。
東ティモールのことを思い出していたら、そんな言葉が、ふと、浮かび上がった。
ぼくは、東ティモールでは、NGO職員としてコーヒー生産者支援のプロジェクトに携わっていた。
2003年から2007年のことだ。
国際協力などのプロジェクト(比較的中長期的なプロジェクト)においては、ビジネスと同じように、綿密なプロジェクト計画をつくっていく。
実施可能性をさぐるフィージビリティ調査などの調査から、予算を含むプロジェクト原案をつくり、なんどもチェックと書き直しを繰り返して、ようやく完成させる。
プロジェクト計画は、詳細につくる。
時間という横軸(過去ー現在ー将来)と、社会という縦軸(個人・家族ーコミュニティー地方・地域ー国)の総体を論理的に考慮しながら、今ここのプロジェクトに集約させる。
自分の頭も、あるいはチームなどのリソースも、字義通り、総動員でのプロジェクト計画となる。
それから、例えば資金供与先である公的機関の厳しい審査を通し、プロジェクトがはじまる。
プロジェクトがはじまっても、進捗管理に追われたりする。
人やコミュニティ、また自然という「現実」は、思ったとおりにはなかなかいかないから、実施管理もシビアだ。
そして、プロジェクト期間終了時には、プロジェクトの成果を確認し、レビューし、報告書を作成する。
このようにして、「プロジェクト・サイクル」をきっちりとまわしていく。
国連や欧米系の国際NGOは、プロジェクトを戦略的・戦術的に計画し、また成果を報告することに長けている(実施過程はいろいろだし、自分の目で綿密には見ていないからなんとも言えない)。
「戦略」が弱いと言われる日本の組織としては、学ばされることが多い。
プロジェクトの目的・目標を定め、活動計画に落とし、時間軸を立てながら、予定を立てる。
「森と木」をみる目、戦略思考、論理力、数値、文章力、政治的配慮、文化的な繊細さなど、あらゆるものが求められるプロセスだ。
ぼくも、自分のもっているものを最大限駆使しながら、しかし途方にくれる経験を超え出るという「創られながら創る」(真木悠介)ことのプロセスをなんどもくぐりぬけてきた。
そのような仕事が、少しでも、現地の人たちの「力」になれればと。
プロジェクトは一定の成果を生みだし、現地の人たちに役立つとともに、このプロセスの総体は、ぼく自身の「生き方」にも影響をおよぼすようになった。
プロジェクトも軌道にのり一段落しているときだったと記憶しているが、ぼくは、人生もひとつの(あるいは無数の)プロジェクトではないかと、東ティモールの(おそらく)首都ディリの市内を移動中に思ったのだ。
ぼくたちは仕事では、プロジェクト計画から進捗管理、そして報告書作成までの一連の「プロジェクト・サイクル」をまわすけれど、「果たして自分自身の人生は…」、と思ったのだ。
自分の人生となると、例えば「大枠」だけを目標としてイメージし、仕事に集注した将来を想像することにとどまる。
そして、そんな「大枠」の目標は、大枠として達成される。
ぼくは、「人生はひとつの(あるいは無数の)プロジェクト」という気づきを頼りに、自分の人生というプロジェクトをつくることに着手するようになった。
個人のミッションを立て、そこから分野ごとに目標を立て、活動計画を立てる。
そうやって、試行錯誤で、ここまできた。
当たり前だけれど、うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともある。
人生(のあらゆる分野)に目標を立て、活動計画をつくり、きっちりと遂行して達成する人たちもいる。
人生はいきあたりばったりでチャンスが開かれていく、という人たちもいる。
どちらがいい、というよりは、やはり、どちらも「人生の道具箱」には入れておきたい。
いつでも使えるように。
でも、ぼくとしてはーあくまでも、ぼく個人ということではー、どちらかというよりは、統合するような形で、活用したい。
目標を立て、活動計画をつくりながらも、「いきあたりばったり」的なオープンさは持っていたい。
「いきあたりばったり」でチャンスをつかむ人たちも、実は、無意識の次元では論理的に考えていたりするものだ。
また、一方で、「いきあたりばったり」で遭遇するチャンスをつかみつつも、時間という横軸と社会という縦軸を総合的に把握しながら、小さい無数のプロジェクトを論理的につくりたい。
人生の段階において、どちらの「度合い」を高くするか、どのようなプロジェクト(大きさや期間)をつくるかは、柔軟に変えていく。
ぼくは、いまだに試行錯誤の毎日だけれど、統合的かつ柔軟性をもって、どちらも大切にしたいと思う。
でも思うのだけれど、人生というのは、このような意図も、ときに、するするとすりぬけていってしまう。
それが、生きることの面白さである。
リアリティへの着地と、生ききることへの離陸。- アジアへの旅、鳥山敏子、宮沢賢治、見田宗介に教えられて。
海外に出て、そのはじめの道ゆきで、ぼくは、生のリアリティが裸出している風景に出会った。...Read On.
