身体の記憶として残っている「黙考」。- 小さいころに、学校で教わっていたこと。
ぼくが小さかった頃、学校(小学校か中学校かと記憶が定かではないけれど中学校のように思う)で「黙考」という時間が日課のひとつとして、(おそらく)毎日とられていた。
ぼくが小さかった頃、学校(小学校か中学校かと記憶が定かではないけれど中学校のように思う)で「黙考」という時間が日課のひとつとして、(おそらく)毎日とられていた。
「黙考」とは、字のごとく、「黙って考える」ことである。
確か、給食による昼食、お昼休み、掃除の時間が終わって、午後のクラスに入る直前だったと思うけれど、1分ほどの時間、目を閉じて「黙って考える」時間が、やってくる。
ぼくの記憶では、黙考の時間は、スピーカーから何らかの音色が流れていたように思う。
放送が入り、席に着席し、目を閉じ、音色にあわせて「黙考」する。
普通の公立の学校で、そんな具合に、「黙考」のための時間がとられていた。
当時は「何も考えない」というように指示を受けていたようにも、ぼくは記憶している。
けれども、「何も考えない」ということは、やってみるとわかるけれど、至難の技である。
美術家の横尾忠則は、かつて「坐禅」の世界にどっぶりと入っていた時期に、浜松市(ぼくの生まれ故郷である)の竜泉寺での「坐禅修行」の体験を、次のように書いている。
…「何も考えない」ことに徹しようとする。ところが何も考えないということは不可能なのである。意識がある限りぼくの心は動く。心が動くことは当たり前である。
この心の動きがぼくの本姓なのだ。生きているから心が動いているのであると、また自分にいいきかせる。
横尾忠則『わが坐禅修行記』角川文庫、2002年(原著:1978年)
横尾忠則は当時30歳頃の体験であったのとは異なり、ぼくは自我意識の形成途上のような成長段階であったけれど、ぼくも、横尾忠則と同じように、「何も考えない」ことはできずに、ただ心の動きを感じ、心の落ち着きの方へと方向性を変えていた。
それにしても、毎日の日課のうち、この「黙考」を、ぼくは身体で覚えている。
多くのことを覚えていないなかで、しかし、「黙考」のことは覚えている。
当時は目的なんかは考えずに、ただ、学校の日課にしたがっていただけのことであるけれど、30年ほど経過しても、まだ覚えているから、不思議なものである。
気がつけば、現代においては、米国を中心としてメディテーションやマインドフルネスが見直され、仕事の合間、個人の日課、米国の学校教育などにもりこまれている。
異なる文化に生きる人たちがじぶんたちとは異なる文化の事象に光をあてる。
その光に逆照射されるようにして、ぼくはじぶんの生きてきた文化を見かえしてみる。
そしてぼくも、仕事の合間に、あるいはふとしたときに「黙考」を、今でも、生活にとりいれている。
そのような体験・経験をもとに、以前であればまったく目にも入ってこなかったような著作『わが坐禅修行記』を手にして、そこに聴こえてくる横尾忠則の息づかいに耳を澄ましたりしている。
「五感の序列性」と、生きること。- 仏教の五根、ブリューゲルの5枚連作「五感」。
よりよく生きていくことにおいて、人間の「五感」の問題はとても大きな問題としてあるように、ぼくは思う。
よりよく生きていくことにおいて、人間の「五感」の問題はとても大きな問題としてあるように、ぼくは思う。
真木悠介は、「近代」のあとの世界と生き方を構想するなかで、この問題にふれている。
「われわれの文明はまずなによりも目の文明」であると真木悠介は述べながら、人間における<目の独裁>から感覚を解き放つことで、「世界」は違った仕方でぼくたちに現れることについて、書いている。
…<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと。世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。
人間における<目の独裁>の確立は根拠のないことではない。目は独得の卓越性をもった器官だ。
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫
<目の独裁>の根拠にかかわる例として、真木悠介は「仏教における五根」の序列性を挙げている。
仏教では五根を「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」というようにならべるように、この配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が、確かに、自然であるように思われる。
このことを西洋美術史を専門で学んでいる友人に伝えたら、この「五感の序列性」(「視覚」の至高性)が、西洋の思想にもあることを教えてくれた。
事例として教えてくれたのは、17世紀の絵画における、ブリューゲルの「五感」という5枚連作。
これら5枚のすべての絵画作品において、背景に庭があり、建物のなかに女性とキューピッドがいる。
おもしろいのは、それぞれの作品に五感のアレゴリーが散りばめられていること(例えば、絵のなかに描かれる「絵画」=視覚)、また、例えば、「触覚」では廃墟がみえるなど、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の序列性が見てとれることである。
また、五感と「対象との距離」という視点からもこれら5枚連作が読みとれるということに、ぼくは心地のよい驚きを覚えた。
真木悠介は、五感と「対象との距離」について、配列(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)は、「対象を知覚するにあたって主体自身が変わることの最も少なくてよい順」だろうと書いている。
「身」による認識においては、「知ること」と「生きること」がほとんど未分化なのに対し、「視覚」においては、<生きること>と<知ること>の乖離が最大化することを、真木悠介は指摘している。
そのことは、視覚優位の現代社会では、<知ること>とから<生きること>への道のりを、ぼくたちは心してあるいていくことを示してもいる。
ぼくが「五感」ということを客観視して見るようになった契機は、アジアへ旅するようになってからであった。
船や飛行機を降りたときに、日本とはあきらかに異なるにおいが嗅覚を刺激し、街や通りなどの異なる音たちに身体がさらされる。
そのような体験であった。
近年の「情報テクノロジー」の発展は、ぼくたちの五感をさらに「視覚」へとおしこめてしまうような磁場をもっている。
松岡正剛は、ブログ「千夜千冊」でデリック・ドゥ・ケルコフ『ポスト・メディア論』にふれながら、「知覚とメディアの関係」という問題に直球のボールを投げ込んでいる。
直球のボールは、さまざまな人たちによって、さまざまな企ての形でも投げ込まれている。
ドイツを発祥の地とする「Dialogue in the Dark」は、ここ香港でもあるけれど、<目の独裁>をふつうには得られない次元の「暗闇」によってくずすことで、ぼくたちに気づきの体験を与えてくれる。
真木悠介が40年前に「<目の独裁>からすべての感覚を解き放つこと」と提示した生き方の作法は、今もなお(あるいは今だからこそ)、ぼくたちの「生き方の道具箱」のひとつにおさめておくことができる。
<透明>にみちびかれていく生。- 佐藤初女(「森のイスキア」主宰)の生き方にふれて。
悩みを抱えた人たちを手料理でもてなす場、「森のイスキア」を主宰し、2016年に94歳で他界した佐藤初女(さとうはつめ)。
悩みを抱えた人たちを手料理でもてなす場、「森のイスキア」を主宰し、2016年に94歳で他界した佐藤初女(さとうはつめ)。
訪れた人たちが、食事がおいしいと感じるなかで、胸につかえているものもはきだし、「答え」を見出しながら元気になっていったという。
佐藤初女の著作『限りなく透明に凛として生きる』(ダイヤモンド社)の書名にあるように、彼女が追い求め、生きることのイメージとしてもちつづけてきたのが、「透明である」ということである。
「森のイスキア」の外にひろがる葉が透明に光るように、佐藤初女も<透明>になって生きたいと思ってきたという。
なぜ<透明であること>が大切かということについて、佐藤初女は次のように書いている。
…透明でなければ“真実”が見出せないからです。
自分が透明になって物事を見ていると、真実が見えてくる。濁っていると、真実が見えず、迷って事が解決しないのです。…
だからこそ、ただ生活して生きていくのではなく、自分も素直になって透き通って見えるような生活をしたい。…