海外に出て、そのはじめの道ゆきで、ぼくは、生のリアリティが裸出している風景に出会った。
例えば、アジアの食品市場を訪れると、生きている鶏や豚が売られていたり、さばかれたばかりの肉が裸出している。
残酷だという人もいる。
見るに耐えない人もいる。
都会における普段の生活のなかで、ぼくたちは、それらを見ることなく、人工空間に生きているからだ。
スーパーマーケットでは、きれいに包装された肉や魚が、「商品」としてならべられている。
ちなみに、香港は、都会のなかでも、アジアの食品市場の風景を残しており、リアリティが裸出している。
そんなリアリティが裸出する「風景」を、自分たちの経験とするために、教師の鳥山敏子は、かつて、<いのち>に触れ、考える授業を展開した。
具体的には、鶏を殺して食べるという授業である(鳥山敏子『いのちに触れる 生と性と死の授業』太郎次郎社、に書かれている)。
批判もたくさんあっただろうけれど、ぼくには、このような経験の大切さがよくわかる。
そのような風景を非日常とする、多感な日本の子供たちと同じように、ぼくも「食べること」を罪のごとく感じていた時期がある。
アジアを旅するようになり、裸出するリアリティにぼくの身体がさらされながら、ぼくは言葉にならない「感覚」を得ていた。
言葉にはならないけれど、それがとても大切であることはわかっていた。
それから年月を重ねた後、ぼくは、西アフリカのシエラレオネ、東ティモールに暮らしてきたなかで、そのような風景を日常として生きてるようになった。
その経験のなかで、一方で言葉にならない「感覚」をそのまま言葉にせずに持ち続け、他方で一部を言葉化してきた。
罪のごとく心の奥底では感じながら、普段の生活ではそれらを「見ない」でやりすごしていたなかで、ぼくは社会学者・見田宗介の文章に出会った。
見田宗介は、著書『宮沢賢治』で宮沢賢治の生涯を追いながら、賢治が「いのち」ということを追い求めた軌跡を、例えば『よだかの星』などの作品からすくいあげている。
みにくい鳥であるよだかは、「かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される」と、生物界の「食物連鎖」を思い、「つらい、つらい」となげく。
見田宗介は、考え方としての「解決」を、このように書いている。
生命世界が<殺し合い>の連鎖であるという見え方は、ホッブス風の近代市民社会の原像を生物界に投影したものだけれども、人間社会の諸個人の生活の相互依存の連鎖(だれでも他の多くの人々の労働に支えられて生きている)は、個のエゴイズムを絶対化する立場に立つかぎり相互収奪の連鎖であるが、エゴイズムの絶対化をはなれることができるかぎりは、人間たち相互の生の<支え合い>の連鎖でもあり、そしてまたこの他者たちのための<支え>のひとつであるということこそは、ひとが<生きがい>と呼んでみずからの生の支えとしているものの核心でもある。
…植物、動物がみずからの生命によってたがいに他の生命を養い合っている<生かし合い>の連鎖としてみることもできる。
見田宗介『宮沢賢治』岩波書店
<生かし合い>の連鎖という考え方は、ぼくの視点に、ひとつの救いを与えてくれる。
ぼくは、今日こうして「食べる」という行為のなかに、生かされているということである。
しかし、考え方(言葉)の解決は、そこだけにとどまらず、身体レベルまた生き方総体の解決へと、ぼくたちを押し出していく。
ぼくの「解決」の仕方は、生ききる(live fully)、ということである。
苦悩と歓びに充ちた生を生ききること。
生かし合いの連鎖のなかで、自分の生を生ききること、そしてそうすることで他者たちの生の支えにもなること。
かつてぼくは、見田宗介が読みとる宮沢賢治の「(生かし合いの連鎖における)問題解決のつきつめ方」、つまり他者の生命のために自己の生命をなげだしていくような方向に生きていこうとしてしまった。
そのような方向の道ゆきで無数の失敗を重ねながら、ぼくのなかで、いろいろな物事が反転した。
自分が生ききること。
(なお、「自己」という身体も、ほんとうは共生のシステムであることは、見田宗介が別著で明晰に展開している。自分を生ききることは、その意味で、すでに「他者」の支えである。)
生ききれていれば、それは必ずどこかで、他者の<支え>となるというところに、ぼくは舵をきった。
「異国」での生活に慣れるまでの時間。- 経験と実感、また藤原新也の言葉に耳をすませながら。
「異国」での生活に慣れるまでの時間ということを、日本の外に出るようになってから、時折考える。...Read On.
「異国」での生活に慣れるまでの時間ということを、日本の外に出るようになってから、時折考える。
旅という形もあれば、当面住むという形もある。
自分の経験と実感を頼りにしながら、他者の経験と感覚にも耳をかたむける。
写真家・作家の藤原新也は、『沈思彷徨』(ちくま文庫)という作品のなかで、次のように、述べている。
…食物の味は二、三週間でわかってくる。異国ではそういう壁を乗り越える時点がある。音が聞こえてくる時点、目が見えてくる時点、味がわかってくる時点がある。人間の五感の解放はその土地で違うが、一般的には三ヵ月かかる。
藤原新也『沈思彷徨』(ちくま文庫)
「その土地で違うが…」と言うように、自分がこれまで住んでいたところとの、環境的・文化的差異の大きさにもよってくる。
しかし、藤原新也は、自身の「沈思」のなかから、三ヵ月という時間を目安として提示している。
「土地」以外に、個人差などもあるが、ぼくの経験と実感からして、この三ヵ月という時間は、それなりに「妥当」なところだと、思う。
そして、もしかしたら、人間の身体の細胞が入れ替わる時間の長さとも、若干の関連性があるのではないかという想念が、ふと、立ち上がる。
人間の身体の細胞は、身体の部位それぞれに、それぞれの周期で、細胞が入れ替わっていく。
さらに、異国で「仕事」をしていく際に、仕事に慣れるまで、どのくらいの時間・期間がかかるか、ということが問われる。
どのくらいの時間・期間で仕事に慣れるかということは、「時間」の効率化を要請するビジネスにおいて、大切である。
即戦力としてパフォーマンスを上げていく上で、できる限り短い時間で、異国での仕事に慣れることが求められる。
この「時間の長さ」も、その土地、個人差などに左右される。
また、所属の形式(駐在か現地採用かなど)、仕事の内容、求められる役割など、仕事そのものに関連する要素によっても変わってくる。
しかしながら、経験と実感からして、「三ヵ月」というのは、「ひとまず」という次元において、必要とされる時間の長さだと思われる。
さらに、例えば、組織全体を見渡せるようになることなどとなると、時間を密にしたとしても、半年から1年ほどのスパンがかかる。
これは、頭だけで理解するというより、経験を通じてわかるというレベルである。
ぼくは、アジアなどへの旅とは別に、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、そしてここ香港に暮らしてきた。
その都度、心身をひらいて、生活・仕事に慣れては、慣れをほどいていった。
ここ香港での生活は10年を超える。
人間の骨の細胞は7年周期で入れ変わるというから、ぼくの身体細胞は香港にいる間に、すっかりと変わったはずだ。
身体の細胞が変わりつつ、それでも、ぼくの身体には、それぞれの場所の生活とリズムなどが、刻まれている。
その場所に戻れば、きっと、刻まれている生活とリズムが、発動されると思う。
ただし、最近は、「異国での生活に慣れるまでの時間」は、短縮されているようにも、感じる。
背景としては、「均質化」の力がはたらいていることだ。
場所によっては、似たような環境・文化になってきていることが挙げられるだろう。
グローバル化の進展が、例えば「都会の風景」を均質化しているのだ。
他方で、ぼく個人としては、環境・文化的差異をつらぬいて存在している、この地球に、根をおろしたい(「根をもつことと翼をもつこと」の両立)。
差異を超えて、そこに在る、太陽や月や海や緑、そして鳥たちにつながることで、ぼくたちの生きることの「土台」は、どこにいても同じであるということもできる。
その上で、環境・文化としての「多様性」が花ひらくところで、(異国での生活に慣れながら)新しく心身をいれかえていくという鮮烈な経験を、ぼくたちは楽しむことができる。
<身の丈>に向きあうなかで、見つけたもの。- 海外・途上国・自然のなかで「テクノロジー」から切りはなされて。
「身の丈」を、文字通りの「原義的」に読み替えること、そしてそうすることで体験のひとつを伝えることが、この文章の意図するところである。...Read On.
「身の丈」を、文字通りの「原義的」に読み替えること、そしてそうすることで体験のひとつを伝えることが、この文章の意図するところである。
「身の丈」という言葉の意味は、辞書的には、次のようである。
- せいの高さ。身長。背丈。…
- (多く「身の丈に合った」の形で)無理をせず、力相応に対処すること。分相応。…
(出典)「デジタル大辞泉」
「原義的な読み替え」は、言って見れば「1と2の間」に、開かれる。
ぼくたちは、現代という時代のなかで、「自分・自我という幻想」を、幾重にも「拡大・拡張」している。
例えば、経済力(があること)は、「自分・自我という幻想」を拡大・拡張しがちだ。
また、経済力は往々にして社会ステータスのようなところと密接につながっている。
「身の丈に合った…」と言うとき、身の丈に合った生活、身の丈に合った出費などと使われる。
往々にして経済力(また経済力を上げるための能力)において、「分相応」であるべきことが語られる文脈だ。
経済のグローバル化が進展した現代において、「経済力」は、世界のどこでも威力をもち、ぼくたちの「自分という経験」を形成する、大きな要素である。