佐藤初女『限りなく透明に凛として生きる』ダイヤモンド社、2015年
佐藤初女にとって<透明であること>は、彼女が書いているとおり、まずもって、じぶん自身が透明であることである。
じぶんが透明であることによって、他者をうけいれ、他者にひらかれる。
佐藤初女はそのようにして、<透明であること>を追い求め、生きてきた。
「透明」という言葉は、もともと、料理をしているときに出てきたという。
緑の野菜をお湯の中でゆがくとき、これまでの緑よりもいっそう鮮やかな緑に輝く瞬間があります。この一瞬を逃さず野菜をお湯から引き上げて冷やして食べると、おいしい。
野菜のいのちがわたしたちの体に入り、生涯一緒に生き続ける、これを“いのちのうつしかえ”と呼んでいますが、このとき野菜の茎を切ってみると透明になっている。
佐藤初女『限りなく透明に凛として生きる』ダイヤモンド社、2015年
この描写はとても鮮烈だ。
この「野菜のいのち」を視ることのできる視力は、佐藤初女自身が<透明であること>ではじめて手に入れることのできる視力である。
佐藤初女は「すべての食材にいのちがある」と考えているが、いのちを「奪う」ものとしての人間という視座をとらず、(食材の)<いのちを生かす>方向へと視座を転回している。
「食べること」が食物連鎖という世界でのいのちの奪い合いではなく、いのちの生かし合いというように乗り越えていこうとした宮沢賢治を、ぼくは思い起こす。
「野菜のいのち」の透明さということを、ぼくは幼稚園のときに、この身体で感じたことを、その感覚として今でも覚えている。
幼稚園の菜園で育った「きゅうり」を収穫し、その場で輪切りにして、少しの塩をつけて食べる。
その「おいしさ」が、今でも、ぼくのおいしさの感覚の<基準>のようなものとして、この身体に生きている。
それは、佐藤初女にとってみれば、<いのちのうつしかえ>ということだと、ぼくは自身の体験をそこに重ね合わせる。
心理学者・心理療法家であった河合隼雄が「森のイスキア」に宿泊したときの話が、この著書には出てくる。
河合隼雄は部屋の中をぶらぶらと歩き、何だろうなと言いつつ、ふと、「信仰かな…そこがふつうのところと違う」と言ったという。
佐藤初女にとってキリスト教への信仰は生きる指針であり、河合隼雄の発言をうれしく思ったことが書かれている。
しかし、佐藤初女の<透明な生き方>をつやぬいているものは、いわゆる制度的な「宗教」というものを深いところで超えていくような、まるで古代の人たちが太陽に向かって自然と手を合わせてしまうような、そのような原的な<信仰>であるように、ぼくには見える。
その<信仰>は、人だけではなく、自然を含めたいのちというものへの畏怖と信頼に支えられている。
「水のおいしさ」を身体でわかるまで。- デフォルト社会から出て「水」との関係をかえる。
「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。今思えば、この問いは奇妙な問いである。
「水を飲む」ということが、ぼくにとって、当たり前になったのはいつであったろうか。
今思えば、この問いは奇妙な問いである。
今では、とても大切なこととして、水を飲んでいる。
常温の水、あるいは冬であれば温めた水を飲む。
冷たい水を飲むことはほとんどない。
「喉がかわいたから」という理由以上に、生きるということそのものであるような仕方で、水を飲む。
グラスに注いだ水をあじわいながら、そして感謝しながら、ぼくは身体のすみずみを潤すように水を飲む。
ぼくが子供の頃、「飲み物」は、麦茶であったり、緑茶であったり、スポーツドリンクであったり、ジュースであった。
もちろん学校の休憩時間では、蛇口をひねって水を飲んだし、外食時には氷のいっぱいにはいった水も飲んだ。
でも、水それ自体は「脇役」のような立ち位置にあった。
10代の終わりから、海外を旅するようになって、「水」とぼくの関係は変わりはじめる。
アジアを旅している間、もちろん、「水」は蛇口からそのまま飲むことはできない。
「水」は買わなければいけない。
ニュージーランドに住んでいたときは、蛇口の水がそのまま飲めたけれど、ぼくはキャンプをしながら、「水」のありがたさを身体にきざんでいく。
20代からは、アフリカやアジアの蛇口のないところで、仕事をする。
「水」そのものの確保がむずかしい地域で、水を確保し、水を使い、水を飲む。
おそらく、そのころから、ぼくは水を「常温」で飲むようになったのだと記憶している。
氷は「贅沢品」でもある。
常温の水を飲み続ける内に、常温の水がぼくの身体に適合するようになっていく。
また、世界それぞれの場所で飲む「異なる水」は、ひとつひとつに個性あるあじわいを教えてくれ、ぼくの楽しみのひとつとなった。
水のひとつひとつの「個性」に出会う中で、いつしか、水にこだわるようになっていく。
高級な水というこだわりではなく、じぶんの<身体に合う水>へのこだわりである。
こうして、いつしか、「水」は、ぼくの生のなかで、脇役ではなく「主役」になる。
コーヒーも紅茶なども楽しむけれど、主役は「水」である。
水が主役の場におどりでるまでに、相当な年月がかかった。
ぼくにとっては、「デフォルトである社会」(当時の日本社会)を出て、水とぼくとの関係がかわっていくプロセスである。
「水」というものがその社会でおかれるポジションみたいなものがあって、ぼくは、デフォルト社会を出てみることで、そのポジションを確かめてゆくという道のりを通過することになった。
また、「水のおいしさ」を身体からあじわうまで、相当な年月がかかった。
なにはともあれ、ぼくは、今、こうして、おいしい水を飲むことができる。
「子供は親の注意の集まる方向に伸びる」(野口晴哉)。- 「大人の注意」にあけわたされた存在の「生活の手段」。
レストランで食事をしているとき、隣のテーブルの男の子(おそらく7歳前後)がぼくのいるテーブルの方向に向けて、水の入っているコップを倒した。
隣のテーブルの机にコップの水と氷がこぼれ、隣のテーブルとこちらのテーブルの間にも少し水がとびちった。
その男の子のお母さんが、たしなめるように、隣の席で子供に声をかけ、テーブルをふく。
しばらくして、その男の子は二つのテーブルの間を行き来し、向かいに座っている兄弟と思われる男の子のところに幾度も足を運ぶ。
ときおりこちらのテーブルと椅子にぶつかりそうになるから、ぼくはそのたびに注意を向けることになる。
ふと横を見ると、お母さんはスマートフォンの画面に目をおとしていた。
このような場面に遭遇し、ぼくは整体の創始者と言われる野口晴哉の「教え」を思い出していた。
…「お客様の前で何です」と言ってたしなめ、子供の行為を抑える。これが、子供にもっと騒ぎたくなるように仕向けることになる。それはお客様がきている間は、子供の行動にお母さんの全身の注意が向いているからです。
野口晴哉『潜在意識教育』全生社
勝手な解釈だけれど、レストランのテーブルで、男の子がぼくのいるテーブルの方向にコップをたおしたのは、お母さんの注意を集めるためである。
その行為により叱られようが、目的は注意を集めること。
その目的は達成されたわけである。
産まれてくるとき、人間はすぐに歩けるわけでもなく、生きることを他者に完全に委ねる。
野口晴哉は次のように書いている。
子供は元来大人の注意によって生活している。自分で生活してゆく力を持たない赤ちゃんの状態で産まれてくるというのは、大人の注意によらなければ育たないということである。だから子供が親の注意を得ようとするのは、大人のようなお化粧ではなくて生活の手段である。子供は頭で感じる以前に体で感じている。注意が少なければすぐに空虚を感じる。お客様が来た時に騒げばお母さんの注意が集中するが、おとなしいと注意が集まらないとなれば、子供は騒がずにはいられない。…
野口晴哉『潜在意識教育』全生社
子供が親の注意を得ようとすることは「生活の手段」であると、野口は書いている。
養老孟司が言っているように、都市は「脳化=社会」であり、頭で作られた場所である。
子供はその中での「自然」でもある。
「頭で感じる以前に体で感じる」ものとしての子供たち。
そして、野口も書いているように、大人も、「我ここにあり」と、人の注意を喚起するような方法をいろいろに発明する。
こんな風な「視点」で見ると、ぼくたちの「周りの風景」は、違ったように見えてくる。
「ゴールのわからない未知のトラックを走る」。- 内田樹『修業論』の強力な重力に引かれて。
「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。...Read On.