他方、社会的ステータス(会社や学校など含む)は、世界どこでも通用するものから、国内やローカルでしか通用しないものまで、幅がある。
「海外」に出ると、国内やローカルでしか通用しないものは、意味をなさなくなる。
ぼくたちは、ぼくたちの「自分・自我」にとりついた「幻想」から(幾分かは)切り離され、より「身の丈」を意識する。
ぼくは、大学時代にニュージーランドに行った際には、「学歴」という幻想を、いったんとりはずしたかった。
「幻想の殻」を一枚でも二枚でも脱ぎさって、残るものを感覚し、見てみたかったのだ。
「途上国」で、国際協力・支援に現場でかかわっていたときは、支援する組織の一員・代表という社会的ステータスがあった。
しかし、ひとたび、西アフリカのシエラレオネの、はるか奥地にある村などに降り立つと、自分の「存在」が、不安定になるのを感じることになった。
それは、ある意味、「文明の機器」に拡張・拡大された「自分という存在」が、文明の機器の力を失い、幻想の殻がはがされたような感覚である。
東ティモールのコーヒー生産者たちが活動をする、山奥のコーヒー農園に行ったときも、同じように感じたものだ。
ぼくは、日々、パソコンで仕事をし、携帯電話(当時は時に衛星電話)を使い連絡をとり、車両で移動する。
それが、ひとたび、パソコンも、携帯電話も、車両も意味をなさないような、山奥のコーヒー農園に降りたつと、<自分という存在の身の丈>に向き合わされる。
ぼくから、パソコンや電話やカメラなどが取られてしまったら、ぼくにはいったい何ができるのだろう。
ぼくは、「生身の身体」として、そこに投げ出されてしまう。
目の前のコーヒー生産者の人たちは、コーヒー農園という自然の只中で、圧倒的な存在感を放っている。
現代のテクノロジーがなくても、人間としてのサバイバル能力、食べるものを栽培する能力、山をかけぬけていく力などに照らされ、人間としての存在の深さをたたえている。
メディア研究で有名なマーシャル・マクルーハンは、かつて、「テクノロジーやメディアは人間の身体の拡張である」ということを述べた。
近代は、そして現代は、この「拡張」を、絶えず推し進めている。
そして、この「拡張」は、自分という存在を、誇大視させる。
その誇大視された「自分」は、テクノロジーを(一時的に)奪われる体験のなかで、「誇大」を脱ぎ去りあるいははがされ、<身の丈>に向き合うことを余儀なくされる。
ぼくにとって、このような<身の丈>に向き合う体験は、とても貴重なことであったと思う。
ぼくは、ニュージーランドの山奥で、西アフリカのシエラレオネの奥地の村で、東ティモールのコーヒー農園で、そのような体験に出会い、体験を積み重ねてきた。
もちろん、テクノロジーから切り離されるのは一時的である。
シエラレオネや東ティモールの事務所に戻り、関係者と協議をして、ぼくはぼくのできることに最善を尽くし、ぼくの役割を果たす。
しかし、そのような「一時的な体験」(とその積み重ね)によって、ぼくは、経済力や社会的ステータスという表層の次元だけではなく、もっと深い次元において、いわば<自分という存在の身の丈>と向き合うことができたように、思う。
ぼくは、当時、テクノロジーを取られたら、何が自分に残るだろうかと考えさせられることになる。
そこで、ぼくが想起したのは、「考える力」であった。
ぼくは、この手からテクノロジーが取り去られても、シエラレオネの村で、東ティモールのコーヒー農園で、「考えること」ができる。
完璧な知識も情報も持ち合わせているわけではないけれど、今この状況を変えていくために状況を分析し、方策を考えることはできる。
「それって、やっぱり大切なことじゃないか」と、ぼくは自分自身に言い聞かせる。
海外、途上国、自然という環境において、ぼくたちの身体・身体感覚を拡張させる「テクノロジー」から切り離され、<身の丈>と向き合う経験のなかで、ぼくは「考える力」をあらためて発見する。
東ティモールを出て、香港に移り10年ほどが経過する。
そこで、ヘッセ著『シッダルタ』という古典作品を再度読みながら、この作品に触発されてやまない世界のトップパフォーマーたちに、ぼくは教えられる。
物語のなかで、物乞い同然の格好をした僧である主人公シッダルタは、道ゆきで出会う商人に「(何も所有しない)あなたが、私に何を与えてくれるのですか?」と尋ねられて、応える。
「私は考えることができる、待つことができる、そして断食ができる。」
所有という、自分を拡張するモノを失ったシッダルタが、自分の<身の丈>と向き合ってきたからこそ、生まれでた言葉である。
(※ヘッセ『シッダルタ』については、別のブログで書いた。)
ぼくは、20年以上前に読んだこの箇所を覚えていないけれど、生きてきた歳月のなかで、ようやく「体験」として、ぼくのなかを通過したのだと思う。
「私は考えることができる…」
テクノロジーがこれまでの歴史にないほどに進化を続ける現代において、新しいテクノロジーを活用しながらも、ぼくは、この基点に戻ってくる。
結婚と「井戸掘り」。- ぼくが(想像上で)「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく。
日本の国外(海外)にそれなりに長くいると、逆に「日本」を考えてしまうようなところがある。ホームシックなどとは違う。...Read On.