「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」という修業について、思想家・武道家の内田樹は「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなものだと、著書『修業論』(光文社新書)のなかで述べている。
自身の合気道の修業を身体的なベースとしながら、「修業ということ」の本質を丁寧にさぐっている。
…走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。
そのつどのトラックは、それぞれ長さも感触も違う。そもそもを「どこに向かう」かが違う。はっと気がつくと、誰もない場所を一人で走っている。…
内田樹『修業論』光文社新書
修業というものは、そのような「未知」を走る。
しかし、以前からよく言われるように、「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」と頭ごなしに言われると、若い人たちは耳を貸さない。
内田樹は、このようなふるまいを、「消費者」という視点を導入して、語っている。
消費者が商品を見定めるときに例えば「何の役に立つのか?」ということを聞いたとして、その問いに対し(修業のように)「使ってみればわかる」と答えるような売り手はいない。
使い道がわからない商品はこの世に存在しない。とりあえず、今の子どもたちはみなそう信じています。現に、家庭でも学校でも、あらゆる機会において、子どもたちは何かするときに「これをするとこれこれこういう『善いこと』がある」という説明を受けて利益誘導されています。
内田樹『修業論』光文社新書
「利益誘導」ということは、内田樹も説明しているように、「努力のインセンティブ」を与えていくことである。
前述のように消費者的な視点を引き入れると、努力をすると「商品」が得られるというプロセスなのだが、修業とはそのようなものではない。
「ゴールのわからない未知のトラックを走る」ようなもので、あらかじめ、明確なゴールが示されるものではない。
ゴールは、「あれはそういうことだったのか」という事後の気づきという形で、語られる。
そういうものだ。
著書『修業論』は、そのようなことがわからない「子ども」に対して書かれた本である。
しかし、内田樹が展開していく論理は、この「まえがき」の導入から本文に入っていくなかで、一気にその論が先鋭化されていく。
「無敵とはなにか、天下無敵とはどういうことか」など、修業というものの本質が持つ強力な磁場に引かれるようにして、論は深くきりこんでゆく。
その強力な重力に、ぼくは一気に引っぱられている。
そのようにして、「ゴールのわからない未知のトラック」を、ぼくはただただ走り続けている。
香港で、波が打ち寄せる「音」で、耳がひらかれる。- 波音が送ってくれた<小さなアラート>。
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。...Read On.
予期せぬところから、波が打ち寄せる「音」が聞こえてくる。
人工的につくられた海岸通りをゆっくり走り、立ち止まったときのことであった。
積み上げられた巨大な石たちに、小さな波がぶつかる音だった。
よく来る場所であったけれど、これまでは、ぼくの耳には聞こえていなかったようだ。
それは、とても新鮮な響きであった。
ある種のリズムがありながら、しかし、波が石たちにぶつかり散開する音は一定ではない。
家で蛇口をひねって出てくる水の「一定の音」とは異なり、そこには、自由に散開する響きがあった。
その異なりに、新鮮な驚きを覚え、心が動かされた。
10年以上前に、東ティモールの海岸線で聴いていた波の音が思い出された。
思想家の内田樹は、「自然が教えてくれるもの」という問いにたいして、定型的ではない私見を提示している。
…自然から子どもが学ぶ最大のものは私見によれば「時間」である。…
都会にいるときに不快を減じるために時間をできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
私たちが雲を観て飽きることがないのは、…それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、階調があり、秩序があることを感知するからである。…
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、…すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
自然に沈潜するというのは「そういうこと」である。
内田樹『態度が悪くてすみませんー内なる「他者」との出会い』角川oneテーマ21
都会の子どもたちは、管理された閉鎖空間の中で「時間意識」を損なっていくことに触れながら、内田樹は、「万象を『音楽』として聴くこと」へと誘う自然の中での生活を語っている。
波が打ち寄せる音と小さな波が散開する動きに、ぼくは「時間」の流れを賞味し、そして「音楽」を聴き取っていたということになる。
その瞬間に、五感はいつもとは違う仕方で、ふと、ひらかれたのだろう。
意識的にケアしないと、都会的な空間のなかで感覚が減じられ損なわれていってしまうことを、あらためてぼくに感じさせる。
感覚が減じられ損なわれた身体は、他者の声にならない声、メッセージにならないメッセージをうまく聴き取れない。
香港で、人工的な海岸の石たちに寄せる小さな波音は、そのような<小さなアラート alart>を、ぼくに送ってくれた。
言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」(養老孟司)。- ヒトと社会の底流にながれる「同じ」という意識の機能。
養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。...Read On.
養老孟司の著書『遺言』(新潮新書、2017年)は、シンプルな記述と意味合いの深さの共演(響宴)にみちた本である。
分類の仕様のない本であるけれど、「人間」にむけられた深い洞察に、思考の芽を点火させられる。
本それ自体については、また別途書きたいと思う。
養老孟司の思考の照準のひとつが、「同じ」ということにあてられる。
第3章は「ヒトはなぜイコールを理解したのか」と題され、「当たり前」の覆いを取り、思考をそそいでいる。
この思考のプロセスがスリリングであるが、「結論」だけを、ここの箇所から取り出しておく。
…動物もヒトも同じように意識を持っている。ただしヒトの意識だけが「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出したのである。
養老孟司『遺言』新潮新書、2017年
「同じ」という機能が言葉を生み出したと、養老孟司はいう。
通常、ふつうにかんがえても、このつながりはよくわからない。
「意識と感覚の衝突」という項目でプラトン(養老孟司はプラトンのことを「史上最初の唯脳論者」と呼ぶ)にまでさかのぼりながら、「乱暴なこと」と認識しながら、次のように、「言葉」について語る。
…いうというのは、言葉を使うことであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。マス・メディアが発達するのも、ネットが流行するのも、結局はそれであろう。グーグルの根本もそれである。われわれはひたすら「ネッ、同じだろ」を繰り返す。なぜなら言葉が通じるということは、同じことを思っているということだからである。動物はたぶんそんな変なことはしていないのである。
養老孟司『遺言』新潮新書、2017年
言葉は現実を裏切る、などとよくいわれる。
言葉は物事を「言い尽くせない」のは本来は通常のことであり、人間は「同じ」という意識の機能、その産出物である「言葉」で、言い尽くせないものを名付け、「同じ」ものとして集団で認識していく。
養老孟司の思考はさらに「科学」的にきりこんでゆき、「同じ」はどこから来たか、と問うていく。
脳の構造と機能にその起源をもとめていき、ヒトの脳の「大脳新皮質」の進化に目をつける。
ヒトの脳の特徴は大脳皮質(特に新皮質)が肥大化したことにあるという。
情報処理の機能である。
視覚の一次中枢から聴覚の一次中枢までを、皮質という二次元の膜の中で追ってみよう。視覚、聴覚の情報処理が一次、二次、三次中枢というふうに、皮質という膜を波のように広がっていくとすると、どこかで視覚と聴覚の情報処理がぶつかってしまうはずである。そこに言葉が発生する。
なぜか。言葉は視覚的でも聴覚的でも、「まったく同じ」だからである。というより、ヒトはそれを「同じにしようとする」。…
つまり目からの文字を通した情報処理も、耳からの音声を通した情報処理も、言葉としてはまったく「同じ」になる。
養老孟司『遺言』新潮新書、2017年
この意味において、言葉は「目と耳とを同じだとするはたらき」である。
言葉というものの「強さ」と同時に、言葉がよってたつところの基盤の「危うさ」を思わせる。
「考えるということ」は「分けること」でもあると、ぼくはかんがえる。
あるものを、論理で分けながら、綿密に「分」析していく。
養老孟司の思考をここに注入するとするのであれば、「同じ」という土台の基盤において、できるかぎり「違い」において分けていく、ということであろうか。
別の「同じ」という機能の言葉を使って。
それは、この本の主題のひとつ、「科学とは?」ということとも繋がってくるということに、この文章を書きながら、ぼくは気づく。
暦・時間にとりこまれず、味方につける。- 世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で。
カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。...Read On.
カレンダーが12月になり、2017年という年は1ヶ月という「時間」を有している。
そんなあたりまえのことを思いながら、ぼくは、日本、ニュージーランド、西アフリカのシエラレオネ、東ティモール、それからここ香港と、世界で住まいの拠点を変えていく過程で、「暦・時間」の感覚が一層、じぶんの中で相対化されてきたことを、思う。
日本に暮らしていたときには、すっぽりと「日本的な暦・時間」の中にじぶんがおさまっていて、日本的な風習・行事を生活の区切りとしながら、そのような「暦・時間の構造」の中で生きていた。
お正月があり、4月の入学・入社・新しい会計年度のスタートがあり、お盆があり、年末がありという具合だ。
ひとたび海外に出てみて、その「時間の構造」が相対化されていく。
ここ香港では新年は「旧正月」を祝うことから、1月1日ではなく、旧暦にしたがい毎年日にちが変動する「旧正月」が生活や仕事の流れの中に、ぐいっと、はいりこんでくることになる。
シエラレオネや東ティモールなどでは、祝日の中には宗教的な日が選ばれたりすることから、生活の区切りも異なる。
シエラレオネや東ティモールにおいて国際NGOや国際機関で勤務している人たちは、それぞれ自身の「時間の構造」の中で動くから、日本にいたときのようにみんなが一斉に休むというより、それぞれの風習や文化に沿った暦・時間に沿って休暇をとったりする。
このような環境に長く身をおいていると、それまでの「日本的な暦・時間」の考えが相対化され、その感覚も解凍されていく。
そして、それでも「西暦」というものがひとまず、(お金という概念と同じように)世界の「協働連関」をつなげるものとして屹立していることに、驚きと感嘆をいだくことになる。
「相対化」されていくことで得たものと言えば、「暦・時間」はやはり人間がつくりだしたものだということの、実感である。
日本で暮らしていたときには、そのようなことは頭ではわかっていたのかもしれないけれど、「暦・時間」は絶対的なものとしてそこにあるように感覚されていたのだと、思う。
その実感を手にいれながら、ぼくは、「暦・時間」をあくまでもツールとして、ぼくの「味方」につけることへと方向転換をしてきた。
絶対的なものとしてじぶんに迫ってくる「暦・時間」ではなくて(もちろん「締め切りがせまってくる」ような状況はあるけれど)、ぼくの生活を豊饒化させていく手段として活用していくことである。
まったく自分勝手だけれど、いわゆる「新年」(1月1日)までにできなかったことは、「旧正月」をターゲットにして動く。
「Procrastination(先延ばし)」と言われればその通りなのだけれど、これは、あくまでもひとつの例として。
暦・時間に支配されることなく、逆に活用していくこと。
世界をつなげる協働連関のための「暦・時間」の「ありがたさ」をたしかめながら、しかし、じぶんの中や大切な他者たちとの間に流れる<時間>も取り戻し、生きてゆくこと。
外的な時間(「暦・時間」)と内的な時間(「じぶんの中や他者たちとの間に流れる<時間>」)を、それぞれに豊饒に生きてゆくこと。
世界を移動しながら相対化されてゆく「暦・時間」の中で、ぼくが実感として獲得してきたことである。
それでも、ますます加速していく世界の中で、外的な時間は気がつけば、圧倒的な力でもって、ぼくたちの内的な時間に侵食してしまう。
その侵食をのりこえていくところに、今のところ、ぼくたちの生き方のスタイルと工夫がかけられている。
心と身体にせまってくる、相田みつをの言葉たち。- 一時帰国したときに立ち寄った「相田みつを美術館」で。
2010年のとき、ぼくは香港に暮らしていて(今も香港だけれど)、日本に一時帰国することになった。...Read On.
2010年のとき、ぼくは香港に暮らしていて(今も香港だけれど)、日本に一時帰国することになった。
その頃は日本に行く機会は、年に1回ほどであった。
人が生きていく上で直面しなければならないことに、ぼくは相当にまいっていて、「世界の風景」が違ってみえるほどであった。
そんな折に、たまたま東京国際フォーラムの近くを通って、「相田みつを美術館」がひらかれているのを見つけた。
美術館のオープンは2003年11月。
ちょうどぼくが西アフリカのシエラレオネから東ティモールに移って、最初のコーヒー輸出を終えたころということで、ぼくはあまり東京に帰ってくる機会がなく、美術館のオープンは知らなかった。
それまでも「相田みつを」のことは知っていたし、数点の作品を見ただけで魅かれてもいたけれど、通常であれば美術館の行くほどの気持ちは起きなかっただろう。
しかし、2010年のその時は、なぜか、「相田みつを」に魅かれ、空白の時間ができたこともあり、ぼくはひとり、「相田みつを美術館」の空間に入っていった。
ぼくは、そこで出逢う、相田みつをの言葉たち、言葉とその筆使いに圧倒されることになる。
原作の数々の言葉たちが、心と身体にせまってくる。
「詩」という、言葉の地平線にむかって放たれて書かれる言葉たち。
書かれた言葉たちが、深く、身体的なのだ。
ぼくは、言葉ひとつひとつの「筆づかい、筆致」に、心身をかさねあわせていく。
ぐーーっと、言葉たちがちかづいてきては、じぶんのなかで、何かが解凍される。
当時のぼくを、深いところでささえてくれるような、言葉たちであった。
しあわせは
いつも
じぶんの
こころが
きめる
相田みつを(相田みつを美術館)*写真はブログ筆者(美術館で手に入れたもの)
このシンプルな言葉だけでも、ぼくたちに伝わってくるものがあるけれど、筆づかいは「相田みつを」という人をとおして、ぼくたちをさらなる深いところに導いてくれる。
「しあわせ」ということを、相田みつをは、どのように考え、感じていたのだろう。
ここでは「じぶんのこころがきめる」としている。
「じぶん」と「こころが」の筆致が、「しあわせ」に増して、圧倒的にちからづよく書かれ、せまってくる。
相田みつをにとって、「しあわせ」は、二の次だったのではないかと、ぼくには見える。
「しあわせ」を大切にしていないわけではない。
「じぶん」と「こころ」に、徹底的にむきあってきたからこそ、変幻自在の「しあわせ」はこの筆致で書かれたように、思う。
相田みつをの言葉たちと筆づかいを心身で感じながら、ぼくが見ているのは、ぼく自身の「じぶん」と「こころ」でもある。
相田みつをのまなざしは、この言葉たちをみている人たちの「じぶん」と「こころ」にも、向けられている。
相田みつをはそこに立ちながら、ぼくたちに問う。
あなたの「じぶん」と「こころ」はいかがか、と。
「如何なる教育も健康を損なうようなら間違っている」(野口晴哉)- 今だからこその、野口晴哉著『潜在意識教育』。
野口晴哉の著作の中に『潜在意識教育』(全生社、1966年)という著作がある。体癖研究や整体指導につくす野口晴哉が、専門外でありながらと断りつつも、4人の子供たちの親として語る本である。...Read On.