日本の国外(海外)にそれなりに長くいると、逆に「日本」を考えてしまうようなところがある。
ホームシックなどとは違う。
海外にいると、日本の社会の中で「着なければならない」ような「衣」をぬぐことができる。
しかし、その「衣」をぬぐことで、いっそう、その内にある「日本的なもの」が日々の生活のなかであらわれてくる。
最近、ふと、河合隼雄氏の著作を読もうと思って、いくつか書籍を手に入れ、ページをめくっている。
心理学者であり、亡くなられる前には、文化庁長官も務められた河合隼雄氏。
河合隼雄氏は、ぼくが、ぼくの「思考の部屋」(頭の中)で、「(海外から)日本を考える会議」を開くときのメンバーである。
毎回ではないけれど、時に、参加していただく。
その他のメンバーは、例えば、社会学者の見田宗介氏、哲学者・武闘家の内田樹氏などである。
時に、村上春樹氏にも来ていただく。
ぼくの頭の中だからできる、「ドリームメンバーたちによる会議」だ。
今回、日本、日本の社会、日本の組織などを考えている折に、河合隼雄氏を「思考の部屋」にお呼びしたわけだ。
そうしたら、思いっきり「脱線」して、河合隼雄による「結婚・結婚生活」の定義に、惹かれてしまった。
そのトピックは、海外を旅し、海外にそれなりに長く住む中で共にしてきた本のひとつで、取り上げられていたトピックだ。
その本は、下記の本である。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
河合隼雄と村上春樹はアメリカに滞在していたときに出会った。
その二人の「のんびりとした語り(対談)」をまとめた本である。
対談は1995年。
日本では、阪神大震災やオウム事件が起きた年だ。
村上春樹は、小説『ねじまき鳥クロニクル』を完成させたところであった。
のんびりとした語りとはいえ、どのページも、立ち止まって、深く深く、考えさせられる。
"結婚と「井戸掘り」"と題される箇所は、一文字一文字に、立ち止まってしまう。
ぼくの知るかぎり、村上春樹が「結婚・結婚生活」について正面から語ることはあまりない。
心理療法に長年かかわってきた河合隼雄の、懐の大きさと、人間へのまなざしの暖かさを前にして、村上春樹は「おたずねしてみたかったんですけれど、」と、「夫婦」(の相互治療的な意味)について尋ねている。
『ねじまき鳥クロニクル』で、ようやく「夫婦」を書くことができるようになったばかりであったこともある。
その作品、また村上春樹が作品のなかでよく使う「井戸掘り」のたとえに触れながら、河合隼雄は、次のように応えている。
(河合)ぼくはあれは夫婦のことを描いているすごい作品だ、というふうに読んでいますよ。
ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
「苦しむための結婚」に触れて、村上春樹は、後日、注記を付している。
(村上)…河合先生の定義は、すごく新鮮で面白かったです。ただ、そういうふうにすっきり言われるとみんな困っちゃいますけどね。
僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠落を埋め合うためのものじゃないかというふうにぼんやりと考えていました。でも最近になって…それはちょっと違うのかなと考えるようになりました。…
結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。…そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいかと、このごろになってふと思うようになっています。
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)
なお、河合隼雄は、対談で、「夫婦というのは『こんなおもろいことないんじゃないか』」ということも言っていることを、注記でも、繰り返しのべている。
のんびりとした対談は、日本のことも含め、あらゆるトピックにおよび、言葉の鋭さが随所に光っている。
河合隼雄は、この本のタイトルとは逆に、「河合隼雄が村上春樹に会いにいきたい」気持ちであったことを、「後書き」で書いている。
ぼくにとっては、「河合隼雄と村上春樹」に会いにいく、である。
その後、河合隼雄は2007年に他界。
村上春樹は、結婚生活をつづけ、作品を書き続けている。
『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の妻がいなくなってしまう。
20年以上を経て書かれた村上作品『騎士団長殺し』(2017年、新潮社)も、「夫婦」のことを描いている作品である。
『騎士団長殺し』においても、妻が結婚生活を終えたいときりだす。
ただし、小説は、「もう一度結婚生活をやり直すことになった」と「私」が過去をふりかえるところからはじまる。
村上春樹は、作家・川上未映子の質問に応える形で、「最初に結論」をおいたことを、はじめから企図していたことを語っている。(『みみずくは黄昏に飛びたつー川上未映子訊く/村上春樹語る』新潮社)
結婚生活という「冷厳な相互マッピングの作業」のなかで、自分の欠落を自分で確認し、自分で埋めていくしかない、と語った村上春樹が、20年を経て、結婚生活をもう一度やり直す物語『騎士団長殺し』を書く。
河合隼雄がもし生きていて、『騎士団長殺し』を読んだら、なんと語っただろうか。
『村上春樹、もう一度河合隼雄に会いにいく(2017年)』なんて本があったら、どんな本になっただろうか。
河合隼雄の声がきこえてくる。
結婚は苦しむためのもんや。
たいへんだけれど、「井戸」を掘らなければならない。
でも、こんなおもろいことないやろ。。。
社会学者「見田宗介=真木悠介」先生の応答に、15年以上触発されつづける。-「理論・理念」と「現実・経験」の間で。
社会学者「見田宗介=真木悠介』先生による、朝日カルチャーセンターの「講義」で、ぼくは、見田宗介先生に質問をさせていただいた。見田宗介先生の応答が、15年以上経過した今も、ぼくを触発し続けている。...Read On.