野口晴哉の著作の中に『潜在意識教育』(全生社、1966年)という著作がある。
体癖研究や整体指導につくす野口晴哉が、専門外でありながらと断りつつも、4人の子供たちの親として語る本である。
著作の最初に「潜在意識教育について」という文章がおかれ、直截的な言葉が置かれている。
「如何なる教育も健康を損なうようなら間違っている」
とてもシンプルな結論でありながら、この現代社会の中では「むつかしい」ことでもある。
「潜在意識教育」と聞いて、現代の人たちはもとより、当時においても「心の問題」のようなものとして語られるだろうことを想定して、野口晴哉ははじめにストレートに書いている。
…潜在意識教育というものも、心の問題として考えているのではなくて、私自身が体の整理ということを仕事にしているので、潜在意識教育も、体の整理のための手段と言うか、その通り道として扱っている。べつだん心のための心の教育とか、今日の社会に必要な人間の教育とかいうことを考えているわけではない。ただ人間の体が健康であり元気であるためには、どのように心を使って行ったらよいか、どういう心の使い方が人間の健康と関連し、人間が丈夫になるのかということが問題であって、私の説くことが今の社会に合うか合わないかは、まだ検討していないのである。
野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)
野口晴哉ならではの「切り口」で、潜在意識や教育にきりこみ、その教えの基本の深さから、野口晴哉の他の著作群と同じように「分類不能の書」(見田宗介)となっている。
体の健康の話であり心の話であり、それから子供の話であり大人の話である。
子供や人間の「体」がおきざりにさられがちな現代の状況にあって、今だからこそ、ぼくたちに訴えてくる話にあふれている。
【目次】
序
潜在意識教育について
独立の時期
可能性の開拓
裡の自律性
内在する創造力
空想の活用
人間の自発的行為
価値の創造と価値観の変化
性と破壊の要求
思春期
潜在能力の開発
- 暗示からの解放
- 推理の能力を開拓する法
- 忘れるという記憶法
- あなたは自分の体の主人
- 予知本能か觀念死か
性格形成の時期
- 口のきけない時期
- 誕生以前
- 生後十三ヵ月間の問題
- 食べ過ぎの心理
質問に答えて
非行の生理
子供の「教育」の本でありながら、大人の「問題」にも光があてられる。
子供と親の「間」のことが語られながら、大人が抱えている体の問題に、まっすぐに野口の言葉が届いてくる。
ぼくは、自分が子供だったころのじぶんを重ね合わせながら、そこから今も引き継いでしまっているであろう「体」と潜在意識の問題を、野口の教えを導きに、みつめている。
ところで、「裡の自律性」という章で、野口晴哉は「躾(しつけ)」の問題に向き合っている。
その中でに、「人間の本性は善か悪か」という節がある。
人間の本性は悪いものだから躾が必要だという考え方と、人間の本性は善いものだから心にあるものを喚び出しさえすればいいのだという考え方の両極を見はるかしながら、野口晴哉は躊躇することなく、「本来の人間の心は善である」と語る。
…何故かというと人間は集合動物で、お互いがなくてはお互いに生きられない。そういう構造をしているのだから、いつでも相手の心を我が心とする心が誰の中にでもある。だから産まれる時に何故オギャーと言うかというと、人の助けを求めているのである。自分がここに産まれたという宣言である。人の世話にならなくては大きくなれないように産まれるということはおかしなことで、馬だって、象だって、産まれたらすぐに歩けるのに、人間だけは一年たってもなかなか歩けない。大人の保護を受けるようにできているということは、人間の心が善意であるということを意味している。だからこそ、赤ちゃんはそんな無用心な、保護を受けなければ育たないような格好で産まれてきている。もし善意がなかったら、誰も育ってはいない。お互いに生命を伸ばそうという心があるから、伸ばす相手も伸びてゆくことが嬉しい。…お互いの生命を扶け合うように、人間自体ができている。一人では生きられないようにできている。…
野口晴哉『潜在意識教育』(全生社、1966年)
野口晴哉の言葉には、曇りがない。
まっすぐに、人間の「善」を見つめている。
戦争の時代を生きてきた野口が、人の「闇」を知らないわけはない。
ただ、その体というところに降りたった時に、野口はそこに「善」をみるだけだ。
「人間が産まれる」ということの中に、人間や家族や社会ということの本質が詰まっている。
なお、赤ちゃんの「産まれ方」にかんする現代の動物社会学などの学問・科学的な知見は、野口晴哉のこの見方と同じ方向に議論を展開している。
野口晴哉の、この「分類不能の書」は、分類だけでなく、体ということに定位することで、分類だけでなく時代をものりこえてゆく力をもっている。
そのような力をもつ本と思想は、この本が出版されてから50年が経っても、まだ依然として語り尽くされていない。
「リーダーはむつかしいぞ」(野口三千三)。- 見田宗介の「リーダー」論。
人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。...Read On.
人間と社会を透徹した深さとどこまでもひろがる視界でよみとき、「人間はどう生きたらいいか、ほんとうに楽しく充実した生涯をすごすにはどうしたらいいか」を生きることのテーマとして追い求めてきた社会学者の見田宗介が「リーダー」をどのように考えるか。
ぼくが知るところ、それほどは、直接的に語られていない。
見田宗介がどのように「リーダー」を語るのかは興味深いところだ。
個人的に「リーダー」というものを見直しているなかで、そんなことを思う。
そのような折に、一息ついて見田宗介の著作集(『見田宗介著作集X』岩波書店)を手にとり、「春風万里ー野口晴哉ノート」という論考(講演)の文章を、ぼくは読む。
どんなにつかれているときでも、見田宗介(真木悠介)の文章を読んでいると、心身がときほぐされていく。
論考の最初の章は「春風万里ー技を修めて技を用いず」と題され、整体の創始者と言われる野口晴哉の『治療の書』という、「分類不能の書」にふれている。
その中で、見田宗介はエピソードのひとつを語っている。
東演という劇団の演出家が亡くなり、若い俳優の相沢治夫が劇団をひきつぐことになったときの、激励のパーティーでの話である。
パーティに出席していた野口三千三(「野口体操」の創始者。野口晴哉・野口整体とは別である)が、相沢治夫をそばに呼んで、次のようにささやくのを、見田宗介は隣席で耳にする。
「リーダーはむつかしいぞ。利口でだめ。馬鹿でだめ。中途半端はもっとだめ」
見田宗介は、「指導者となるべき人間の器を問う観察として、鋭く的確な表現」と、この論考(講演)の時点でも考えていることを伝えている。
見田宗介の「リーダー」論があるとすれば、とりあげられる言葉だ。
野口三千三の言葉は、見田宗介が言うように、的確でありながら、人を迷わせる。
利口はだめ、馬鹿はだめ、その中間もだめであるならば、リーダーはどのようであるのがよいのか、と。
見田宗介は、ここで論考のテーマである野口晴哉にもどる。
『治療の書』の冒頭に近い所に、このような一節がある。
技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。
技を修めて、技を技として振うのが利口の道である。技をはじめから修めないのが馬鹿の道である。技を修めて技を用いずという道は利口でも馬鹿でもないが、その中間ということでもない。人はこのような仕方で、利口とか馬鹿とかいう地平を越えて出ることができる。
見田宗介『見田宗介著作集X』岩波書店
野口三千三の言葉、野口晴哉の「技」にかんする到達点(通過点)、見田宗介による読み解きは、ぼくの中に思考の芽を点火する。
「技は振うべく修むるに非ず。用いざる為也。」
ぼくの中の思考の大海に、ぼくは言葉を投ずる。
しかし、観念だけの大海ではなく、体験や経験と重ね合う思考の大海だ。
野口晴哉や野口三千三や見田宗介といった「身体」から人や社会を考える、ほんとうの思想家たちと(ぼくの中で)議論を交わしながら。
「伝え授けることむづかしき也」(野口晴哉)。- 野口晴哉の「遺稿」の余白を読む。
「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。...Read On.
「じぶん」というものを相対化していけばいくほどに、ぼくは二人の実践家であり思想家に、ひかれていくように感じる。
整体の創始者と言われる野口晴哉、それから養老孟司。
二人の共通点は、自然としての「身体」への真摯なまなざしである。
養老孟司は80歳を迎え、著書『遺言』(新潮新書、2017年)を世に放ったばかりである。
『遺言』についてはまた取り上げたい本だけれど、最近、野口晴哉の文章のなかに、「我は去る也」という≪遺稿≫があるのを知った。
実を言うと、その≪遺稿≫が収められている著作『碧巌ところどころ』は読んでいたのだけれど、その著書の最後に置かれている≪遺稿≫を、ぼくは読むことなくやりすごしていたのだ。
野口晴哉の≪遺稿≫に目を向けさせてくれたのは、松岡正剛による野口晴哉『整体入門』の書評である。
松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」のなかに、野口の著作の書評があり、ぼくは松岡正剛に教えられたわけだ。
野口晴哉の遺稿は、昭和51年に書かれた。
野口晴哉がこの世を去った年だ。
「我は去る也」と書く野口晴哉が、実際にこの世を去ることを予感していたかは、ここの文章からはわからない。
「箱根に移る」と書かれているから、「我は去る」先は、ひとまず箱根であった。
世を去ることにしろ、箱根に移るにしろ、野口晴哉は「伝え授けることのむづかしさ」を深く深く感じながら、この遺稿を書いている。
我は去る也 誰にも会うこと無し
…
我は去る也 心伝え 技授け 今や残す可き何も無し
伝え授けることむづかしき也 我は授けしと思えど 何も会得せざる人多き也 我伝えしつもりなるに 十日あとには何も伝わりおらざりしを認めさせられること多き也 所詮 自ら会得せしこと以外に 伝え授けること出来ざる也 我が去るはこの為なり
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
伝え授けること、またそれを止めることの比喩として、野口は「空中に文字を画くこと ここで止める也 空中への放言も終える也」とも書いている。
伝え授けることのむづかしさは、空中に文字を画くようなもの、あるいは空中への放言のようなものだと、語られている。
あの野口晴哉でさえ、というか、野口晴哉だからこそ一層に、そのように深いところで感じていたのかもしれないと、ぼくは遺稿の「余白」を読む。
松岡正剛は、なぜ「我は去る也」と書いたのかをかんがえながら、野口のような独創の持ち主のまわりには多くの人たちがあつまりながらも、多くは野口を生かそうとは思わず、野口はそこに疲れ、失望したのだろうという考えにいきつく。
松岡正剛はそこでギアを変え、しかし野口晴哉が残した整体は、逆に後世に着実に広まっていったことに着目している。
松岡正剛は次のように書いている。
なぜ野口の意志をこえて広まったのか。野口が主題ではなく、思想ではなく、方法を開発したからなのである。野口は「方法の魂」を残したのだ。野口自身はその方法を早くに開発していたから、そののちはむしろ人々の「思い」や「和」や「覚醒」を期待しただろうけれど、創発者からみれば追随者というものは、いつだって勝手なものなのだ。
松岡正剛「野口晴哉 整体入門」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」より
松岡正剛の解釈に教えられながらも、ぼくは、ぼくだって勝手なものかもしれないとも思う。
ぼくは野口晴哉の「思い」から入って、「方法」は後回しだ。
そのような思いを抱きながら、野口晴哉の「我は去る也」が、ぼくの心にとどまって、去ろうとしない。
人間に、人間の身体に真摯に向き合ってきた野口晴哉と養老孟司。
野口晴哉の「遺稿」と養老孟司の「遺言」。
二人の巨人に、ぼくは真摯に向き合うだけだ。
「我は授けしと思えど 何も会得せざる」と、野口晴哉が空中に放言されようとも。
遺稿と共に、野口晴哉の次の言葉が、ぼくの心に鳴り響いている。
溌剌と生きる者にのみ
深い眠りがある
生ききった者にだけ 安らかな死がある
野口晴哉『碧巌ところどころ』全生社
「風」のように、あるいは「風」として動くこと。- 野口晴哉の思想の通奏低音としての<風>。
整体の創始者と言われる故・野口晴哉。野口晴哉の思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。...Read On.