社会学者「見田宗介=真木悠介』先生
による、朝日カルチャーセンターの
「講義」(2001年3月24日)で、
ぼくは、たくさんのことを学び、
そして、さらに見田宗介先生に質問を
させていただいた。
見田宗介先生の応答が、15年以上経過
した今も、ぼくを触発し続けている。
講義「宮沢賢治:存在の祭りの中へ」
で、見田宗介先生は、
日本の1960年代から2000年に至る
「社会の変遷」について語った。
日本の社会は、次の変遷を遂げてきた。
・共同体(Gm=「ゲマインシャフト」)
・近代市民社会
(Gs=「ゲゼルシャフト」)
・今後は「XXXXX」?
*コンセプトは「共同体の彼方」
(GmのかなたのGm)
日本の「共同体」が解体され、
「近代市民社会」が創成される。
そして、自由と孤独を獲得した個人・
社会が、次なる「共同体の彼方の共同体」
をつくりだしていく。
(後年、見田宗介先生は、
『定本 見田宗介著作集VI
生と死と愛と孤独の社会学』岩波書店、
などで、論考をまとめている。)
講義が一通り終わったところで、
質問をする時間がもうけられた。
ぼくは当時、「質問すること」を
自分に課していたと記憶している。
そうすることで、ぼくの集中と問題意識
が高まるからだ。
ぼくの質問は大枠はこのようなもので
あった。
「社会は、近代市民社会の段階を、
必ず通過しなければならないか?」
ぼくの質問の背景には、
日本(の社会)の発展と重なる形で、
「発展途上国の社会」が存在していた。
大学院で、発展途上国の発展・成長、
そして国際協力を学ぶ中で、
発展途上国が日本と同様な「経路」を
進んでいかなければならないのか、
について、ぼくは考えてきていたからだ。
「近代化」による共同体の解体は、
自由をもたらしてきたと同時に、
限りない弊害を社会にもたらしてもきた。
そこで、ぼくはこのような「質問」を
見田宗介先生に投げさせていただいたのだ。
見田宗介先生は、しばしの間、思考され、
それから、概ね次のような応答をされた。
「Yesと同時にNo。
先進国の経験に学ぶことで通過しないと
いうことも理論的にはありうるが、
現実としては理念ではなく経験として
通過する必要がある。」
見田宗介先生が思考される「沈思」に、
ぼくは緊張と畏れと興味を覚える。
そして、見田宗介先生の真摯な応答を、
全身を耳にして聞く。
見田宗介先生の「応答」は、
ぼくの「実践の場」で絶えず姿を現して
くることになる。
その後、ぼくは、大学院を修了し、
西アフリカのシエラレオネと東ティモ
ールの「社会」で、国際NGOの一員と
して、現実と実践の場に置かれる。
内戦が長きに渡り続いた両国で、
紛争後の社会という、圧倒的な現実の
中に、ぼくは投げ込まれる。
理論や理念などが拡散して消えてしま
うような現実の中である。
それでも、というより、だからこそ、
ぼくは理論や理念を大切にしてきた
ところがある。
シエラレオネ、東ティモールでも、
ぼくは見田宗介=真木悠介先生の本を、
いつでも横に置き、時折本を開いた。
「大切なこと」を忘れないように。
見田宗介先生の応答にあった、
「理論的には…」
というくだりが、ぼくにはついて回った。
社会も、それから個人も、
頭ではわかっていたとしても、
(程度の差はありつつも)やはり「経験」
を通過することが必要なのではないかと
時を重なる中で思うようになっていった。
しかし、それと同時に、
「理論・理念」と「現実・経験」の間で、
思考し、苦慮し、失敗を繰り返しながら
精一杯やっていくことの大切さを、
ぼくは学んできたのだと思う。
その「間」における、
行ったり来たりの繰り返しの中で、
生きてくるものがあるのだということ。
そして、これからも、
「理論・理念」と「現実・経験」、
この「間」での生を、ぼくは引き受けて
いこうと思う。
それにしても、
見田宗介=真木悠介先生に、
次回お会いする機会があるとしたら、
ぼくは「どんな質問」をさせていただこう
かと、思考の翼をはばたかせている。
銃弾が飛んだ夜に、ぼくの「心を温めてくれた」映画。- 2006年、東ティモールの首都ディリで。
2006年、東ティモールの首都ディリ。ぼくはコーヒープロジェクトのため東ティモールに住んで3年程が経っていた時期のこと。2002年の独立後、平和を取り戻していた東ティモールの街に、また銃声が響く。...Read On.
2006年、東ティモールの首都ディリ。
ぼくはコーヒープロジェクトのため
東ティモールに住んで3年程が経って
いた時期のこと。
2002年の独立後、平和を取り戻して
いた東ティモールの街に、また銃声
が響く。
ただし、事態はまだ局所的であった。
後日、当時の東ティモール政府が
事態を収拾できなくなり、他国に
支援を要請し、オーストラリア軍など
が上陸する前のことだ。
日本よりも平和ではないかと思うほど
の東ティモールであったが、
ここ数ヶ月ほど、治安が悪くなり始め
ていたころであった。
首都ディリ郊外。
コーヒー生産地であるエルメラ県へ
と続いていく道が封鎖されていた。
その日、コーヒー生産地から降りて
くるスタッフたちが、封鎖の場所で、
身動きがとれなくなっていた。
首都ディリの事務所にいたぼくは、
スタッフたちと連絡を取り合う。
銃弾が飛んでいる状況だという。
もちろん安全を最優先にして動く
ことを確認しあう。
それから数時間ほどかかっただろう
か、スタッフたちは局所の危険を
避け、無事に事務所に到着した。
安堵と共に、しかし安全対策を適切
に、すみやかに進めていく。
事態はひとまず落ち着きを取り戻し
たようであった。
それから、ようやく一段落し、
ぼくは、リビングルームに腰を下ろ
した。
どっと、心情的な疲れが出てくる。
ぼくの心は「荒涼とした風景」を
抱えているようであった。
普段はあまり感じない「ホームシッ
ク」的な感情もわきあがっている
ことに気づく。
ぼくは、気分を変えるため、
日本のDVDを見ることにした。
同僚が以前置いていってくれていた
DVDの中から、
『踊る大走査線 THE MOVIE』
を、ぼくは選んだ。
ぼくの記憶では「THE MOVIE2
レインボーブリッジを封鎖せよ!」
である。
日本の東京の風景が映像に出てくる。
そこで、物語が進行していく。
ぼくは、映像を見ながら、物語を
追いながら、なぜか、心が温まって
いくのを感じることになった。
銃弾が飛んだ夜に、
ぼくの「荒涼とした心の風景」に、
「暖かい風景」が灯された。
だから、ぼくは、今でも、
『踊る大捜査線』に感謝している。
そして「物語の力」を感じずには
いられない。
この世界から「物語」がなくなった
ら、なにもなくなってしまうのでは
ないかと思うほどだ。
後日、ぼくは、首都ディリの繁華街
(人はいなかったけれど)で展開さ
れる銃撃戦の只中(眼の前)に、
置かれる。
あの「荒涼とした風景」が、
再び、ぼくの心をむしばんでいく。
東ティモールを退避し、日本に戻っ
ても、銃弾の音と、その「荒涼と
した風景」が、ぼくの頭と心に
棲みつくことになった。
そんな折、
ぼくは、仕事帰りに、東京の渋谷に
ある本屋さんに、毎晩のように立ち
寄ることになった。
哲学者のミッシェル・フーコーが、
多くの書物が並ぶ図書館を、
人間の幻想がすみつく場所と感じて
いたことにつながるように、
ぼくにとっては、本屋さんは、
人間が創り出した「物語たち」が、
いっぱいに溢れている空間である。
その空間が、当時のぼくを、深い
ところで癒してくれたのだ。
だから、ぼくは今日も、「物語」を
読み、「物語」を観て、「物語」を
聴く。
そして、自らも、「希望の物語」を
抱き、そして書きたいと思う。
「高品質コーヒー」で、「幸せ」をつなげる。- 東ティモールのコーヒープロジェクトに賭けられた「思い」。
ぼくは2003年から2007年まで東ティモールに住み、国際NGOの駐在員として、コーヒーのプロジェクトにかかわってきた。...Read On.