整体の創始者と言われる故・野口晴哉。
野口晴哉思想(生き方)には、通奏低音のようなものとして「風」がふきぬけている。
『大絃小絃』(全生社)という著作(エッセイ集)の表紙に、「太古の始めから風は吹いていた…」ではじまる、「風」と題された詩的な手書きの文章が掲げられている。
この文章は、中国の仏教書である『碧巖録』と向き合った著作『碧巌ところどころ』に編集されている、「風」という一群の論考のひとつとしても収められている。
その一群の論考には、近代医術の宗祖であるヒポクラテスのこと、能の芸術論などと共に、「風」と題されるもう一つの文章が最後に置かれている。
風
先づ動くことだ
形無くも 動けば形あるものを動かし 動かされている形あるものを
見て 動いているものを 感ずるに至る
動きを感ずれば共感していよいよ動き 天地にある穴 皆声を発す
竹も戸板も水も 音をたてて動くことを後援する 土も舞い 木も
飛ぶ 家もゆらぐ 電線まで音を出して共感する
ーー天地一つの風に包まる
先づ動くことだ
隣のものを動かすことだ
隣が動かなければ先隣りを動かすことだ
それが動かなければ 次々と 動くものを多くしてゆく
裡に動いてゆくものの消滅しない限り 動きは無限に大きくなって
ゆく これが風だ
誰の裡にも風を起こす力はある
動かないものを見て 動かせないと思ってはいけない 裡に動くも
のあれば 必ず外に現われ 現れたものは 必ず動きを発する
自分自身 動き出すことが その第一歩だ
野口晴哉『碧巌ところどころ』(全生社、1981年)
「風」ということで表象されることに魅かれるぼくは、野口晴哉のこの文章に触発される。
人は変わることができるか/人は変われるか、組織を変えることはできるか/組織は変われるか、社会を変えることはできるか/社会は変われるか。
ぼくたちは、日々の生活をしながら、仕事をしながら、人との関係の網のなかで生きながら、そのように自問する。
それらの問いは、ぼくのなかでも、国際協力・国際支援の場を通じて、また人事労務という場を通じて、いつもこだましてきた。
体を知り尽くした野口晴哉は、「誰の裡にも風を起こす力はある」と、書いている。
それは、意志とか意識などよりも手前のところで、ぼくたちの身体に流れる力、あるいは身体という力と向き合いつづけてきた野口晴哉からわきあがってくる言葉だ。
野口晴哉は、風を超える<風>、つまり<動き>に敏感な、整体の実践者であり思想家であった。
「誰の裡にも…ある」力を起こすために、「先づ動くことだ」と、野口晴哉はくりかえし伝えている。
それも、「自分自身動き出すこと」が第一歩だと、最後にも同じメッセージを異なる言葉で加えている。
ぼくたちの周りの、家族や友人、組織、コミュニティなどに、「風」が吹いていないのであれば、やはり「自分自身動き出すこと」からはじめることである。
風を起こす内的な力を起こし、風を味方につけるのだ。
「動かないものを見て、動かせないと思ってはいけない。裡に動くものあれば必ず外に現われ、現れたものは必ず動きを発する」と、野口晴哉の身体を通じた深い知恵は、ぼくたちに教えてくれている。
風のように動き、風として動くこと。
野口晴哉の言葉が、いつものように、あの存在の力をもって、ぼくに迫ってくる。
「先づ動くことだ」
音楽を演奏するように、語り、仕事をし、文章を書き、生きる。- <音楽の地層>による祝福。
ぼくは、まるで音楽を演奏するように、あるいは音になったようにして、人と語り、仕事をし、文章を書くという感覚を、生きることの「地層」としている。...Read On.
ぼくは、まるで音楽を演奏するように、あるいは音になったようにして、人と語り、仕事をし、文章を書くという感覚を、生きることの「地層」としている。
音楽と共に生きる、ということよりも、より深い地層である。
ぼくは「音楽のまち」(今は「音楽の都」へ)といわれる浜松市に生まれ育った。
ヤマハやカワイ、ローランドといった楽器メーカーが立地するという「環境」においてピアノを習い、また「時代」の流れのなかで早い時期からバンド活動でギターを演奏し、ドラムを叩き、歌を唄ってきた。
さらには、浜松祭りという大きな祭りでは、ラッパの音色に合わせて練り歩くなかで、ぼくはラッパを吹いた。
生きることのすみずみにまで「音楽」がしみこんでいた。
音楽を演奏するように、あるいは音楽のように、生きていくような感覚とリズムを、ぼくはいつのまにか獲得していたように、今では思う。
よく知られているように、小説家の村上春樹が、小説を書くときに「リズム」をもっとも大切にしている。
デヴュー作となった『風の歌を聴け』の創作について、村上は次のように書いている。
小説を書いているとき、「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」というのに近い感覚がありました。ぼくはその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。
村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング
村上春樹が、このように語るとき、ぼくは頭ではなく「体感」でわかる。
「文章を書く」ときに限らず、人と語るときのリズム感や素敵な和音的感覚から、仕事にいたるまで、音楽を演奏しているような感覚が、ぼくの深いところで感じられる。
うまく演奏できることもあれば、演奏がしっくりこないときもある。
あるいは、うまい演奏ではなくても、深い響きに充ちた演奏になることもある。
そのようにして、ぼくは生きる。
社会学者の大澤真幸は、「音楽」というものは「笑い」の延長線上にでてきたものではないかと考えている(『<わたし>と<みんな>の社会学』左右社)。
音楽と笑いをつなげる太い線は、「共感のメカニズム」である。
つまり、人と人とが一緒に生きていくことの関係づくりであり、その一つの方法として音楽があったのではないかという。
ネアンデルタール人は、言葉は原始的であったとしても、音楽はかなり発達していたと考えられていることを、大澤真幸は語っている。
音楽というのは、その意味において、言葉よりも本源的なものである。
ぼくたちの、より深い地層を形成している。
その深い地層から祝福されるように、ぼくたちの語ること、書くこと、描くこと、創ること、つまり生きることは存在している。
だから、今日も、音楽を演奏するように、生きる。
野口晴哉から見田宗介へ。- 体癖論の「思想」への適用。自由と自立を求める身体の身体価。
整体の創始者である野口晴哉による「体癖論」(体の「偏り運動」の探求と実践)は、「人間の解放」ということを生涯のテーマとして追いつづけている見田宗介(社会学者)の関心を深いところでとらえ、「身体」という拠点から「人と社会を解き放つ」という、見田宗介の視力と方法を豊饒化してきた。...Read On.