ぼくは2003年から2007年まで
東ティモールに住み、国際NGOの
駐在員として、コーヒーの
プロジェクトにかかわってきた。
そのプロジェクトで賭けられた
ものは、「コーヒーの品質」で
あった。
そこに賭けられた「思い」など
を、ここでは書こうと思う。
コーヒーの「美味しさ」は、
都会に住む人たちにとっては、
・コーヒー豆の焙煎(具合)
・飲み方(カプチーノ、ラテ等)
・トッピング
・カフェの雰囲気
などかもしれない。
しかし、そもそものところでは
「コーヒー豆」そのものの品質が、
決め手でもある。
豆の品質が悪くても、
焙煎の仕方、ミルク、トッピング、
カフェの雰囲気などで、ある程度、
品質はカバーされてしまう。
香港で飲むコーヒーは、
そのような状況に置かれている。
最近でこそ、少しづつ豆の品質に
こだわりが出てきているところも
あるが、まだまだだ。
(香港のコーヒー事情については
以前ブログで概要を書いた。)
それは例えば料理とも同じである。
素材の品質の低さは、味付けや盛り
付けなどによって、ある程度まで
カバーされてしまう。
あらゆる料理は素材が大切である
ことと同じに、コーヒー豆そのもの
の「品質」が美味しさをつくる。
ぼくが東ティモールに住み、
国際NGOの駐在員として関わった
コーヒーのプロジェクトは、
「コーヒーの品質」、
そしてその先にある「幸せ」に賭け
られたプロジェクトであった。
1)背景
インドネシアからの独立を果たした
東ティモール。
天然資源を除くと、輸出品としては
コーヒーが大半を占めるほどであっ
た。
ただし、精製され輸出されるコーヒ
ーの品質は低く、比較的低い価格で
売られていく。
良質のアラビカ種がより自然に残っ
ているけれども、
世界で50カ国以上がコーヒー生産
をしている中で、
「品質も価格も低い」コーヒーは
競争力がない。
これを「転回」させるのは、
「コーヒーの高品質化」である。
もともと良質なのだから、
「東ティモールコーヒー」として
世界でも戦っていける。
でも、そのためには、
「やること」がたくさんある。
2)「品質を上げる」ために。
「品質を上げる」ために、大きく
二つのことを行った。
①「コーヒー精製」(および輸出
までのプロセス)を、コーヒー生産
者たちが独自に行うこと。
②「コーヒー精製技術」を上げる
こと。
①は、それまで、コーヒー生産者
たちは、主に「コーヒーのチェリー」
(コーヒーの木から採取したばかり
の果肉がついた状態のもの)を
業者に販売していた。
つまり、独自に精製をせず、その日
に採取したチェリーを袋につめて
その状態で売っていたのだ。
そこで起きる問題は大きく2つある。
第一に、
販売された(業者が買い取った)
チェリーの中に、未完熟のものや、
熟しすぎたものが混じってしまって
いた。
第二に、
買い取った業者はそのチェリーを
機械が設置された精製所に運び、
果肉をとり、豆を乾燥させると
いった精製プロセスにかけていく。
しかし、往々にして、そのプロセス
の管理が行き届いておらず、品質が
下がってしまう。
それから、②「コーヒー精製技術」
については、すでにコーヒーの一部
を独自に精製して他業者に売っていた
コーヒー生産者もいたが、技術力およ
び精製する機材の不足などが問題で、
結果として品質の低いコーヒーになっ
てしまっていた。
だから、これら①と②を実践すること
で、品質を上げ、東ティモールコーヒ
ーのブランド力もあがり、そして
何よりも、高く売れたコーヒーは、
コーヒー生産者たちにより大きな収入
をもたらしてくれる。
2003年当時の東ティモールの一人
当たりGDPは、年間で見て、400US
ドル台であったから、何としてでも
「道」を見つけたいところであった。
3)「幸せ」をつなげること
プロジェクトにかかわった人たち
皆が、ほんとうに注力した。
コーヒー生産者たち、サポートをした
NGOチーム、コーヒー専門家の方々、
などなど。
皆が、品質に賭け、その先にある
「幸せ」を確かに信じていた
(また徐々に信じていった)のだと、
ぼくは思う。
コーヒーの品質を通じて、
そこでは「幸せ」がつなげられて
いったのだ。
「美味しいコーヒーを飲む幸せ」と
「コーヒーが高い価格で売れる幸せ」。
途上国の「貧しい人たち」を助ける
ために、ということで飲むコーヒーで
はなく、ほんとうに美味しいコーヒー
を飲む幸せ。
高品質のコーヒーを誇りをもって
つくり、高い価格で売ることができ、
収入が増え、生活改善につながる幸せ。
それは、「自己犠牲」ではない仕方で、
関係をつくっていくこと。
また、ビジネス的に言えば、
「Win-Win」の関係を築くことであった。
別の見方では、
「消費者と生産者」との関係(の豊かさ)
をつくると同時に、
「先進国と途上国」との関係(の豊かさ)
をつくる、ことであった。
たとえ、それが世界的には、とても小さな
規模での実践であったとしても。
さらには、
「人と人との関係」、そして
「人と自然の関係」をつくってきた。
自然に近い形でコーヒーの木たちが
実りを与えてくれる環境であった。
それが、使い古された言葉でいえば
「持続可能な(sustainable)」
ということである。
しかし、内実をともなった言葉である。
コーヒーの品質に賭けられた
「持続可能性」は、
ぼくが東ティモールを去った2007年
以降も、プロジェクト・事業の発展を
もたらしてきたとのことである。
今では、首都ディリに「カフェ」を
もつまでになっているという。
早朝に、香港の海岸通りを歩いて
いたら、東ティモール人の元同僚から
メッセージがぼくに届く。
やりとりの末に、
「また東ティモールに来てください」
と、彼はメッセージをぼくに届けて
くれる。
ぼくは将来、再び東ティモールを訪れ
るときのことを想像する。
2007年2月、ぼくが3年半の滞在を
終えて東ティモールを去るとき、
数百人もの村の人たちとスタッフが
集まり、笑顔で、ぼくを送り出して
くれた。
その人たちに、ぼくはどんな姿で、
どんな笑顔で、再び会うことができる
だろうか。
みんなの成長に負けない成長を、
ぼくはしてきただろうか。
そんなことを思いながら、ぼくは
東ティモールに「新たな思い」を馳せる。