整体の創始者である野口晴哉による「体癖論」(体の「偏り運動」の探求と実践)は、「人間の解放」ということを生涯のテーマとして追いつづけている見田宗介(社会学者)の関心を深いところでとらえ、「身体」という拠点から「人と社会を解き放つ」という、見田宗介の視力と方法を豊饒化してきた。
<身体的な現実性に根をはること>は、思想という、ともすれば「観念の操作の罠」(見田宗介)にはまってしまうことを回避する手段のひとつである。
見田宗介は、体癖論の「思想」への適用事例を書きながら、「思想の身体価」という論考を書いている。
この論考が、雑誌『思想』(岩波書店)で発表されたのは、もともと1989年である。
思想の言葉や観念がインフレをおこし、「操作の罠」におちいっていたときに、「思想」のリーディング雑誌のひとつであった『思想』誌に発表している。
「観念の操作の罠」ということは、ふつうに生活をしていた人たちと、決して無縁ではなかったのではないかと、ぼくは今では思う。
言葉や観念が、それらだけで語られ、身体的な現実性からまったくはなれていってしまうような世界である。
ぼくが1990年代において<言葉の身体性>をもとめて、例えばアジアを旅したりしていたことは、まったくの偶然ということではなかったのではないかと、ぼくは思うのだ。
そんなぼくも、2000年代初頭、修士論文を準備しながら、「自由」という言葉と観念の迷路にまよいこんでしまった。
途上国の経済発展や成長、貧困、南北問題、人的資本などを対象としながら「自由」を主題に修士論文を書くなかで、これら現実の圧倒的な問題が、ともすると、抽象的な観念の世界にはいりこみすぎてしまうところであった。
最終的に「論理」としては一貫した論文になったのだけれど、現実問題に即しきれない内容であった。
「自由」ということをさらにつきつけられたのは、ぼくがこの身体で、西アフリカのシエラレオネと東ティモールで、言葉につくせない現実に生きてゆくなかであったのだと、ぼくは思う。
この「自由」という言葉と、もうひとつ「自立」という言葉を事例に挙げながら、見田宗介は「思想の身体価」という文章を書いている。
見田宗介が出会った、ある集団で「スナドリネコさん」と「ぼのぼの」とよばれるようになった二つの身体類型(ここではそれぞれ、SとBと名づけられる)を事例にしている。
Sは、野口晴哉の整体の体癖論では「9種1種」、つまり骨盤がしまっていて性欲旺盛でいつまでも若く、空想と観念の自己増殖力に富む身体であり、Bはほぼこれと対照的に、「10種3種」とよばれるのだが、骨盤が開いていて包容力があり、身体がやわらかく感情が豊富で食べることが好き(引出しの中はちらかっている)という身体である。この両者はたがいに魅かれ合うらしくカップルも多い。…SはBの先天的な「自由さ」に魅かれ、BはSの「自立性」に魅かれるのである。Bは容易に人に共感し、まきこまれて自己を失ってしまうので、「自立」や「自我の確率」や「主体性」という観念に憧れている。ところがSにとっては、「自立」とか「自我」とか「主体性」とかははじめから強すぎてあきあきしていて、Bのように自由に自在に世界にまきこまれ、自分を失ってしまう能力に魅かれてしまう。
見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店
見田宗介は、SとBという身体の二類型において、「自立」と「自由」ということを見ながら、自立と自由の対位を述べたあとに、次のように書いている。
自由のないところに自立はないし自立のないところに自由などない。こういう命題は正しいのだが、このように抽象的に正しい結論を手に入れるみちで、最初の問題の身体的な現実性が、手放されている。漂白されている。観念の操作の罠だ。結論は到達点でなく、結論は出発点だ(結論からあとがたいへんなのだ)。…
自由を求める身体と自立を求める身体は異質のものだ。自由と自立が、抽象的な観念として同義語に帰結するかもしれないとしても、二つの概念は、いわばその身体価を異にしている。…<自由>の身体価は遠心的であり、<自立>の身体価は求心的である。…
見田宗介「思想の身体価」『定本 見田宗介著作集X:春風万里』岩波書店
ぼくは「身体性」ということをひとつの手がかりに生きてきたことを、ふりかえりながら、「思想の身体価」のことを考える。
時代の言葉だけにかぎらず、ぼくたちは、ぼくたち個人が魅きつけられてやまない「言葉や観念」をもっていたりする。
それぞれの個人がおかれている環境や状況の影響をうけていることもあるとは思うのだけれど、そのもっと手前のところで、ぼくたちの身体という現実性がある。
世界は「データ」の時代に突入している。
良い悪いという一面性の話ではないが、それは、ある意味において、身体性から離れた「記号」の世界だ。
ぼくたちはこれからの時代、身体的な現実性をいっそう手放していくのか、あるいは身体的な現実性にねざしていくのか、それとも別の次元につきぬけていくのか。
ぼくの身体は、(おそらく見田宗介の身体もそうであるように)<自由>ということにあこがれながら、「人間の解放」という生涯のテーマを追い求めつづけている。
人間の「余剰エネルギー」のゆくえ、にかんする野口晴哉の考察。- これからますます大切になる視点。
野口晴哉の著作『体癖』(ちくま文庫)を読みながら、その中に収められている「体の自然とはなにか」という考察に、ぼくは目をとめる。...Read On.
野口晴哉の著作『体癖』(ちくま文庫)を読みながら、その中に収められている「体の自然とはなにか」という考察に、ぼくは目をとめる。
野口晴哉が書くように、人間が自然の動物であったということを痛感せざるを得なくなったのは、人間による生活技術が進歩して、生活のすみずみにまで浸透していることでもある。
人間だけが、環境に適応するだけでなく、環境を人間に適応させていく。
ぼくが窓の外に見るような船も自動車も、それからここ香港にひろがるエアコンの環境も、人間が生活技術を発達させてきたことによるものだ。
野口晴哉は、そのような近代・現代社会を生きながら、次のように問いを立てる。
…人間の生活エネルギーは、他動物に比べて著しく余剰を来たしたとて不思議ではない。
その余剰エネルギーはどこにいくのだろう。他動物なら肉体の発達とか、体力の充実とかになるであろうが、すでに肉体労力を不要としている人間にあっては、肉体の発達の必要もない。
野口晴哉『体癖』ちくま文庫
「余剰エネルギー」はどこに行ってしまうのかと、野口晴哉は問いを立て、その問いへの考察をシンプルに論理をくみながらすすめる。
動物の動くのは要求の現象である。人間においても同じであって、そのエネルギーは欲求となり欲求実現の行動に人間をかりたてる。…人間は後から後から生じる欲求を、実現せんものとあくせくし続ける。…しかし欲求実現のために他動物はその体を動かすのだが、人間生活の特徴はその大脳的行動にある。坐り込んで機械器具を使って、頭だけをせっせと使うのだから余剰運動エネルギーは、方向変えして感情となって鬱散するのは当然である。
野口晴哉『体癖』ちくま文庫
ぼくたちの「余剰運動エネルギー」は、ぼくたちの「大脳的行動」を回路とし、「方向変えして感情となって鬱散する」のだと、野口晴哉は当然のこととして語る。
…八十の老婆も火の如く罵り、髭の生えた紳士も侮辱されたと憤る。四十秒の赤信号が待ちきれないで運転手は黄色になるや否や飛び出す。足もとも見ないで遮二無二苛だっている姿は理性のもたらすものとはいえない。余剰エネルギーの圧縮、噴出といえよう。人間に安閑とした時のないのも、また止むを得ない。しかしこれとてエネルギー平衡のための自然のはたらきであって、他の動物はこれによって生の調和を得ているのである。人間はその余剰によって生活に混乱を来たしているのであるが、しかしこれもまた自然の良能である。人間もまた自然のはたらきによって生きているのである。
野口晴哉『体癖』ちくま文庫
「余剰によって生活に混乱を来たしている」状況は、だれしもが、経験していることである。
野口晴哉は、これも自然のはたらきであると、人間の地層のもっとも深いところにまで降りる視点で、人間の身体をみつめている。
現代におけるメディテーションやマインドフルネスなどへの注目、走ったり泳いだりの様々な運動によるエネルギーの燃焼などは、「余剰運動エネルギー」をリダイレクト(方向転換)させる方法である。
これからの時代がひらけてゆくなかで、野口晴哉が言うような「余剰エネルギー」の問題と課題は引き続き、ぼくたちが直面していくものだ。
生活技術のさらなる進展が予測される未来において、さらなる「余剰エネルギー」をぼくたちは、ぼくたちの内に宿していくことになる。
ぼくたちの身体は、多くの生命が共生している、ひとつの<エコシステム>である。
その<エコシステム>は、余剰エネルギーをかかえている。
それは、いわば、ぼくたちの身体における環境問題だ。
人工知能(AI)などがきりひらいていく未来において、ぼくたちは、この「余剰エネルギー」という内なる環境問題とむきあっていくことが求められる。
人間の体と真正面からむきあってきた野口晴哉の真摯な考察が教えてくれることは、これからますます大切になってくるように思われる。
人間はこれから「技術との融合」をどのように、どの程度していくのかはぼくにはわからないけれど、それでも、人間が生きることの「自然のはたらき」という地層はなくなることはないと(ゼロになることはないと)、(現時点では)考えるからだ。